旅の真実編

第49話 ブラッディ・ローズ・ガーデン

「……母さんだって?」

ルノが眉を顰めてトアンを見る。トアンは自分の喉をついて出てきた言葉に瞠目しながら、ゆっくりと頷いた。

ルノの瞳がトアンをみたあと、レインに向けられる。レインは唖然とした顔で口元に手をやり、瞬きを何度かしているだけだった。が、それでも彼が動揺しているのがわかる。眠りに引きずり込まれていたような先程の様子はなく、こんな形で出会うことになった母の存在をどうしていいかわからないのだろう。

「──なるほどな。これがアリシアか」

シアングが関心したように呟いて一人で頷いている。

「何故言い切れる?」

「ルノ、お前も気付いてるだろう? ──ネコジタ君によく似てるよ、ほら、こんなに肌白いし。」

そう、ガラスの中で眠るトアンとレインの母──アリアシアは、その寝顔がレインの顔と似ていることをルノは感じていた。──しかし、これは、眠るというか──。

「死んでる」

レインが呟き、しゃがみ込んで顔を近づけた。トアンの背がびくりと反応する。

そう、花に埋もれて居る彼女はまるで埋葬されているようだった。長い睫毛が白い頬に影を落としているが、それは微かにも震えない。両手を組んだ腕が胸の上に乗せられているが、上下に動く気配すらない。──アリシアは死んでいるのだ。

「これは、死体だ」

その事実がトアンの胸にのしかかるが、どこか淡々とレインは言った。

「……まさかと思うけど。ネコジタ君、知ってたの? アリシアがもう、死んでるってこと」

「……いや、今この目で見るまではわからなかった」




「彼女は死んでいる。が、すぐに目覚めるさ」




突然部屋に響き渡った男の声に全員振り向くと、そこにたっていたのは──キーク・ラージンだった。青い髪がどこからか入ってくる風にふわりとゆれ、紫の瞳が静かに輝く。学者風の服をきているキークはトアンたちを見渡すと、満足そうに微笑んだ。

「少しシナリオと違うことが起きてしまったがね、まあ、君たち全員が此処に来てくれるのは好都合だ」

「……シナリオ?」

トアンは前に出るとキークの前に立ちふさがる。が、キークは恐れる様子もなく、真っ赤な花畑をさくさくと踏みながらトアンの目の前にたった。トアンは剣を抜こうとするが、──抜けない。手が、動かないのだ。

キークはそんなトアンを見てそっと微笑むと、まっすぐにレインに視線を注いだ。レインは眉を寄せて、睨み返す。

「レイン、具合はどうだい?」

「……。」

「この花は、ジュタの花だよ。血華術の反動を癒すことも、それから疲労を回復することもできるんだ」

「……だから?」

「ふむ。随分元気になったようだ。──それなら平気そうだな」

キークはトアンの肩に手を置いて、小さく囁いた。

「トアン、よく見ておいで」


ひらり、ガラスケースの中から半透明な赤い蝶が浮かび上がった。レインが後ずさる。が、蝶は突然ものすごい勢いでレインに向かっていくと、とろり、と溶けてその身体に入り込んでしまう。

「……っう、……あ」

がくんとその膝が折れ、レインが蹲る。

「うああ、あああああっ!」

「しっかりしろレイン!」

悲鳴をあげるレインにルノが駆け寄るが、シアングがその身体を引き戻した。

「まてルノ!」

「何する、離せ! はな……!?」

ルノが抗議すると同時に愕然とする。──レインのナイフで、軽く腕を裂かれていた。シアングがとめてくれなかったら、もっと深く斬られていたのだ。

傷口から、ルノの血が滴り落ちる。

「レイン!」

チェリカが制止の声を上げるも、レインは曇った瞳でルノを裂いたナイフを見つめ、ちろりと鮮血を舐め取った。


「変わった味ね」


トアンはゾッとした。声は兄のものだ。だがしかし、絶対的な違いがある。肌が粟立つ。

「おはよう、キーク」

猫目をごしごしと擦りながら、あどけない声色でレインが告げた。曇った瞳は光を取り戻している──が、それはいつもの光ではない。透明なのだ。ガラスのようにどこまでも透明で美しく、儚い瞳。

キークはトアンの肩から手を離すと、向かいいれるように手を開く。レインはふらふらと一歩ずつ歩み、キークの元に近づく。

とめなくては──。仲間の表情は皆その色に染まっていた。が、声がかけられない。チェリカですら、大きな瞳を更に丸く大きくして、どこか愕然と様子を見ているのだ。──トアンも、そうだった。

「どうしたんだい、フラフラして」

トアンの気持ちとは全く違う優しい声でキークが囁く。

「ふふふ、慣れない身体はうまく歩けないの……ごめんなさいね、ほら、ついた」

レインは花の間をゆっくりと歩き、キークの前に立つとその腕の中に倒れこんだ。

キークはしっかりとレインを支え、その柔らかな髪の毛に顔を埋める。

「ああ、アリシア……君なんだね。こんなに長くなってしまって、本当にすまない」

「キーク……ありがとう。約束、覚えててくれたのね……」

レイン──いや、もうレインとは呼べないその存在『アリシア』──は蕩けるように微笑むと、ゆっくりとキークの腕から離れた。キークは名残惜しそうにゆっくりと手を離す。


「ふ……ふざけんな! レインを返せ!」


困惑を振り払い、瞳に怒りを宿らせたウィルが叫んだ。隣にいたチェリカが驚いた顔で彼を見るが、すぐに構えをとり戦闘の意思を表す。腕の止血を終えたルノが長い杖をとり、シアングがパキンと指を鳴らした。

──怒っている。彼らが困惑の末に湧き上らせた感情は怒りだった。チェリカは一人、怒りではなく静かな瞳をしていたが。

アリシアは驚いたことに笑みを浮かべてウィルに向き直ると、再びにこりと微笑んだ。

「あなた、レインのパートナーだったわね。有難う、あの子を今まで守ってくれて」

「何言ってんだ、早くその身体からでろ! よくわからないけど、あなたは死んでるんだろ? 怨霊みたいなまねするなよ!」

「怨霊だなんて……。この子が産まれたときから、もう決まってたことなのよ。可哀想に、レインのことが大きすぎたのね」

アリシアは悲しそうに呟くと、小さくため息をついた。

「話聞けよ! あなたは母親なんだろっ!? 子供の幸せ願うのが筋ってもんじゃないのか? 少なくともオレの母さんはそうだったぞ! レインの未来を奪うのか! 子供犠牲にして楽しいのか!」

アリシアの傍でキークが僅かに瞠目したことにウィルは気付かず、アリシアの反応を待った。

が、アリシアはウィルの言葉に首を傾げ、彼が何を言っているかわからないようだった。

「……ごめんなさい、でも、あたしはレインの幸せを願ってるし、『今この状況』はレインの未来を奪うことにも犠牲にもなってないのよ。これで、あたしたち家族はやっと一緒に居られるんだもの。……そう、『一緒』にね。あとはトアン」

くるり、アリシアがトアンを振り返る。ウィルたちには隙だらけの背が向けられるのだが、だが攻撃を仕掛けることができなかった。──アリシアがレインの身体を奪い操っているのは分かるが、どうしたってレインの身体に傷がついてしまう。

「あなたの血を頂戴。必要なのよ。それと、あなたのお腹をちょっと開けさせてね」

「!?」

トアンの足は動かない。が、逃げようとしたお陰で無様にしりもちをついてしまう。アリシアは顔色一つ変えずに今の言葉を告げ、ナイフを取り出して微笑んだ。

「あなたの臓物をお母さんに頂戴。そうすれば、ずっと一緒に居られるのよ」

「い、いやだ」

「だめ!」

チェリカが飛び出してアリシアの腰に抱きついた。アリシアは驚いたように目を丸くし、そっとその頭を撫でる。──本当に優しい、母親のように。

「ごめんなさいね、あとで遊んであげる。これだけは邪魔しないでね」

「だめ、だめだよだめったら! アリシア、トアンを殺しちゃだめ!」

「……。もう、ずうっと昔から。あたしがレインを産んで、この子を産んで。十六年以上前から、こうなることは決まってた。それにね、約束したの。あたしはその約束を守るために……。お願い、手を離して」

アリシアはどこか遠くを見て、それからチェリカに視線を向けるとあやすように言った。


シアングは動かない右手を放っておいて、暫く左手の間接をパキパキならしていたがやめた。アリシアはこっちの脅しなんてきかない。

優しそうで愛らしく、でもとても残酷なことを言うアリシアの表情は、今までレインが見せた表情と全く違う。……しいていえば、チェリカがレインを『母』というときの雰囲気は少し似ている気がするが。

脳裏に砂漠の夜の会話がよぎる。──『……オレ、トアンのことを殺しちまう気がするんだよな。あいつは一番最後。最後に血を吸って、動けなくして、そして腹を切り裂いて……』そう悲しそうに言ったレインの顔が、今にも泣き出しそうに歪んでいたことも。

(レイン……。いや)

そこまで考えて、シアングはふっと頭の中を冷ました。今、自分の顔はアリシアとキークを睨みつけている。だがしかし、頭の中は冷静に動かさなくてはならない。……それが自分の取るべき行動。

(……セイルも言ってたな、トアンは兄に殺されるって)

セイルの予言は、もう回避され始めている。チェリカの死、『空の子の女は空間に存在を許されなくなり消滅し』は一度は実行されてしまったがトアンが連れ帰ることで無効になった。──少しずつずれができている。あとは、そんなに難しくない。

(──難しく、ない……)



「あたしがトアンの内臓を食べれば、もっと力が強くなるの」

もう解くことをやめたのかチェリカの腕を巻きつけたまま、アリシアは告げた。

「ひとがひとを食べるのなんて、だめ! そんなの、普通の人間じゃなくなっちゃうよう!」

なにか、引っかかる。

先程から心をちくちくと刺激する何かが、姿を得た気がした。キークは弾かれたように顔をあげ、チェリカの言葉を胸の中で繰りかえす。


──先程の、ウィルの言葉も。


あのとき、アリシアが息を引き取ったあの瞬間。キークはアリシアとある『約束』をした。その約束のまま、彼女にもう一度だけあう、という目的のまま、キークは踏み入れてはいけない領域に足を入れてしまった。

どうしても、何を犠牲にしても、アリシアにまた笑って欲しかった。傍に居て欲しかった。彼女との約束を、叶え続けてやりたかったから。

……だがしかし、今この状況は、約束と違えているのではないか?

(チェリカの言うとおり、人間の臓物を食すなどと……化物のやることだ。このままでは、彼女は化物になってしまう。……アリシアはああ言ったが、レインも犠牲になっている。あの子の意識はどこにもない。それに、このままでは、トアンは殺されてしまう──……)

アリシアは自らの死期を悟っていた。だからこうしてもう一度生き返るために、様々な準備をしてきた。キークは当初それに気付かず、ただアリシアが何かやってはいけないことをしようとしているとだけ思っていたのだ。だから、レインを親友に預けてアリシアから遠ざけたり、彼女の計画を邪魔してきた。

(──そうだ、あの時の私は確かに、子供たちを守ろうとしていたのに)

アリシアの死が原因で、置き去りにしてしまった感情。

「──アリシア!」

身体が先に動いていた。ナイフを振り下ろそうとしていたアリシアの前に手を広げて飛び出して、キークは叫ぶ。

「アリシア待つんだ! 私は君を化物にしたくない! トアンもレインも、失いたくはないんだ! 君もそうだろう!?」

振り下ろすはずだったナイフは既の所で制止した。アリシアは首を傾げ、少し眉を顰める。

「失うことにはならないわ」

「失ってしまう! いいか、アリシア。私は君にもう一度会いたいがために様々なことをやらかしてしまった。だがそれは決して正しいことではなかったんだ」

「色々してくれたの? 嬉しいわ、キーク。あたしもあなたにとても会いたかった」

「アリシア……話を聞いてくれ」

「聞いているわよ」

アリシアは心外だといわんばかりにキークを軽く睨みつけると、小さくため息をついた。

「でも、本当に嬉しいわ。そんなにあたしのこと思っててくれたのね……」

「……そうだよ。だからこそ君を化物になんかしたくないんだ」

「そういうけどね、あたし、約束を守りたいの。あなたと交わした約束を──……」

ごう、強い風が花畑に吹き荒れる。赤い花びらが舞い上がり、まるで鮮血のように辺りに降り注いだ。

「……! アリシア、やめろ!」

キークが叫ぶが、アリシアは小さく笑って『大丈夫』と告げると歌うように言い放つ。

「応えよ、我が声に。応えよ、我が力……亡国の叫びに導かれん、散り逝く花よ──ブラック・ローズ!」

ト──ン……

水面を広がる波紋のように、アリシアを中心に黒い魔方陣が広がる。チェリカがはっとしたようにアリシアから離れると、未だ座り込んでいたトアンの手をとって立たせた。

「チェリ……カ?」

「逃げて!」

トアンに向けられて発せられた言葉ではない。──ルノたちに向けて、だ。


アリシアが作り出した魔方陣はみるみるうちに広がっていき、赤い花畑に黒の絵を描いていく。それはルノの足元で円を作ると複雑な模様をその中に書き出した。

「ルノ!」

傍にいたシアングの反応は早かった。ルノを突き飛ばすのと同時に、魔方陣の円の縁が淡く発光し光は瞬時に円の中の模様をなぞる、そして。

「シアング!」

ルノの悲鳴とともにシアングの姿は魔方陣から生えた巨大な漆黒のバラに飲み込まれた。一拍おいて、バラの中からシアングのくぐもった叫び声が聞こえた。──悲鳴だ。

「シアング、シアング!」

「危ない!」

取り乱すルノの手をウィルがひく。つい先程までルノが立っていた場所、そしてウィルが居た場所にバラが轟音と共に出現していた。

「ウィル!」

「お兄ちゃん!」

トアンとチェリカが同時に叫ぶ。と、二人の足元の地面が発光した。──魔方陣だ。

よけられない──トアンはチェリカの身体を引き寄せ、庇うようにすると目をつぶった。が、強い力で後ろに引っ張られ間一髪でバラから逃れる。トアンの髪の毛が少し掠り、はらりと舞う。

「やめなさいアリシア!」

耳元で声がした。トアンとチェリカは、引き寄せた人物に守られるように腕に包まれていたのだ。

……二人を助けたのは、キークだった。

「キーク、トアンを渡して」

アリシアは淀みのない声で言い放つと、右手をキークたちに向ける。その手に赤い光が収束していくのを見て、彼女の意図を知ったキークは両脇にチェリカとトアンを抱えるかたちで走り出した。

「父さん!? 何を……っ」

「離してキーク! お兄ちゃんがまだ危ないんだよ!」

突然の父の行動にトアンは困惑し、チェリカは身動ぎどころか暴れていたが、キークの太くはない腕には意外しっかりとした力がこめられており、そこから抜け出すことは叶わない。

「このままでは全員殺されてしまう……! 勝手な話だが力をかしておくれ、二人とも」

キークは花畑から抜けると狭い階段を全速力で駆け下りながら、唇をかみ締め告げる。

「変だよ、だって父さんはこれが望みだったんでしょう?」

「……違う、違うんだ……私は……私の望みは……」

二つに別れているうちの左側を選び、キークはさらに足を進め壁を蹴る。すると壁は音もなく開き、キークはそこに飛び込んだ。その背で、壁は再び音もなく元通りになる。二人を降ろすと、ぜいぜいと荒い息をつきながらキークは床に座り込んだ。

部屋は薄暗く、また狭かった。ベッドが一つ、部屋の周りを巨大な本棚がぐるりと囲んでいる。……本棚の所為で狭くなっているのだ。そして、本が積み重ねられた机があった。

積もった埃から、この部屋は掃除はほとんどされていないものの、決して寂れているわけではないとトアンは思う。……机の上とベッドは埃がほとんどないからだ。つまりこの部屋は、頻繁に利用されているということ。

「……父さんの部屋なんだね」

疑問ではなく確信で問うと、キークは頷いた。チェリカは壁を調べていたが首を振る。……あかないようだ。

「あけてよ、キーク。お兄ちゃんが死んじゃうよ」

チェリカの言葉に、キークは苦しい呼吸がやっと落ち着いてきたようでゆっくり息を吸い込んで答えた。

「無理だ。あの花はアリシアを助けている。策もなしに出て行っても、殺されるだけだよ」

「だって!」

「……チェリカ、私の言葉なんて信じられないだろうが聞いてくれ。とにかく彼女があそこにいては……。」

トアンはチェリカに視線を送る。トアンも丁度チェリカを見ていた。視線がカチリと合う。

トアンはチェリカを安心させるように笑みを浮かべると──少し情けない笑みになってしまったが──今度こそ父に向かい合った。

「……違うって、いってたよね。これは、望んでないって。教えて欲しいんだ、どうして父さんはアリスの箱庭にいたのか。どうして母さんがこんな形で生き返ることになったのか……母さんとの『約束』って一体なに?」

トアンの真摯な瞳を眩しそうにキークは瞳を細めると、足を組んで座りなおした。チェリカがすとんとその前にすわり、すぐ隣に手招きする。トアンは彼女に招かれるまま床に座り込むと、ゆっくりと父親の口から語られる言葉に耳を傾けることにした。

──全ての、真相に。



「キークはどこにいったのかしら」

アリシアは口元に手をやって首を傾げる。そのすぐ隣に、ルノがいた。ルノの手足にはイバラが絡みつき、その鋭い棘によってローブの部分部分がドス黒くそまっている。一本のバラに取り込まれるようにして吊られているルノの身体は時折反射的な小さな抵抗によって動いたが、バラはそれをすぐに感知し棘のあるつるが彼の身体をより強く締め付けていた。ルノは痛みに眉を寄せるも、小さな呻き声しか出なかった。──ほとんど意識はなくなっているようだ。

「ごめんなさいね、ちょっと可哀想だけど……あなたの反魔法は厄介なのよね」

そっとその頬をなでて、アリシアは申し訳なさそうに顔を曇らせてからくるりと踵をかえした。

「キークを探しに行かなくちゃ」

赤い花畑をゆっくりと歩き出し、アリシアは呟く。

「困った人ねえ、約束、守れなくなっちゃうじゃないの……あら?」

拗ねたように唇を突き出して歩いていたアリシアが、突然足を止めた。彼女の術のお陰であちこちの地面が吹き飛ばされ、花畑の下──もともとこの城の床──が見えてしまっている。青く磨き上げられた床の上で、アリシアは止まっていた。

彼女の足に、手がかかっている。アリシアは驚きに目をまるくし、その手の主を見た。

──ウィルだ。

「……あなた、すごいわねぇ」

「待てよ……の身体を……返せ……」

「あなたのお腹、かなり深くきり裂いたと思ったんだけど。痛いでしょう?」

悪びれた様子のないアリシアの問いに、ウィルは汗の滲んだ顔を顰めた。腹からの出血は相当な量だがウィルの意識ははっきりしていた。僅かでも動くたびに脳天を貫くような痛みが走るが、歯を食い縛ってそれに耐える。

「苦しいでしょ? ごめんなさい、今楽にしてあげるから」

アリシアはナイフを取り出すとためらわずにウィルの首筋を斬り裂いた。声にならない悲鳴をあげるウィルの身体をそっと横たえ、ナイフから滴る血を舐め取る。

「守森人の血ねえ……不思議な味……」

磨き上げられた床の上にウィルの血が広がっていく。まるでこの花畑のようだ。アリシアはにこりと笑うと、キークの消えた方向へ再び歩き出した。



霞む視界の中、遠ざかる金髪を見つけウィルは目を細める。ドクンドクンと心臓が脈打つ度、首と腹から血が吹き出た。

(はは、動脈は外れてんだ……ラッキーなのかな)

まだ意識があることに、自分の頑丈さと軌跡を讃えたかった。ウィルはポケットからセイルが渡してくれた瓶を取り出して、精一杯の力をこめて握り締める。

──何をすべきか、何故か分かっていた。


ずり……っずり……っずり……

重い身体を這わせるようにして、ウィルはのろのろと腕を動かした。ジャムの甘い香りが辺りに広がる。


目が霞む、手が震える。──ガタガタの汚い線でも、なんとか途絶えずに繋いでいく。ジャムを指につけ、満身創痍ながらもウィルが描いていたのは、蝶の姿をまるで線が檻のように囲んでいるような魔方陣だった。図が出来上がると同時にジャムがなくなる。空になった瓶を放り投げ、今度は自らの血をつける。その血で蝶を囲む檻にヒビをいれてやり出口をつくった。そして、その下に名前を書く。

──スノー、と。

ウィルは小さく笑みを浮かべると、霞んでいく視界にアリシアの後姿をもう見つけられないことに笑みを苦笑にかえ、辛うじて保っていた意識をプツンと手放した。


──出てこいよ、レイン……




アリシアは足を止めた。心の奥で、完全に閉じたはずのフタがゆっくりと開いていくのを感じたのだ。

「あら……まあ」

頬に手を当て、困ったように少しだけ眉を顰める。が、瞳を閉じ、もう一度あけたときにはそのフタは開くのがとまった。

「起きちゃったのね、レイン」

アリシアは再びゆっくりと歩き出すと、子供をあやすような独り言を呟いた。

「そこは安全よ。眠ってていいのよ……」

ぴしり、中途半端にフタがずれた箱にヒビが入る。

「……邪魔しちゃだめ。まったく、あの守森人の子……レインを起こしちゃったのね」

困ったわねえ、そういいながらアリシアは笑みを絶やさない。

「無駄よ、どんなに暴れたって出られないわよ。──まってて、もうすぐだから」




「……今から十八年ほど前のことだ。……始まりは三十年ほど前になる。そのころに始まった血華教のことは知っているだろう? それが十八年前に滅んだことも」

キークの言葉に、トアンは頷くことで区切って飲み込むことにした。一言も漏らしたくなかったから。

「私は当時十八歳。夢幻道士の里に生まれながらも、……自分で言うのもなんだが私は天才だった。並みの夢幻道士を遙かに越えた力を持って生まれたからね。若さゆえ族長よりも自分の方が勝ってると思い込み、好き放題した挙句自分の力のまま里を出、世界を旅していた。……仕来りに縛られるのがイヤだったんだ」

うん、トアンは頷く。聞いてるよ父さん。夢幻道士の里があったことは知らなかったけど、ここは別に質問するところじゃないよね。

「ある日、血華教という宗教に狂った人間に出くわした。死者の魂がどうとか、なにか勝手に喚き散らしていた。……私はそんなものに興味はなかったが、巫女としてシンボルにされているのは私と同い年の少女だという。興味本位で教団に入り込み、地下に幽閉されていたアリシアに出会ったんだ。アリシアは六歳のころからそこに閉じ込められていたようで、私がする外の話に大変興味をもっていた。続きをきかせて、そうせがむ彼女は同い年には見えないほど幼く見え、私は彼女が可哀想だと思った。親に捨てられるような形で幽閉され、それでも彼女は家族というものにあこがれていた。……私は彼女に、家族というものを与えてやりたかった」

一拍おいてからトアンは頷き、キークはそれに応え口を開いた。

「ヴァリンに会っただろう。あの子は予知夢を見ていた。ある日血華教の神殿の傍に隠れ住んでいた私のもとにヴァリンから知らせがあった。そこは陥落する、非難しろと。信者と様々な国の間に起きていた戦争は既に本拠地である神殿に迫っているのだと。──その晩、私はアリシアを連れて逃げ出した。邪魔する者は殺した。翌日になって神殿は陥落、信者の血によって白い壁は真っ赤に染まり、血華教は消滅した」


アリスとミルキィから聞いた話が、キークによってしっかりと固まった気がした。

まるで、子供があこがれるおとぎ話ようだとトアンは思う。人の命が失われた以上重い話だが、愛する者を助け出して逃亡。夢見る少女が好きそうな話だ。恐らくこれが世に出回って少女たちが読む本だったなら、少女は口々にこういうはず。『私の手をとってくれるひとはいないかしら』と。

……遠回りした思考になったが、トアンはうんと頷いた。

「その後、私はアリシアを里に連れ帰り結婚した。アリシアは初めて触れる穏やかな生活に戸惑いを感じながら、ゆっくりと溶け込んでいった。里の者はアリシアを否定したが、いろんな手を使って私は黙らせていった。彼女に平穏な生活をさせてやりたかったんだ。それから一年後、レインが産まれた。……いや、レインではないな。少し話が逸れるが、人は魂に刻まれた名前があることを知っているかい?」

話を聞くことに没頭していたトアンは不意の質問に答えられず、あわあわと慌てたうえチェリカに視線を送った。チェリカは少し笑って、キークに答えを告げる。

「本名のことでしょ?」

「オレ、よくわからないな……」

「ううん、そうだ。シアングはレインのこと『ネコジタ君』って呼ぶけど、それはあだ名でしょう。ひとは生きていくときに名前が増えたりするけど、最初に親からもらった名前は一つ。それは魂に刻まれてて、そのひとの本当の名前なんだよ。他の名前を十個知ってるのと、刻まれた名前を知ってるのとじゃ大違いなんだ。名前にはそれぞれ意味があるからね」

「……そうなんだ。じゃあ、兄さんは……」

「あの子の本当の名前は、スノーという」

「な……!」

「セイルが呼んでた名前だね」

チェリカがトアンの驚きをあっさりと口に出してしまった。トアンは開いた口を暫くそのままにしてからすごすごと閉める。

「……どうしてスノーがレインになったの?」

トアンの気などつゆ知らず、チェリカは質問を口にしていた。キークはそれを聞くとつらそうに眉を寄せてから、ゆっくりと続きを切り出した。



『この子の名前は、スノーがいいわ』

『スノー?』

アリシアは愛しそうに目を細め、生まれたばかりの我が子を抱き上げた。

キークとアリシアは共にまだ二十歳になっていない。が、夢幻道士にしろなんにしろ、十八を越えたら大人のようなモノだ。里に戻ってからキークは生物学者として働いていたが、出産からそんなに日がたってないアリシアをほうっておけなくて暫く休んでいる。

息子の名前は、まだ何も考えていなかった。そんな中でアリシアからの突然の提案に、キークは正直戸惑っていた。

スノー、というのはかつて恋人を失ったエルフが人間を虐殺した事件があったが、その恋人の名によく似ていたからだ。殺されたエルフの恋人の名はスノゥ。何故か胸騒ぎを感じ、キークは顔を曇らせていた。

『何故だい?』

『この子、肌が真っ白よ。昔聞いたお話にあったの。雪のような白い肌のお姫様のお話、スノーホワイト。でもこの子は男の子だから、スノー。』

ああ、キークは思う。にっこりと陽だまりの中で笑うアリシアを見て、先程までの不安はただの思い過ごしだということにした。アリシア、可愛いことを言うな。そういわれるといい名前じゃないか。キークは笑みを浮かべると頷いた。そうして、子供の名前はスノーになった。

「……幸せだった。平和だった。私は家族がとても大事だった。それは今も変わらない。しかし私は幸せに溺れるあまり、大切なことを見落としてしまったんだ」

話を聞きながらトアンは、父の顔を見ているうちに心がほぐれていくのがわかった。

義理の父として接しながらも、優しかったキーク。

ルノを利用し、更にはチェリカまで盾にとり、アリスの箱庭の一員としていたキーク。それはトアンの心に常に引っかかり、仲間に対する申し訳なさでトアンの胸をいっぱいにしていた。

しかし、レインを助けに来た際、キークは協力してくれたのだ。その後再び敵として現れたが、あれも母が関係している。

父として慕う事ができず、かといって憎むこともできずぐらぐらとしていたキークが、すぽんとはまって落ち着いた気がした。それほどまでに、今のキークは一言で言って父親らしいのだ。なんというか、キークから母や兄のことを聞くたびに、彼が本当に愛していた、といのが伝わってくるから。

「レインがまだスノーとして歩き出して暫くたった日、夕焼けが綺麗な日だった。ずっと雨続きだったけれど、あの日は本当に綺麗だったんだ。レインの瞳は夕焼けみたいだろう? まるであの子の目みたいだと、私はそれを思い出して幸せを噛締めていた。オッドアイが夢幻道士から出ることは本当に珍しいから仲間にいろいろといわれたが気にしなかった。夕焼けが綺麗だからと早めに研究室を出て、私は家に帰った」

自慢話が混じっているぞとチェリカの瞳が訴えていることにキークは気付かず、続きを口にした。

「……ところが、家の中ではスノーの泣き声が溢れていた。何事だと私が姿を探すと、アリシアが床に倒れ、その隣にある奇妙な魔方陣の上で火がついたようにスノーが泣いていた。……その魔方陣がなにかよくないものだと私は思い、アリシアを揺さ振った」


『スノー、スノー! アリシア、スノーに何をした!』

泣き止まないスノーを指し、キークはアリシアに詰め寄った。が、

『私は……あたしは……』

アリシアは恐ろしいほど透き通った瞳でキーク──いや、どこかを見て何かを呟くと、気を失ってしまった。

アリシアとスノーをベッドに運んでから、キークは彼女の机にしまってあったメモやら走り書きを漁り、あの魔方陣を見つけ愕然とした。


「それは、魂を繋ぐための陣だった。アリシアは『スノゥ』とスノーという、似たような名前で魂に刻まれた名を繋ぐとスノーの魂に『スノゥ』を結びつけたのだ。レインはスノゥの生まれ変わりなんかではない。アリシアによって強制的に繋がれていただけだ」

目を細めて呟くキークを見ながら、トアンはふとアルライドの言葉を思い出した。チェリカを助けに行くときにみた法衣の男と別れたとき、頭の中に直接響いてきたのだ。

『がんばって、トアン。──チェリカを助けても、まだ終わらないよ』

法衣の男──アルライドはそういっていた。彼は知っていたのだ、この事態が引き起こされることを。

トアンとチェリカの沈黙をどうとったのか、キークはため息を吐き出すと再び口を開いた。

「私はまだ、アリシアの目的をわかっていなかった。ただ彼女がレインにスノーという名を与えたのはこのためで、それだけ分かったらもうレインを彼女の傍には置いて置けなかった」


『許してくれ、スノー。アリシアがまさかお前と『スノゥ』を結ぶとは……。私が迂闊だった』

キークはすん、と鼻を鳴らしたスノーを抱きよせると馬車を走らせた。


「私が創造し作り上げた特別製の馬車は、その日のうちに、かつて旅した際に行動を共にした男のもとへたどり着いた。男は弓の名手でとある国の重役だったが、人間関係に疲れ森に囲まれた村で妻と共に静かな生活を送っていた。……彼は、私の親友だった。見ただろう? レインの過去で」


『アルカマイム、頼む。この子を預かって育てて欲しい』

『突然来てなにを言うかと思えば……どうしたんだキーク?』

『……詳しくはいえないんだ。すまない』

『まあ、いい。詮索はしないでおこう。他でもないキークの頼みだからなあ……』

しっかりと抱えていた我が子を目の前の男に託す。キークの手から離れた途端、赤ん坊はぐずぐずと泣き出した。キークは手を伸ばし、触れる直前で不意に手を止めた。

『私は駄目な父親だな……。お前を守ることができくて。でもお前をこれからまもってくれるのは、私の親友だ。大丈夫だから泣かないでおくれ、スノー。……いいや、お前は……』

囁きながらもキークの手が止まっていると、アルカマイムは困ったように眉を寄せた。

『お前が何を思ってるかわからないが、この子を捨てるわけじゃないんだ。撫でてやれよ』

『……。』

『お前の子だろう? どこにいても、ずっとずっと』

『……そうだな。ありがとう。アルカマイム、この子の名は』

『聞いてたさ。知らせも受け取ってた。スノーだろう?』

『いいや、違う。レインだ』

キークは一度手を離し、それを赤子の頭につけると祈るように呟いた。

『お前は、『レイン』だ』

スノーではない。どうか繋がれた名前が忘却の彼方へ埋まってしまうように。


「レインを託し、里に戻るとアリシアは回復していた。憔悴したようにスノーの名を呼んでいたが、私がレインを捨てたというと今度は泣き崩れた。自分が悪いとも言わなかったし私が悪いとも言わなかった。彼女は暫く悲しみに伏していて、そして──」

足が痺れてきたのだろう、チェリカが身動ぎした。トアンはもう動けなかった。キークの瞳はしっかりとトアンを捉えており、自分のことが言われるのだとトアンは悟っていた。

「トアンを出産すると同時に、アリシアは死んだ」

その言葉を吐き出した父の声は、がらんとした空洞のようだった。

「……彼女は、アリシアは自らの死を知っていたんだ。自分がもう子を産む体力がないことも、身体が耐え切れないことも、それでも産めると。……僅か、二十歳の若さだったのに」


『キーク……赤ちゃんは……?』

握り締めていた手が冷たいことに、キークは今更ながら悔やんだ。

『元気に生まれた、男の子だよ。私と同じ髪の毛の色だ』

『そう…………よかったわ……』

『……君は知っていたんだな? こうなることを』

『……うふふ』

アリシアの手が動いた。何を──キークの涙を拭おうとしてくれたのだろう。が、それは叶わず、ぽとりと力なくシーツの上に落ちた。

『……嬉しかった。キークと一緒に居られて』

朱色の美しい瞳に、最早輝きはなかった。沼のように、陰の落ちた海のように、澄んだ色はもう見られない。

『アリシア……』

『……出してくれて、ありがとう。家族になってくれて、ありがとう……スノーは元気かしら、それがちょっと気がかりね……』

『アリシア、しっかりしろ。大丈夫だ、私が助けてやる』

『うふふ……いいのよ、わかってたもの。……ねえ、キーク。最期に、一つ、聞いて欲しいことがあるの』

最期なんていうなよ。

喉まででかかったその言葉は不意に方向転換すると、キークの胸に重く降り積もった。

白い肌が更に白くなっている。キークの頭は当に分かってしまったのだ、彼女の言葉に嘘がないことを。

別れの時間はすぐそこに、やってきているということを。

『……なんだい?』

暫く言葉を探した後、キークが発したその一言にアリシアは夢見るようい答えた。

『あのね……ずっと、一緒にいたいの。みんなで、ずっと一緒にいたい』

『アリシア』

『お願い、約束、して……』

掠れた声に、キークはもう無我夢中でアリシアの冷たい手をほぐし、キークは小指を絡めてしっかりと握った。青白いアリシアの顔がふんわりと明るくなる。

ずきんと、瞳の奥が痛んだ。

『ありがとう……『約束』よ……』

『……アリシア?』

重ねていた手から、アリシアの白い手がするりと抜ける。それはキークの目にはゆっくり──非常にゆっくりと──落ちて、シーツに沈んだ。

『アリシア、アリシア──!』


──五月二十日。

春の陽気から夏の暑さに季節が動く中、アリシアは長い眠りについた。


「オレの誕生日……オレの所為で、母さんは死んだの……?」

「いいや」

俯いたトアンの肩に手を乗せ、キークは首を振った。

「アリシアは自らの死を知って直、お前を生んだんだ。お前が責任を感じることではないよ」

「父さん」

チェリカは俯いたままのトアンをちらりと見て、慰める術を探した後に何も言わずキークに向き直った。

「キーク……それが、『約束』? ずっと、『一緒にいたい』っていうのが『約束』なの?」

「……そうだ」

「……まだ、話は全部終わってないよね?」

「その通り。トアン、大丈夫か? 続き、やめようか?」

優しい父の言葉に更に心が重くなった気がした。が、トアンは頷くと顔を上げる。


「アリシアを失った私は、彼女の蘇生を試みる事にした。もともと生命学は学んでいたし、私には創造の力があったから、そう難しいことではないと思ったんだ。そして同じように生命学を学ぶ者を集めて研究所をつくった。──それがアリスの箱庭だ。合成獣も生命の研究の一環だった。ところが、異変を感知した夢幻道士の一族が、同族の不始末は同族がつけるべきと動き出そうとしていた。ヴァリンもその一人……トアン、気付いていたかい? ヴァリンが何故大神官という身でありながらお前に力を貸したと思う?」

「……え?」

「あの子は、私の妹だ」

「ええ!?」

「じゃあトアンの叔母さんだ」

「そうなる」

トアンの脳裏に、あの黒髪の大神官が思い出された。この間あった際には厳しいことを随分言われたのだが、そういえばルノを助けに行く際彼女は協力してくれた。

あれが、父キークの妹だったとは。顔は似ていないし髪の色も違うからまったく気付かなかった。

「ヴァリンの予知夢はやっかいだった。だから、私は彼女の力が及ばない場所を創ってトアンを隠したんだ」

それが、フィリウル村だ。

「……私はアリシア蘇生しか見えていなかった。私の望みは家族を守りたかったんだ。しかし、アリシアとの『約束』は、私にとっての希望だった」

「……質問いい?」

チェリカが手をあげる。何かな、キークはまるで教師のように笑みを浮かべてチェリカを見る。

「どうしてレインをグングニルに入れたの? アリスの箱庭関係なら、操作して逃がすこともできたでしょう?」

「……ああ、それをまだ話してなかったか」

ため息とともに、キークはがりがり髪の毛を掻き毟った。──なんだか少し老けた気がする。父の歳なんて知らなかったが、彼の話が真実ならば、十八年たった現在は三十六歳のはずだ。が、今や彼は四十をとうに越えているような青白い疲れた顔をしているとトアンはぼんやりと考える。

──恐らく。キークにとってアリシアの死を再び思い返すことは、彼にとって重く圧し掛かることなのだろう。ルノ奪還のときに出会ったキークは、雰囲気こそ暗かったがもっと若々しかった気がする。砂漠で対峙したときもだ。

「クラインハムトをはじめ、他の研究者たちはレインの能力を見抜いていた。空間と空間を繋ぐ能力──とくにクラインハムトは、導きのひかりが失敗した際の代わりになると考えていたようだ。どこから仕入れてきた情報かしらないが、私のいない間に親友の村を──焼いた」

あの、セピア色の光景がふっと脳裏に浮かんだ。レインの目の前で育て親が殺害された──あの光景。

「ところが、レインは記憶を失い心を閉ざしてしまった。私はレインをハクアスに預け、一歩離れたところから様子を見ることにした。……そして、レインがグングニルに入るという連絡を聞いたとき、私は喜んでいた」

「どうして?」

チェリカが珍しく冷たい声を発した。キークはふ、と苦笑するとその紫色の瞳を伏せる。

「レインが大量の血を浴びる必要があったからだ。いいチャンスだと、思った」

「チャンス?」

「……そうだ。トアン、砂漠で会っただろう。私はあのとき、レインの心とアリシアの心を繋いだんだ。……研究の途中で、私は思いついたんだ。レインの身体を使ってアリシアを復活させればいいとね。そのためには、今言ったとおり、血に慣れていなければならない。レインの身体にも眠っている、血を欲する血華の力を目覚めさせる必要があったんだ」

「……だから、兄さんを助けに行ったときに力をかしてくれたの? 兄さんが死なないように」

「そうなるな」

「でも、だからって! それに、レインはその所為で一回死んじゃったんだよ? トアンがもし『すべてを還すための力』がつかえなかったら、レインが死んだっていう事実は『なかったことに』ならなかったに。……君がそんな危ない橋をわたるようには見えないよ」

「危ない橋ではないよ、チェリカ。私は確信していた。トアンは『すべてを還すための力』をつかえるとね」

「何で?」

「……それは私の直感だ。この血が、教えてくれる」

「全然わかんないよ……。でも、今はこの状態が間違いって気付いてるよね」

「ああ」

「そっか」

チェリカが顎に手を当てて考え込む。その仕草はまるでルノがやるようなものだったが、チェリカ本人は気付いていない。

キークはチェリカを眺めていたが、父さん、と呼ばれトアンを振り返った。

「……父さんのいう事、信用していいの?」

「疑うのも無理はないな。……だけどもトアン。レインとアリシアを救えるのはお前の力だけなんだ。その腰の剣、月千一夜でアリシアとレインを──……」

「本当に信じていいの!? オレが手を貸したら、兄さんはちゃんと助かるの!?」

状況が飲み込めたら今度は質問が止まらなかった。先程頷いてゆっくりと飲み込んでいた真実が喉を駆け上がって疑問に変わる。

父は母と家族を大事にしていた──が、この状況はなんだ? そもそも父は本当に家族を大事にしていたのか? 母との約束を都合のいいように解釈しているのではないか?

崩れ落ちるように質問は止まらなかった。質問をぶつける、という表現は正しいと胸を張っていえるような、体当たりのような言葉を吐き出していた。最早それは質問というより、罵りかもしれなかった。

……キークは、真っ直ぐな瞳でそれを全て受け入れていた。

罵りも呪詛も悪態もすべて真っ直ぐに受け止めて、そしてその足はちっとも揺らいでいない。キークはトアンの言葉の嵐の中でもしゃんと背筋を伸ばして聞いていた。──その強い覚悟を宿した瞳を前に、トアンの視界がゆっくりと滲んでいく。

「今更、こんな突然言われたってオレは信じられない!」

「……。」

「父さんのしてきたことでどれだけのひとが苦しんだかわかる!? オレはそれを見てきたし、オレが知らないだけでもっとそういうひとはいるかもしれない! 合成獣にされて国に帰れなかったリクさんはどうしたらいいんだよ! アルライドさんだって父さんに利用されたじゃないか! ルノさんは実験に使われてて苦しんでた! ウィルだって巻き込まれたし、ツムギさんだって捕まって──チェリカはルノさんと戦うことになっちゃったし、兄さんだって涙も感情もなくしてたんだ!」

「……。」

「それなのに、こんな──母さんのことだって言い訳にしか──……」

揺ぎない父の瞳の前に、トアンの声が震えた。とろんと瞳にはった水の幕が震え、今にも零れ落ちてしまいそうだ。それでもキークを睨みつけるトアンの肩を、優しくチェリカが触れた。

「トアン」

今の顔を見られたくなくて、咄嗟に俯いた。その拍子で一滴涙が零れ、埃っぽい床にてんとまるを描く。

「君の気持ち、多分よくわかってる。ひとの命を弄んだこのひとを、私は許せない」

「……」

「でも、このひとは本当にアリシアを愛していたんだよ。知ってはいけない方法を知り、やっちゃいけないことをしちゃったんだよ。アリシアへの愛は本物だよ」

「……ほ、本当だって……証拠がないよ……」

「証拠なんて……ううん、証拠はもう君が持ってるよ」

「……え?」

「名前には意味があるっていったでしょう。君の名前の意味、いってもいいかな。ずうっと昔に使われてた言葉なんだけどね」

わけのわからないまま首を軽く縦に振る。俯いているトアンの傍で、チェリカがふっと微笑んだ気配がした。


「君の魂に刻まれた君の名前、トアン。トアンの意味は『約束』」


はっとして顔をあげると、優しく微笑んだチェリカがそこにたっていた。

「多分、アリシアが死んだあと、キークは君に『トアン』って名前をつけたんだ。それはきっと、長い道のりの決意を誓うために。『約束』を祈り続けるために」

「そ、そうなの、父さん?」

慌ててキークに視線を向けると、キークは少し気まずそうにしながらも頷いてくれた。

「ごめんね、自分の口から言いたかったでしょう」

「いや、チェリカから言ってくれて助かったよ。私が言ってもトアンは信じないだろうから。……そうなるだけの、事をしてきたからね」

「オレの名前──……」

『約束』なんて意味があったなんて。

「あ……と、父さん! さっきはオレ、色んなこと言っちゃったけど……」

先程の呪詛を思い出してトアンが謝ろうとすると、キークは手でそれをやんわりと遮った。

「いいんだ。実際私は、それだけのことをしてきたのだから。お前の私に対しての怒り、憤り、迷い、憎しみ──少しでも理解できているつもりだ。……お前がそう思い、そう言おうとしただけで私は嬉しいよ」

「父さん……」

「さて、話を変えよう」

キークはふ、と微笑を浮かべると立ち上がり、まるで食後のコーヒーを頼むような声で告げた。

「それを抜いてくれ」



「トアン、お前の腰の月千一夜のことだ。見せてくれないか」

言われるままトアンは鞘から月千一夜を引き抜いた。しゃらん、涼しげな音と共に赤い光が火の粉のように舞い踊り、部屋の中を赤く染める。

「なんで赤いの?」

チェリカの興味深げな問いに、トアンは決まり悪い笑みを浮かべることしかべきなかった。──わからないのだ。

「クラインハムトとの戦いでチェリカを失って──それから無我夢中で引き抜いたときには赤かったんだ。あそこにいくまでは何の色もついてなかったのに……」

「凄い真っ赤だね。でも、綺麗。火みたいだけど熱くないの?」

「熱く──ないみたい」

「不思議。ねえキーク。どうして?」

「怒りだよ」

チェリカの問いに、キークはさらりとこともなげに応じた。

「怒り?」

「そう」

ひょい、トアンの手から抜き身の剣を持ち上げ、キークは瞳を閉じる。と、驚くことにその剣はすぐさま氷のような青い色に変わり、青白く焦がすような炎となった。──シャドウが持っていたときよりも青い色が強い。

「……『彼』は十六夜というのか」

「わかるの?」

「まあ、ね。月千一夜は対話できる。大体は屈服させる必要もあるが、『彼』はそんな気はないようだ。一度千の魂を吸い込み、それを解放した月千一夜……それは暫く休眠状態に陥っていたが、トアン。お前の喉を焦がすような怒りで目覚めたようだ」

理不尽なまま命を奪われたチェリカ。トアンは覚えている。あの、光が掌からするりと逃げていく感覚を。心にあいた大きな穴の傍で、呆然と立ち尽くした自分を。

「一度目覚めた十六夜はお前を主人と認めたようだな。お前以外のものが持つとただの剣になる。──私は夢幻道士だから、青い刀身を魅せてくれるようだが」

「赤い月千一夜って、普通のと違うの?」

最もな理由をチェリカが尋ねる。トアンも頷くと、キークは一拍置いてから口を開いた。

「トアン、これでなにが斬れた?」

「え……」

「亡霊となったクラインハムトを斬って、彼の真実の姿を晒しただろう」

「う、うん。亡霊って精霊みたいなものだから斬れたんだと思ったけど」

「いいや、違う」

キークが差し出した十六夜をトアンはしっかりと受け取った。途端に刀身は烈火ごとき炎に染まり、零れる光は赤から青へと瞬時に変わる。

「青き月千一夜は幻想を斬り裂き、赤い月千一夜は真実を見出すものだ。これでアリシアを斬れば──十六夜が真実を、レインを引きずり出してくれる」

トアンが顔を輝かせたその瞬間、柔らかな声が部屋に響いた。


「見ーつけた」



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