第35話 unknown memory

ぼんやりとだが、全て、なんとなく分かっていた。霞がかかった世界で、それでも自分は目を細めて、必死に手繰り寄せていたのだ。だから、とりあえず覚えていた。

──自分が、大事な人たちに、手をあげたことも。


「!」

は、シアングは目を見開いた。自分が生きていることは信じられなかったが、ルノが必死に治療してくれたことを思い出す。

(……そうだ、ルノ)

見開いた天井の材質は、木。だが見慣れない。見たことがない。こんな暖かな家なんて、そうそう見られるものではない。

がばりと体を起こし──起こすことができなかった。右手を軸としてついていたのだが、すっかり右手に力が入らない。いや、感覚すらないのだ。

(ああ、そうだった)

そういえば、右手を何度も刺したんだっけ。筋肉や神経でもきれてしまったのだろうか。それでもいい。右腕一本で、自分は大事な人を守れたから。

左手を使って何とか上体を起こす。どうやらここは、ベッドが足の踏み場もないほどずらーっと敷き詰められたなんのセンスが感じられない部屋のようだ。そして、ここに居るのは自分ひとり。

片手で布団を退けると、自分の身体は随分と酷いことになっているのが分かった。上半身は包帯でぐるぐる巻きにされ、素肌の上には包帯一丁、なんでもどんとこいという状態だった。せめて包帯の上に何か服を着せて欲しかったぜ、ポツリと呟いてみる。

動かない右手を左手で掴み、ダボダボなズボンのポケットに捻じ込んだ。足で反動をつけて起き上がると、この部屋唯一のドアに向かう。

随分長く眠っていたようだが、不思議と頭はスッキリとしていた。まるで、なにもかも、うまくいったのだと胸を張っていえるような気さえ、このとき確かにしたのだ。



トントントン

「あー、危ねえな」

グツグツ

「火傷すんなよ」

「しねぇよ」

トントントン……

「本当に大丈夫か?」

「あー、うるせぇな! 静かに待ってろ」

「な、なんだよ、人が折角心配してやってんのに!」

「やんのか!?」

「まあまあ」

アルライドは今にも噛み付かんばかりの二人をやんわりと押し止め、頭に乗っけていた皿を差し出す。

「……なに。」

「ちょーだい」

「まだ!」

今度はとめたアルライドが怒られた。我慢できないよ、そう口を尖らせて怒鳴ってきた人物に纏わり付く。

「アル、やめろ!」

「だってさ、レインがすーぐそうやっていじめるんだから。チェリカだってお腹減ってるんだよ」

「お腹減ったー」

「う……。」

便乗するようにソファに座っていたチェリカも、アルライドと同じように纏わり付いた。これによって身動きが取れなくなった人物──レインは眉間に皺を寄せたまま、はぁ、と長い息をつく。

その様子に見かねたウィル──喧嘩をしていたもう一人──が手を伸ばし、イソギンチャクのように貼り付いた二人を引っぺがした。

だがその目は、どこか窺うような目だ。彼らしくない。

「あ、シアング、おはよ」

へらへらと気の抜けた笑みを浮かべ、やっと気付いたのかアルライドが笑う。それに、はっとしたように他の三人もシアングを見た。

「お、おはよ。」

シアングのぼんやりとした記憶の中で、アルライドが現れたのは確かに覚えている。事情はよくわからないが、どうせ彼のことだ。元々ただの人間ではない気配だったから、なにかやってのけたのだろう。

「シアング、大丈夫? 酷い怪我だったね」

「……チェリちゃん」

向かいいれるようにしゃがみ込み、両手を開いてやるとこの素直な少女は何の戸惑いも見せずに飛び込んできた。──同じ双子なのに、ルノとは大違いだ、と思う。

「チェリちゃん。チェリちゃんこそ大丈夫?」

「うん、私はもう平気。背中に痣ができちゃったけど」

そういってくるりと回ってみせる。そのとき初めて、シアングは彼女の服の異変に気がついた。

「……この服」

「これ? ああ、ヴェルダニアの瘴気に染まっちゃったの」

肩口を大きく開け、体のラインが分かるほどぴったりした服。太ももの付け根ほどしかない丈からは、黒いストッキングに包まれた細い足が皮のブーツに埋まっていた。

「着替えねーの?」

「……うん。だってもう、私、変われたから。もう隠さないって決めたんだ」

にこやかに笑ってみせる。……どういうことか、よくわからないが、彼女が笑っているので大丈夫だろう。

ようやくシアングは視線を上げ、揃いのエプロンをしているウィルとレインに視線を向けた。

「……で? お宅らは何してんの?」

「なにって」

「決まってんじゃん、あんたがぐーすか寝てるから、介護してやろうと思って」

ごはんはまだだぜおじーちゃん、そういうレインの口元には意地悪そうな笑みが浮かんでいる。

「おい、誰がおじーちゃんだ」

立ち上がって見下ろしてやると、彼は挑発的な笑みを浮かべた。

「あんただ、あ・ん・た。いいからその辺でまってろ」

「つーかネコジタ君、料理なんてできんの?」

「俺たちは一人暮らししてたみたいなもんだからね、とりあえず家事一般はできるよ」

そう代わりに答えてくれたのはアルライドだ。

「安心していいよ、レインは手先器用だから。ただちょっといろいろ適当だから」

「塩! いれすぎだって!」

「いいんだよ、口出すな」

「……ウィルと喧嘩しっぱなしだけどねぇ」

けらけらと笑い、アルライドは頭にもう一枚皿を重ねる。

「成程ね、だからこの騒ぎ、か」

今更ながらだが、シアングは声を立てて笑った。


ぎゃあぎゃあ騒いでいる二人では、おそらく料理ができるのは相当先だろう。アルライドとチェリカもようやく腕まくりをし始めたことを見、シアングも勿論腕を捲くろうとし──

(──!)

「……シアング? どうしたの?」

「疲れてるんじゃない? トアンみたいにさ」

けらけら笑いながらアルライドが指を指す先に、ソファに沈んでいるトアンを見つけた。

「トアン、どうしたんだ?」

動揺を悟られぬよう、ゆっくりと喋る。若干の違和感に気付いたのだろう、オッドアイと青い瞳がちらりと向けられ、緑と茶色の瞳が違和感に細められる。

だが、誰も何も言わず、レインとウィルはすぐに口喧嘩を再開し、口ごもるチェリカの代わりにアルライドが説明してくれた。

「トアンね、力の使いすぎみたいだよ。まあ、あんな未熟な腕で月千一夜を振り回したんだから、当然だけど」

「ふぅん、死んだように眠ってる」

「チェリカを助けようと必死だったしね。まだ目、覚まさないけど……ああ、チェリカ。大丈夫だよ、すぐ起きるだろうに」

「……うん」

気遣わしげにチェリカの視線がトアンに向けられる。

一つ一つ状況を把握していきながら、シアングはそっと眉を顰めた。


──腕が、動かない。


焦り、そう、それが心に満ち溢れる。

作れない。手伝えない。戦えない。守れない。

先程まで心を占めていた、あの達成感が消えていく。


「そうそう、ルノはもう起きたよ」

「!」

チェリカの表情が歪んだ。アルライドはその肩をとんとんと叩く。

「チェリカ、君の所為じゃない」

「……でも、お兄ちゃん、私を助けるために」

「それを君が背負うことは望んでない、そう言ってたでしょ?」

「ルノになにかあったのか?」

チェリカが一歩下がる。

「チェリちゃん、ごめん、怖がらせるつもりはないんだ」

「怖くなんかないよ!」

強い、それで居て震えた声でチェリカが叫んだ。

「怖くなんか、ないよ! でも、私がもっともっと強かったら、って、後悔してるだけだもん!」

「チェリちゃん、何隠して──!」

「騒ぐな」

す、スープに濡れるオタマを二人の間に挟むようにし、レインが口を開いた。

「シアング、バレバレな嘘つくなよ、うざったい。あんたルノのことになると周り見えてねぇだろ? チェリカだってやっと落ち着いたんだ。それなのに、あんたのさっきの声なんだよ」

『……レインがまともなこと言ってるわ』

不意に、女性の声が聞こえた。見れば壁にかかった鏡には、桃色の髪の少女が嬉しそうに笑っている。

「スノゥ、黙ってろ。……いいか、あんたのことも誰も責めねぇ。だから、あんたも誰も責めんな。──どっか怪我したんだろ」

「!」

無意識に庇ったポケットの中の右手。だがオッドアイはそれを見逃してくれなかった。

「オレは、どこも怪我してねぇ。変な同居人ができただけで」

ちらり、鏡の中の女性を見る。

「……だからこんなこと言える。……なあ、オレがハクアスを失ったとき、あんたは受け止めてくれた。それがどれだけ、支えになったか分かるか? ルノに会う前に、ちょっとその馬鹿な頭冷やせ」

それは、彼なりの気遣いだ。そう気付いてやりながらも、わかっていながらも、シアングは動いていた。

ガイ──ン!

だが、衝動的に振り上げた拳は、なべのふたによって耳障りな音と共に遮られる。

「よせよ、シアング。本当にらしくないぜ」

「……ウィル。……あ、わり」

ウィルの静かな声に、漸く落ち着いて辺りを見渡した。そうだ、チェリカは。今ので余計に驚かせてしまっただろうか。

ちら、情けない視線を向けてみると、彼女は先程の怯えはどこへやら、真剣な眼差しでこちらを見返していた。──目と目が、あう。

「休んで休んでー。怪我するとどうも感情が高ぶったりするしね、よくあるよ。レイン、君も言いすぎなの。謝って」

はいはいと割り込みながらアルライドが有無を言わさぬ笑顔で告げた。もう返す言葉もなくて、シアングはソファに座り込むと小さくため息を零す。

──また、手をあげた──。


「いやー、でもウィル! さっきかっこよかったよ」

アルライドがバシバシと肩を叩くと、ウィルは数歩よろけながら照れくさそうに頭をかいた。

「……だ、だってさ。レイン、ぼーっとして避けねえから、つい」

「ふん、言ってろ」

「でも、オレてっきりアルライドが動くと思ってたけどさ」

「……え? あ、あのー」

何故か口ごもるアルライドの代わりに、レインが反論を始めた。──おそらく、アルライドが故意に言わなかった、言えなかった理由を。

「アルは、余計な手はださねぇ。オレがあんくらい避けれらねぇと本気で思ってんのか? 本気で危ない事以外、アルはほとんど動かねぇの。」

「ちょ! こら! 助けてもらったんだから、お礼を言ってあげるものでしょう」

「お前もこんなガキに舐められてんじゃねえよ」

レインが一言口をきくたび、ウィルががっくりと項垂れていく。慌ててアルライドが取り繕うが、全く逆効果に思えた。



意識を失った、トアンとシャイン、レインとルノ、シアングを連れ、アルライドの部屋に来たのは数時間前。当初、血溜まりの中で寄り添うように倒れているルノとシアングを見たとき、チェリカは酷い眩暈に襲われた。──どうしよう、と。

だがクランキスの辛抱強い治療のお陰で、傷が深かったトアンとシャイン、シアングも一命を取りとめ、外傷がほとんどなかったレインに続いて二番目にルノが目を覚ましたのだ。

──だが。

あの艶やかな銀髪は無造作に切り落とされ、両手は内部からの圧力によりズタズタに裂けていた。変わり果てた兄は、だがチェリカに『私が勝手にやったことだ、お前が気に悩むことはない。なに、いくらか涼しくなってすごしやすいぞ』といって優しく笑ったのだ。

ゆらり、チェリカの視界が歪む。だがそれを唇を噛んで堪えていると、『私を助けるとき、お前も必死になってくれたじゃないか。おあいこ』といって頭を撫でてくれた。

丁度そのとき、ウィルとレインが入ってきた。ルノとチェリカ、二人が揃ってるのを見て今更ながらにウィルは安堵し、レインはルノの後ろに座り込むとポーチから鋏を取り出した。

なにを、チェリカが尋ねると、レインはただ一言『整えてやる』といって、不揃いな銀髪に鋏を入れ、器用な手つきで整え始めた。

しき、しき、しき……

ルノのすぐ目の横で、また一房、髪が切り落とされていく。

先程自分を襲ったあの『圧迫感』はもうないが、だがしかし、自分はもう魔力『そのもの』を感じることができなくなったのだ。

それを口にすれば、妹や仲間はまた傷ついてしまう。だからルノはゆっくり瞬きしながら、その瞬きの中に焦燥感を隠した。

チェリカとウィルは、先程部屋を出て行った。互いに互いが落ち着くまで、距離を置け、ということだろう。

ふとレインの冷たい指が、首筋に当る。思わず身をすくませるが、本人はまったく気にしてくれなかった。

「冷たいんだが」

「我慢しろ。前髪も切るから、目つぶれ」

言われて、僅かに目を伏せる。だが、薄目を開けてちらりとレインの顔を窺って観察してみる。

普段冷たく鋭い目は、いくらか柔らかい。いや、言動も行動も、自分を気にかけてくれているのだろう。

(こうやってみれば、随分綺麗だ。女性似ではなく、男性として美しいというのは珍しい……む、睫毛も長)

「何見てんだよ」

「あ、え!? いや、気にするな」

「視線感じるっての。──ほら、これでいいか」

そっと差し出してくれた鏡を覗き込んでみると、まあ。がらりと雰囲気が変わった自分がいた。ご丁寧に前髪の分け目まで、髪の長さに合わせて変えてくれたようだ。

よくあの不揃いな状況からここまでやったものだと感心すらしてしまう。

そのとき、こんこん、遠慮がちにドアがノックされ、ウィルとアルライド、そしてチェリカが顔を出した。

「ルノ、似合ってるねぇ」

優しく笑いながらアルライドが進み出ると、ウィルも頷いた。

「随分変わったな。でも、いいんじゃないか?」

「うんうん、チェリカ、君はどう思う?」

「え?」

不意に話を振られたチェリカは僅かに眉を寄せた。だが次の瞬間にはにっこりと満面の笑みを浮かべながら、明るく言い放つ。

「可愛いよ、お兄ちゃん」

「か、可愛いって……。チェリカ、お前なあ」

呆れたような返事を返しながら、それでもルノも嬉しかった。いつもどうりの妹だ。

僅かなぎこちなさすらないといったらうそになるが、チェリカが笑ったなら、もう大丈夫。

それを察してくれたのか、アルライドはにこりと笑った。

「それよりさあ、お腹減ったよね。なんか作ってくるよ」

「オレもいく」

「オレも!」

「だから、ルノ。すこし眠るといいよ。チェリカも手伝ってくれる?」

「うん! じゃあね、お兄ちゃん。おやすみなさい」

ぱたん、ドアが閉まって、四人が出て行く。それを確認すると、ルノはベッドに体を横たえた。木目の天井が気持ちを安心させてくれる。

ゆっくりと深呼吸した瞬間、ルノの意識は闇に落ちていった。





(──……)

兄の意識が落ちていったのを、チェリカの心は反応していた。イメージとして、粘着質のあるゼリー状のマットに、足をとられたら最後ずぶずぶと沈んでいく兄の姿が想像出来た。眠りというものはそういうものだ。ひとの心をつかんで離さない。

そして、兄の気配が今までと違っていることにも気づいた。何か足りない。何かが欠落している。

それは、



(もう、お兄ちゃんは戦えない)



兄の魔力が最大まで膨れ上がり、いや、それ以上まで達したあの時。自分の殻を打ち破ったツララのような氷の塊。あれは、破壊とともに自分に『注ぎ込む』役割を果たしていたのだ。

チェリカは、そっと自分の胸に手を当てた。その中に巣食っていたヴェルダニアの気配はもうない。そしてその代わりに失われるはずだった魔力は、溢れるほど残っていた。

だが、それは兄の氷でも、光でもない。

漆黒の刃を纏った、闇。

(私が、お兄ちゃんを守らなきゃ)

ぐ、手を握り締めると、エプロンをしめたレインの後ろに回りこんだ。なんとなくその後姿が、安心できるものに見える。

「どうした?」

怪訝そうな声と、視線が返ってきた。

「ううん、なんでも」

「……もう少しだから。またシアングに脅かされたか?」

「ううん、違うよ」

「何かあったの?」

アルライドがソファにもたれながら、ゆったりとした視線を向けてきた。際限のない、底なしの優しさ。

「アルライド」

「言ってごらん。一人で抱え込むと、またつらくなるよ」

「……大丈夫。私、もうひとりじゃないからさ。レイン、ありがとね」

「あ、ああ」

「なんかね、お母さんみたい。ん? なんか違うかなあ。」

「お母さん? 寝ぼけてんのか」

「こいつが母親だったら一家崩壊だぜ。ヤンキーだし。台所に立ってるからって騙されんなよ。……ま、姉ぐらいが妥当じゃ」

「……クソガキ、生意気言うようになったじゃねぇか!」

オタマとなべのふたでの戦いが始まった。

キン、カキンと小気味良い戦闘の音がする。

チェリカはそっと深呼吸すると、ソファにもたれかかって目を閉じているシアングに近づいていく。

その気配を察したのか、シアングが顔を上げた。だがその顔は、先ほどまでの顔とは違い、遠慮を含む情けない顔だった。

「チェリちゃん」

「……シアング」

「ごめんな、さっき。オレ」

「私のほうこそごめんね。シアング、混乱してただけなのに」

年下の、妹のような存在に気を使われるというのはなんと情けないことなのだろうか。

「混乱、か。……言い訳なんだけど、オレ、一回竜の血にのまれそうになったんだ。それで暴走しそうになって、それからどうもこっち、感情が上手く制御できなくてさ。」

「私がヴェルダニアになってるときだよね。うん、お兄ちゃんの声と、暴走する力をなんとなく感じたよ。よく戻ってこれたね」

こくこくと頷きながら、チェリカがシアングの隣に腰を下ろす。

「ああ、そんときはルノが助けてくれたんだ。でもオレ、もしかするとあのときルノを」

不自然な長さで言葉を切ると、シアングはゆるゆると頭を振った。

「……。ホントによかった、戻ってこれて。でも、次が……」

「大丈夫、シアングはおにいちゃんのこと大好きだもんね。だから、次も大丈夫だよ」

そういって、チェリカはシアングの手を取った。

「だから、お願い。お兄ちゃんを、頼むね」

「……?」

「トアンは決めてくれないから、そのときはシアング、お兄ちゃんを連れて」

「……チェリちゃん?」

真剣な眼差しは、嘘を言うとは思えない。では、何故そんなことを?

チェリカはその全てに答えず、目を伏せたまま、す、と頭を下げた。




──泣いているのは、誰だ?

『お母さん、お母さん』

『母さん、母さん』

『母さん、母さーん!』

『……、さん……』

そういって、泣いているのは誰なんだ?

沢山の声が重なって、誰の声かわからない。

トアンの意識は、暗闇の中にぼんやりと漂っていた。辺りにわんわんと木霊する、母を求める沢山の泣き声。泣き声に答えるように、蝋燭の明かりのように頼りない光がいくつもの情景を映し出す。

──沢山の声?

『お母さん』

扉を叩いているのは、チェリカ?

『母さん』

窓辺で呟いているあの姿は、ルノさん?

『母さん!』

ベッドに縋っているのは、アルライドさん?

『…………。』

ただ小さく唇を震わせているのは、兄さん?

『母さん! 畜生、母さん!』

不意に、泣き声と怒声が混じったような悲痛な声が聞こえた。あの声は──……。

撥ねたような茶髪が、辺りの炎と黒焦げの木材に映えて見える。あれは、ウィル?

(ウィルはお母さんが体が弱くて村長のところに預けられてた。……多分、そういう、設定なのに)

キークが仕組んだシナリオでは──トアンが村で育ってきた記憶では、そういうことになっていた。

(それなのに、どうして?)

燃えている景色は、よく見ると全く知らない。見覚えのない、知らない景色の中で、泣いているウィル。

(これは──)


『──トアン、いつかきっと、お前は母さんに会えるだろう』

(おじ──父さん!?)

花に埋もれるガラスのケースの前に立って、そう言うのは父。いや、こんな記憶はない。どこからか、『夢』を通じて語りかけてきているのだろうか。


『母さんはどこにいると思う?』

ぞくり、背中を寒気が駆け抜ける。背後から聞こえた声は、よく知る声だ。

(この、声は──!)

ゆっくりと振り返る。握り締めた拳が、じっとりと汗ばんだ。

後ろに立っていたのは、トアン。トアン・ラージン、その姿だった。



「うわああああああああああ!」

上擦った悲鳴を上げ、がばりと身を起こす。耳元に纏わり着いた、あの声が離れない。

(今のは、今のは何──!?)

「おはよう」

混乱して頭を抱えるトアンの目の前に、にこりと微笑んだアルライドが顔をだした。

「お、おはよう……?」

「漸く起きたね、もう。チェリカ、トアン起きたよ」

「トアン!」

弾かれるようにばたばたと走ってきたチェリカを見て、トアンはほう、とため息をついた。

脳裏に、二人の母を呼ぶ声がまだ残っている。


求めてやまない、心の支え。自らをこの世に産み落とした、母親という存在。

──それを求め、縋る。

我が子を愛し、我が子を見守るまで傍で支える。例えば理想の、そうあるべき親子というのは、実際はとても少ないから理想と言われ、羨まれるのだろうか?

すくなくとも。

あの夢に出てきた者たちは皆、母を求めていた。──自分も。育て親だけの存在には満足できず、幼い日は母も求めた。だが、決してそれは表に出なかった。何しろ自分は、捨て子だと思っていたから。

トアンとウィルは、まだ村があったが、そしてその母親と、優しい環境の庇護すら失ったチェリカ、ルノ、レイン、アルライド。彼らは心の支えに武器を取り、其々を必死に支えていたのかもしれない。

兄、妹。親友。そしてその存在に助けられ、母のいない心を埋める。だが、埋まりきれない隙間は、その分その存在に縋るのだろう。だから、チェリカもルノも互いをよく見ているし、レインとアルライドも同じ。


「……トアン?」

放心して瞳を見開いたまま、呆然とするトアンの顔を不審そうにチェリカが覗き込む。どうもいけない、考え込むと周りが見えない。

「大丈夫? まだ具合悪い?」

「ん、いや……そうじゃないんだ。チェリカこそ大丈夫? ──そうだ、羽は!?」

意識を失う前、チェリカに手を引かれ空を飛んだ、その記憶が蘇り、闇に染まる衣服をまとうチェリカの肩を掴むが、そこにあった翼はない。その代わりに、薄い肩にグローブ越しとはいえ直接触れ、火傷でもしたように瞬時に手を離した。

「あ、ご、ごめん」

「? ごめん?」

「あ、い、いや、その……」

しどろもどろに言葉をにごらせるトアンに対し、鼻に皺を寄せてまで考え込むチェリカ。どうでもいいが、年頃の少女のする顔ではないとおもう。

「あ、羽だっけ?」

「そ、そう!」

「羽ね、消えちゃった。気絶しちゃったトアンを足場にアルライドのとこに運んで、着地したら。でも」

くるりと後ろを向くチェリカ。見れば、その白い背中には右側だけ火傷したように、黒い痕が残っていた。

「残ってる。」

「……痛くないの?」

「うん、全然。……トアン、ありがとう」

「え?」

「私を、ヴェルダニアから開放してくれて。あのまま消えると思ってた」

「消させないよ!」

「わ」

思わず大きくなった声に、チェリカの瞳もきょとんとする。

「……あ、」

ただでさえ目覚めたばかりのトアンを向かいいれようと向けられている仲間の視線はは、呆れやらなにやらが混じり始めていた。ウィルがニヤニヤ笑っているのが見える。ついでに言うと、アルライドはガナッシュのころのニタニタ笑いを浮かべていた。

「トアン」

そんなことを気にせず、さらりとチェリカが切りだした。

「私ね、こうやって今みんなといれて、嬉しいよ。これ、トアンのおかげだね」

うんうんとひとりで頷きながら、チェリカは続けた。

「覚悟はしてたんだけどねえ、本当にすごいよ。ありがとう」

「あ、ああ、うん。」

何だか照れくさくなって、頭をかきながら小さくなっていくトアン。まっすぐな瞳に心がくすぐったい。

「……ホントは、諦めて逃げて欲しかったんだけど」

「え?」

「怪我したでしょ」

す、細い指が伸びて、裂けた服の下の、包帯に包まれた二の腕に触れた。クランキスが治療してくれたのだろう。血はとまったものの、未だ、力を入れると引き攣るように痛む。

筋肉の中に、鋭利な刃物が埋まったように。


だがそんなことは決して口に出さず、トアンはチェリカの真意を見出そうとした。

「痛い?」

「ううん、もう大丈夫」

「……。嘘だ。まだまだ痛むはず。闇に焼かれたんだから」

ぐ、チェリカの指が二の腕を押す。瞬間、脳天を痛みが突き抜けた。

「──いて!」

「トアンの声、聞こえたっていったでしょ? あれね、トアンが私を殺せないって言ったのも、聞こえてた」

「……あ」

「それだけじゃない、見たよね。私、あの鉄格子の中にいたとき、みんなの声が聞こえてきたの。お兄ちゃんの呼び声も、いろいろな……泣き声も、嫌だって声も」

誰とは言わず、チェリカの視線が地に落ちる。シアングとレインが小さな反応を見せたが、トアンは何も言わなかった。

「どうしたらいいのかな、そう思ってた。私の力じゃどうにもならなくて、ただ、見てただけだったけど」

だから。

あの時、チェリカは涙を零したのだろうか。

「でも、安心して。私ひとりピンピンしてるから! もう何がきても、皆を守って」

「チェリカ!」

それ以上聞きたくないといわんばかりに、トアンはチェリカの言葉を遮った。

「違うって、君はわかってない! これは誰が悪いとか、そういうんじゃないんだ! 君がヴェルダニアの一部だからって、君は君だ! なにもかも君が負う必要ないだろ!」

「──!」

「そうやってまた抱え込んで、オレたちの側から居なくなるの!?」

チェリカの瞳がゆらりと揺らぐ。だがそこから溢れさせないように抑えるのは、チェリカのプライドなのだろう。

「……だって! そう教わって生きてきたの! お兄ちゃんだって、私がいなければ、もっと楽に生きられたのに! トアンだって怪我しなかった!」

「オレの怪我なんて、これくらい平気だ!」

ぶんぶんと首を振り、チェリカはトアンを睨み付けた。青い瞳がきらりと輝く。

「嘘ぉ!」

「嘘じゃない! チェリカだって、そうやって自分を追い詰めて楽しいの!?」

「楽しくないよ!」

「だったら、自分とヴェルダニアを別に考えなよ!」

「無理だよ! トアンが私に、君のせいだって言えばいいのに!」

「言えるもんか! チェリカが違うって言えばいいんだろ!」

互いに一歩も譲らず、ああ今更なんでこんな喧嘩してるんだ、そう思った時、トアンはふと気がついた。

(──チェリカの、本音)

笑顔の下にしまいこんでいた、不安。

それが今、感情に任せて発せられているのだ。

「……はは、結構不器用だね」

「……え?」

はあ、荒い息を整えながら、チェリカが瞳を見開いた。そしてトアンの言わんとしていることに気がついたようで、口元に手をやる。

「今まで、そうやって言いたかったこと押し殺してきたの?」

「…………。」

「気付いてあげられなくて、ごめん」

「どうして謝るの?」

「いろいろ。」

本当は、いろいろというより『全部』なのに。

「……」

どうすればいいかわからない、という表情でチェリカが俯きかけたとき、アルライドが口を挟んだ。

「あれれ? おかしいね」

「え?」

「チェリカ、君、さっきありがとうは言えたのに。……『ごめんね』はいえないの?」

「──だって、謝ったら、卑怯だから」

「どうしてそうおもうの?」

「謝って許されていい問題じゃないんだもん……」

「でもね、謝ってもらったら自分も謝らなきゃ。チェリカ、自分が悪いって思ってるなら尚更だよ。それにそれは卑怯じゃないんじゃない? 喧嘩したら謝るのは変じゃないよ」

ちらりと見上げてくる青い瞳に頷いて、アルライドはその背中を押してやった。

「君さっき、シアングに言ったこと忘れたの? 『変われた』っていったでしょ」

「──そう、言った……。でも、いい子じゃないし、許されようとしてるだけかもしれない。偽善者ぶってるだけかも……」

「よくよく考えるとね、一番わからないのは自分の気持ち。悩むのはいいことだけど、でも、今しなきゃいけないことは?」

ゆっくりとアルライドの言葉を飲み込むと、チェリカは涙を落とす前に瞳をごしごしと擦った。そしてしっかり顔を上げると、トアンの瞳を見る。

「……──トアン、ごめん」

「……うん」

頷いてみせるトアンを見て、チェリカのふいたばかりの瞳がまた潤んだ。

「ごめん、ホント、全部ごめん」

「も、もういいんだよ」

「素直に言えなくて、怪我させてごめん」

「チェリカ」

「隠しててごめん、助けてくれてありがとう、……っでも、ごめんね、う、ごめん」

せきをきったように、チェリカは謝り、頭を下げた。なんだか見ていられなくてトアンはやめさせようとするが、チェリカはそれでもやめなかった。

アルライドとシアングがとめに入ったところでチェリカはようやく声をあげて泣き始め、なんだかトアンももらい泣きし、ついにはアルライドまで泣き出すという異様な光景をつくりだしたのだった。


「……落ち着いたか?」

「あーあ、大惨事だ」

最後まで宥め続けていたシアングとレインが、疲れた声をあげる。チェリカがすん、と鼻をすすり、トアンはもう一度目を擦った。

「つか、何でお前まで泣いたんだよ。しかもアルまで泣き喚いて」

「俺はほろり程度だったよ。あ、レイン、そういうの漢泣きっていうんだよ」

トアンを睨むレインにアルライドが人差し指を立てるが、はあ、というため息の前にそれは意味をなさない。

「──もーいっそ笑えばいい」

むくれてみてもレインとシアングは揃って額を押さえるだけ。呆れながらウィルがアルライドにタオルを渡すと、間の抜けた笑みが返ってきた。

「……だ、だってチェリカが、その」

あまりにも、素のままだったから。

涙を堪えた、幼いアレックスの姿がチェリカと重なったから。

──やっと、我慢しなくていい、そう言ってやれた気がしたから。

だがそれを言葉にする前に、兄はトアンの頬を軽くビンタする。

「言葉ははっきり喋れ、馬鹿」

「痛いっ! そういうの、家庭内暴力っていうんだよ、兄さん! ドメスティックバイオレンス兄」

「うるせぇな、ちょっと黙れ!」

ばちん、先程よりも惨い音が部屋に響いた。

「……うう、反論すら許されない」

「大丈夫だよ。レインが本気になったらもっと凄い音がするから」

アルライドが宥めてくれ、トアンは痛む頬を擦る手を離した。

(そっか、手加減してくれてるのか)

そう思いながら、兄の姿を目で追う。チェリカの頭を撫でてやるその姿は、中々優しげに見えないこともない。

乱雑な面ばかり見ていたが、本当は随分と優しいのだ。アルライドに視線を送ると、彼もまた優しい瞳をしていた。二人は、親友。それもとても仲の良い。離れ離れになる前に、幾度となく背中を預け、共に生き抜いてきた。──絶対の信頼感。

自分も、チェリカとそうなれればいいのにとぼんやりと思った。もし離れても、再開したとき嬉し泣きして互いの無事を喜べるような。

そして、二人で長い時間をすごせるような──

(!)

不意に、頭のなかに違和感を感じた。自分は、何か大切な物を忘れている気がする。

誰か、誰かにあった。女の人だ。

何か、何かを見た。誰か泣いていた。

そして……何か大切なものを見落としている。

時間と共に霞んでいく記憶にトアンは頭を押さえる。

(何なんだ?)

そして突如、脳裏に見たこともない紋様が浮かんだ。それは蝶のかたちをしていて、右羽が赤、左羽が黒。とても美しく、何故だか恐ろしい──。

(……蝶?)

咄嗟に兄の姿を見るが、兄はなんの反応もしていなかった。

(兄さんじゃない? でも、関係ないわけじゃない……何なんだ、今の)

「トアン、どうしたの、考え込んで」

アルライドが首を傾げると同時に、チェリカが振り返った。

「……トアン?」

ああ、また不安がらせてしまったのだろう。トアンは顔をあげ、できるだけ無理矢理に見えないよう笑みをつくった。


「お兄ちゃまー!」

バターン、盛大な音を立てて扉が開かれ、少女が弾丸のように走ってきた。

「ルナ! ……ぐふっ」

「お兄ちゃま、大丈夫!?」

ドス、鈍い音を立てて少女がシアングの腹に飛びついた。傷口に触ったのか衝撃のためか、シアングは小さな悲鳴を上げながらもしっかりとその体を支えた。ルナリアは兄の体にしがみ付いたまま、嬉しそうに声を上げる。

「だ、大丈夫だ、こんぐらい。ルナ、お前怪我は? お前はどこも怪我してないか?」

「ないわ。守ってもらってたもの」

ここでやっと、自分が注目を集めてると知ったルナリアはシアングから身を離し、僅かに赤面した。

「……お兄ちゃま、怒ってる?」

おずおずと窺うように尋ねる妹の頭を、シアングは優しく撫でてやった。

「怒ってねーよ。えっと、アルライド?」

「うん?」

「ルナを守ってくれてありがとな」

「いやいや。まあ、でもその結果君はシャインに操られちゃったんだけど」

「……んなの、もういいんだ。死んだと──まあ、死んだンだけど、その妹ともう一回会えたんだから」

からりと笑ってみせるシアングはいつもの笑顔。本当に嬉しそうに、華奢な体を抱きしめる。

「オレ、全然知らなかったよ」

「ああ、トアンにゃ言ってなかったなあ。わりーな、どうもあんまり言いたくなくて」

「ううん、そりゃ重要なことだし……」

「シアングって人間嫌いだよね」

ふと思い出したようにチェリカが言う。

「よくみてんね、チェリちゃん」

「ふふん、どう? 昔シアング、凄い怖かったもん」

「……そりゃ」

「あたしが人間に殺されたからよ」

くすくすと笑いながらルナリアが口を開いた。

あまり他人に言えるような内容ではないが、本人はもうすっかり割り切ってしまったようだ。自分は、本来ここに居ないひとなのだと。

「しかも、一般的には聖職者って呼ばれてる人たちにね。首を刎ねられたの」

こう、スパーンと。少女の手が自らの首をなぞる。

「ど、どうして?」

気の利いた言葉が見つからなくて、トアンは素直に疑問に感じた言葉を発した。

「どうしてって……」

「トアンと初めて会ったとき、オレの目は赤かったろ」

黙り込んだルナリアの代わりに、シアングが口を開いた。

「うん」

「それが原因。赤は悪魔の象徴って信じ込む聖職者は少なくねぇの」

「悪魔だと思われて、殺された?」

「そう、しかもさあ、その聖職者たちが仕える教会が魔物に襲われたからオレたちが助けにいったってのに……」

「ねぇ。溜まったもんじゃなかったけど──お兄ちゃまにまた会えたから、ルナは嬉しいわ」

嬉しそうにシアングに抱きつき、ルナリアが笑う。

本当に嬉しそうなその笑顔に、トアンは忘れかけていたシャインへの怒りがこみ上げてきた。──引き裂いた。理由がどうあれ、本人たちがどうあれ、結果としてシャインは彼らを引き裂いたのだ。

複雑な気持ちが顔に表れたのだろう、チェリカが再び顔を覗き込んできた。

「怒ってる?」

「え?」

「いま、なんか怒ってる感じがしたよ」

「う、ううん……怒ってなんかないよ」

少なくとも、君には。

そう言おうとして、言葉を飲み込む。自分はこういうとき、何て性格の悪い人間なのだろうかと実感するのが嫌だった。

一度は許しかけて、また、憎むなんて。

(でも、全部……一度シャインと話しないとどうにもならないな……)

ルナリアとシアングは、これでいいと言う。そしてアルライドも、恐らくレインも、これでいいと言うのだろう。

自分が口をだしていいのかどうか分からないまま、トアンは視線を彷徨わせる。それはピタリとドアに行き着き、この向こうにシャインがいる、そう思った瞬間、ドアノブが回った。


「ふぁああ、徹夜になっちまったけど、どうにもここは時間がわかんなくて困るなぁ」

欠伸交じりにクランキスが顔を出し、挨拶をした。トアンは頭を下げる。

おはよう、お父さん。チェリカが笑うとクランキスも満面の笑みを湛える。トアンの傷、お父さんが治してくれたんだよ。チェリカに言われ、トアンは頭をさらに深く下げた。

「いやいや、いいの。それよかごめんな、まだ痛むでしょ」

「いえ、大分楽になりました」

「またまたぁ。魔力がどうも不完全でさあ、しかも人数と怪我が多いのなんのって……」

「あ、オレの怪我も治してくれたんですよね。それと妹を守ってくれて有難うございます」

シアングがこれ以上ないぐらい優雅な会釈をし、感謝を表した。クランキスはゆるゆると手を振ってそれを制し、照れたようにはにかむ。

「なに、そんなたいしたことしてないよ。──それよかシアング」

「はい」

「ルノとチェリカの面倒、ずっと見てくれてありがとな」

「……いえ」

「これからも頼むわ。トアンもな」

「は、はい!」

「……私、そんなに迷惑かけたかなぁ」

微笑むクランキスとトアンの姿を見比べつつ、チェリカはウィルとレインに問いかける。

ふたりは少しも考え込まず、

「「かけた」」

と同じ言葉を発し、互いに互いを見た。

だがそこで衝突が発生するより早く、ウィルの視線がツイと離れた。そしてそれは申し訳なさそうに地面に落とされる。

アルライドが口元を押さえているのがトアンは気になったのだが、あえて触れないでおいていた。

「それでさあ、驚かないで欲しいんだけど」

クランキスが話題を戻し、がりがりと頭をかきむしる。いい加減ハゲになるよとチェリカが小声を挟むと、彼はぽかりと少女の頭をどついた。

「もう、チェリカ。どうしてお前は一言多いんだ?」

「お父さん似で、何分。」

「倒置法まで使って言うことか」

「それよりなあに?」

「ああ、また話が逸れてたな、悪い悪い……シャインの怪我は治ったんだけどさ」

「シャインがどうか?」

思わずトアンが立ち上がると、クランキスが手でそれを制す。

「まあまあ落ち着け。怪我は治った、外傷はもうほとんどない。まあ、ただちょっと中が治りきってないんだけど……なんでか知らないんだけどさあ」

「うん」

「それで、どうかしたんですか?」

何故か自らふったのに極力シャインの話題を渋るクランキス。痺れを切らしてトアンの口調が強くなると、ひょいと肩をすくめてみた。

「なんかさあ、まあ、うん、そんな怖い顔すんなよ。ちょっとばかり外見が──……」

そのとき、カチャリという静かな音と共にドアノブが回った。ゆっくりと扉が開けられたとき、其処に立っていたのはまだあどけない少年だった。10歳か、そこそこだろう。

「──シャドウ!」

誰よりも早く、チェリカが叫ぶ。シャドウと呼ばれた少年は僅かに目を見開くと、薄く笑って見せた。……あの笑い方には見覚えがある。

「……シャイン?」

恐る恐る、トアンが尋ねる。シアングとウィル、レインが驚いたようにこちらを見た。その視線は、何をいってるんだ、というものだろう。トアンだって自分が突拍子もないことを言っている自覚はある。だがそれは直感なのだ。──彼の過去を、体験した心が告げる、直感。

「よくわかったね、トアン」

「やっぱり……!」

「驚いてる? あまりそうには見えないけど。ふん、スノゥとシアング、あとそのよくわかんないヤツぐらいか。」

「オレはスノゥじゃねぇ」

「よくわかんないやつって……オレか」

レインとウィルが口を尖らせる。そしてまた、互いに目を合わせ──ウィルが避ける。違和感を覚えたトアンだったが、今ここでそんなことを言っている場合ではないと判断する。

「シャイン、いや、シャドウ?」

「……シャドウ、か。その名は捨てた。その名で僕を呼んでいいのはチェリカだけ」

真っ黒い瞳がチェリカを見上げる。チェリカはそれを見、蕩けるような笑みを浮かべた。自然とシャインの顔にも笑みが浮かぶ。

(ちょっと面白くないかも)

「いろいろ君に聞きたいことがあるんだけど」

「何も言うことはない。……といいたいところだけど、まあね、もう、僕にはなにもかも残っちゃいない。十六夜も、チェリカの力も」

「シャドウ」

「チェリカ、もう一度僕のために力を貸してくれる? ……なんてね、嘘だよ。トアン、僕に答えられる、僕が答えてもいいことならなんでも話すよ」

偉そうに鼻を鳴らすと、シャインはトアンの向かいの席にと腰を降ろす。

──黒い瞳がまっすぐに、底なしの何かを湛えながらトアンを見た。

──彼は、自分より年下の少年。

それなのに。

(この感じ……威圧感だ……)

ごくんと唾を飲み下し、カラカラに乾いていく喉を潤す。

どちらの隣につくかうろうろしていたチェリカが、ちょこりとトアンのとなりに座ってくれた。それでほんの少し、威圧感が薄れる感じがする。深呼吸を一つし、トアンは少年に、自分の感じた疑問から尋ねることにした。

「……まず、聞きたいんだけど。オレは、シャイン。君と戦ったとき、君の過去を見た」

「……。」

僅かに眉を動かしただけで、顔色一つ変えない。だがそれでも、トアンは続けた。

「驚いていないってことは、わざと見せたの?」

「いいや、違う。恐らくはトアン、お前自身の力と僕の持っていた十六夜が共鳴したんだろう」

「……それでも、驚かないの?」

「ああ。僕の過去を見たなら知ってるだろう。チェリカ、アルライド、ルナリア。お前らも知っているだろうが、僕は死人だ」

「ええ!?」

目を瞠り、大きな声をあげたウィルをレインがどつく。だがまたしても、再びウィルは反論しかけて、やめる。しかも申し訳なさそうな顔をして。レインも流石に調子が狂うらしく、困ったように一瞬だけ眉を顰めた。

「わかんないの、ちょっと黙っててくれるかい?」

「わかんないのって表現もやめてくれよ……」

「他にどう言えというんだよ。お前ほどわかんないの、僕は初めて見るんだから──ああ、話題を戻す。僕は死人である故、他人に過去を見られることにはどうも思わない。だって、それが僕の戦う理由だったんだから」

「……国の、再建?」

「そうだ。……成程。お前の行動に迷いが見えたのは僕の過去を見たからだったのか」

「う、うん」

「つくづくおめでたいヤツだな」

ふ、トアンの横でチェリカが吹き出す。

「君ってば、ホントにいいひとだね」

「……チェリカ、笑わないでよ、そこ。……それと。チェリカの力がヴェルダニアのものだって知ってたの?」

「いや」

きっぱりと否定し、シャインは目を細める。

「ハルティアの力だと思ってたよ。破壊と、そして救済の女神ハルティア。だってチェリカがそう言ってたんだもの」

「自分のことをそんなにペラペラしゃべるもんじゃありません」

再びチェリカを小突くクランキス。

「いたた……だって、シャインは私を初めて普通のひと扱いしてくれたんだよ? 王子王子とか、国のこととかそんなこと言わないで」

「それは、どういうこと?」

「やれやれ……。トアン、お前は僕とチェリカの出会いまで詮索するつもり? やだねえ、余裕のない男は」

「ち、違うよ!」

「ま、教えてやる。チェリカと僕は森で出会った。脱走してきたんだっけ、確か」

「うん」

「そうだそうだ。それで、僕はそのとき世界をふらふらと彷徨い歩いてたんだよ。そしたらチェリカと会ったんだ。そのとき、僕はチェリカに宿る魔力の膨大さに気付いてね。そのまま接触した。チェリカは城の仕来たりに我慢しながらも、嫌気がしてたから、そこにつけ込んだわけ」


つけこんだ、というところをやけに強調し、シャインは言った。

「……そ、それで?」

「まだ聞きたいの? もー、というかお前、聞いてただろ」

「え?」

「ヴァイズと初めてあったときだよ。僕がチェリカに、三年前のこと恨めっていってたの、盗み聞きしてたでしょ」

「ええ!? どうしてそれ!」

盗み聞きなんて人聞きが悪いが、だがそれは事実。ならべく動揺を悟られぬよう、声を荒げるトアンである。

「僕があんなばればれの気配、気付かないと思ったの? つまり、チェリカと僕は三年前であって、約束をした」

「『必ず君の力が必要になる。君、自分の力嫌なんでしょ? だったらせめて、僕のために使ってよ』って言ったんだよね」

「……そう。それで──。まあ、いいだろ。それより君、一文字一句覚えてるね……」

呆れたようにシャインがチェリカを見やる。彼女はにやりと笑って、ほめないでよーと返した。ほめてない。シャインの黒い瞳はそう語っている。

「そっか、それで……あ! シャイン、それより君!」

「な、なんだよ」

「ここに居る人たちに何か言うことないの?」

ぴく、ルナリアとアルライドが反応した。

それはシアングとレインに伝染し、クランキスは腕を組み、チェリカは僅かに目を丸くした。

──謝罪を。

トアンはそう思い、もう一度念を押した。いくら小さな少年とはいえ、自分のしたことの罪を認めるくらいできるだろう。仲間がそれを許しても、トアンは許せなかった。

──だが。

「……。」

シャインはゆったりと背もたれにもたれると、ぐるりと周囲を見渡し、最後にトアンに視線を戻す。

「トアン、……それで僕が謝罪でもするとも?」

「な!」

至って生意気な態度のままのシャインに、思わずトアンは立ち上がる。

「泣いて許しを請えば、お前は満足するのか? ……ふん、ばかげた話だ」

「シャイン、でも君は──!」

「……僕は、自分が悪いことをしたという自覚がないわけじゃない。でもそれは、僕の目的のためには必要不可欠だったんだ。よって、僕は一切の謝罪をしない。する必要もない」

まっすぐに見返してくる漆黒の瞳。その瞳に嘘はなく、トアンは彼が少年ということを忘れそうになる。

なんとか言葉を飲み込み、握った拳が怒りとどうしようもない気持ちで微かに震えた。

「──まあ、まあまあ落ち着いて」

やんわりと間に割り込んで、トアンをソファに戻したのはアルライド。

「トアン、ありがとう。そういってくれて嬉しいけどね。でも、シャインは本当に、そうするしかなかったから……」

「アルライドさん!」

「わ、俺に怒らないでよ。それよりもっと重要なことがあるでしょ~?」

「……重要な、こと?」

「私を助けてくれたとき、シャインも協力してくれたんだよね」

ぽつりとチェリカが呟く。その場面を思い出しながら、あの時シャインが死に掛け──もう死んでいるが──の身体を引き摺って、月千一夜を投げてくれたことを思い出した。──彼だって、あのとき間違いだと気付いたはずだ。

そう考えると、もうシャインに謝罪を強要することができなくて、トアンはため息をつく。

「──はあ。……ん?」

思い出した事実に、若干の違和感。

「シャイン、そういえば君──どこで月千一夜を?」

「……もらったんだ」

「もらった?」

(……? どこかで、似たような話を──)

「もらったー? でも月千一夜はほいほいと取引なんてできねーぞ」

シアングが首を傾げる。

「なにしろあれは精霊に危害を加えるし、それに持ち主がのっとられる場合も──」

「……シャイン!」

突然、シアングの話を聞いていたトアンの脳裏に電撃のようにある光景が駆け抜けた。その真意を確かめようと、トアンは思わず声を荒げる。

「な、なに」

「もらったって、どんな人に!?」

「……! なるほどね、気付いたの」

トアンの剣幕に、シャインは何故か納得したような笑みを浮かべた。

「その前にさ、何で僕が誕生の守護神を最後に狙ったと思う? それはね、僕が『誕生の守護神』本人から月千一夜を預かり、そして最後に私を殺しに来いって言われたからだ」

「嘘だ!」

不意にウィルが話に割り込んできた。

「スイがそんなこというもんか! それに他人に渡すか!? だって、あいつ自身が危ないから回収してたのに!」

「……わかんないの、僕が嘘を言ってなんの特になるんだよ」

「……!」

「まあ、トアン。それで、その誕生の守護神の外見なんだけど。灰色の髪の毛に、血のような瞳。なんていうか、守護神というより」

唇に人差し指を当てて喋るシャインの言葉を引き継いで、トアンが口を開く。

「──『灰色の悪魔』」

「灰色の悪魔ぁ!? なんで今更その名前がでてくんだよ?」

がりがりと頭を掻きながら、シアングが告げる。

訳がわからないとぽかんとしているレインのために、トアンはまとまった考えを全員に語り始める。

「オレたちが焔城に居たときにあった戦い。その原因は、月千一夜に取り付かれたアクエリアスって人だったんだよ。それで、そのあとアクエリアスはルノさんの外見を勘違いして、その勘違いになったのはアクエリアスに月千一夜を渡したのが『灰色の悪魔』って言う人で。それからすぐに、ヒラルコって人にあったんだ。その人は村を焼かれてて、やっぱりルノさんの外見を勘違いして……その理由も、村を焼いたのは『灰色の悪魔』って言ってた。それで、シャインに剣を渡したのは……」

「『灰色の悪魔』だよ。ふうん、僕以外にも月千一夜を渡してたんだね。その結果、世界の秩序が乱れるって分かってるのに。そんなに世界を乱したいのかな? 何のためだろうね」

くすくすと笑いながらシャインが言う。

「……何か知ってるの?」

「いいや? ただ、僕はトアンより頭がいいって自覚があるだけ」

「~、いちいち言わなくていいよ」

「とにかくスイに会わなくちゃ」

ぱん、手を叩いて話を切り替えたのはアルライド。

「会いに行こう、全部はそれから。……チェリカー、ルノ起きてるかなあ」

「起こしに行こう!」

次の目的が決まったところで、其々立ち上がったり話をしたりと動き出す。

そんななか、ウィルはひとり、唇を噛締めた。

「……スイが、そんなこと……するわけねえ」

「……。」

レインはちらりと彼をみやって、口を開きかけ──なんだか先程から様子がおかしいウィルを思い出し、何も言わず背を向けた。

(なんか…………変……)




スイの部屋のすぐ傍までいける。そういって、アルライドが気配を探りシャインと共に扉を作った。

トアンは髪が短くなったルノに若干動揺し、何だか前よりも美しく見える彼は怪訝そうに眉を寄せた。

「なんだ、その顔。……変かな」

「い、いや、変じゃないです! 全然。むしろ、いい」

しどろもどろになってトアンが感想を述べると、ルノはにっこりと笑って見せた。

それは本当に可愛らしく、なんだかトアンは気恥ずかしくなって視線を逸らした。

「おお、皆揃った?」

首元を寛げながらやってきたのはクランキス。

「クランキスさん」

「はーやれやれ。どうも歳かな……」

そう呟くクランキスの格好は、あまり戦いに赴くためのものとは思えない。トアンの視線を感じたのか、クランキスはぱたぱたと手で顔をあおいだ。

「トアン。……悪いな、俺いけないや」

「……え?」

「格好悪いことに体力消耗しちゃってさ、見送り。何があるかわからないから一緒にいってやりたいけどさ……お、それからルナリア。お前さんもお留守番」

「はあい」

シアングの足にしがみ付いていたルナリアは聞き分けよく返事をするとクランキスの隣に立つ。

「いってらっしゃい、お兄ちゃま。ルナは力不足だからここで待ってるわ」

「おう。まあここなら安全だしな……クランさん、妹をお願いします」

「任せとけ。いいねえ、礼儀正しい子は。ルノ、いいヤツ見つけたな」

「父さん!」

「はは、怖い顔すんなよ」

一瞬、その会話を聞きながらルナリアの顔に陰りが見えた。だがそれは一瞬のもの。トアンは目を擦る。

「僕も残る」

「え?」

意外なことに、シャインは面白くなさそうな顔をして肩をすくめて見せた。そしてそのままクランキスとルナリアの隣に立つ。

「月千一夜を失った今、僕は足手まといだ。真相を突き止めるまでここで待っている。チェリカ、注意を怠るなよ」

「うん」

シャインの目に、優しげな色が映る。トアンは少しばかり慌てて口を挟んだ。

「じゃあ、クランキスさんとルナリアと、シャインが抜けて……」

「それから!」

思い出したようにクランキスが手を伸ばして、ルノとシアングの肩を掴んだ。

「うっかりノリで忘れてた、お前らもここに残れ」

「「な!」」

「お父さん……」

クランキスの言わんとした事に気がついたのだろう、チェリカが小さく口を挟んだ。

「俺が気付かないとでも思ったのか。トアン、お前は魔力を感知できないんだっけ? ならしょうがないけど、もうちょっとチェリカ以外もよく見てくれよ」

「は、はい!?」

「いやだからさ。ルノはもう魔力がない」

「!」

突然の言葉に絶句したトアンと、張本人ルノ。その反応を見る限り、ルノは自覚があるのだろうか。

「ルノさん、それ……」

「……お兄ちゃん、その……」

「本当だ。もう見抜いていたのか、父さん。ああチェリカ、そんな顔をするな」

「だって! お兄ちゃん、私を助けるために髪の毛──」

「私はこれで満足している。ほら、そんな顔をするな」

ルノは優しく微笑んでチェリカの頭を撫でると、クランキス側に立つ。

「気をつけてな」

「お兄ちゃん……」

「それから、シアング。そんなボロボロの身体でどうするつもりぃ?」

「!」

びくり、シアングの肩が戦慄く。包帯だらけの痛々しい姿の彼は、それでも戦うという意思をなくしては居ない。

ちらりとシアングの右手を窺って、それでもクランキスはなにも言わず、無言で頷いた。

「……。」

「ここにいて、ルノのそばにいてやれ」

「……わかりました。そんじゃ、トアン。わりぃな」

少しだけ元気のない笑みを浮かべ、シアングは手を振った。

クランキス、ルナリア、シャイン、ルノ、シアング。彼らろ向かい合い、トアンは頭を下げると扉に手をかける。

トアン、チェリカ、ウィル、レイン、アルライド。トアンに続き、四人は光が満ちる扉に向かっていく──……




(何人かえってこれるかな……)

シャインは黒い眼をそっと細め、両手を組んだ。


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