第37話 Glorious Renolution side.b

……もう二度と 誰かを一人で泣かせたくないから。


『……見ただろう? ウィルの血に塗れた過去を。いや、『私の所為』なのだがな。彼の魂はあの結晶から彷徨い出、そしてその後、キーク・ラージンの手によってその魂は新しい殻を得て、再び振り出しから歩み始めた。自らの意思を持っているという、とんでもない勘違いをしたままな』

静かな声と共に、ゆっくりと重力が戻ってきた。かつ、ブーツが床にあたり小さな音をたてる。

目を開けると、そこはあの玉座の前だった。相変わらず少しだけ楽しそうな表情を崩さずにいる、スイ──エルフ、スワロフスキィが静かに笑っている。

「……スイ、さん、いえ、スワロフスキィさん」

『その名は捨てたと言っている。私は既にエルフではないからな。それに、私は』

「……ヴェルダニア」

す、一歩前に歩み出るチェリカの肩が、小さく震えている。……だがそれでも瞳の強さは揺るがない。まっすぐに、影を見つめて。

「私は、君に感謝してる」

『……ほう?』

「君が居なかったら、私はここにいなかった」

『それで?』

「そこからでてきて。」

『良かろう──!』

ぶわ、強い風が吹き付けてきた。壁に揺れる影が大きく伸び上がり、空中に四散する。

『待っている──この奥で──願わくば、チェリカ。お前は生きて──糧となれ──!』

びゅうびゅうと吹き付ける風の中に、罅割れた声が溶け込んで響く。


「ど、どういうつもりだ?」

ヴェルダニアの意図が分からず、トアンが首を傾げた。もうヴェルダニアのあのまがまがしい気配はない。

「わからない。でもスイ様が無事みたいだし」

アルライドが疲れたように首を回しながら、頭を垂れて動かないスイに近寄る。

「ところでレインとウィルはどこにいるんだろうねー? チェリカ、大丈夫? 怖かったでしょ」

「うん、怖かったんだけど……なんか変な感じなんだよね」

「変?」

「うん……憎しみだけって感じがしなくて……」

うむむと頭を抱えるチェリカを見て、アルライドがけたけたと笑う。

「オレは何か考えがあると思うけど」

「トアンの言うことも最もだけどさ。でも俺はそういうのもありかなって思うし」

「アルライドさん」

「アル」

にこやかに言われても、トアンは苦笑を返すことしかできなかった。

(あんだけ怖い目にあったのに……。でもあの時、実際怪我してたのオレだけだったような……)

「ところでスイ、起きないね」

うろうろと玉座の周りを歩きながらチェリカが口を開いた。

「そういえばそうだね、どこか具合悪いとか……わ!」

俯いている顔を覗き込んだ瞬間、不意にその瞳が見開かれた。真っ赤な血の滴る瞳に思わず声を上げ、心臓が跳ね上がる。

「び、びっくりしたけど……よかった、大丈夫ですか?」

「……。」

「さっきまでのこと覚えてますか?」

「……覚えている」

スイははっとため息をつくと、すくりと立ち上がった。風もすっかりやんでいるのに、羽織ったマントがふんわりとはためく。背中に流れる灰色の髪がゆれ、闇の中に鈍く輝いた。

「迷惑をかけたな」

「い、いえ……」

ゆっくり、その顔が振り返る。

ヴェルダニアが宿っているわけではない。だが──!


「今すぐに殺してやろう、汚らわしいヒト族め!」


まさしく、『魔王』という表現が合うような、闇の香りが漂っていた。



──────……。


「……?」

ふと、耳が捉えた微かな音。まるで空洞を風が通り抜けるような、哀しげで、どこか恐ろしいような音。文字の羅列を辿っていたルノの瞳がちらりと壁に向けられる。──だれも、いない。

もう自分には戦う力がない。でも、それでも何かできることはないのかと片っ端から本を読んでいた。シアングと父、それからシャインとルナリアたちには少しそっとしておいてもらって、こうして部屋に閉じこもっているのだ。暫くは誰もこの部屋には来ないはず。

「気のせいか」

部屋を見渡しながら、小さく呟く。以前は長い髪が嫌でも視界に入ったのだが、もう見えない。──ほんの少し、寂しいと思うのは別に悪いことではないと願いたいのだが。

(それはまた別の話)

疲れているのだろうか。確かにいろいろなことがありすぎて疲れてはいるが……幻聴とは、なんだからしくないじゃないか。

ふ、と苦笑を零して、再び本に視線が落とされた。


────だ──……


「誰だ!」

今度ははっきりと聞こえた、声。素早く視線を走らせるルノの目の前で、自らの影が大きく歪んだ。

「何!?」

『お前はこちら側──見つけた──器となれ──!』

「ひ……っ」

膨張して広がった影が、ばくん、ルノを飲み込んだ。

(助け…………ッ)


「……もしもーし。クランさんはまだダメって言ってるけど、息抜きも必要だと思うぜ」

こんこん、遠慮のないノックとともにシアングが扉を開ける。手には、湯気を上げる二つのカップ。

「……あれ。ルノ? かくれんぼでもしてんのか? あーあー、折角うまーい紅茶でも飲もうと思ったんだけど」

楽しげにこの部屋に居るべき少年の名を呼ぶが、その名の主の姿はない。いつもはこれでしっぽをつかませないことはないのに。

流石に不安になったシアングがトレーをデスクに置き、ベッドのしたやら箪笥の中をあけてみる。

──だが、いない。

「ルノー、ルーノー? どこいったんだよ、おい?」

読みかけらしい本が床に落ちたまま、ぱらぱらとイタズラにページを捲くっていた。

──その部屋に少年の姿は、どこにもなかった。




「うわあああっ」

波のようにゆっくりと、だが大きくなって向かってくる見えない波紋に弾き飛ばされてトアンの悲鳴が宙に響いた。

「トアン!」

「遅い!」

はっとトアンの方向を見た瞬間に、チェリカの目の前までスイは接近していた。アルライドが名前を呼ぶが、チェリカが反応するより早くスイの手が大きく薙ぐ。

小さな身体が見事に飛んで、壁に張りつけられた。

「……ぐっ」

息を詰め、衝撃に目を見開くチェリカが床に落ちる前に、さらに追撃が仕掛けられる。青い光がスイの右手を多い、少女を切り裂こうと高々とあげられる。

「──駄目!」

だぁんと大きな音を立ててアルライドがその背後で足を振り上げた。

じ、鈍い音と共にマントが浅くきられる、が、スイ自身はすばやく身を翻すとアルライドの足を取り、地面にたたきつけた。

「──うあ!」

短い悲鳴と共に、彼らしくもなくろくに受身すら取れないまま床の破片が衝撃で埃と一緒に飛び散った。そしてそのまま指先だけ僅かに動かすが、がっくりと気を失ってしまう。

「アルライドさん──!」

明らかな異常。彼は自分たちより膨大な戦闘能力を誇っているはずなのに。

だがその声に、スイの顔がぐりんとあげられた。爛々と輝く瞳が紅蓮の炎を纏い、ざわざわと大気が震える。

「レ──ング!」

その隙を突き、ぱらぱらと瓦礫を纏いながらチェリカが飛び出し、スイに向けて炎の弾丸を放った。一つではない、三つ。

だがスイは一瞥をくれると手を振り翳した。途端に炎はかき消され、空中に四散する。

「小賢しい」

「うそ」

「チェ、チェリカ、大丈夫?」

「うん、なんとか」

そう言って笑ってみせる少女のむき出しの白い肩には青い鬱血。

「でも……。トアン、どうしよう」

「……え?」

スイが髪を掻き上げる。トアンとチェリカは、気圧される様に一歩下がった。

「勝てないよ」

「ま、まだわからないよ」

そう言い返すトアンも、薄々感じていたのだが。

「だって、桁違いだもん……魔王の名前は伊達じゃないってことかな。魔法も聞かない、居合いにも入れない」

「アルライドさんも……」

頼みの綱である彼は、未だ地面に伏せたまま。

「私もふたりが同じ魂を持つって聞いたの。っていうことは多分スイがアルに魔力……生命力を与えたってことと同じなんだと思う。あのスイと同じ力をアルはもってて、自分でも鍛えてたから強い。でも、本物の力には勝てないんだよ。それどころか逆に吸収されちゃって……」

チェリカはそこで言葉を切る。そういうことならば、アルライドは大丈夫だろうか。あの明らかな異変は、そういうことだったのか。

「……オレがもし」

「え?」

「星の道だったなら、……魔王だって倒せるかもしれなかった。もっと強かった」

「トアンは強いよ」

「でも!」


「逃げる相談でもしているのか?」


低い声が響く。途端に二人の身体に寒気が走る。

「それでも良いぞ。どうせ逃げられないのだし」

「……!」


ピキピキ──


突然空間にひびが入り、スイとトアンたちの間に渦ができた。

「何!?」

「ここかあ──!!!」

ビュン、風をきって、何かがものすごい勢いで飛び出してきた。それは玉座の手前で盛大な砂埃とキキーっという針金のような音をあげ綺麗に反転するとやっと止まった。

「げほげほげほ……」

埃に咽たのか、先程の叫び声と同じ声が盛大に咳をする。

「ゲホゴホごほ」

「うるせぇな!」

「ゲホッ! ……何しやがる!」

「うるせぇからだろ! お前が!」

妙に懐かしく感じた。『二人の声』……。

「ウィル、兄さん……」

トアンの体に、暖かいものが流れてくるのを感じた。それはスイの寒気を吹き飛ばし、活力として体内を巡る。

──すっと、静かに煙が晴れていく。

「ウィル! 兄さん!」

今度は確信をもって、呼んだ。

服装が変わっているが、どこも怪我をしてはいない。本物の……二人だ。

その声でやっとトアンとチェリカの存在に気付いたように、ウィルの顔が明るくなった。

「トアン、チェリカ! 無事か!」

「ボロボロだけどね」

命に別状はないよ、と皮肉美味にチェリカが答える。

ウィルは早足で駆け寄ってくると、スイとトアンたちの間に立ちはだかった。くるりと槍を回し、床に突き立てる。

「……私を殺すのか」

「違う」

「……では、殺されに? 今から昔、あの時の修正をするために?」

「……違う。確かに驚いた。でもさ、そうやって憎んで憎まれてっていつまでやっても終わらねえだろ? オレはそんなのゴメンなんだ。だからお前を憎まない」

「……。」

「スイ、もうやめろ。スノゥは、こんなこと望んでいない」

「──スノゥ」

このとき初めて、トアンはスイの顔に動揺が滲み出るのを見た。無表情に少しずつ皹が入り、瞳が細められる。

「スノゥ、スノゥ、スノゥ……」

顔を覆って、拒絶するように首を振る。かつて、伝説ではスイの髪は透明な美しい色をしていたのだと不意に思い出した。──今は、灰色の曇り空のような髪がただ鈍く光るだけ。

「やめよう、スイ。いつまでも魔王でいる必要はないんだ。こっちの話も聞いてくれ」

「──……」

す、その瞳が突然動いた。探るように辺りを彷徨ったあと、アルライドの傍に膝をついているレインにその瞳が当てられる。

違和感を感じたのだろう、ウィルの気配が緊張するのが伝わってきた。それと同時に、隣に居るチェリカが小さく呟く。

レイン、と。

「……そこ。そこにいるのだろう」

「……?」

突然の話に頭が付いていかないのだろう、レインが訝しげな視線を向ける。あっという間に傍に立っていた、闇の匂いをもつ男に。

「証明をしてやろう、ウィル。スノゥは私を受け入れてくれるさ。彼女はいつだって、優しく微笑んでいてくれた」

「何──」

レインが口を開いた瞬間、チェリカとウィルが同時に叫んだ。

「逃げて!」

「やめろ!」

だがその叫びは彼の腕を拘束するのにはなんの役にも意味を成さず、レインの腹に強烈な一撃としてめり込んだ。


「かえしてもらおう」


嫌な音とともに、細い彼の身体が飛んでいく。

「兄さん!」

トアンが名を呼ぶが、虚しく空中に響くだけ。だん、どさ……思い切りたたきつけられたあと、数回跳ねるとやっとレインの身体は止まった。

「う……」

「兄さん、兄さん!」

「レイン!」

「うるさい」

す、スイの手が再び空を裂く。途端にトアンの足は地面に縫い付けられたように動けなくなり、一歩も進むことも許されなかった。

(そんな……)

かつ、かつ、かつ……ゆっくりとスイがレインに近づいていく。呻き声を上げながらそれを認め、レインは何とか身体を起こそうと地に手をついた。──が。

「う、え……ッゲホゲホゲホ!」

突然の激しい嘔吐感に、片手を口元にやる。腹に攻撃を受けた所為だろうか? いや、何かおかしい。

「え、うェっう。ゲホゲホッ」

視界の端にスイという男のブーツがうつった。あまりにも自分は無防備だ。立たなくては。

だが、身体は動かない。

「ゲホ、ケホ、うえ、……うあ……ッ」

……何かが喉を逆流する感覚。

てっきり嘔吐物だと思っていたそれは糸をひいた血液とともに、ちん、ちんと涼んだ音を上げながら床の上を転がった。飴玉のような、美しく光る、小さな光の玉。

それが何なのか、レインは本能的に理解していた。


「……ぅ」

手を伸ばすが、それは僅かにしか動くことができず、そして地から手を離したことによりバランスを崩した少年の腕は脆く折れ、どしゃりと地に伏せることとなる。

弟や仲間が、何か叫んでいる。逃げろ、やめろという言葉を耳が捉えた。──そうだ。このままでは自分は。

もう一度ゆっくりと手を逃すが、しかしスイの足によって阻まれた。

ぎり、手首に鈍い痛みが走る。

「う、うう……」

「触れるな、穢れた者」

ひょいと光の玉を掬い上げると、スイの視線が愛おしいものを見る瞳に変わった。

「スノゥ……ようやく会えた……すまなかった。今まで、助けてやれなくて」

光の玉のまわりを、柔らかな風が包んだ。そしてそれは徐徐にひとの──女性の形を作る。彼女の体は透ける様で、内部から淡く発光していた。

……間違いない。スノゥだ。彼女と自分はいま完全に切り離された。暖かく生命力を与えてくれた存在からぷっつりと切り離され、身体が重くなっていくのがわかる。

それを認めた瞬間、レインの意識は闇の中におちていった。

まるで、海の底に沈むように──……



「レイン──」

チェリカの声が闇に吸い込まれる。

「嘘、レイン、嘘でしょ!? レインの気配が消えちゃうよ、消えてくよ!」

「チェリカ、そ、それってどういう……」

尋ねながら、なんて自分は愚かな問いをしているのかと後悔した。わかってる。わかっているのだ。なんとなく感覚だけが、彼を『死』が蝕んでいるということを。

「……スイ! それを離せ! それをレインにかえせ!」

噛み付くような声でウィルが叫んだ。ぶん、槍が風を割くと同時に壁を這う蔦が急激に生長し、部屋を覆い始める。

「『もりびと』の力か……」

スイはくつりと笑ってみせると、勝ち誇った笑みを向けた。

「もう遅い。それに、もともと人間がもっていいものではないのだ。……スノゥの魂は」

もう一度愛しそうに光を纏う少女を見つめ、少女はゆっくりと辺りを見渡した。意思を持って部屋を覆っていく蔦をみて、トアンをみてチェリカをみて、ウィルを見て。アルライドを見て、レインを見て。最後に、スイを見た。

「スワロフスキィ、あなた、なんてこと……」

「何?」

「……あたしは全部見てきたわ。死んだあと、あたしの魂は森に還った。そして、見てきた! もりびとの村を破壊したあなた。人間を無差別に殺していくあなた……。そして、この子としてもう一度世界を見たわ。いろいろあって、またあなたに会えた。嬉しかった。でもね」

少女──スノゥの瞳から、花びらが零れるように涙が落ちた。

「あたしはあなたに、『間違い』を教えにきたのよ! 理由が何であろうとヒトを殺していいってもんじゃないわ!」

まるで、雷に打たれたようにスイの身体が震えた。

信じられないといわんばかりに瞳を見開き、一歩、また一歩後ずさる。

「スノゥ……何を……」

「逃げないで。話を聞きなさい! あなたは自分の身勝手さで、殺して、殺して。そしてアルライドという歪んだ魂を作り出した。許されないわ」

「だが……だが、私はお前のために! そもそも人間たちがお前に手をかけた! 当然の報いだ! アルライドのことも、結果──」

「言い訳よ!」

ぱしん、乾いた音とともにスノゥの掌がスイの頬をはった。

「……──」

「……嬉しかったわ。確かにね。あなたがどれだけあたしを思っていてくれたか、とても有難かった。でもスイ、あたしがそもそも『もりびと』に人間とあわせてって頼んだのよ」

「嘘だ」

「嘘じゃないわ。……思い出して。あたしは殺されたけど、でもあたしはね、人間とエルフの溝を埋めたかった……。──その好奇心が、あなたをここまでさせたのもわかってるわ。あたしにあなたを責める理由はないけれど」

スイの周りの影が膨張する。だがそれは、決して闇の増大を意味するものではない。トアンは直感的にそう思っていた。

「……でも、レインやアルライドを巻き込んでしまった。ウィルの運命を捻じ曲げてしまった。そのことについてだったら十分でしょう?」

「──スノゥ──……私は、では、どうすればよかった?」

先程まで威圧感に満ちていた声が、不意に弱弱しいものとなった。

「間違いは正せるわ。やり直せりゃしないけど、正していける。……大丈夫よ、スイ。あたしがついてる。償っていけるわ。だからお願い、『そんなもの』に飲み込まれないで」

スノゥの細い指先が、そっとスイの頬に触れた──実際は重なっただけなのだが、確かに触れたように見えた。

膨張した闇がさらに膨れ上がり、そして一気に破裂した。それは緑色の暖かい光とともに部屋を覆い、トアンの傷、チェリカの痣をそっと癒した。

「あったかい」

光を手に乗せるようにし、チェリカが呟く。そんなチェリカを見ながら、トアンの耳は小さな呟きを捉えた。スイの、エルフスワロフスキィの声だ。

「そうだ……私は、なんということを…………」



顔をあげた『エルフ』の瞳は、美しい森の息吹の色をしていた。



「……ん」

優しい光の中、アルライドが勢いよく上体をおこした。ぶんぶんと頭を振っている彼は、辺りを見渡して即座に状況を把握したようだ。

だが、どこか疲れたような顔をしている。

「アルライドさん!」

「ああ、トアン……。ごめんね、俺気絶しちゃって」

「スイが魔力を吸ってたのね。スイ、彼に返してあげて。もともとはあなたのでしょうけど、今は彼のものよ」

「ああ」

だが、膝をおって額に手をあてようとしたスイを、アルライドはとめた。

「いいんです」

「何?」

「俺より、レインを。このままでは死んでしまう」

「……そうか。スノゥ」

くるりと向きをかえ、今度こそ額に手を置く。そこにスノゥが手を重ね、暖かな光が再び部屋に光った。

「でも長くは持たないわね。一度ちゃんとした治療をしないと」

「スノゥさん、それ、どういう意味なんですか?」

「忘れたの? 『器が弱ってる』ってアノコも言ってたでしょ」

顔は向けず、声だけ向ける。スノゥが言うアノコ、とは恐らくクラウディのことだろう。

「もともと胸に病があるのよ。それをストレスと、あそこでの生活が悪化させた。今まではあたしの魔力がそれを支えてたけど、あたしはもう切り離されたわ。……ホントは旅なんてできる状態じゃないの。それがさらに悪くなるわ」

「そんな!」

「早くちゃんとした治療を受けないと……きゃ!?」

パシィ、不意に拒絶するようにスノゥとスイの手が弾かれた。レインの周りを一瞬赤い光が舞い、二人の手に軽い衝撃を与える。

──だがそれはすぐに散り、再び柔らかな光が包み込んだ。

「今のは……」

スイの声が訝しげに曇った。す、瞳がトアンのほうに向けられると同時に、チェリカが目を丸くした。

「今の、」

「──知っているのか?」

「う、うん……。」

「そうか。……そっちの、トアンといったな。この少年はお前と血が繋がっているのか?」

「え、あ、はい。結果どうあれ父さんが安全なところに隠してたみたいですから、兄弟だと思います。それに、ちょっと言いにくいんですけど、普段は全然似てないけど、たまーに似てるなって思うから」

「ふうん。では、お前とこの少年の母親の名前は『アリシア』か?」

「え?」

「答えろ」

「ああ、あの。オレ、父さんと二人で暮らしたから母さんのこと全然知らないんです。勿論兄さんも知らないと思います」

「そうか……だが、隠していた子か……可能性がないといえないが」

「スイ、そんな話は余計なことよ。力があるものの干渉はいいこととはいえないわ」

「……。」


(アリシア……?)


どこかで聞いたような。だがトアンの頭は、少し動いただけでもとまってしまった。まるでこれ以上の思考を恐れるように。

「これでとりあえず大丈夫ね」

トアンのループしていく思考を抑えるように、スノゥが伸びをした。スイは遠慮するアルライドの額にも手をあて、目を閉じる。

「……そうだわ、ウィル。『もりびと』のこと、知りたくない? それから、あなたの『本来居るべき場所』のことも、よかったらあたしから話すわよ」

スノゥの笑みに、ウィルが言葉を詰まらせる。ゆっくりと仲間たちを見まわしたあと、小さく頷いた。


「『もりびと』。エルフが住む森の番人。少数民族で、一応人間よ。でも森に近いとこで生きてきた所為か、植物の気持ちを悟ることができたわ。その気になれば、植物を操ることも。名前の由来は、彼らは人間たちから見て、エルフと森を守る『守人』。エルフから見て、森に住む人間『森人』。正式な立場からみるとそれが合わさって『守森人』。まもりびと、というの」

「まもりびと……」

まだ信じられないように、ウィルがポツンと繰り返した。

「そう、その特性を利用し、スイはあなたを植物の精霊って言ったのよ」

「……。」

「……今、記憶は全てある?」

「あるよ。全部……。何もかもな。ああ、そっか。実際、オレの魂は人間だから」

「成長するわ」

「背が伸びてたんだ」

チェリカがにこりと笑ってウィルの頭をバシバシ叩いた。

「ちょ、いて! いてえよ!」

「トアンと同じくらいだったのにね、もうとっくに越してる。レインの背もそろそろ追い抜く?」

「……そうかな。そうかも。へへ、強い男になるぜ!」

そういってけらけらと笑う彼は、その実半分以上が空元気なのだ。

「でもウィル、いくら人間っていってもね」

スノゥがもう一度口を開く。何を言われるか分かっているのだろう、ウィルの顔が強張った。だがそれでも彼は彼女を止めず、視線を足元に落とす。

「あなたは──666年前の人間なのよ」

「666年も!?」

驚いて声をあげるトアンにチェリカが人差し指を当てる。

「しっ」

「だって、昔っていってもそんな大昔だとは──」

「緑の瞳の話を知ってるでしょ」

「あ、ああ、そうか」

そういえばあの話は666年前に起こったとされる物語。だがこうして突きつけられてみると全く実感がわかなかった。テュテュリスやヴァイズといった長年生きているひとは、どこか遠い『竜』という存在で、漠然とした感覚も自分とは違う、ということで納得していた。

でも、ウィルはずっと一緒にいたのだ。

「ウィル、ごめん」

「なに謝ってんだよ、気分悪いぜ? 波乱万丈な人生、ここに極まり。だからな。オレはこれでも嬉しいよ。自分のことがやっとわかって」

「カラ元気ー」

「何だよオレは年上だぞ! 敬え!」

ばたばたと追いかけっこを始めたチェリカとウィルを見て、トアンはふっとため息をついた。

安堵だ。

(これで──)

自分は魔王に手が出なかったけど、でも、終わったのだ。そう思って油断した背中にチェリカがぶつかり、あわや大惨事というところだった。──本当に、このときは知らなかったのだ。嬉しくて、安心して、なにも気付かなかったのだ。


──凍て付いた闇を、誰も。



「スイ、あなたの椅子よ。あのこたちの封印を解いてたまには貫禄見せ付けてやりなさいよ」

「……」

アディラとシラユキを指してスイに笑いかけるスノゥだが、このとき初めて彼の違和感に気付いた。間近に寄っているのに、彼のヒスイ色の瞳はどこか遠くを見たまま。

「スイ……? あなたまさか」

「紅い色とともに視力を失った」

「なんだって!?」

「……ウィル、お前の所為ではないのだ。これは、報い。いいんだ、幸い耳がいいしな」

よろよろと一歩ずつ進むスイの背を、ウィルとスノゥが支えてやる。自然にそうしたウィルを見て、思わずトアンは問いかけていた。

「ねえウィル」

「何だ?」

「オレたちとまだ、旅してくれる?」

「……え?」

「ここに残りたい?」

「……ああ。それ? オレは行くよ、まだね。レインがいるし、あいつの病気なんとかしてやらなきゃ」

「ホントにそれだけ?」

意地悪く笑いながらチェリカが口を挟む。

「思ってたんだけど、お前、最近性格悪くなってねえか? トアンが甘やかすからだ」

「お、オレの所為!?」

「こんな悪魔にしちまってさあ、おいチェリカ、お前のことだぞ」

「私が質問してるんだよ」

「そうきたか……。内緒だよ内緒!」

すっぱりと話を切ると、ウィルはすたすたといってしまった。照れている。それがなんだかおかしくて、トアンとチェリカは顔を見合わせて笑う。


そのときだった。

「トアン、チェリちゃん──!」

いつになく焦ったシアングの声を聞いて、不意に嫌な予感が胸をよぎる。

怪我をした体で、あの階段を駆け上がってきたシアングの後ろに──ルノの姿が見えなかった。

「お兄ちゃん……?」

チェリカの不安そうな声が、辺りに吸い込まれていった──……




なにも、忘れていたわけではない。


なにも、見失っていたわけではない。


ただただ、微温湯のような暖かな温度が、私を目覚めから遠ざけていっただけ。


なにもかもを失ったけれども、なにもかもなくしたわけではない。


かえらなくては。かえる場所があるのだ。


けれども、身体が動かない。優しい闇の揺りかごに包まれて、甘美な囁きに飲み込まれて、動くことができない。


そっと瞳を開ける。


「ルノ!」


「お兄ちゃん!!」

「ルノさん!」








「どうしたの、シアング」

冷静を装って、チェリカがシアングに尋ねた。

シアングは膝に手をつき、何度か呼吸を繰り返した。今にも倒れそうなその様子に、トアンが手を添えてやる。スイを玉座につけたウィルと、目覚めないレインを背負ったアルライドもやってきた。

「は、……う……。大変、なんだ……。ルノが、ルノが居なくなった」

「ルノさんが!?」

「お兄ちゃん……」

「どうしてだよ? シアング、皆で残ってたんじゃ……。それにルノはここに来てないぞ! アルライド、ここ以外にいまあの部屋から通じてる扉はないだろ?」

「……うん、それにシャインももう扉をつくる力はないから……」

「じゃあ、ルノさんはどこへ?」

トアンの言葉に、答えるものはいない。チェリカの顔が曇っていくが、すぐにスイとスノゥのもとへ駆けていった。

「スイ、ひ、一つ聞いていいかな」

その声は震えている。

「……どうした?」

「──暗くて、ゆっくり動いてる、この気配──……感じる?」

「──ああ」

「やっぱり」

「やっぱり、ってどういうこと? チェ、チェリカしっかりしてよ!」

珍しく今にも倒れそうなチェリカを今度は支え、トアンは彼女の顔を覗き込む。

……彼女は、唇をかみ締めていた。

「トアン、まだ、終わってないよ」

「……え?」

「さっきヴェルダニアがいなくなったでしょ? 今も、お兄ちゃんの気配を感じるの。でも、でも、……包んでるんだよ、あの力が。きっとお兄ちゃんは、」


彼女が何を言おうとしているのか、トアンはすぐにわかってしまった。


ルノは、


「取り込まれてる──」


ルノは。


「……今のお兄ちゃんには魔法を使うための魔力がないの、抵抗する力も。でも、器は、お母さんと同じ。『封印した』お父さんと、『もともと闇の力をもつ氷魔』のお母さん。私がやくに立たなくなったから、スイと戦わせて気を逸らしてるうちに、『抵抗力』がない『氷魔』のお兄ちゃんを」

「……そんな」

シアングの絶句したような声があたりに響いた。

「だって、目、離したの、ほんの一瞬で……」

「一瞬でも十分だよ、あの力は」

「ルノ……。」

「チェリカ、ルノの気配はまだ辿れるの?」

黙って話を聞いていたアルライドが口を開いた。

「う、うん。この城は気配がよく見えるし、お兄ちゃんはやっぱり、繋がってる感じがするから」

「そう、この城は魂がむき出しになる場所。気配もよくわかる。だから、恐れないで集中して。ルノが今どこにいるか、探して。これはチェリカ、君にしかできないことなんだ」

「私にしか……って、言ってくれるよ。そういえばやる気とか正義感にもえるとも? ──はあ、なんだか私、ヴェルダニアと分離してから随分いろんなこと考えるようになったなあ……確かに性格悪くなってるかも」

「それでもいいんだよ。大体、そう思うこと自体いいこなんだから」

「いいこかあ……久しぶりに聞く言葉」

チェリカの顔に笑みが戻る。それはどこか困ったようで、儚く消えてしまいそうなものだったが、答えとしては十分だった。

「トアン、私の手、握ってて」

「へ!? あ、う、うん!」

「お願いね」

す、瞳が伏せられるのと同時に手を握っているはずのチェリカの気配が消えていくのが分かった。思わず力を入れそうになるが、アルライドが首を振って制した。

「トアン、チェリカの言葉に耳を傾けて。強く握ったら邪魔しちゃうから、気をつけてね」

「わかった。……チェリカ、頑張って」


(くらい)

まっすぐな細い道。

(──暗い)

道以外は濃い闇が立ち込めていて、足場はかなり悪そうだ。それでも意識はまっすぐに進んでいく。

やがてたどり着いたのは、半円の放射状に伸びる通路の中心。自分が辿ってきた道はこのうちの一つなのだ。中心の地点には巨大な鏡が埋まっており、薄く水が張り巡らせられていた。

──視点を上げる。

半円は今辿ってきた通路と、中心の目の前の突き当たりに巨大な扉があった。その扉には生贄にされるようにして、一人の人影が見えた。

両手をまっすぐに伸ばし、T字の形で磔られている。顔は伏せられていて見えないが、髪の毛から兄ということがわかった。

(お兄ちゃん──)

ジジ、不意に視界がモノクロに変わる。ザアザアと砂嵐が吹き荒れ、まともな視界を与えてはくれなかった。

ブツ、視界が一瞬黒に飲まれ、そして、


──眼下には、三人の仲間。


『私は、邪魔な存在にはなりたくないから』




「……うああああ!」

「チェ、チェリカ!」

「しっかりして!」

突然悲鳴を上げたチェリカの手を咄嗟に強く握ると同時に、アルライドがその頬を軽く叩いた。

「……あ、今の、何……?」

「何が見えたの? 君が話しながら気配を辿ってくれたから、俺たちも事情はわかってるんだけど。扉に磔られたルノを見た後、君が錯乱してさ。……何が、見えた?」

「……。一瞬感覚が変になって、そのあとに私と、トアンとシアングを見た。それから、こえも聞いた」

「こえ? ……聲の方?」

「わ、わかんないけど、でも、なんか──」


まるで、遺言のような。



「……。」

チェリカの言葉に、トアンは絶句した。

「お兄ちゃん、ヴェルダニアの中でも意識があるんだよ、だから」

「オレはルノを死なせたりしねーぞ」

ぐしゃぐしゃとチェリカの頭を撫でながらシアングが優しく言った。

「そんな身体で?」

「ああ? こんなのすぐ直る。ルノを連れ戻そう、大丈夫、オレがいるから」

「……うん」

少しでも安心したできるようにとシアングの手の力が強くなる。チェリカはそれにそっと笑って応えるとその手に手を重ねる。「アル、今私が『見た』場所しってる?」

「うーん……扉、半放射線の通路……水鏡かあ」

「それはあの世とこの世を繋ぐ扉だ。アルライド、お前も一度そこを通っただろう?」

アルライドの呟きが終わると同時に、玉座に身を沈めていたスイが口を開いた。

「あ、確かに……俺が通ったときはあいてたんですよ」

「そうだ。そこから亡者の聲がにじみ出ているのだ。見ただろう? あの黒い影たちを。恐らくヴェルダニアは失った魔力をそこで蓄えているのだろう」

「場所、知ってるの?」

「……知っているとも」

す、スイの手が空を彷徨う。盲目のエルフは目を凝らすように細め、そしてなにかを探し出したように掴むような仕草をした。

──すると、長い階段の上に、まっすぐ伸びた透明な床が現れた。何故透明なのにその存在が分かるといえば、時折きらりと何かを反射して床が光るからだ。

「この道は、お前の見たという通路に通じている。……大丈夫だトアン、崩れ落ちたりしない」

「ええ!」

突然名前を呼ばれたことに肩が跳ねた。──しかも、心を見透かされていたとは。

(た、確かにちょっと脆そうだって思ったけど……)

これではまるで自分が意気地なしのようではないか。

撤回するようにトアンは背を向け、床の上に足を踏み出した。──若干、恐る恐る。

「どうだトアン」

「大丈夫!」

「そか」

右手をポケットに突っ込んだまま、シアングがそれに続いた。包帯だらけの彼をまた戦わせるのは気が引けるが、置いていく、といっても付いてくるだろう。

「ありがと、スイ」

チェリカもシアングに続いて足を踏み出す。ここでトアンは初めて、三人だけ、ということに気がついた。

「アルライドさん、ウィル」

「俺は残るよ。レインが心配だもん。……それに、ホントは俺、あんまり干渉しちゃダメなんだ。──君たちに変な後遺症残しちゃダメだから」

「……え?」

「ああ、なんでもないよ。とにかく俺は待ってる」

にこにこと笑いながら言い放つアルライドが、一瞬四散して消え去りそうに感じたのは、気のせいだろうか。

──いや、今はそんなこと考えている場合ではないのだ。

「わかりました、兄さんを頼みます」

「任せて」

「ウィルは?」

「ん、オレ、まだ魔法になれてなくてちょっと疲れて……。それにスイがこんなんだし、レインが気になるし……でもお前ら三人ってのも心配だなあ。特にシアング、ボロボロじゃん?」

「オレは平気だっつに。ネコジタ君頼むぜ? ルノなら絶対つれてくるから」

「お、おお」

本当は目覚めたばかりのウィルの力がどれほどか気になることは気になるのだが、トアンは二人のやり取りを黙って聞いていた。

──三人。

ルノを連れ戻しに、三人で旅していたころを思い出す。

また、あのときと同じ状況。

(行こう)

チェリカが走り出す。それを追って、トアンも足跡の鈍い光を頼りに暗闇の中に突進した。

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