第48話 最後から15番目の真実

頬に触れた光のカケラは、冷たくも温かくもなく、本当に触れたかどうかも怪しいところだった。でも、確かに触れたんだ。


──嘘だろう。


だって突然すぎるじゃないか。どうしてだよ。昨日まで一緒に笑って、旅して、戦って。


──悪い夢だ。


立ち尽くすオレの耳元でサイレンが喧しい音をたてて喚きたてている。ざあざあと心にノイズが走って、確かに時間が止まった。


──目が覚めたら、この音は止まるんだろうか。


わけのわからないくらい心が痛い。痛い痛い痛い痛いよ。なのに、零れ落ちたのは涙じゃなくて噛み締めた唇からの血。

それはボロボロになってしまった彼女のローブに沈んで、消えた。


──ああ。





────悪い夢だ。







「嫌だ!」

叫んだのはトアンではなく、ルノだった。同じことを考えていたから、一瞬自分の声が変わってしまったのかとトアンは思う。そしてその瞬間から、目まぐるしく時間が動き出した。

「嫌だ、何故? 嫌だよ、こんな……っ」

伏せられた紅い瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

「……。」

シアングがそっと歩み寄ってその頭に手を置いたが、彼は何も言わなかった。

トアンが顔をあげてぐるりと見渡すと、シアングの横顔は見えなかったが口元を押さえて肩を震わせるレインの姿と、手の甲で顔を擦りながらぐずぐずと鼻をすするウィルの姿が見えた。


──ピシリ。


心に亀裂が入る。ああ、これは夢ではないと今更ながら頭に叩き込まれた。


「どうして、泣く?」


静かな声で口を開いたのはクラインハムトだった。すぐさま視線を向けるも、彼の表情は眉を少し寄せて、明らかに不快を示していた。

「ルノ、答えなさい。どうして泣いている」

「……貴方は! 貴方は愚かだ!」

流れ落ちる涙をもう拭うのはやめたのだろう、ルノが叫ぶ度にその白い頬が光った。

「何故私が愚かだと?」

その声は姪が死んだことではなく、自分が愚かといわれたことが不愉快なようだった。整った顔立ちがくしゃりと歪んで、いつしかヴェルダニアと対峙したクランキスの姿が重なる。──兄と弟。しかし、こんなにも違う。

「わからないのか!? 神だなんて名乗ってるくせに、チェリカを殺した! 貴方のくだらない思想につき合わせた挙句ゴミのように捨てたんだ!」

「……くだらない思想か」

く、喉を鳴らしてクラインハムトは笑った。

「何がおかしい」

シアングが低い声で問う。だがクラインハムトは小型犬の唸り程度にしか感じていないらしく、眉一つ動かさなかった。

「ルノ、お前にも教えてやろう。どうして私が、今ここに立っている理由を」





「兄さん! 兄さんってば!」

病弱な子供だった私は、長男であり溌剌としたクランキスをとても慕っていた。エアスリクにおいて私は自分の存在理由を見出せなかったが、幼いころから兄さんは私に優しかった。

「なんだよ?」

今まさに窓枠を越えて午後の授業からの脱出をはかろうとしていた兄さんは少し怪訝そうに振り向いた。兄さんは活発で元気が良かったから授業が大嫌いで本も大嫌いで、その代わり城からの逃亡ルートについては熟知していた。

「またどこかへいくの? 僕も連れて行ってよ」

「だめだ、クラインは身体が弱いんだから城にいなきゃ。……お土産もってくるからな」

「兄さん」

「失礼しま……クラン様!?」

「やべ、先公だ! じゃあな!」

「兄さん、まってよ!」

兄は誰にも止められない。執事にも、教師にも。……そして私にも。

「またクラン様がお逃げになられたぞ!」

そういって走り出す教師はどこか楽しそうで、私は少し疎外感を感じていた。


手のかかる子の方がいいだろうか? だが私は身体が弱い。その点ではなにより手のかかる子供だと思ったが、私に構うとき、城の住人から何かが欠ける。そしてかなしいことに、それが城から出られない私にとってすべての世界だった。

兄にあって自分にはないもの。兄の存在がコンプレックスになり、その反面、兄に憧れを抱いていた。


それから暫くして、兄が頻繁に城から抜け出すようになったころ、私は兄からとんでもない計画を聞いた。

『下にいくんだ』

そういった兄に、私は危ないよ、といって、それきりなにもいえなかった。兄は私の言葉をきかないし、私もそれが分かっていたからだ。

「お土産いっぱいもってくるからな」

と、いつものセリフ言う兄に、心配してから強い憧れを感じた。誇らしかった。兄が大好きだったから。いつか私も連れて行ってくれるんだと、そう思っていた。


──それなのに。


兄の『土産』は、とんでもないものだった。


兄が脱走してから帰ってくるまでの間に、世界が軋んでいると城の住人たちは何度も叫んでいた。明らかに異変が続く中、私は兄が心配で心配で何度も祈った。

そしてある日、全ての異変が収まって暫くしたあの日、兄は帰ってきた。

──『土産』を連れて。


「まったく、下界に行くなどと! 貴方は何を考えているんですか!」

「へへへ、悪いなメヒル。でも帰ってきたぞ」

「そんな問題ではありません!」

ベッドで眠っていた私を起こしたのは、廊下に響きわたる怒鳴り声だった。

兄の世話係で執事長のメヒルが怒っている。皆に恐れられるメヒルはしかし、兄には厳しい態度をとりながらも優しい男だった。そのときだって怒りの中に心配がにじんでいるのが分かった。私にも分かったのだから、兄にわからないはずがない。

「ごめんってば」

「クラン様。しかもこれはどういうことです?」

困惑したメヒルの声を聞いて、物陰から見ていることに興味を押さえきれなくなった私は飛び出していた。

「兄さんお帰り!」

「おお、クライン。寝てなくて平気なのか」

「うん、だって兄さんが帰ってきたから──……」

そのとき初めて、紅い瞳を見た。

兄の隣にたつ紅い瞳と銀髪の女……思わず息をのんだ。

「兄さん、そのひと……」

「クライン、紹介するよ。俺の嫁だ」

「嫁……?」

ガラガラと足元が崩される感覚を初めて味わった。兄がとられてしまう。

「ですがクラン様、この方は……」

「セフィラスだ」

「セフィラス様。彼女は氷魔の力をもっているのですよ? ──禁忌の子が生まれます」

「俺は決めたんだ。セフィ以外の女に興味はない」

これ以上ないくらい綺麗に言い捨てると、兄はセフィラスの手をとって歩き出した。

「メヒル、皆を集めろ。愚痴も後で聞いてやる」

そういって兄はあれほど嫌っていた玉座に座ると、困惑する少女を隣の椅子に乗せた。

「さあ、どっからでもかかって来い」

幸せいっぱいにふんぞり返った兄を見て、私は何も言えなかった。

──兄が取られてしまう。




広くて狭いあの城の中で、私の唯一の理解者だった兄が突然連れてきた女にかかりっきりになってしまった。しかもそれは、敵対すべき魔族。間違っている。


兄はすぐに行動を起こし、王としての冠を受け取るとセフィラスを王妃として向かいいれた。式の途中、どうしてあんな魔族を、という私の声に城のものは皆困惑した顔で眉を寄せた。

「ですがクライン様。クラン様は世界をお救いになられた……もはや我々は何も言えません。あのお二人は英雄なのですよ」

「ヒトの欲望に巣食う邪神を封印したのです。……だが、私は氷魔一族などを……」

「不吉だ、氷魔など! いくら世界を救ったといってもな……」

しかしその声はすぐに、

「英雄が治めてくれるなら、このエアスリクは安泰だ」

というものに変化した。


おかしいじゃないか。間違いに気付いたのは私だけだ。城の皆は騙されているのだ。あの女の魔力で──兄もそうに違いない──みんな操られているんだと。


最初はどう接していいかわからない、といったメイドたちも徐々に新王妃の『魔力』にかかってしまった。慣れない城の暮らしに最初こそ沈みがちな『演技』をしていた王妃は徐々に打ち解け始め、庭師から料理長、挙句の果てには国民にまで愛され始めた。


──間違っているのに。


新王として忙しく働きながらも兄は王妃のもとに毎日通った。一時間おきに顔を見せたり甘えてみたり……そうすることによって私のもとにきてくれる時間はどんどん減っていった。

「あ、兄さん、僕ね……」

「悪いクライン! これからセフィとお茶なんだ!」

「す、少しは休んだら? お茶の時間空けるために、ほとんど休んでないじゃない」

「うん、でもさ、できるだけ長くセフィの傍にいたいから……じゃあな!」


兄中心に振り回されていた城は、兄が帰ってきたことによって再び忙しく回り始めた。──私を置き去りにして。



しかし兄を僕から奪い去ったセフィラスを憎むと同時に、私の心の中に不可解な感情が瞬いているのに気がついた。遠目からもわかる銀髪を目で追っている。祭りの際、玉座の前で氷の花とともに踊るセフィラス。──神の踊り手。そう讃えるに相応しい、美しいその姿。



私の心に、深く刺さって抜けない毒牙──……




何度それを壊そうと思っただろうか。兄を惑わす憎い相手を焦がれて焦がれて忘れられない。欲しい。どうせなら四肢の自由を奪って、誰にも見つからない地下室にでも閉じ込めてしまおうか。そうすれば兄も元通りで、セフィラスも私のものだ。思いは常に牙をむき、私はそれを抑えるのに必死だった。


だがしかし、そんな私の思考を読んだかのようにいつだって兄が邪魔をした。兄は大好きだが邪魔をされるたびに忌々しく感じた。セフィラスと兄が一緒に居るのを見る度に腹が立った。──少し前までなら、セフィラスの『方』を忌々しく思っていたのに。



私が自分の感情を理解できずに苦しんでいる間に、兄はついにセフィラスと全て結ばれた。禁忌の子供の可能性、そしてその子の将来が心配で身をゆだねなかったセフィラス。そして強要しなかった兄。……しかし、王には後継者が必要なのだ。国民からの強い期待の声に、ついにセフィラスと兄は身体を重ねた。──そして。


私を置き去りにして回る世界に、生れ落ちた二つの魂。


兄によく似た娘チェリカと、セフィラスによく似た息子ルノ。──ルノは禁忌の子だった。城の住人はその事実に恐れ慄きながら、国民は目の前に広がる明るい未来に歓喜の声を上げた。英雄が居るのだ。禁忌など俺が受けて立ってやる、俺は愛する家族と一緒に居たいんだ。愛するひとと一緒にいれないなんてそんな馬鹿なことがあってたまるか。兄が双子の誕生パーティーで言い放った言葉は、本当に眩く輝いていた。


私は、薄く笑っていた。



兄の幸せを祈れないことを不思議には思わなかった。だって私にも幸せになる権利はあるはずだ。幼いころから病弱で決して兄は越えられず、王になる兄を黙ってみていることが決定されていた運命。兄は魔女に心を奪われ、──私の心も奪われた。


兄の不幸を願うわけではない。


……私は私の幸せを願いたいだけだ。




だが、禁忌の子供の危険性を語りながらセフィラスに迫っても必ず兄は割り込んできた。『俺が守るから』の一言で私はいつも思い知らされる。いっそ兄と自分の立場が全て逆だったらいいのにと。

もう兄もセフィラスも絶対に手に入らない。だがしかし、幼い『代わり』がいるのだ。


もう、手に入らないものはいらない。


そしてついに、双子が六歳になった時。氷の大精霊がエアスリクに現れた──……


私はやっと声をあげた。間違っていた。全て間違っていたのだと。ルノを塔に閉じ込め、すぐさま反論した兄とセフィラスを水晶に封じ込めた。眠らせてしまえばいい。国民には原因不明、城のものには氷の大精霊の怒りだということにしておいた。二人は閉じ込めた水晶の中で、まっすぐに怒りを瞳に灯し、私にぶつけていた。

抑えつけていた欲望。……物言わぬ人形を手に入れた私は歓喜し、そして次に二人の心を手に入れることにした。

……簡単だ。



セフィラスの心はルノを幽閉し、私だけが会いに行くことで時間をかけて手に入る。兄の心はチェリカに封印された両親を助けるためだと言って手に入れればいい。特にチェリカは、城の中で僅かに残っていた『氷魔に対する不快感』を大精霊の怒りをかったことと禁忌の子供の存在で私が再び燃え広げたことによって簡単に揺らぐのがわかっていた。


兄を守りたいか? 両親を助けたいか?


そう問えば、チェリカは必ず頷くのだ。──どんなことでも。


「チェリカはよくやってくれたよ。ルノの代わりに王子になれといえばすぐさま剣を持った。訓練と偽ってどれだけ嬲ってやって泣き出しても、ルノや両親の名を出すだけで立ち上がった。どんなに痛めつけてもすぐ泣き止んだ」

クラインハムトは恍惚とした表情で自らの思いを語った。それがどんなに歪んだ内容か知らずに。

「そして、神の国の王は居なくなり、弟であった私が神になった。欲しかったものが手に入った……そして」


「ふざけるなよ!」


泣き声で叫んだルノの言葉に、話のこしを折られたのが不快なのかクラインハムトは目を細めた。

「くだらない……そんなことのためだけに私の家族を奪ったのか!」

「くだらないとは心外だよルノ。わからないのか? 私の気持ちが」

「わかってたまるか! お前は父さんと母さんの代わりに私たちを欲したんだろう!? 父さんに抱いたコンプレックスを、チェリカを痛めつけることで乗り越えたと勘違いしているだけだ! バカじゃないか? 父さんをチェリカに、母さんを私に重ねて!」

ぴり、クラインハムトが纏う空気が変わった。

「私がバカだ、か。……愚かだといったり、先程から少し口が過ぎるぞルノ。お前は外見こそセフィラスによく似ているが、随分品がないな」

「逃げろ!」

クラインハムトが薄く笑うと同時に、シアングがルノを突き飛ばした。しかしルノの居た場所──現在シアングが居る場所の周囲を小さな光が走る。

「……邪魔をするなよ」

口調こそは不快そうだが、クラインハムトはシアングに向かってまっすぐに手を伸ばす。


「やめろー!」


ルノが叫んだ瞬間、光の十字架がいくつも現れ、轟音とともにまっすぐに落下する。──それはシアングの両腕と両足を貫いた。

「うぐ……ッ」

何とかその場に踏みとどまる──否、手足は床に縫い付けられて崩れることができなかったのだ──が、肉の焦げたような匂いと、一拍おいて真っ赤な血が傷口から滴り落ちた。

「シアング!」

「竜の子よ。所詮お前も悪しき者だ。私を誰だと思っている? 私は穢れを許さない。恨むのならルノを恨め。ルノもルノだ、お前がいう事を聞かないから彼が怪我をしたのだよ」

「……!」

「自分勝手なこと言うんじゃねぇよ!」

黙って話を聞いていたレインがキッパリと言い捨てた。シアングに駆け寄ろうとするルノを引き寄せて、耳元で小さく囁く。

「オレが時間を稼ぐから、その隙にあの魔法をなんとかしてやれ。──大丈夫、シアングは結構頑丈だから。ちょっとばかり手間取っても死にゃしない」

「……レイン」

不安そうに、再びルノの瞳が揺らぐ。レインはそれをそっと拭ってやると、ウィルの足を踏みつけた。

「ルノを頼む」

「レイン、お前は?」

「……。」

ウィルの問いにレインは応えず、クラインハムトの方へ向きなおる。蔑むように鼻を鳴らしてせせら笑ってやれば、狂っている自称神の注意は簡単にひくことができた。


──シアングへの追撃、ルノとウィルの身の安全はとりあえず確保。トアンは先程から動かない。ち、舌打ちをして若干気が晴れた。


「……結局欲しかったもの、なんにも手に入れてないじゃねぇか」

「何?」

「アンタは神だ神だとバカの一つ覚えみたいに繰り返してるだけ。本当は欲しい物を欲しがって駄々をこねるガキとおんなじだよ。チェリカを失って嬉しい? いや、混乱してるんだろう。バカだなあ、仮にアンタが神になったとしても、自分が神じゃあ自分を救ってやれないぜ」

クラインハムトの青い瞳が見開かれる。ぎり、歯軋りをする音が聞こえてきそうだ。

「本当は神様なんていやしねぇんだよ。薄々気がついてるんだろう? 誰も自分を幸せにしてくれない、神様に祈っても通じやしない。じゃあならば、自分が神にって? ……実力がないやつは何になってもなにもできやしないと思うけど」

ちらりとルノを窺う。彼はシアングの周りを焦りながらも冷静に分析し、彼の救助方法を探している。

(そのまま逃げてくれ)

クラインハムトの狙いはルノだ。……チェリカの言う通り。彼はセフィラスへの愛情を憎しみと混合し、結果としてルノで昇華しようとしている。


シアングの口が何か言っている。ちらり、金の瞳がレインを見た。

(わかってる、アンタ、ルノを逃がしてやってくれって言いたいんだろう)

シアングの身体を貫いている魔法はルノの力じゃ解除できない。もうルノ自身、その事実気付いているはずだ。それでもなお、この場を離れられない──……

「ウィル!」

びくり、ウィルが肩を竦める。シアングとレインを見比べて、こっくりと頷いた。

「ルノ、来い」

ウィルの手がルノの腕をしっかりと掴んだ。そしてトアンに手を伸ばす。

「仲間を置いていくのかルノ?」

クラインハムトが笑いを堪えた声で呟いた。シアングが顔を上げて掠れた声で叫ぶ。

「ネコジタ君!」

油断していた意識をはっと取り戻したそのとき、レインは自分の身体が勢いよく地面にたたきつけられるのを感じた。ひ、息を飲み込む。すぐ目の前の床で魔方陣が光るのを見た。


「穢れだ。血華の力は血の力。闇の穢れは祓わなくてはならない。そうだろう、ルノ」


自分の身に何が起きたか分かる前に、起き上がれない身体に更に衝撃が加わった。──まるで重力が増したかのように、凄まじい力で床に押さえつけられる。

「う、……ああああっ」

搾り出すような悲鳴を何とか上げる。空気を出さないと肺が潰れてしまう、なんとなくそう思った。

「レ、レイン!」

「くる、な……」

駆け寄ってくるウィルに、お前はルノを、そういいたかったが言葉が出なかった。直後、身体の負担が減る。どうしたのかと視線を動かすと、少しばかり隙間をあけて、レインの上に覆いかぶさるウィルが見えた。

「お前……っ!」

確かにレインは楽になった。が、これではウィルの身体が潰れてしまう──

「オレは、レインを守りたいんだ──オレは、お前より魔法に耐性あるし」

つ、ウィルの額から汗が流れ落ちる。

「くそ……!」

これでシアング、レイン、ウィルは動けない。──ルノが自分たちを置いて逃げられるわけがない。優しいヤツだから。


ルノの足は動かなかった。クラインハムトの魔法は光。自分に残っている魔法も光。──だが、レベルの差をここまで思い知ったのは初めてだった。シアングの十字架も解除できない。レインもウィルも助けられない。


「……クラインハムト」

彼は、涼しそうに見下していた。

「答えろ、私の何が欲しいんだ! 一体何を得ればお前は満足する!? 何でもやるから、頼むから私以外に手を出さないでくれ!」

「…………。」

ルノの懇願をどこか困ったようにクラインハムトは見返した。──何も答えず。


(私に何をしろと?)

迷っている暇などない。ウィルの腕が折れてしまうかもしれない。レインの肺が潰れてしまうかもしれない。シアングの四肢が焼き斬られてしまうかもしれない。

トアンはまだ無事だ。だが彼もどうなるかわからない。ルノは足が震えて崩れ落ちそうだった。

──皆が死んでしまう。チェリカ、どうすればいい!?

ぼろり、零れた涙も拭わずに必死に頭の中をひっくり返していたルノはふとその作業をとめた。


──チェリカ。


チェリカは自分と離れ離れになってから、王子として厳しく躾けられていた。──自分は? 塔の上で、たった一人で。

毎日本を読んで、魔法の修行をして──……

大魔法使いになるんだ、そういって沢山の本を読んだ。その中に一つ、氷や光の魔法ではないが印象に残って覚えていたものがある。


魔法に対抗し、効果を打ち消す魔法。

無属性のアンチ・魔法。


ルノはしっかりと床に立つと杖を握り締め、杖の先で印を結んだ。

クラインハムトを睨みつけて。もう彼の言い分なんて聞いてやらない。自分の手で仲間を守りたい。

コォォォ、空洞になった骨を通り過ぎるような乾いた音がルノを包みこむ。と、杖で床を叩くと光の粒子が飛び散った。

「私は……貴方の寂しさなんてわからない! 選ばれない悲しみは知らない!」

クラインハムトの薄い笑いに、初めて皹が入った。まるでルノの言葉を一言でも聞き零さないように、上体を倒し身を乗り出して。

「父さんの影に怯えて丸まってる貴方にもチャンスはあったはずだ! それなのに貴方は、自分で自分を救わないで他人から奪った! 父さんだって最初から何もかも与えられていたわけじゃない、それに見合う努力をしていたから幸せになった! でも、貴方はなにもしなかった!」

杖の先から飛び散る光の粒子が、ルノの足元に魔方陣を描いていく。キン、粒子に反射してルノのピアスが光った。

「あれもこれも欲しがって、自分はただねだるだけ……どうして行動しなかったんだ、その気持ちがわからないよ! それに、それだけ父さんと母さんを思っていたのなら、二人の幸せを祈る事だってできははずなんだ! チェリカの人生だって、見守ってやることができたはずなんだよ!」

カッ──!

ルノの叫び声と同時に、床一面が真っ白な光をあげた。クラインハムトの術とは違い、暖かな光。それはシアングの四肢を貫いていた十字架と傷、そしてレインとウィルを押しつぶそうとしていた魔方陣を消し去った。

「これは……」

すっかり術によって受けた傷が癒えた──なかったことにされた──手をしげしげと見ながら、シアングが呟く。我に返ってそれからウィルとレインを起こしてやると、二人も不思議そうに顔を見合わせていた。

「……『すべてを還すための力』と似てる」

痛みのない身体に驚きながらも、レインがルノとトアンを見比べる。夢幻道士の力を打ち消す力があるなら、魔法があってもおかしくはないが……。

一度は死んだレインの『死んだ』という事実をなかったことにした『すべてを還すための力』と、魔法による破壊を打ち消す魔法。あのシアングの傷と自分の疲労がすっかり打ち消されているところを見ると、この光も相当なことまでの無効化ができるのだろう。

「……何をいう、私は何もしなかったわけじゃない」

クラインハムトが手を翳す。攻撃的な光を前に、ルノはしっかりと杖を握り返した。──光が、均衡する。

「ルノ!」

ルノの身体に多大な負荷がかかっているのは分かっている。できることならその背を支えてやりたいが、シアングは一歩も動けなかった。光と光のぶつかり合いから生まれる衝撃派は完全に彼の足から動きを封じている。


「……チェリカは」

汗と涙を振り払って、ルノは口を開いた。

「あの子は父さんじゃない! 私も母さんじゃないんだ! あの子の自由は、誰にも奪う権利はなかったはずだ! 貴方の自己満足のためだけに、あの子はずっと我慢していた! ……どうしてそこで気がつかなかったんだ、こんな結果になるまで!」

「黙れぇええええ!」

憤怒に目をギラつかせたクラインハムトが手を振り上げる。その手に光が収縮していき、輝く刃となっていく。

「死ね、ルノ! お前の小賢しい言葉にはもう飽きた! もうお前の心などいらない、セフィラスの身体さえあればいい!」

光の刃が七色に輝くと、狂った男は満足そうに声を高くして笑った。


「死んでしまえ!」


ルノは目を見開いたままその場に立ち尽くしていた。逃げられない。逃げたら仲間を守れなくなる。だがしかし、あの刃は自分の魔法の壁を突き破って、この身体を貫くだろうとどこか冷静に考える自分が居た。

──いや、本当は怖い。逃げたい、でも動けない。

紅い宝石のような瞳に、鮮血がよぎる。


『叔父さんを解放してあげて』


妹が残した言葉。解放、解放? どう自由にしろというのだ。このまま私を殺し、叔父が完全に狂気に落ちてしまうことが解放なのか。

なにもわからない。──このまま、妹のところへ行ってもいいということか?

(チェリカ)

──ああ、誰かあの哀れな叔父を縛っているものを取り払ってくれないだろうか。

──?

──叔父が、何に?

──時間がないのに、答えが……!



薄く揺らいだ視界に、青い髪が走りぬけるのが見えたのはその瞬間だった。




「うわあああああ!」

泣き声と叫び声が混じった悲痛な雄叫びを上げながら、トアンは走った。クラインハムトが視線を向けてくる。刃の小さなカケラが、トアン目指して飛んでくるのがわかった。

(オレはこんなのじゃ死なないぞ、馬鹿にするな!)

心の内側を、食い破りそうなほどせり上がっているのは怒り。背中に手を回し月千一夜を引き抜くと、シャリンと澄んだ音がした。

視界を赤い光がよぎり、光の刃を弾き飛ばす。──青い光を静かに放っていた月千一夜は今や、烈火の怒りに焦げそうなほど赤く染まっていることトアンは気を止めなかった。

「なに!?」

驚愕に瞠目し、舞台上でルノに向けて放つはずだった光の刃を構えようとするクラインハムトの隣に飛び乗ると、トアンはその手を振りかぶって存分に薙ぎ払った。



「────────!!!!」


引き攣った悲鳴を上げて、クラインハムトが傷口を押さえる。が、すでに彼の身体に異変が起きていた。しゅうしゅうと煙が立ち上り、クラインハムトの身体が収縮していく。

「!?」

ルノが反魔法を解いて、杖を支えにその場に片膝つく。そのまま崩れ落ちそうな様子に、シアングが咄嗟にルノの身体を支えてやった。

「大丈夫か。どういうことだ? あれ」

「……わからない」

肩で息をし、真っ赤な月千一夜を持ったまま立ち尽くすトアンの横で、クラインハムトの白い法衣はどんどん縮んで──崩れていく。

『私──……私……は……』

カラン、カラッ……

舞台の上にいるトアンの元に駆け寄ろうとしたウィルが、乾いた音にクラインハムトの方を見て──小さく叫んだ。

「なんだよこれ!」

「ウィル、何がある!?」

「これ……とにかく来い!」


ウィルに急かされるまま、シアングはルノを担ぐとクラインハムトの元へ近づいた。そうしている間にも煙は昇り続け、ついに法衣は床にかぶさるただの布になってしまう。

──その隙間から、真っ白な骨が見えた。

「乾いてる」

レインが法衣を摘み上げながら呟いた。

「昨日今日に死んだ骨じゃない。とっくの昔に死んでたんじゃないか、これ」

「……亡霊だったって?」

「だってそうだろ、もうこの法衣の中にはネズミ一匹いやしねぇよ」

シアングとレイン、ウィルの三人は顔を見合わせ、それからゆっくりとルノとトアンを見た。


──二人は声を殺すことなく、とうとうと涙を流して泣いていた。



「酷いよ……」



嗚咽に押しつぶされそうになった声をなんとか押しだして、トアンは膝を突いた。だらりと力なく垂れた腕から月千一夜がぽろりとおちる。カシャン、使い手の心を刺激しないようにと気遣われたかのような小さな音が、がらんとした部屋に響いた。

クラインハムトの威圧感も、狂気も感じない。何も感じないから、よりぽっかりと空いた空洞が鮮明に見えてしまう。

「酷いよ、チェリカは何のために……こんなの酷い、死んでたんなら、亡霊だったなら! どうして、どうしてチェリカを殺したんだよ! どうして追い詰めたんだよ……」

トアンの声が、響く。

ずるずるとしゃがみ込んで、ぽたり、ルノの瞳から溜まった涙が一粒零れた。

ルノの涙が落ちるたび、まるでオルゴールの、ぽろぽろとした高く澄んだ音がするような気がする。

「そんな、そんな権利ないだろ……あんなふうに痛めつけて、こんな別れ方、オレ、全然考えなかった……っ」

ぎゅっと閉じられた紫の両眼。しかし瞼の隙間から、涙は落ちる。

「いやだ……こんなの、いやだよ」


りん。


耳元で不意に聞こえた鈴の音。

トアンはゆっくりと瞳をあけると、すぐ間近でトアンを覗き込むレインの姿があった。──その瞳もまた、赤く、そして濡れている。

「……に、いさん……」

レインは眉を少し下げて、頼りなさげな、寂しそうな顔をしていた。──心配している表情だ、トアンはそう悟り、だがそれでも涙をとめることができずに喉を引き攣らせた。

「見ろよ、下」

「?」

「もう、昼間なんだな」

「……!」

透明な床からみる世界は、もう明るく太陽の光に照らされている。長いようで短い一夜はもう明けていた。──たった一晩で、自分は、大切なひとをうしなったのだ。

「ここにきてから、時間の経過がよくわからねぇ。でも、チェリカが最期にお前と会話してた時間は、五分もなかった。たった五分間で、チェリカは、……。」

まるでトアンの考えを読んでいたかのような口調でレインは告げ、トアンの腕を掴むと強引に立たせた。

「例えばだ」

レインはトアンを引き摺るようにして扉の前にたち、静かな声で告げる。

「五分で洗顔はできる。できれば時間をかけたいが五分でコーヒーは飲めるし、やろうと思えば五分あれば飯もくえる。五分って結構、いろいろできるもんだ」

細い指が扉をなぞる。トアンはレインの意図がわからず、ただ立ち尽くしていた。

「五分で、なくした。五分あればなくせるんだったら、取り戻せるかもしれない。──此処で死んだら、魂は閉じられた空間にいくんだろ? アルのいる『あっち』じゃなくて。」

「……そうか」

ごしごしと涙を拭いながらルノが顔をあげる。

「心繋ぎか! レインは空間をつなげられる!」

「そ。チェリカの魂ってヴェルダニアの一部だろ。一応神なんだ、そこらへんの人間よりしっかりしてる」

「でもネコジタ君、身体は? ……耐えられるのか?」

シアングが心配そうに問うと、レインは口の端を持ち上げて見せた。

「だから、五分だ。──正直、五分持つかわかんねぇけど……いってきな、トアン。帰ってこれなくても恨むなよ」


「う、うん! ありがとう兄さん! オレ、絶対つれて帰ってくる!」

「ああ、そう」

そっけない返事を返しながらも、レインの頬がほんの少し赤くなっていることにトアンは気付かないふりをした。意外に照れ屋なところがある兄だから、追求したら照れ隠しに強烈な一発をくらってしまう。──そんな顔で、チェリカに会えない。

そう、会えるのが前提だ。探しにいくのではない、連れ帰るのだ。ここに、皆の居るところへ。

「この扉から開く。先に言っておくけど、正直トアン一人通すのがやっとだから。……おい、ガキ。お前はオレのこと支えててくれ。意識が途切れたら、扉がしまっちまうから。ルノは扉の前にたって。トアンが帰るときの道しるべになるように、チェリカにお前の気配がわかるように。シアングはこっち」

テキパキと迅速に指示をだし、レインは扉から数歩下がった位置にたつ。扉のすぐ前にはルノがいて、トアンが隣に立つと頭を下げた。

「トアン、頼む。本当は私が」

「いいんだよ、無駄に足が速いんだから。ルノじゃ途中で時間切れだ」

「な、なんだと!」

トアンが答える前に、レインは肩を竦めてひやかした。トアンはただ笑って、言い返すことはやめておく。

わかっている。今なら、ものすごくはやく走れる気がするということ。

「ひらくぞ」

出かける、というような軽い口調でレインが呟いた。次の瞬間、眩い光を発する扉にトアンは駆け出していた──……


「こっちだよこっちだよこっちだよ」

「ふふふふふ、ふふふふふ」

「置いていかないで置いていかないで」

「まって、まって、まって……」

声の洪水だ。老若男女様々な声が、真っ白な空間を埋め尽くしている。

「チェリカ! どこ!?」

ごうごうと押し寄せる声を押しのけ、トアンは足を進めた。だが強風のように声は容赦なくトアンを渦巻き、飲み込んでしまう。

「どこにいるんだよ──!」


「あれ?」


叫んだ瞬間、誰かの声が聞こえた。すぐ後ろだ。

すると声の洪水は嘘のように静まり返った。

「ああ、やっぱりきたねぇ」

からからとした柔らかな声は聞き覚えがある。だが勢いよく振り返っても真っ白な空間が続いているけで、その人物の姿は見えなかった。

「探しても見えないよ」

声は、すぐ後ろにいる。すぐ後ろに誰かが居て、トアンに背中を預けている。

「チェリカを探しにきたんでしょう? 大丈夫、見つかるよ。十五番目の扉を叩けば、きっと一緒に帰れるよ」

「十五番目……?」

「二十一色の虹をわたって、沈んだまあるい環の内側を潜って、十五番目の扉を叩くんだ」

優しい口調が耳を撫でた瞬間、トアンの身体は光の奥に引っ張られていった。──いや、落ちているのだ。突然足をつけていたところが壁になり、遙か遠くまで広がる空間が底になる。

「うわ、うわ、うわわわわわ──!」

「忘れないで、決して間違えちゃいけないよ」

落下中のトアンのすぐ傍で、すぐ後ろで、優しい声が聞こえた。

「わ、忘れません! 覚えました!」

「よかった、俺にできるのはここまでだ。五分のうちの三十秒は経過したよ、あと、四分三十秒。二分十五秒でチェリカを探すんだ!」

眼下に見える光の底が、ゆっくりと開いていく。その先に見えるのは──真っ暗な世界。

吸い込まれていくトアンの瞳に、緑色の法衣と真っ黒な髪、そして優しい森の緑の瞳が一瞬映った。

──やはり。

「……ルライドさ──ん!」

ありがとう、そこまで発する前にトアンは吸い込まれ、法衣の男はぽっかりとあいた穴から闇の世界を見下ろす。


「がんばって、トアン。──チェリカを助けても、まだ終わらないよ」


男は悲しそうに眉を顰め、両手を組んだ。



ぐん……

重い音と共に重力が再び元通りになる。──いや、元通りではないかもしれないが、とにかくトアンの足は地についた。

辺りを見渡して唖然とする。そこは高い崖のようなところで、だが後ろには道はなかった。崖の様々なところから虹が伸びており、眼下をきらめく海の上を通っている。

空を見上げれば明るいのに、真っ暗で夜のようだった。

「ええと、二十一色の虹をわたって」

先程アルライドから教えてもらった言葉を思い出す。真っ黒で黒一色の虹、やたら様々な色が混じってぐちゃぐちゃな虹、……真っ白な虹。

だがいくら探しても二十一色の虹なんて見つけられない。

「……時間がないのに」

トアンは若干焦りを感じつつ、もう一度虹を見渡してあっと叫んだ。

先程見た真っ白な虹が、少しずつ色を変えていく。白から薄い桃へ、普通の桃へ、濃い桃へ、そして赤──トアンの見つめる目の前で、虹は次々と色を変え、最終的に白に戻る。色は、戻るまでに二十一色に変わっていた。

「これだ!」

少し低い位置にある虹に構わず飛び降りる。わたって、というアルライドの言葉通り、それはトアンをすり抜けることがなく道として存在していた。

決して道幅は広くないのだが、トアンはもうひたすら走っていた。アルライドは誕生の守護神。こちらのことに干渉してはいけないはずだ。そんな彼が態々チェリカの魂を探し出し、トアンに道を教えてくれたのがとてもありがたかった。

暫く走ると虹はゆるやかな坂になり、海に続いていた。きらめく水面にまるい環が見える。──沈んだ、まあるい環の内側を潜る。

迷う暇などないのだ。トアンは足を進める。バシャン、という水音と頬を水が撫でる感覚は確かにしたのに、それは唐突に終わった。


こつん、足が硬い地につく。驚くことに自分の身体はどこも濡れていなかった。

視線を走らせると、今度はまるで洞穴の中のようだ。出口のない洞窟の中には石で作った小さな扉が沢山ある。──恐らくこれらのどれかが、『叩くべき十五番目の扉』なのだ。

(どこから、十五番目?)

なにしろ入り口も何の目印もない。今トアンが出てきたまるい環を囲むように扉は並んでおり、丸いドーム型の洞窟の天井付近まで扉はあるのだ。

トアンは焦りに唇を噛みそうになるのを堪えた。ヒントは何もない。……十五番目という言葉以外。

(考えろ、考えるんだ。十五、十五……十五?)

もう一度あたりを見回したトアンは──目を見開いた。


ひとつの扉の前に、いつの間にか男が立っていた。白く輝く髪がふんわりと広がり、前髪が長くその表情を隠している。そしてその長い前髪は一部分だけ赤で、まるでトアンは自分の髪を色違いにさせたらこんな感じになると無意識に思っていた。

「見つからないのか」

「……え?」

男が口を開く。──トアンは少し眉を顰める。

「お前は、なにもできないのだな」

「何だと!?」

赤い前髪から少しだけ瞳が覗く。──そこにはトアンと同じ紫の色があった。

「探しているものはここに居る」

「……え?」

「早く出してやれ、時間がないのだろう」

そういうなり男はトアンに背を向けて歩き出した。トアンは時間のなさを男の言葉で思い出し、無理矢理関心をそらすと扉に手をかけた。

──瞬間。


「我が名はハルジオン。我が託した月千一夜、精々錆びさせぬよう気をつけろ」



反射的に振り返ったが、そこには誰も居なかった。──その代わり、一枚の鏡が浮かんでいて、それはすぐに砕けて消え去ったが、トアンの心に、それは直感として届いていた。


(いまのは、オレだ……)


「いや、今はよそう」

わけのわからない感覚に呆気にとられてしまうも、ああそうだった時間がないのだと思い出して扉に手をかける。

ごりごりごり、ゆっくりゆっくりと低い音を立てて石でできた扉がスライドしていく。先程の彼──ハルジオンを疑うことは、トアンはしなかった。彼は今、嘘をつかないと何故か知っている自分が少し悲しかった。今ならシアングの気持ちがわかる。ああ、そうなんだ。この感覚は、恐らく、いやもう確信だ。彼が自分の──……

「……。」

トアンは勢いよく頭を振って考えを弾き飛ばした。

扉があくにつれ中から光が漏れ出し、トアンは隙間に指をかけると一気に開け放った。


「チェ……リ、カ」

小さな空間に、チェリカは居た。胎児のように丸くなって、膝を抱えて。白い肌は淡く発光し、そして彼女は身体に何一つ纏っていない生まれたままの姿だったが、不思議と変な気分にはならなかった。──彼女の様子が、あまりにも神々しかったからかもしれない。

「チェリカ」

返事はない。

恐る恐る手を伸ばし、その身体に触れる──良かった、触ったそばから光になって分解されることはなかった。トアンの指は、確かに彼女の肌に触れている。グローブ越しに生命の鼓動が伝わってくるのがわかる。

「チェリカ!」

強い呼びかけに、瞼がぴくんと震えた。ゆっくりゆっくりと瞼が開いていて、晴天の美しい瞳がトアンを見た。──吸い込まれそうだ。

「出ておいでよ、そこは狭いでしょう」

「……。……トアン? どうして、ここに?」

のそのそと、まるで寝起きのように小部屋から這い出してきた彼女の身体はまだ発光していた。神秘的なその裸体をまったく恥じる様子は相変わらずなく、何度か瞬きすると青い瞳ははっきりとした意思を取り戻していく。

──ああ。

チェリカの姿が不意に揺らいだ。慌ててチェリカの腕をしっかりと掴むが、確かに存在している。何故こんなにも揺らいでいるのかとトアンが疑問に思う前に、チェリカの指が優しく目尻を拭ってくれたことで自分が泣いているのだと知った。

「泣かないで」

「……っ、良かった……」

「え?」

「また、会えた。良かった、良かった……」

堪えきれない嗚咽に喉を鳴らすトアンをそっと抱きしめ、チェリカは優しく囁いた。

「私もね、まさかここまで君が追いかけてくるとは思わなかったよ」

「う、……う」

「ありがとう、見つけてくれて。本当に嬉しい」

耳を擽る柔らかい音に、トアンはほんのりと頬を染めて、それからチェリカに向き直る。

「じ、時間がないんだ。もういこう」

「そうなんだ」

いうなり、するりとチェリカの腕は離れてしまった。トアンはそれを少し寂しくおもってから、その手を握る。

「かえろっか」

「うん」

再び彼女の笑みが見れたことをとても誇らしく思いながら、トアンは環に向かって駆け出した。


ざば、海面から勢いよく顔をだし、虹に足をかける。チェリカのはひらりと身軽に跳躍し、トアンがあがるのを手伝ってくれた。

「あ、ありがとう」

「ううん、いいよ」

女の子に手伝ってもらうのは恥ずかしいのだが、チェリカは全く気にしていないようだ。──ここにいるのは、彼女の魂。ひょっとすると重みを感じないのかもしれない。

名誉挽回とばかりにチェリカの手をとって虹の上を走る。虹のすぐしたで、きらきらと海が輝いた。


「ねえ、トアン」

もうすぐ崖がある。丁度真ん中ほどまでいったところで、チェリカが声をかけてきた。

「なに?」

「あのさあ、なんか変だよ。あれ」

彼女が遠くを指差す。つられてトアンも首を向けると、遠くの海が崩れていくのが見えた。──タイムリミットが近いのだ。

あれに飲み込まれたら、もうかえれない。

トアンは無意識のうちに感じ取り、焦りのにじむ声でチェリカに言った。

「急ごう、時間がないんだ!」

今こちらにきてどれくらい時間が経ったかわからない。五分と、兄は言った。だがしかし、本当に五分ぴったり兄は扉を開けていられるのだろうか?

──もしかしたら……

ぶんぶんと頭をふってその考えを打ち消すと、トアンはひたすら足を動かした。漸く崖にたどり着き、足をつけた瞬間上空に引っ張られる。これは行きにとおった穴だろう、暫くたってからぽんと引き抜かれる感覚がして、真っ白な世界にトアンはチェリカと居た。身体は来たときと同じように落ちていく感覚がない。何か変だ、そう思った瞬間辺りの白い空間が大きく揺らいだ。



「トアン……道がないよ」

チェリカの不安そうな声が小さく響く。大丈夫だよ、そういおうとしてトアンは何もいえなかった。

道がない。それはただ単に踏み固めた、もしくは足をつける場所がないという意味ではない。行くべき方向がわからないのだ。チェリカはそれを言っている。

真っ白な空間。壁に手をつければ、そこだって上っていける。下がっていくこともできる。上下左右全ての角度に足を進めることができるのだ。

「ど、どうしよう」

「うーん」

ここで迷子にように項垂れるしかなかった。道がわからない、仲間の居るべきところへ行くにはどうすればいい?

「時間もないんだよねえ」

チェリカの言葉にハッとすると、白い空間がゆっくりと崩壊していくのが見えた。

「……ここまで、か。ごめんねチェリカ」

「諦めちゃだめだよ。君はとにかく帰らなきゃ」

「チェリカに会えてよかった……」

「もうトアンったら! なんとかなるよ、大丈夫だって! ……あ」

すっかり落ち込んでしまったトアンを励ますチェリカだったが、不意にきょろきょろと辺りを見渡し始めた。

「チェリカ?」

「聞こえる……ねえ、この歌……」

「歌?」

微かな、声。

だがトアンはその声を探し当て、耳を澄ませた。


『日が暮れたからうちに帰ろう

太陽が消えたらうちへ帰ろう

君を探しに今すぐいくよ

帰ろう、帰ろう……』


「お兄ちゃんの歌だ!」


チェリカがにっこりと笑って握ったままのトアンの手を揺らす。

「そっか、ルノさんが道しるべになってくれてるんだ! これで帰れるよ!」

トアンとチェリカは頷きあうと、ルノの歌が導くほうへ走り出した。


『ああ、僕は君におかえりを言うから 帰ろう、帰ろう』


ルノの歌は白い空間に音の道をつくる。二人はただそれを頼りに、崩壊していく世界をひたすら走った。

「頼む、間に合って!」

道の先に見える扉が、徐々に閉まってしまう。トアンはもう足が折れるほどに蹴り上げ、閉まっていく扉に身体を滑り込ませる。



『おかえり──』


眩い光の中で、ルノの声が優しく響く。

バタンと、扉が閉まる音が、背後できこえた。





ふわふわとした頼りない感覚から一転、しっかりとした地面に足がついた。強く白い光に奪われた視力は徐々に回復していく。──重力を感じる。そう思った瞬間、がばりと抱きしめられてトアンは息を詰まらる。ゆっくり、ゆっくりと取り戻す視力に、銀の髪が映った。

「ルノさん……」

「……良かった、間に合って……」

薄いその肩が震えている。トアンはそっとその肩を叩き、振り返って目を丸くした。


そういえばチェリカは、服をこちらにおいていったため何も見につけていなかった。

一瞬慌てていたトアンだが、そこに立っていたチェリカは真っ白な法衣をきていた。まるでクラインハムトが着ていた様なものだったが、不思議とあの嫌な威圧感は感じない。──神という言葉が、あの男にいうよりよっぽどふさわしい。

「チェリちゃん……」

「ただいま、シアング、お兄ちゃん」

ゆっくりとルノがチェリカに手を伸ばすと、チェリカはにっこり笑ってその腕に飛び込んだ。衝撃にルノの身体が揺らぐが、ルノは倒れずにしっかりと妹の身体を受け止める。

「良かった、良かっ……かえってきて、これて……良かった……」

「……歌、聞こえたよ。おかげでかえってこれた」

しゃくりあげるルノの首筋に顔を埋めて、チェリカが小さく囁く。

「ありがとう」

「礼なんて……っ……かえってきてくれただけで、私は……」

「うん」

「お前を、守ってやれなくて……ちっとも、……わかってやれなくて」

「違うよ、守ってくれたよ。わかってくれた」

チェリカはルノから離れるとこつりと額をあわせて、ルノの瞳から零れる涙を拭う。

「本当にありがとう」

「……っ」

チェリカの笑みにルノは目を見開くと、それからにこりと笑ってみせた。シアングがそっと二人の隣に立って優しく双子の頭を撫でる。

「本当に、よくかえってきてくれた……」

見ているトアンは、じんとこみ上げる暖かなものに、先程までとは違う涙をそっと零した。

「……クラインハムトは解放されたんだね」

「チェリカ……知ってたの?」

「うん」

トアンに向き直り、チェリカは少し悲しそうに目を伏せる。

「お父さんとお母さんに対する歪んだ愛情が、あのひとを縛り付けてたの。……私にはそれを解放できなかった。トアン、ありがとう」

「……チェリカは優しいね。君をあんな目に合わせたひとでも、そんな風に言えるなんて」

「だって本当に、あのひと、悪くないんだよ。ただお父さんが眩しすぎて、お母さんがたまたま敵対するはずの種族で、それでも二人を好きだったから。愛と憎しみは紙一重だって、ヴェルダニアが昔言ってた。ああ、こういうことなんだって思ってたんだ」

私にはまだ、ちゃんと理解できない感情だけど。そういってチェリカは口元に手をやる。

「助けてあげたかった。どうしても……トアンには感謝しても足りないね」

「い、いや、その……あれはルノさんが」

「トアン、いいから受け取っておけ」

ルノがくすくすと笑いながらトアンの背をつついた。トアンは赤くなった頬を冷ますように首をぶんぶんと振っていたが、ルノは笑い声を上げたまま。

「もう、何笑ってるんですか」

「いや、お前がこんなにもわかりやすいとは」

「ルノさんに言われたくないですよ……」

はあ、とため息をついてチェリカに視線をやる。チェリカはしゃがみ込んで、──レインを見ていた。

レインはウィルに身体を預けるようにして荒い呼吸を繰り返し、それでも口元に笑みを浮かべている。ウィルがその身体を軽く擦っているが、その蒼白な顔色は一目で体調の悪化を教えていた。

ルノがかけよって手を翳す。トアンは先程までの誇らしい思いがばちんとはじけ、代わりにどうしようもない不安が胸を締め付けていくのを感じた。

「に、兄さん!」

チェリカの隣にしゃがみこむ、というよりは崩れ落ちるようにしてトアンは目線をあわせ、その顔を覗き込んだ。ぴくりと瞼が震え、レインが目を開く。──その瞳に、強い光がない。

「……よう」

「よう、じゃないよ。……無理してたんだね」

チェリカが少し怒ったような口調でレインの手を握る。

「んなの、たいしたことじゃ……ねぇよ」

薄い唇が一言一言、ゆっくりと言葉を紡いだ。掠れた声だ。レインは瞳を動かしてトアンを見ると、笑みを誇らしげなものに変えた。

「トアン、頑張ったな。ちゃんと見つけてこれたじゃねぇか」

「……兄さん」

「わりぃな、五分って、言ったけど……ちょっとばかり時間が足りなくなっちまった。でも、まあ、よく帰ってこれたな」

「ルノさんが歌ってくれたんだ。……やっぱり、あのとき世界が崩れていったのは、兄さんの身体が……」

あの時感じた不安は、やはり正しかったのだ。唇をかみ締めるトアンの隣で、チェリカがルノに容体を訊ねている。

「……この、ガキが支えててくれたんだ。あとで礼、言っといて」

ルノとチェリカの様子をどこか他人事に見ながらレインが背後にいるウィルに視線を向ける。

「自分で言ってくれよ。オレ、ここにいるぞ」

「イヤだよ……面倒くさいから」

「ったくもう。……トアン、お帰り。見てたぞ、やったじゃん」

ぐっと親指を突きたて、レインを真ん中に挟んでウィルとトアンはそっと笑った。

「ありがとう、ウィル」

「それはオレのお帰りに対してか? それともレインの世話をしてたから?」

「両方」

「……てめぇら、勝手なこと言ってんじゃねぇよ。なんだよ世話って」

レインが苦虫を噛み潰したような顔で文句をつける。ウィルが笑い、トアンも笑った。──心配させないように、普段は冷たく突き放すレインがのってきたことが分かっていたから。

(兄さん、本当に具合が悪いんだ)

笑いながらトアンは心の中で呟き、チェリカが握っている手にグローブをとって自分の手を重ねてみた。……驚くほどに、冷たい手。

(まさか、死んじゃったりしないよね)

グローブをつけて、もう一度手を重ねる。冷たさは感じないが、その分不安が募った。ウィルと目が合うと、彼もまた不安に顔を曇らせている。

「なあ、世界の存続どうすんの」

辺りを物色していたシアングが呟くと、ルノがそれに呆れながら答えた。

「あたりまえだ、存続だ存続。見えるだろう、下に人々の生活している家が。それを奪う権利なんて私たちにはない」

「ま、そーだよな」

シアングは右手の人差し指で、舞台の床に存続、という文字を書いた。文字は光り輝き、すぐに溶ける様にして消えてしまう。

「よし、終わった終わった」


じり、耳元を何かが擦れ合う音が掠めたのはその瞬間だった。

トアンは顔をあげ辺りを見渡す。気のせいだったと思う前に、もう一度聞こえた。じん、と先程よりも鮮明に。

「どうした?」

キョロキョロと忙しなく首を回すトアンを不審に思ったのだろう、ウィルが声をかけてくる。

「い、いや……」

「なんだよ、何か気になるのか?」

「変な音がするんだよ。今……ほら、また聞こえた!」

「音? オレは聞こえないけど……」

耳に虫でも入ったんじゃないのか、というウィルの言葉にトアンは反論しようと口を開いた。──が、それに自分の声が発せられる前にチェリカの声が重なる。

「──くる!」

「へ?」

「くるよ! おっきい力が──繋がる!」

ジジジジジジ──まるで蝉のような音と共に、床が光った。何が、そう思うと同時に身体がほんの少し浮く。

「チェリカ、どういうこと!?」

ゆっくりと足が光る床から離れることにトアンは恐怖を覚え、早口でチェリカに問いかける。ところがチェリカは落ち着いた瞳でトアンを見返すと、トアンと同じく動揺していたルノの手をシアングに預け、大丈夫、と返した。

何が大丈夫なのか──トアンが理解する前に、眩い光に目を閉じることになった。光は一瞬で終わり、浮いていた力がなくなりトアンはどすんとしりもちをつく。──痛く、なかった。グローブにかさりとした感覚が伝わってくる。先程まで透明な床だったそこは、今や真っ赤な花が咲き乱れる花畑になっていた。

いや、花畑といっても、城の一部屋をそのまま花で埋め尽くしたといったほうが正しい。薄暗い空間の四隅には太い柱があり、ここが室内なのだと教えていた。天井は高いドーム状になっている。


「……どういう、ことだ?」

全員の無事を確認してから、ルノがチェリカに会話を振った。チェリカはまるでてるてるぼうずのような白い法衣から右手をだして、赤い花に触れる。

「繋がる、とは? それに、ここは」

「……。トアンは気付いたよね」

「あの、音のこと?」

「そう。きっとそれ、ブレイズライムとここを繋ぐ力の音だよ。私には聞こえなかったけど」

「……オレも聞こえてたぞ」

花に埋もれるようにしていたレインが呟くと、起きろよ、とウィルがその手を引っ張る。

「この花、いいにおいなんだ」

そういいながらレインは花を一本摘むと、その香りを楽しむように顔に寄せた。どこかとろんとしたレインの様子にウィルが眉を寄せる。

「トアンとレインだけしか聞こえなかったということは、夢幻道士の力か?」

そういいながら腕を組むレインの頭には、チェリカお手製の花輪が乗せられていた。

「まあ、いいんじゃないの。危険はなさそうだし」

「シアング、お前な。まだそう分かったわけじゃないぞ」



「危険もなにも、お前だってくつろいでるだろうに。夢幻道士の力ってのも突飛した考えじゃねーの? オレも聞こえなかったけど、気付かなかっただけかもしれない」

「そうか、なあ……チェリカ、もういらないぞ。遊びのためにあんまり摘んでは花も報われない」

ルノにとめられて、チェリカは製作中だった花輪を見下ろした。今あるだけの長さで輪をつくったら、腕輪にしかならない。

ルノは長袖だから腕輪はすこし邪魔かもしれない──チェリカは隣のトアンの腕をみた。

「トアンにあげるよ」

「え?」

「ほら、でーきた」

意外に器用なチェリカの指が、トアンのグローブの上に赤い輪を飾った。トアンは照れながらも礼をいうと、顔を近づけて花の香りを吸い込む。

「──懐かしい」

「ん?」

「この花、凄く懐かしい気がする──ねえ、ウィル。これなんていう花?」

「わかんねえ。見たことある気がするんだけどなあ……つい最近。」

「最近?」

「うん、なんだろう。名前を聞こうにも、こうやって触ってても何も伝わってこない。黙秘されてる」

かりかりと頬を掻きつつ、ウィルはレインに視線を送る。レインは花がすっかり気に入ったようで、座り込んで花に囲まれていた。ルノがその隣に座っても、邪険に追い払うようなこともしない。

「レイン、体調は?」

「……ん、ああ、よくなった」

「よくなった? あれほど疲労していたのに?」

「うん、この花のおかげだ……」

「──レイン? 大丈夫か?」

「うん、平気……」

まるで幼い子供のような声、口調。彼にしては珍しい、いや、彼は絶対にしないであろうその様子に、ルノはこの花がなにか変な作用があるのではないかと頭の上の輪に触れる。が、自分の意識ははっきりしているし、花を漁って遊んでいるチェリカもピンピンしている。──そもそも、こんな室内の花畑の存在に、そして何故自分たちが此処に連れてこられたのか考えるべきだったのだ。だが、シアングですらすっかり警戒を解いてチェリカと遊んでいるところをみると、何か自分だけが頭の固い子供のように思えてしまう。

(しかし、レインのこの様子は──)

ウィルも不安そうにレインを見ている。トアンも花を持ちながら、心配している。

「ルノさん、兄さん、どうしたのかなあ」

「……うむ、よくわからないのだが……この花危険ではないのだろうか。私たちはなんともないが」

「でも麻薬とかそういう花じゃないと思うけど」

ウィルにそういわれては、ルノはそれ以上何も言えなくなってしまう。相手は守森人。森に生き、植物と会話できる存在だから。


「わあ!」


鬼ごっこに夢中だったチェリカが突然悲鳴をあげた。シアングが駆け寄り、一瞬固まってから声をあげる。

「ちょっと、お前等きてみろ!」

二人はトアンたちを早く早くと急かす。トアンは立ち上がり、ウィルと一緒にレインの身体を起こすとルノの背を押し駆け出した。


「どうしたの!?」

「これ、これ」

チェリカが花を指差して眉を下げる。──いや花ではない。チェリカが指した花を掻き分けて地面を見ると──

「なんだ、これは」

ルノが掠れた声で呟いた。

地面にはガラスケースが埋まっており、

ケースの中にも赤い花がぎっしりと詰まっている。そして花に囲まれて、一人の若い女が眠っていた。

柔らかくウェーブした金髪、雪のように白い肌。トアンは彼女が誰だか知っている。


「母さん……」


口が、勝手に言葉を紡いだ。

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