第41話 ここから遠くに沈む星

「氷像にするとかいう精霊の呪いは、火で溶ける」

「火?」

「そう、火だ」

「私、炎の魔法使いだけど溶けなかったよ?」

首を傾げるチェリカに対して、アリスは顎に手を当てた。

「もっと強力な火。そして聖なる、な。クルカラの葉を粉にしたものを火種に散らし、チェリカ。お前の魔法で火種を使って氷を溶かすのだ」

と、アリスが指を鳴らした。するといつの間にかザズが手に小さなガラス瓶を持ってきて、トアンに手渡す。

ガラス瓶の中では小さな黒い石に炎が宿り、ゆらゆらと揺れ続けていた。

「ルトニ火山の火だ。以前採取していたものが残っていた。……それを使え」

「ありがとうございます!」

「それとクルカラの葉の粉末を持っていけ。まったく……テュテュリス、これぐらいやれるだろうに……。あぁ、もう一人病人が居たな。どれどれ」

めんどくさそうに立ち上がるアリスを見ながら、チェリカはトアンの隣で嬉しそうに笑っていた。

「良かったね、チェリカ」

「うん! これでお兄ちゃん助かるよ。お兄ちゃん、きっともう待ちくたびれてそう」

「そうだね」

にこにこ笑う彼女は、きっと心のどこかでルノと繋がっているのだ。応答があってもなくても、きっと今と同じことを言っただろう。

「ふぅん、衰弱してる。名前は?」

アリスは淡々した様子のままとレインの治療を始めたようで、もうこちらを見向きもしない。

「……レイン」

「レイン? レイン、か。……ザズ、とりあえず薬茶を飲ませよう。淹れてきてくれ」

「はぁい。ばいばい子猫ちゃん」

自然な会話に、見えた。

チェリカもシアングも、ウィルも。何も思わなかった。


だがトアンには、アリスの横顔が一瞬曇ったように見えたのだ。



その日、トアンたちはアリスたちの家に泊まることになった。ベッドはそんなにないでしょとザズが言ったが、驚くことにアリスがソファやらで寝ろ、泊まっていけと言ってくれたのだ。ミルキィは大喜びで、沢山の料理を作ってくれた。──が、その味はすばらしい見かけに反比例。何もいえない。


チェリカは新しい水差しを持って階段を登っていた。レインの熱がまたぶり返したのだ。

(熱出ると喉かわくもんね)

できれば兄の元に一刻も早く向かいたかったが、無理をさせるわけにもいかない。

チェリカ以外の仲間は珍しくもう寝ている。看病する、と言い切っていたウィルまでも、何故か。

(皆疲れてたんだなぁ……)

深夜だというのに、自分の目はスッキリとさえていた。

「レイン、入るよ」

ギギ、軋んだ音を立ててドアが開く。眠っていると思われたレインは起きていて、音に反応してこちらに振り向いた。闇夜に光るオッドアイが美しい。

「起きてたの?」

「……。」

レインは答えない。

まあいいか、とチェリカが水差しを置くとレインが立ち上がった。

「起きちゃダメだよ」

「…………。」

「……レイン?」

少しも反応しない、レイン。──訝しげに目を細めるより早く、レインの手がチェリカの両肩を掴んでいた。

「どうしたの?」

「──を」

「え?」

ふわりとした髪が首筋にかかる。くすぐったい、チェリカが声を上げるが、レインはどこかぼんやりとしたまま。


「血を──。」


ブチ、首筋の皮膚を裂いて何かが刺さった。

それが歯だと気付くのに、時間は要さなかった。

痛みは感じない。ただ、頭の芯がぼうっと痺れて、手先から力が抜けていく。

「……レイ、ン……?」

突き刺さった傷口からあふれ出た血を舐め取り、きつく吸い取られる。

「──ど、して──……」

その言葉を吐きすや否や、チェリカの意識は沈んでいった。


「……──っ」

眠りに落ちたようにゆったりと流れていた意識が不意に浮上し、喉の奥がくぐもって悲鳴が上がらずに消えた。ぐったりとしたチェリカの体を支えたまま、自分のしたことを思い出す。

喉を通る、鉄の味──……。

「う、ぁ……うわあああああ!」

思わずその身体を離すとレインは窓枠から飛び出していた。



「うわあああああ!」

ずるずると絡みつく眠りから引き剥がしたのは、兄の悲鳴。思わず枕元の剣を掴んで立ち上がると、隣のソファで寝ているウィルと目が合った。

「ウィル」

「……今の、なんだ? 夢じゃないよな」


「──ちゃん、チェリちゃん!?」


二階からシアングの声が聞こえた。ざわり、嫌な予感が背筋を通り抜ける。

「行こう!」

部屋から飛び出して階段を駆け上がる。

「シアング、どうしたの!?」

「……!」

はっと振り返った彼の腕には、ぐったりとし血の気がない顔で横たわるチェリカの姿があった。

「チェリカ!? チェリカ!」

「ミルキィ、早く!」

「わかってるわよ!」

シアングの声にミルキィが手に包帯を持って駆け寄ってきた。──包帯?

「!」

はっとして視線を走らせると、チェリカの細い首筋から、夥しい出血が流れ出ていた。

パ、部屋が明るくなる。……ウィルがランプを灯したようだ。ミルキィは手早く薬草を当て、包帯を巻きつけていく。

明かりのした、チェリカの傷はより鮮明に、そして酷いものに見えた。

「キレイに血管を探し当ててたわ。かなりの血が出てる。……寝かせましょう」

「……レインは?」

後ろから見守っていたウィルが口を開く。はっとしてミルキィとトアンが辺りを見渡すが、レインが寝ているはずのソファには誰もいない。──代わりに、開け放った窓のカーテンが、夜風にふんわりとはためいていた。

「兄さん?」

「まさかチェリカ、誰かに襲われたとか! それでレインは連れてかれたんだ!」

「……いいえ」

窓から身を乗り出して闇夜を見つめるウィルの背に向かって、ミルキィがポツリと呟いた。

「この家は結界が張ってあるの。もし侵入しようとしても、兄様かザズが気付くわ」

「……え?」

「外からの侵入はありえないのよ! 窓が開いたってドアが開けっぱだって、結界は感知するもの!」

「じゃぁ、誰がこんなことを!?」

「……。」

ゆるゆると首を振るミルキィ。トアンはそっと、瞳を閉じたままのチェリカに視線を落とした。

「誰が、──こんな」


「やはりな、見張っていて正解だった」


静かな冷たい声に振り返ると、ドアにもたれるようにし腕を組んだアリスが立っていた。


「兄様……? 正解ってどういうこと?」

「……。」

「アリスさん、何か知ってるんですか!?」

「──トアン」

「え?」

真っ直ぐな声と瞳はトアンを射抜き、進み出ようとした体は電撃を受けたように動かなくなる。

「血華教、というものを知っているか」

アリスの言葉に、隣に居るミルキィが息を呑んだ。視界の端で、チェリカを窺うシアングの身体も僅かながら反応を見せる。

「けっかきょう……? 知らないぜ」

状況を把握しかねているのだろう、頭をかきながらウィルが言った。──トアンも同感だ。

「トアン、ウィル。知らないのはお前たちだけか。……一番知らなくてはならないというのに」

「……え?」

「……どうして今更その名前が出てくるんだ?」

警戒の色が強く出た声で、シアングが探るように言う。酷く重い首をなんとか動かしてシアングを見ると、暗がりに光る金の瞳はまるで獣のようだった。

「シアング、知ってるの?」

「…………。オレも、一応竜の子だから。親父から聞いた」

「──血華教とは」

艶やかな髪をかき上げてアリスが切り出す。トアンとウィルがはっとして視線を向け、重く立ち込める部屋の空気がのそりと動いた。

「今から30年ほど前、一部の人間たちの間に爆発的に流行った宗教のことだ。事の発端は、ある特殊な能力を持つ一族の娘。当時5つの少女であった彼女は秀でた能力故一族のシンボルに、そして血華教の巫女として育ち、隠されていた。その能力は──血を操ること」

「血?」

どこかゾッとする響きに、トアンの肌が粟立った。

「そうだ。人間の新鮮な血を啜り、相手の能力を自らのものとして使えたらしい。また、死者との対話やら血液を使って形あるものを具現化することも、な。」

かつん、アリスのブーツが床を鳴らす。一歩近づいた彼の顔は、恐ろしいほど無表情だった。

「この宗教は血を、生命を操る邪教、ということで危険視した世界の国々と信者との争いが起こっていた。それも小規模のものではなく、血が血を求め、その地面に染み込んだ血すら巫女の糧になった。より血華教は邪悪で巨大なものになり、そして血華教を滅ぼすために大きな戦争になった。またそれが巫女の糧になると知りながら、泥沼のように戦い続けるしかなかった」

「……この森のある砂漠が、最後の戦いの場所。ここからそう遠くない場所に、18年前に陥落した神殿の跡地があるわ。今は廃墟だけど、真っ白な神殿は信者の血で真っ赤に染まってた」

当時の惨劇を思い出したのだろうか、ミルキィの耳が下がる。

「だが巫女の死体は見つからず、代わりに前の晩、神殿に見知らぬ男が目撃されていたらしい。男が事前に陥落を知り、巫女を連れ出したのだ。……僕が何故、今この話をしたかわかるか?」

淀みのない瞳がトアンを見据え、細められた。

「……わかりません」

「右羽が赤、左羽が黒。そんな蝶のマークを見たことがあるだろう。──血華教のシンボルを」

「──!」


還りの聲の城で、トアンは一瞬だがそのマークを見ていた。脳裏に浮かんだ、美しく不気味なマーク。


「巫女の名はアリシア・ローズ。そして連れ出した男の名はキーク・ラージン。……トアン・ラージン。お前の母と父だ」






「…………え?」

あまりにも唐突な話に、頭が付いていけない。

父が、母が?

思考は完全に固まり、トアンはただ曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

まさかこんなかたちで、父と──母のことを知るとは思わなかったのだ。

「あの、意味がよく……」

「逃げるな。お前が疑えば、それは逃避。お前は受け止めなくてはならない。そして、知らなければならなかった」

「だからなんだっていうんだよ!」

愕然とした表情で話を聞いていたウィルが、噛み付くような声で言う。アリスは彼を見据え、淡々とした口調で言い放つ。

「──わからないのか」

「アリス、はっきり言ってくれ」

どこか哀願に近い、ウィルの声。

「やれやれ。……アリシアの能力は血を使うと言っただろう? 僕は先程『彼』を治療したとき、アリシアと同じ気配を感じた。『彼』はどうやら母親の力を強く継いでいるようだった」

(聞きたくない)

「飲ませた茶に僅かに血液を混ぜていた。見事その血液に反応し、彼は血華教の巫女アリシアと同じ吸血行為を行った」

(……聞きたくない!)

「レインで実験したのか!?」

「……実験ではない。確信を得るために必要だったのさ、ウィル。お前はアリシアの能力の危険さを知らない。彼女が人間たちの世界にとって、とても異端で危ないということを……トアン」

「!」

思わず耳を塞いでいたトアンの手をそっと外し、アリスが囁いた。それは哀れむような、それでいて嫌悪が露になった声。

「お前の兄は所謂化物だったんだ。『彼』も、最初から魔物であったほうが幾分か楽だったかもしれない」

「兄様、やめてあげて!」

「真実だ。今は理性が戻ったお陰でチェリカは生きているが、やがてその力に食いつぶされる。お前の腸を引きずり出し、血に塗れた兄を見るまで、お前は否定を続けるのか?」

(……違う)

「シアングもシアングだ。竜の子として危険物は早めに処理すべきだろう」

「……。」

「シアング、お前! レインを殺すってのか!?」

咄嗟にシアングに掴みかかるウィルだが、シアングは否定も肯定もせず、ただ暗闇に目をやるだけだった。


いきなり頭に沢山の情報が叩き込まれた。

それは優しいものではなく、とても理解が難しく、だが残酷ということはわかった。

恐らくアリスの言葉は真実で、チェリカに傷を負わせたのがレインということも、いずれレインは堕ちていく、というのも本当なのだろう。

──だから?


「違う!」


アリスの驚いたような視線が向けられる。いや、この部屋にいるほぼ全員が、トアンに視線を預けた。

「……何が、違うと?」

「兄さんはそんなことにならない! 確かにオレと兄さんの母さんはアリシアって人なんだと思う! でも、兄さんは負けたりしない!」

「……ふん」

アリスは肩をすくめて見せると、ウィルのほうを向く。だがウィルもまた強い瞳をしていると知ると、ため息をついた。

「まあ、お前たちがどんなに喚こうが、もう問題あるまい」

「なんだって?」

「竜の子が動かない。弟も動かない──だが、彼を開放してやれるだろう者は、もう動いてるのさ」

「──ザズね!」

はっとしたように叫ぶやいなやミルキィは兄を睨みつけ、両手で奇妙な印を結んだ。

「トアン、急いで! 砂漠の廃墟に行って! このままじゃあんたのお兄さん殺されるわ!」


「……。僕に逆らうのか」

アリスがローブから分厚い本を取り出す。それが何か詮索する前に、アリスはパラパラと本を捲ると薄く笑った。

「邪魔させるか。我が前に立ちはだかる敵の自由を奪え、捉えよ!」

ドォン! 重々しい音と共にトアンは思わずよろめいた。──重い。重力が増えたかのように、体が重くなる。

「──レテルクトー!」

ヴン、空気を裂いてミルキィの声が飛び、上からの圧力を押し返した。

「ミルキィ、邪魔するな!」

「うっさいわね! トアン早く! ザズは兄様の『犬』なのよ、今まであたしたちの敵を忠実に殺してきたわ! 真実をあんたの目で確かめたいなら、行きなさい!」

凛とした強い口調で言い放つ彼女は、兄の魔法を押し返すまでは行かないが見事食い止めている。

「──ありがとうございます!」

その姿にただ一言そう叫ぶと、トアンは開け放った窓から闇夜に身を躍らせた。着地の瞬間、森の木々が衝撃を和らげてくれる──ウィルだ。

彼は窓枠から身を乗り出すと、振り向いたトアンに叫ぶ。

「すぐ行くから! すぐ行くから、レインを頼む! 悔しいけど、今はお前しか立ち向かえないんだ!」

「……ありがとう!」



天井も全て崩れ落ち、しんと冷えた空気が肌を刺す。昼間の暑さなど嘘のようで、銀色の砂が風にのって流れていく。

崩れ落ち、四方の壁に囲まれた中庭らしい場所の中央に、地に突き刺さるように立っている真っ黒な柱。白く風化していく周りの材質とは違い、それは美しい夜空と同じ色と、星のような輝きを保っていた。


その柱の上で、レインは膝を抱えていた。

冷たい足場と、寒さが身に染みる。だが自分は寒さに強いはずなのに、何故かとても寒い。理由がわからないまま、膝に顔を埋めてなんとなく気を紛らわした。

どくん、どくん。

密着した胸の鼓動が、嫌でも聞こえる。この鼓動は、今し方仲間として慕ってくれた少女の血液も自分の身体に流しているのだ。

「──う」

吐き気が、何度もこみ上げる。

だがしかし、決して喉までこみ上げるそれは外に出ず、再び体内に戻っていく。──不快感だけが募った。

『自分はなんなんだろう。』何度も思い描いては消えてく疑問。昇華出来ずに虚しさが残る。……わかっていないわけではない。


「……やっぱりオレ、化物なのかな」


「そうだね」

「!」

突如返ってきた返事に身を硬くする。腰に手を伸ばすが、いつも括り付けてある鞭がない。

「誰だ?」

「おれだよ、子猫ちゃん。やっぱりここだったんだね」

ひゅん、風が起きた。目の前に黒い影が浮かび上がり、音もなく着地する。戦闘衣装を身に纏う男は優れた脚力を見せた足を屈め、レインの顔を覗き込んだ。

「アリスからね、子猫ちゃんを殺せって言われちゃった」

「……ふうん」

「驚かないの?」

「…………うん。」

「でもね、おれはアリシアちゃんを殺したくないんだよ」

「…………。」

でた。どうしても自分たちについて回る『アリシア』という名前。

そういえば自分は長いことその名前を探していた気がする。てっきり『スノゥ』の名を探すため、『ブランカ』だとかなんだとか、女の名前を考えていた。

だがしかし、『アリシア』という名前は聞いた途端に耳に馴染んでしまったのだ。ああ、見つけてしまった。想像したのは安堵だったが、実際に味わったのは不安だった。

「『アリシア』ってなんなんだ?」

「アリシアちゃん? おれの前の飼い主で、おれを置いていっちゃったひと」

「──そうじゃなくて、どうしてオレたちについて来るんだよ。どうしてオレ、あんなことを──」

「血を吸うこと? あぁ、それは多分、子猫ちゃんとアリシアちゃんは血が繋がってるんだと思うよ。アリスが言ってたの」

「……は?」

「子猫ちゃんね、初めて見たときから思ってたけど。アリシアちゃんとおんなじ気配がするんだよね」

「──!」

咄嗟に体を反らしたレインにさらに顔を近づけ、ザズは続ける。

彼の言葉の意味がわからない。だが、何か事実を知ってしまったのだ。知りたくなかった事実を。

「どうすればいいのかな。同じでも、違うんだよね。子猫ちゃんはアリシアちゃんじゃない──」

動揺するレインをよそに、顎に手を当ててアレコレ考えていたザズは、わからないとばかりに首を傾げた。

「違うんなら、アリスに従うのがおれの役目かなぁ。そうかなあ、そうだよね」

ぺしゃんこの帽子から零れる水色の髪が夜風になびく、隠れていない右目がすっと細められ、ザズはゆっくりと手の先を擦る動作をした。──動作にあわせ、見る見るうちに爪が長くなってく!

男の結論は明白だった。


殺される。



そう感じた瞬間に、身体はもう動いていた。柱から飛び降り、空中で方向転換する。乾いた地面に着地した瞬間、ばきんという音がして柱の一部──先程まで自分が居た場所かと思われる──が破壊され、破片が飛び散った。

推測の形なのは振り返って確かめる余裕なんてないからだ。もう、あとは一目散に走るだけ。


生き残ってどうするかなんて考えてない。

ただ先程の一瞬、男の攻撃をかわしてしまったことを残念に思う自分がいた。

(──違う、生きるんだ)

そう自分に言い聞かせ、半分以上崩れ落ちた神殿の内部に走っていく。



足場が悪い。

砂に勢いと力を吸い取られ、走る速度がどんどん落ちていることを悟りながら、それでもトアンは走っていた。

森を一歩出た瞬間、気候が昔本で読んだ砂漠特有のものになったと感じた。昼間の暑さはどこへやら、冷えた空気が肺に痛い。

すぐに視界に入れることができた神殿の廃墟まで走るだけだが、意外にその距離は遠い。

(兄さん)

──最初から化物なら。アリスの言葉が頭の中を反響する。

(嘘だよ。だって兄さんは、確かに変わってたじゃないか。笑うようになってたじゃないか。──化物なんかじゃないんだ、絶対に)


(父さんと母さんのこと全部、オレは負けないから。オレは受け止めるから。神様、どうか兄さんを助けて。──チェリカ、



ふと、眠ったままの少女の表情を思い出す。

(守って──!)



うっすらと瞳をあけると、そこで二つの魔法がぶつかり合っていた。チェリカは霞がかかったような頭を何とか働かせようと大きく息を吸い込む。自分を庇うようにしているシアングの横顔が目に入った。

「……。」

酷く頭が痛む。

すぐそこではミルキィとアリスが戦っている。

(ダメだよ、喧嘩しちゃ……。)

静かに呼吸を繰り返しながら、右手に魔力をかき集める。その僅かな動きを察知したのだろう、シアングがこちらを向いた。

彼が何か言うより早く。

「レング……っ」

お世辞にもあまり威力があるように見えない呪文と共に手を翳す。空中に現れた炎の塊はミルキィとアリスの均衡する魔力の壁にぶつかってはじけた。

ドドン、パーン。地鳴りのような音と共に鮮やかな色の光が飛び散る。二人のエネルギーに自分の力──ほんのちょっとだけ闇を混ぜて──を送り込み、触れてもやけどをしない花火にしてしまったのだ。

「チェリちゃん……」

驚いたようなシアング、ミルキィ、アリス、ウィルを見てチェリカは手を下ろす。起き上がりたいが力が入らない。……が、シアングが起こしてくれた。

「あ……ありがとう」

「何でそんな身体で魔法使ったんだよ! ……水飲むか?」

「平気平気。」

到底平気ではなかったが、チェリカはまっすぐに双子を見つめた。聡い双子は瞬時に意図を理解してくれたらしい。そろって長い耳を下げる。

その様子を見てチェリカは笑うと、表情を変えてシアングの腕を掴んだ。

「……?」

「お願い、レインと……トアンを助けて。私、レインに血を吸われた時、一瞬だけ女の人の声を聞いたの」

「女の人?」

身を乗り出してきたウィルに頷くと、チェリカは額に手を当てる。まだ頭痛がするのだ。

「血を、って言ってた。ただそれだけだけど、確かに聞いた。それからレインの瞳がいつもと違かった……。そうだ。朱色のほうが、左目がぼうっとしてたんだ」

「血華の力にのまれているんだ」

「兄様」

「お願い、シアング! 君が君の役目を背負ってることはわかるの。でも、レインを殺さないで!」

「……。」

項垂れてしまったシアングの代わりにウィルが立ち上がる。それを見て、チェリカもゆっくりと体を起こした。

「友達なの」

「……わかってる」

「大事な友達なの」

「……オレにとってもだ。アリス、これ以上口出しするなよ。ミルキィ、チェリちゃんとウィルを頼む。二人には危ない」

「なんでだよ!」

オレも行く! と拳を握り締めるウィルの肩に手を当てると、シアングはするりと闇の中に消えていった。

「……お、おい!」

慌てたウィルが後を追おうとしたとき、壁にもたれるようにしていたアリスが口を開いた。

「──蝶を探せ」

「え?」

「アリシアは蝶だ。蝶を探せ」

「──蝶、か」

そういえば、どうして彼には蝶が付きまとうのだろう。彼の影には、必ずといっていいほど蝶がいた。

「ありがとう」

「勘違いするな。僕はもう疲れたんだ。さっさといけ」


ザシュ──ガラガラ!

鋭い斬撃のあとに、一拍意おいて乾燥した壁が崩れ落ちる。ザズの攻撃は的確で、レインはじわじわと逃げ場を失っていた。

廃墟には月の青い影がおり、その中にくっきりとしたレインの影がある。崩れ落ちた柱など身を隠すものには困らないが、濃くなった影は誤魔化せない。

それに。

「どこまで逃げるのぉ?」

彼は『犬』。自分を優れた嗅覚と聴覚で追ってきている。攻撃の際の僅かな殺気を頼りに逃げているが、彼はその先も読んでいるのだ。

(まるで狩りだ)

もくもくと舞い上がる砂煙の端にザズを見て、身をすくめる。その直後、頭上──先程まで頭があった場所──の壁が砕かれた。

「子猫ちゃーん、どこー」

(まじぃな……ん)

右手に当る床の感覚が、他のところとは違いすべすべしている。身じろぎはせず、目だけを動かしてそこを見ると、ほんのすこしだけ色が違う。

指で押すと、すっとへこんだ。

(イチかバチかだ)

カカカ……床同士が擦りあって音がたってしまったが仕方がない。レインは床のしたに身を躍らせた。


(なんだここ──!?)

とす、地面の感覚は思ったほど柔らかい。当然だ。地下の空間は、上の神殿とは驚くほどに様子が違うのだ。

広さはあまりないが、まず気候は春のように暖かく、地面には草花が茂っている。壁から柔らかな光が発光され、地下なのに明るい。透き通った地下水がさらさらと水路を流れ、植物の生態系をつなぎとめているのだろう。

そして、あたりに舞う無数の蝶。壁に描かれた真っ赤な蝶──レインはゾッとした。


見たことがあるのだ。だから自分は、あれが血によって描かれていると知っている。


「…………。」

まるで目に見えない何かの力によって、自分が此処へきた様にしか思えなかった。

「あぁ。懐かしいな」

はっとして振り返ると、ザズが腰に手を当ててこちらを見ていた。──逃げ場はない。

「……バチか」

「ははは、残念でした。それにしても、どうしてここにきたの?」

「偶然だ」

ザズが近づく。レインが下がる。

「偶然? 偶然ね。あの仕掛け床、偶然なら開けられないはずなんだよね。だから、今日までおれもここにこれなかったのさ」

「……何か知ってるんだな?」

「おれはね、ここでアリシアちゃんと暮らしてた。あの床は、血華の力かそれを上回る力じゃないと開けられないんだ」


「そうだ」


不意に、後ろから聞こえた声にレインは振り返る。するとザズが駆け寄ってきて、──驚くべきことにレインを庇うように手を出したのだ。

だが、レインはそれを気にする余裕はなかった。目の前にいる男は、──知っている。いや、会った事は覚えていないが、その髪も瞳も、身近にいる人物と同じだったからだ。

「お、親父……!?」




「……。」

やっとたどり着いた神殿は見るも無残に風化していた。──いや、先程柱が折れるのを遠くから見たばかりだ。

(兄さん、無事かな……)

息を整え、トアンは慎重に足を踏み入れる。だが、しんと静まり返った廃墟には争いの音はとうに消え、不気味な静けさを保っていた。


「兄さーん!」

ひゅるるるる……冷たい風に思わずトアンは身震いし、身をすくめた。

「兄さーん、どこー!?」

再び吹き付けてきた風がトアンの声をさらって行ってしまう。口から離れた途端、ただの空気になった言葉が闇夜に弾けて消える。

トアンはため息をつくと、荒廃した神殿の様子を探りながら歩いた。真っ白な壁には所々にどす黒く乾いたなにかが染み込んでいて、首を傾げることになる。

「血で染まったって言ってたけど──これが血……? でも、そんなに多くないし」


トアンの想像では、もっとおどろおどろしいところかと思っていた。だが実際はただのがらんとした廃墟。乾いた風が通り抜けるそこは、だが、どこか悲しい空気が満ちている。

「トアーン──トアン──!」

ふと、風上から自分の名前が聞こえた。何事かと振り返ると、奇妙な動物な跨った人物が手を振りながら近づいてくる。

その動物は一つ目の首長鳥で、茶色の短い柔らかな体毛が夜風に広がっていた。その上に乗っていた人物は──シアングだ。

「シアング!?」

「おう! やっと追いついたぜ。……ありがとな」

彼はひらりと飛び降りて、鳥の首を撫でてやる。鳥は目を細めて一鳴きすると、踵をかえして駆けていった。

「今のは?」

「野生の魔物の一種だ。ちょっと走るには間に合わないし、飛べないし。だから乗せてもらった」

「野生の!?」

「うん。ま、オレ一応中立な立場なわけだからね」

「ふぅん……」

目を細めて笑うシアングは何故か寂しそうに見えて、トアンはそれ以上詮索をしなかった。

色々複雑なのだろう。テュテュリスは人間の味方をしてくれるが、ヴァイズはそうではない。仲間だからと当然のように考えていたが、シアングも『竜』という立場なのだから。

「……ネコジタ君は?」

「それがまだ……。さっきまで柱が倒れたりしてたけど、オレがきたときはもう静かになってて」

「そっか。早くザズを探さなきゃな。……チェリちゃんに頼まれちゃって」

「チェリカが起きたの!?」

「さっき。友達だからって。オレ、ずっとどうしようか考えてたけど、その言葉でやっと動けたよ。──ルノが居なくなってまだそんなに時間経ってないけど、あいつに相談しねーと間違いそうで怖かったんだ」

こつ、こつ。床に乾いた足音が響く。

トアンはシアングの顔を見上げたが、残念ながら暗がりで彼の表情は見えなかった。


「それにしてもおかしいな」

黒光りする柱に手を当てながらシアングが呟く。同感だ、トアンも頷いて同意してみせた。

「声も、音も聞こえない。そんなに入り組んでないから何か聞こえるはずなんだけど……壁なんてスカスカだしね」

「ネコジタ君、まさか──いや。一応暗殺者だったわけだし。こんなすぐにやられりゃしねーよ」

「そうだね……」

目を細めて、トアンは柱を見上げた。この神殿は初めてきた気がしない。何故だろう。砂漠地帯に入る前からのレインの不調は、この神殿の所為だと何故自分は分かっていたのだろう?

「どうして……」

「ん? 何か言ったか?」

「あ、ううん。なんでもないよ」

慌てて両手を振ると、シアングは変なヤツと呟いてから辺りの捜索を始めた。そんな彼の後姿にきまりの悪い苦笑いを浮かべて、トアンはもう一度、夜空を押し固めたような柱を見上げる。

ぐにゃり。

「?」

一瞬だが、柱が揺らめいた──気がした。だが触ってみても伝わるのは硬く冷たい材質。

(気のせいか)

ふ、視線を外した瞬間、もう一度柱が動いた。──気のせいなどではない!

「シ、シアング!」

「なんだよ……うわ! なんだぁ!?」

それは、動揺した声を浴びるに相応しい。

先程まで冷たい一本の柱だったものは、今や蒼いインクを零したような夜空と同じ色を纏った、巨大な蛇に姿を変えていた。

シャー、こちらを威嚇する声を聞くまでもなく、それは敵意を持っているのが分かった。

「うわ!」

ズン! こちらが身構えるより早く、大蛇の頭部が突っ込んできた。咄嗟に横に飛んだが、先程までトアンが突っ立っていた地面にめり込む。──相当な勢いだ。当ったら、骨でも折れていただろうか?

「トアン、剣は!?」

「あ、う、うん!」

ズルズルと埋もれていた部分を出すやいなや、即座に攻撃を仕掛けてきた。しかしそれはトアンに届く前に、その顔面を衝撃が弾き飛ばす。シアングの左手から放たれた雷だ。

「ありがとう!」

その上体がのけぞった今がチャンスとばかりにトアンは剣を薙いだが、思ったよりも硬い身体に傷一つつけることができない。

「うっ──」

「まずいな、オレこんなんだし、剣効かないし!」

喋りながらトアンをサポートしてくれるシアング。だがその顔は複雑だ。

「あーぁ。全然堪えてねーぞ」

ゆらり、ゆっくりと鎌首をもたげる大蛇のその真っ赤な目の、細い瞳孔はまるで砂漠の月のようだとトアンは思う。電撃に弾かれても火傷一つ負わず、全くダメージを与えていないことは明らかだった。

「シアング、あの雷の剣は!?」

「あぁ、あれ? あれ疲れるんだよね。だから今は──無理かな?」

「無理かな? じゃないよー!」

「あれさー、オレのこと狙ってないし。なーんかトアンに対して怒ってるみてーだし」

「ええ、ちょっと、シアング!?」

「嘘だよ嘘ー……」

「だるそうに言わないでよ」

剣を持ったまま大蛇と睨みあいをするトアンにとって、これ以上ないくらい嫌な冗談だった。珍しく気だるげな彼は、普段言わないだけに本気に取れてしまう。

「この神殿さあ、魔力がうまく集まらないって言うかなんていうか、奪われるっていうか」

前髪をかきあげてから左手を前に出す。と、小さな光が彼の手に集まっていく。

「血のにおいもすごいし……」

と、突然大蛇がシアングの方を向いた。魔力の気配を察知したのか、標的を変える。

「やべ……!」

「シアング!」

今まさに襲いかかろうと振りあがったその頭に、突如何かがぶつかった。小さな真っ黒な塊のようだが、凄まじい衝撃があったようだ。トアンたちよりもずっと小さいそれに弾き飛ばされ、ズズンと地面に倒れる。

「危なかったのう」

すたん、何回転かしたのち地面に着地した塊は、真っ黒な猫のような生き物だった。だが、それは尻尾が二股にわかれており、額に妙な宝石が埋まっている。

──そして、聞き覚えのある声で喋ったのだ。


「……あなたは──」

トアンの問いかけが終わる前に、倒れていた蛇がもう一度頭を上げた。先程とは違い動作が鈍くなっているが、威嚇する口には不気味に光る大きな牙。

「やれやれ」

ぱく、猫に似た動物の小さな口が開く。その口に光が生まれ、見る見るうちに光に炎が纏われて巨大になっていく。

「諦めの悪いやつじゃ」

カッ! その口から火球が放たれてぎゅるぎゅると回転しながら大蛇に直進し、その顎を通過して頭を粉砕した。

ざらざらとした砂が擦れる様な悲鳴を立て、大蛇の体がゆっくりと倒れる。そしてそれは地面につく寸前に、小さな砂粒となって夜空に舞い──消えた。

「あ、あの」

おずおずとトアンが口を開くと、その動物は二股の尻尾をゆらりと振る。

近くで見ると獣の毛並みはビロードのような光沢を放ち、夜空に負けないほど美しい、漆黒と蒼。額に埋まった宝石は真っ赤に輝き、スッと開いた両目は爛々と光る金。

「ありがとうございます」

「なあに、礼なぞいらぬ。役目を果たしたまでじゃからの」

「……え?」

「──なんでここにいるんだよ、ジジイ」

ため息交じりにシアングが呟く。トアンはその言葉に驚いて、獣とシアングを交互に見つめた。

シアングがジジイと呼ぶ人物は、今のとことひとりしか知らない。

「テュテュリス……?」

「そうじゃよ。この姿では初めてかの」

とん、獣は身軽に跳躍するとトアンの肩に飛び乗った。濡れた鼻面が押し付けられ、自分を覗く金の瞳はたしかにテュテュリスのものと似ている。いや、実際は違うのだが、なんとなくそう感じたのだ。

「ふふふ、驚いたか? これがわしの──焔竜の竜の姿じゃよ。まあ最も、毛並みは赤くなるべきなのじゃが」

「だ、だってオレ、竜って言うとあの、鱗があって……少なくても毛皮はないと思ってた」

「無知なヤツじゃの」

「……」

テュテュリスはくくっと笑ってから、尻尾をゆるりと振った。

「何故ここにいるかといったな、シアング」

「言ったぞ。竜が一般人に『竜』の姿を見せることは簡単に許されることじゃあない。しかもいくらジジイが人間よりの考えだからって、焔城近辺ならまだしもこんなとこまできて人間を助けたなんて……どういうつもりだ?」

「どうもこうもな。その簡単に許されるとかどうのこうの言ってる場合じゃなくなったのじゃよ」

「はあ?」

「……トアンよ」

不意に話を振られ、トアンは動揺したがすぐに姿勢を正す。

どうもシアングがシアングらしくなく、別面を見せられているような気がしていた。まるで、人間を傍観するような、冷め切った言動に驚いたのだ。

「なんじゃ、しっかりせい」

「し、してます」

「どうだかの……。トアン、今お主にこんなこと言うべきではないのかもしれない。じゃが、お主は知らなくてはならぬ。そして決めるのじゃ」

「は、はい?」

「わしがお主たちの力になれるのは、この世界全体に対する危機に対して。言いにくいがの、トアン。ミルキィとアリスから血華教のことは聞いたじゃろ」

「……はい」

「アリシアは、彼女の力がまた感知された。この砂漠の神殿で、じゃ。そしてそのすぐ『隣』に、レインの息吹を感じた」

「……あの、それって──」

「アリシアの力は世界を脅かす。今はまだ実感がわかないと思うが、いずれ知る羽目になる。じゃからトアン、選べ。兄をこのまま放置するか、自らの手で決着をつけるか」

「決着!? ……オレに、殺せって言うんですか!」

「そうじゃ」

「そんな……オレにそんな権利ありません! オレに、誰かの命を決める権利なんて」

「お主しかいないのじゃ。わしも辛い。……お主はきっと、今は決められないじゃろう。そしてお主以外の仲間も決められぬ。そうしているうちにアリシアの力が完全に復活すれば、お主しか殺せないのじゃ。──お主の力しか、すべてを還すための力しか、アリシアを打ち破れない。……シアング」

「何?」

「お主、躊躇っておるな」

「……」

テュテュリスの言葉にシアングはプイと顔を背け、果てのない砂漠の夜空に視線を向ける。

「今ならまだ、お主の力でもつめる」

「……いやだ。オレ、これ以上重荷はいらない」

「はぁ、まあええ」

トアンはそっと、拳を握り締めた。

(いきなりなんだっていうんだ。アリシア? そんなの知らない。いくら母さんだって言っても、兄さんとオレの人生にまで指図は受けたくない。……殺せ? どうして、そんなこと皆言うんだよ)

不意に、トアンの脳裏にチェリカと対峙した記憶が蘇る。

「……シアング」

「ん」

「もし、シアングが──」

「オレは、やらない」

これ以上ないくらいのキッパリした口調で言い切って、シアングはテュテュリスを睨んだ。

「メンドクサイとかじゃなくて、友達は殺せない」

「…………。まあ、そういうと思った」

金の瞳を輝かせ、テュテュリスは小さく呟いた。吸い込まれそうな宝石の瞳は、冷たい輝きの中に優しさがにじんでいる。

「じゃからわしがきた。わしも見極めよう。そしてヴァイズに言ってやる。……大丈夫じゃよ、トアン。」

「テュテュリス……」

「ジジイ、ホントはそれ言いにきたんだろ」

「む?」

「トアンやオレに殺せってのはヴァイズの意見で、ジジイはホントは、トアンのことを助けに来た。……違うか?」

「さあ、どうだかのう」

獣は薄く笑い、二股の尻尾で滑らかな円を描いた。

「力は、この神殿の地下からじゃ。行くぞ」




花の匂いを、随分懐かしく感じた。

半開きになった仕掛け床から地下に降りたトアンは、まず辺りの光景に驚く。そうして静かに生きる花々を見て、懐かしく思う自分に苦笑した。

「綺麗なところだね」

「……そうだな」

「シアング、元気ないけど……あ、兄さんのこと?」

「いや。確かに綺麗だけど、何でこんなに儚いんだろって思って」

「儚い?」

「うん」

さん、シアングの手が一輪の花を摘み取る。それは褐色の手の中で、どこまでも白く弱弱しく見えた。

「この部屋全体がそうなんだ。がらーんとして、はっきりと存在を主張するものがない」

「そ、そうかな」

彼の言うのその感覚は、トアンにはわからない。花はシアングの手の中で小さく身震いし、ぱっと散って跡形もなくなってしまった。

「……まるで」

「シアング」

花の香りに目を細めながら、シアングの言葉をさえぎってテュテュリスが口を開いた。

「言うでない」

「ジジイ」

「言うでない。言葉には魔力が宿っておる。軽はずみに口にしたものが、後にどうなるかわからん」

「はは、ジジイが言う台詞かよ」

「まあの」

さくさくと草を踏みながら小さな体が緑に埋もれる。

「あれ──」

あたりを見渡すトアンの瞳に、突然壁の絵が入り込んで抜けなくなった。

「トアン?」

「あれ……」

壁に描かれていたのは蝶だ。それも真っ赤な──滴る血で描かれた、蝶。今はもう固まってどす黒くなっているはずなのに、それはいまだに艶やかな赤だ。

どこか恐ろしく、トアンはゆっくりと後退した。

「トアン?」

異変に気づいたシアングが振り返る。

「どうした?」

「……シアング、その絵──」

「絵?」

「血華教と、それを支える巫女の血華術を象徴するものじゃな。恐ろしいかトアン? あれはまさしく、人間の血で描かれておるのじゃ。それも何人もの、血。アリシアが体内に取り込んだ血で描かれた、邪悪な産物……」

どこか悲しそうな声でテュテュリスは呟くと、立ち尽くすトアンの足に体を擦り付けた。まるで猫が甘えるような仕草にトアンは屈んで、そっとテュテュリスを抱き上げる。柔らかな毛に顔を埋めると、あのぬいぐるみの猫であった少年を思い出した。

「……今なら、シアングがさっき言ってたことがわかるよ」

「ん」

「がらんとして、確かなものがないって。オレはオレの感覚だからまるっきり同じじゃないけど、それにオレ、ここが──何のために作られたかわかる」

「ふうん、何のためだ?」

「アリシアを、巫女を幽閉する場所だと思う。閉じられた空間で、何も確かなものがなくて、……なんていったらいいんだろう」

「生きた証拠か?」

くつくつとテュテュリスが笑い、顔を近づけた。

「そう。オレたちや外から人がこなきゃ、ここにいたってことが知られないんだ。いくら一族の人が知ってても、閉じられた世界でだけしか語り継がれない」

「なんかよくわかんねーな」

「そ、そうだよね」

「ま、いいや。トアンがそう考えたら、多分あってるよ」

「そうかなあ」

「自信もてよ──あれ」

不意に訝しげな声を上げ、シアングが窺うように目を細めた。

「シアング、どうしたの?」

「あれ、あそこになんかいる」

「え、あ!」

見れば、花畑の中央に一匹の獣が倒れている。こげ茶色の毛並みの──大きいが犬のようだ。開きっぱなしの口からだらりとこぼれた舌が、獣の衰弱の様子をあらわしていた。


「お主! ザズか!?」

テュテュリスが小さく跳ね、獣に向かって叫んでいた。だが獣は動かず、トアンはテュテュリスとともに駆け寄る。

一瞬獣に問いかけるテュテュリスに驚いたが、近くで見るとその傷だらけの様子に目を見張る。特に鋭利な何かで切り裂かれた腹の傷が目立ち、どくどくと鮮血があふれ緑の大地を赤く染めていた。

「ザズ……まさか、あなたザズさん?」

「……は、そ、そうだよ……おれ……う」

「喋るでない!」

「…………テュテュリス……?」

「そうじゃよ」

がぼり、ザズが戦慄くと真っ赤な血の塊が吐き出された。

「トアン、どうしてテュテュリスと……」

「オレがききたいですよ。知り合いなんですか?」

ポケットに入っていた包帯で何とか止血を試みるが、まったく収まらずに白い包帯すら赤になってしまう。テュテュリスは不安そうにザズの目を覗き込み、尻尾を振った。

「一応な。昔はこんな魔力がなかったがのう。それに、ただの犬じゃった」

「ただの?」

「そうじゃよ。わしが知っているのはアリシアの飼い犬としていたころじゃけど。……その後、どうにかして魔力を手に入れたらしいの」

「オレがあったときは人間の姿でした」

「ふむ……」

テュテュリスの額の宝石がそっと輝くと、ザズの周りを温かい空気が包んだ。暖かな光はだが、傷を癒すことまではできないようだ。

「とりあえず応急処置はできたぞ」

「一度人の姿をとり、再びもとの姿になるってことは──」

いつの間にか傍に居たシアングが屈み、ザズを感情のない瞳で見た。

「もう長くねーぞ」

「わかっておる! じゃが、まだ希望はある」

「ふうん」

「……シアング」

「ん?」

ぜえぜえという荒い息のした、ザズがシアングを見て目を細めた。

「君がやらないから、おれがやることになったんだ。でも、おれもためらっちゃった」

「……! ネコジタ君は?」

「わからない。おれ、ここまで追い詰めたけど、やっぱりアリシアちゃんに似てるから……そしたら、ここに、『アイツ』がいた……」

「『アイツ』?」

「咄嗟にアリシアちゃんを……違うってわかってたけど、また渡したくないから庇ったら──子猫ちゃんが──……」

そこまで言って、ザズは悲しそうに瞳を伏せる。

トアンは漠然と、彼がアリシアに向けていた大きな感情を知った。が、ザズはトアンのほうをそっと見て、小さく唸る。

「悔しいな……また『アイツ』に…………」

そこまで言うと、ザズはがっくりと横たわった。慌てたトアンが手を伸ばすも、弱弱しく腹が動く以外彼の動きは見れなかった。

「無理に動かすな。弱っておる」

「で、でも……」

「レインはここにいたのは間違いないのう。ザズの様子からみてそんなに時間はたっとらんな。それに、ここは一方通行……ということは」

テュテュリスがすばやく壁に描かれた蝶に近づく。

「水の祭壇か……。トアン、いくぞ」

「いくぞって」

トアンの問いは無視し、テュテュリスは尻尾でぴしゃりと床を叩いた。

「我描くは真実。我臨むは真実。我、求めるは絶対の赤」

サァァァァー。絵全体が輝くや否や、絵は幾千万匹の赤い蝶になってひらひらと舞い上がった。

その光景は幻想的というよりは不気味で、ざわざわと肌が粟立つのを感じる。



そしてすっかり蝶がいなくなってしまうと、そこにはぽっかりとした穴があるのだった。サァアア、中から水の流れる音が聞こえてくる。

「いくぞ」

テュテュリスを筆頭に、トアン、シアングがそれぞれ穴にもぐりこむと、舞っていた蝶たちは一斉に持ち場へと戻る。そうして穴は元の絵になり、何事もなかったように鎮座しているのだ。


足元には薄く水が張ってあり、やはり発光する両脇の壁に近づくにつれて斜面ができ、水深が深くなっているようだ。両脇の壁からはとめどなく水が壁を這って流れ落ち、あたりは湿った空気と水の音に支配されていた。

霧がかかっていてあまり見通しがよくないが、まっすぐ進んだ先に二対の明かりが揺れているのがわかる。

トアンは胸騒ぎを覚えていたが、前を歩くテュテュリスや後ろのシアングに話しかける気にはならなかった。


一歩進むごとに、なにかを感じているのだ。


──ア。覚えているかい? こうして──とずっと─────答え──。


「何か聞こえる」

シアングが呟く。

「う、うん……」

「トアン、顔色悪いけど平気か?」

「平気だよ。」

濃くなる不安。水音にまぎれて聞こえる、声。

やがて歩いていくうちに二対の明かりは祭壇の隣に燃え立つ松明であることがわかった。そう、突き当りには祭壇らしきものがあり、その両脇に明かり、そして祭壇の上に寝かされている者とと祭壇の前にトアンたちに背を向けるようにして立っている、それぞれ人影が二つ。


先を行くテュテュリスが、祭壇と周りを見るや否や立ちどまって警戒するように身を低くした。

「そこの! 何をしておるかわかっているのか!? その祭壇から離れい!」

「……」

トアンたちに背を向けていた男がゆっくりと振り返る。

その瞬間、トアンは息を呑んだ。時ががっちりと噛み合って止まってしまったかのように、男の顔に釘付けとなる。

「父、さん」

その言葉に男──キーク・ラージンはくつりと笑うと、青い髪をかき上げながらトアンたちを見渡した。

「やあ、もうきてしまったのかい」

「父さん……どういうことなんだよ!?」

「どうもこうも……やれやれ、もう少しだったのに」

笑みを崩さない男の服の裾がゆれ、祭壇に横たわる人物の姿が露になった。それは探していた、兄。右目を再び不恰好な眼帯で覆っているが、兄に間違いなかった。

「ネコジタ君!」

ばしゃばしゃと水面をけりながらシアングが駆け寄り、キークを睨みながらその体を抱え上げる。

「持っていくのかい? その子は不完全だよ」

「不完全だぁ? 何言ってんだよ」

「……わからないのか。それならば身をもって知ればいい」

キークの声が水音を縫って響き渡る──刹那、シアングが小さく呻いた。

彼の腕から逃れ、対峙するようにしたレインの腕に赤い光が集まり、巨大な鎌へと姿を変える。

「やめろ」

「……。」

レインは答えず、その切っ先をシアングに向けた。片目の朱色は、ただ暗く、それでも純粋な色を保っていて。

「オレにお前を殺させるな!」

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