第50話 夢の残骸
振り返ったトアンの目を過ぎったのは、レイピアのような細い杖の切っ先だった。それは光の痕跡を残して方向転換をすると再びトアンに向かってくる。
レイピアの先が、焦点に合わない。
このままでは──目が。
「トアン!」
どこか人事に考えていたトアンは突然強い力で引かれた。何が何だか理解できないトアンの鼻先に、ふわりとした金髪が触れる──チェリカの髪だ。だがしかしトアンを引き寄せたのはチェリカではない。チェリカもまた、大きな影に守られるように抱き寄せられているのだ。
「……ぐっ」
くぐもった悲鳴が聞こえた。それと同時に鮮血が散り、影が揺らめく。だがしかし、トアンとチェリカはより強く抱きしめられた。
「あらキーク、ごめんなさいね。トアンをわたしてちょうだい」
「キーク!」
チェリカの慌てた声と、ふんわりと耳を擽る声にトアンの頭は漸く状況を理解した。
トアンとチェリカは、再びキーク・ラージンに庇われていた。彼の腕には鋭い斬り傷があり、そこから血が流れ落ちている。トアンを庇ってくれたのだ。そしてキークが封じたはずの扉の前に、レイピア──キークの腕を斬り裂いたのは恐らくこれだ──をもったアリシアが居た。
「やめろ、アリシア。話を聞いてくれ」
「……キーク。だめよ、時間がないの。『あたしの中の檻は壊されちゃった』のよ。今はフタしてるけど、レインがさっきから出ようとしてるの……」
レインが、と聞いてキークは一瞬だけトアンを見た。すぐに視線はアリシアに戻すが、確かに彼は何かを訴えていた。
「お話はトアンと『一緒』になってから。そうしたらお茶を淹れるわ。ゆっくりお茶をしながらお話しましょ」
アリシアはふっと優しい笑みを浮かべるとレイピアをキークに向けた。薄い唇が笑みの形のまま、そっと動く。
「第二華、展開。ブルー・カミーリア」
キークの腕から流れ出た血が、ふっと浮き上がって三人を囲んだ。キークの反応ははやく咄嗟にトアンとチェリカを突き飛ばすが、自身はただそこに立ち、アリシアを見つめていた。
──浮かび上がった血の一滴一滴が、空気に震えた。それはすぐさま鋭い棘のようになり、中心に立ったままのキークに突き刺さり、彼の膝を折らせた。鋭利な棘は間接を封じ、まるで操り人形のようにキークは地面に座り込む。
「あなたを傷つけたくないの」哀しそうな声で、アリシアが言った。
──彼女もまた、キークを深く愛しているのだと、呆然と見守るトアンの頭は理解する。殺そうと思えばキークは殺せる。なにしろ彼もアリシアをとめるつもりでも殺す気はないし、武器も持っていない。……けれど、アリシアは彼の動きを封じるだけだ。
やがてキークが完全に地に伏してしまうと、今度はアリシアはトアンに再びレイピアを向けた。
「……トアン、いい子にしててね」
「う……うう」
何とかしなければ殺されてしまう。腹を裂かれて臓器を引きずり出されて……そんなのはイヤだ! しかしイヤだとは思うが足が動かない。
目をつぶることも逃げることもできず、トアンはまっすぐにレイピアと母を見ていた。が。
──不意に。
「逃げよう!」
ふっと身体が浮かび上がる。耳元で、チェリカの凛とした声が聞こえた。そのままトアンが足を動かさなくても視界は動き、アリシアが封印を解いた入り口からトアンとチェリカは飛び出した!
何故、トアンがそう口に出そうとした瞬間、目の前に漆黒の羽根が一枚舞い降りる。──チェリカの翼だ。トアンの腰を掴み持ち上げ、彼女の片翼が暗い通路の空気を切り開き、運んでくれているのだ。ごうごうと空気が音を立て、その中にはばさんばさんという羽音が混じっている。片翼はアンバランスそうに見えながら、しっかりと水平を保っていた。
「チェリカ──ありがとう」
首を回して見上げると、チェリカは闇の中でにっこりと力強く笑った。光る金髪と青い瞳はまるで天使のような美しさだとトアンは思うのだけれども、法衣の隙間から出ている翼は黒だ。
以前も、こうしてチェリカに助けてもらって空を飛んだことがあったが、確かにトアンは飛んできた彼女の姿をみて天使だと思った。それは今でも変わらない。翼が真っ黒でも、彼女は天使だ。
「トアン?」
こんなときにも関わらず、ぼうっと考え込んでいるトアンにチェリカが声をかける。
「大丈夫? とりあえず広いとこまで逃げるけど──戦える?」
「え?」
「キークが言ってたでしょ。トアンの月千一夜でアリシアを斬らなきゃ、レインは戻ってこないんだよ。真実を切り開く勇気はある?」
まるで試されているようだ、トアンはそう感じる。審判の秤にかけられている気分だ。トアンの気持ちを感じ取った上で、それを貫き抉るような質問。
「……。」
思わず口ごもるトアンを見て、チェリカは暗闇を見据えながら少しだけ間をおいてから再び問いかけた。
「どうなるか分からないけど、キークの言葉に嘘はないよ。アリシアと戦える? レインの姿をしたお母さんを、その手で斬れる?」
「……う、」
「アリシアが追ってきてる」
「!」
ばさ、ばさ、ばさ……乾いた音とともに空気を切る音。暗闇の中をぐんぐん進みながら、チェリカがふっと呟いた。
「私は君にとてもひどいことを言っているっていう自覚がある。でも逃げる道はどこまでも続かないんだ。立ち止まって振り返って、立ち向かわないと追い詰められちゃうよ」
「でも──オレ……」
「お母さんとちゃんと話し合わなきゃ。そのためにはレインも助けてあげなきゃ。レインがこのまま消えちゃうのは、私はいやだよ。──それにトアン、君は一人じゃないもの」
ばさ、翼が羽ばたくその合間に、チェリカの優しい声がトアンの鼓膜を震わせた。恐怖に縮み上がっていた心を奮い立たせ、光の方へ導いてくれる。
「私が君の翼になる。恐れないで、目をつぶらないで。大丈夫、君は私をあそこまで迎えに来てくれたじゃない。その勇気があれば、絶対に立ち向かえるよ」
「……チェリカ……ありがとう!」
トアンが答えた瞬間、辺りの光景がパッと開けた。そこは、らせん状の階段が続いている吹き抜けになっている大広間で、トアンはチェリカに抱えられたままゆっくりと下降していった。──眼下に、石畳の床が見える。
「──くるよ」
ゆっくりと翼を羽ばたかせ、チェリカが空中で止まった。ばさんばさんという翼の音の合間に、……りん、ちりんという鈴の音が聞こえる。──レインのチョーカーだ。
その音はとても冷たく、ひたひたと心に忍び寄る恐怖そのものだ。今まで聞いていたレインの鈴は、透明な音なのに優しく、暖かい音だった。遠く、遠くへと綺麗に伸びていく音は心のどこかにゆっくりと響いていたのだ。それが今や、あんな音になっている。
アルライドが嘆いているのかもしれない、トアンは闇を見つめながらそう考える。それはとても突飛な考えだよといわれれば、わかっているよと即答できる。それでも何故か、あの緑の瞳に悲しさをいっぱいなみなみと湛えて、彼はどこかでこの状況を見ているのだろう。そして、レインを助けて、俺は何もできないんだ、ごめんねといって自分を責めているかもしれない……。
「チェリカ、飛び続けても辛くない?」
「平気。全然大丈夫……でもトアン、私このままじゃ戦えないよ。両手がさあ、君で塞がってるし」
「ということは、オレ一人で……?」
「できるだけのことはするよ。レイン、魔力がないはずなのにアリシアになったとたん凄い魔力が満ちてるの。気配はわかるし、少しは手伝えると思うけどね。──怖い?」
「……。い、いや、平気」
トアンも響いてくる鈴の音が大きくなるのにつられ、肌が粟立った。赤い月千一夜を抜いて構える。
「……本当に平気なの?」
トアンの半袖から鳥肌が見えたのか、チェリカがからかうように問いかけてきた。トアンはそれに笑みを向けて答える。──先程までなら、自分は笑うことなんてできなかったと思うのだが。
「だって、チェリカがいるでしょう」
「──……私、戦えないよ?」
「わかってる。居てくれるだけでいいんだ。ただそれだけで」
「……。えへへ」
トアンの言葉に、チェリカがにこり笑う。そしてそれからついと上空を見て、青い宝石のような瞳を細めた。
と、次の瞬間。
──ちりん。
「トアン、お願い。あたしに『約束』を守らせて」
耳を擽る、甘く冷たい声が、響いた。
鈴の音とともに、上空からアリシアがものすごい速さで突っ込んできた! その背には赤く光る蝶の翅。──血でつくられたものだ──手にもったレイピアが、真っ直ぐにトアンの喉元を狙っている。
「わ……!」
が、チェリカの反応は早かった。咄嗟に翼を立たんで急降下する。ぐん、空中で安定していた身体が突然落下し、トアンは思わず悲鳴を上げそうになったが堪えた。周りをぐるりと囲む螺旋階段が気持ち悪い。
しかしアリシアもレインピアを構えたまま、翅をたたんで追ってくる。トアンの背中で、チェリカがはやい、と呟くのが聞こえた。
床に激突寸前、チェリカの翼が大きく羽ばたいた。凄まじい風が生まれて一瞬停止、その後急上昇してアリシアから逃げる。
一瞬両者はすれ違った後、上と下に別れたが、アリシアはくるんと一回転すると即座に体勢を整えた。──やはり、一人の方が身軽なのだ。方向展開した際、長い襟足が弧を描いた。
「トアン、がんばって!」
ぐんぐんと上昇しながらチェリカが叫ぶ。
「う、うん!」
「どっちみちこのままじゃつかえないけどさ! 私の魔法じゃ、アリシアごとレインを丸焦げにしちゃうんだよ! 君の剣だけが、レインを助けられるんだ!」
「で、でも! 近づいたら二人ともレイピアで串刺しだよ!?」
耳元で唸る風に負けないように、トアンは怒鳴るようにして返事を返す。
「そうだね──なんとか隙をつければいいけど」
ごうごうという嵐のような風の中、チェリカが囁いた。トアンの腰に回した手にきゅっと力を込めると、天井を蹴っ飛ばし方向転換する。二人分の重さではかなりの反動をつけないと素早く方向が変えられないのだ。
(長引いたら──不利だ)
チェリカの体力が尽きる前にアリシアを倒さなくてはならない。もし地上に降りようものなら黒いバラに飲み込まれてしまうだろう。チェリカは極力壁に近寄らないようにしているが、天井や壁からはバラが生えてくる気配はなかった。
アリシアが顔をあげる。が、彼女はチェリカをトアンを見上げると、悪戯をした子供に諭すような口調で話しかけてきた。
「もう、そんなに逃げ回らないで──時間がないの」
そんな口調からは、トアンの内臓を欲しがるようには到底見えない。
「時間がない?」距離をとりながらチェリカが問う。
「レインが起きてしまったの。さっきからずうっと出ようとしているわ。……このままじゃあたしが追い出されてしまう。あの守森人の子を殺しちゃったのが、そんなにイヤだったのね」
「殺した……!?」
チェリカよりさきにトアンが口を開いた。落ち着いていたはずの気分がぐらりと揺れる。口から出てきた声は、震えが滲んでいるものだった。
「殺したってどういうことだよ!?」
キークにトアンとチェリカが連れ出されたとき、アリシアの傍にはルノ、シアング、ウィルがいた。──アリシアがここまで追ってくるということは、……まさか。
「死んだかどうかは確認してないけど、お腹と首を切り裂いたわ。でもあの出血じゃ助からないと思うけど……その子、なにか魔方陣を描いてたわ。それでレインを起こしたのね」
アリシアはレイピアをくるりと手で回した。──と、それは赤い光となって空中に四散する。
「可哀想に、レインはずっと泣いてるの。あたし、嫌われてしまったのかしら?」
瞳を瞬くアリシアはさっぱり訳がわからないといったように首をかしげた。
「お兄ちゃんとシアングは……?」
「ああ、あの子達? あの子達はどうかしらね、わからないわ。加減がうまくできてなくて……」
「そんな……」
トアンの後ろでチェリカの身体が震えた。
「お喋りはやめましょう。時間がないって言ったでしょう? 早くトアンの血を取り入れないと……あたし、『約束』を守れない!」
紫の右目を押さえながら、呻くようにアリシアが言った。まっすぐトアンたちに向かって飛んでくるが、チェリカはそれをすんでのところでかわし降下する。──が、トアンは服と頬に何かを感じ、目を見開いた。
服と頬が浅く避けている。アリシアの巻き起こした風自体が刃となって、自分を切り裂いたのだと。
「チェリカ! 風が!」
「わ、わかってる」
つた、トアンは首筋に何かが垂れる感覚を得た。慌てて振り返ると、チェリカの額に傷があり血はそこから垂れていたのだ。──かなりの出血が。
「チェリカ、そ、その傷……」
「大丈夫大丈夫。あんまり痛くないんだ」
あんまり、というわりにはチェリカの声に元気がない。
「あんまりじゃないでしょう!?」
「そうだね、血で右目が見えなくなっちゃたのが大丈夫じゃないね」
「チェリカ!」
「……君が気にすることじゃないよ。君が今しなくちゃならないのは、私の心配じゃないよ……わかるでしょ?」
「そうだけど……」
漸くトアンは再び前を向いて見上げた。先程とは逆の位置──今度は自分がアリシアを見上げている。
アリシアはトアンたちを見下ろしながら、両手を二人に向けて目を細めた。
「トアン、その娘のこと、守りたいなら手を離してもらいなさい」
「え……?」
「死なせたくないなら、手を離してもらって。あたし、その娘のこと殺したい訳じゃないから」
「離さないよ!」
アリシアの言葉にチェリカが言い返す。
「トアンに死んで欲しくないもん! 君にもひとでなくなって欲しくない!」
「……そう。残念だわ」
すう、ゆっくりとアリシアが深呼吸する。
「第三華、展開。レッド・ガーデニア」
遠すぎる間合い。魔法もなにも飛んでこない。トアンがアリシアの行動を疑問に思ったその瞬間、さらりと風が頬を撫でていくのがわかった。何を──答えをはじき出す前に、トアンの後ろで、チェリカの悲鳴があがる。
「──きゃああっ!」
彼女が始めてあげる、少女の悲鳴。チェリカがいつも上げるようなものではなく、トアンは一瞬誰の悲鳴かわからなかった。が、直ぐにそれを理解し振り返ると、二人の体重を支えている彼女の翼を食い荒らすようにクチナシの花が咲き、柔らかな羽を貫いている。
「チェ……チェリカ! オレを離して! 離すんだ!」
「ダメ──イヤだよ」
返ってきたチェリカの声は弱弱しい。
しかし二人の高度は徐々に下がっていき、ばさんばさんという羽音が悲鳴に聞こえる。チェリカの荒い息と悲痛な呼吸が耳元で聞こえ、トアンはいたたまれなくなった。
「オレを離してよ! 母さんに、君を殺すつもりはないんだ!」
「ダ、ダメだよ、トアンが死ぬのはいやだよ……下に下りたら、君は直ぐに殺されちゃう……」
「それでもチェリカが守れるなら!」
「そんなの嬉しくないもん……私、君たち家族に争って欲しくない。早くアリシアをとめてあげて。間違いを教えて──きゃあ──!」
絹を裂くような悲鳴とともに、チェリカとトアンは地に落下した。ずしゃりと嫌な音が当たりに響き、しかし彼女はトアンの腰をしっかりと掴んだまま。全ての衝撃がその細い身体にかかり、チェリカは息を詰まらせた。
「チェリ……カ」
「んく、……くは……っ」
傷ついた翼をゆっくりと動かし、チェリカが浮上する。翼が動くたびに激痛が走るのだろう、ひゅっと空気を吸い込む音がした。
「もういいよチェリカ! オレ一人で戦えるから!」
はるか上空でアリシアは両手を真っ直ぐに突き出したまま、感情の読めない瞳でこちらを見ている。
「っく……。聞いて、トアン。今から、もう一回上にあがるよ。でも、それが最後……」
あがる、チェリカはそういったが、この傷ついた身体でどこまでいけるのだろうか。
トアンは唇をかみ締めて決意を固めると、目でしっかりとアリシアを捉えたまま告げた。
「わかったよ。……でもチェリカ。オレを投げるんだ。投げたらすぐに、オレの背中に炎をぶつけて。その勢いで上にいくよ」
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