第40話 曇りガラスの向こうの花
「おかえり」
裏口の手前で、シアングが待っていた。
不自由と自由な手を其々ポケットにつっこんで、少し寂しそうな笑みを浮かべる。
「ルナリアは──」
「逝っちまった」
「そっか」
他にかける言葉がなくて、ウィルが口ごもるとシアングは肩をすくめて見せる。
「なに、ウィルが気にする必要ねーよ。もともとあいつはもう死んでるし、それっくらいわかってる。また会えたってだけで嬉しかった」
「はあ、なんかすごいなシアング。……オレなら到底そうは言えないよ」
「まだまだ子供ってことだ。──ネコジタ君」
未だウィルの背に顔を埋めていたレインを見て、シアングは苦笑をした。と、レインは不機嫌そうな顔を向けるとウィルの後ろから滑り降りた。
「あ、オレこれ片付けてくる。……シアング、あんまりレインに構わないでやってくれ」
馬車の方向へプレーズをひきながら、ウィルが言った。
「てっきり、オレは一緒に逝っちまうと思ってた」
「……馬鹿じゃん、そんなことしてアルが喜ぶか」
意外にもしっかりした口調でレインは答え、しっかりと見返してきた。まだ、目が赤い。
「でもよかった、戻ってきてくれて」
「約束をした」
「約束?」
「ああ。あいつもオレも、頑張って頑張って頑張ったら、また会おうって。アルは誕生の守護神の仕事、オレは自分の病気に向かう。……アルが頑張っても、オレが途中で死んじまうかもしれない。アルがオレに、不確かな約束をするのは始めてなんだ。でも、きっとまた会えるって、わかったから。」
「だから、そんなに晴れ晴れとしてんのか」
くくっと喉を鳴らして、シアングはレインの目尻を拭った。
それを大人しく受け入れながら、レインは頷く。
「じゃあ、頑張んなきゃな。飯しっかりくって、体力つけて」
「ほっとけ……。なあ、シアング。アンタはどうなんだ」
「──オレ?」
「ウィルの隣は、すごく暖かい。よく眠れる。太陽みたいで、オレに力をくれる」
「それ本人に言ってやれよ。いつも『お前』なんだから」
「うるさい、聞け」
「こっちの台詞だっつの」
「……。アンタはどこにいこうとしてる?」
そういった瞬間、シアングの暗闇で光る金の瞳が、獣のような獰猛さを帯びた。
そしてゆっくりと瞬きすると、それはもう消えうせていて。
だがそれを気にするようなそぶりは見せず、レインは続けた。
「アンタはきっとやることがあるんだろ? でも、それは──できればやめとけ」
「──なんでだ?」
「オレが太陽の光に当る分、今度はアンタが日陰に追いやられる。正反対だ。オレだけじゃなくて、あいつら全員と。」
「……はは。心配してくれてんだ? 大丈夫だよ、オレはちゃんと自分の力をわかってるから」
「シアング」
「大丈夫だって、……レイン。ほら、城に入れ。風邪引くぞ」
「……シアング!」
「いいから、ほらほら」
まだなにか言いたそうにレインは口をひらいて──やめた。シアングに押されるまま、裏口の戸を開ける。
「……なあ」
「んん?」
「──オレは、アンタの味方だ。でももし、何かあったら。オレが、とめてやるから」
それだけ言い残し、レインの姿は扉の中へと消えていった。
「とめてやる、ね」
シアングは一瞬暗い笑みを浮かべ、満天の星空を仰ぐ。
「本当なら──嬉しいぜ」
染み渡る朝日が、そっとトアンの目を焼いた。
一晩中鏡の前で考え込んでいた。シャドウの最期の言葉が忘れられない。
(でもオレは……足掻いて足掻いて、これからも生きていくんだ)
彼がどんなに望んでも手に入れられない、未来への道。
「おはよー!」
どこん、鈍い音と共に扉が蹴破られ、チェリカが顔を出した。鮮やかな金髪が朝日にきらめき、その晴れ晴れとした顔をそっと染めている。
「お、おはようチェリカ」
「さえない顔。寝不足? 私もだよ」
「さえない……ひ、ひどいな。──クランキスさんとセフィラスさんは、」
「還ったよ」
「そ、そっか」
「でもね、他のひと達とは違って、お父さんもお母さんも逝ったわけじゃないから」
「チェリカ……」
チェリカはにこりと笑うと、トアンの隣にたって鏡に手を触れる。
「…………きてたんだ」
「え?」
「ううん、あ、それよりお兄ちゃんを起こすの手伝って! まだ寝てるの」
ぱっと表情を変え、ぐいぐいと強引にトアンの手を引くとチェリカは一瞬、鏡に向かって微笑んだ。
それが何を意味したのかは、トアンにはわからなかった。
「おー、おはよう」
いち早くこちらに気付いたウィルが手を振った。隣でレインがぼんやりとした様子で眠そうに目を擦っている。
「おはようウィル! おはようレイン」
「……あぁ」
「チェリカ、まだこいつ眠いみたいだから『あー』とか『うん』しかいわないぞ」
「そうなんだ」
じっとチェリカがレインを見上げる。レインはとろんとした瞳をチェリカ、そしてトアンに向けた。
──レインは何も言わず、チェリカも何も聞かなかった。
トアンはアルライドのことが気にかかったが、チェリカもレインも、そしてウィルも話題に乗せないことでなんとなく状況を理解する。
『見送られる者が、残る者になにもすることはできないんだ。ただ、強い思いをそっと贈るだけ。聲が枯れるまで、ずっとずっと叫ぶだけさ』
シャドウの声が、不意に蘇る。
耳を澄ますと微かに聞こえる、朝日が差し込む温かい音。そして、沢山の聲。
チェリカと両親、アルライドと兄が、何を見、何を語ったか興味がないわけではない。が、今は。
「お兄ちゃん起こすんだった。ほら、トアン行くよー!」
「わ、わ! 待ってよ!」
ばたばたと二人が走り去っていくと、ウィルはふっと息を吐き出した。
「あー、朝日が気持ちいいー」
「……光合成でもしてんじゃねぇの。なんだっけ、守森人だ」
「そ。……ってしねえよ! オレは人間だって!」
「過去のな」
「……うん、まあそうだけど」
「でも、まだ一緒にいてくれんだろ?」
そう問いかけるレインの瞳は、真剣そのもの。
「『修正』とかなんだとか」
「……いるよ。オレは。一応過去の人間だけど、ここに生きてるし。……心配?」
レインの顔を覗きこもうと身を屈めると、ぷいとそらされてしまった。
「ばあか」
「なんだと」
歩き出した彼を追って、しかしその前にもう一度ウィルは太陽を見た。
(母さん、見てる? オレは元気にやってるよ)
「なにやってんだ、置いてくぞ」
「ちょっと待てよ! ──あれ?」
視線をレインに戻そうとし、視界の端に何かを捕らえ、もう一度『何か』を見る。
遠くの森の一部分が、凍っているのだ。しかもそれは、こちらに向かって拡大している……?
「……!?」
ざわ、嫌な予感がした。思わず身を固めるウィルを不審に思ったのかレインが隣にやってきた。
「何」
「あ、あれ。」
──パキパキパキ……!
耳に捕らえたのは、木々が凍りつく音。間違いない、あれはこちらに向かってきている!
「氷……?」
「こっちに近づいてきてるんだ!」
……ゴオオオオオオ!
「うわ!」
凄まじい冷気を含んだ風に、慌ててレインの身体を庇うようにして窓から離した。
「いてて……おい、これ!」
緊張をはらんだレインの声に顔をあげると、先程まで二人が外を見ていた窓が凍っていた。──厚い氷が開け放ったガラスの代わりに塞ぎ、歪んだ景色がそこから見える。
凄まじい勢いで何かが通り過ぎたのだ。そしてそれが通った跡は、全てが凍り付いていく。
「──ルノ」
「ルノ!」
はた、二人は顔を見合わせる。氷と聞いて連想するものは、彼しか居ない。
「……この上の階だよな? レイン、いくぞ!」
有無を言わさずその手を取ると、ウィルは弾丸のように駆け出した。
「うわああああああああ!」
「お兄ちゃん……?」
突然廊下まで響き渡った兄の悲鳴に、チェリカの足が速まる。
漸く兄のいる部屋にたどり着くが、扉は硬く閉ざされていてびくともしなかった。
「お兄ちゃん? お兄ちゃん! あけてよ!」
「チェリカ、待ってよ」
ひいひいと悲鳴をあげながらチェリカに追いついたトアンだが、振り返ったチェリカの焦燥した表情に息を呑んだ。
扉からは酷い冷気が漏れ出していて、薄く凍り付いていたのだ。
「開かないの」
塞がりそうになる喉を無理矢理開き、チェリカはただそう一言、なんとか吐き出す。
「どうしよう……」
「今の悲鳴、ルノさんのだよね──冷たい!」
ドアノブに触れた瞬間、痛いほどの冷気に思わず手を離した。
「いてて」
「これは……!」
緊迫した声に振り返ると、テュテュリスが立っていた。金の瞳を苦悶に曇らせ、そっと扉の前に立つ。
「テュテュリス……」
「先程強い魔力を感じた。あれは──氷の精霊のものじゃ」
「え?」
「ルノは髪を切り落としたのじゃろ? だたら、それは……」
「氷なら溶かせばいい!」
強い口調で言い放ったチェリカに、テュテュリスは驚いた表情でその場から数歩離れる。チェリカは両手を合わせ、怒りに歯をかみ締めていた。ふわり、金髪が魔力の風に揺れる。
「──どいて!」
ドォン!
爆音とも取れる音を立て、詠唱なしに放たれた魔法が氷付けの扉を粉々に吹っ飛ばした。途端、全てを凍て付かせるような冷気が部屋からあふれ出る。
「お兄ちゃん──そんな」
冷気をものともせず飛び込んだチェリカを追って、トアンも部屋に踏み入れた。愕然としたチェリカの声が、耳を撫で、すっと消えていく。
「ルノ──さん?」
返事はない。
何か伝えようとしたのだろうか、開いた口と顰められた眉、そして悲しげな瞳。
凍えるような温度の部屋の中心に聳える、氷でできた樹の中に閉じ込められていたのは──ルノ。
こちらに手を伸ばし、倒れこむような格好で、彼は氷に閉じ込められていた。まるで、美しい人形のように。
「──いちゃん……」
ひた、チェリカの手が氷の樹に触れる。皮肉なことに、その樹はとても美しく、冷たい──……。
「どうして──……」
「……恐らく間違ってはいるまい。テュテュリス。……氷の精霊がきていたのだ」
ヴァイズの前に集まったトアン、チェリカ、ウィル、レイン、テュテュリスを見て、彼は静かに言った。
シアングはここにはいない。
事が起こった同時時刻、ヴァイズと何か話していたらしいが、今はルノのもとに付きっきりだ。
「でも、氷ならチェリカの火でとかせるだろ?」
すげえ厚かったけど、とウィルが口を開くと、チェリカはゆるゆると頭を振った。
「……駄目。私の魔力じゃ到底無理。氷も厚いけど、あの氷の樹を守ってる魔力が強すぎて歯が立たないの」
「そっか……」
「テュテュリスは!?」
突然ひらめいた事実にトアンは意気込むが、テュテュリスはそっと首を振るだけだった。
「駄目じゃ」
「どうして!」
「……わしは……」
「トアン、覚えておけ。この前のことは──我々も世界を守るために協力をしたが、元々我々は精霊と人間の仲立ち。どちらかに加担することはできないし、焔の力で氷の精霊の領域を侵すことはできぬ」
口ごもるテュテュリスに代わってヴァイズはきっぱりと言い放つと背を向けた。
「……ヴァイズ、わしは」
「テュテュリス。貴公は少々人間よりの考え方を持っている。だが、規則は規則だ」
「じゃがのう、トアンたちは世界のために戦ってくれた。ルノもじゃ」
その言葉にヴァイズは顔だけこちらにむけ、怖いほどの無表情で一言言った。
「『言葉』は、領域の上を通り過ぎる」
「くそー! 冷たすぎる!」
ヴァイズの姿を見送ってから思わず地団駄踏んだウィルの姿を見ながら、トアンはその後ろに居る兄の姿に視線をやった。これまで沈黙を破らない兄は何か考え込むようにして、腕を組んだまま。不意に顔を上げた兄と、目があった。
「……あぁ、そうか」
「え?」
「『言葉』は『領域』の『上』を通り過ぎる。……領域の中には入らないってことか」
「そっか! テュテュリス、何か知ってる!?」
ぱっと顔を輝かせたチェリカがテュテュリスの袖を引っ張った。テュテュリスもそうか、憎めないのうと呟いてからにこりと笑う。
「一つ知っておるぞ」
「ホント!?」
「じゃがその前にシアングを呼んでこねば。……それから、おぬしら。いい加減寝巻きから着替えて来い。部屋にある衣服は、どうせ勝手に着てもかまわんからの」
勝手に着ても構わない、といわれたが、トアンはこの膨大な服の中で困っていた。
(竜ってのは服を溜め込む習性でもあるのかな)
箪笥の中をひっくり返していたが、結局どれにも手をつけず、いつもの服にする。
「馴染んでるのが一番っと」
「なに独り言いってんだよ」
「うわ!」
突然の背後からの呟きに悲鳴をあげると、ため息が聞こえた。
「バカ」
「酷いよ、兄さ──」
これ以上情けない顔はないというほどの顔で振り返りながら、トアンは言葉を失った。
「チェリカ、呼んでるぞ。早くしろって」
「あ、う、うん。でも兄さん、その格好」
「……変? ボロボロだったから適当なのきたんだけど。お前よりはマシだって自覚はあるぜ」
「違うよ、変じゃない」
レインの服装は、またガラリと変わっていた。
薄い肩下の辺りからぐるりとまわし、胸の前でマフラーのようにきゅっと結んだ柔らな素材が付いた上着の下には黒のタンクトップ。すっと白く細い腹を露にし、股下の浅いズボンをはいている。腕には黒と白、赤と黒のボーダーのアームウォーマーを其々付け、骨盤のあたりにポーチをつけていた。
首には、あのチョーカーが付けられている。
マフラーのような飾り紐が鮮やかな赤であり、上着は白という可愛らしい色使いに思わず口の端があがった。
(多分)
ああ、と思う。
(アルライドさんと、いい結果になったんだ)
出会ったころとは明らかに明るくなっていく兄を見ているのは、心地がいい。
「何ニヤニヤしてんだよ」
気味悪そうに眉をひそめ、早くしろと言い残すと兄の姿はドアの向こうに消えた。
(……ルノさん)
慌てて言葉で見送ってから、ぼんやりと彼のことを考えた。屈託なく笑うようになった、兄と同じく旅をして変わっていった
人物。
(ルノさん、待ってて)
「遅いぞー」
砂色のマントを羽織り、頭にゴーグルをつけたウィルが不満そうに言った。彼は、守森人の服装だ。きっちり着こなしている彼を見ていると、自分と本当に同じ村で育った少年かどうか疑わしい。
「ごめんごめん」
「だめだめー!」
と、廊下の奥からぱたぱたと走ってきたチェリカが両手でバツを作った。
「どうしたの?」
「シアング動かないよ。今レインがいるけど……私たちが行ったほうが早いみたい」
言いながら、少女の顔が曇っていく。どんな理由にせよ、氷付けになった兄の姿を見るのは辛いのだろう。
彼にそんなつもりはなくても、ほんの少しだけ、シアングを憎む。──彼の気持ちも、わからないわけではないと思うのだが。
「けど今、シアング怖いよ」
「行かなきゃ始まらないじゃん。チェリカ、しっかりしろよ」
「……ウィル」
「大丈夫だって。ほらトアン、お前も早くこいよ」
ウィルの声に言われるまま、トアンたちは再びあの凍りついた部屋に向かったのだった。廊下を伝わって、レインとシアングの言い争いが、一歩足を進めるたび伝わってくる。
「──アンタの所為じゃない」
「だけど!」
「起きちまったことは仕方がねぇだろ? チェリカだって前向きに考えてんだよ。アンタがそれでどうすんだって」
「黙れ!」
「黙るかよ。ただじっと見てたって状況は変わらねぇんだ! いい加減に」
「──この!」
「よせ!」
「シアング!」
「兄さん!」
ウィル、チェリカ、トアンの声が重なった。シアングの手から放たれた雷は鋭利な刃物のようで、レインの頬を切り裂いたが、三人の制止によってそれだけだった。
「……。」
重い沈黙が辺りに立ち込める。おずおずとトアンは視線をめぐらせ仲間を見渡したが。ウィルは怒っているし、チェリカも眉を寄せている。シアングは背を向けていて、その前に立つレインは頬から血を流しながら、ただシアングを見返していた。
傷は思ったよりも深いのだろう、魔法が掠った傷にしては血が随分と流れ出ている。
しかし驚いたことに、彼の目には怒りも、哀れみも、そして悲しみも宿っていなかった。
「──落ち着いたか?」
「──……」
「昨日の今日だ。気が立ってるのはわかる。でも、例えアンタがオレを殺したって、ルノは助からない。このままだ」
「……そんなつもりじゃ、──ごめん」
見る見る項垂れていくシアングを宥めるようにレインは目を細めると、頬の血を拭った。拭っても拭ってもすぐにあふれ出てくる血が、白い頬を伝っていく。
「ちょ、ちょっと。ホントに大丈夫か? それ、相当深いだろ?」
慌てたウィルがそっと言葉を挟むが、レインはゆるゆると首を振って赤く濡れた指を口元にもっていき、ぺろりと舐める。
「んなたいしたもんじゃねぇ」
ことも無げに言って、再び彼が血を舐めた。
キィン──!
突如トアンの耳に耳鳴りのような音が響いた。なんだ、狼狽するもチェリカが不思議そうに振り返るだけ。どうやらこの耳鳴りは自分だけに起きているようだ。
──血を
──血を!
──血を!!
(……!?)
「トアン?」
視界が揺れている。がくがくと肩を揺さ振りながら、チェリカが不安そうな顔つきで覗き込んでいた。彼女の声が聞こえた瞬間、嘘のように耳鳴りは途絶え、何かの叫び声はも消えうせた。
(今のは……女の人の声だ)
「どうしたの?」
「……え? あ、ああ、うん、ごめんごめん」
自分でもぎこちないと思う笑みを浮かべると、チェリカは首を傾げてなら良かった、と言った。再びシアングたちに視線を戻すと、今度はシアングが傷を拭っている最中のようだ。
「──って。無理にやるな」
「ごめん」
「本当にわかってんのかよ、アンタ」
呆れた声をあげるも、シアングの手は止める様子がない。本当にシアングは優しいひとだから、傷をつけてしまったことが苦しいのだろう。
だが。
不意に、彼の姿にあの戦いでの様子が重なる。楽しむようなシアングの目。──冷たい、目。
もし、あれが彼の本当の姿だとしたら?
ぶんぶんと頭を振ってその考えを打ち消すと、トアンは改めて兄の傷を見ようと近づいた。成程、ぱっくりと口をあけるように裂かれた頬の傷はウィルの言う通り浅いものではないはずだ。
「兄さん、平気?」
「あぁ。……シアング、いい加減にしろよ。もういいよ」
「でも」
「離せって。あー、気持ち悪ぃんだよ」
呻くように言い捨てるレインの手をしかし離さずに、シアングはもう一度傷を拭う。レインが自分を責める気がないのはわかっている。だが、自分の気が治まらないのだ。
還りの聲の城で、シアングは前にもレインに手をあげた。あの時は未遂だったが、かっとなって手をあげた、ということでは自分の場合済まされない。
(抑えられなくなってる)
一度顔を出した竜──人間の心をもった獰猛で野蛮な心──を。
守るべきルノ、そしてトアンたちとは違い自分と同じような考えをもったレインに対して、それは牙を剥くのだ。
自分はこんなにも不安定だったのかと眩暈すら覚える。
(──ルノ)
氷の中に居る彼は、どんなに問いかけても答えない。シアングがシアングでいるために必要な、『ルノ』という人物。
(ルノ、お前がいないと、オレ──……)
呑まれてしまう、呑みこまれてしまう。己の獣は、もう監獄を突き破りそうだ。
(オレ、『どっち』にいたらいいかわからなくなっちまうよ。お前が危ない目に合ってたとき、オレはもう、もう──)
わからないよ、シアングは唇をかみ締める。だが、そのSOSは誰にも届くことがない。
「……そろそろいいかの?」
長い髪をかきあげながらゆっくり進み出たテュテュリスの言葉に、トアンたちは振り返った。
「テュテュリス」
「シアング、お主も少し落ち着くが良い。大丈夫、ルノは死んだわけではない」
「……ジジイ」
「良いか。この深水城をずっと南にいったところに、砂漠地帯がある。その砂漠の入り口を少し行って、かつて『ある神殿』があった傍にあるオアシスに森がある。外から見ると小さめの森じゃ」
「砂漠の中に──森?」
「そう。その森の中に魔法によって巧妙に隠された一軒の家。そこに住むハーフエルフの双子を訪ねるがいい」
そこまで言ってから、テュテュリスは顔を顰めた。
「彼らは、特に双子の兄のほうはかなり腕のいい薬師じゃ。ルノのように治療の魔法も使える。なにしろわしらよりよっぽど長生きなのじゃが、一つ問題があっての」
「問題?」
「ちょっと性格に問題があってのう。それでも行くか?」
「もちろん!」
にっと強い笑みを見せてチェリカが答える。
「テュテュリスはまだここにいるの?」
「……うむ。お主らの帰りをまとう」
「お兄ちゃんをよろしくね」
「そうときまったら行こうぜ!」
ばたばたと走り出したウィルとチェリカを追って、トアンも足を進める。ふと、口元を押さえているレインが目に入った。
「兄さん? 具合悪いの?」
「……え? あ、あぁ。なんでもねぇ」
ふんわりと髪の毛が揺れる。
だが、一瞬その姿が何か『別』のものに見えて、トアンは呆然とそこに立ち尽くした。
「もともと、我々は他の誰にも理解を求めるべきではなかった」
ぼんやりとした口調でルノを見ながら、ヴァイズはテュテュリスへと語りかけた。トアンたちを乗せた馬車は、もう旅立ってしまった後だ。
「……ラプラスのことかの?」
「……。私に彼を与え、そして奪ったのは人間だ。私は、彼を『精霊』と知ったあと、同じ時間を共用できる相手だと思っていたのに。この城につかえている人間で、先祖代々つかえているものが何人いるか知っているか? だがそのなかの誰も、もう、私を置いていくばかり」
「わしらは竜だからの。シアングもいつか、それに苦しむ」
「貴方もだ」
「……わしも?」
「そう。テュテュリス、貴方がリクという人間の騎士をどんなに想おうと、我々の時間は同じではない」
「──わかっておるよ」
聞きたくない、と顔を逸らすテュテュリスの薄い肩を押さえ、しかしヴァイズはさらに続けた。
「彼の最期の願いを当ててやろう」
「──ヴァイズ」
「恐らく『自分を忘れないで』といって貴方に縋る。貴方はその言葉に呪われて、一生を彼の亡霊と過ごすことになるのだ」
「ヴァイズ!」
「我々は最も孤独で、最も報われない命。貴方も気がついているはずだ! 我々は我々といるしかない! この世界にいる竜だけが、唯一の理解者だ!」
「──わかっておる、わかっておるよ」
吐き捨てるように言ったヴァイズを見ながら、テュテュリスは静かに言った。その金の瞳から、涙が一滴零れる。
「じゃが、一度手にした平穏をもう捨てられぬ」
「……貴方は、いや、貴女は、まだ若いのだ」
ヴァイズの口調が柔らかくなり、そっとテュテュリスの髪を撫でる。
「いつかまた彼を失ったとき、貴女は耐えられない」
「──それも、わかっておる」
「シアングもそうだ。彼は、貴女よりももっともっと若い」
二対の金の瞳が、氷の中にいるルノに向けられる。が、ルノは当然のことながら何の反応も返さずに、ただそこに居た。
「そして、私よりもな。彼は彷徨っているのだ」
「シアングが?」
「そうだ。彼の父親──現雷鳴竜の考えは私にはわからない。だがシアングは父親から何か『使命』を受けている」
「……ルノが関係していることか?」
「そうだ。彼は私よりもはやく、氷の精霊の接近に気がついた。だが、『動かなかった』。これが何を意味しているか、わかるか?」
「……いや、そんな」
苦笑いを浮かべてテュテュリスは首を振るが、ヴァイズは眉を顰めて呻くだけ。
「真実は誰にもわからない。──だが。気掛かりな事がもう一つある。トアンの兄のことだ」
「レインか? 彼がまだなにか?」
「スノゥ、レイン。よく似た意味の名。私には、彼がスノゥの魂を持っていたことは何も偶然ではなく、何かが動いているようにしか思えない。そして、彼のあの目と髪。そして透ける様な白い肌──『あの女』と同じ、な」
「……ヴァイズ。お主、何が言いたい?」
「私はシアングが、死の香りに酔わないことを願う。トアン、チェリカ、ウィル……彼らには不可能だろう」
冷たく静かな口調に、思わずテュテュリスは一瞬言葉を詰まらせた。
「──……まさか……。シアングがレインを始末するとでも言うのか!?」
「……。ルノを盾に取れば、恐らく彼はどんなに揺らごうと実行するだろう。彼は竜の子だ。迷わずこの世界に降りかかる災いを排除するだろうな。……『使命』を先送りにして、今の問題から片付けるだろう」
「そんなっ!」
「『あの女』なら、スノゥの問題が片付いて安心してる今に揺さ振りをかけるだろう」
「ヴァイズ、お主いい加減にせよ! 我らは」
「……あの惨劇を忘れてはならない。そして、繰り返してはならないのだ」
ヴァイズはゆっくりと首を振って、テュテュリスの言葉を遮った。
「『アリシア・ローズ』は『キーク・ラージン』と共に姿を消した。だが、『アリシアとキーク』は恐らく、いや確かにレインとトアンの両親だ。……そして、二人の子供は我らの前に現れた」
「……。じゃが、わしはあの子たちを殺すことなど……」
「『たち』ではない。トアン『は』生かしておいても平気だろう」
ヴァイズは青い髪をかきあげると、もう一度ルノを見上げる。
「ルノ。お前があの不安定な子供たちを支えていたのだな。今の話を聞いて、お前はなんと言う?」
ルノは、何も答えない。
ぼんやりと、ガラスのような氷の向こうで、曇った瞳には何の感情もなく。
がたがたがた……かなりのスピードを上げて埃っぽい道を進む馬車。通り過ぎる景色は潤った森から立ち枯れした細い木、そのうちそれすらもまばらになり、そして姿を消した。
「大丈夫?」
トアンは吹き出る汗を拭いながら、隣でばてているチェリカを気遣う。
「平気……って言いたいけど、暑いぃ……」
ぐんにゃりとしてしまった彼女に日差し避けのマントをかぶせる。
深水城を出てから、もう半日経っている。道が平坦なこととからりと晴れ渡った空のお陰で順調に旅は進んでいるのだが、段々その日差しを恨めしく思うトアンである。
辺りは、一面の砂地。唯一この馬車が走る僅かに慣らされた地面が、ここら一帯の道のようだ。もしこれがなければ、車輪が砂に取られて馬車なんて進むことができないだろう。深水城一帯は水が豊かにあるがそこからすぐ南は砂漠なのだ。日差しを避ける木もなく、暖かかった日はもう刺す様な鋭いものに変わっている。
「平気か?」
ひょこりとウィルが幌から顔を出した。
「もう少し行ったら休憩するか?」
「う、うん……でも急がなきゃ」
「ありがとう」
水を持ってきてくれたウィルに礼を行って、チェリカが手を伸ばす。一口飲んでトアンに渡すと、トアンはつい恥ずかしくなって大丈夫、といって返した。
「これからどんどん暑くなるぞ」
「……うん。でも、早く会わないと。兄さんの具合は?」
「あぁ、……ちょっと苦しそう」
そう。休憩もほとんどせずに旅を急いでいるのは、レインの体調が優れないからだ。ルノが心配で道を急いでいると、数時間前、この暑さすっかりやられてしまったのだろうかレインが倒れた。
暑さには強いというシアングが手綱をもとうとしたが彼は怪我をしている。だからウィルとトアンが交代交代で馬車の手綱を引き、シアングはレインの看病をしている、というわけだ。チェリカは暑さにめげそうになりながら、オアシスを探している。
今更慎重になる余裕なんてないのだ。こうなった以上、一刻も早くハーフエルフに会いに行かなくては。
「熱が下がらないんだよな。アルライドとの話聞いてたんだけどさ、レイン、暑さにもともと弱いんだって」
(それだけじゃない)
「置いてきたほうが良かったのかな」
(『あの神殿』があるから)
「……トアン?」
「え? あ」
物思いにふけっていたトアンの思考を、ウィルの不審そうな声が連れ戻した。
「ぼーっとすんなよ。変わろっか?」
「い、いや。平気平気」
はは、苦笑しながら、トアンは眉を顰めた。
(……今のは──何? オレ、何考えてた……?)
「平気?」
ちゃぷ、額に当ててあったタオルが水につけられ、ひんやりとした感覚がまた触れた。
「……は、はぁ。はぁ……」
「平気じゃねーよな。タオルがすぐ温まる……。ネコジタ君、もう少しだぞ」
「はぁ、は……っ惨めだ、こんな、くそ」
「文句言う元気はあんのか」
頬の傷に、そっとシアングは触れる。もう血は乾いていて、瘡蓋になっていた。
ふと、自らの血を舐めていたレインの姿を思い出す。
(間違いだよな。あのとき、オレは……そうだよな、色々あったから混乱してただけだよな。……ルナリア、そうだろ?)
妹の、別れ際の言葉を不意に思い出した。
ルノが今氷の中にいること──それは、自ら望んだことではなかったのか? 氷の精霊の接近を感知しても動かなかったのは、今はルノを見ることができなかったから。だから、彼を一人にし、たった一人で対峙させたのではなかったのか?
(でも──でも、壊れそうだ。……『レイン』の様子も変だし。もし、レインが本当にヴァイズの言う通り──だったら)
頬の傷をもう一度撫でながら、自らの手に視線を落とす。
(オレは──どうすりゃいいんだよ)
「……っう」
小さな呻き声に、思考をとめた。レインは体を丸め、胸を庇うようにしながら小さく苦悶の声を漏らしている。──熱に対する苦しみ方ではない。
「痛いか?」
「……っ……ん……」
拭っても拭っても零れる汗。汗が、まるで彼の生命力のようで。汗が吹き出るたびに、彼の生命力も乾いた空気に搾り取られている気がして、シアングは眉を顰めた。
「熱に、痛み。熱はわかるとして……痛みは? 胸患いなんだっけ」
「……は……」
「参ったな。……ウィル、ネコジタ君が」
(うるさいな──……)
ばたばたとあわただしいその音を、声をぼんやりと聞きながら、レインはきつく瞳を閉じた。
──砂漠。
銀の砂が赤い月夜の下、風にのって舞い上がる。
ひらひらと沢山の蝶が舞う──神殿の地下。昼間の暑さ、夜の寒さとは打って変わって温暖な気候の、緑溢れる閉じられた空間。
(違う──オレの記憶じゃない──)
必死に頭を振るも、ずくんと痛む胸の痛みすらその光景から現実に帰る道にならない。ずぶずぶと底なし沼のように、知らないはずの光景が頭に流れ込んでくる。
流れ落ちる鮮血が壁に描いたのは、美しく不気味な蝶。それをそっとなぞる、折れそうな細い指。真っ白な肌の、華奢な手。
真実を描けるのだろうか。自分は、何か過ちを犯していないだろうか。
──いや、間違いではない。自分は正しいのだ。正しかったはずなのだ。
(違う──オレじゃない……オレじゃない──!)
「レイン、レイン!」
はっとして瞳を開けると、そこにはもうあの蝶も、神殿もなかった。目の前に居た自分のパートナーである守森人の少年が不安に曇っていた顔をぱっと輝かせるのを見届けると、やっと安心できた。
馬車の天井が彼越しに見える。戻ってこれてよかった。一瞬ありえないことを考えながらも、安堵の息を吐き出してしまう。
「レイン、良かった。凄い苦しんでたぞ」
「……はぁ、はぁ……そ、っか」
「あのな! チェリカが今森を見つけたんだ! 不思議だよな、森に入った途端気温が下がったぞ。立てるか?」
「……あぁ」
態々尋ねてきたのに、ウィルはレインを起こすと幌をかきあげて見せた。成程、荒野の気配はどこにもなく、ただ濡れた森の気配だけがほてった身体を冷やしてくれた。
(……嫌な夢)
じっとりと額に張り付いた前髪が鬱陶しい。
成程、外見ほど小さくなさそうだとトアンは思う。森の入り口に止めた馬車からはそう離れていないが、まだまだ森は濃くなるばかり。
「やっぱり馬車で行ったほうがいいかなぁ……」
「トアン、みてみて!」
楽しそうなチェリカの声が聞こえた途端、
「ふぐぉ!」
ごいん、後頭部に衝撃を受けた。妙な悲鳴を上げたトアンに笑いながらかけより、悪びれた様子もなくチェリカが謝る。……手には、今投げたものの正体、石ころを大量に抱えていた。
「石って……チェリカぁ、酷いよ」
「ただの石じゃないよ。よく見て」
言われるまま顔を寄せるも、トアンのはただの石にしか見えない。
その様子を見ていたチェリカがあぁ、と何か納得した言葉をはいた。
「……見えないんだっけ」
「見えない? ……え?」
「この石、石に見えるこれ、魔力の塊なの」
「これが?」
ひょい、ひとつを手にとる。見た目よりもずっしりと重いそれに纏わり付くという魔力の蔦を、トアンの目は残念ながら映さないのだ。
「魔法石っていうんだけどね。でも、こんなとこに、こんな純度が高いのがいっぱいあるって不思議だと思って」
「そうなの?」
「うん。魔法石っていうのはもともと貴重だし、どういう過程でできるかわかってないから造ることもできないのに」
「……そうなんだ。どうせなら一つ持っていけば?」
「そうだね」
言うや否やくるりと背を向ける彼女に向かって、慌ててトアンは付け足した。
「一個だよ、置く場所ないよ」
「はーい」
ぼとぼととその場に落とし、チェリカが口を尖らせる。と、馬車からウィルが降りてくるのが見えた。──チェリカの瞳が、きらりと輝く。
「ウィル──!」
「?」
「ウィールー!」
「なんだよ──!?」
チェリカに負けない大声を返す、負けず嫌いなウィルである。と、突然チェリカが大きく振りかぶって──
「くらえ! 豪速魔球!」
ウィルに向かって投げつけたのだ。トアンがとめるまもなく、まっすぐにそれはウィルと──目覚めたらしい兄に向かって飛んでいく。
「ウィル! 兄さーん!」
「──! バカチェリカ!」
カキーン……!
咄嗟に飛び出したウィルは手に持っていた槍でそれを打ち返す。石は、ぐんぐん遠くのほうへ飛んでいった。
「やったぁホームランだ!」
大はしゃぎするチェリカに向かって、ウィルが抗議のため憤然と口を開いた、その瞬間。
「キャァアアアアア──!!!」
絹を裂く様な女の悲鳴が、静かな森に木霊した。
「あれが飛んでいった方向だね」
トアンの手を掴み、チェリカが馬車へと走っていく。
「チェ、チェリカ!?」
「な、なんだよ今の!?」
うろたえるウィルにもレインとともに馬車に押し込み、チェリカは幌の上にいるシアングに声をかける。
「シアングー、何か見えるー?」
「……うー……。ああ、家、見たいなのが見えるぜ。……さっきのが飛んでった方向だな」
「宣戦布告じゃねぇか」
「なんでお前は楽しそうなんだよっ!」
馬車の中から聞こえてきたレインとウィルの声に、シアングは肩をすくめた。
「もしアレがあの双子のどっちかだったらどうする? ネコジタ君の言い方をかりれば宣戦布告だぞ。ジジイも性格悪いって言ってたし」
「と、とにかく向かおう」
そのまま彼らの馬車はシアングが見たという家の方向へ向かって走り出したのだった。
木々の梢を纏い、そこに控える小さな家。木造でできた二階建てのそれは、暖かみのある外観だ。赤い屋根に丸みを帯びた窓。愛くるしいデザインに、構造的にはどちらかというと雪原や寒い地方にある家のようだとトアンは思う。
「ここだね、見て。あの窓割れてる」
す、隣に座ったチェリカが指差す先を見ると、成程二階の一つの部屋の窓が小さく割れていた。
「ウィルのホームラン、あそこに突っ込んじゃったんだね」
「チェリカが投げたんでしょ」
「まあ、そうなんだけどね」
ケラケラと屈託なく笑い、馬車が止まると同時にチェリカは地面に着地する。そのまま玄関に走っていく彼女の背中を慌てて追いかけるトアンである。
「もしもーし、こんにちわー」
どんどんと無遠慮にドアを叩くチェリカ。彼女の拳が一回当るごとにドアはミシミシと軋み、いまにも崩れ落ちそうなほど古いものだとわかる。だが、彼女は一向に気にしない。
「誰かいませんかー?」
「留守か?」
マントの止め具を気にしながらウィルが問いかけるが、チェリカは首を振ってみただけ。
「わかんない」
「おーい!」
「はいはい」
ぎぎ、蝶番の悲鳴と共にドアが開いた。──正確にいうと、足で蹴破られたのだ。
「……なによ、あんたたち」
そこに立っていたのは一人の少女だ。燃える様な赤い髪をちょこりと結い、両目は輝くような赤。衣服はワンピースの上にチュニック、そしてカーディガンと何枚も重ね着して、首からは真珠のネックレスをつけていた。──ぴんと尖った耳は、エルフの血の証だ。
だが、重ね着しながらもその成熟した体つきは見て取れる。歳のころは、17、8くらいだろうか?
「うちになにか用?」
「あ、あの」
いぶかしむ様な口調にすっかり動揺したトアンが口元を押さえると、チェリカが少女の前に進み出た。──失礼な話だが、チェリカと少女の歳の差は恐らく3つか4つ。しかしこうしてみると二人の身体はあまりにも違う。
(女の人って急成長するのかな……)
「あの、私たちハーフエルフのお医者様を尋ねてきたんだ。お兄ちゃんが氷の中に閉じ込められちゃって、あと具合が悪いひとも馬車にいるの。あ、これ焔竜から預かってきた紹介書だけど」
チェリカが差し出した手紙を少女は受け取ると、それを見て暫く思案したのちポケットにそれを捻じ込んで、
「かわいいー!」
と大声を上げてチェリカを抱きしめた。
「お姉さん?」
「お姉さんじゃないわ。あたし、ミルキィ。いいわよ、その馬車の中にいる子も連れて中にいらっしゃい。確かに焔竜の印だし、力になってあげるわ」
不思議そうに首を傾げるチェリカを抱き寄せたまま、少女──ミルキィは微笑んだ。
一歩踏み入れるや否や、その家の暖かい雰囲気が包んでくれた。ピカピカに磨きこまれた床と様々な絵画やタペストリーがかけられた壁。正面には階段、それを挟んで二つのドア。階段の上には三つのドアが見える。
「下があたしとパートナーの部屋。上が兄様とそのパートナーの部屋よ。真ん中が応接室。……ま、誰も来ないんだけどね」
「そうなんだ」
「そうよ。チェリカ、良かったらここに住めば? あたし大歓迎よ」
「だ、ダメですよ! オレたちは旅してるんですから!」
慌ててトアンが割り込むと、チェリカはきょとんとし、ミルキィは眉を寄せる。
「……あんたには頼んでないわよ」
「わかってますよ」
簡単に自己紹介したあとから、ミルキィはチェリカの手を掴んで離さない。少年とも少女ともつかぬチェリカの魅力がどうも気に入ったようだ、が。トアンにはどうも安心できない。
そんなトアンを見て、まだ具合が優れないレインを背負ったまま、後ろでウィルが忍び笑いしているのが分かる。そしてその隣にいるシアングの苦笑も。
「ミルキィ、あれなぁに」
そんなトアンの心情は全く知らず、チェリカが何かに向かって指を指した。
ミルキィはクスクス笑いながら、その指を追って天井から吊り上げられたハンモックを見た。丈夫な綱で作られたのだろうそれは、階段を登ると丁度目線の高さになる。
「あぁ、あれはあたしのパートナーよ」
「パートナー?」
ゆっくりと揺れるハンモックがもぞもぞと動くと、濃い金髪がさらりと揺れた。
「ラキっていうの。ちょっと変わった子でね、部屋じゃ寝ないのよ。……ラキ、お客さんよ」
「……。」
「……だめね、ま、そのうち起きるわよ」
寝たら中々起きないのよねぇと呟いて、ミルキィは応接室にトアンたちを招きいれた。
見ただけでふかふかとわかる上質なソファに囲まれたガラスのテーブル。開け放った窓辺には花が添えており、新鮮な空気が部屋の中を目めぐり森の息吹が満ちている。
「レインはそっちに寝かせてあげて。今兄様呼んでくるから」
「あ、うん」
ウィルは身を屈め、一際大きなソファにそっと横たえてやる。だが、しんとした空気が楽にしてくれたのだろう。熱は大分下がったようだ。
「…………。」
「大丈夫か? もうすぐ薬師がくるからな」
「ん……」
コンコン、ノックがされてからこちらの返事を待たずに、一人の長身の男が入ってきた。水色の髪が左目を覆い、褐色の肌に戦闘服のような黒い服が異様さを現している。──が、トアンが剣に手をかけなかったのは、男の手にティーカップが載せられたトレーが乗っていたからだ。
「ミルキィが拾ってきたのは君たち?」
「は、……はい」
「もうじきミルキィがお兄さん連れてくるよ。ミルキィと違って人間嫌いだから、手間取ってるみたいだけど。お茶飲んでまっててよ」
柔らかい口調で言う男の目は赤。そして、その耳は人間のものではない。かといってエルフの耳でもなかった。
(シロさんやシンカさんと似てる。──じゃあこの人、魔族かな)
そんなトアンの心情を知ってかしらずか、男はぺろりと舌を出した。
「君、だあれ?」
チェリカが問う。
ペシャンコな帽子から除くふさふさの耳がピコピコと動く。
「おれはザズ。ここの犬だよ。お世話係とボディガードをやってるの」
「犬?」
「そう。山犬だもん」
幼い口調とは正反対の逞しい身体と獰猛な目つき。カップをならべてぎこちない会釈をしてみせるザズは、どこかシアングに似ている気がする。
(気がする、だけだしな。とくに言う必要もないか……)
「ミルキィから聞いてるよ。君はチェリカだろ?」
「そうだよ。よろしくね、ザズ」
ザズの赤い瞳がぐるりと一同を見渡す。優しげな口調だが、値踏みされている、そう感じた。
「ザズさん」
「こんなとこに隠れてても双子ちゃんを狙うやつは多くてね。……君たちは平気みたい──」
不意に、妙なところで言葉が伸びた。ザズの瞳がゆっくりとトアンからレインを見て、またトアンに戻る。そして再び、レインに向けられた。
「────アリシアちゃん……?」
「は?」
「アリシアちゃん、どうして戻ってきたの? どうしておれを捨てたの?」
悲しそうな口調で歩み寄ってくるザズを見上げ、レインが狼狽しているのが分かった。──アリシア。また、その名前。
「ちょ、ちょっと。こいつはレインだ。アリシアなんて名前じゃないぜ」
慌てたウィルがレインとザズの間に割り込んだ。ザズはそれをみて、ぼんやりとした瞳のまま──あぁ、そうか。と、呟く。
「ゴメンね子猫ちゃん。君は、アリシアちゃんじゃない」
しゅんとしょげたその姿は飼い主に叱られた犬そのもの。
「トアン、アリシアって──」
チェリカの声が止まりかけた思考を動かした。兄と自分についてまわる『アリシア』という名。ザズは、何か知っている。
「あの……」
「待たせたわね」
ばたん、トアンが口を開くのと同時にドアが開き、ミルキィが仁王立ちしていた。
「……あら?」
部屋に漂う異様な空気に気がついたのか、彼女は首を傾げる。ザズは気にした様子も見せず、すたすたと歩いてドアの隣にたった。
「──ザズ。あんた何かしたの?」
「ううん、なんでもない。ねぇ、この子達ミルキィが全部食べちゃうの?」
「食べないわよ、あたしたちは。それともあんたが食べたいんじゃなの」
「うん、食べたいな」
目の前で繰り広げられる会話に目を丸くするトアンだったが、じりじりと彼女たちから後ずさっていくことにした。まさか、ハーフエルフは人肉を好むのか?
「……大丈夫よ、何ビビってんの」
「だ、だって」
「嘘にきまってんでしょ」
呆れた視線と冷たい声でミルキィがピシャリと言い捨てた。
「さっき事情は説明したから。……兄様、入って」
す、ミルキィの後ろから姿を現したのは、妹と同じく赤い瞳の少年だった。真っ黒なローブをすっぽりとかぶり、さらさらとした赤い髪がその上を流れる。だがその眉間に皺がよったとても美しい顔はミルキィとは違い、恐らくトアンたちに対する嫌悪で歪んでいる。
「僕に何か用なんだろうけど、石を投げるのは感心しないな」
むっとした口調で後頭部を擦る。
「貴様らだろ?」
「す、すいません!」
咄嗟に頭を下げるトアンを見て、シアングが苦笑した。
「やっぱりなー。よりにもよって薬師に当てちゃうとは。チェリちゃん、ウィル。謝りなよ」
「えー」
「えーじゃないでしょ」
シアングに促されるままチェリカがウィルと一緒に頭を下げた。
「あんたらだったのね」
「ミルキィ」
「いいんじゃない? トアンだったらただじゃおかないけど、チェリカがやったんだから」
「部屋で倒れてるこの子を見つけて悲鳴あげたくせに」
すんなりとエコヒイキをするミルキィに向かってザズが毒づく。が、ミルキィは気にした素振りを見せず、兄──自分と同じ身長──の体を前に押した。
「……。事情は聞いた。空の子、お前の兄を助ける方法はある。簡単だ」
「ホント!?」
「あぁ。説明するから、終わったらここからさっさと出て行け。わかったな」
「兄様、そんな言い方ないんじゃない?」
「……ミルキィ、暇なら遊びに行け」
「やーよ」
「では静かにしていろ。……遅れたな。僕の名は『アリス』」
「『アリス』!?」
がたんと音を立てて立ち上がったトアンを見て、少年は煩そうに長い耳を下げた。だがトアンにはそんなことを気にしている余裕はない。
「『アリス』って……あの、『アリスの箱庭』の『アリス』?」
チェリカの言葉を聞くや否や、アリスは嫌そうに首を振った。
「あれを知っているのか」
「知ってるもなにも! ……オレたち、追ってるんです」
「被害者か?」
「……はい」
ふぅ、漸く息を吐き出してトアンが席につくと、アリスもソファに身を沈めた。ザズが差し出したカップを受け取ると、ゆっくりと揺らす。
「……成程な」
たっぷりと沈黙したあと、不意に彼は手をとめた。
「失礼ですが、アリスさん。あなたはどんなご関係で?」
「…………『アリスの箱庭』とは、もともと僕が作った組織だ」
「え!?」
「いや、落ち着いて話をきけ。その昔、僕の研究結果を書きとめた本を使って、一人の男がその組織を作った。この世界に蔓延る病を絶つために、治療のための知識が必要だと。──一つ病が消えれば、また新しい病が生まれることを僕は知っていた。が、男は諦めることはせず、ミルキィを人質にとった」
「だから兄様は今も人間が嫌いなのよ。あたしたち、その前までは旅から旅をして、村や町に立ち寄り、治療して回ってたの」
「そうだったな。……僕はそのまま男に本と若干の知識をやった。当初それはキチンと男の理想通り動いていたが、今は生命への冒涜に溺れてしまっている。しかもその組織の名前に僕の名を使ってな」
迷惑そうに足を組んで、アリスはふっと微笑んだ。自嘲気味に。
「お前たちが知りたがっていた『箱庭』についての情報はない。悪いな」
「いえ──。十分です」
「うん。どうやってあの組織ができたかわかっただけでもな」
ウィルが頷くと、アリスとミルキィは顔を見合わせた。
「守森人か、懐かしい気配だ」
「え?」
「ウィルは知らないでしょうけど、あたしたち、ずーっと前から生きてるの。守森人が居た時代も見てきたのよ」
「……そうなんだ」
「さて、本題に入ろうか」
くすりと双子は笑い声を上げてから、アリスは今度は優しく笑った。
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