第34話 Great mother

──なんだ、これは……!?


目を瞠ったまま、トアンはへたりこみそうになる。即座にアルライドが支えてくれたが、それでも恐怖と驚愕は抑えられなかった。


「……あ、」

「……大丈夫?」

「あ、あ。あれ……」

ぶるぶると震える指で指した先には、チェリカの影。まるで別の生き物のように床を舐めるそれは、明らかに奇形な形をしていたのだ。そう。肩の上には、頭が、三つ。


──化物!


即座に浮かんだ言葉を、急いで頭を振って否定する。違う! 違う! チェリカは化物なんかじゃない!

トアンの葛藤を悟ったように、アルライドは眉を寄せると顔を伏せた。

「怖いよね」

「……ち、違います! 全然」

「……。無理しないで。君はずっと、彼女の人間性を頼りにここまできたんだから」


床の影……一番右の頭が、けたけたと笑うように動いた。それに伴って、ヴェルダニアも笑っている。楽しくて、仕方がないように。


『……そこの。私を化物と感じたのだな』

「!」

ふいにぴたりと当てられた視線に、トアンは数歩後ずさる。

『化物か、まあ妥当な答えといったところか。だが、『チェリカ』が悲しむ』

「お、お前はチェリカじゃない!」

『何を言うか。私は紛れもなく『チェリカ』だ。そう、化物の』

「違う違う! 化物はお前だけだ! チェリカは違う! 早くチェリカの身体を開放しろ!」

『……開放、開放か。ふふ、はははは!』

何がおかしいのか、ますます笑い転げる彼女を見て、クランキスは両手で顔を覆った。ああ、やはりか。最悪の予想通りだったと。

「な、……なにが、おかしいんだよ」

『開放など無理な話だ。何しろ我々は一つ。見るがいいこの影を』


『『チェリカ』とは、私がクランキスを欺くために用意した、三つ目の人格なのだから』


judgment──The siren which I do not hear,Great mother


「三つ目……、三つの頭……!」

その影の意味を悟り、トアンはからからになった喉でそれだけ呟いた。床をのたうつ影に頭が三つ。それは、彼女のなかに三つの人格があることを指していたのだ。


ふいに、彼女が一度、理由もいわず『ごめんね』と謝ったことがあることを思い出した。

ふいに、チェリカの青い瞳の中で炎が燻って、赤々と燃えていたことを思い出した。


(あのときと、同じ)

そう、レインのときと同じだ。変化は突然ではなかった。彼女は、何度かサインを送ってくれていたのに。


ふいに、握っていた手が少し暖かかったことを思い出した。


「俺が憎いならさっさとかかって来い! こんな回りくどいことすんじゃねえよ!」

『……簡単に殺してなるか。何のために今まで『チェリカ』が居たと思う? 愛する実の娘の手で、お前を葬るためだ。それはお前にとって最も苦痛で、幸福な死に様だと思わないか? そのためには、もっともっと、お前を追い込まなくては』

「……!」

ぎ、奥歯をかみ締め、クランキスは剣を抜いた。そして驚くことに、それで自害するわけではなく、ゆっくりとヴェルダニアに──チェリカに、切っ先を向けたのだ。

「俺は、決めた。もし、チェリカがヴェルダニアの一部だったら、開放してやるのが……親の、俺の務め」

低い、低い声がトアンの耳にも届く。それを聞き遂げた瞬間、トアンの身体は動いていた。

「駄目です!」

咄嗟にヴェルダニアの前に飛び出し、両手で彼女を庇うようにする。背中で彼女が吐息をついた。それは驚きか、それとも嘲笑か分からなかったが、振り返る余裕はなかった。

「トアン、どけ! チェリカなんて……いなかったんだ!」

「います! 確かにいました! 俺が元に戻しますから、どうか、どうか剣を引いてください!」

「できるか! あの子は、一部分に過ぎなかったんだ──」

クランキスが剣を振る。威嚇だ、本気じゃない。それに気付いて、トアンがグローブで庇おうとした瞬間、後ろで僅かに、だがはっきりと笑う声が聞こえた。


『私を斬るの? ──お父さん』


それは確かに。

「──!」

チェリカの声だった。


カラン……

「……畜生」

がっくりと項垂れたクランキスの手から、剣が滑り落ちた。

『ふふふ、はは! ああ、実に楽しい。人間なんて、所詮その程度。さあ答えろクランキス! 今お前の中にある感情はなんだ? 怒りか? 絶望か? 憎しみか?』

「チェリカ! もうやめてくれ!」

クランキスが深く傷ついていく。見ていられない。とめたのは自分だが、止めなくてはいけなかった。そして、なんとかすると言った手前、尻尾を丸めて逃げ出すわけには行かない。

向き合って、チェリカの暗い瞳を見つめる。

「チェリカ、チェリカ。もうやめよう?」

『……。なんだ、お前』

不愉快そうに綺麗な眉が寄る。

『お前は何から何まで小うるさい。役に立たないくせに。愛という心を『チェリカ』が思い出せば、愛と隣り合わせの憎しみもおのずと思い出せたはずなのに。父への憎しみ、母への憎しみ、そして兄への憎しみ、全てへの憎悪! それすらあれば、私はもっともっと力が手に入った! だが、お前はまったく役に立たず、お前はもう用なしだ!』

ヴェルダニアは薄い肩を震わせると杖を振り上げる。

(な、なんだって?)

彼女の言葉の意味がわからず、だが整理する時間と慈悲は与えられない。振り上げた杖から真っ黒な霧があふれ出し、トアンの身体を包む。

「う、わ!?」

『消えろ!』

みっしりと濃い闇が、鼻を、口を塞いでいく。息ができない。真綿のように柔らかく、だが確実に首が絞まる。

(くるし……)

アルライドが名前を呼んだ、気がする。しかしもうトアンの耳にはぼんやりとした断片的なものしか聞こえず、頭に靄がかかっていく。

どうして。

今朝みた、忘れたかった夢が頭の中で繰り返される。

(どうして、こんなことに……)

ゆっくりと開けた霞む目に見えた世界で、すぐ傍には会いたかったチェリカがいる。だが、チェリカではない。

(一つの人格……そんなこと……言われても、チェリカは、チェリカだろう? 他の誰でもない、オレが今まで、一緒に旅してきたのは、チェリカだ。そう、チェリカだよ)

歪んだ笑みを浮かべる表情に、ただ感情のない紅い瞳。一筋の涙が筋を描いて、また零れた。

(……また泣いてるの?)

──ころして──

幻聴だろうか、頭の中に泣きじゃくる声が聞こえた。

──ころして、このままじゃ、私、君をころしちゃうよ──いやだ、だからはやくころして──

(ああ、また。見たままだ。夢のまま……父さん、夢幻道士の力って、何のためにあるの? こんな未来ならオレ、今の今まで知りたくなかったよ……。ねえ。チェリカ。君がオレを殺すのが嫌がるのと同じで、オレも君を殺せないんだよ。変だよね、どうしてそれなら、今オレたちは殺し合いを始めようとしてるのかな)


「駄目よ!」


ゴゥ、突然強い風が吹きぬけ、トアンに纏わりついていた霧が吹き飛んだ。途端におバランスを失ってトアンはしたたかに腰を打ったが、痛みを気にしている場合じゃなかった。

何故なら、その少女の柔らかい口調は──トアンの良く知る声色だったからだ。

『お前は……』

「ヴェルダニア、あなたじゃないわ。『クラウディ』をだして」

「……に、兄さん!?」

げほげほと息をつきながら、なんとかそれだけを吐き出す。そう、先程から少女のような口調で、トアンを助けてくれた人物は、レインだった。

──いや、少し雰囲気が違うが。

普段の彼よりどこか──どこか、マシュマロのような。そう、甘い柔らかさの声。冷たく細められていた瞳はぱっちりと輝き、まるで、別人のよう。

兄の変化に若干の恐怖を抱きつつも、その言葉に首をかしげた。クラウディ? また、聞きなれない名前だ。

『……貴様は、そうか! ようやくでてきたのだな!』

「そうよ」

ゴオオオ、強い風が渦を巻いて外部と空間を遮断する。トアンの後ろのほうに見えていたクランキスの姿も、渦で見えない。今この空間の中にいるのは、トアンとシャイン、ヴェルダニア、アルライドとレインだけだ。

『これで手間が省けた! さあ──……』

「さがって!」

ヴェルダニアの声に、澄んだ声が重なる。床の影が揺らめいて、真ん中の頭が首を振るように左右に動いた。右の頭が即座に真ん中を向いて何か言うように動いたが、やがて静かになった。

真ん中の頭はゆっくりと、レインを見る。

「おまちどうさま。でてきたわ。『わたし』よ」

先程までの邪悪さは消え、だがどこか空虚な虚しさが彼女の瞳に宿った。

(これは……ハルティアって名乗ったときの……)

蕩ける様な甘い、チェリカはしない少女の口調。それはトアンが彼女の背中を見送った際、そしてルノの瞳を奪ったときの人格だろう。

「この風はあなたね?」

「そうよ、クラウディ。こうして話すのは初めてね。お互い、別のものとして出会うのも」

「ね、ねえアルライドさん。兄さん、頭でも打ったのかな」

それともシャインの術が強力だったのか? 見当違いな心配をするトアンを見て、アルライドは一つため息。

「大丈夫だよ、俺の中の『なにか』が騒いでる。あれは多分……」

ゆっくりレインが歩く。水晶の壁の隣に立ったとき、トアンは目を疑った。


水晶に映っていたのは、桃色のウェーブの髪を揺らした一人の少女だったのだ。


「スノゥ」


アルライドの声と、クラウディの声が重なる。

呼び声にレイン──スノゥは初めて、トアンを見据えた。こうしてみると改めて別人という雰囲気がしたが、やはり遠目で見ているとレインにしか見えなかった。あの冷静で無愛想な兄が、少女の口調。というのはどこか薄気味悪い。

兄は綺麗だが、その身に纏っているのは少女のような可愛らしさではない。この光景を本人が見たら、嫌悪を露に眉を寄せるだろうか。それとも傑作だ、そういって薄く笑うだろうか?


「あんたがトアン、ね」

「は、はい!」

「……見てたわ。レインの目を通して。あたしのこと、聞いたわよね? それからあんたが、アルライド」

「……うん」

「こうしてみると、『あの人』とは全然違うのね……。ねえ、クラウディ?」

「スノゥ。何しにきたの。わたし、おしゃべりしにきたんじゃないのよ」

いつまでも警戒をしないスノゥに、僅かに苛立ちをこめた口調でクラウディが告げる。

「あの……二人は、知り合いなんですか?」

トアンも僅かに息をつきながら、二人に問いかけた。今のチェリカに、先程までの明確な殺意は見えない。


「知り合いよ。あたしは、この子を迎えに来たのよ」

「クラウディ、を? クラウディ、君は何者? ヴェルダニアみたいに、憎悪の塊じゃないよね」

おずおずと問うトアンを見て、クラウディはゆっくりと瞬きをした。

「わたしは、最初にヴェルダニアに飲み込まれたの」

「……え?」

「わたしは、エルフ。深い深い森に住んでいたの。でも、追い出されたのよ」

透き通る瞳に、どこか冷たさがよぎる。明確な殺意より、どこか忍び寄る恐怖を感じ、トアンは唇をかんだ。

「……森から追放されたあなたは、身体を捜していたヴェルダニアに憑かれて、そしてそのまま永い眠りについたの。長い年月で身体は消滅し、ただの二つ目の人格として。そしてそれから長い時間が経って、あなたはヴェルダニアとしてクランキスたちに封印された。……そして、今、蘇った」

スノゥがトアンとクラウディを見ながら説明してくれた。

だが、状況の整理が、追いつかない。

頭を抱えるトアンを一瞥し、二人は向き合った。

「後悔してるの、スノゥ? わたしを追い出したこと。他でもない、あなたとスイに、わたしは追い出されたのよ」

「違うわ。違うのよ」

「ちがわない。わかってる、あなたたちふたりが一緒になるには、わたしが邪魔だったのよ。だから、追放した。ともだちだと思ってたわ。スイの気持ちがあなたに向いていて、わたしは彼にとって、ただのともだちだって。わかってたのよ。でも信じてたわ。誰よりもあなたたちふたりを祝福してあげようと思ってたのに」

「クラウディ、話を聞いて」

スノゥの声に、僅かに焦りがにじむ。


その昔。

遠い遠い昔、森の奥にエルフたちが住んでいた。そして、そこにはスイ、スノゥ、クラウディも暮らしていた。

話から察するに、クラウディとスノゥは恋敵であったようだ。だが、三人は友人。

そして、クラウディはなぜか森を追われ、ヴェルダニアに飲み込まれた。追放の原因は二人にある、そう思ったまま。

なんとか頭の中ではじき出した結果をもう一度繰り返し、だが首を傾げる。クラウディは、エルフといえど普通の少女のようだ。話し合いによって、チェリカとあわせてもらえるかもしれない。


しかし、その考えは儚く砕かれた。


「あいたかったわスノゥ。わたしはあなたに、復讐がしたかった」

少女が告げると共に、頭上に漆黒の槍がいくつもあらわれる。

「だめ、あたしは戦いにきたんじゃ」

「許さない!」

悲痛ともとれる叫び声に、槍が不気味に光る。そしてそれは一斉に、トアンたちに頭上に降り注いだ。

「やめて!」

スノゥが手を振り翳すと柔らかい風がトアンたちを包み込み、クラウディの魔法を遮断する。

「クラウディ! 落ち着いて!」

「ふふ……」

無表情な顔に、鋭いナイフのような殺意が走る。だが、怖いくらいに澄んだ瞳は純粋で、無垢な子供のようだ。

「これは……」

状況を見守っていたアルライドが顔を上げた。優しく守ってくれる風の壁を見て小さく呟く。なぜかその顔は険しく、スノゥを睨み付けていた。

「ア、アルライドさん?」

ゴオオ、風の音が耳を塞ぎそうだ。

「そんな怖い顔して、どうし──」

「スノゥ! やめろ! 魔法を使うな!!」

アルライドが駆け出すと同時に、ビリ。不穏な音をたてて風に槍の切っ先が刺さった。

クラウディとスノゥ、二人の力は同じ。いやスノゥのほうが勝っていると見えたのに。

「やめてくれ!」

「うわ!」

アルライドの叫びと同時に風が消える。途端に鋭い槍が襲い掛かってきたが、偶然にも身を縮めたことでその攻撃から逃れることができた。が、頭上と首のすぐ脇に槍が刺さっているので、正直生きた心地がしなかったが。

(なにが起きたんだ……?)

慌てて身を起こし、そして目の前に広がった光景を疑った。

スノゥが倒れている。そのすぐ横でアルライドが体を揺さ振り、そしてクラウディは冷たい目でその光景を眺めていた。

スノゥの口の端から──一筋の血が流れている。

「兄さん!」

自分でも驚くべき速さで駆け寄り、蒼白なその顔を見る。

「……愚かね、スノゥ。そのこどもの身体、夢幻道士の血が流れてる。彼らは魔法の恩恵を全く受けてないのよ。その身体で魔法を紡ぐことは、諸刃の刃にすぎないわ。しかもそれ、弱ってるじゃないの」

「……ゲホ」

弱弱しい咳を一つして、スノゥがぼんやりとした瞳を開けた。

(そういうことか……)

アルライドが止め様としたのも、魔法が途切れたのも。

「スノゥさん、兄さんに無理させないでください! 兄さんも兄さんだ、自分を傷つけるなら、そんな……!」

静かな声で告げると、スノゥはゆるゆると首をふった。

「……えって……」

途切れ途切れの小さい声が、耳に届く。

「使えって。レインが言ってくれたの……。チェリカを、連れ戻してくれるなら……使えって……」

「……!」

そう言うと、スノゥはゆっくりと瞳を閉じた。カラン、狐の面が床に落ちる。

「兄さん!」

「大丈夫、気を失ったみたい」

アルライドが胸に耳を押し当て、小さく答えた。トアンは安堵の息を吐き出すが、だがすぐに立ち上がる。

そして、まっすぐにクラウディを見た。

「チェリカ、みんな待ってるんだよ」

「わたしはチェリカじゃないわ」

「チェリカ。……オレも待ってるだけじゃ、駄目だね。迎えにいくよ。絶対探し出す」


──こっちだ──


不意に、耳元で柔らかな女性の声がした。スノゥではない。ヴェルダニアでもない。そして、チェリカでもない。


少し冷たい手に引かれるまま、トアンの意識は引っ張られていった。


さわ。さわさわ。

優しい木々の囁きが耳をくすぐり、ぼんやりと意識が浮上する。

(ここは……)

何処?


まず目に飛び込んできたのは何処までも青い、そして吸い込まれそうなほどの青空だ。トアンは今自分が置かれている状況を整理しようと、ゆっくりと辺りの様子を見る。

(天国? そんなわけ、ないか)

気温は、温暖。

すました耳に、遠くから聞こえる、人々の笑い声。子供の笑い声も、かさかさ、草を掻き分ける音も聞こえた。

寝転がる背中に当るのは、刈り揃えられた草。それは独特の匂いを撒き、再びまどろみの中に足を引っ張っていこうとする。

(いいにおい……気持ちいいな)

重くなった瞼を擦り擦り、ふと、頬を何か白いものが撫でていった。だがそれはあまりにも感覚がなく、なんとなく目で追って、一気に頭が覚醒する。

(雲!?)

そう、それは雲。そうするとここは雲が撫でるほどの高所にあるということだが、気温はあくまでも温かい。まるで、なにか特別な力にでも守られているように。

(ちょ……、なんなんだ!?)

慌てて上半身を起こし、辺りを見渡した。

目の前にあるのは緑の壁。いや、それは丁寧に手入れをされた綺麗な植込みだ。しかも迷路の壁のように高く、例えトアンが立ち上がったとしても壁の向こうは見えないだろう。

さらには、その壁はトアンを囲い入り組むように聳え立っていた。

(迷路みたいだ。……アルライドさんもいない)

どうしたものかと頭を抱える。

がさがさ……

と、先程から聞こえていた草を分ける音が近づいてきていることにトアンは気付き、身を硬くした。いや、草はこんなに短いのだ。恐らく植込みの壁を強引に通っているのだろうか。

(な、な……)

取り合えず立ち上がろうと膝を曲げた瞬間。

がさがさっ!

「うわぁ、ああ、あ!」

「痛!」

背後の壁が動くのを感じた瞬間、背中に強い衝撃を受けた。ついでに、悲鳴も。

「げほ、げほごほ」

「あ、ごめん。ひとがいるって思わなくて」

──青空。

そう、思った。


「……大丈夫?」

「あ、う、うん」

青空が瞬きに見え隠れする。

トアンの背中にぶつかったのは、小さな子供だった。青空のような瞳に、きらきらと光る金髪。愛らしい顔立ちに不安げに眉をよせ、トアンの顔を覗き込んでいるのだ。

子供の後ろには、緑の壁にあいた小さな穴。成程、この子供ががさがさと音を立てていたのか。

──いや、しかし。トアンはこの子供を知っている。どうも面影があるのだ。

「……チェリカ?」

「……。」

「チェリカだろ?」

その子供が成長したら、あの少女になる。

幼いながらも顔立ちに共通している部分がある。

トアンは確信をこめて、もう一度名前を呼んだ。

(こんなに早く見つかるなんて)

よし。心の中で小さくガッツポーズを決めてやる。


が、子供から返ってきた答えは期待とは違うものだった。

「違うよ」

「え?」

「……チェリカ様じゃないよ。」

「でも。その瞳……」

「ああ、これ。一応、血は繋がってるからね。いとこなんだ」

(いとこ? いとこなんていたのか……?)

「君、どこから来たの? エアスリクのひとじゃないよね」

「……ええ、あ、うん。え? じゃ、ここがエアスリク?」

「そうだよ」

どうして、どうやって。

トアンが混乱する頭を抑えると、子供はそれをみてけらけらと笑う。……その笑みは、チェリカと良く似ている。

大きめのオーバーオールのポケットの中から飴玉を一つ取り出して、ぱくりと口に入れた。

「君、記憶喪失なの?」

からころ、口の中で飴玉が転がる音がする。

「あ、いや、違う……? いや、そ、そうなのかな……」

「じゃ、いろいろ案内してあげるよ」

小さい手が、トアンの手を握った。

「名前は?」

「トアン。トアンだよ」

「そう。……ぼくはアレックス。よろしくね」

そういって小さな子供──アレックスは、満面の笑みで笑ったのだった。


とにかく、この状況の情報を集めなくては。

トアンはこのわけのわからないままあちこちを動き回れるほど度胸があるわけでもないし、無謀でもなかった。アレックスはトアンの隣にちょこりと座ったまま、こちらの出方を見ているようだ。

「さっきも聞いたけどさ。ここって、本当にエアスリク?」

「そうだよ。だって、雲がこんなに近い」

アレックスは植込みの隙間から流れてきた

雲を指し、言う。

「でも気温は高いよ?」

「精霊の加護がついてるの。まだ行ったことないから下界はどうかわからないけど、今はそっちと同じ『春』なんだ」

「季節が、あるんだ」

「そう。トアン、ホントにここがわからないんだねえ」

「う、うん……」

どうもまっすぐな瞳で見られると、見返せない。嘘ではない。記憶が混乱してるのは本当だ。だから、仕方ないのだと言い聞かせる。

「シアングと同じ、嵐に巻き込まれたからかなあ」

「シアング!?」

予期しなかった言葉に驚いた。彼もここにきているのか?

「シアングを知ってるの?」

「あ、ああ、まあ」

「シアングはついこの前、ここにきたんだよ。フロステルダからきたんだって」

「へ、……へぇ」

(シアングも来てる?)

「あ、あのさあアレックス。シアングに会えないかな?」

「だーめ」

「どうして?」

「シアングはぼろぼろなんだ。体中傷だらけで、森のほうで見つけた──チェリカ様が見つけたばっかなの。今は安静にしてなきゃ」

「そうか……」

「まだあんな小さいのに」

「……え?」

「あのね、シアングはぼくよりは大きいけど、まだトアンよりは小さいんだよ。それなのに、」

「小さい?」

思わずアレックスの言葉を遮って問いかける。トアンの必死な様子にアレックスは首を傾げたが、すぐに頷いた。

「うん。小さい。トアンより子供だよ」

「……まさか」

もう一度、トアンはアレックスを見つめる。アレックスはどうしたのかといいたそうに眉を寄せた。

(まさか……)

小さい、チェリカに似た子供アレックス。


「ここは、過去──?」


(まさか、ね……)

自らはじき出した答えに狼狽し、きょろきょろと視線を彷徨わせる。アレックスはトアンの視線を辿ったりしながら、ただ見守ってくれた。

(でも、そう考えると……そうだ)

手っ取り早い方法があるではないか。

「ねえアレックス。チェリカって今何歳かなぁ」

「……?」

「お願いだよ、答えて」

「10歳だよ」

「やっぱり……!」

くらくらと頭が痛んだ。10歳? 四年前じゃないか。じゃあここは過去。

(兄さんのときは分かりやすかったのにな……)

とりあえず、少しでも固まりそうな頭を動かそうと割と重要じゃないことを考えることにしたトアン。

そう。レインのときは辺りがセピア色で、ついでにいうとトアンは一切関与できなかったのだ。目の前で人が殺されても、助けることもできなかった。

それなのに、この状況はなんだ。

「……ねえ、トアン」

「う、うん?」

「どうしてチェリカ様のこと知ってたの? 歳も知らないのに。どういう関係?」

「ええ?! あー。そ、そうだね。友達だよ」

「うそお」

必死な様子でトアンが言った言葉に、アレックスは小さく笑いながら疑うように目を輝かせる。

「嘘じゃないよ」

「うそー」

「なんで嘘だって思うの?」

「だって、知らないもん。君の事」

「え?」

「──あ、ぼくとチェリカ様友達なの。歳近いしね。でも、チェリカ様から君の事聞いたことないから」

「そ、そうなんだ」

「誘拐でもするの?」

まるで、新しいおもちゃを見つけたように青い瞳がキラリと光った。

「誘拐?! そんなのしないよ」

「なあんだ。じゃあ、何?」

「友達だよ。……ああ、まだ、だけど。未来の友達っていうのかなあ」

「未来の……?」

呆気にとられた顔で、アレックスは聞き返す。トアンが頷いてみせると、興味津々と言った様子でトアンの顔を見つめた。

「そうなんだ。じゃあ、よろしくしてあげてね!」

「うん。アレックス、君もオレの──」


「……様、──様! また逃げましたね──!」


不意に、ばたばたという足音と何かを叫ぶ声が聞こえた。アレックスが身を硬くし、きょろきょろと辺りの様子を伺いだす。

「ど、どうしたの?」

「トアン、いこ!」

がさがさと植込みを掻き分け、子供一人と折れるくらいのトンネルを作り、アレックスが手招きをする。

「アレックス?」

「早く!」

小さなその姿が消えたのを見て、慌ててトアンも後を追った。今ここでその子供を見失うことは、絶対に避けなくてはならない。そう思った。


アレックスが無理矢理作った道は、狭い、そして小枝が顔や手を引っかいて痛い。

先を行くアレックスは小柄だから大丈夫だが、トアンは無事では済まされなかった。

それにしても、と思う。

何故、急かしたのだろう?

だが質問することは何故だか気が引けて、ただ黙々と四つん這いでアレックスを追った。


がさ、硬い植込みではなく垂れ幕のように下がった細い蔦を掻き分けたとき、鬱蒼とした森の息吹を感じた。

「森……?」

「そう。植込みの抜け道はね、森まで続いてるの」

「アレックスはよく抜け出すの?」

「う、うん。まあね……」

トアンの笑みから逃れるように視線を逸らし、アレックスはかりかりと頬を掻く。

「ホントはどこから案内してあげようかって思ってたんだけどさ。まずはこの森かなあ」

透き通るような空気が満ちる森に、楽しそうな声が響いた。

森の奥では鳥の囀り、どこからか水の流れる音。そして不思議なことに、地面はただの土ではなく、複雑な紋様を描く床の上に緑が芽吹いているのだった。

(まるで……遺跡みたいだ)

その推測はあながちはずれでもないのかもしれない。太古の昔に芽生えた文明の残り香のような、僅かな、しかし確実なる跡。

ひょっとしたら、先程まで居た緑の迷路も、地面を掘ってみればこのような紋様だ続いているのかもしれなかった。

「この森、なんか凄い不思議……」

身を屈め、そっと緑の隙間から見える僅かな紋様を指でなぞる。

「そう? ここねえ、ぼく大好きなんだ」

「良く来るの?」

「うん」

「抜け出してここに?」

「……うん。」

「街じゃなくて、どうして?」

ひたすらトアンが首を傾げると、アレックスは小さく俯いてしまった。まずい、質問攻めにしてしまったかな? そっと様子を伺ってみるが、そうではないらしい。ただ、まるで説教を恐れる子供のような表情が気になるが。

「ご、ごめん。言いづらいよね」

「あ、ううん、……あのね。ぼく、ここが一番近く感じるから」

「……近く?」

「あれ」

小さく頷いてから、アレックスはすっと空を指差した。木々の隙間を縫って見えるそこには、針のように細く、高く高く聳える一本の塔があった。

「……あれは?」

「あそこには」

悲しそうに眉を下げ、アレックスは俯いた。

「チェリカ様の片割れ、双子のお兄ちゃんがいるの」

「ルノさんが?」

「そうだよ、良く名前しってるね」

「あ、あ、うん。未来の友達だから」

「ふうん……」

トアンの手をそっと握り、アレックスは小さく呟く。その小さな体から悲しみが溢れて溢れて、トアンの掌に伝わってきた。

「チェリカ様はね、お兄ちゃんに会いたいんだよ」

「そうだよね」

出会った当初、兄を探していたチェリカを思い出した。

「でも、絶対会っちゃいけないの。それは駄目なんだって。いい子にしてれば会えるよって皆は言うけど、……いつまでいい子にしてればいいのかなあ」

「……え?」

「ずっと、ずーっといい子にしてたのに、それでもまだ、駄目だって。もし会いに行ったら、お兄ちゃんを殺すって」

「殺す!? 一体誰が!」

「……!」

咄嗟に強くなったトアンの口調に、アレックスは驚いたように目を見開いた。

「あ、……ご、ごめん」

怯えさせてしまっただろうか。

だがアレックスは、小さく笑ったのだ。

「有難うトアン。優しいね」

「……え、あ、いや。なんでアレックスが礼を?」

「!」

今度はぱっと驚いた顔になると、ぶんぶんと首を振る。

「あ、ほら、あの。ぼくも、チェリカ様の友達だから」

「? そ、そう?」

それだけだろうか。

くるりと背を向け、つい、逸らされた青い瞳は塔を仰ぎ見る。さあ、温かな風が吹いて絹糸のような髪を揺らしたとき、アレックスは口を開いた。

「──もし」

「……え?」

「もし、君がチェリカ様を迎えに来たのなら。窓際まで迎えに行くんじゃなくて、どこかで待ち合わせをするといいよ」

何を言ってるのか理解するのに、少し間が必要だった。だが、理解できたのは単語の意味。何故そんなことを言ったのか、見当もつかなかった。

「待ってるだけのお姫様なんて性に合わないって、絶対言うよ。言うから、だから。待ってて。家じゃなくて、待ち合わせ場所で待ってて。そこまででいいから迎えに来て……なんてね」

にこりと満面の笑みを浮かべる子供。だがしかし、その顔はとても寂しそうだった。


何かのヒントなのかもしれない。そう思った。

だがそれ以上に、その言葉は本心に近い部分なのかもしれない。

「アレックス、君は、一体──」

確かに自分は、ここにチェリカを迎えに来た。いや、過去に来るのは計算外だが、迎えに来たのは事実。

しかし、いまアレックスはなんといった? ──迎えにくるのではなく、待ち合わせろと。

どういうことだ。

アレックス。それは、過去の人物ではなく、まるで今を映す様な、それでいて──


「トアン、ぼくはね」


「見つけましたよ、チェリカ様」


冷たく鋭い声が、森の息吹に満ちた空気を切り裂いた。何事かと振り返れば、そこには一人の長身の男が立っている。黒いスーツを身に纏い、細い眼鏡をかけた男だ。立っているだけで気品のようなものが纏わりつき、ぴしりとした姿勢からは威圧感が漂ってくる。

しかもその声には聞き覚えがある。先程庭で誰かの名前を呼んでいたのも、恐らくこの男だろう。

いや、しかし、その男は、今なんと言った?

さ、アレックスの顔が青ざめた。

「メヒル……ッ!」

「またお勉強をサボりましたね? 言っているでしょう。そんなことでは、立派な王族にはなれませんよ」



ゆっくりと鼓膜に言葉が染み渡る。徐々に理解できる単語を一つ一つ拾って、トアンはアレックスに視線を向けた。

びくり、子供の肩が震える。

「アレックス。君は、やっぱり──」

「ご、ごめんね、トアン、嘘つくつもりはなかったんだよ」

「トアン? 何を言ってるのです」

つかつかとメヒルと呼ばれた男は歩み寄り、アレックスの──チェリカの手を掴んだ。まるで、トアンをいないものとして扱うように虚空を睨む。

「ほら、帰りますよ」

「……やだよ」

「お勉強を沢山し、知識を深めることは必要不可欠。言い訳とお仕置きは城でやりましょう」

「いやだよ! 離して!」

ぶんぶんと手を振るチェリカを見て、トアンの足は動いていた。

「やめてください、嫌がってます!」

そういってメヒルを付き飛ばした──筈だった。ところがトアンの手はメヒルの身体に触れることはできず、虚しく空を押しただけだった。

(な、)

──レインの過去を見たときと同じように。

(そんな……ッ!)

咄嗟に子供の手を掴んだ。暖かい。触れられる。──たった一人だけ。

(オレの姿も、声も。チェリカ以外には聞こえてない……!?)

焦燥にかられたトアンの顔を見上げ、アレックスは唇を噛んだ。

「トアン。怒ってる?」

「怒ってないよ」

(……そうだよ)

やっと見つけたんだ。彼女だ。彼女なんだ。たとえ10歳のころの彼女だろうが、見つけた。

「チェリカ、やっと見つけた」

「……ごめんね、嘘、ついて……」

「いいんだよ」

「ぼく、」

「誰とお話になっているんですか!」

再び大気を切り裂く声が響いた。チェリカはひゃっと叫んで身を竦める。

「トアン、とは誰ですか? 誰も居ないでしょう」

「見えないの? ここにいるのに」

「見えませんね。トアンとやらが居るならば是非私にも合わせてもらいたいものです」

冷たい目で辺りを見回すメヒルに、漸くチェリカもトアンが見えないことがわかったらしい。もう一度トアンを見て、メヒルを見上げた。

「……わかった。ごめんなさい」

「おや」

素直になった様子に、メヒルの瞳にほんの僅かな驚きが見られた。

「でもメヒル。トアンにさよならがしたいの」

「……いいでしょう」

今度はトアンが目を丸くする番だった。どうやらこの男、ただ冷たいだけではないようだ。ひょっとすると、チェリカのことを良く分かっているのかもしれなかった。

「トアン」

「何?」

「皆に、見えないみたい」

「……そうだね、オレも驚いたよ。ねえ、チェリカ。さっき、どうしてあんなこと言ったの?」

「あ……。うん、ぼくがそう思ったからだよ。だから、ヒントかもしれないね」

悪戯っぽく笑い、チェリカは人差し指を立てて口に当てた。

「ヒント?」

「へへ、ぼくが言えるのはここまでだよ。案内してあげられなくてごめんね」

「いいよ、気にしないで。」

(やっぱり……ちょっとおかしい。これが過去にあったことなら、ヒントなんていうの変じゃないか? あっさり受け止めすぎな気もする。そうだ、そうだよ。ここは過去じゃなくて、過去にあった出来事を元に作られた世界じゃないのか? だから未来の友達ってことも受け入れられたし、ヒントをくれた。)

だが。

トアンはむむむと眉を寄せ、再び思考の中に落ちていく。

(誰がつくったんだ? チェリカ本人? それに、どうしてアレックスって名乗ったんだろう。一人称も『ぼく』だし)

考え込むトアンを見て、チェリカははにかむように笑った。

「それじゃあね、トアン」

「え? もう行っちゃうの?」

「うん、メヒルが待ってるもん」

ちょい、後ろに立つ男を指して彼女は言う。

「あ、チェリカ、待って」

「何?」

「まだ聞きたいことがあるんだよ」

するりと抜けた手をもう一度掴もうとして手を伸ばしたとき、不意にざわりと肌が粟立った。

(今度はなに?!)

メヒルという男ではない。彼もまた、僅かに顔を青ざめさせていた。

「──チェリカ様! はやくこちらへ!」

切羽詰ったように短く叫び、男が手を伸ばした瞬間、


バシン!


「……ッ」

少女の体が、宙をまった。


一瞬の空白。森の木々に止まっていた小鳥たちは囀りをやめ、ぴんと張り詰めた空気を見守るように身を潜める。

「う、……」

小さな呻き声があがる。それによって沈黙は破られ、トアンの目の前で時間が動き出した。

「……チェリカ!」

「チェリカ様!」

咄嗟に駆けよって表情を伺う。抱き起こしたかったが、それはメヒルがやってしまったのでトアンには触れられないのだ。

彼女の白い頬は赤く腫れ、どれほどの衝撃であったかを物語っていた。

「まったく、こんなところに居たとは。メヒル、お前もだ。見つけたならさっさと連れ戻してくればいいものの。」

手を擦りながら──今し方チェリカを殴った手だ──一人の痩せこけた男が現れた。目だけは異様に爛々と輝き、先程感じた不安はこの男の所為だと悟る。

「ごめんなさい……」

小さくチェリカが呟く。男はそれを聞きながら不愉快そうに眉を顰めた。

「貴様! 手を上げるとは何様だ!」

トアンよりも早くメヒルが立ち上がり、男を睨みつける。

「何様、はお前だろう? この姫君には立派な王子になってもらわないと困るだろうが。それとも何か? あの化物を思うこの娘が、この国を支えていけるとも?」

「ルノ様は化物ではない。あのお方もエアスリクの──クランキス様とセフィラス様の血を引くお方だ!」

「それが化物だといっておるのに……。」

生理的に、この男が嫌いだとトアンは実感した。チェリカの腫れた頬をそっと撫でる。まだこんなに小さいのに、暴力を振るうなんて。それに、ルノを化物といった。

口内に広がる血の味で、どうやら唇をかみ締めていたことを今更になって知る。

「それともなにか。この娘と一緒になってかくれんぼでもしていたのか? チェリカ。お前はそんなことをしていて立派な王子になれるとでも?」

男の蛇のような視線が絡みつくと、チェリカはぶるりと身震いをした。

(王子?)

「思ってません、ごめんなさい。帰ります。メヒル、メヒル帰ろう」

自ら立ち上がり服の埃を落とすと、チェリカの目はまっすぐに男を見据える。その目は憎悪でもなく、ましてや恐怖にでもなく、澄んだ空気のように透明だった。

だが男はそれを許さず、素早く少女の前に立つと襟首を掴みあげる。

「そんなに生意気な態度はとるものではない。まったく、化物の血が流れているからか? いいか、小娘。お前が居なければこの国は終わってしまう。いいか? 終わるんだ。だから王子として勤めなくてはならないんだ」

「わかってます」

「ああ可哀想に。こんなに厳しい仕打ちもなにもかも、あの兄と両親の所為だ」

「違います!」

「……ふん」

ばし、再びチェリカの体が地に伏せられた。

それでもチェリカは男を睨むことなくただ見、叫ぶ。

「ぼくは……、絶対に恨まない!」

ざざ、その声に呼応するように辺りの景色が光の粒子に拡散し、散っていく。

「チェリカ。チェリカ!」

光に溶けていく少女に手を伸ばした。少女は、トアンを振り返る。


「ヒントは、教えたよ」

「そんな、待って! おいていけないよ!」

「それじゃあね」

にこり。

柔らかい笑みを残し、辺りには強い光が満ち溢れた。


「……あれ」

ぼんやりとぼやける目を擦り、トアンは身体を起こした。ひんやりとした冷たい空気が体を撫で、鼻の先を真っ黒な闇の塊がゆっくりと漂っていく。

「ここは、どこ?」

きょろきょろと見回す視界は、まるで鍾乳洞のような様子の洞窟だった。だが、あちこちに燻る闇が、ゆったりと流れて見通しを悪くする。

「なんでいきなりこんなところに……」

先程まで居た、平和そのものの世界とはかけ離れている。いや、平和ではない。

あんなに無邪気に笑っていたチェリカが、厳しい罰を受けていた。平和であってたまるものか。

「こっちにはアレックスはいないのか」

黙っていると気が滅入りそうだったので、とりあえず考えを口に出すトアンである。

かつかつかつ──……

足音が暗闇に、吸い込まれて消えていく。

もはや反響する音すら忍び寄る恐怖のようで、トアンは頭を振った。

「まったくもう、なんでこんなに……」

怖いんだろう。そういいかけたとき、頭の中に一つの考えが浮かんだ。

ひょっとすると、だ。

先刻居た場所といい、チェリカの心の中を基にした世界に来てしまったのではないか。……それは過去のこともいえるし。

かなり奇抜な考えだったが、トアンは足を止めた。

この暗く、吸い込まれそうな闇が巣食う世界は、チェリカの心情風景なのかもしれない。

(あんなに、明るかったチェリカの心は──)

最もそれは憶測に過ぎないのだが、トアンには何故か、それ以上の推理は必要ないと判断していた。

(あのチェリカの心の中って、こんなに、こんなに闇が徘徊しているの? こんなに冷たい空気が流れてるの? こんなに、寂しい場所なの?)

「寒いな」

「……え!?」

突然後ろで、小さな声がした。咄嗟に振り向いても、誰も居ない。

「な、なんだ?」

闇雲に走ってみたが、誰も、居ない。そうするうちに地面の突起に足を取られ、無様に転倒した。

「……あ──! ……いててて、なんなんだよ、もう」

ズボンに付いた埃を払いながら、何とか立ち上がる。強かに脛を打ちつけたが、痛いの痛くないの言っている場合じゃないということは分かっている。

 おっと、鼻も打ち付けていた。

鼻を擦りながらまっすぐ前を見た瞬間に、思わず目を見開く羽目になった。

「……チェリカ!?」

子供の姿ではない。いや、十分子供なのだが、旅をしていたときの姿だ。長く垂れ下がる鍾乳洞のツララでできた監獄の中に、彼女は居た。

ぐったりと頭を垂れたチェリカは、トアンの声にも何の反応も示さない。

「チェリカ、チェリカ!」

「起きないよ」

「!」

また、先程の声だ。この声はどこかで聞いた気がする。

(そうだ、最初にオレをここに連れてきた声と同じだ)

「……あなたは誰なんですか?」

警戒気味に問いかける。真っ暗な闇があちこちにあるので、相手が見えない。

「名前をいっても伝わらない」

「……はあ」

「お前は不思議なヤツだ。お前の考えは正解だぞ」

「やっぱり……というか、あなたも不思議なんですけど。」

「ふん、そういうな」

くすくすと笑う声は、すぐ傍で聞こえ、また遠くで聞こえたり場所を落ち着けない。

わからない。どこにいるんだ?

「あ、あの。チェリカは起きないって、どういう意味ですか」

「そのままだ。いや、起きれないだけ。耳を当ててみろ」

訝しみながらも従ってしまう、トアンである。格子の隙間に耳を当てた瞬間、


『──!』


「!」

決して言葉ではないが、強く哀しい叫び声が聞こえた。あの声は、チェリカ。

「……チェリカ」

「聞こえたか? 起きているけれど、ヴェルダニアに支配されてるんだ」

「どうすればいいんですか」

「さあ。」

「さあって……」

かつん、かつん──

闇の奥から響いてきた足音に、トアンは思わず剣を構えた。

(何だ……?)

「そう構えるな。出てきてやったんだ」


りん、透き通る声が響く。

その声の主の姿を認めて、トアンは思わず数歩後ずさった。

「ルノ、さん?」

疑問を口にするが、それは間違いの問いである、と頭のどこかが答えた。

声の主の姿は、ともに旅した双子の魔法使いの兄、ルノの姿によく似ていた。だが、似ているの域を決してでてはいない。

──美しい。

肩の上ほどの長さで無造作に束ねられた銀髪。横に分けた前髪から覗く瞳は、ルビーのように輝く紅い色だ。薄い鎧の上に闇色のマントを身に纏い、腰には剣ではなく、棒のようなものを差している。身軽そうな服装にして氷のように冷たい目。どこか気品のようなものが漂うその姿は、妖精のように美しかった。

 先程似ているが域はでていない、と思ったのは、その人物が『女』だったからだ。鎧を身に纏いながら、彼女は凛と背筋を伸ばし、禁欲的な雰囲気が余計に女性らしさを引き出していた。

年の頃は、まだ18、19歳程だろう。開きかけた花の蕾のような、滲み出る色香と美しさを漂わせる不思議な女性だった。

「あ、あなたは……?」

「紹介しなくてもわかってるだろう? クランキスから聞いただろうに」

呆れ果てた様に女性は息をついた。

「ええと、あの……。セフィラス、さん?」

まさかと思い口に出す。これは、先程とは違い大部分を確定の意味が占めていた。

「そうだ。覚えていてくれたのだな? 嬉しいぞ」

「チェリカとルノさんの、お母さんですか……?」

「そう。」

「随分お若いですが」

「クランと同じだ。昔の姿だ。『僕』だってわけがわからないんだ」

「僕?」

「あ、ああ、その『私』だ」

慌てて訂正する様子を見て、トアンは小さく笑みを漏らした。

「『僕』でいいですよ」

「い、いや! 仮にも私はエアスリクの王妃だ。そんな言葉を使うわけには」

(この人も……無理してたんだろう)

おそらく、『僕』というのが彼女のもともとの一人称なのだろう。

「オレはエアスリクの関係者じゃありませんから、楽に話してくれたほうが嬉しいです」

「……じゃあ、そうさせてもらおう。」

どうやらこの家系の女性は、男勝りな人間が多いようだ。アレックスの様子を思い出して、再び笑みを漏らしたトアンである。それをいぶかしむ様に見ていたセフィラスだが、前髪を撫でるとため息をつく。

「トアン、だったな?」

「オレを知ってるんですか? ……というのは、変な質問ですね。オレをここまでつれてきてくれたのはあなたでしょう?」

「そのとおり。ま、お前は先程の世界を不思議がっていたが、あれはお前の力を借りてチェリカの心が作った世界だ。」

「──そんなことだろうと思ってました」

「なんだ、さっきまであんなに怯えていたのに。つまんないな」

セフィラスは不満そうに口を尖らせると、馬鹿にしたような視線を向けた。

「そ、そんなこと言わないでくださいよ」

「まあ、次から次にやってくる非常識な出来事に、すっかりなれてしまったのだろう。正直まともな人間だな、つまらん」

「……。」

随分なことを言ってくれるではないか。

「そ、それより! チェリカは、どうしたらここから助けられるんですか?」

「さあ……」

細い指が、檻のラインをつ、となぞる。セフィラスは憂いを湛えた瞳で娘の姿を見ていたが、やがてふっと息を吐いた。

「僕がどうやっても出すことはできなかった。トアン。だからお前を呼んだんだ」

「オレを?」

「お前の夢幻道士としての力は、正直計り知れない。チェリカの心の世界に行けたんだろう? なにか聞けなかったか?」

「あ、……」

『ヒントは教えたよ』

不意に、頭の中でアレックスの言った言葉が思い出された。

「あ、そうだ。」

「?」

「迎えにいくんじゃなくて、待ち合わせをするといいって……でもそれ、どういう意味なんだろう。わからないんです」

「また意味深な……チェリカ、待ち合わせとはどういうことだ? 今こうしていること?」

その問いかけに、答えるものはいない。だがセフィラスは眉をよせると、もう一度問いかけた。

だが、答えはない。

「トアン、僕は、チェリカがここまで自分を追い込んでしまったのかわかってるつもりだ。この檻がもはや、監獄ではなく自らを守る殻のようなものであるということも」

「セフィラスさん……」

「僕はクランとあの城にきて、闇が渦巻いているのを見つけた。仮にも、闇の魔力を持ってるから、それに近づいた。ところがそれは僕の……」

「娘だった」

「そうだ。だからどうにかして助けてやりたい」


『ここか──必ず──るから──てて──』


「え?」


バシュン!

漂っていた闇の塊が、突如トアンを包み込んだ。ぐい、足元が引っ張られる。

「しまった! ヴェルダニア、気付いたのか!」

咄嗟にセフィラスが手を伸ばすが、トアンはあっというまに地面に引き込まれていってしまった。

「……チェリカ。」

すまないとか、どうしてとか。そんなこと、いえない。額に手を当て、彼女はもう一度ため息をつく。



(今の声は、チェリカの声だ)

ふ、周りの景色が一変する。トアンの傍らにはレインの傍に座り込むアルライド。

(戻ってきた?)

不思議と落ち着いた気分で、辺りを見渡す。以前ルノの心の中にいったことがあるが(そういえば其処で初めて双子の父にあった)、そのときは時間が経っていた。

だが今回はアルライドはトアンに何も言ってこない。ということは、『こちら側』では一瞬の出来事だったのだろう。

不思議なほど、トアンは落ち着いて状況を見ていた。

だって、声を、『聲』を聞いたのだ。

(確かに言った)

『ここから必ずでるから、待ってて』

チェリカの聲。魂の、強い叫び聲。

じん、胸に暖かいものが一滴落ちた。それは波紋を描いて広がっていくと、体中に染み渡る。

「アルライドさん、兄さんをお願いします」

トアンが声をかけると、アルライドはゆっくりと顔を上げた。その顔には怒りでも悲しみではなく、ただ静かな表情があるだけだった。

「……トアン。どうするつもり? スノゥはもう動けないんだよ。クラウディはともかく、ヴェルダニアを説得することができるひとなんていないんだよ。だから……」

「諦めるなんて絶対しません。──大丈夫です。聲が、聞こえたんです」

「声が?」

「はい。だから、任せてください……とは言いきれませんけど」

「頑張って。でも、何かあったらすぐ助けるから」

ひょいとレインの身体を抱えると、アルライドは数歩下がる。トアンの目の前でクラウディは首を傾げて見せた。

その後ろで、チェリカの影がぶるりと蠢く。──変わる。

虚しさに囚われた雰囲気が一変する。それは暗い、そして濃い憎悪を纏い、血に飢えた瞳が透明な光を持った。

「ヴェルダニア……」

『呼ぶな。汚らわしい』

「チェリカを出してください」

『……そうか、そんなにも会いたいのか』

彼女はふ、と項垂れたような仕草を見せると、耳障りな声を立てて笑った。──人間の声ではない。なにかこう、軋んだ蝶番が立てる音のようだった。

『──ならば、其処を退け! 我が復讐を果たした暁には『チェリカ』の手でお前を殺してやろう!』

「嫌です!」

ヴェルダニアは先程の笑い声を上げると右手を振り上げる。すると、先程足場を囲むように吹いていた風の代わりに、みっしりとした深い闇が辺りに立ち込めた。

本気だ、殺される。

全身の毛が逆立つ嫌悪感。引きずり出される吐き気。闇による圧迫感──殺される。

トアンは目を眇め、少女の姿を見つめた。

(聲は聞こえた、けど! 怖いよ、怖い……!)

今までずっと、仲間が隣に居た。

それなのにいま、自分は独り。不安に押しつぶされそうだ。

「やっぱり、……やだよ、チェリカと戦えっていうの? オレは、そんなことできな

い!」

皆を、守りたかった。

どうして本の中の勇者たちは、底知れぬ相手に戦いを挑めるのだろう。


『トアン、殺して』


『死ね!』

ヴェルダニアの左手から闇の凝縮された塊がトアン目掛けて発射される。

「嫌だ! 殺さない! 助けるんだ!」

どうして本の中の勇者たちは、なんの恐れも持たずに向かっていけるのだろう。


 次々と繰り出される闇の弾丸の嵐を走りぬけ、力任せに剣を振るった。

ところが彼女の肌を浅く切るだけで、すぐさまその傷は癒えていく。

一度シャインの手によって、彼女はトアンの剣で斬られた。だがそのときもすぐに傷は癒えてしまった。

『ふふ、無駄なことを! 私はそんなものでは傷を残すことはできない』

自ら手を伸ばし、トアンの剣に触れる。何を、そう思ったが即座に理由が分かった。

指先が僅かに裂け、そしてすぐに癒えた。

ヴェルダニアは楽しんでいるのだ。自らの力を絶対を見せ、じわじわとトアンの余裕を削ることに。

薄い唇に、冷たい笑みを浮かべたまま。

「……!」

『それに、お前は未だ迷いを捨てきれていないな? 怖いんだろう、剣を持つことが』

「……そうだ」

『まあ、お前が何を考えようと』

ひょい、薄い肩をすくめ、少女は嘲るように笑った。

『無駄なことだが!』

ブン、トアンの周囲に闇の塊が出現する。だがそれはまっすぐに向かってくるのではなく、牙をむいて襲い掛かってきた!

「な、!」

『……闇に堕ち、闇に這う愚者たちよ──』

咄嗟に避けるが、着地した瞬間背中に焼け付くような痛みを感じた。

「っうあ!」

体を捩って振り払うと、服の切れ端が舞う。同時にパッと鮮血が散った。視界の端で固まりがばくばくと口らしき場所を開閉している。

「く、くそ、……う!?」

捩ったままで体勢を取れないトアンの腕に闇が食らい付く。半袖ごと、柔らかい二の腕に真っ黒な牙が食い込み、脳髄を痛みが走り抜ける。

「トアン!」

アルライドの声が聞こえた。だが、一言兄さんを、と叫び返すとトアンは歯を食い縛る。

「いっつ──!」

塊を掴んで無理矢理引き剥がす──驚くことにこの塊はそれほどの密度を持ったものだった──と、離すまいと立てられた歯が二筋の深い傷を作った。べしゃりと地面に投げつけ、見る見る血が盛り上がってきた傷口を千切った服の端で止血する。

『懺悔を紡ぐその口を、漆黒の糸で縫いつけ喚け。鳴り響く警告に声高らかに合唱せよ』

ざわざわ、闇が明確な意思を持って蠢きだす。掲げたその右手には、闇を凝縮したような漆黒の杖が握られていた。

これは──詠唱だ。今トアンに襲い掛かってきた闇の塊。それすら詠唱の一部なのだ。

たら、背中に冷や汗が流れ落ちた。痛みで頭の芯が熱を持ったように揺れ、剣を持つ手が震える。

(覚悟も、力も足りない……。やっぱり、オレには無理なの?)


『覚悟があるならひとを斬れる!? そんなのは間違ってるだろう!』


きん、頭に声が響いた。この声は。

「ルノさん!?」

そう、下のほうに位置する足場に居るはずの、ルノの声だった。

「どうして! いや、無事だったの!?」

『……とりあえずな。私にもわからないが、不意にお前の声が聞こえてきて。ここからじゃ闇が立ちこめていてお前たちの様子はわからないが』

「そう、ですか」

ぞぞぞ、杖に闇が集まる。にたりとヴェルダニアは笑って見せると、ぶるりと身を震わせる。

『オォォオ──オオオオオ……』

 邪悪な叫びに鼓膜がびりびりと震えた。チェリカが纏っていた服は闇色に染まっている。いや、服自体も肩の部分が裂け、白い肩を出していた。

──ビチビチッ

胸の悪くなるような音を上げ、背中の肉が裂け、皮膚が破れていく。血を撒き散らしながらびくびくと身体を震わせ、ヴェルダニアは歓喜の声を上げた。

『ォオオオアアアアアァァァァ──!!』

ビチブチブチビチャッ!

その声に応じるように、チェリカの背中を突き破り、血に塗れた何かが生える。

ぬら、血に濡れたそれがゆっくりと広がっていく。動くたびに血が垂れ、小さな肉片がぼたりと落ちた。まるで生れ落ちたばかりの胎児のように濡れるそれは。

──漆黒の、翼。

恐らく卵から孵ったばかりの借らすの雛のように、柔らかな羽と血。だがそれはどういうわけか片翼──右翼だけ──しか生えていないが、確実に『異質』と思わせるものだった。

ふわり……

ブーツに隠された足が翼を動かすこともなくゆっくりと浮く。片翼ながらもそれはバランスを保っていて、羽の力で飛んでいるのかそれともただのシンボルなのか、その両方の意味を持つのかトアンには分からなかった。

 薄い唇が動く。だがそれは言葉を紡ぐ為か、呼吸をするためなのか見分けが付かない。伏せられた紅い瞳から、一滴──。

(また……)

何にもできない、そう自覚した瞬間、悔しくて悔しくて涙が出そうだった。

(泣くな! もうこれ以上、チェリカを泣かせたくないんだ!)


でも、どうしたら──!


『我が誓い、血を欲す! 愚者の眼を奪い取り、永久の刃を漆黒にて塗りつぶす。覚醒の時、今──!』

集まっていた闇が球状になり、ヴェルダニアの身体をすっぽりと多い尽くした。それはつるりとした表面だったが、当然のように光沢を放ってはいなかった。

「チェリカ!」

『チェリカ──』

呆然としたルノの声が響く。

「くそ、チェリカを返せ!」

爆発的に膨れ上がったこの感情を、なんと言うのかトアンは知らない。喪失感、怒り、焦燥、悲しみ。全てを混ぜ、それがとめどなく溢れている。勢いに任せ、剣を振り上げ走った。──この球体の中に、チェリカがいる。覚醒とヴェルダニアは言ったのだ。このままにしておけば、彼女がどうなるか、考えられなかったし考えたくもなかった。

「うあああ────!」


キィ────ン! キン、キン……


「なに!?」

怒りに任せて振るった刃は中心ほどで脆く折れ、破片がくるくると旋回して吹っ飛んでいった。

破片が地面を擦るたび、金属音がなる。

「そ、んな……」

球体は何の反応も示さない。内部の様子もわからない。

「……オレは、やっぱり……」

グローブに包まれた掌を、強く強く握り締めた。


「……チェリカ」

朦朧とした意識が徐徐にはっきりしてくるにつれルノはなにか心に空いた穴の存在を感じるようになった。それが片割れのことだと思ったとき、意識はふ、と急激に浮上した。

「……!」

ゆっくり目を開けると、血溜りのなかにいた。すぐ隣にいるシアングから夥しい出血があったのを思い出し急いでシアングの容態を窺うが、深い呼吸をゆっくり繰り返す彼は意識がないようだが生きていることがわかった。

安堵に瞳を閉じそうになって、ルノの背筋を冷たいものが流れ落ちる。目線の上──10メートルほど上の高さにある足場を、真っ黒な霧が覆っているのだ。

──あそこに、妹がいる。

そう、今先程まで自分の意識はあそこの中にあった。そして、今も。意識だけで、自分はこの状況を見ていたのだ。

(チェリカ──あれほど硬いものの中にいるのか──)

トアンの剣が折れたことを思い出し、額を押さえる。

恐らく、あの球体は密度の高い魔力の塊で構成されているのだ。恐らく普通の力では手を出すことはかなうまい。ヴェルダニアはあの『繭』の中で、幼虫が成虫に身を変える様に、ゆっくりと妹の身体を改造していくのだろう。そしてそれが完成したとき、

闇の魔力を片手に、憎悪に身を任せ、すべてを消し去るのだ。

『チェリカ』の姿ではなく、邪神ヴェルダニアそのものとなって。

「……だめだ」

誰にともなく呟くと、ゆっくりと首を振る。

「そんな、駄目だ……!」

シアングの身体からゆっくりと離れ、ルノは立ち上がった。ふらつく身体をなんとか支え、まっすぐに上を見る。

(あれは、並の力では破れない。恐らく、私の残っている魔力を総動員しても傷一つつかないだろう。……だが)


『トアン、聞こえるか』

静かな声が耳に届いた。

「ル、ルノさん」

『……トアン。怪我は?』

「ありません。でも、オレ、全然……っ」

一端言葉を切って、こみ上げてきた嗚咽を誤魔化す。だが賢いルノのことだ、きっとわかっているのだろう。

「……ご、ごめん、なさい」

『謝るな』

ルノのため息が聞こえた。

「でも、どうしよう、本当にこのままじゃ……!」

『……大丈夫だ。いいか、時間がないから質問は後だ。いまから私が魔力の殻を打ち破るから』

そこで一端息継ぎをしたのだろう。浅い吐息が聞こえた。

『後は、頼む。無責任だが』




『生き延びたくば──。』

(わかっている。今まで、私は言いつけを守った)

右手で、銀髪の髪を撫でた。するりとした指触りのそれは、我ながらとても綺麗だと思う。忌々しいと思ったことはないといったらうそになるが、母からもらった大切な物だ。

『絶対に、破ってはいけません。生きたいと思うなら──。』

(……生きたいさ。でも、私だって、妹を助けたいんだ)

もう一度梳いて、髪を掴む。そのまま左手を構え、その手のなかにある短剣の感覚を確かめると、ルノは深呼吸した。

『もつ力の全てを、失いますよ──。』

(それでも)

ゆっくり、短剣を近づける。ルノはゆっくりと瞬きをした。口元に、小さな笑みを浮かべて。


「私はもう、逃げたくない!」


瞬間、周囲の気圧が一気に下がった。それでもルノは短剣を投げ捨て両手を天に掲げる。その掌から、無造作に切り落とされた髪の毛が雪のように舞った。

まるで。

まるで、体の中に膨張する何かがあるようだった。内部から圧迫されて息がつまり、掲げた両手は破裂するように所々勢いよく裂け、ズタズタになっていく。

「……クリア……!」

声が引き攣れて詠唱がうまくできない。舌を噛みそうになりながらも、ルノは叫んだ。



ちり、頬を冷たい風が撫でる。何事か、そう理解する前に、目の前の球体に爆音を立てて氷の柱が突き刺さったのをトアンは見た。

ズドドドドン、低い地鳴りと共に球体が震え、それ自身にぱっくりと穴を開けた。すぐさま再生しようと蠢く闇にあいた穴は氷によって氷結され、凍った闇がぶちぶちと音を立てながら千切れ、空気中に拡散していく。

『お……の…………れ……』

ぐにょりと球体が動くと、ばらばらとそれは裂けていき、それぞれ空気に溶けていく。闇の壁は霧になり、やがてそれが晴れたとき一人の少女が項垂れていた。

何故、突然。

トアンは闇に濡れる少女の姿を見ながら、途絶えたルノの声を探った。ところが、それに対する返事は一向になく、無音だけしか返ってきていない。

(氷の魔法……これは、ルノさんだ)

トアンの剣すらへし折るほどの強度を持ったそれを貫いた、氷。

それは恐らくルノの体に大きな負担をかけているのだろうか。返事を返せないほど疲労しているのか、もしくは──

(いや)

ぶんぶんと頭を振って目を細めた。

(頼まれたんだ。オレが──あとはオレが何とかしなきゃ)

『貴様──、許せぬ……!』

ぬらり、闇と血が滴る顔が憎悪に歪んだ。背中の羽がぶるりと震え、おぼつかない足取りで彼女は立ち上がる。

『久遠の苦しみを味わうがいい!』

す、伸ばされた手からあの生き物のような闇の塊が飛び出した! 折れた剣では到底敵うまい。

「……くそ!」

『死ね!』

歓喜に見開かれた瞳が驚愕に変わるのに、ほとんど時間を要さなかった。

バシュ、バシュン!

『何……!?』

「──え!?」

まっすぐにトアンを喰らおうとしていたそれは、球体と同じように霧になり、そして拡散していった。キン、地面に落ちた何かが金属音を立てる。──これは。

はっとして振り向くと、這うような姿勢のまま、シャインが顔だけこちらに向けていた。


「トアン──……それを! 十六夜を使え!」


金属音をたてた何かを拾い上げる。それは、真っ二つに折れた月千一夜だった。

「それがあれば、トアンでもヴェルダニアに戦える! ──ゲホ!」

『まだ生きていたか!』

ち、忌々しげに舌打ちし、ヴェルダニアが手を翳す。トアンが駆け寄るよりも早く闇の弾丸が打ち出され、シャインの身体を吹き飛ばした。

「シャイン!」

(……何度、)

受身も取れず、力なく落下した身体がぐしゃりと嫌な音をたて、地面に叩き付けられる。

(……何度苦しんだらいいんだ)

一度彼として、彼の過去を見た以上、トアンにとってシャインは『敵』だけとは見れなくなっていた。

(このままじゃ、負けちゃう。……ルノさんが破ってくれたんだ。クランキスさんにも、任せてくれって言った)

手の中の折れた月千一夜に、自分の剣先の折れた剣を近づける。

(少しだけでいい。お願い、どうにもならないんだ! 力を貸して──)

きらり、青く光る刀身が一瞬虹色に輝いた。

『──正統なる者……』


(!?)

頭の中で、声が聞こえた。だがそれは人間の声とは違い、あくまでも無機質で、感情が感じられない声だった。

動揺して目を瞠るトアンの前で、剣がさらに強く輝き、そして熱を持った。

『月の力、確かに預けよう』

(な、なんだなんだ?)

握った剣が熱い。思わず手を離そうとしたが、吸い付いたように決して剣は離れず、トアンの手を焼いた。──すると突然!

(あ──!?)

ぴか、強い光が青に変色し、まるで水に波紋を描くように、光が溶け合っていく。完全に溶け合い青い光が剣にすっかり馴染んでしまうと、ふ、と蝋燭の火を消すように光が消えた。

折れた剣と、剣先。確かに握っていたのはその二つだが、今目の前にあるのは一振りの剣だった。青い光が淡く纏わりつき、粉雪を散らすようにふわふわと舞う。

恐らくこれは──

(月千一夜……! そうか、これなら!)

トアンは手にある剣をしっかりと構えると、ヴェルダニアに向き直る。

『うん? 貴様。私を殺すのか? いいのか、チェリカも死ぬぞ』

嘲るような笑い声は無視し、トアンは深呼吸をひとつした。

(精霊を斬れる剣、月千一夜。……チェリカからヴェルダニアを切り離して!)

「うあああああ!」

腰の高さで突き出すようにもち、トアンの足は走り出した。

『愚かな!』


(オレは、勇者なんかじゃないけど、)


ふ、酷薄な笑みを浮かべる彼女の前で、急ブレーキをかけて右足で踏ん張る。

ヴェルダニアの手から放たれた魔法が耳元を掠めたが、それが過ぎると同時に左足を前に出し、側面側に回りこんだ。

「……終わりだ!」

思い切り振った月千一夜が、床を這う三つ頭の影を存分に切り裂いた。

(それでも、守りたい気持ちは間違いじゃない!)


『────────!!!!』

人ではない軋んだ叫び声を上げ、ヴェルダニアが身悶えした。床の影はヴェルダニアとクラウディの部分がすっぱりと切り裂かれ、切り口から血の影が辺りに舞う。

『────ギャアアアァアアああああ……』

耳障りな罅割れた声が、徐徐に人間の声に、そして──チェリカの声に変わっていく。

「ああぁ──……」

そしてそれが完全にチェリカの声になったとき、切り離された影が床の上にあくまで影として飛び散り、消滅した。同時に辺りを包んでいた闇の霧もゆっくりと薄れていき、そして完全に消えうせる。

背中の羽はそのままに、呆然と立ち尽くしたチェリカの見開かれた紅い瞳が段々青く染まっていき、すっかり元通りの色になった瞬間、糸が切れたようにチェリカは床に倒れこんだ。

「……チェリカ」

ほう、安堵の息をつき、トアンも床に座り込む。正直、まだ信じられなかった。自分が、チェリカを助けることができたなんて。

握っていた剣がからん、という音を立てて地面に転がった。それはもう一度虹色の光を放つと、元の二つのかけらに戻る。

ずしゃ、膝が地面を擦る。トアン自身酷く疲労していたので、重力にしたがって身体が落ちる。


『──許さぬ!』

「うわあ──!」

怒りに満ちた声を認めた瞬間、トアンの身体は空中に投げ出された。

ぐん、視点が反転する。視界の端で、トアンは足に絡みつく影を見た。

(まだ、生きてた──!?)

耳元で風を切って、トアンの体が落下を始める。それと同時に、影はがさがさと逃げていった。

「トアン!」

アルライドが手を伸ばすが、虚しく空を掻くだけ。勿論トアンも手を伸ばしたのだが、もう届かなかった。

「わあ──!」

我ながら間の抜けた悲鳴が長く伸び、ぐんぐん速度が、増していく。ルノの驚いた顔があっというまに通り過ぎ、真っ暗な底なしの闇の海に落ちていく。

(オレ、死ぬのかなあ、嫌だよ! 折角、折角また皆で居られると思ったのに──)


「トアン、トアン──!」

アルライドは見えなくなっていくトアンの名前を呼び続けた。そうするしかなかったのだ。

「くそ、トアン──」

皆助かったと思ったのに、怒りに任せて地面を拳が叩く。

──その隣を。

たたた、小走りに誰かがかけていく。その人物は何の躊躇もなく、後を追うように暗闇に身を躍らせた。

きらり、金髪が闇の中で光るのを、アルライドは見た。


ゴオオ、耳元の風がうるさい。段々血の気が引いていくように、さっと体が冷える。

(ああ、間抜けな最後……。でも、チェリカのこと、守れたんだ。それでいいじゃ──)

諦めて瞳を閉じかけたとき、トアンはしかし、ありえない姿を見た。

「トア──ン!」

(チェリカ!?)

彼女はぐんぐんと速度を上げる。ばさばさと羽音が近づいてきた。

(ヴェルダニアの象徴を使って──助けに来てくれた)

ぐんっ! 急に体が止まる。それまでの落下速度とあいまって相当な衝撃がきたが、チェリカはトアンの手を掴んだままそれに耐えた。

「だ、大丈夫?」

ぜえぜえと荒い息を吐きながら、チェリカが問いかける。それは酷く久しぶりに聞いた、彼女の声だった。

「チェリカ……チェリカなんだね?」

「うん、そうだよ。ごめんね遅くなって」

「……ううん。良かった」

ばさばさとその場で何とかバランスを保ちながら、ささやかな会話を交わす。チェリカの羽はヴェルダニアが使っていたときとは違い、羽そのもので浮いていたのだ。片翼のためバランスが悪い。

「トアンの声、きこえたんだよ」

「オレの声?」

「うん、全部見てたの。ホントは、君が私を月千一夜で──。でも、今私ここにいて、生きてる。すごい不思議だよ」

「へへ、オレも不思議。でも良かった、また、チェリカと話ができて……! もう、もう二度とこんなことできないと思ってた」

そういうと、チェリカはにこりと笑った。ヴェルダニアの笑みとは全然違う、温かな笑顔で。

「……でもその羽、どうして……?」

「え? あ、これ。何だろうね、私もよくわかんない。──怖い?」

「ううん、全然。」

「悪魔みたいじゃない?」

「い、いや、むしろ──」

もごもごと口ごもるトアンに追い討ちをかけるように、上のほうからトアンたちを呼ぶ声が聞こえた。

「じゃあ、いくよ!」

ゆっくりとチェリカは上昇し、まっすぐに上を目指していく。

おかげで、むしろ『天使みたいだ』ということを言いそびれたが、トアンはとても幸せだった。


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