第42話 君が見ていた廃墟と楽園

シアングの声が強く、そして悲しくこだまする。

「兄さん!?」

トアンは不意に、ずきんとした痛みを感じた。それは脳髄を直接駆け抜け、心を引き裂き、そして何もなかったように息と一緒に抜けていく。

これは──恐れだ。何かわからないが、とにかく膨大な恐れがトアンの胸を支配している。これは何だ? わからない。

「父さん、兄さんに何をしたの!?」

「……なにも。」

「うそだ! 何を企んでいる!? あの時も今も!」

父は敵なのか、味方なのか。

──それが言いたいのに、言えない。ただ、息子ではなく一人の人間としての言葉がでてくる。

トアンの攻撃的な声にも動じた素振りを見せず、ただ父はどこか遠くをみていた。

「やめろ、やめろ──!」

絶えず怒鳴り続けるシアングと、攻撃の意思をあらわにしているレインに視線を向け、小さく呟く。

「……私は、約束を果たそうと思っているんだ」

「──え?」

「ただ、それだけなんだよ。何もかもね」

少し悲しげな父の言葉。その言い方が、『義父』であったころのキークと重なってトアンは眩暈を感じた。

「キーク! お前親父なんだろ!? なんでこいつをこんな風にしたんだよ! 血華術に目覚めさせやがって……オレに殺させたいのか!?」

「そんなわけあるものか。『家族は私が守る』」

「矛盾しておるぞ! 先ほどの鎌を生成した光は血華の色、血液じゃ! この少年がアリシアの力を受けているならば、わしらは戦わなくてはならない!」

「お前、散々ネコジタ君が死にそうになったとき、トアンにごちゃごちゃ指示出してたそうじゃねーか! 本当に守りたいのかよ!?」

「……そうだ」

静かな声でキークが呟き、右手を上げる。するとその動作に反応するようにレインが鎌を一閃させる。シアングは逃れようとしたが、レインはそのまま鎌を捨て彼の腕の中に飛びこんだ。

「……! ネコジタ君?」

僅かに同様がにじむ声でシアングが問いかける。レインは答えない。

「どうしたんだ──意識が戻ったのか?」

「……。」

「どうしたって──」

「いかん、シアング! 離れい!」

「え?」

鋭い声で叫ぶテュテュリスのほうをシアングが向いた瞬間──……。

ブチ……っ

鈍いがいやな音を、確かにトアンは聞いた。

咄嗟にキークを見るが、彼の表情は薄く微笑んでいた。それは狂気でもなんでもなく、ただ純粋に嬉しそうな顔。

「う……」

シアングのうめき声がくぐもって聞こえる。テュテュリスが何か叫んでいる。それでもシアングはレインを突き飛ばそうとしなかった。

彼の首筋には恐らくチェリカと同じように

して、レインの二本の犬歯が刺さっていた。吸血行為、アリスの言ったとおりだとトアンは理解する。そしてその直後、なんともいえない強いショックが襲った。


否定してきた現実が、抜き身の刃を振りかざしてきたのだと確信した。シアングの首から、血が流れて滴り落ちた。

痛みはない。


また、嫌悪も抱かなかった。



「…………。」

ゆっくりと霞んでいく意識の中、シアングは目を細めた。目線を動かすと、自らの血を啜っている『友達』の姿が目にはいる。

(殺せない)

ぼんやりとそう考えて、じゃあこのままでは自分は死ぬのかというところに行き着いた。ふいに、脳裏に氷に閉じ込められたルノの姿が浮かぶ。

だがそれでも、シアングは自分でも驚くほどしっかりした力でレインを抱きしめたまま離さなかった。──何故か。簡単だ。

すぐ傍にあるレインの横顔。そしてその瞳から、涙が零れ落ちているのが見えたからだ。

意識が残っているのだ。そして肉体の支配に逆らえないまま、悲しんで──彼のことだ、悔やんでいるのかもしれない。悔やんで悔しくて、涙を零しているのかもしれない。

「……レイン」

呼びなれたあだ名ではなく、妙になれない彼の名を呼ぶ。勿論返事はない。

思いがけなく弱弱しく掠れた声になったが、もう、大きな声は出せなかった。

「大丈夫だから、泣くな──」

──ルノ。

(助けてくれ。ほんの少しでいいから、お前の力を貸してくれ。虫のいい話だけど、なんとかしたいんだよ。もし、オレがここで仲間を見捨てたら、──見捨てることになれちまったら、オレは戦えなくなっちまうよ。お願いだ、もう少し、オレの意識を──意識を──……)

ぼやけていく視界、そして感覚。しかしレインの鼓動がわかる。そして──僅かな震えも。


「シアング、シアング! 手を離せ!」

テュテュリスの怒声にもシアングは反応しない。いや、反応しているのだろうか。離したくないという意思表示だろうか?

今すぐにでも飛び掛りたいが、テュテュリスとトアン、そしてシアングの間にはキークがいる。

「これでわかっただろう? 不完全なことがね。本来──いやアリシアは吸血行為のときも自我があった。だが、この子にはほとんどない。物質の生成にかかる時間も彼女とは比べ物にならない。だからこうして、足りないものを補っているんだ」

「……足りないもの?」

はっとしてテュテュリスが顔をあげる。今答えたトアンの声に驚いたのだ。トアンの顔は、怒りや恐怖ではなく、悲しみに歪んでいた。今にも泣き出しそうなその様子に、キークは肩をすくめる。

「気がついたのかい」

「…………。」

「トアン、よくやった。空の子、竜の子、守森人。これだけでも十分すぎるほどの能力が手に入るだろうね。そして──トアン、お前の血だ。お前はいい子だ。『母さん』のためにこんなにもすばらしい血を選んだ」

「……オレの仲間のことを、そんな風に言わないで」

「お前は、いい材料をもってきたんだ」

「……黙れぇ!」


悔しかった。

悔しくて悲しくて、堪え切れなくて思わず涙が零れた。

まるで、この男の言い草なら、まるで。

自分は最初からこの男の計画通りに、チェリカたちを巻き込んで──結局この男の計画に加担していたことになる。

……自分にその気がなくても。

この男が兄をどうする気かわからない。だが絶対に幸せにはなれないと直感する。仲間の血を飲ませて、それで──今まで通りにすごせるわけがない。


挙句、トアンの、自分の血も飲ませる気だという。


目的はわからない。でもそれでも、それは『良くない』ということがわかる。父親でありながらなにかに憑かれたような男は、決して幸福を運ばないということをわかっていた。

「……オレは。」

「うん?」

「オレは、そんなの知らない。させるつもりもない」

「お前に指図する権利はないんだ」

「どうして!」

「お前が私の──私たちの子だからさ」

「私……『たち』?」

僅かな違和感。奇妙な言い草に思わず繰り返すが、男は浅く笑って答えようとしない。

「間違っているのは『お主』だったようじゃな」

テュテュリスが低く唸り、火球を作り出す。

「わしらは勘違いをしていたよ。まさか『お主』のほうが過ちを犯しているとは。……彼女ではなく」

「さあ、どうだろうね」

「ふん、言っておれ!」

ゴッ! 凄まじい熱風と共に打ち出された火球はまっすぐにキークに向かうが、彼は瞳を閉じて手を一振りするとそれは空中で四散してしまった。キークは涼しそうな顔をしたまま唖然とするテュテュリスを見ると、レインに向かって声をかける。

「まだ生きているよ。それだけじゃ足りないだろう? もっと飲みなさい」

「…………。」

「やれやれ。どうにも困った子だ」

「……」

レインはそっとシアングから離れ、父親を振り向く。零れた涙の跡を口の端から流れた血がなぞるが、キークは笑ってそれを拭った。

「レイン、ほら。可哀想なことに彼は生きてるだろう。せめて殺してあげなさい」

「……」

途切れ途切れなシアングの呼吸を聞いて瞳を閉じる。ゆるゆると力なく首を振り、レインはそっと祭壇に触れた。トアンが声をかけたが聞こえていないのか反応をしない。

「どうした? 今更怖いのかい? あの犬は楽に斬れたのに」

犬、というのはザズのことだろう。

だがその言葉にも反応を返さず、レインの背中に赤い光が集まっていく。まるでシアングの翼のようだとトアンが思った瞬間、光はガラスのような蝶の羽に変化し、レインの身体を祭壇の上に運んだ。そして──消える。

「兄さん!」

「聞き分けの無い子だね」

キークはため息を一つついて、自分も祭壇にふれ、消えた。

「兄さん……!」

「トアン、落ち着け。あの祭壇は外に繋がっておるのだ! お主も望めば外にいける!」

「わ、わかった。テュテュリスは!?」

「わしはシアングとザズを運んでから行こう。……一人じゃ心細いかの?」

「だ、大丈夫です」

トアンが駆け出し、その姿も忽然と消えるとテュテュリスはシアングに寄り添った。シアングはそれに気付いたのか、微かに笑みを浮かべる。

「シアング、お主……意識があったか」

「……ジジイ、オレ、……間違った、かな」

その掠れるような声にテュテュリスは心を痛めたが、あえてそのことにはなにも言わない。──わかっていた気がするのだ。こうなるのは。

「見たじゃろう? あの蝶の羽を。お主の竜の力を使ったのじゃろうよ、僅かだが飛んでおったぞ」

「……そっか」

「何故すぐに離さなかった?」

「…………なんでかな」


(シアングが死の香りに酔わないことを……か。ヴァイズ、シアングはやっぱり若いのう)



廃墟を見下ろす、ぽっかりと浮かんだ月。ウィルは目を細め、吹き付ける風に身震いした。

「チェリカ、平気か?」

「うん」

そういって笑うチェリカの顔色は優れない。当然だ、巻きつけた包帯から血がにじんでいる。

「そんなこと言っても、血が」

「大丈夫。……ミルキィ言ってたでしょ? 血管を探し当ててるって。だからちょっといっぱい出るだけで、痛くないし」

「そういうもんか」

「そういうもんだよ。それより遅れちゃったね、シアングもトアンも、……レインもいない」

此処にたどり着くまでは流石にしんどそうなチェリカをウィルが背負っていたのだが、やはり遅れが出てしまった。先にでたシアングも、足の速いトアンにも追いつくことはできなかった。

「ホントだよな、誰もいない」

「……寂しいところ……」

「チェリカ?」

ウィルから離れ、ゆっくりと辺りを見渡す。その青い瞳はまっすぐに廃墟を見つめながらも、なにか全く別なものを見ているようだった。

「どうした?」

「──ウィルは、感じない?」

「感じるったって、何を?」

「この寂しい感じ。取り残されて忘れられて、そして風化する──この、カラッポな感じ……」

「?」

正直なところチェリカが何を言ってるかウィルには検討も付かなかった。だがその瞳の奥に、ヴェルダニアが居たような闇のにおいを感じ、ウィルは眉を寄せる。

「──チェリカ?」

「……あ、うん?」

「なんだよさっきから。あんまり驚かすなって」

「ごめんごめん、ついね」

「ついって……お前、今また闇の気配がしたぞ」

「だろうね」

「だろうって」

「闇の魔力はまだ扱いなれてなくて……うまく使えないの。でも、いまその力で周りに呼びかけたら血のにおいがした」

「血?」

「……いやあな予感がするんだよね」

さくさく、銀の砂を踏みしめて、少女のはゆっくりと歩き始める。

「レイン、どこ?」

────カッ

不意に辺りに赤い輝きが溢れ、チェリカの目線少し上の空気中に渦が生まれた。その渦から何かが飛び出してきて、ゆっくりとチェリカの目の前に着地する。

それがなにか、ウィルはすぐに理解して走り出していた。その出てきた人物の腕を掴み、噛み付くような口調で言い寄る。

「どこ行ってた! 探したんだぞ、勝手に居なくなるなよ!」

「……」

「それにその背中の、なんなんだ?」

「…………。」

腕をつかまれた人物──それは目的の、レインの姿だった。レインは掴まれている腕を見て、何も言わずに背中の蝶の羽を揺らす。──普段の彼ならありえない。絶対に怒って拳かビンタか蹴りかどれかが飛んでくるはずだ。

「……どうしたんだよ」

様子がおかしいのは明白だった。その、不釣合いな大きさの眼帯も。

ざわ、不安が胸を曇らせるがウィルはそれを振り払うようにレインを揺さ振った。

……結果は、無反応。

「どうしたんだよ!?」

焦りのあまり苛立つ様な口調になるが、それでも目の前のレインは曇った瞳でぼんやりと見返すだけ。ちりん、チョーカーの鈴がなった。

──ガナッシュの、鈴。

「──……ッ」

直後、レインはウィルの手を振り払うと眼帯に手を伸ばした。が、それは外れない。

「……外したいのか?」

「──くるな」

静かな、でもどこか懐かしいと思う声。そういえば瞳もはっきりした色を保っている。……さっきのはなんだったんだ?

チェリカがあっと声をあげ、レインの腕を掴む。

「……ウィル、手伝って! その眼帯がレインの意識を縛ってるの!」

「な、なんだって?」

「いいから外して──わ!」

勢いよくレインが振り払ったお陰で、体調が万全ではなかったチェリカはバランスを崩し砂地にしりもちをつく。

「お、おいレイン!」

わけがかわらないままウィルが手を伸ばすが、レインはその手を避け、ぱっと飛びのくと、もう一度くるな、という。

「もう、なんだってんだよ」

「…………う」

「おいレイン! お前なあ」

無用心に近づいてくるウィルに、レインは睨むことで拒絶した。ウィルは訳がわからないと肩をすくめ、チェリカを振り返って──凍りついた。


「な」


「離して、離してってば」

チェリカが懸命にもがいている。さらりとした金髪が流れるが、チェリカの首にしっかりと腕を巻きつけている男はビクともしない。男は薄く笑うと、動けないチェリカを捕まえたままウィルを見て目を細めた。

「久しぶりだね」

「どうして……どうしてここにいる!」

「居てはいけなかったかな?」


「父さん!」


夜の砂漠に響き渡ったのはトアンの声。



渦からでた直後、父に捕まっているチェリカを見つけた。しかもそのまま父はウィルと兄を発見してしまっている。幸いにもトアンの声に父は振り向いたが、チェリカを離す気も隙も見えない。

「おやおや、トアン、ここまできたのか」

「当たり前だ!」

「……トアン」

捕まったままのチェリカが眉を寄せる。

「チェリカ、まだ動いちゃだめだよ! なんで此処まできたの!」

「だって私も心配だったもん」

「だってあんな……!」

「大丈夫大丈夫、──い!」

ぎり、締め上げる力が増したのだろう、チェリカが悲鳴を上げる。

「やめろ!」

「お喋りを楽しませる時間もないんだよ、残念ながらね」

「チェリカを離せ!」

「そういうわけにはいかないんだよ……。チェリカ、私を導いてくれ」

そっと顔を近づけるキークに対しチェリカはぶんぶんと首を振ると、きっぱりと言い放った。

「やだよ!」

「困ったな。私は導いてもらわないと約束が果たせないんだ。レインも今のまま。中途半端な覚醒がレインを苦しめているのはわかるだろう?」

「……君を導いたってレインは苦しいままだと思うよ。君が何を考えてるかわからないもん」

「私があの子を苦しめると……?」

おかしくてたまらない、という風にキークは笑い、より甘い声で囁いた。

「あの子は私の大事な家族だよ」

ぎ……。ゆっくりと締め付ける力が増す。

「チェリカを離せってば!」

トアンは思わず剣を抜き、父に向かっていくがそれは途中で阻まれた。キイン、赤い刃が弾いたのだ。──レインだった。

「兄さん……」

「……。」

「……何がなんだっていうんだよ! どうして兄さんが父さんの味方するんだよ!? ……オレ、もうわからないよ」

「……オレもさっぱりだ」

くるくると槍を回しながらウィルが呟く。

「あの人は、キークは何がしたいんだ?」

トアンとウィルがキークの元へ行くには、目の前で構えているレインをどうにかしなければならない。

──どうにか、できるのなら。

「先に言っとくけど」

す、槍を横にしてトアンの足を止め、ウィルが口を尖らせる。

「レインに手ぇだすなら、オレはお前をまず止めるから」

「──わかってるよ。わかってるけど……っ」

チェリカが、という言葉は突然の攻撃に喉の奥に押し込まれた。レインではない。彼はまだ、動いていない。

「ウィル!」

当てるつもりはない、ただの威嚇。だが親友ははっきりと、トアンに武器を向けたのだ。

「……わかってる、じゃ、駄目だ。チェリカのためだからってやっていいことと悪いことがある」

「それじゃ、ウィルはチェリカがどうなったっていいの!?」

「……よくねえけど」

しゅん、ウィルの肩が落ちる。

「でもオレ、守るって決めたんだ」

「オレだって」

互いに一歩も譲らず、相手を射抜く。冷たい風が二人の隙間を通り抜けて拡散し、銀の砂を撒き散らす。

「トアン、ウィル!」

突然のチェリカの声にはっとすると、チェリカはキークの腕に爪を立てたまままっすぐにこちらを見ていた。

「レインの眼帯を外して! このままじゃレインがのまれちゃうよっ! ウィルもウィルだよ、大事なものを見失わないで!」

「──まったく、余計なことを。トアン、ウィル。少しでも動いてごらん、チェリカの首をへし折るよ」

はっとしたウィルとトアンの動きを目ざとく見、はねつける様に言い放った父の言葉にトアンは迷い、ウィルに視線を送る。

「迷っちゃ駄目!」

「だ、だってチェリカ!」

「私はキークにとってまだ利用価値があるから殺されない!」

「おや」

チェリカの言葉に今度はキークが驚き、目を丸くした。

「中々君は小賢しいね……」

「悪かったね、べーだ」

「まったく……レイン!」

キークの声に振り向き、レインの身体がふわりと宙に浮かぶ。

「おいで」

「……。」

トアンと、キーク。二人の顔を見渡してどちらにも動かないレインに、キークが優しい声色で告げる。

「おいで、大丈夫だから」

「何が大丈夫なもんか」

「何!?」

ピシャーン! 何の前触れもなく、突如激しい稲妻が辺りを引き裂きながらキークに向かって一直線に進んでいく。キークはこれを避けたが、その拍子に腕の拘束がゆるみチェリカを離してしまう。

チェリカの反応は早く、去り際にキークの体勢を崩すように一発横蹴りをいれ、走ってその場を離れた。

何が、トアンが状況を確認するより早く、チェリカの嬉しそうな声が聞こえる。

「シアング!」

大丈夫か、という声のあと、とん、という軽い音とともに地面に着地した人物──今の雷も彼だろう──シアングは、チェリカに向かって笑いかけた。何故上から? というのは聞く前にわかった。シアングの手にはレインが抱えられていて、恐らく空中から引き摺り下ろしたのだろう。

「シアング、ありがとう!」

ばふ、チェリカの勢いのある抱きつきに、少しもよろけずシアングは笑い、よかった、と言った。

「しっかりしろよトアン、ウィル。喧嘩なんかしてる場合じゃなかっただろうに」

「ご、ごめんなさい……」

「最悪、チェリちゃんもネコジタ君も持っていかれてたんだぞ」

「……ごめん」

項垂れるトアンとウィルに近づき、シアングはそっと頭を撫でてやった。


「おっと、眼帯眼帯……」

チェリカの手が黒い眼帯を外した瞬間、それは空中に四散して消滅する。


「もー、トアンもウィルも動いてくれなかったからさ、私ちょっと焦ったんだよ」

どこか間延びする口調で口を尖らせるチェリカを、訝しげにウィルが覗き込む。

「ああ、なんか眼帯眼帯いってたけど……」

「鈍感」

「なんだと!」

「気配、感じなかったの? トアンとよく似た……力の気配」

「……いや、その、それがさ」

「はーあ、ウィルのバカ」

「なんだよさっきから」

「何でもないよ」

かくんと肩を落とし、呆れたようにチェリカがため息をつく。ウィルはなにか反論しかけて──やめた。

「わりぃ」

「ネコジタ君を守りたいっていうの、よくわかるけどよ。焦ったって見落とすだけだぜ?」

チェリカの代わりにシアングが優しく答えたが、それが余計にウィルには辛いだろうということをトアンは感じた。先程の一瞬、言い方が悪いがシアングがいいとこ取りをしてしまったようなものだ。

「トアンも駄目」

いつになく厳しいチェリカに、思わずトアンは目を逸らす。

謝るしかできないが、それはそれで呆れられそうだ。

「でも、ありがとう」

「……え?」

「私を気にかけてくれて」

嬉しそうに、ぱっと笑うチェリカを見て、顔があつくなるのを感じて少し俯いた。辺りが暗いのもありがたい。そうでなければ、絶対にどうしたのと言われてしまう。

「……う、うん……そ、それよりシアング、大丈夫?」

「お前が大丈夫か?」

やっぱり。気付かれている。くつくつと笑いながら返すシアングを少し睨み付けたが、シアングは涼しい顔をしたままだ。

「そういえば、血のにおいがする」

「ちょっと猫にかまれてね。……っ。ウィル、まだ触るな」

「──その傷!」

チェリカと似たような傷口を見て、ウィルが声を上げる。が、シアングは手を振ってそれを制し、口元に手を当てた。

「言うな」

「で、でもそれ……レインの……」

「言ったろ、猫にかまれたってさ」

「……シアング」

「シアング、おそろーい」

「そうだなチェリちゃん」

チェリカの金髪を撫でながら、優しく笑う。そのシアングは不安定な彼ではなく、どちらかというとルノが居たころのシアングに見えた。

トアンも笑みを浮かべて見守っていたが、突然ウィルがはっとして一点を見つめた。つられてそちらを見ると、砂漠に父親がたった一人たって、こちら見ていた。

「……父さん」

「…………。」

トアンの声に、父は少し悲しげな表情を見せる。──何故? それにどうして攻撃を仕掛けてこない?

「どうして」

「──頼む」

キークが一歩進む。銀の砂が舞い上がる。

「邪魔をしないでくれ。私は、私は約束がある」

「約束?」


「──アリシアのことか」


掠れた声が夜風を切り裂き、大気を擦った。トアンが振り向くとシアングに抱えられていたレインがいつの間にか目を覚まし、トアンの肩越しに──父を見ていた。

「彼女と話をしたのかい?」

「──……。」

「レイン、教えてくれ! アリシアは、何と!?」

人が変わったようだ、トアンはそう思い、暫く父を凝視した。先程までの余裕と威圧感は消えうせ、ただちっぽけなひとつの存在が、必死に問いかけているように見えた。

「足りない」

「……足りない?」

「なにも、かも。……足りないと。でも親父、本当にこれが約束なのか……?」

ぴくん、キークの肩が揺れた。

「……暗闇の中で」

レインはそっとシアングの手を肩から外すと、ふっと息をつく。

「いろんなものを見た。いろんなものを聞いた。でも、正しくはねぇだろうな、きっと。」

「……レイン、どうして、そんなことを……」

「オレは自分が利用されてんのが嫌なんだ。それに」

ちらりとトアンに視線を送る。それはなんだかいつもの尖った視線ではなくて、トアンは目を丸くした。

「……こいつを、苦しめた。それは許せない」

「兄さん……うっ」

静かに言い放つ兄は、揺れる金髪もオッドアイも砂漠の夜空から切り取った星のように美しく神秘的で、思わずトアンはどきりとする。だが直後、容赦のないツッコミがウィルの拳によってわき腹に入り、膝をおった。

「ウィル、何するんだよ」

「……ふん」

むくれるウィルにだめだこれはと首を振り、再び兄と父の会話に耳を傾ける。

「どうしてオレをここまで生かした? ……なにもかも、約束のため?」

「そんなことを言うな!」

「……そうだよ!」

思わず口を挟んでしまいレインが煩そうにこちらを見た。だがそんなこと構ってられるか。……こちらを見る兄の視線の中に、どこか自虐的な色が見えるのは勘違いではないだろう。

──どこかぼんやりした、まるでうわ言のように呟く兄。意識が混乱しているのか?

「兄さん、何があったの? 全部自分の所為にするつもり!?」

「お前は黙ってろ」

「黙らないよ!」

「……。」

やれやれと首を振るレインは、まるで何もかも諦めてしまったような顔をしている。

「オレだって、全部わかったわけじゃない。ただ、断片的にここで起こったことと、アリシアがオレたちの母親ってことを知らされただけだ。……でも、オレは、チェリカとシアングに……。」

「のう、キーク」

不意によく通る声がして視線を向けると、廃墟の崩れた柱の上に立つテュテュリスがいた。夜空にきらきらと毛並みが輝き、辺りの空気が張り詰める。

「まさかと思うがの。お主、本当は家族を愛しているのかの?」

「まさかではない。私はこの世で最も家族を愛しているとも」

「……だがのう、愛するあまり見失っておるのではないか。現にみろ、お主の子供たちは心にまたひとつ傷を作っておる」

「……そんな」

「お主の言動が仲間を刺す度に、トアンの心は優しかったお主との影にえぐられておる。お主が『約束』と証した一つの結果を得るために、レインの心は再び切り裂かれておるのじゃ」

「焔竜……」

「わしはの、キーク。おぬしを責めているわけではないよ。あのときお主がアリシアを選んだことは、わしは賛成しておるのじゃよ」

「……私は間違っているのか?」

「人の正しさは誰にも決められぬ。ここは去れ、キーク。お主がなにを考えておるのかは誰にもわからぬ。だがお主は矛盾しているのだ」

不思議なことに、先程からキークは攻撃の意思をすっかり失ってしまったようだ。テュテュリスの言葉に項垂れると、そっと背を向ける。

「私は正しい、のか?」

ぽつりと、誰に言うでもなく、まるで自分に言い聞かせるように彼は呟くと、忽然と砂漠の闇に姿を消した。

「……さっぱりわからんの」

ぱたん、キークが消えた虚空を見ながら尻尾を倒したテュテュリスが言う。

「シアング、チェリカ。血を吸われた傷は痛むか?」

「いや」

「不思議、全然痛くないんだよ」

「成程のう……」

「それよりテュテュリス、竜の姿可愛いね」

チェリカがそっと抱き上げると、テュテュリスはごろごろと喉を鳴らした。

「順応が早いの、チェリカ」

「えへへ」

「竜の姿っていっても、ドラゴンとは限らないんだな」

ウィルがしげしげと興味深げ眺め、それからそっとレインに視線を向ける。レインはただそこに立ち、ぼんやりとした瞳で夜空を見ていた。

「ネコジタ君」

すかさずシアングがその肩を叩くと、細い体はいとも簡単に崩れ落ちる。咄嗟にウィルが進み出るが、もうシアングがその身体を支えていた。

「レイン!?」

「……気を失ってるみたいだ。……さっきからちょっと様子が変だったよな」

「あのキークとの会話か。……確かに」

黙って二人のやり取りを聞いていたが、トアンは頭を振ってテュテュリスを見た。

立ち止まっていてはなにもわからない。

「テュテュリス、あの!」

「残念じゃがの、今はわしはなんとも言えぬ」

「どうして!?」

「状況が不安定じゃからじゃよ。言ったろう? わしはお主の兄の正体を見届けに此処にきた。ところがどうじゃ、レインは血華術を使ったじゃろう」

「……。」

「わしは一足先に深水城へ行く。ヴァイズに話さなくては。……大丈夫じゃよ、わしは止めたいだけじゃから」

「テュテュリス……。ありがとう」

「うむ。お主等はハーフエルフの家で状況を確認してからこい。……それと、レインのことじゃが」

テュテュリスはチェリカの頭の上に登ると、目を細めてシアングとレインを見た。

「今は抑えつけられていた意識と何かの力が抑制しあっておるが、おそらくもう一度目覚めたときには酷く錯乱するじゃろう」

「……オレとチェリちゃんの血を吸ったから、か」

「そうじゃ。吸血行為をしていたレインにはハッキリした意識がなかった。おそらく『何かの力』の所為じゃな。──まだ詳しいことはわかっとらんから確信は持てぬが、一度力を得た以上、同じ血は二度は吸わぬと思う。吸血鬼などと違って、空腹を満たすための吸血ではないからの。じゃから、何かあったら、チェリカとシアングがとめろ。シアングは力も強いし、なんとかとめられるじゃろ。……トアンとウィルは、よくよく注意するのじゃ。また吸血行為があった場合、自分自身だけではなくレインもまた傷つくぞ」

「そんな!」

ウィルが反論したが、テュテュリスは有無を言わさぬ強い瞳で見返してきた。

「多分テュテュリスの言うことはあってると思うけど、オレは!」

「素直にオレとチェリちゃんに任せとけって」

「シアングお前な!」

「オレだって隔離みたいなのは賛成できないけど、ジジイの言うとおりのことがあったら? ないっていう保証はないぜ」

「……。そうだな……」

「ありがとうテュテュリス」

項垂れるウィルの横で、チェリカが目線を上げて手をふった。テュテュリスはくつりと笑い、

「またの」

というとふっと姿を消してしまった。

ひんやりと冷えた空気が頬を撫でて、嵐のような出来事の幕が閉じていく。

謎だけが心に残って、いくら擦っても落ちないような気がした。トアンはテュテュリスが消えた空間を暫く見つめていたが、やがて視線を美しい夜空に向けた。

(アリシア……母さん……。いったいオレたちに何をして欲しい? 父さんを止めて欲しいの?)




「ミルキィ、棚の右から二番目の薬を三粒ほど取ってチェリカとシアングに飲ませろ。それからトアンとウィルと一緒にレモンをきかせた紅茶を飲んで、真珠の花の前へ」

トアンとウィルが代わる代わる担いできた、未だ動物の姿のままのザズの治療をしながら、アリスが淡々と告げた。

「夜の砂漠は冷えたでしょ? ……それに、いろんなことあったみたいだし。早くここ座りなさいよ、見てるだけでも落ち着くから」

はい、二人に薬、それから四人分の紅茶をトレーに乗せたミルキィが優しく微笑んだ。成程、この家とこの少女は存在が安心に繋がるとこのときばかりは思う。トアンとウィル、シアングとチェリカは輪のようにすわり、テーブルの上に置かれた真珠の花という真っ白で丸い花びらがいくつも付いた不思議な植物の前で紅茶を一口飲む。

ああ、温かい。

先程ザズを含む六人が帰ってきたのをみて、ミルキィは悲鳴をあげ、寝ていたアリスを叩き起こした。アリスは一同を見渡し、傷ついたザズを見るや否やソファに寝かせ治療を始めた。そのままテキパキと指示を出し、ぼーっとした表情で様子を見ていた少年──ラキという少年だ──に未だ意識が戻らないレインを二階に連れて行くように言った。あとは、紅茶を飲んでいる今に至るだけだ。

「……」

「…………。」

「……あのさ」

無言に堪えられなくなったのか、チェリカがくるくるとカップの中で茶を揺らしながら口を開いた。

「深水城に戻れば、お兄ちゃんは助けられるんだよね。お兄ちゃんならこんなとき、どうするんだろ」

「ルノのことだからな。多分暫く本とかあさって、身体壊すんだろうな。まーよく一生懸命にやれる子だから」

シアングが笑いを含めた口調で言うと、チェリカがほっとしたような表情になる。トアンは何も言わず、だが笑みを浮かべて頷くと、さらにチェリカは嬉しそうに笑った。この空気に耐えられなかったのはおそらく全員だ。逆に礼をいってもいい。

「さっさとまとめるか。トアン、はなしてくれ」

背もたれに身体を預けたウィルが言う。チェリカが頷いて、トアンはあの祭壇での会話をゆっくりと思い出していった。


間違いなく、自分とレインはアリシアとキークの子であるということ。キークは『家族』を守るというのは多分本気だが、そういう反面レインの中の力を引きずり出して吸血行為までさせ、そのことについては『約束』を果たすためと答えたこと。しかしレインは『不完全』らしく、キークが操りきれていないところもあったこと。

そして、この仲間たちは全て母親のための『材料』になる、ということ。勿論、トアンも。


「材料だって?!」

ウィルが不愉快そうに口調を荒げるが、トアンが項垂れていることに気付いて慌てて謝った。

「ご、ごめん……。トアンの所為じゃないからさ」

「……。」

「そうだよ、私たちがついてきたんだもん」

そういうチェリカの言葉に、若干の驚きを覚える。てっきり自分がついていってるだけだと思っていたが、そう言ってもらえると少しだけ楽になれた。

「でもおかしいよな」

といったのはシアング。

「『家族』を守りたいってのに……トアンもその『家族』だろ?」

「……多分」

「多分ってなんだよ。元気出せ」

「…………。」

「あーあー駄目だこりゃ。ジジイの言うとおり、確かにキークは矛盾してるよな」

シアングがレモンをスプーンでつつくと、それは美しい波紋をつくる。

「……」

「……矛盾、かあ」

ぽつり、チェリカの声が沈黙を縫った。

「お兄ちゃんと箱庭での実験──あれって、合成獣とかなんだとか、生命に関係することだよね。……なんでキークはそんなことしてたんだろ。生命……命……」

「どうもひっかかるな。それにジジイと会話してたときとか、ガラッと雰囲気かわったんだよなー」

「生命……」

「チェリちゃん、もうオレこんがらがってきたよ」

「……命。──血?」

「え?」

「……旅の始まりも、スイのことも何もかもが……まさか、ねぇ」

中途半端に言葉をとめ、考えを打ちけすようにチェリカは頭を振って頬杖をついた、すかさずウィルが口を挟む。

「なんだよ、気になるじゃんか」

「もーうるさいなー」

「うるさいって何だよ! 何か知ってんのか!?」

「……予想だもん。ちょっと嫌なこと考えちゃったの。忘れて」

「へー珍しいじゃん。チェリカがそんなこと言うなんて」

「……」

「お、お? な、なんだよ」

「ウィルがチェリちゃんを泣かせたー」

「泣かせてないぞ!」

急に黙り込んだチェリカを見てシアングがニヤニヤと笑いウィルをからかった、その時だった。


「ミルキィー! 助けてー!」


ひいーという情けない悲鳴を上げながらラキが階段を凄まじい勢いで駆け下りてきた。

「何よ、どうしたの」

ザズの治療を手伝っていたミルキィが顔を上げるやいなや、ラキはしっかりとその背後から抱きつく。衝撃にミルキィの細い身体ががくんと揺れた。

「ラキ、なんなの? お化けでもいたのー?」

「お化けじゃないって! 殺されるー!」

「……殺される?」

「血華の力を持った子が起きたんだよ! 殺されちゃうよう」

それを聞いて、はっとした表情でシアングが立ち上がった。

「殺さないわよまったく。……レインが起きたのね」

「うん」

「……。待った!」

と、席を立ったばかのトアンたちを見渡して制止をかける。

「なんだよ?」

眉間に皺を寄せたウィルが文句をいうと、ミルキィがウィルとトアンをにらみつけた。それはもう凄まじい変わりようで、思わず二人は背を反らす。

「トアンとウィルはまだ行っちゃだめ。チェリカとシアングだけいきなさい」

「……そういやジジイも言ってたな。トアン、ウィル。落ち着いたら呼んでやるから待ってろ。──チェリちゃん、行くぞ」

「うん! 待っててね」

それ以上この場にとどまるとトアンとウィルに対してよくないと判断したのか、シアングの言葉にチェリカは有無を言わさない笑顔で告げると階段を駆け上っていく。

トアンはそっと紅茶に視線を落とし、力なく立ったばかりの椅子に腰を落とした。

「こんなの、おかしいよ……」

「そうだよな。オレたち、仲間なのに」

ウィルが複雑そうにしながらも笑いかけてくれたが、トアンは笑みを返すことができなかった。


しん、静まり返った真っ暗な部屋。シアングはキョロキョロと室内を見渡すが、窓から入ってくる僅かな月明かりだけでは様子がよくわからない。

(せめてもうちょい雲が晴れればな)

神経を研ぎ澄まし気配を探ってみるが、驚くことに僅かな気配しか感じられなかった。

(ネコジタ君の気配ならもっとはっきりわかるはずなのに……なんだ? オレたちから隠れてるのか?)

ちらりとチェリカを見ると、チェリカは小さく頷いた。二人はそっと一歩進む。そうするとドアが閉じて、ぱたんという小さな音と共に廊下の木製のドアが廊下とこの部屋を遮断する。

「レイン」

チェリカがそっとベッドに近づいていく。僅かに盛り上がったベッドは、『誰かがいる』ということを教えてくれた。

レインは頭から掛け布団をすっぽりかぶり、小さく丸まっているようだ。

「レイン、……よく寝たね」

状況に相応しくない、チェリカの間の抜けた問い。だが意外な問いに対しても、なんの反応も返ってこない。

「シアング……」

どうしよう、少女が振り向く。シアングは腕まくりをして布団に手をかけた。

「ようし、強行突破だ。おはようさーん!」

バサァ……ッ! 何の抵抗もなく布団は舞い上がり、シアングがそれを引くとレインの姿が露になった。身体を丸めて横向きに寝るのはレインの癖で、ここにいるのが『レイン』でシアングは少し安心した。

「!」

暗がりの中ではっきりとは見えないが、驚いたような表情がこちらを向く。

「おはよう」

「おはよーう」

嬉しそうに笑ったチェリカがレインに手を伸ばす。が、レインはそれを避けると壁を背にしてベッドの上で座り込んでしまった。

「触るな」

「どうして?」

「……」

「黙ってちゃわからないよ。どうして」

そのとき部屋の中に明かりが満ちた。雲が晴れたのだろう、柔らかな光りにレインの表情が明らかになる。……ああ。シアングは少しだけ後悔した。

泣きそうで、でも泣いてはいなかった。狂いそうで、でも狂ってはいなかった。──堕ちるに堕ちれない、とても辛そうだと思う。

──そんな顔するなよ。

光に目を細め、暫くしてレインの眉が寄った。細い肩が震えてる。

「……あ」

「?」

「……チェリちゃん!」

はっとして少女の喉──包帯に手を当てるが、もう遅い。レインの視線はチェリカの包帯からシアングの包帯を見て、そしてその顔に深い後悔が刻まれた。

「それ」

「あ、違う、レインじゃないよ。あー、きっと夢でも見てたんだね」

「……チェリカ」

「いやだな、まだ寝ぼけてるの?」

「チェリカ!」

悲痛な声をあげ、レインがチェリカに手を伸ばし──ぱっと引っ込めた。

「レイン」

「──オレは覚えてるんだ! オレが、オレの身体が! お前たちの血を欲しがって──」

「……大丈夫だよ、ピンピンしてるってば」

「嘘だ! お前らが倒れるのも覚えてる。喉の奥がカラカラに乾いて、それで、それで! あのとき、オレはその衝動に逆らわなかったんだ! ただ欲しくてしかたがないから、乾きに任せてお前たちの喉に噛み付いた」 

がくがくと肩が揺れ、恐怖と嫌悪にレインの瞳が揺らめいている。

「レイン……でも、あのとき泣いてたでしょ……?」

「それはただ、ただ流されるのが──」

「……もう、いいから」

これ以上見ていられなくて、シアングはそっとその細い身体を抱いた。びくりと肩が跳ね、強張ってしまう。──こんなレインは初めてだ。アルライドを失ったときとは違い、堕ちるに堕ちれない境目を歩く苦痛。シアングは強張った身体をほぐすように優しく頭を撫でてやった。……そういえば、昔ルノにも同じことをしてやった気がする。

「大丈夫だから。自分を責めるのもわかるけど、オレとチェリちゃんは一回吸われたからもう心配ないらしいぜ。次にその衝動が来てもちゃあんととめてやるからさ。もう、今は考えるな」

「……あ」

ぎゅっと瞳が閉じられ、その身体が丸くなる。こういうときは子供みたいだとぼんやりと考えて、シアングはそっと笑った。自分とは一歳の差だが、自分はこの先まだまだ長い。他の人間より弱っている彼と比べなくても、十分自分のほうが長く生きるのだ。気構えは同い年の人間より大人だろうと自負している。

くん、シアングのズボンをチェリカが引っ張った。窺うような青い瞳に頷いてやると、安心したようにチェリカは笑った。

そうしてベッドのうえに上がると、横からシアングごとレインを包む。

「私たち、そんなにヤワじゃないからね。……へへへ、こうするとあったかい?」

「…………。」

「また、泣かせちゃったね。ごめんね」

「……っ……わりぃ……」

小さく、レインの身体が震える。

普段の触るなとか、先程の拒絶を全くせずに、そして苦しいとも言わずレインはそっと呟いた。

「ありがとう…………」




「……霧がかかってた」

数十分後。

落ち着きを取り戻したレインはトアンに会いたいとはっきりとした口調で告げ、チェリカが呼びにいき階下にいたトアンとウィルは漸く部屋に入ることができた。最も、レインはベッドに腰掛けているがその横にはシアングが胡坐をかいて座っていて、チェリカがその反対側につく。……再び『事故』が起こらないためなのだろうが、トアンにはなんとなく、チェリカとシアングがレインの護衛のように見えた。

チェリカはいつもどおり笑っているが、シアングを取り巻く気配はいつもの彼とは違うのだ。

(なんだろう)

だが嫌な変化ではないとなんとなく感じて、トアンはソファに腰掛けた。どうしようか迷っていたウィルを隣に呼ぶと、そうして兄の話を聞く姿勢になった。

「…………霧?」

「そうだ。チェリカの血を吸った瞬間は霧から声が聞こえて、親父に会ったときは赤い霧がかかった。ザズが何かいってるのはわかってたけど、もうあがらえなかった」

意識がズブズブと沈んで、それでも抵抗はしてみた。が、全く意味を成さなかったという。

「それからは断片的な記憶だ。シアングの血を啜って……そのときはもう、身体は勝手に動いてた」

伏せ目がちに話ながらも、その口調はふてぶてしい普段のまま。……ああ、兄だ。ようやく兄に会えたようで、トアンは安堵の息を吐き出した。

「それで、ずっと霧の中を彷徨ってたんだ。たまにお前らと戦う自分を見た。でも、またすぐに意識は霧の中を彷徨って、ぼうっとして……それで、それで……。でも確かに覚えてるのは、オレがお前等を殺そうとしたこと」

「でもそれは仕方がなかっただろ?」

ウィルが慌ててとりなすが、レインはそっと首を振った。

「お前が守ってくれたのも覚えてる」

「……! そ、そうなんだ」

「オレの血全部飲まなかったのは、なんとか抵抗してくれたんだろう?」

シアングが笑いながらレインをつつくと、レインは迷惑そうに睨む。

「不味かっただけだ、バカ」

「どうだかね、あー、あのときのネコジタ君、本当にもうどうしようもなく」

「うるせぇな。殺しときゃよかった」

「あ、なんか酷いこと言ってる」

「ふん」

レインは顔を逸らし、隣にいたチェリカと顔を見合わせる。

「……チェリカが眼帯を取ってくれたとき、やっと絡みつくものが消えて、身体の自由がきいた。そのあと親父と話をしたってのはチェリカから聞いたけど、オレ、何を話したか覚えてないんだ」

「……え?」

「…………。今さっき起きて、やっと全部自由になった感じがした。霧が晴れて、何もかも見て、」

「怖くなった」

「~、さっきから何なんだよアンタ!」

ちゃちゃをいれるシアングのことを蹴飛ばすが、シアングはくつくつと笑ったままだ。

「だって本当だもーん。ね、チェリちゃん? ネコジタ君さっきまでみーみー泣いて」

「みーみーだあ!?」

「こわーいこわーい、レインちゃん、また自分を失うのがこわー……うがぁ!」

ぼぐ、直接内臓を叩くレインの鋭い蹴りが入り、シアングが呻いた。

なんだか、やはり少しだけの違和感をトアンは感じ取る。

(シアング……どうしたんだ?)



「結局、なにもかも覚えてないんだ。役立たずってことだな」

カラン、グラスの中の氷が揺れる。ふんわりとした夜風が開け放った窓から流れ込み、心地よさを運んでくれた。レインの髪も風に揺れる。

「んなこというなよ」

少しだけ悲しそうな顔をして、シアングが相槌をうつ。

あのあと、トアンとウィル、チェリカを就寝のために其々の部屋に帰して、二人きり部屋に残ったシアングとレイン。ミルキィがこっそり出してくれた酒を飲みながら、夜風に当っていた。

長寿であるハーフエルフのミルキィが持っていたワインはどれも古く、芳醇すぎるものだったのでその辺で最近買ってきたという安物の酒を出してもらった。それでも二人で遅すぎる晩酌するには、十分な味。

「トアンの顔、みたか?」

「……見たって?」

「さっきのだ。あの顔、あいつがまた余計な心配してる。……おかしいな、オレが兄なんだぜ?」

「別に兄だからって心配されちゃいけないって訳ないでしょーよ」

「オレばっかりだ。いっつもいっつも……。オレがあいつの心配をすることなんてほとんどないんだ。自分に手一杯で、弟一人守ってやれない」

グラスを揺らす。からり、氷の音が気持ちいい。シアングはレインの顔を見て、カリカリと頬をかいた。

「そんな顔すんなよ。そういうこと思うあたり、十分思ってやってるじゃんか? ネコジタ君はいいお兄さんだと思うぜ」

「……」

シアングの言葉に、レインは苦笑いを浮かべて首を振った。

「──忘れられないんだ」

「……何を?」

「多分、オレ、トアンのことを殺しちまう気がするんだよな。あいつは一番最後。最後に血を吸って、動けなくして、そして腹を切り裂いて……」

影だけが、赤い背景から分離していた。

自分の影。座り込んでいる、トアンの影。自分の影をどこか客観的に見ながら、視線を背けることも耳を塞ぐこともできなかった。

近づく、自分。

『──……!』

喉から絞り出されるような、トアンの悲鳴。

自分に、未来を視る力はない。トアンのように無意識でも視れないものはみれないし、視れたためしがない。

それはひょっとして、自分が作ったまやかしかもしれないが、それでも自分は視てしまった。


「んー、グロイ話ですが」

「…………。そういうの、一瞬だけ見えたんだよ」

「冗談にしちゃきっついぜ? ああ、そんなこという子じゃない、か」

「……アンタはオレの何を知ってる?」

眉間に皺がよるレインとは対照的に、シアングは涼しい顔をしていた。

「なあんも。でも、少しはわかる気がするんだよ」

「わかる?」

「こーやって酒飲んでるとね、なんとなあくネコジタ君の考えてることがわかるっての。不安なんだろ?」

「……」

「だんまりは肯定?」

「……アンタは。」

はぁ、諦めたようにため息をつくと、レインは前髪をかきあげた。否定も肯定もせずに、次の言葉を紡ぐ。わかっているのだ。シアングには、多分見透かされてしまう。それは癪だ。

「オレがアンタをとめてやるって決めたのに、またアンタに世話になるのか」

「ははは、まあいいだろ? オレはまだまだ世話が焼きたいの」

「そうやってオレに構ってる間は、アンタ、逃げてるんだろ」

ぐ、今度はシアングが言葉を飲み込んだ。明らかな動揺にレインは満足すると、夜風に遊ばれるシアングの髪に触れる。

「オレが、逃げてる?」

「逃げてるだろ、ルノのことから」

「……。そう、見える?」

「見えなかったらいわねぇよ」

「……」

「……。」

会話が途切れる。耳を撫でるのは、氷の笑い声だけだ。

「なんか妙な関係だな、オレたち」

「?」

「互いに、なんつーの? でっかいもん抱えてさ」

「……そうだな」

関心なさそうにこたえて、レインはグラスの中身を一気に飲み干す。闇夜にも目立つ白い喉が小さく動くのをみて、シアングの口元に笑みが浮かんだ。

ぷは、息をついて口を拭うと、そっとシアングの逞しい肩にもたれかかる。

「お、どうしたの」

「……止めてくれよ。そう遠くないうちに、またきっと『のまれ』ちまうから」

「任せとけよ。絶対に誰も悲しませないから」

「オレのこと殺せるか?」

「…………。多分、無理かな」

「じゃあ」

ふ、今度はレインが笑った。

「アンタがいつかとめて欲しかったら、死ぬ気でとめてやるからな」

殺さないでくれよ、そういってもう一度笑う。……今すぐに、殺して欲しいくせに。

──殺してたまるかよ。

シアングはそっとレインの頭を撫でると、自分のグラスを傾ける。カラリ、氷の声が静かな部屋に響いた。

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