第47話 サイレンの鳴り響く夜に

「チェリカが……戻ってない?」


祭りの夜も更け、人々がそれぞれ家に帰っていった深夜。心配に顔を曇らせたルノが部屋の扉を叩いたことで、トアンはチェリカの不在を知った。ルノが右手にもったランプが暗い廊下をぼんやりと照らしている。

「トアン、しらないか? てっきり私はまだお前と出歩いてるのかと思ったがお前はいるし、食堂にもいないし……部屋に帰ってきた形跡はまったくないし」

「……!」

チェリカのこと、といえば自分が申し込んだパートナーの契約を思い出し、トアンははっと瞳を見開いた。まさかチェリカは、ショックのあまりどこか遠くへ行ってしまったのではないか?

「何か知ってるのか」

「う、うん……いや……」

「なんだ、はっきり言え」

焦れたようなルノの声に、トアンは観念して言葉を吐き出した。

「……オレ、実はさっき、チェリカに契約を……」

「契約? ……パートナーのことか。それで?」

「う、うん。返事は聞かないで逃げ出してきちゃったけど……。まさか、チェリカ」

「……何を言い出すかと思えば」

と、トアンの予想に反して、ルノはけらけらと笑い声を上げた。

「キスだろう? お前が気にしているのは。チェリカはそんなことじゃショックを受けないさ」

「そ、そうかな」

「そうだ。考えても見ろ、男の前で平然と服を脱ぐような羞恥心のないやつだからな」

「……う、うん」

「…………しかし、では何故?」

すっと顎に手をやって考え込むルノ。ランプの明かりがゆらゆらと揺らめき、紅い瞳の中で燃えた。

「まさか、誘拐とか」

「あのチェリカを? 犯人が燃やされてしまうぞ」

「そうですよね……。じゃあ」

トアンが次の考えを発した直後。


「きゃあああああ!」

「うわああああ!」


「な、なんだ!?」

突如外から聞こえてきた悲鳴にルノが身震いをする。

「なんだよ、こんな真夜中に」

「なんだなんだ?」

すぐにシアングと寝ぼけなまこのウィルが部屋から出てくるが、外の悲鳴は収まるどころか増え続け、古い宿屋はびりびりと震えるほど大きくなっていく。

流石に異常事態だとわかったトアンが宿の外に飛び出していくのに続いて、ルノ、シアング、ウィルも後を追った。


「トアンさん!」

悲鳴の中で名前を呼ばれ、振り返ると血相を変えた村長がいた。

「どうしたんだ、この騒ぎは」

後ろから顔をだしてルノが問うと、村長は夜空を指差した。──いや、夜空の一点を。

「あれをご覧ください」

「え?」

つられて全員が顔を上げると、そこには輝く流星群の中に一際大きい星があった。しかしただの星ではなく、真っ黒な球体だ。その球体を取り囲むように光の魔方陣が出現し、ゆっくりと明滅している。

「星祭りの夜に光る黒星……元々この祭りは天にあるといわれている浮遊大陸、エアスリクのことを祀ったものでした。ご存知でしょうか?」

「ご存知もなにも……」

トアンはちらりとルノを見る。トアンの視線の意味を悟ったのだろう、ルノが頷いた。──ここに、その住人がいるのだと。しかし当然といえば当然だが、村長にはわからなかったようだ。

「あ、聞いてます。旅が長いもので……神が住むという大陸ですよね」

機転を利かせてシアングが言うと、村長はゆっくりと頷いた。

「でもエアスリクの存在は伝説のものでしょう?」

「はい。……ですがこの村は、かつて『導きのひかり』が世界を照らしたときに選ばれた賢者が残したものとされているんです。あの洞窟は元々、賢者が旅立ったときに残したものといわれています」

「賢者が……?」

「しらないのか」

首を傾げたトアンに、ルノが耳打ちしてくれた。

「う、うん」

「導きのひかり、というのはエアスリクの王族に突然あらわれる力で、世界の存続を決める六人の賢者を決めることが使命とされ存続を決める場所──ブレイズライムに導くことができるんだ。以前導きのひかりが発動したのは大昔──ハルティアの伝説のころだといわれている。結果的には、この世界は結局存続することになったんだ。また、エアスリクには導きのひかりはハルティアからの審判の委託だとも言われているな。タルチルクのような修正する者のように、人間から一歩遠ざかった存在の力だ」

「そうなんですか」

途方もなく遠い話を、ぼんやりとトアンは聞いていた。

「……まあ、伝説といえばそれだけだ。やっていることはまるで神だろう? 世界の命運を握っているのだからな。エアスリクが神の国といわれるのもコレの所為だ」

「元々シャドウが欲しがってたのもこの力じゃないか?」

ぽつんとウィルが呟く。

「ハルティアだのなんだのいろんなこと言ってたけど、チェリカが──……! そうだ、チェリカだ! ルノ、チェリカはまさかその力を持ってるんじゃないか!?」

「もってるぞ」

「おま……っ軽いなぁ」

「ああ。父さんは持ってなかったが、実際エアスリクには何代目かの間隔で導きのひかり──即ち、ハルティアからの力を持って生まれる者がいるんだ。発動こそはさせず、また次の後継者に力を受け継がせていたのだがな。チェリカは……いいにくいが元々はエアスリクの血を引く身体だから。幼いころはあの子、まさしく神の子といわれていたさ」

「邪神の魂に女神ハルティアの身体かぁ……あいつも大変だなあ」

「そういうウィルも大昔の身体だろう」

「オレはいいの」


「あの、よろしいですか?」

「すいません、続けてください」

トアンたちのこそこそとした会話に入れず、村長は困ったような顔をしていた。

シアングの言葉に彼の顔がパッと明るくなる。


「そのときの賢者の言い伝えで、『次なる導きのとき、天空に黒星現れば夢と現……』というものが残されているんです。途中で途切れてしまってるんですが、満点の星の中の黒星は不吉なモノとして思われてきました」

「だからこの悲鳴か」

「ええ。長い旅の間、あの星についてなにかご存知ではないですか?」

「いえ……すいません」

トアンが頭を下げると、村長も深々と頭を下げた。

「そうですよね……。とにかく私は村の者を静めてきます。皆様はどうか、ご用心されるよう」

そういい残し、村長は悲鳴の中に消えていく。

「……嫌な予感がするな」

瞳を伏せ、ルノが呟いた。


どろり。

一瞬の寒気と違和感にトアンは身震いしたが、どこを見渡しても今の悪寒の原因は見当たらない。

「トアン、どうした?」

不思議そうにルノが問う。トアンはうん、と返事を返し、再び辺りをきょろきょろと見渡した。

「なんだろう、嫌な寒気が……チェリカは何処にいっちゃったんだろう」

不安だけが募っていく。空に浮かぶ不気味な黒星、彼女の不在。トアンが眉を寄せた、その視界に──……


夜空の下でもよくわかる、淡く発光した蝶が映った。蝶はまっすぐにこちらに──トアンに向かって飛んできている。そして、すぐ傍まで来ると突然蝶が鋭い歯を生やした口に変形し、トアンに襲い掛かった。

「うわ!」

「トアン!」

咄嗟に手で自分を庇うが、ルノの悲鳴に反応したシアングが左手で叩き落してくれた。それは地面に落ちる直前に四散し、闇に散る。

「な、なんだ今の」

明らかに敵意のあった光の蝶にウィルが顔を顰めた。

「わ、わかんないよ。シアング、ありがとう」

「……いや、まだ早い」

「え?」

いつになく緊張したシアングの声にトアンは視線を走らせ──愕然とした。村の入り口からこちらに向かって、巨大な淡い光の群れが近づいてきているのだ。人々が悲鳴をあげ逃げていくが、蝶は村人たちには見向きもしない。──狙いは、自分だと直感した。

「気持ちわりいー、いっぱい来るぞ」

うえっと吐くまねをしてみせるウィルにシアングは笑ったが、すぐに弾かれたように顔をあげる。

「アレはもこの村を囲んでいるな」

冷静にあたりを見て、ルノが言った。洞窟に続く長い階段も光の群れで蠢いている。──逃げ場は、ない。

「何が目的なのだ?」

「……オレ、かなあ」

「しっかりしろ、そうと決まったわけではないだろう。……チェリカも無事かどうか……」

「ルノさん……」

「まあ、あの子は強運だからな。ところでシアング、先程から何を見ている?」

隣にいるシアングを見上げ、ルノが首を傾げた。シアングはすぐに、鋭い瞳を一瞬緩めてルノと向き合う。

「またあいつの気配がする」

「あいつ? ……セイルか?」

「あぁ。この蝶のお陰で何処に居るかわからないけど。とにかく一端戻ろう。……ネコジタ君を一人にしとくのもまずい」

「レイン!」

シアングの言葉が終わらないうちにウィルが駆け出す。その後姿を追って、トアンも走り出した。

(チェリカ)

宿に飛び込んで戸が閉まる瞬間、もう一度禍々しい光に覆われていく景色を見る。

(何処にいるんだよ──!)


「とにかく……一度、体勢を整えよう!」

古びた階段を駆け登りながら、ルノが途切れ途切れに言った。

「あの蝶の狙いがトアンなら……いや、今まで蝶が意味してきたことはレインのことだ! 恐らくお前たち兄弟が危ない! 私たちが……わ、ああ、すまないシアング……散り散りになることは避けよう」

見かねたシアングがルノをひょいと抱える。ルノは決まり悪そうな顔をしながら、真剣な声で隣を行くトアンに言った。

「わかってます!」

どたどた、ギシキシ。四人(走っているのは三人だが)の悲鳴に階段が悲鳴を上げる。いまにも段が抜けてしまいそうだ。

「チェリちゃんもどこかに避難してるといいけど」

「うむ……」

だだだだ、だん! 一際騒がしい音を立てて階段を登りきり、隅の部屋に直行する。

「レイン、無事か!」

ウィルが名前を呼ぶと同時にドアを開けた──瞬間。

サァ──……

幾重にも重なった淡い光が溢れでる。その正体は外にいた蝶だが、すぐさま切り裂かれて四散した。

だが、その蝶の群れを切り裂いている人物をみて、ルノがあっと声を上げる。

「……どうして!」

「なんでお前がここにいるんだよ! セイル!」

そう、驚くことにセイルだったのだ。

ルノをそっと降ろしてから、シアングが鋭い声で言い放った。言われたほうは煩そうに顔を上げるが、ルノを見て表情を崩した。

「ルノちゃん!」

「だからちゃん付けすんなって」

「シアングには言ってないのよ。……お願い、スノーを助けて!」

「ス、スノー?」

セイルの言葉がわからずにいるルノを見て、焦れたようにセイルが首を振る。

「スノーの力が暴走してるの! この蝶はここら一帯に染みこんだ血が、スノーの力に反応してるのよ!」

バシュバシュと蝶を斬り捨てながら、セイルがレインを指さす。此処で漸く、ルノは彼の言う『スノー』がレインだということが分かった。

レインは眠っていた。……が、苦しそうに眉を寄せており、大粒の汗が浮かんでいる。

「スノーは記憶と力を戻ったけど、それがコントロールできないのよ」

「ど、どうすればいいんだ?」

ウィルとともにルノはレインに駆け寄るが、次々と生まれる蝶をが邪魔でどうしようもできない。


「ルノ、彼の額に治癒の光を!」


不意に鋭い声がトアンの後ろから響いた。トアンは振り向こうとしたが、その声の主の青いマントが、トアンのもとに舞って来る蝶からトアンを守るように広げたため、顔が見えない。──だが、声は聞いたことがある。女性の声だ。

「わかった!」

ルノは指示にしたがってレインの額に光を当てる。途端に、というわけには行かず徐々にレインの汗は引いていき、部屋をとびかっていた不気味な蝶はゆっくりと消滅していった。



ふんわりとはためいていたマントが揺らぎ、トアンにもその顔が見れるようになる。

黒に近い青の髪、神官の証である白い十字架を縫い付けた黒い法衣、そしてフレームのない眼鏡の奥で光る紫の瞳。二十代半ばの女性はトアンと目があうと微笑んだ。

「ヴァリンさん!」

「お久しぶりですね」

優しく告げるヴァリンを見て、ウィルとルノが顔を見合す。そういえば、二人は会ったことがない。


ヴァリンはルノを救出する際、キークの気配を教えてくれた。それにレインのことも夢を通じて教えてくれたし、ルノの危機だって伝えてくれた。大神官という身分にありながらトアンのことを支えてくれる、夢幻道士の女性だ。

「おや、初めまして。私はヴァリンという者です。これでも夢幻道士の端くれなのです」

「シアングはしってるよね」

「あぁ」

「ウィル、ルノさん。この人はルノさんを助けに行くときとか、兄さんのこととか色々助けてくれた人なんだよ。ヴァリンさんが居なかったらルノさんの居場所がわからなかった」

ルノがレインに治癒を施しながら頭を下げる。

「あの時か。成程……本当に助かった。礼を言う」

「いえ、いいのです。……私はキークのことを幼いころから知っていましてね、彼を止め切れなかったことのせめてもの罪滅ぼしなんです」

そっと瞳を伏せて言うヴァリンを見て、ルノの目配せを受けウィルも頭を下げた。

「幼なじみ……?」

「ああ、トアンにはまだ言ってませんでしたっけ? キークがまだ夢幻道士の集落にいたころから、そこを離れるまで私は彼と付き合いがあったのです」

「そうだったんですか……。何故ここに?」

「場所は魔鳥があなたたちの匂いを覚えていたので。……どうしても伝えなくてはならないことがあって参りました」

魔鳥、というのはキークの城に侵入した際に借りた鳥だろう、とトアンは考える。そういえばヴァリンは神官の身でありながら魔物を忌み嫌ってはいないのだ。

「伝えなくてはならない……?」

ヴァリンの言い回しが引っかかったのだろう、若干恐る恐る、ルノが呟く。

「あの黒星と関係があるのか?」

その言葉に、ヴァリンはゆっくりと首を振った。

「……正解であり不正解です。実は、私もキークのことは調べていたのですが、此処最近のアリスの箱庭の異変がきになりましてね。グングニル隊の壊滅、そして合成獣の作成が止まったようなのです」

「合成獣が? 私の力がなくなったからか?」

「いえ、合成獣を作る実験場自体が爆破され、もう跡形もないのです。それに、ええとルノ。あなたの力は何かに宿らせる形としてストックすることもあの技術ならできたはず。……それなのに、その気配すらなかった」

眼鏡を直しつつヴァリンは語る。

「私は、恐らくもう箱庭自体必要がなくなったものだと思うんですよ」

「必要が……ない?」

「そう。キークにとってもう価値がないのですよ、あれはね。レインはもうあなた方が連れ出していますし、レインに関係した研究員は隊壊滅の際全て死にましたし。……ルノに関係した者も同じです。合成獣の実験はレインが連れ出される少し前に終了していたようです」

ヴァリンはため息をつきながら額に手を遣る。トアンには突然、その顔が以前よりもふけているように感じた。……疲れが彼女の肩にのしかかっているのだ。

「そしてこの天空に現れた黒星……。ルノ。あなたの妹が引き起こしているのでしょう。彼女は導きのひかりの発動を余儀なくされた……」

「……何故、チェリカがやっているとわかる?」

「私が調べたところによると、アリスの箱庭にあなたたちの叔父、クラインハムトが関わっていることを突き止めました。これはルノ。あなたがよくわかっていることでしょう?」

ぐ、ルノが言葉に詰まる。手の治療は続けながらも、ヴァリンをキッと睨み付けた。

「だからそれが何だというのだ!」

「……クラインハムトの事情までは知ることができませんでしたが、彼の目的は導きのひかりに導かれること。そしてこの世界を見下すことでしょうが……」

それだけでも十分恐ろしいのに、ヴァリンはゆっくりと首を振って静かに続けた。

「落ち着いて、心穏やかに聞いてください。これから私の推測を話します。……恐らく、キークの長い長い計画に、『このこと』も含まれているはずなのです。無論、あなた方がしてきた数多くのこと……あなた方の歩んだ道を探らせていただきましたが、ルノを助け出して同行していることと、焔城での戦いは竜とあなた方を結びつけ、『修正する者』を引っ張り出した。そしてつい先日の死者の魂が還る現象で、キークは絶対的な何かを確信した。トアン、あなたが村をでる少し前──つまりチェリカと出会うことすら、全てキークの計画なのでしょう」

「父さんの計画? それは何ですか!?」

思わず息巻くトアンの肩をそっと押さえて、ヴァリンは瞳を細めた。少し歪んだ表情に、ああ、この人は何か知っていて、でもそれがいえないんだとトアンはふいに思った。

その思いは胸にしっかりと叩きつけられ、見る見るうちにしぼんでいくトアンの姿を見てルノが口を挟む。

「じゃあ、全部計画通りに私たちは動いていたのか!?」

「そうでしょうね。チェリカがあなたを追ってエアスリクを飛び出すところから。……ひょっとすると、十六年前から彼の計画は始まっていたのかもしれません」

「十六年前?」

最後の方は消え去るような呟きだったが、シアングにはしっかりと聞こえていた。彼が繰り返すと、ヴァリンはしまったというように目を見開いて、それから小さくため息をつく。

そしてたっぷり沈黙してから、何も失言はしていないように会話を続けた。

「……クラインハムトの行動がキークの計画通りの出来事で、ところがクラインハムト自身はそれに気付いていないのです。彼は、残りの四人の賢者の席にあなた方のうちの四人を選ぶでしょうね。……そして自らの願いをかなえる。もし呼ばれても、決して行ってはなりません」

「どうして! ……お前の話を聞く限り、チェリカがそのことに気付かないはずがない! それなのに『導きのひかり』の発動を拒否できなかったのは、それだけあの子が追い詰められているということだろう!?」

「クラインハムトはチェリカに関わったものを呼び寄せるはずです。屈服させた彼女を自慢したいでしょうから」

「ならなおさらじゃないか!」

「……ルノ。私に詳しい事情は分かりかねますが、殺されてしまうかもしれませんよ」


もしくは、と。ヴァリンは思う。


(全員、苦渋の選択を強いられるかもしれない)


──今晩、夢の境目で肩を叩かれるでしょう。

ですが、絶対に振り返ってはいけません。

それこそが導きのひかりからの手……



ヴァリンはそう言葉を残し、トアンたちを気にかけながらも帰っていってしまった。本人はまだ言い足りなさそうだったが、大神官としての立場がある以上、人々にあの星の説明をして回らなくてはいけないとのことだ。

魔鳥に飛び乗って夜空へ消えていった彼女を見送ってから、トアンはため息をついた。

「……どうする?」

小さく、頼りない声でルノが呟く。

「お前たちは振り返らないほうがいいのかもしれない」

弱弱しいがその言葉ははっきりと、ルノの決意を表していた。

「ルノは行くのか」

口を尖らせたまま、ウィルが言う。

「……あぁ」

「でもその、クラインほにゃららってヤツの目的が」

「クラインハムトだ」

「あーもうややこしいな、くそ。とにかくそいつの目的がルノの命かもしれないんだぞ? 第一、あそこに本当にチェリカがいるかもわからねえのに」

「それでもいくぜ」

と、ルノに代わってシアングが言った。口の端を軽く持ち上げて笑ってみせ、そっとルノの頭に手を置く。

「ヴァリンのいう事は多分真実に触ってる。なら行かなきゃ」

「シアング……」

「ルノ、なに泣きそうな顔してるんだ。お前がしゃっきりしなくてどうする」

「な、泣きそうな顔などしてないぞ」

「どーだかねえ。ウィル、お前は別に怖かったら正直に言えよ」

「こ、怖くねえよ! オレだって行くよ!」

むっとしてウィルがキッパリと言い放つ。威勢のいい彼を見てシアングとルノが笑い、それからルノはトアンを見た。

「トアンは、どうする?」

「……これが全部、父さんの計画なら、行かないわけにはいきません。それに、チェリカが巻き込まれてる」

静かな口調で、だがその手は月千一夜にかかっていた。本来人間以外のものを斬り、人間は絶対に斬れない剣。


ところが再び手元に戻ってきた十六夜は、青い光が消えているとき、人間を斬ることができるようになっていた。いや、正確にはばっさりと斬り捨てたわけではないのだが、チェリカと話す少し前、なんとなくその刀身に触れたトアンの指を浅く斬ったのだった。斬った部分からはぷっつりと血が丸く盛り上がり、トアンは動揺しながらも十六夜を見つめた。

おそらくこの青い光の明滅によって光があるときは人間以外を斬るとき、ないときは物理的な存在を斬るときのように使い分けが効く様になっていた。光の明滅はトアンの意思によって自由になるわけではないようだが、先程からずっと光は消えていた。


クラインハムトは人間だ。この状態でなら戦える。


珍しくトアンの戦闘意欲が高ぶっていることを知ったルノは目を丸くしてから、ウィルと顔を見合わせた。



「決意表明は終わった?」

のんびりとした口調に顔を上げると、窓枠に腰掛けたセイルがいた。ずっと大人しくしていた所為かすっかりトアンは彼の存在を忘れてしまっていたが、シアングはすぐに彼を睨み付けた。

「セイル、お前、まさかとは思うが」

「……俺様はなあんも関与してないのよ。でもねぇ、ちょっといろんなタイミングが良すぎてて頭が痛いのよ」

かりかりと頭を掻きながらセイルがポケットを探り、ウィルに向かってポイと投げつける。

「わっと……とと、なんだよ?」

危うく落としそうになりながらも何とかキャッチし、怪訝そうに投げられたものを見る。興味深げに首を伸ばすルノにも見えるようにしてやると、ルノが驚きの声を上げた。

それは瓶に入った、赤い花の花びらを使ったジャムだった。照明の光を受け、瓶の表面がとろりと光る。

「なんだこの花。初めてみるぞ」

「そりゃそうでしょ。そいつは、とっても貴重でめずらしー花、ジュタの花のジャムだから」

「ジュタの花? ……どうして、オレにこれを?」

「いや、別にお前のためじゃない。スノーのためさ」

「は?」

セイルは窓枠の上でゆっくりと足を組みなおすと、瓶を持ったまま目を丸くしているウィルを見てくつくつと笑った。

ウィルは未だに、自分のパートナーがスノーと呼ばれることに慣れていないのだろう。一瞬遅れてそれがレインのことを指すのだとわかると、まじまじと手の中の瓶を見つめた。

「なんでこのジャムが……レインのためなんだ?」

「ジュタの花はね、血華の血の惑い……『ねむりのやまい』に対抗できる唯一の花なのよ」

「ねむり……え?」

「……結構バカなのね……。血華の術は血を操る。その反動は魂に刻まれ、よく眠るようになるのよ。それはいいとして、眠っている途中に魂が抜けて、翌朝には目覚めないってこともあるらしいのね。──アリシアはそれで何度も死に掛けたって話よ」


セイルの言葉の中に何かを見つけ、ルノが口を開く。だがそれはセイルにとっては面倒な質問を紡ぎだすのが容易に予想でき、よって封じ込めるために彼は言葉を先に続けた。

「多分これから先、今以上に睡眠を求めると思うから。……そのジャム、紅茶かなにかにいれてのましてあげて。花が見つかったらドライフラワーとかにして枕元においてあげて。一番いいのは花の蜜を湯に混ぜたものを飲ませることらしいけど、俺様でも蜜が取れる新鮮なジュタの花はみつからなかった」

「……。そうなんだ。態々ありがとうな。セイルって結構いいやつじゃないか」

「お前のためじゃない、スノーのためよ。スノーは俺様の大事な仲間だ」

セイルはそっと窓の外に身体を倒す。一瞬彼の気が狂ったのかとウィルとルノは慌てたが、すぐにセイルは窓枠を使ってくるりと一回転すると姿をけした。

「セイル! まて!」

成り行きを見守ることにしていたシアングが言葉で彼を追う。すると、屋根の上のほうから、

「こっちにおいで、ぼけシアング」

という幼い誘い文句が聞こえた。シアングは眉をしかめてから仲間たちを振り替えり、窓枠に手をつける。

「……ちょっといってくる。まってろよ」

そういい残し、セイルと同じように姿を消した。

──同じように。





夜空の下、だらりと足を投げ出して屋根に座り込むセイルの隣に、警戒の色を強めながらシアングは立った。

「座れば?」

「……いや、いい」

彼の気遣いは珍しいのだが、だがそれも今までの経験が警告をだしている。シアングの態度にセイルは苦笑し、相変わらず自分は座ったまま言葉を吐き出した。

「俺様、お前に選ばせる気だったのよ」

「……え?」

「だから、レインを殺すかいずれ自分が死ぬか。そのことでお前を苦しめて苦しめて、追い詰めるつもりだったの」

「スノーがレインと一緒になっちまったからか」

一緒、という言葉を聞いてセイルの顔が曇った。

「……俺様、わからなくなってきたよ」

「何が?」

「『影抜き』が本体と重なるとき、絶対にずれが生まれるものだと思ってた。例えば俺様が今此処でシアングの中にかえろうと思っても、元は同じでも今シアングと俺様はかなり違った存在だ。……でも、スノーはまるっきりレインで、溶け合ったスノーを見て……俺様は、スノーとおんなじだって思った」

「そりゃスノーが本体と一緒になりたいってずっと思ってたからだろ? オレとお前は絶対ないだろ」

「だから例えばの話。俺様だって、『妹殺し』のシアングと一緒になるの絶対いやよ」

「……ッ」

あっさりとシアングの傷口を掘り返し、悪びれずセイルは続けた。

「あれはレインであってスノーなんだ。本質は同じだったんだよ。……だからシアング、俺様、スノーを守りたいのよ」

「自分から与えといて、オレの選択肢を奪うのか? もう簡単に、オレに死ねって言ってるようなもんじゃねーか」

「……。」

シアングの意地の悪い笑みに、今度はセイルが押し黙る。だがシアングはすぐに笑みを少し哀しいものにすると、そっと呟いた。

「大丈夫だよ。ネコジタ君は絶対守るさ。……今はまだ未来のことは考えたくねーけどな。大事な友達だから」

それを聞くとセイルの顔がパッと明るくなる。──彼は元々、シアングの安否など気にしていないのだ。ただスノーという存在がレインになっても、彼は自分の守ってきた少年が愛しいのだろう。

あれほどぴったりに溶け合う『影抜き』と本体はそういない。それはスノーが記憶をもとにして生まれたからかもしれない。多少の感情の揺れはしばらくあるだろうが、すぐに完全に溶け合うに違うない。そうでなくてもスノーは感情をできるだけ殺してきたし、なにしろ抜け落ちた記憶だ。パズルがはまるように落ち着くだろう。

だが、セイルは違う。シアングのある感情の爆発から生まれたものだ。だからそれにしたがってシアングを追い詰め、責めることを忘れないし『影抜き』として生まれた自分を酷く嫌っている。シアングとは何からなにまで正反対なことを続けてきたし、彼の死だって厭わないのだ。

……いや、そのセイルのシアングに向ける非難は、全てシアングが生み出して彼に与えてしまったものだった。


シアングの傷を抉る。それが彼の存在理由。



「じゃあ、俺様いくの」

「ネコジタ君に挨拶は?」

「……スノーは今混乱してるだろうし、また『いつか』でいい。シアング、くれぐれもスノーのことよろしくなのよ」

「はいはい」

もうめんどくさくなって適当にあしらったが、セイルは気にしてないようだ。シアングに背を向け、あ、と何か思い出したように振り返った。

「クラインハムトには気をつけて」

「……え?」

「そいつの話を聞いたの。あいつは異常なまでの愛情を双子に注いでる」

「珍しいな、お前が忠告してくれるなんて」

「シアングじゃない、ルノちゃんよ。気をつけてっていっといて」

「あっそ」

「実の姪に手ぇ出すようなひん曲がったやつだから」

「……姪? チェリちゃん!?」

聞き捨てならない言葉を拾ってシアングはセイルに詰め寄るが、セイルはすっと闇に体を溶かしていく。

「詳しくは本人に聞けばいいのよ。とにかく異常な性癖だからね、ルノちゃんだって危ないよ」

最後にそういい残し、彼の姿は完全に紛れてしまった。



長いようで長くない、意識の覚醒を妨げる睡眠。ずるずる、足元で小さな感覚。……まるで波打ち際のようだ。寄せてはかえす波が、自分の意識を引っ張っている。


レインは眠りの海に足を浸したまま、目の前に広がる暗い空を見上げる。いつの間にか、空の彼方から透明な歌声が聞こえるようになった。

美しいが──哀しい聲だ。

レインは知っていた。誰が歌っているのか。そして自分がこの海の手から逃れられないのは何故なのか。


「母さん」




うっすらと瞳をあけると、途端に気付いたウィルが声を上げた。ランプに照らされた室内を見渡すと、ソファに身を沈めていたルノが弾かれたように起き上がり駆け寄ってくる。

「目が覚めたのか! よかった、どこか具合が悪いところはないか?」

「……ねぇ」

「そうか、なら本当によかった……心配したんだぞ」

「悪い」

ルノの言葉に反応するものの、どこかレインは夢を見ているような様子だった。ぼんやりと虚空を見渡す瞳にはなにか別のものが映っている。

「レイン?」

「近けぇよ」

怪訝そうに顔を曇らせたルノがレインの顔に自分の顔を近づける。近すぎるものにレインの眉は寄ったが、段々ともとの光を取り戻してくれた。寝ぼけていたのだろうとルノは解釈する。

と、不意にレインの手がルノの頬に触れた。冷たい指にルノは目を丸くするが、冷たいと同時に指は優しい。

「夢と、現実をずっといったりきたりしてた。……聞いてた、チェリカがどうなってるか」

「!」

「オレもいく」

「……レインは、体調がよくないだろう? 無理をしなくていい」

「無理じゃねぇ。……行かなくちゃいけねぇんだ」

「え?」

「……おい、ガキ。オレの上着とってくれ」

「ガキっていうな! 本当に大丈夫かよ?」

上体を起こすのを手伝ってやり、レインに上着をかけてやるウィル。ウィルの強い心配がレインに伝わらないはずがないのだが、レインはそこからついと目を背けてしまった。

「何度も言わせなくていい。トアンは?」

「あそこだ」

つ、ルノが指差した先にはソファの影に蹲っているトアンがいた。

「少しだが眠っている」

「そっか。……じゃ、いいや」

「? 何か言いたいことがあるのか?」

「別に起こすまでじゃねぇし。寝てればいいんだっけ」

上着と鞭をつけると、レインはベッドにまた戻ってしまった。……どこかおかしい。ウィルとルノは顔を見合わせたが、互いに首を傾げるだけ。


『トアンは?』


彼のが弟に伝えたかったことが、どれほど重要なことか予想もできなかった。



長いようで長くない、意識の覚醒を妨げる睡眠。ずるずる、足元で小さな感覚。寄せてはかえす波が、自分の意識を引っ張っている。

トアンはそれを全て振り払い、ハッとして瞳を見開いた。既にランプの火は燻って消えかけていて、部屋の中を不思議な青い闇が覆っている。

──これほど夜明けが長いと感じたことはなかった。実際少ししか眠っていない睡眠がかえってキツイ。

ソファの上でシアング、ルノ、ベッドの上でレインとウィルが其々寄り添うように眠っていた。呼ばれるのは──四人。誰か一人がここに残るのだ。


きゅん……

小鳥が鳴くような小さな音と共に、突然シアングの身体が光に包まれる。あまりにも唐突なことにルノが目を覚まし、シアングの名を呼んだ。

「シアング!?」

だがしかし、光はあっという間に消え去り、そして次の瞬間にはシアングの姿はもうなかった。──導かれたのだ、トアンは直感する。

「これが……」

「導きのひかりか」

すぐさま落ち着きを取り戻したルノが言う。

きゅん、きゅるる……

再び小鳥が鳴くような音。ウィルとレインを光が包み込み、シアングと同じように連れ去ってしまった。二人分の重みでしわを作ったシートは、まだそこに形を崩さず残っている。

「……あと一人か」

ふう、銀髪を掻きあげながらルノが呟く。その言葉の意味をすぐさまトアンは拾い、顔を曇らせた。

ところがルノはトアンに微笑みかけると、ソファから降りてそのグローブに包まれた手を握った。

「……妹を頼む」

「え?」

「恐らく最後の一人はお前だろう」

「で、でも……ルノさんかもしれませんよ、狙われてるし。──だったら、その言葉はオレに言わせてください」

「無論私がいくとしてもチェリカは守るさ。……でも、もし私がいけなかったら。トアンにはわかるだろうか、双子というものが。見えない力で『つながっている』私たちが、もし切り離されるとしたら今このときだ。私はそれが怖い」

「……」

「わかるんだ、多分、チェリカはお前を呼んでいる。クラインハムトが誰を呼ぼうが、導きのひかりのあの子自身がお前を呼んでいるんだ」

「……チェリカが……オレを?」

やっと返せた言葉は、さっきまでの自分のものとは違い酷く頼りなかった。

「呼んでいる。」

はっきりとルノは告げ、握る手に力をこめた。

「──オレ……」

ゆっくりとトアンが口を開く。ルノはその言葉を聞き届けるようにしっかりと目を開けていた。──が。

「うわ!」

短い悲鳴と共にルノの身体が光にのまれ、消えていく。

「チェリカ、何故!?」

「ルノさん!」

握られていた手がするり、と逃げる。咄嗟に手を伸ばすが、次の瞬間には虚しく空を掻いていた。


ルノは、導かれたのだ。これで賢者の数は四人となる。


「……嘘だろ?」

しんと、静まり返る部屋。あたりは青い闇だけが支配し、そっと空気を震わせる。

まさか自分が取り残されるとは思わなかった。どうして。ルノだって言ってたじゃないか。それなのにどうして!?


「チェリカ……」



ふんわりと漂っていたルノの身体と意識に重力が戻ってくる。こつん、ブーツの底が床についたのを見届けたように、身体に纏わりついていた光が消えた。ふわり、ローブの裾が広がると同時に短くなった髪も揺れる。

白い部屋だった。部屋には窓一つなく、扉が一つあるだけ。

「ルノで最後か」

一足先についていたのだろう、床に座ったままシアングが声をかけてきた。その隣には槍にもたれるようにしたウィルと、だらりと足を投げ出して座るレインもいる。

「トアンは……残ったんだな」

レインの呟きに頷きながら、そっとルノは憂いに瞳を翳らせた。何故、妹は彼を選ばなかったのだろう?

「オレは絶対にトアンは選ばれると思ったけどなあ」

ウィルがレインに囁くと、レインは少しめんどくさそうな顔をして口元に手をやる。

「まあ、事情があるんじゃねぇのか」

「事情? 何の事情だよ?」

「オレが知るかよ」

「とにかくこうしてても仕方がねーや。四人揃っちまったんだし、行こうぜ」

シアングが立ち上がって左手で扉を指した。

「チェリちゃんが待ってる」


扉の外は長い通路だった。そしてそこもまた、真っ白な空間。遠く見える扉が、唯一の距離感を知るものだった。

(気が狂いそうだ)

最後尾を歩きながら、ルノはふとそう思う。

(暑くもない、寒くもない。風もないし、それどころか何も感じない……息苦しいな)

しゃりん、持っていた杖が鳴る。ルノは長い杖の先についている宝石を見て、軽く唇をかんだ。

懐かしい。これをもっていたころは、自分はまだ氷の魔法が使えたのだ。今の自分とは大分違う。

かつん、先頭を歩いていたシアングが足を止める。

「あけるぜ」


意外なことに音もなく、重そうな扉は開いた。隙間から漏れ出す光に目を細めながらルノは足を進め、辺りの気配を探る。

と、突如光は消えうせて辺りの光景を紅の瞳に映し出すことを許した。

「な……」

真っ白な空間とは違い、そしてそこもまた異質な開けた空間だった。足元の床は透明なガラスで眼下には暗い大陸の影が見える。所々に光が見えるのを考えると、遙か下に広がる町の明かりだろう。

さらに天井も透明で、広大な夜空が間近に見えた。ルノのすぐ前にいたウィルが若干恐れたように数歩下がる。

ルノ自身、高所は決して得意なほうではない。ウィルもそうなのだろう、それにここは何かの背に乗っているわけではない透明な床。どこが抜けているかもわからない。

目の前には両脇に低い階段をつけた舞台のような場所がある。背伸びしてみてみると床は白一色で、あの空間を思い出させた。


「なんだよ、ここ……」

ウィルが嫌そうに首を振る。

「ひょっとしたらあの黒星の中ではないか? あれは天体ではなく、星に近い上空にあったのとしたら。」

「なんで冷静なんだルノ」

「うむ、自分でも不思議なのだがな……怖いなら私の手でも握っているか?」

「そりゃこっちのセリフだって。あああ、あのルノに心配されるとはオレもおちたもんだなあ」

大げさに頭を抱えるウィルを見て、ルノは少しだけ笑った。安堵と同時に笑みがこぼれたといってもいい。

「お前らうるさい」

不機嫌そうにレインが文句を言ったが、シアングが苦笑しながらその肩を叩いた。

「ま、ま、ま。そういうネコジタ君だって後ろを見せるのは無用心でしょ」

言われて、レインが慌てて視線を前に戻す。何だかその様子は微笑ましかった。

「くるぜ」

にっと笑ってからシアングも笑みを消す。舞台の床が、カッと輝いた。


「よく来てくれたね。私はクラインハムト──天空の王国エアスリクの現王であり、この世界の神だ」


優しげな男の声と同時に光が消える。舞台の上には金髪の美しい男が一人、真っ白なローブを翻して立っていた。冠のような髪飾りが輝く金髪を際立たせ、真っ青な瞳がそっと細められる。彼が、チェリカとルノの叔父。

しかし柔らかな印象とは違い、どこか狂気めいた気配が男の全身からにじみ出ていた。ルノの足が震える。驚くことにレインも一歩下がり、口元を覆っていた。──怯えている。

「どうした?」

瞳はまっすぐにクラインハムトを睨みながら、ウィルがそっとレインを気遣った。平気そうにしているが、ウィルの額には汗が浮かんでいる。

「……。ハクアスと似てるんだ。あいつ、狂ってる」

「……大丈夫か?」

「お前に言われたくない」

気丈にはねつけるレインだったが、狂気に堕ちた人間の怖さは彼が一番知っていることだ。

「こそこそと何を喋っている?」

クスクス、笑いながらクラインハムトが一歩踏み出した瞬間──

柔らかな風と光が吹き荒れ、一つの光があわられた。そしてそれは、人の形を作っていく。






たった一人、青い闇の中でトアンは窓を見上げていた。天空に光る黒星をみて。──導きのひかりを、思いながら。

できることなら、今すぐにでも空を飛んでチェリカのもとに駆け寄りたかった。シャドウとともに目の前で彼女が消えたときも悲しかったが、今だってとてもかなしい。そして悔しい──無力な自分が。

邪神の魂のカケラだったチェリカ。自分は彼女を助けたあの時、何だってできる気がしていた。やっと全て分かり合えたのに、あれからまだそんなに日にちがたっていないのに。悔しさと悲しみが胸の中で渦巻いて、トアンの心を握りつぶす。

「守ってあげたいのに……」

ぽつりとした呟きはまるで涙のようにグローブに落ちた。──その瞬間。


そっと、肩を叩かれる感覚。


なんとなく振り返るが、誰もいない。なんだろう、疲れかな。目を閉じかけたトアンは──目を見開いた。身体が光に消えていく!

あの小鳥のような囀りはなかったが、それがなにかすぐにわかった。導きのひかり──だが自分は五人目なはず。

(なんでもいい! 行くんだ!)

やがて全身が暖かな空間にひきずりこまれた。誰かが自分の手を引っ張っている。──小さな手。トアンは走り出す。


追いつく──そう思った瞬間に唐突に空間が途切れた。はっとしてあたりを見渡すと、唖然とした仲間の顔。驚くことに床も天井も透明な空間に、トアンはいた。

「トアン!」

ルノが駆け寄ってくる。がくがくと肩を揺さ振られ、トアンは驚きながらもルノを見る。

「どうしてここに!? どうやって?」

「……わ、わからないんです。でも、皆がいるってことは、ここが……」

「導かれる先だ。……ブレイズライム。導きのひかり以外で迷い込んだ者は身体が粒子になって消滅するというが……お前は大丈夫なようだな」

ルノの言葉に慌ててトアンは自分の身体を見る。──なんの変化もない。


「どういうことかな?」


静かな声にトアンは顔を向ける。整った顔の男──ルノが耳元で名を囁いた。『彼がクラインハムト』──が、舞台の端を睨みつけている。

そこには真っ黒でボロボロの丸まった布がゴミのように捨てられていて、クラインハムトが冷めた顔で布を足蹴にすると、布がずれて白いものが露わになる。トアンは彼が誰に話しかけているのか分からなかった。

──ルノが、悲鳴を上げるまでは。


「チェリカ!」


「てめぇ!」

シアングが牙をむいて怒鳴ると同時に、煩そうにクラインハムトは布の塊を蹴り飛ばした。それが地面に落ちる前にレインが受け止める。その衝撃にレインは膝を折るが、腕のなかに抱えたものが小さく息を引き攣らせた。

──悲鳴だ。もう悲鳴すら声にならないのだ。

駆け寄ったトアンとルノにレインはチェリカを託すと立ち上がってクラインハムトと対峙するシアング、ウィルの隣に立った。

ルノとトアンはそっと布に手をかけ、小さく息をのんだ。


黒い布、と思っていたものは彼女が最初にきていた白いローブの成れの果てだった。──血を吸ってどす黒く変色し、彼女の身体を守っていたのだ。


「チェリカ……チェリカ!」

泣きそうなルノの問いかけに、そっと彼女が瞳を開く。──右目だけだ。左目は殴られた後があり、瞼が痙攣しただけだった。

酷い。トアンは言葉を失う。

愛らしい彼女の顔は何度も殴られたのだろう、腫れあがって痣になっていた。口の端から血が流れている。瞳も右目をぼんやりと彷徨わせて、それすら完全には開いていない。

「……い……ちゃん……」

「今治してやるから、少し我慢していろ。な?」

「……」

チェリカはゆっくりと首を振った。痛みに顔をしかめながら、はっきりと『不要』という意思を表す。

「ごめ……早……逃げて……」

「何を馬鹿なことを!」

「……おじ……狙いは……お兄……」

「いいから、こんなときまで私の心配はするな! トアン、チェリカの──」

手を握っててやれ、と言いかけてルノは言葉を切った。ローブの裾から見える彼女の両足はありえない方向に曲がっている。右手も同じように。

せめて呼吸を楽にしてやろうと胸元に手をかけて、再びルノは止まった。白く幼い肌には花が散ったような痕が残っていたのだ。

あまりのことにルノの瞳がついに揺らいだ。トアンも絶句したまま、そっと彼女に左手を握る。

僅かな力でも握り返してくる彼女が、けなげだった。

──チェリカが逃げられないように両足を折ったあと、クラインハムトは彼女に過剰な暴力と屈辱を味あわせ、まるで壊れた玩具のように床に転がしていたのだ。あまりの、あまりの仕打ち。何故彼女を、と思うのと同時にトアンは歯軋りをした。


パァ……


二人の目の前で、チェリカの身体が発光する。トアンは目を見張った。彼女の身体が、段々薄れていくのだ。

「チェリカ……まさか、お前」

ルノが恐る恐る問いかける。チェリカが頷くと同時に、ルノの顔がくしゃりと歪んだ。

「ルノさん、どういうことですか!?」

「……導きのひかりによって選ばれた六人の賢者はブレイズライムに運ばれる。その六人の中に、導きのひかり自身もカウントされるんだ」

嫌な予感に、トアンはさっと胃が下がるような悪寒を感じた。

「今ここにいるのは、私と、シアングと、ウィルと、レインと、クラインハムトと、チェリカと──トアン。な、七人だろう?」

ルノの声が、震えている。

「恐らくチェリカは、じ、自分の席に……お、お前を……ッ」

そこまでいうとルノは両手で顔を覆ってしまった。トアンは呆然としながら、握った手に力をこめる。

「……どうしてオレを呼んだの」

「……。」

「どうしてだよ! 呼ばなきゃよかったのに! オレなんか呼んでも!」

情けないほどに震えた声でトアンは叫んでいた。涙が彼女の痣のある頬に落ちる。

「トアン」

不意にしっかりした声でチェリカが名前を呼んだ。──もう、痛みも感じないのだ。

彼女の身体は消滅に向かい、そして皮肉な運命の彼女へのせめてもの情けなのか、小さな声だったがはっきりしていた。

ルノが手を外し、静かに泣きながら妹の髪を撫でてやる。

「四人はね、叔父さんが決めちゃったんだけど、私、君に会いたかった」

「どうして……?」

「君なら……全部うまくいく気がしたの。ごめんね、こんなとこ見せちゃって」

イタズラが見つかったときのような、いつもの口調。それがかえって悲しかった。

「君に会いたかったんだ」

「……チェリカ」

「君に返事もしなくちゃいけなくて、謝らなくちゃいけなくて、でもそれよりも、最期にどうしても会いたかった……」

「チェリカ」


返事、というのはパートナーのことだろう。謝るというのは恐らく巻き込んだについてだ。

「返事なんて! また今度でいい! 今度でいいから! 謝りたいなら今度謝れよ! 会いたかったなら毎日顔あわせるでしょ! 嫌だよ、どうしてチェリカが消えるんだよ!」

謝る必要なんてない、そういいたかったが口は勝手に未来の約束を求めていた。どれだけトアンが喚いたって、チェリカは微笑んだまま。すっかり薄くなってしまったその身体を透かして、ルノのローブの端、トアンの足、そして眼下の大陸が見えた。

「お願い、お兄ちゃんを守って、叔父さんを解放してあげて」

「……っ」

「それから、皆と仲良くしててね。レインに喧嘩負けてばっかりでしょ? シアングの料理も一緒につくると面白いんだよ。ウィルは結構いじるの楽しいし。お兄ちゃんは怖がりだから、怖い話をあんまりしないであげてね」

かなしい。

かなしいかなしいかなしい。トアンの胸の中は土砂降りだった。

トアンを導いてくれたのは間違いなく彼女だったのだ。他の仲間はクラインハムトが関与したのだろうが、それでも彼女は自分の意思でトアンを選んでくれていた。──その先になにがあるのか、知っているのだろうに。

「あっそうだ」

明るい口調でチェリカは話を切り替えた。ルノの涙を抜いてやれないことを少し悔やんでいるが、トアンが握ってた手は振り払いたくなかったのだ。トアンがチェリカを見ると、彼女はやっぱり、笑っていた。

「ありがとう」

「……え?」

「昔から、ずうっと。今日の今まで、私と一緒に旅をしてくれて」

「そんなの、オレのセリフだ……。今聞きたくないよ……」

「うん、ごめんね」

嘘だ、ちっとも悪びれてない。彼女らしいとトアンは思って、瞬きするのをやめた。──時間がないことを感じ取って。

「トアン、ありがとう。私、楽しかったよ」

「──チェリカ!」

耐え切れなくなって彼女の散々痛めつけられた身体を抱きしめる。──が、トアンの手を通り抜けていったのは光の粒子。抱きしめた感覚すら、最期なのに与えてもらえなかった。

彼女の身体は、完全に消滅していた。


「チェリカぁ──!」





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