第43話 左耳からの一方通行

「一刻も早く、片付けられる問題は片付けましょ。ルノをまず助けなきゃ!」

朝食の席で、目を輝かせたミルキィがチェリカの手を取った。今回の食事は見た目と味も比例していて、とてもおいしい。砕いたくるみが入ったパウンドケーキがデザートとして並んでいたが、チェリカはそれをとても気に入り、食べ続けていた。

「どうしてミルキィが張り切るんだよ」

目玉焼きにナイフを入れながらウィルが首を傾げると、ミルキィは明らかに気分を害したように眉をよせた。

「……あんたにいったんじゃないわよ」

「いちいちうるせぇな、もー」

「大体なによ、あんたあたしが作ったご飯、ぜーんぜん食べなかったじゃないの!」

「……今日は作ったやつが違うのか? どうりで食えるはずだ」

「きー! なによ守森人!! このしょぼもみあげ!」

「な、なんだって!?」

「もう、言い過ぎじゃない?」

にこり、笑いながら金髪の少年がミルキィの隣に付く。ラキだ。

「なにようラキ」

「ウィルの言うこと、俺も気になってたんだよね。ミルキィが張り切るのはどうして?」

「にぶ」

「……へ?」

「あたしも一緒に深水城に行くからに決まってんじゃない」

「……ええええええええええ!?」

がたん、ラキが立ち上がるのと同時にトアンも立ち上がっていた。だがミルキィは不思議そうに見渡して、ケーキをむさぼるチェリカの頬を幸せそうにつついた。

「このかわいい双子ちゃんのお兄ちゃんも見たいと思ってね」

「ミルキィもくるの?」

「いっていーい?」

「うん」

「ほら、聞いたぁ? あたしも行くわっ」

嬉しそうに手を叩くミルキィもみて、チェリカもにこりと笑う。が、トアンとウィル、ラキは頭を抱えたくなった。

「うおーおはよー」

「……」

と、寝ぼけなまこを擦りながらシアングとレインがやってきた。シアングはチェリカの横の椅子を引くとレインにすすめてやる。……トアンとウィルからは、離れた席に。

「兄さん、おはよう」

「……。うん」

そっけないが返ってきた返事に、トアンは少し嬉しくなる。

「お酒のにおいがする」

「うるせぇ」

隣のチェリカがレインの髪を撫でる。レインは目をごしごしこすり、大きな欠伸をした。

「うまそー」

「ケーキおいしいよ、シアング」

「うーんいいね。ほらネコジタ君、なんか食えよ」

「……」

「トアン、この二人ねー、一晩中お酒飲んでたんだよ」

そっとチェリカが耳打ちしてくれたことに、思わずのんでいた茶を吹きそうになる。

「ひ、一晩中!?」

「うっせぇな、わるいかよ」

「だって兄さん、まだ体調が悪いのに」

「だからこそのお酒なんですよねー。ま、トアンにはまだわかんねーだろうけど」

うろたえるトアンにシアングが返すが、ウィルが人差し指を突きつけた。

「シアングお前何してんだよ! 寝かせたと思ってたのに!」

「あーもー……うるさいわね」

ミルキィが肩をすくめる。チェリカはそれをみて、もう一度にっこりと笑った。


実はチェリカ、シアングとレインの酒盛りにこっそりと乱入していたのだ。だがそれは酒を飲むことが目的ではなかった。目がさえて眠れなくて、どうしても寂しかったのだ。

原因はわかっている。キークのことだ。チェリカの考えは悪いほうへ悪いほうへ行き、ついには最悪の答えにたどり着いてしまったのだ。だが口にはだせなかった。だってきっと、トアンのショックが大きいだろうから。

──この旅の始まりも途中も今も、人も精霊もチェリカのような『ひと』も巻き込んだこの旅は、何もかもキークの書いたシナリオ通りだと。

そう考えたら、不安で仕方がなかった。

(みんな材料になっちゃうのかなぁ。レインも、悲しませちゃう)

ぼんやりと天井を見つめるが、眠れそうにない。何度も寝返りをうってから、チェリカはのそのそと起き上がった。

「お兄ちゃん……」


すっかり空になったビンをシアングの素足がそっと倒す。傍には似たようなビンがいくつも転がっており、夜風が部屋の空気をさらってくれなかったならこの部屋には相当な酒の匂いが篭っていただろうと思う。

「平気? ネコジタ君」

「……アンタ底なし」

「へへへ、まあね」

そういってこちらを睨むレインも、かなり酒に強いほうだ。あれだけの量を飲んだというのにちっとも酔ってない。それだけ飲む機会も多かったということだろうが、いままで誰かと酒を飲み明かすということがなかったシアングにとって、中々楽しい時間でもあった。酒はそんなに好きではないが、こうやって彼と一緒に飲む、ということは好きだと思う。

実際のところ、二人が酔わないのは対してアルコール度数が高くないということもあるのだが。

「でもネコジタ君も強いね。さては相当不良少年やってたな?」

「……殺し屋。んな可愛げのあるもんじゃねぇよ」

「そうだったっけ。……いやどうも最近の様子見てるとそうは思えなくってさ」

「アンタ最初オレのこと嫌ってたじゃねぇか」

「そうだっけ?」

「……。」

と、そのとき。こつん、こんと遠慮がちなノックの音が部屋に響いた。どうぞ、そういう前にドアは開いて、チェリカがひょっこりと顔を出す。

「チェリちゃん、寝たんじゃなかったの?」

「……うん」

「──どうした?」

どこか違和感に気付いたのか、レインが眉を顰める。

「お願い、一緒に寝てもいい? 一人はやだよう」

「……?」

シアングとレインは顔を見合わせる。どうも普段の少女とは似ても似つかない弱気な姿。

「じゃあシアング寝てやれよ。オレ、危ないし」

「レイン」

「……なんだよ?」

当然といえば当然のレインの言葉に、チェリカの顔が曇った。

「私の血はもう吸わないでしょ」

「保障はねぇ」

「やだ、一緒に居て」

「……でも」

言葉を詰まらせたレインに代わって、シアングが人差し指を立てた。

「じゃあ、三人でねよっか。チェリちゃん、おいでよ」

「やった!」

「おい、本気かよ」

「本気本気。オレがとめてやるってば」

「…………。」

シアングは渋るレインの肩を叩くと、レインを壁際に押し込む。間に挟むようにしてチェリカを寝かせると、最後に自分もベッドに潜り込んだ。

チェリカはにっこり笑うが、レインはそっぽを向いてしまった。……それでも、身体はチェリカの方に向けたまま。

「二人ともお酒くさい」

「ん、あ、ごめん」

シアングは喉を震わせて笑い、チェリカの金髪を撫でた。さらさらとしたさわり心地はとても心地よく、シアングの指を流れていく。

「私も飲みたかったな」

「だめー。チェリちゃんはまだまだ小さいでしょ」

「エアスリクにいるころはしょっちゅうのんでたよ? テーブルマナーの特訓だってね」

「もう……。寝なさいな、酒臭くても平気でしょう?」

「もちろん。……おやすみ」

チェリカの青い瞳がとじられ、長いまつげがその瞳を飾る。しばらくして、微かだが規則正しい寝息が聞こえてきた。シアングはそっとチェリカの頭を撫でると、毛布を引き上げてやる。

「……寝たみたいだな」

「ん」

ふと隣をみるとレインがまっすぐにこちらを見ていた。

「どうしたんだろう、チェリちゃん」

「さぁな。でも……。」

「でも?」

「ルノのこと思い出したんだろ。きっと」

「へぇ?」

「それで寂しくなったんだ。チェリカとルノは、オレたちに見えないところで繋がってるんだ。本当ならもう、ルノをすぐに助けてやれるはずだったのに……。その直前にこんな問題背負い込ませちまって」

「ネコジタ君のせいじゃないでしょ」

シアングは口元をほころばせると、そっと手を伸ばしてレインの頬を撫でる。レインは嫌悪ではない仕草で目を細め、ゆっくりと目を閉じる。

「……。」

「おやすみ、ネコジタ君」

返事はない。

だがシアングはそっと二人を包み込むようにすると、自分も瞳を閉じた。

「……確かにオレ、逃げてるのかもな」

ゆっくりゆっくり、眠気が押し寄せてくる。

「ごめん────ルノ」





「……っていうこと。私実はおきてたんだよね」

「へ、へえ」

「それでさっき、まだ二人が寝てたからこっそり抜け出してきたの」

晴れやかに笑うチェリカは、相変わらず性別を気にしない。男二人の真ん中で平然と寝る彼女に不安を教えてやりたい気もするが、トアンは頭の後ろを掻く事でそれをやりすごした。

「なんか……」

「え?」

「兄さん、シアングと仲良いよねやっぱり」

「そうだねえ」

チェリカはやっぱりにこやかに笑うと、グラスの中身のジュースを一気に飲み干した。


「それでは、絶対に火力を間違うな」

にやりと笑い、アリスが腕を組んだまま言う。チェリカは頷いてみせ、ウィルがむっとしてアリスを睨んだ。

「不吉なんだよ」

「ふん、精々黒こげにしないようにしろ……妹を頼む」

「はーい、いってきます」

チェリカの体を抱きしめたまま、ミルキィが有頂天の声で告げた。

ぴこぴこと動く長い耳からも、彼女の上機嫌が見て取れる。

「……ミルキィ、それからこれを」

「?」

ため息をつきながら、アリスがミルキィに布で包まれた細長いものを手渡した。途端にチェリカの視線がぱっとそれに向く。

「魔力のにおいがする」

「そう? よくわかったわねえ、すごいわぁ」

「……だってそれ、すごい強い……」

はた、チェリカが何かに気付いたように目を丸くし、それから首を捻った。

「……うーん」

「?」

ミルキィにはチェリカの悩みが分からないようで、それを受け取るとトアンに向かって放り投げる。咄嗟のことだったがなんとかそれをキャッチし、トアンはずっしりと重い中身に眉を寄せた。

「アリスさん、これなんですか?」

「……。何かあったらそれを使え。なんともいえない」

「そうですか」

「それよりラキは? お別れ言おうと思ってたのに」

「……ラキは出かけて行った。まあ、ミルキィの『おつかい』なんてそんなに気に留めることでもないからな」

「おつかいですって。まあ失礼」

ぷー、頬を膨らませて、ミルキィはトアンの背中を叩いた。

「あいた!」

「ほらさっさと馬車に乗るわよ! ……あれ?」

ミルキィの不思議そうな声は、馬車に寄りかかるようにしていたザズに向けられているのだとトアンは思った。──恐らくそれは正しい。だって彼は、アリスの傍から離れてじっと彼を見ているのだ。

間に挟まれたトアンたちは暫く二人を交互に見ていたが、二人は何も言わず、何も切り出そうとしない。

「ザズ、あんた何やってんの?」

「……。」

「兄様も兄様よ。なんで二人、にらみ合ってんの?」

「…………。」

「なんなのよ」

しきりに首を傾げるミルキィの腕の中からチェリカは抜け出すと、改めて二人を見た。

「チェリカ、二人ともどうしたのかな」

「わかんないけど……。あんまりいい雰囲気じゃないね」

その時、キィ、という軋んだ音をたててドアが開き、シアングとレインが出てきた。二人は家の前の微妙な空気を感じたのだろう、互いに顔を見合わせてから馬車に近づき──

「……、子猫ちゃん!」

沈黙を破ったのは、ザズ。

「なに?」

「おれ、──アリシアちゃんを信じてる。だからおれ、一緒に行きたい!」

「……はぁ!?」

驚いて眉を寄せるレインの肩を掴むと、ザズはいつになく真剣な顔になって続けた。

「子猫ちゃんはアリシアちゃんの子供なんでしょう? おんなじ気配がするし、一緒に居ればいつかアリシアちゃんに会えるかもしれない! おれ会いたいんだ!」

「アンタまだそんなこと言ってんの? ……第一、裏切られたんだろ」

「裏切ってなんかないよ。おれ、信じてるから」

「…………はぁ」

レインはため息をついて隣のシアングを見るが、シアングはただ首を振るだけ。──自分で決めろということか。

何気なくアリスを見て、レインは自分でも珍しいと思いながら、目を丸くした。

アリスは──今にも泣きそうな顔をしていたのだ。とても寂しそうに、悲しそうに。

(……!)

ああ、昔の自分がいる。そう思った。

アルライドと別れたくなくて子供のように駄々をこねた自分。でも自分は寂しいといえた。プライドなんていらなくて、約束をしたうえで別れてウィルの背中に頭を預けた。

だが、アリスは違う。下手なプライドに邪魔されて動けなくなって、自分の大切なものを失おうとしているのだ。

(……アリス、バカだな。どんなに長く生きたって頭が良くても、言いたいこといえなきゃ意味ないのに)

長く生きるが故、なのかもしれないが。

レインはため息をついて、ザズをまっすぐに見上げる。

「ザズ」

「ん?」

「オレはやっぱり、連れて行けない」

「……、どうして!」

「アンタにはアンタの、本当に守りたいやつがいるはずだから」

「それは──」

「『今』のだ。……確かに昔は、アリシアが大事だったんだろう。でも今、本当に居たいのは誰だ?」

「…………。」

しゅん、ザズの耳が下がる。ちらりとアリスに視線を走らせると、アリスは何かを堪えるように唇をかみ締めていた。

「……それにな」

「…………え?」

「二匹は飼えないんだ。オレにはもう、犬がいるから」

そういってレインは口の端を吊り上げて笑ってみせ、ザズの背中を押す。

「今日の飯、アンタが作ったんだろ。……うまかったぜ」

「……う、……うえ……」

ザズはレインに背を向けたままごしごしと目を擦る。

「いつかアンタの『元』飼い主にあったら、アンタのことを伝えるから。今の飼い主を大事にしろ」

「うわああああん!」

堪えられずにもう一度声をあげると、ザズはレインをしっかりと抱きしめた。

「……、ちょっ」

「ごめんねアリシアちゃん、子猫ちゃん……わがままいってごめんなさい……」

「いつまで泣いてんだよみっともない。ほら、いけ」

ぐず、鼻を鳴らしてからザズはレインを開放し、アリスのもとへと走りよっていく。

「ごめんね、アリス」

「べ、べつにお前がいなくても……」

「えへへ、無理してたくせに」

「そうよ兄様」

「う、うるさいな! さっさと出かけろ!」

「わかってるわよ」

「ばいばーい、アリスー」

チェリカの能天気な声を最後に、トアンたちを乗せた馬車はガタゴトと深水城に向けて走り出した。



手綱を持ったトアンとその横にチェリカの後ろ──馬車の中では、強い日差しから逃れてきた四人の仲間が騒いでいた。

「レイン! お前~~~~!!」

「んだようっせぇな」

「犬って……犬って! オレのことかぁ!?」

「他に誰がいるんだよ」

「ウィル、案外鈍いのね」

「うるさいぞミルキィ! お前関係ないだろ!」

「いいじゃないの。あたし、かわいい子の味方だもん」

「かっかっか……可愛いだぁ!? こいつのドコが可愛いってんだよ! 無愛想だし口悪いしそのうえすぐに人を殴るし!」

「まったくあんた、よくもツラツラと出てくるわね……まあでもそこが可愛いんじゃない」

「は?」

ウィルは目を丸くすると、レインを指差したまま呆然とミルキィを見た。レインはうるさそうにその手を払いのけ、笑って状況を見ているシアングに助けを求めるように視線を送った。──が、シアングはよしよしとレインの頭を弄繰り回し、また笑いながら状況を見守ることにしたようだ。つまり、助けてはくれない。

「ザズに対してスパッといったのはかっこよかったわ。ああ見えてザズ、結構美形でしょ?」

「な……」

ミルキィの問いに向けられた本人ではないウィルは慌てたが、レインは顎に指を当てる少し考え込む。

「……顔は良かった。でもま、頭は駄目だな」

「そ、そういう問題じゃないだろ」

「あら、まだまだ子供っぽいだけよ。本当のザズは凄くかっこいいわよ? 強いし頭だって回転速いわ」

「そっか。……あっちの犬もな……」

まんざらでもなさそうに呟くレインの言葉をウィルの叫びが遮る。

「あー! もう! やめようぜこんな話!」

「お前からしたんだろ」

「そうよ」

「いいんだよ! もう!」

ぷんぷんと怒って背中を向けたウィルに、シアングがしのび笑いを漏らす。レインはその二人の様子を見て首を傾げたが、そんな彼にミルキィは楽しそうに笑みを向けてやった。

(まだまだ子供なのね、最後の守森人さん。あーあ、からかいがいがあって楽しいわ)

深水城までの道のりは、退屈とは無縁のようだ。


「楽しそう」

日差し避けのマントの影から、チェリカが笑った。トアンは汗を拭うとそんな彼女に笑みを返す。

「ミルキィさん明るい人だからなあ」

「確かに明るいひとだねぇ……。お兄ちゃん見たらなんていうかな」

「え?」

「ミルキィ、会いたがってたから。……それに可愛いもの好きみたいだし。私が言うのもなんだけど、お兄ちゃん、可愛いでしょ」

「う、うん」

ルノも美しいが、なによりチェリカだって可愛らしいのだ。…… とは、面と向かって言うことができない。トアンの喉まででかかった言葉は再び逆戻りし、そっとため息をつく羽目になった。

「……トアン、どうしたの? 元気ないね」

「え? あ、ああ、大丈夫だよ」

「ため息つくと幸せが逃げるんですよー」

「そうなの!?」

意地悪そうに笑うチェリカの言葉に驚きながらも、心の中で呟く。

──逃げてなんかない。

今こうしていることが、自分にとっては幸せなのだから。

「あ、深水城の影!」

埃っぽい乾いた道の向こうに、真っ白な城らしきものが見えた。

「トアン、急ご!」

「うん! ……あれ?」

ガタゴトガタゴト……勢いを増す馬車の先には、灰色の雲が立ち込めていた。

「雪…………?」

はらり、はるか空の高みから舞い降りてきた、小さな白い花びら。

「どうして」

辺りの風景はまだ殺風景。砂漠の銀の砂とは違うが、乾いた大地が続いているのに。──それなのに、これは確かに雪。

「……る」

不意に隣から、小さな呟きが零れた。発した彼女を見ると、両耳に手を当てたままチェリカは深水城を見つめている。

「チェリカ?」

「聞こえる──声が……」

「声って、オレには何も……」

だがチェリカは首を振り、目を閉じた。

「それに……なに、この空気……? 知らない魔力のにおい。──人間じゃない」

「そうね」

「うわあ!」

突然割り込んだ声に驚くと、幌の隙間からミルキィが顔を出していた。

「なによ、前みてなさいよ」

「それよりミルキィさん! 何が起こってるんですか!?」

「あたしだって確信が持てるわけじゃないわ。……でも」

ぴくん、長い耳が動く。

「この透明な冷たい空気は……」




「お帰りなさいませ」

城壁の前で待っていた兵士二人が声をそろえて出迎えてくれた。トアンは馬車からおり、手綱を預ける。

「いやあ、キレイな雪ですね。珍しい」

「珍しい……そうですよね」

「ええ。深水城に雪が降るなんて中々ないことですからね」

能天気な声を上げる兵士を見ると、この雪は害をなすものではないのだろうか。少なくとも、この二人──そして恐らくメイドや執事の一般人には無害なのだろう。

二人に見送られるままトアンたちは門を潜り──直後。忙しなく何かの気配を追うように視線を向けていたチェリカが走り出した。

どこへ? 簡単だ。……ルノのところ。

「チェリカ!」

「ごめん先行くね!」

「あたしたちも追っかけるわよ! ほら、案内して!」

即座にミルキィがウィルの背中を叩き、不満げにしながらも二人は走り出す。レインは自分の掌とこの城を見比べていたが、ため息をつくと三人を追った。──多分、ここにきた直後に起きた、ルノの瞳の件を思い出していたのだろう。赤を禁とする城に、血華の力を似合わないだとか考えていたのだ。

「オレも……行かなきゃ」

三人の背中を見て自分も行こうとしたトアンは、シアングが立ち止まっているのに気がついた。

恐らくチェリカに続いて走り出したと思われた彼はどうして、立ち止まって俯いているのだろう。

「……シアング?」

「……あ、ああ。悪い」

「どうしたの?」

「いや──行こうぜ」

いつものように笑ってみせて、シアングも駆け出していってしまった。だがすれ違う刹那、トアンの耳には彼の呟きが響いた。



「──審判、その一か」





──、──……。


先程から脳裏で鳴り響く、透明な音。

全てを凍て付かせるその旋律に、チェリカは眉を寄せる。

兄と自分、全て繋がっているわけではないが、断片的に感じる『何か』。これは恐らく、兄の感じているものだ。

(嫌な予感がする──……なんだろう、この感じ)

階段を駆け上がり、息をきらせることなく長い廊下を疾走する。風と汗で金髪が額に張り付くが、そんなこと気にしてる余裕はなかった。

(お兄ちゃん……)

メイドが会釈してくれるが、応えている暇はなかった。……そういえばテュテュリスの姿もヴァイズの姿も見えない。

(もー!)

ピカピカに磨き上げられた床に跡をつけるほどの勢いで何とか踏みとどまると、チェリカは目の前の扉を勢い良く開け放った。


「は、はあ、は……」

息を切らせながら、トアンは先を行くシアングとレイン、ウィルのミルキィたちの背中を見つけた。疲れたと愚痴を零す足をさらに速め、彼らに追いつく。

「あら、トアン足速いわ」

「ま、まあ」

「それしか脳がないっぽいけど……ここね? 魔力の匂いがするわぁ」

キキーッと急ブレーキをかけて、ミルキィは足を止める。彼女の言葉に、トアンとウィルは顔を見合わせた。──さすがハーフエルフ。魔力には敏感なようだ。

「チェリカ!」

ミルキィが声を上げる。彼女の肩越しに金髪を見て、慌ててトアンは回り込んで部屋に入った。


辺りは一面、氷がはっていた。あのときのまま、それなのにこのピンと張り詰めた空気はなんなのだろう。

「……トアン、みんな」

「ぜえ、は、はあ。先いくなんて……」

「ごめんね、お兄ちゃんに早く会いたくて」

「そ、そうだよね。……あれ? とかないの?」

てっきりもう助け出したと思っていたのだが、相変わらずルノは氷の樹に閉じ込められたままだ。トアンの言葉にチェリカの表情が沈む。

どうしたかと問う前に、シアングがゆっくりと進み出た。

「……領域か」

「領域?」

「この部屋一帯に、とてつもない何かが潜んでやがるな。チェリちゃんが魔法使おうとしても無効化されるんだろ?」

「……あたり」

「じゃあどうするの?」

「あたしが弾くわ」

にこりと笑ったミルキィがチェリカの頭を撫でて言った。

「領域、んなのあたしの敵じゃないっての。チェリカ、その隙にやっちゃうのよ。できる?」

「う、うん」

「……そういえばあなた、宝石なしで魔法がつかえるでしょ」

「……え?」

驚いたチェリカがはっとミルキィを見ると、彼女はにっこりと笑ったままだった。

「すごい魔力を持ってて、それ、もうだいたい使いこなせるみたいね」

「…………うん」

「なら平気よ。がんばって」

「お願い、ミルキィ」

ミルキィが両手を翳して目を閉じる。──瞬間、部屋の空気を何かが通り抜けたように動いた。そういえばミルキィも宝石や杖を使わずに詠唱するのだと、トアンは不意に思う。

「──邪魔よ、消えなさい! ベリーソース!」

ぴしり、部屋の氷が僅かに悲鳴を上げた。

「チェリカ!」

「うん、いくよ!」

さっとトアンが掲げた粉をまぶした種火の周りに、白い光がいくつも浮かんだ。それはぐるりと一周すると種火と同化し──ついと浮上すると氷の樹にとまる。

「……打ち壊せ! クーラッタ!」

パキーン! 透明な音と共に部屋中の氷が砕け散り、勢いよく弾け飛んだ。トアンは咄嗟に目を庇ったが、腕にもどこにも何かが刺さることはなかった。

「──お兄ちゃん」

チェリカの嬉しそうな声に恐る恐る腕をどけると、肩を滑り落ちてゆったりと光る銀髪が見えた。

膝をついてしゃがみ込んでいるので顔は見えないが、……ルノだ。

「お兄ちゃぁん!」

「うっ」

勢いよくチェリカが抱きついた所為で悲鳴があがる。ルノはバランスを崩しながらも、笑ったのが空気で分かった。

「……チェリカ、どうした?」

「良かった、良かったよう」

「どうしたんだ、ほら、しっかりしなさい」

あやす様に妹の頭を撫でながら、ルノが顔を上げる。澄んで光る紅い瞳、肌理細やかな肌を流れる美しい銀の髪。──ルノは辺りをゆっくりと見渡して、はにかんだような笑みを浮かべた。

「心配と……世話をかけたようだな」

「ルノさん、良かった……」

思わず隣に跪いてトアンは安堵の息をついた。ルノは目を丸くし、困ったように少し眉を寄せる。

「どこか痛いところ、ないか?」

「大丈夫だ、心配するな」

遠慮がちなウィルの問いに柔らかく返し、ルノは頷いた。その後ろからレインが近寄ってきて、そっと頭を撫でてくれた。……あまりの珍しさに目を見張ると、馬鹿にしたようなため息をつかれる。

「……レイン」

「んだよ、その目」

「別に。……なんだ、やはり優しいな」

「どこがだよバカ。……何も覚えてないのか?」

「…………覚えてるよ。直前のこと。突然寒くなって」

ルノはゆっくりと視線をめぐらせ、ため息をついた。トアンが立ったのにつられるようにチェリカも離れ、漸く彼女が離れたのでルノもゆっくりと立ち上がった。

「……ルノ」

何故か少し焦ったような声で、シアングが名前を呼ぶ。首を傾げるとシアングの手が伸びてきて、むるやり引き寄せられた。

「……ちょ、シアング?」


「待ちなさい!」


鋭い言葉でシアングの動きを制したのはミルキィだ。

「あんた、それでいいの!?」

つかつかと歩み寄ると、ミルキィはルノの身体を奪い取るように抱きしめた。

「お、お前は一体」

「ミルキィだよ。お兄ちゃんを助ける方法を教えてくれたハーフエルフの、双子の妹」

のんびりとした口調でチェリカが答える。

ルノはなんとか状況を飲み込もうとしていたが、氷の樹に閉じ込められる直前の記憶から随分とんで、目覚め早々ごちゃごちゃといわれたため頭が回らなかった。トアンとチェリカ、ウィル、レインまでは良かったのだ。それなのに、何だかいつもと様子の違うシアングと自分を抱きしめるこの赤毛の少女の言葉。

どうしたら良いかわからずシアングと少女──ミルキィを見比べていると、やがてシアングが深いため息をついた。

「……知ってたのか?」

「いいえ。……でもこの部屋にいる『あれ』とこの子のことを考えれば予想はつくわよ」

「じゃあ、どうしてとめる?」

「…………。ハッキリさせないと落ち着かない性分なのよ、あたし。少なくともあんたみたいに耳を塞ぐことはしないわ。ここにきたってことはそれなりの覚悟決めたんでしょ? なら潔くしなさい!」

「……っ」

ぎり、シアングが歯を鳴らした。がくんと頭を項垂れさせると、赤紫色の髪が彼の表情を隠してしまう。

(ミルキィさんは何かに気付いてる)

状況を飲み込めなくて不安げにしているルノを見て、トアンは思う。この部屋に来る前、シアングは渋っていた。そのこととその原因に当ることを、もう見抜いているのだ。

「ミルキィさん、どういうことですか?」

「そ、そうだ。いきなり訳のわからないことを言われても困る」

トアンとルノの少し揺れる問いに、ミルキィは眉を寄せた。

「でてきてもらったほうが早いわ」

「え……?」

ミルキィの声に呼応するように、散らばった氷の破片が煌く。と、それは凄い勢いで空中に集まって──何かの形を成していく!

「これは──!?」

「君は……」

咄嗟に身をすくめるトアンやルノとは違い、チェリカとシアング、そしてミルキィたちはその塊の生成をじっと見ていた。そしてチェリカが一歩進み出る。

「チェリカ!?」

コオオ、部屋に冷気が満ちていく。それは冷たいなんて優しいものではなく、肌を裂くような冷気だった。呼吸をする度にトアンの肺が痛む。

『あなたは──ヴェルダニア様──』

チェリカに答えたのは、氷の塊だった。──否。驚くことにそれは氷の透明さを保ったまま一人の女性の姿になっていた。風に揺れるような髪も、その身体に纏う緩やかなカーブを描いている布もまた氷。女性は空中に浮かんだまま、チェリカをあの名前で呼んだ。

「誰だ!」

思わずチェリカを庇うように前に出ていたが、チェリカは首を振ってトアンを制した。そっと引き戻されて彼女の顔を見ると、大丈夫、と小声で囁いてくれた。

そうして再び、氷の女性と向き合う。

「今はもう、ヴェルダニアじゃないよ」

『そうでしたね。空の子チェリカ。隣に居る剣士、そう睨まないでください。私は、別に敵意があるわけではありません』

「……あ、すいません」

『ありがとうございます。あなたのことも知っていますよ、トアン・ラージン。アリシアとキークの間に生まれた子……』

「どうして……誰なんですか、あなたは」

そういいながら、トアンの頭は徐々に気付いた。これは『人間』ではない。──とすれば。

『察しの通りです。私は氷の精霊です』

「!」

はっとして口を押さえたルノの肩を、ミルキィがそっと抱く。

「……ルノ」

「私を、裁きにきたのか……?」

「ルノさん!」

「私は約束を破った。髪を切った、から……」

『……いいえルノ。確かに氷の大精霊様は何かお考えでしょうが、私は何も罰することはないと思っています。あなたを氷の樹に閉じ込めたのも、あなたを守るため』

「……私を?」

怪訝そうにルノが眉を寄せると、精霊はそっと頷いてみせた。彼女が空中で僅かに上下しながら浮遊していると、氷の粒がキラキラと光って美しい。

『大精霊はあなたを探しています。だから私は、あなたを隠すことにしたのです。氷の魔力で覆ってしまえば、見つかることはないと思ったのですが……』

「ああ、だから私の魔法打ち消しちゃったのか」

チェリカがぽんと手を叩く。精霊は少し顔を曇らせて、もう一度頷いた。

『ええ。ある程度の魔法は跳ね返すように結界をはりましたから。……でも、チェリカの魔法を無効化したのはさすがに意外でしたよ。あなたの魔力はただの魔力ではない。複雑に練りあがったものでしたからね』

「……褒めてる?」

『ええ。話を戻しますが、もう私の魔法が消された以上ルノを守るものはありません。この子の今の魔法力で大精霊に見つかれば、──まず命はないでしょう』

「そんなっ!」

「……チェリカ、事実だ」

そっとルノが妹を諭すが、チェリカは首を振って精霊に向き直った。

「私いやだよ!」

「なんとかできないんですか!?」

トアンもチェリカに続く。精霊は美しい顔を俯かせ、暫くそうしていたがやがてゆっくりと顔をあげた。

『私も、同じです。この子だって氷魔の子。見す見す殺されたくない』

「……。」

『結論から言って、助かる方法は一つでしょうね。ルノ自身に決着をつかせることですが、それには道中一緒に行動するあなた方の力が必要になってきます』

チチチチ……大気が細かく震え、部屋の気温が再び下がった。まるで刺す様な──そう、殺気だ。トアンは思わず一歩下がる。

『あなた方の力を試させてください。ルノを預けるかどうか、見極めさせていただきます』

「そ、そんな……」

『ルノ、ミルキィ、シアング。あなたたち以外を試します。チェリカ、トアン、レイン、ウィル。前へ』

「あたしはわかるけど、どうしてルノとシアングは駄目なのよ?」

憮然とミルキィが言い放つと、精霊は透明な眼をしっかりとミルキィに向けた。

『ルノの力はもう知っています。……ですが、氷の精霊である私が雷鳴竜のシアングの力を知ることはできないのです』

「領域……?」

『そのことはシアング自身がよくわかってるはずですので、もう言えません』

その部屋にいた全員の視線がシアングに集まった。シアングはカリカリと頬を掻きながら、困ったように視線を彷徨わせている。

『彼も、苦しい立場なのですよ。本来ならこの場にいることは……』

「黙りな。……お前は精霊にしちゃー随分お喋りだ」

『そうですね』

いつになく冷たい口調で話を断ち切ると、シアングはため息を一つついた。それを隣に居るルノは心配そうに見つめるが、決してシアングはルノと視線を合わせようとしなかった。


『さてと。それでは始めますよ』


精霊の声が耳に届いた瞬間、強い風が部屋の中を吹き荒れ始めた。



「うわ、寒い……っ」

思わず半袖の腕を庇うようにして呻いたトアンだったが、その背後から能天気なミルキィの声が聞こえてきた。

「こっちのことは気にしなくていいわよー」

見れば、彼女が作り出した結界が冷気を防いでいるのだろう。シアングとルノは少しも寒そうではなく、ただ心配そうにこちらを見ている。

「ず、ずるい……」

「ならさっさと終わらせなさいよ」

「そんな!」

「レング」

と、すぐ隣で温かな温もりを感じた。チェリカが小さな小さな炎を作り、そっと近づけてくれたのだ。

「大丈夫?」

「う、うん。ありがとう」

本当は少し熱いのだが、じんとして指先が痺れていく。ゆっくりと固まりかけていた血が動き出したようだ。

「チェリカは平気なの?」

「これくらいは。魔法によるものだし、私、夢幻道士のトアンに比べれば耐性あるし」

「そうなんだ……」

「レインは大丈夫?」

トアンと同じく魔法に対する力がない兄に視線を送ると、レインは両手を合わせ吐息をかけているところだった。白い肌の頬が僅かに赤みをさしていて何だか新鮮だ。

「寒いの慣れてるから」

「でも真っ赤だぜ」

吹雪に身震いしながら、体温の高いウィルの手がそっとレインの手を包む。

「うわ、めちゃくちゃ冷えてるじゃん」

「……。平気だ、離せよ」

「嫌だ。第一お前病み上がりだろ。戦えるのか?」

「変な心配はいらねぇよ。いいから離せって」

無理矢理手を引き剥がし、ふう、小さくため息をつくとレインは腰のポーチに括り付けてある鞭を手に取った。

「チェリカ。精霊ってのはどう戦えばいい?」

「もともとこの世界の物質に宿ってるものだからね、殺しても死なないんだよ。今はああやってはっきりと形をつくってるから物質攻撃もきくけど、一番は魔法かな」

ゆらり、チェリカの周りの空気が揺らめいた。

『お喋りはもう結構ですか』

「うん、待っててくれてありがとね! レング!」

にっこり微笑んで両手を突き出したチェリカの掌から火球が飛び出し、精霊の胴体を打ち抜いた。が、それはすぐに周りの氷を集め再生を始める。

『ぐ……っ』

「ありゃ、威力が少なかったかな」

「死なないんなら思いっきりやれよ」

呆れたようにウィルが呟き、体勢を崩した精霊に向けて鋭い一閃を放つ。精霊は難なくそれを交わすが、ひらりと跳躍したレインの蹴りが反応を鈍らせ、その隙に鞭が氷の足を捕らえた。すたんと着地してから剣をもったまま立ち止まっていたトアンに向けて、レインが叫ぶ。

「トアン、相手は人型でも精霊だ。怖がるな!」

「……、はあ!」

ぶん、トアンの剣が再生しかけて胴体を貫いた。

『……中々やりますね』

ところが精霊はにっと笑うと、剣を持っているトアンの腕を冷たすぎる手で掴む。

「……な、まだやるんですか」

『ええ。思ったよりあなた方は未熟でした』

「うわぁ──!!」

精霊が手を翳した途端、トアンはぴしぴしと嫌な音を聞いた。痛い、痛い痛い。まるで骨が凍り付いていくような痛みだ。それに伴って指先の感覚が徐々に薄らいでいく。

『あなたが魔法に対する耐性がないのは知っていますが、遠慮はしませんので』

「チェリカ、なんとかしてやれ!」

慌ててウィルがチェリカの腕を掴むが、チェリカは額に手を当てて小さく呻いただけ。そのいつもは見られない様子に、不吉な予感が胸を掠める。

「ど、どうした?」

「頭、痛い……魔力がうまく変換できない……っ」


「場に満ちてる魔力が多いのね」

ぽつり、ミルキィが腕組をしながら呟く。

「ミルキィ、どうすればいい!? トアンが死んでしまう!」

「ちょ、ルノ、落ち着いて。あたしが手助けしちゃあ駄目なのよう。あたしだって……あんなのはどうでもいいけど……あんたたち双子が悲しむのは見たくないのよね」

「何か助言だけでも……せめてこの結界を解いてくれ! 私がいく!」

「駄目だってばぁ! あんたが行っちゃ意味ないっての! シアング、ぼさっとしてないでルノを押さえて!」

言われてやっと、シアングが深いため息をついて動いた。だんだんと見えない壁を叩くルノの手を、そっと掴む。

「……やめな」

「だ、だが……」

「多分チェリちゃんは、こんなに高密度の魔力の中に長時間居たことがなくて調節ができなくなってるんだ。内に内に溜まってる」

「私になにかできることはないのか? ……私の、所為なのに」

「──そうだわ!」

突如ミルキィが両手を合わせ嬉しそうに叫んだ。

「いいもんがあった……精霊よ! 物資の援助を認めてほしい! ……チェリカが苦しそうなの、それはあんたも不本意でしょ?」

『……物資、とは?』

「コレよ……チェリカ、受け取りなさい!」

「!!」

咄嗟に投げつけられたものを受け取ったが、チェリカは目を丸くした。──これは。

「これ、アリスがミルキィに渡した包みだよ。私が使っていいの?」

「いいのよ、バンバン使いなさい。……多分そのつもりでついてきたんだわ」

「え?」

「とにかく使ってみよう。破いていいよな」

厳重に巻かれた布をウィルの手がさくさくと解いていき、やがてそこには見事な一振りの杖が現れた。中央で光る黄金の宝石、周囲に埋まった魔法石。ウィルから手渡され、チェリカは暫くそれを見つめていたが不意ににこりと微笑んだ。

「うお、なんだよ」

「……あれ、君だったのかあ」

「何言ってんだよ? それよりトアン! トアンを助けてくれ」

「任せてっ」

しゃらり、装飾の飾りが風と共に歌い、中央の宝石がカッと炎を宿したように輝いた。

「──エンテ」



「……ン、トアン」

真っ暗な世界を彷徨うトアンの耳に、声が聞こえた。

チェリカの声だ。チェリカの声がする。

「う、……」

「トアン、おきて。死んじゃったの?」

「……死んで……ない! ──あれ?」

がばりと跳ね起きて周囲を見渡す。相変わらず氷に包まれた部屋は、床に奇妙な紋を描くようにして氷が溶けていた。自分はその中央に倒れていて、チェリカが揺さ振っていたのだ。


ふんわりとした金髪が頬を擽っていたのだが、身を起こした今それはもう離れてしまった。ほんの少し残念に思いながらも、先程鋭い痛みが走った手をゆっくりと動かしてみる。──痛みはもう、ない。

「……痛くない」

「全部打ち消したの」

「打ち消した!? そんなことできるの!?」

「……私一人じゃできなかったけど、この子が居たから」

「『この子』……?」

チェリカが指差すすぐ傍に、美しい杖が床に刺さっていた。よくよく見ると床の紋様は自分を中心ではなく、杖を中心に描かれていたのだと知った。


「あ、生きてた」


背後からかけられた声に振り返ると、レインが床に座り込んでこちらを見上げていた。

「兄さん、冷たくないの」

「別に。立ってるの疲れたんだ」

「そ、そうなんだ」

「……無事みたいだな」

「え? ああうん。痛みもすっかり引いて……チェリカ、有難う」

「いえいえ」

チェリカはレインの前にしゃがみ込むとにこりと笑った。

「おいレイン、ちゃんと立てよ! トアン、良かったな助かって」

走ってきたウィルは明るく喋って微笑むと、レインの手を取って無理矢理立たそうとする。が、レインは迷惑そうに眉を寄せたまま動こうとしない。

「たてって!」

「疲れたって言ってんだろ」

「ウィル、少し休ませてあげてよ。自分で言ってたじゃん、レインは病み上がりだって」

「うっ……」

チェリカにずばりと言われ、ウィルは困ったように頭を掻いた。暫くレインの手を持ったまま立ち尽くしていたのだが、珍しくレインは別にそれを振り払うことはしなかった。

「……そうだったよな。ごめん」

「うわ。気持ちわりぃ」

「そ、そういうこと言うなよ!」

咄嗟に反論しながらも、驚くことにウィルは自らその場に胡坐をかいた。

「なんだよ、お前たってれば?」

「……嫌だ」

「鬱陶しいのに」

なんだかそのやり取りが可笑しくて、トアンはふっと笑みを浮かべると三人と同じように座り込んだ。

「トアン」

ふいに頬にくすぐったさを感じ、見上げるとルノが覗き込んでいた。美しい銀髪がそっと頬をなぞっていたのだ。

「ル、ルノさん!」

「今ミルキィとシアングが精霊と話し込んでいるのだが」

紅につられてちらりと視線を動かすと、成程少し離れたところに彼らの姿が見える。

「どうやら合格のようだ。……すまないな、危険な目にあわせて」

「そんな」

「いいんだよ、コイツが好きでやってるんだから」

「ちょ、……兄さん!」

照れた笑みを浮かべていたトアンだったが、いいところでセリフを遮られたためゆるい笑みの兄に憤然と抗議した。

が、所詮そんなもの気にする兄ではない。レインは冷たい輝きを宿した瞳でルノを見て、首を傾げる。

「……他に聞きたいことあるだろ」

「え!?」

「あ、そうだよお兄ちゃん。……シアングのことでしょ?」



「……っ」

図星だったのか、ルノは目を見開いてから決まり悪そうな顔をした。

「…………そうだ。なあ、シアングになにかあったのか?」

「うーん……」

「どうも避けられているような気がするのだ。余所余所しいし」

「私もよくわからないけど──お兄ちゃんが居ない間に起こったことが関係してるのかなあ。お兄ちゃんが氷づけにされたとき、なんだろうシアングすごい慌ててたんだよね……」

すっかり落ち込んでしまったルノを慰めるように、チェリカは思い出し思い出し話し始めた。ハーフエルフの双子のことも詳しく説明することはもちろん、レインの身に起こった異変についても。

「もしね、レインがまたのまれそうになったら私とシアング以外近寄っちゃ駄目なんだよー。これも関係あるのかな」

「さあ、ね」

答えに詰まるルノの代わりに、ふあ、欠伸まじりに答えたのはレインだ。彼は眠そうに目を擦るとぼんやりとした瞳で虚空を見つめる。

「……オレも少し驚いてた、シアングの変わり方に。最初はただルノがいなくなって落ち着かないだけかと思ってたけど……」

「眠いのか?」

「……ふん。」

心配そうに覗き込むウィルの視線から逃れ、ち、小さく舌打ちしてレインは口を閉ざしてしまった。もうめんどくさくなってしまったようだ。

(……何考えてやがるんだ?)

それを見てルノはますます考え込んでしまったのだが、レインは目を細めてウィルの硬い髪の毛を眺めることにした。『自分がのまれたら』、この少年はまた自分では何もできないと決め付けて落ち込んでしまうのだろう。

(何かあったら、ルノを支えてくれクソガキ。オレにもシアングにも、お前とルノは遠すぎる──……)

ふと、チェリカと目線が噛みあった。どうしようか迷っていると、チェリカは一瞬だけ眉を寄せて、レインの髪をくしゃくしゃに撫で回した。

「なんだよ」

「私、ついてくよ?」

「……別に、何の話だ」

「ううん」

それきり少女は何も言わず、普段からは似ても似つかない大人びた横顔で笑って見せた。


『ルノ、決定しましたよ』

精霊が声をかけたのは、もう辺りが夕闇に閉ざされるころだった。すっかり待ちくたびれたのかレインとチェリカはこっくりこっくりと船をこぎ、ウィルでさえもごしごしと目を擦っている。ルノは緊張した面持ちで顔をあげたので、トアンも重いまぶたを奮い立たせて精霊と向き合った。ついでに三人を揺さ振っておくと、チェリカとウィルは意識が覚醒してきたように大きく伸びをした。

『この方たちの力は不安定ですが、それでも私を打ち返しました。ですから、あなたにはこの方たちと旅を続けてくださってかまいません』

「本当か!?」

「やった! ルノさん良かったですね!」

「お兄ちゃんと一緒だ!」

『ですが』

思わず手を取り合った双子とトアンに対し、複雑な顔をした精霊はピシャリと口を挟んだ。

『いつ大精霊がくるかわかりません。あなたたちも、殺されるかもしれないということを覚えておいてください』

「……!」

思わず口元を押さえて黙り込むルノ。チェリカはトアンの耳元に口を寄せ、ぼそぼそと耳打ちする。

(トアン、今更な気もするけど……私たちについてきてくれる?)

彼女の柔らかい声が直接脳内に響く。トアンは赤く染まっていく頬を隠すように手を当てて誤魔化した。

(え?)

(あのね、私……本当はトアンをこんなに危険にあわせるつもりはなかったの。守り通す気だったけど、この前の還りの聲の城とか、さっきみたいにトアンが大怪我をすることがこれからないって言い切れないんだよ。……でも、私)

(オレは、一緒にいく)

両頬を押さえたままでは格好もなにもつかないが、トアンは笑みを浮かべてハッキリと告げた。

(一緒に行きたい。大丈夫、怪我なんてたいしたことじゃないから。今度はオレが皆を守りたいんだ)

皆ではなく、一番はチェリカだけれども。

そこまでは言えず、でもトアンは自分の答えに満足した。もう自分は何があったって、胸を張って今の言葉を伝えられると思う。

(ありがとう)

くすぐったいような甘い声が楽しそうに囁き、チェリカはにっこりと笑ってルノの方を向いた。そして、後ろから抱きしめる。

「うわ!?」

「お兄ちゃんには私がついてるでしょ! トアンもきてくれるって!」

妹の弾んだ声に、ルノの瞳が丸くなって──そして伏せられた。彼の複雑な心を表すように眉は寄せられているが、その口元はほっとしたように笑っていた。

「……でも、本当にいいのか? 私みたいな重荷、背負い込む必要はないんだぞ」

「何言ってんだよ。むしろ、そういう時こそ助け合うもんだろ!」

「重荷はお互い様だしな」

座り込んだままのウィル、レインの言葉に、パッとルノの顔が明るくなった。

「……レインが励ますなんて珍しいな。でも、お前、そんな……」

「うるせぇガキ。重荷はお前のことだから」

「はぁ!?」

「いい加減子供でいやになるぜまったく」

「ちょ、おい! オレをガキ扱いするな!」

いきなり目の前で始まった取っ組み合いの喧嘩にルノは驚いたようにぽかんとしていたが、やがてくすりと花が咲くように笑った。

「……ふふ」

「良かった、お兄ちゃん笑ったよ」

トアンの隣でチェリカが胸を撫で下ろしたが、トアンは目の前でもみ合うウィルとレインの雰囲気が一瞬緩んだのを見て唖然とした。

(あれ、まさか兄さんとウィル……)

ああ、彼らもルノのことが心配だったのかと感じて、トアンは思わず笑みを零した。



「あんたたち何やってんのよ。精霊、帰っちゃったわよ」

「え!?」

腰に手を当てたミルキィの言葉に辺りを見渡すと、確かにもう精霊の姿はどこにもなかった。

「いつの間に」

「暇じゃないのよ……さて、あたしも帰るわ」

「も、もうか? 私、何か礼を……」

慌ててルノが立ち上がったが、ミルキィは笑ってその銀髪を撫でた。

「いいのよ、何もいらないわ」

「でも、私は」

「いいのよ。しいていえば久しぶりに人間と話せたし、ちょっとだけど旅もできたわ。すごくすごく楽しかったの。それに、可愛い双子ともあえたしね」

からからと笑いながらミルキィはルノを抱きしめ、手を伸ばしてチェリカも抱いた。慣れないことにルノは体を強張らせたがチェリカはその柔らかな身体に顔を埋め、にこりと笑う。

「ミルキィってなんか懐かしい」

「そう? ふふ、ありがとう。ねーえチェリカ。あたし、いつかチェリカと一緒に暮らしたいわ」

「えへへ、どうしよっかな」

「あたしは待ってるからね」

ふと、ミルキィが顔を上げてトアンを見た。片目を閉じてみせるところを見て、揺さ振りをかけているのだとトアンは理解した。……が、どうしてもミルキィの勝ち誇った笑みは好きになれない。

(どうしてチェリカは一癖も二癖もある『人』に好かれるんだろ……)

とすると、自分も癖のある分類に入るんだろうか。……トアンはがしがしと頭を掻き毟りたくなった。

「それじゃ帰るわ。焔竜と深水竜がいつまでたってもあんたたちと話せなくて悲しいみたいだしねえ」

というと彼女は床に刺さったままの杖を引き抜く。

「……いつまでやってんのよ」

「え?」

誰に話しているのかと呆然としたトアンたちが見守る前で、ミルキィは構わずに杖を振った。

「ちょっと、バレてんだからね」

「ミルキィ、貸して貸して。……助けてくれてありがとう」

チェリカは受け取った杖をそっと擦るとぽいと杖を放り投げる。

「……正体をあかせ」

ポン! なんとも間の抜けた、コルクの抜けるような音とともに煙があがり、床に落ちるはずだった杖は一人の少年に姿を変え床に着地していた。

「チェリカの命令でしかでてこないなんて……ラキ、あんたねえ」

「だってこの子の命令は絶対だもん……。ごめんね、ミルキィが心配だったからついて来ちゃったんだよぅ」

憤然と腕を組むミルキィの前でぺこぺこと謝る少年は、そう、──ラキだ。

「アリスに協力してもらったけどね、でもバレてたみたい。流石だね、『ヴェルダニア』」

「そうかもね」

チェリカはラキの手を握り、蕩けるように笑った。

「ありがとう。君の力のお陰で、トアンを助けられたの。……多分、君は『ヴェルダニア』の友達だったひと?」

「さあ、どうだろう」

ラキははぐらかすように笑ってチェリカに深深と頭を下げ、改めて服従の意を表したのだった。


ミルキィとラキが窓から姿を消して、部屋の中はがらんとした寂しさが立ち込めた。それ以上に疑問もあったが、ルノを始めトアンたちはチェリカに『ヴェルダニア』

のことについては何も聞かなかった。だってここにいるのはチェリカなのだから。


「いやあ、お帰りお帰り。ルノも元気そうでなによりじゃの」

「うわあ!」

にゅ、突然顔を出したのはテュテュリスだ。あの獣の姿ではない、ひとの姿の。

「テュテュリス、協力ありがとう」

「いや、構わんよ。あんなの全然したりないしの」

にこりと笑いながらテュテュリスはトアンたちに笑いかけると、声のトーンを少し落としてシアングを呼んだ。

「シアング、ヴァイズがよんでおるぞ」


「うん、今いく。あのおっさん抜け目ねーな……」

シアングはため息をついて、めんどくさそうにドアに向かって歩き出した。このとき初めて、トアンはシアングの表情がとても疲れていることに気がついた。

(あれ?)

だがそんなトアンの気持ちなど知らず、シアングはトアンの前を通り過ぎる。──そして、ルノの前も。……何も言わずに。

「……。」

たったそれだけのことで、ルノの顔が沈んでしまった。無理もない。何故かシアングは、確かにルノを避けているようだ。

「あの、シアング」

「……なんだ? トアン」

「あ、その……」

「ごめんな、先にヴァイズに会ってくるから」

というと彼は一目散に駆け出していってしまった。開け放ったままの扉が、その後姿が。トアンの思考と追求を拒絶しているように思えた。

「シアング、どうしたんだろ」

「まあ、構わないでやってくれ。……ヤツもなにかと忙しい年頃なのじゃよ」

「年頃ってそういうもんか?」

座ったままウィルがテュテュリスを見上げる。テュテュリスはただ笑みを返したが、一瞬だけ影がさしたことには誰も気付かなかった。

──いや。

直後、チェリカとレインは顔を見合わせていた。片方は不思議そうに、片方は不快そうに。





「ヴァイズ」

立派な装飾が施された椅子に腰掛けたシアングは、足を組んで目の前の深水竜を見た。ヴァイズは、シアングの正面で腕を組んだまま立っている。

「さっさと話せ」

「貴公の態度はあまり歓迎できないな。どうした? ここに来た直後の貴公と、今の貴公は違いすぎる」

というヴァイズの言葉に、シアングはいつもとは違う低い唸るような声色で返した。

「全部てめぇらの所為だろうが」

「ほう?」

「とぼけんな」

「貴公は、今の状態が私とテュテュリスの所為だというのか」

「そうだ。……どうして、オレを放っておいてくれないんだ。オレはもう嫌だ、嫌なんだ。あいつを……見るのが辛いんだよ!」

「それは貴公の都合だろう? 詮索はしない、領域を侵すことになるからな。私たちは何もしていない」

「同じだろうが! てめぇらが親父にちゃんと話していれば……っ!」

「尋常ではないな」

額を押さえたまま叫ぶシアングに、冷めた声でヴァイズは告げた。

「……その様子では、やはりレインは血華の力を継いでいたのだな。そして、今の貴公は守るべきものを見失った……? だから混乱しているのか」

「……どうしよう。オレ、もうレインも……ルノも、どっちも守ってやりたいんだよ。……いや、ルノのことについては忘れてくれ。このままレインと一緒にいたら、ルノが危ないんだったよな、そうだった」

ゆっくりと顔を上げるシアングの表情を見て、ヴァイズはため息をついた。……どこかぼんやりした、それでも必死に話を逸らすシアングの瞳に。

「忘れよう。領域は害せない」

「ありがとう」

(やはり、『ルノ』か。雷鳴竜の狙いがわかるかと思ったが……。このままではシアングが潰されてしまうかもしれない)

ヴァイズの金の瞳が、──人間ではない細い瞳孔が鈍く光った。

「……しかし、血華のことは別だ。アリシアの力は災いだからな」




「お前がやらないんなら、俺様がやってもいいのよ?」


「!?」

びり、突如部屋の中を何かが通り抜けた。何事か、ヴァイズがその方向を目で追うが──何もいない。今のは?

「……ヴァイズ、この話はあとだ! あとで聞いてやる!」

「シアング!? 待て!」

咄嗟に制止の声をあげるも、もう既にシアングの姿は部屋になかった。



「……はあ」

トボトボと深水城の廊下を歩きながら、ルノはため息をついた。先程のシアングの様子が気にかかるのだ。……どうして彼は自分を避けるのだろう。

その原因を突き止めることができるのは当事者のルノしかいないとチェリカたちに背中を押され、もう引くに引けなくなってよし行ってくると部屋を飛び出した自分が遠い過去のようだ。

「何か気に障ることでもしただろうか」

その問いを何十回と繰り返しても、ちっとも思い当たる節は考えられなかった。──何故?

まだ身体のあちこちがギクシャクするのだが、シアングに直接聞くためにこうして長い長い廊下を捜し歩いているのだ。

「……でも」

今会っても、シアングはきっと何も答えてくれない。もしくは避けられるか──悲しそうな顔をして、なんでもないというだろう。それはとても辛いことだ。

(見つけなければ、シアングが見当たらなければ言い訳になるのに。そのままみんなのところに戻って、何もなかったことに……)

ふう、何十回目かわからないため息をつきながら、屋上へと向かった。

(もういい。ここで最後だ。ドアをあけて、すぐに戻ろう)

この、沈んだ表情はどうにもならないのだが。屋上へ続く階段を登りきり、ドアノブに手をかけた──瞬間。


「……どうしてお前がここにいる!」


「わ!」

シアングの怒鳴り声が聞こえて、ルノは小さく悲鳴を上げた。自分へ向けられた怒声ではない。直後に楽しそうな笑い声が聞こえたからだ。

(誰かいる──)

悪いとは思いつつ、好奇心が疼く。ルノは小さく開けた扉から、息を潜めて様子を窺うことにした。

(シアングが怒るなんて珍しいな)


夜空が見える屋上。真っ白な城から見える青い夜空に、二人の少年は──青年のような外見の少年は、対峙していた。

「なあに怒鳴ってんのよ、うるさいな」

「答えろ!」

「はあ、よく吠える吠える」

敵意を露にするシアングに対し、闇から出てきたような少年は楽しそうに笑った。ルノからは後ろ姿しか見えないのだが、闇夜に靡く赤紫の髪は長さこそ違えどシアングと同じ色をしているのがわかる。

「言ったろ? お前がやらねーのなら、俺様がやってやるって言ってんのよ。あの……なんだ? レイン? レインってヤツを殺せばいいんだろ」

「ふざけるなよセイル。そんなことさせない」

どうやら後姿の少年の名はセイルというらしい。……声もシアングによく似ている。

(しかし、何の話をしているんだ?)


殺す? 殺さない?

ルノの動かなくなっていく思考とは反対に、セイルの声は楽しそうなままなのが少し怖い。……と、感じた。

「いいことを教えてやるよ」

「……いいこと?」

「そうさ。お前が可愛がってるそのレインのことよ、よく聞きな。今から満月が再びこの世界を照らすまでの間に、遠い世界で鮮血に塗れてお亡くなりになりまーす」

「何!?」

(な……っ)

咄嗟に声を上げそうになる口を両手で覆った。彼は、セイルは何を言っているのだろう?

「しかも、相当酷い死に様なのよーん。第一彼、もう内側から食い破られそうだし、な。てかぁ、俺様にはわかっちまうんだから」

──聞いてはいけないものを聞いてしまった。ルノは即座にその場を離れ、階段を駆け下りると仲間の待つ部屋へと走った。

(亡くなる……? そんな……)

仲間への思いがルノの足を速める。だがルノが去ったあとも、セイルとシアングの会話は続いていた。

ルノは、その場を去って正解だったのかもしれない。──すぐ後に続いた会話を、聞かなくてすんだのだから。


「鮮血……お前が、やるのか?」

シアングは僅かに姿勢を低くし、より強くセイルを睨み付けた。セイルの顔は暗闇でよく見えないのだが、笑っているだろうことが想像できた。

「違う違う、俺様じゃない。運命がそうさせんだっての」

「……そんな」

「他の仲間もそんときに死ぬ。あー、弟がいるでしょ? そいつはレインに殺される。空の子の女は空間に存在を許されなくなり消滅し、乱れた世界は修正されて666年前の守森人は一瞬で削除される。……そうして、最後に残るのは『ルノ』ただひとり」

「……っ」

聞かなければ良かった。シアングは耳を塞ぎたかったが、歯を食い縛ることでその衝動から逃げた。

「で、そのルノをお前が殺す、と」

「……黙れ」

「まあまあ、ここから先がいいことなのよ。聞けってば。……俺様にはぜえんぶいい話なんだけど」

暗闇が動いた。セイルは、また笑ったのだ。

「殺す、これは絶対。……でも、いやでしょ」

「……お前にどうにかできると思ってない」

「ま、そうだろうね。でもどうにかできるヤツがいるのよ」

「は?」

「レインさ。だって言ってただろ? とめてやるって。俺様聞いてたのよ。……その言葉の通り、レインを鮮血の運命から守り抜けば──仲間は死なない。そんで、ルノとお前が運命の天秤にかけられたとき──ルノは助かる。だって、ルノを殺すはずだったヤツが『殺される』んだから……」

その言葉が終わる前に、シアングはセイルの喉元に鋭い爪を突きつけていた。セイルは相変わらず動じることはなく、楽しんでいるのがわかった。それが無性に腹立たしい。

「オレが……レインに殺されるのか!?」

「はは、わかってんのよ。その通り。まあよく考えてみろよ、シアング。二人を生かすも、いや、大事な仲間を生かすも殺すもお前次第……。」

そのとき、サッと月明かりが二人を照らした。シアングのすぐ傍で、同じ高さで笑うセイルの顔を。シアングとよく似た──否。『全く同じ顔』を。

「……お前の『仲間』じゃない。オレの仲間だ!」

その瞬間、シアングは拳を突き出していた。──が、セイルは後ろに跳躍してそれを交わすと、『同じ』二人の中でハッキリと違う短い髪をかきあげて、『赤い瞳』であざ笑った。

「どうなっても、俺様はどうでもいいのよ。……シアング。お前が絶望に苦しんで嘆いて、苦しみの末に死んでくれるなら」

「お断りだぜ」

「ルナリア一人守れなかったヤツがどう行動するのか……。精々楽しませてくれよ」

最後に笑みの中にハッキリとした憎悪をこめてセイルは告げると、再び月明かりが隠れた隙に姿をくらませてしまった。

シアングはたった一人、ずるずるとその場に座り込む。

「……オレ、どうしたらいいんだ……?」


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