第33話 judgment――崩れていく何か

『殺して』

彼女の唇が、同じ声色でただそう繰り返す。

『殺して、殺して、殺して』

そんな言葉を聞きに来たのではない! 何度そう叫んでも、彼女は聞き入れない。細い細い腕が喉に絡まり、じわじわと息が詰まる。

『殺して、殺して』

苦しいのは、自分なのだ。

それなのに首を絞めてくる彼女のほうが、今にも泣き出しそうに、苦しそうに叫ぶ。

──同じ、平坦は声色なのに。

いやだ、絶対に、君を助けにきたんだ。そう言おうとした瞬間、彼女が叫んだ。

『殺して、助けて……トアン!』



どれくらい眠っていたのかわからない。

薄暗い闇の中起き上がって、辺りを見渡す。自分は中々の規則正しい生活をしてきた人間だ。恐らく、必要な分の睡眠をとったから目が覚めたんだろう。……そうだ。悪夢に飛び起きたわけではない。

そう言い聞かせて、喉がカラカラなのに気がついた。起き上がってドアノブに手を開けた瞬間──

「おそよーございます」

騒いでたから疲れたんだろ、くっくと笑いながらクランキスが顔を出した。

「おそようござ……おそよう?」

顔を動かすとクランキスの肩越しに着替えを済ませた仲間たちの姿があった。

「トアンが寝坊なんて珍しいな。私やレインでさえ起きれたのに」

長い髪を、再び結ったルノが声をかけてくれた。

成程、寝起きの悪い二人が起きているところを見ると、自分は戦いを前にリラックスしすぎたのだろうか。──そう思ったら。

「オレが起きたのはガキがうるせぇから。ルノが起きたのは自分でベッドから落ちて頭打ったからだ」

あまり機嫌がよろしくないのだろう、むっとした口調で口を挟むレインと、同じく怒ったようなウィル。……また朝から喧嘩でもしたのだろうか。

(兄さんもウィルに対して少しは柔らかくなればいいのに)

アルライドとの扱いがとても違う事実に、トアンは小さく苦笑する。

自分やチェリカ、ルノやシアングにはたまに優しさを見せることもあるのに、ウィルに対しては壁を守ったまま。……それはそれで、なにか特別な扱いなのだろうか?

「トアン、いつまでぼーっとしてんのさ。まさか剣も持たずに戦うつもりか?」

クランキスが眉を寄せてからかってきたので、慌てて顔を洗いに走る。そうして忙しく支度をする間に、今朝の夢は記憶の片隅へと追いやられていった。


否。

……忘れようとしていたのかも、しれない。



アルライドがそっと触れた壁に、もうひとつ螺鈿が施された扉が現れた。

「ここをあけるとシャインが待ってるよ」

「……準備はいーい? なんて聞くなよな。いいか」

トアンたちを見返すようにくるりと振り返ったクランキス。

「アルライドとお前らに、シアングとシャインをとめていてほしい。俺がチェリカをなんとかしてみせるから」

「シアングとシャインも相当強いけど、チェリカをなんとかすればシャインは動揺すると思うよ。なに、俺がついてるんだから怪我させない」

とん、胸をたたいて言い張るアルライド。トアンはうなずきながらも、何か釈然としなかった。本当に、それですべて収まるのか?

(そういや今朝いやな夢を見た気がするけど……思い出せないな)

「何をぼーっとしてる」

「あ、ご、ごめん」

ルノに背中を叩かれて背筋を伸ばし、また思い出しかけた何かを忘れることにした。

ゆっくり、扉が開く。

(チェリカ、今助けにいくから)


「やっときたんだね、待ちくたびれた」

二つそろえてある玉座の片方に座って頬杖をつき、シャインは生意気そうに言い放った。何故か玉座に座ることが当然に見え、王族のようなオーラを放っていた。

そこにいて当然──そう思った。

もう片方にはチェリカが座り、珠玉の瞳でこちらを見ている。その横には騎士のようにシアングが控え、頭を垂れていた。

……シ……

張り詰めていた空気が歪む。

その波紋を描く歪みは頭の中を鋭く通り抜け、一瞬の痛みをもたらした。

咄嗟に耳を押さえるが、もう痛みは過ぎ去った後。

「おやまあ。トアンたちもきたの? てっきり怯えて隠れてると思ったのに」

「誰が!」

「トアン、落ち着いて。挑発に乗っちゃ駄目だよ」

思わず踏み出した足を、アルライドが制す。

我に返ったトアンの背を、そっとルノが叩いてくれた。

「話し合いじゃ終わらないのはわかってるんだけどさ。……俺たち、良いように使われにきたんじゃないんだよ、シャイン」

「……。アルライド。僕は、君がどれだけ聡いか知ってる。君のペースに乗せられたら……。でも」

ゆっくり王座から立ち上がり、シャインは空に手を伸ばす。──その先には、高い高い天井があるだけだが。

「僕は負けない。ここまできて──邪魔するなら退けるまで!」

ズズズズッ

「うわ!」

低い地鳴りとともに激しい揺れがトアンたちを襲った。──地面が暴れている! ぼろぼろと地面が崩れ始め、漆黒の闇が隙間から覗く。チェリカを乗せた玉座がある床は上へ突き上げられ、シャインは剣を構え、手ごろな足場へ移った。

「まずい! 皆、一箇所に集まって!」

アルライドが警告した瞬間、地面が大きく裂けた。二つに割れた片方の床は暗い闇の中で宙を泳ぎ、ふわふわと漂っている。

その上にたった一人、ルノの姿があった。

「ルノさん!」

手を伸ばすが、あまりにも距離は大きすぎる。漂う床に吸い寄せられるように、シアングが着地した。

「ルノさん! 一人じゃ無理──」

「構うな!」

「え?」

「何言ってんだよ、無理すんな! 今行くから!」

ウィルが一歩踏み出したそのとき、ゆっくりとこちらを振り向いたルノの瞳は、まっすぐで、迷いがなかった。ふわ、銀髪が弧を描いて闇に散り、未だ脈動を続ける足場にしっかりと立つと今までにない強い声で、ルノは言った。

「無理ではない。……シアングと話がしたいんだ。すまない」

「でも!」

「私の意志だ。もう無責任な話だが、チェリカを頼む。──もう、シアングをおいていけないんだ!」

凛、と。

細い小柄なその体が、強固な意志を持って背を向ける。

「いつまでも見物してるつもり?」

はっとして振り返るとシャインがその様子を面白そうに眺めていた。

「シャイン──どうしてあの二人を戦わせるんだ?!」

トアンの記憶の中で、彼らはいつも隣にいた。皆で向き合って会話をするときも、ほとんど無意識に、二人は隣同士に並んでいたのだ。

ルノと戦ったとき、明るいシアングがとても苦しそうな顔をしていたのも覚えている。チェリカと自分が飛び出すから、シアングはルノのもとに駆け寄れず、そうやって『兄』としてあるために自分の行動に制限をかけていたのだ、そう思ったのも。

チェリカがいなくなったとき、シアングはルノのことをいつだって気にかけていたのも。そうして不安に押しつぶされそうになったとき、誰よりも早く、その手を引いて。

幼い頃からの強い絆。それは解けることはない──そう思っていたのに。

「さぁね。ま、見たいなら見ていれば?」

含みのある口調で言い放つと、ふっとその姿はかき消される。

どこにいった──そう考えるより早く、アルライドが何か叫んだのが聞こえる。……レイン、と。

反射的に兄のほうをみると、兄は自分たちがいる場所より床一つ分高いところに、シャインに盾にされる形で居た。

「兄さん!」

「レイン!」

「嫌だな。頭が回ってなかったね。僕の目的はスノゥだってわかってたろうに」

「離せ……!」

首を絞められて苦しいのだろう、レインが身じろぎする。シャインは全く気にせず、僅かながら力を強めた。

「……ッ」

「苦しい? 早くスノゥになってよ、首が折れる前にさ」

「だれが……」

「困ったな。本当に困った……」

「?」

す、指が額に当てられる。だがすぐに指は離れ、レインは突き落とされた。

「レイン!」

落ちてきたレインをアルライドが受け止め、安堵した息を零す。レインはアルライドから身を離すとトアンに向き直った。

──一瞬の、違和感。


『なんてこと!』


不意に、トアンの頭の中ですんだ声が響いた。それには前にも聴き覚えがある。

(……え?)

真っ黒な霧がレインを覆う。それはすぐさま散っていくが、霧が晴れたとき目の前にいたのは、


斜めに被った赤い狐の面。

白い肌に良く映える、漆黒の制服──見覚えがある。アレは確か、グングニルのもの。

そしてその目は、暗い海のように曇りながらも、はっきりとした殺意が宿っていた。


状況に頭がついていかず、呆然とするトアンの頬を、鋭い痛みが通りぬけた。

──レインの鞭だ。

「兄、さん?」

「あはははは!」

けらけらと笑うシャインの声が、耳の中に染み付いた。彼はひらりひらりと床を飛び移り、一際大きな塊の上にいた。

「トアン、下がって。お兄ちゃまと同じよ、ルナリアやアルの時とは違う。あのお面を媒体にすることで完全にシャインの操り人形になってるんだわ」

ルナリアがトアンの前に立ち、両手を構える。

「レインと戦えってのか? あいつは仲間なんだぞ!」

「ルノだって同じ気持ちよ! ルノだって、お兄ちゃまと戦ってるのよ!」

噛み付くように言い放つウィルに、少女はきっぱりと言い返した。あ、小さく一言零すとウィルは押し黙ってしまう。

「さぁどうするのアルライド? 僕と戦う? ……レインを置いて」

「くそ……!」

「作戦変更だな」

状況を見渡した後、クランキスが口を開いた。

「チェリカが動く様子はない。……トアン、アルライド。シャインをとめてくれ」

「でも!」

引き下がらないアルライドを制し、静かな声で続ける。

「俺とルナリア、ウィルを信じろ。そんで、頼む」

「ウィル」

クランキスには返さずに、アルライドはまっすぐにウィルを見た。咄嗟に姿勢をただし、ウィルも見返す。

「…………頼むね」

「あ、ああ」

「トアン、いくよ」

武器を構え、冷たい目を崩さないレインを悲しそうにみて、アルライドは床に飛び移る。それを追って、トアンも続いた。

アルライドが何を思っているのか、聞きたくても聞けない。彼は全てを自分の所為にして、追い詰めているんだろうか?

クランキスの強引過ぎる言い方に文句を言おうと口を開いたが、結局閉じてしまった。

アルライドは、背負う。

背負いすぎてレインには無抵抗で殺される。そうしたら、もうスイの元へたどり着けない。

それか、全てを背負って、レインを。

(──いや)

ここまで考えて、トアンは思考をとめた。よじ登った先に、シャインの嘲笑が見えたからだ。


動かない。

いや、それは自分と認識して止まっているのではなく、いつ飛び掛ろうか気配を探っているのだ。まるで肉食獣のように。

(何故なら、すぐ喉元に牙があるように感じるから……)

額から頬を伝って、汗が雫になって落ちた。

ざわ。

不意に吹き上げてきた風が、ルノの長い銀髪を揺らす。


シアングは眉一つ動かさず、ただルノを見ていた。だが、その右手にある宝石は絶えず電気を纏っている。

「……シアング」

名前を呼んでも、反応はない。

ルノは構えた杖を、床に放り投げた。

ガラン……

その乾いた音を上げ床を転がるそれを、金の瞳が追う。……僅かな、反応。

「シアング。私は戦いに来たのではない」

「……」

「シアング、私はお前を迎えにきたの──」

ジジっ……

一歩進んだそのとき、頬の辺りを強い静電気が通り抜けた。

「威嚇のつもりか」

「……。」

「これ以上進むな、そういうことか?」

「殺す」

即座に返ってきた返事は、声色こそ違うものの、間違いなくシアングものだった。

……だからこそ、信じられない。

(痛いな)

心から思う。彼と出会ってずっと、そんな言葉、まさか言われるとは思っていなかったから。

「なあ、何故ここにきた? あちらにシャインがいるんだぞ」

「お前を殺す」

「それは命令か?」

「違う」

「お前の意思か?」

「……」

「……そうか」

(シアングは意思を失くしても、私を気にかけていてくれる、ととって喜ぶべきなのだろうか)

そう思って、何だか自分が酷く哀れに思えてきた。

「いや、幸せ者なのかもな」

思わず笑みがこぼれた。涙腺が一瞬緩んだ気がしたが、こんなところで泣いてなどいられない。

「扉が閉まったとき、もう会えないかと思った」

「……」

「でもまあ、あれから二回も会えたな」

「……」

ほんの数歩。

それだけ歩ければ、自分はまた、

「シアングの隣に、いけるだろうか」

ほんの数歩が、とても長く見えた。



『昔々。高い高い塔の上には、ドラゴンに閉じ込められ、守られたお姫様がいました』


それは本当のことだった。……いや、違うか。世界の童話作家がひっくり返るような、童話に良く似た過去。


『お姫様の部屋には、ドラゴンが奪ってきた沢山の財宝がありました。でもお姫様は財宝なんてちっとも欲しくありませんでした。』


財宝? 笑わせるな。まあ、確かに貴重な魔法書はあったが。……本しかなかっただろう。あの、高く狭い、牢獄には。


『お姫様は、ちっとも落ち込んでいませんでした。何故なら、いつの日か、王子様が塔の窓を叩き、自分を迎えに来てくれる。そう信じていたからです』


ここも大分違うな。迎えにきた王子様とやらが、私の場合ドラゴンだった。ついでにいうと、閉じ込めたのは王自身だ。いや、王代理か? まあいい。


 judgment──追憶の子守唄──


部屋の中央には、ベッド。そしてベッドを取り囲むように聳え立つ、巨大な本棚。

唯一の窓辺は、常に開け放っていた。その小さな窓から見える樹海と遠くの生まれた城、そして膨大な知識が詰め込まれたちっぽけな空間。そこが私の、全てだった。


「チェリカは……泣いてないだろうか」

窓辺から見えるあの城に残る、小さな妹を思い出す。窓辺には使いの鳥が届けてくれた食事があったが、あまり欲しいと思わなかった。

食事はおいしいと思わない。見掛けは綺麗。味も最高級。でも、おいしいと思わない。

いや、おいしかった時期もあった。家族みんなで、あの城にいたころだ。

(でも)

思い出すと悲しくなるから、考えないようにする。

(食べないと)

食べたいとは思わなかったが、食べないと怖い大臣たちがやってきて、無理矢理食べさせられるのだ。──自分は、彼からにとって生かしておかなければならず、そしてまた、生かしておくには煩わしい存在。

それに気付かないほど、私は馬鹿じゃなかった。

(食べないと……)

妹がどうなったか、まったく分からない。

泣き虫な妹だ。泣きながら私を探していないだろうか?

生き延びて、また家族に会いたい。

そう思って、今日もまたスプーンを持つ。格式高い王族の食事マナーを押し付けられない分、好き勝手に食べることができた。まあ、トレーが食べかすで汚れるのは、小さな反抗心だ。

ここに閉じ込められたのが4年前。

あの時、泣いて泣いて兵士に縋った妹が、心配でならなかった。

「さてと……」

食事が終わると、ぐるりと本棚を見回す。

いつか大魔法使いになって空を飛んで、ここから抜け出すのが私の小さな夢。そのためには物事と魔法の知識がなくては、そう思って本を読み漁っていた。……他にやることがないから、なんていわせない。

「この辺かな」

とりあえず光の紋様が入った本を背伸びしてとると、ベッドに腰掛けて表紙を開く。

食事は大分残っているが、冷めたニンジンのスープなんてまずくて飲めるか。氷魔一族は熱いものが食べられない、とでも思っているのだろうか。

それとも冷めてても十分最悪なのだから、ニンジンが加えて私を餓死させる方針に変わったのか? と鼻で笑いたくなる。それと、この部屋も最悪だ。あんな高いところまで本を積まれても、私には到底届かない。こんなとき風の魔法や火の魔法が使えれば、簡単に空も飛べるしスープも温かくなるんだろうな。……といっても、ニンジンの時点で見なかったことになるが。

……それからあの変な実験はなんなんだ? そんなに氷魔に興味があるのか。ああもう、退屈だ。こんな本、何度も読んで暗記してるんだ。

ぽい、放り投げてからベッドの上で正座してみる。足が痺れるから嫌いだが、集中するには調度いい。

「よし、本は覚えたんだ。今日こそはできる」

虚しい独り言だと笑えばいいさ。でも何か言わないと、言葉を忘れてしまいそうで怖い。……幽閉された初めの頃、そういう物語を読んだからかもしれないが。

私もいつか、言葉を忘れる?

それは絶対な恐怖。

私は頭を振って、手に集中する。そういえば昔、転んだときに父さんが治癒してくれたっけ……

「……ああ、やめたやめた!」

いくら集中してもなんにもならない。私にできる唯一の魔法は、氷の粒を浮かべるだけだ。飛ばしたりするのはまだできないから、直接投げつけてみたりもした。が、腕力のなさと氷の小ささで、本当に小さな抵抗にしかならない。

「本当に大魔法使いになれるのかな? それとも王子様とやらを待つべきなのか?」


今でも忘れない。

頬杖をついて、誰も返さない言葉を発したあのとき。


「もう来ちゃったぜ、お姫様、じゃなくて王子様」


からからと笑いを含みながら、私に返ってきた言葉を。

「だ、……誰だ!?」

「あーあー。そんな怯えんなよ」

「怯えてない! 何だお前!」

びっくりして毛布の中に隠れた私のもとに、そいつはずかずか近寄ってきた。私が驚いたのはそいつがいつのまにか窓枠に座っていたことと、そいつの背中に翼があったからだ。……別に、独り言を聞かれたからじゃない。

「んだよ人が折角来てやったのに! 囚われの王子様ってなーんかマイナーだけど……ホントに男?」

「お、男、だ」

「あれぇ? 銀髪に紅い目って氷魔一族じゃん。……お前、女だろ?」

「男だ!」

「じゃああっちが王子でこっちが王女……」

「私が『王子』だ!」

毛布の隙間から覗いてくる金の瞳が怖くて、枕を投げつけた。案の定油断していた金目は顔面に直撃。柔らかいものだったのが残念だが、いい気味だ。

「いてて、何すんだよ」

赤紫色の髪の毛を適当に束ねた金目は、怒ってこっちを見た。……負けてたまるか。

「お前誰なんだ! 名前も名乗らずに! 第一どうやってここにきた?」

「へ? ああ、これで飛んできたんだけど」

ばさり、翼が動く。

「後半しか理解できなかったのか金目? お前が誰だか聞いている! 何回言わせるつもりだ!」

「あーあーあー。ギャーギャーギャーギャーうるせえな。……オレはシアング。雷鳴竜の子だ」

「雷鳴竜……? ああ、大臣が言ってたような」

嵐に巻き込まれてこちらに来てしまった、魔物がいると。最もそれは『竜』という崇高な生き物だから、この国でも魔物魔物と大騒ぎしなかったんだろう。

「そ。よろしくな、ルノ」

「どうして私の名前を?」

有無を言わさずに強制的に握手をされた。白と、褐色。肌の色もこんなに違うんだな。無意識にそう思う。

「うわ、冷て」

「お前の手が暖かいんだ」

「そう? お前が冷たいだけだと思うけど?」

「……。馬鹿シアング。先程の質問の答えは?」

「癇に障るなあ、その喋り方。ま、いいか。オレがここにきたのは、幽閉された王子ってのが気になって探したってのと──」

そういうとシアングはポケットからメモのような──間違いなくメモをとりだした。そこには走り書きで、『元気? ご飯ちゃんと食べてね』と書いてあった。

誰が書いたか、すぐに分かる。

「──チェリカ、か」

「そう。チェリちゃんから渡されてさ。『お兄ちゃんに会えたら、これ』って。あとこれも」

私の頭に、飴玉が三つあたる。

おそらく、あの走り書きからして、チェリカには余裕がない。どれほどのスパルタ教育をされているか、容易に想像できた。──それなのに。

私なんかのことを、気遣ってくれていた。

「──……ッ」

一瞬、視界が歪んだ。風呂の中で目を開けた感覚と同じだ。ゆらゆら、シアングの顔と手紙が歪んで歪んで、ぽつりと涙が零れ落ちた。

よく食べる子だったいかにもチェリカらしい、その内容が。飴玉が。何もかもが、張り詰めていた糸を切ったように、不意に肩の力が抜けた。

目の前にはシアングが焦った顔をしていたが、私にはもう、堪えることなど不可能だった。


「……落ち着いたか?」

やけに優しい声と頭を撫でられる感覚に、私は段々と状況を理解し始めた。そうだ。確か。

べたべたになった頬に自分で触れて、今度は羞恥に顔が赤くなる。ああ。私は初対面の無作法な男の前で大泣きしてしまったのだ。……恥ずかしい。

「離れろ!」

「そりゃ失礼。……まあ、そんなに元気ならもう大丈夫だな?」

「ふん! そうだ、元気だ。だからチェリカに伝えてくれ、もう大丈夫だから、お前も体に気を使って生きろと」

「……チェリちゃんにはちゃんと伝えておくけどさ。オレの心配でもあったんだからな? そこんとこ間違えるなよ」

「……は?」

「ま、元気ならよかった」

そういうとシアングは伸びをして、窓枠に足をかけた。……そんな。

「待ってくれ、まだ──」

「じゃーな。飯残すなよ。またなー」

そういい残し、シアングは窓から身を投げる。焦って私も顔を出すが、下のほうで翼が広がるのが見えた。

「なんだ……変なヤツだな、もう行ってしまったのか」

礼一ついえず、素直になれず。

変なヤツがいなくなっての安堵、そして心に残る小さな喪失感。全て混ぜて、安心したことにして、私はため息を一つついた。


ただ頭に残る優しい手の感覚が、なくなって少し寂しいと思ったのか、手が無意識に髪をくしゃりと撫でていた。

「あの後、お前と私はまたすぐに会った」

さく、一歩進むと辺りに立ち込める静電気の量が増えた。肌がぴりぴりと痛み、髪の毛がふわりと浮いた。

「次の日。朝っぱらから私を叩き起こして、何事かと思えばめちゃくちゃなものを詰め込んだサンドイッチ。……ああ、もう。パンが挟まっているのか、辛うじて上下にあるだけなのか。それすらもよくわからない、そして中身もでたらめだったな。何だ? 生クリームと干し肉というあの組み合わせは。しかも生のニンジンをあんなに詰め込んで」

ぶわ。

大気が膨れ上がる。あと三歩。右を出し、左を出し、そして右を出せばシアングの隣なのに。

「私がニンジンを引っ張り出したらお前は怒ったな。それが初めての喧嘩か」

右足。

「……なあ、シアング。私はお前にとって何なんだ? 何故私をあんなに構ってくれた?」

左足。

「私にとってお前はとても大事な人だ。チェリカと私を再び会わせてくれたし、毎日会いに着てくれたじゃないか。……私の退屈な日々は、お前のお陰で楽しいものにかわったんだよ」

ばちん、強い静電気が頬をかすめ、また小さな傷ができて血がにじんだ。

「……なんだ、近くで見ると辛気臭い顔に磨きがかかるなシアング。……私はもう、お前と離れたくはないんだ」


「シアング」


強い雷に身を焼かれるだろうか。それも天罰かもな。


来るべき衝撃に目をつぶっていたのだが、いつになっても雷が落ちることはなかった。ルノはシアングにしがみ付いたまま、ゆっくりと顔を上げる。

ふたりを囲むように回る、雷の渦がぱちぱちと音を立てた。

ゆっくり上げた視線の先のシアングの表情は、相変わらず失われたままだったが。

「……私を拒まないのか?」

返事はない。

だが歓喜がありありと心に注がれてくるのを、ルノは実感していた。

「私はここにいていいのか?」

返事は、ない。

「……返事がないということは、可、ということでとってしまうぞ、シアング。なあ、私は──!」

まるで、それ以上聞きたくない、とでも言うように。

「あ、……ッぐ、……うう」

メリメリ。嫌な音を立てて骨が軋む。

「う、……う……ッ」

自分は今、首を絞められているのだ。息苦しさと骨の軋むおとで、実感した。

苦しい。

思わずシアングの首を掴む右腕に爪を立てるが、そうしたとこでその力は緩まなかった。

「シ、……ア、……」

朦朧とする意識の中で、名前を呼ぶために口を動かす。潰れて掠れた声しか出なかったが、贅沢を言っている場合じゃなかった。

「……は、……あ、グ……」

(さあ、何と言おうか)

ぐらりと足が浮き、全体重がその首にかかり圧迫感が増した。

(長くは喋れないな)

ぐらりと目の前が歪んだ。そんな中、頭はどこか冷静にそう思った。急がなければ。だが、何を言おう。何を言えばいい? シアングの目を覚まし、そうしたら、私は……

(私は、どうなってもいい。)

そう思い、まっすぐに前を向いた。

(何だ、近くで見ると男前じゃないか。普段の間抜け様がもったいないくらい……)

少しだけ誇らしげな気分になって、右手から手を離し、シアングの首に両手をまわした。──絞めるわけではなく。

優しく抱きしめるために。

「……すま、な……い」

そうして、優しく抱きしめた。久しぶりに触れた体温は随分と冷たくて、何だか爬虫類のようだ。ああそうだ、コイツは竜だったんだ。小さく微笑んでから、ルノは瞳を閉じた。

(もう少し)

もう少し力をこめて、鈍い音を立てて首の骨が閉まれば、終わる。


ドス!


「……は、はあ、え……?」

何かが刺さる鈍い音と、地面に落とされた音が混じる。急激に楽になった呼吸であえぎあえぎ、顔を上げる。ぱた、上げた顔に何か生暖かい、鉄の香りを纏うものが流れ落ちた。

「はあ、はあ、シ、シアング? 何を、──何をしている!?」

見上げた先には、先程までルノを殺そうとした右手に深々とナイフをつきさした、シアングの姿だった。

ぼたぼた、ナイフが引き抜かれるのと同時に血が溢れ、そして痙攣する右手首に思い切り突き立てる。何度も、何度も。

無表情だった顔には脂汗が浮かび、苦痛に満ちた表情があった。

「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ……」

ぐさ、ぐさ、ぐさ、ぐさ。

「やめろ、やめろ、やめろ!」

ぶちぶち。何かが切れる嫌な音。

「やめろ、やめろ! 逃げろルノ! オレから離れろ!」

そう叫ぶシアングは、もう先程までのシアングではない。安堵とともに恐怖が生まれ、左手を止めさせたくてシアングに飛びついた。

「シアング、よせ! 私は大丈夫だから!」

「ルノ……」

シアングが手を止めた瞬間、真っ赤に濡れた右手が、まるで別の意思を持つように、ルノに向かって動く。それをすぐに察し、手の甲にナイフを突き立てて地面に手を繋ぎ止めた。

「う!」

「や、やめろ、馬鹿者! お前、何をしているか分かっているのか!?」

「……わかってる」

びくびくと痙攣する右腕、痛みを堪えながらもシアングが答える。

「もおう、この腕はオレの意思じゃどうにもなんねーんだよ」

「だからって……!」

意思と反して動き、そして痛みを感じる。……切り落とすことはできないとシャインは読んでいたのだろうか。

すっと顔を上げたシアングの顔は酷く顔色が悪く、こんなに出血があるから当たり前だろう。体温もさらに下がっている。

「近寄るな。……何するかわかんねぇ」

「だからって、お前がこのまま死んでいくのを見ていろといのか!? 血が、こんなに!」

「いいから離れろ!」

「……やっと会えたのに! もうあんなの嫌だ!」

「……ルノ」

「今なら、レインの気持ちがよくわかるよ。あんな別れかたして、やっと会えたのに、またあんな思いをするのは嫌なんだ! お前を死なせない!」

「……オレの手は、お前を殺すよ。ほら、下がれ!」

「叫ぶな、また血が!」

「下がれって言ってんだよ!」

「断る!」

「ルノ! 早く、……え?」

ミシミシ、ナイフに繋ぎ止められた右手が、ゆっくりと黒い鱗に覆われていく。指が木の枝のように折れ曲がり、爪が伸びる。

「う、あ……あああああッ」

シアングが咆哮した。ルノの頭はその変化に関する情報を即座に引っ張り出していた。


一族制である雷鳴竜は、『竜』になることができるのは額に印をもつその長だけだ。それは他のものの服従の証でもあり、一族であっても竜は唯一つである、ということを現しているのだそうだ。

だが、印をもつもの以外も、竜の血を引いているので竜になることはできる。現にシアングは竜の翼を自由に使えた。ただそれには一つだけタブーがある。

必要以上に──すなわち竜そのものになろうと血に頼ると、抑制が効かず、理性を飲み込まれてしまうということ。

人間の心を失くし、神聖な竜としての心を持つこともできず、ただ荒ぶる海のようなケダモノになってしまう。

そしてそれは今まさに。

(シアングが──飲み込まれてしまう!)

はっと顔を上げた先には、冷たい目をしたチェリカがいた。

(チェリカ、どうしたらいい? どうしたらシアングを助けられる!?)

心の中で助けを求めても、彼女は何の反応も示さない。──いや、こちらを見ているかどうかも曖昧なのだ。だってチェリカとルノには、相当な距離があったから。

だがしかし、ルノはチェリカの視線がこちらにあるように思えてならなかった。そして、何かを示していることも。

(なんだチェリカ? なあ、どうしたらいいんだ?!)

「う、あ……ああああ……!」

はっとしてシアングに視線を戻すと、背中の辺りの服が裂けて翼が飛び出していた。いや、翼自体はすんなりと出ているものの、付け根と目からは血が流れている。そして、右腕からは止め処なく。

血に濡れた腕はほとんど鱗に覆われ、異形のものへの変化が確実になっていた。

「グワァアアアアア──!!」

(声が!)

上がった声は、もう人間のものではなくなっていた。竜だ。竜になってしまう。それも、気高い野生の生き物ではなく、理性のない化物に。

もう一度見上げた先に、チェリカの無表情な顔があった。違う、ほんの僅かだが──いや。傍にある磨きぬかれた水晶の柱。其処に映る彼女は、悲しげな表情をしていた。

それを見た瞬間、迷いは消えた。


「しっかりしろ、馬鹿者!」

無我夢中で抱きしめて、傷口に治癒魔法をかける。だが、かけてもかけても、傷は一向に塞がらない。

「アアアアアアアア!」

「お前がどこまで張り詰めていたか、私は知らなかった! 妹のことも、先程だってお前はまた苦しんだんだろう? 私に手をかけたことを苦痛に思ったんだろう? でも、これからは傍にいるから! 飲まれないでくれ!」

塞がらない傷口に歯を食い縛る。どんどん力だけが抜けていく。淡い光が消えていってしまう。

(負けてたまるか!)

懇親の力をこめて、祈る。──まだ共に居たい!

ぼろ。

侵食していた鱗が剥がれ落ちた。

「ウアアアアアア……ッ」

「お前はシャインにいいように使われて終わりなのか? そんなことないだろう!」

ぼろ、ぼろり。

「私とずっと居てくれるって、約束しただろう!」

「アァアアア……あ、ああ、あ」

しゅう……

地面に落ちた鱗が、煙を上げて燃えていく。

「あ、うあ、うう……」

「うわ!」

シアングの体重がかかってきて、ルノも疲労していたため受け止めることができず、二人は血溜まりの中に倒れこんだ。

傷は治せても、出てしまった血は戻らない。

慌ててシアングの様子を伺うと、貧血のためか酷く青ざめた顔をしていた。

──だが、先程までの暴走の気配はない。


「よかった……」

彼の重みにより起き上がれないが、だがしかし安堵が胸に押し寄せてきた。

シアングは気を失ってしまったのか、瞳を閉じ深い呼吸を繰り返すだけ。

(一人で何を考え込んでいたんだか)

そっとその冷たい身体を守るように抱き寄せて、上を見上げた。

この場から離れられない以上、もう自分にはただ祈り続けるしかできないのだ。

真っ赤な血溜まりの中で力がゆるゆると抜けていくのを感じながら、ルノは瞳を閉じた。







「おや?」

シャインはトアンたちが近づいてくるのを見ながら、異変を感じ取った。

「……シアングが、開放されちゃったみたいだね。案外もった方だ。下手してたら廃人だし……」

小さく呟くと背中に背負った大剣を抜く。しゃらん、澄んだ音が響いて青い光が舞った。

「シャイン、もうこんなことはやめよう! もう許せないよ!」

「許せない? なら、どうするの?」

必死なトアンはちらちらとチェリカ、レイン、そして姿は見えないけど下にいるシアングを見ているのだろう。

「仲間の影に囚われてながら、僕に殺されにきたんだね」

「ちが「シャイン」

トアンの声を遮って、アルライドが静かに口を開いた。

「……あれほど言ったのに、レインに手を出したね」

「約束はしてないよ」

「どうするつもり。レインを殺させる気?」

その静かな声に。

びりびりと頭の奥に恐怖が走り、思わずトアンはグローブの下で汗をかいた手を握り締めた。

「さぁ、ね。僕はスノゥが欲しいだけだから」


容赦なく鞭が唸り、クランキスは舌打ちをした。ルナリアを庇いながら戦うのは正直辛い。おいてくるべきだったか、今更ながらの誤算に頭が痛くなったが、そんなことにかまっている場合でもない。

「ウィル! あいつの動きを止めろ!」

狐の面に表情の半分を隠したレインを指差すが、ウィルはゆるゆると首を振った。

ただの、鞭だ。棘もなにもついていない。

だがそれは想像以上の威力で、打たれた場所は蚯蚓腫れでは済まされない。内出血によって生じた痣が、ウィルの捲くった腕には沢山できていた。

「近寄れねえ」

「違う! お前は怖いんだろ! レインはそんなにヤワじゃない! だから……」

「駄目だ! オレは、仲間を傷つけたくない! 操られてるだけなんだろ!」

「な……」

「だから、クランキスさん。ちょっと下がっててくれ、オレがやるから」

迷いがないわけではない、だがそれ以上に。

彼を動かしているのは……覚悟と期待。

「レイン、もうやめようぜ」

そっと問いかけるが、反応はない。そのとき。

ミシ……

突然軋んだ音を立てて、レインの背後の空間がびしりと割れた。大きな亀裂から、ぬ、と真っ黒い手が出て、すっとレインのほうに伸びていく。

──味方じゃない。自分にとっても、レインにとっても。反射的にそう思った。

「影!」

クランキスとはじめてあった時に見たものと同じだろうか。いや、そんなことを考えるより先に、ウィルの足は踏み込んでその手を弾いていた。ところがそれは黒い粒子となって拡散し、手ごたえがない。

「ウィル、それは普通の武器じゃ殺せない!」

「え?!」

「俺の剣や魔法じゃないと殺せないんだ! だから下がれ!」

「嫌だ! レイン、レイン早くこっちに! あれはきっとお前を狙って──ひっ!!」

手を差し伸べた矢先、ウィルは悲鳴で息を飲み込む羽目になった。レインの背後にある亀裂からぬるりと出てきた顔は、今まで見てきたものとは違う。あの時見たものは確か、顔がなかったはずだ。

それなのに、そこには顔があった。

閉じた目、閉じた唇。眼球の膨らみも感じられるその瞼と唇は、黒とは相反する色の白い、白い糸によって、縫われていたのだ。

それは綺麗な縫い目ではなく、子供が適当に縫ったような縫い跡だった。

「な、なんだよ……」

「──……──……」

影は声にならない声を上げると、レインの足に手を巻きつけた。

「──……」

その影の顔を認めたレインの顔に、表情が生まれた。──それはなんと、嫌悪でも恐怖でもなく、静かな喜び。

「くく……」

「レ、レイン!? 何やってんだよ!」

「糸が切れてる……治してやる……」

す、その細い指が耳の位置を掴む。レインは腰のポーチから小さな針を出し、楽しそうに笑った。

──何をするのかは、即座に予想できた。

「やめろ!」

「……。」

手が止まる。やっと、声が届いた。

レインはゆっくりとその瞳にウィルを映し、薄い唇に酷薄な笑みを浮かべて言い放った。

「お前も殺して、縫ってあげる」


 judgment──朽ち行く菩提樹と囀る蝶


それは──ゾッとするほど、美しい声だった。


息を呑んだそのとき、レインのすぐ横の折れた柱──水晶でできた柱──に、一瞬何かの人影を捕らえた。だがそれはあまりにもつかの間。すぐにそれは消えてしまう。

(何だ、今の──)

ジジ……

甘く霞がかったように水晶が濁る。

(誰だ……?)

水晶の壁の向こうに、誰かが居た。誰かが何か必死に伝えようと、叫んでいた。……気がする。

(いや、そんな場合じゃないって。しっかりしろオレ!)

敵意がない。そういいたくて槍を下げる。一方のレインはだらりと下げた左手に鞭、右手に針。

(とんだ女王様だぜ、ホントに)

後ろにうごめく影は害はない、と判断しあまり見ないようにする。そして不思議なことに、レインの足は動かない。俯いて表情も見えない。様子を伺っているんだろうか?

「な、なぁ、レイン」

その声に反応したように、ゆっくり顔をあげる。

ザ……

「!?」

頭にノイズのような音が走り、一瞬目の前がセピア色の世界になる。黒い山のようなところで、小さい子供が背を向けている……

『…は…』

誰かの声が一瞬聞こえ、だがすぐに止まってしまう。レインが、ゆっくりゆっくり顔を上げていく。

ザザ、ジジジ……

『は、……はは』

再びセピア色の世界。小さい子供の姿とレインの姿が重なっていく。子供の高く、澄んだ声。

ウィルの脳裏で警報が鳴った。心臓が早鐘のように高鳴り、『危険』を伝える。

(この色の世界……レインの過去の色……!?)

喉が張り付いて声が出ない。そしてついに、レインが完全に顔を上げた。子供の姿が──完全に重なる。

ザザザジジジジジジッ!!

『あははははははは!』


一際激しいノイズの後、ウィルは目を瞠った。目の前に広がっていたのは、セピア色の世界。黒い山の一部が、ゆっくりと動いた。

そして。

「……うッ!」

思わずこみ上げてきた吐き気に口を手で押さえる。吐き気を催すなんて久しぶりだなんて悠長に考えているヒマはなかった。

……信じられない。

黒い山だと思ったそれは、全部人間の死体で。目が、口が。縫われていた。やったのは誰か。……わかっている。目の前にいる、子供だ。

そして子供の正体も。

「……レイン。ここは、お前の過去か?」

子供はそれに応えず、足元の死体に視線を落とす。そしてその場に蹲り、

「……やめろ」

「ふふ、くすくす」

「やめろ」

「ふ、あはは。」

「やめろ!」

「あははははは!」


『その子は、壊れているの』



ふわりとした優しい声にばっと振り返るも、誰もいない。ただ、黒い山が広がっているだけ。

「だ、誰だよ。誰なんだ!?」

──返事は、ない。沈黙の合間にぶち、しゅー、ぶち、というレインの作業の音が聞こえてきて、ウィルは頭を抱えた。

「畜生……気が狂いそうだぜ」

『……そう感じるなら、あなたはまだまともなのね』

「また! ……なんだよ、幻聴か? 誰なんだよ! 頼む! 姿を見せてくれ!」

自分でも正直泣きそうな情けない声で叫ぶ。と、頬に柔らかい風を感じた。

振り返ると、薄い桃色の花びらがセピアの中でほんのりと輝き、一つに集まっていた。──それは、人の形になっていく。

「な……なんだ?」

『はじめまして。あたしに会うのは初めてよね』

優しげな声とともに、花びらが散る。──すると其処には一人の少女が立っていた。

ゆるくウェーブがかかる髪は、花びらと同じ桃色。アルライドと同じ瑞々しい深緑の眼差し、そしてぴんととがった耳。──スイと、同じだ。

彼女が何者なのか、ウィルの頭はすぐに理解をした。

「──スノゥ、なのか」

敢えて疑問ではなく、確信の意味で語尾は上げなかった。少女はクスリと笑うと小さく頷く。

『そうよ。さすがウィルね、いい勘してる』

「どういたしまして。あんたはスイと同じ気配がするし……え? 何でオレの名前知ってるんだ?」

『あたしは、レインの心の中に住んでいてずっと見ていたわ。生まれ変わりって話聞いてたでしょう? でもそれはレインがあたしって訳じゃなくて、レインの魂の隣にあたしが居たってことなのね。……理解できるかしら?』

「……。要するに二重人格ってことか?」

『例えが悪いけど、そう言うのが一番近いわね』

「ふぅん……スノゥ。ここは何処なんだ?」

見ていた、ということになんとなく気恥ずかしさを感じて、ウィルは頭を振った。すると少女は見抜いたように笑う。

『ああ、あなたが迎えにきたことも見ていたわ』

「どこだって聞いてるんだよ!」

『ふふふ、怒らなくていいじゃない。あなたはさっき自分で言ったわ。ここはレインの過去かって』

「じゃあ、この光景は事実……?」

『事実というわけじゃないけど、ここにいるのは今までレインが殺してきた人間たちよ。言わば罪悪感の中ね』

「じゃあ、レインは何やってるんだ?」

『縫ってるの。見ればわかるじゃない。案外馬鹿ね』

人を小馬鹿にしたようなつんとした眼を向け、少女はクツリと笑う。

「ば、馬鹿って言うなよ!」

『ふふふ、そのくせすぐ熱くなる。駄目よね、子供は』

「……、スノゥ!」

普段のウィルならあと二、三回は突っ込みを入れているところだが、今はそんな気分ではなかった。真面目にまっすぐとした視線に、少女はごめんなさいといってまた笑う。

「レインは、何で縫ってるんだ?」

『怖いから』

「怖い?」

『そうよ。死に逝く人間の目が怖いから。断末魔を紡ぐ口が怖いから、自分の存在を聞き取る耳が怖いから。怖い、とっていう理由以外、ないわ』

「怖い? ……でも、このころのレインにはハクアスもアルライドもついてたはずだ。それでも不安なるのか?」

『だからよ。親しい人の前では平然に振舞っていながら、心の最奥は悲鳴を上げていたの』

まるで、自分の痛みのように。

スノゥは小さく俯いて、そして壊れた。と言った。

『でも、このクセはすぐに無くなったわ。アルライドの背中を追っかけているうちに、自分もしっかりしなきゃ。そう思った』

「それがどうして今、出てくるんだ? ──シャインは人の心を何処まで操れる?」

『操る、というのはちょっと違うわ』

「何だって?」

『厳密に言って、操るということではなく従わせるの。シャインは人の心の最も見られたくない出来事を暴き出すのよ。そして隙を作ったときに、たった一つだけおまじないをかけるの。『僕の言うことを聞けば、楽になれる』ってね』

「そして、自分の協力をさせるってのか。……チェリカは? あいつもそうなのか?」

『彼女は違うわ。シャインは彼女を精神的に不安定な状態に追い込んだの。ここまでは同じなんだけど、でも誤算がある。その身体に眠るものを呼び出してしまったのよ』

ザァ……

生ぬるい風が頬を撫で、ウェーブのかかる髪を揺らした。

『シャインは、その眠るものを自分で従えてると思ってるわ。そんなこと、できやしないのに』

「……じゃあ、今チェリカは何の意志で動いてるんだ?」

『……。一ついえるのは、このままじゃ皆殺される。他でもない、『彼女』にね』

「スノゥ! どうしたらいい!? レインを助けて、皆を助けるには!」


『……ここにきたのが、あなたで良かった』

「どういう意味だよ?」

突然言われた言葉に、ウィルは首をひねる。

『そのままよ。もしもあなた以外がきてたら、あたしの言葉は分からなかったのよ』

「なんでだよ。スノゥがエルフ、だからか? でもスイの言葉だってオレ以外もわかってたし」

『あのひとは特別なのよ。そうねえ、あなたはまだ、自分自身を知らないのね。……そのうちわかるわよ。レインが呼んだのも、どうしてあなたなのかしらね……』

うわさ話を楽しむ少女そのままの姿で、スノゥは笑った。茶目っ気をこめたウィンクも欠かせない。もとい、それが少女心とかけ離れているウィルにはわからなかったのけれど。

『さて、ウィル。そろそろ行くわよ』

「行くって……レインはどうするんだ?」

『大丈夫よ、ちゃんとついてくる』

スノゥはしゃがみ込んで子供の頭を撫でた。少年は作業の手を止め、スノゥを見上げる。少年の手元の遺体の顔はでたらめな縫い傷だらけで、それが逆に残酷さを出していた。

「もう一つだけいいか?」

『なあに?』

「あの……シアングとチェリカがつけてた狐の面なんだけど」

「ああ、シャインの服従の面よ。今、レインもつけてるわね」

「そう。だから、服従をどうといたらいいんだ? しかもついてくるって。その言い方じゃ、まるで……」

『あなたの予想で当ってるわ。あたしがレインの体を動かすの』

そういって、もう一度少女は茶目っ気たっぷりにウィンクしたのだった。


「トアン」

アルライドが右手で合図する。それを見て、トアンは彼の右側にたって剣を構えた。狙うは、シャイン。

「……アルライドはどうかとして。トアン、僕にかかってくる気? 前に負けたでしょう」

「でも! 今度は負けない!」

剣の先にシャインの嘲笑するような笑みを乗せて、叫ぶ。隣のアルライドがトンファーを手に傍に居るのが非常に心強い。

「アルライドさん」

「怖かったら下がっててもいいよ? 君は、ひとを殺すことができないでしょ」

「……大丈夫です」

「正義の代理人として剣を振るうことは、とても愚かで驕りだよ。それもわかってる?」

「はい」

「それならどうして剣を持つ?」

「……。」

トアンは、答えられなかった。どういったらいいか分からなかったのだ。自分は皆を守りたい、でも皆は自分で自分を守れる。

それでも。

その気持ちが表せなくて、アルライドを見た。

「よし」

「……え?」

「いくよトアン。いろいろ悩んでるみたいだけど、まっすぐに考えな。……まあ、それだけ強い目ができれば大丈夫」

にこり。

その自信に満ちた笑顔は、とても戦場で見せるものではない。そう、それが彼の本質だ。どこか抜けているようで、隙がない。そして必ず笑うのだ。安心させるように。

「──アルライドさん、あなたは戦っては駄目です!」

「どうして? 忘れえてないかい? 俺はレインの背中を守ってきた──『グングニル』の一員なんだ。今更血が怖い、なんていわないよ」

「でも!」

「……おしゃべりは済んだ?」

はっと視線を戻すと、シャインは不機嫌そうに眉を寄せていた。

「うるさいんだよ、君たち。彼女の耳障りになる!」

かん、ブーツが床を蹴る。あっという間に距離を縮めてきたシャインに、トアンは一瞬身を引きかけるがその場に踏ん張った。

「!」

キィ──!

均衡した力が火花を散らし、耳障りな音が耳を撫でる。間近で見るシャインの笑みに、トアンは歯を食い縛ると力で押し返し剣を斬り上げる。そうしてできた隙に剣を突き出そうとするが、彼の反応は早かった。

「やるね」

剣を蹴り飛ばし、逆に突き返す。

(この距離じゃ──逃げられない!)

ちり──ん!

澄んだ音と共に、シャインが跳ね飛ばされる。アルライドの蹴りだ。

助かった。そう思った途端、背中を冷たい汗が流れ落ちた。

「大丈夫?」

「う、うん」

くるんと一回転し、隣にアルライドが着地する。そのまま地面を蹴り、体勢を崩したシャインへと突撃していく。

(早い)

「く、そぉ!」

向かってきた月千一夜をトンファーで受け止め、腹部をもう一つのそれで殴り上げる。

ぐ、くぐもった悲鳴を上げてシャインがよろめく。

「邪魔……するな……」

「俺には敵わないよ、シャイン。さぁ、今すぐ降伏しろ」

「ふざけるな!」

シャインが叫ぶ。爆発的に大気が膨れ上がり、呼吸を圧迫した。

「……僕の邪魔をするな! もう少しなんだ!」

ヂ、アルライドの頬が浅く裂ける。彼が退いたのをいいことに、シャインは視線をトアンに向ける。

「お前から死ね!」


不意に、上げた視界に、チェリカが映った。紅い瞳がきらりと輝き、人間にはない神秘的な美しさを出している。

その瞳から、涙が一粒零れ落ちていた。


「うわあああああ!」

キ──ンッ!

自分でも何をしたのか、分からなかった。

ただ泣いている彼女を見た瞬間、心の奥が膨れ上がったのは感じた。

キンッ……キン……

高い澄んだ音を立て、真っ二つに折れた青い刀身が地面を跳ねる。

「月千一夜が……折れた……」

きょとんとした口調でアルライドが呟くのを聞いて、トアンは漸く状況を理解した。

自分は、へし折ったのだ。シャインの誇りともいえる最高の刃を。折れた剣は見る見ると青い輝きをなくしていき、じんわりと黒くなっていく。

「折れた……」

自分の剣に視線を落とす。これが、今月千一夜を折ったのだ。


「い、いざよい……十六夜!」


シャインの震えた叫び声に、アルライドがトアンの隣で眉を寄せた。

「十六夜! よくも……」

「十六夜って言うんだね、その月千一夜。……シャイン、君はもうそれが折れた。その状態で俺たちと戦えるの?」

「もう少しなのに、もう少しだったのに! あと一人で、何もかもうまくいくはずだった!」

折れた剣を握り締め、シャインが吼えた。

「僕はこんなところで負けられない! やっと『女神ハルティア』と会えた! やっとここまできた! あと一つ! そのためにこの15年間、僕は、僕は!」


judgment──The last emperor


「あああああああ!」

半狂乱になりながら、折れた剣で向かってくるシャインに何度も刺されそうになりながら、必死に弾き返す。実際何度か弾き損ねたのだが、其処は全てアルライドがカバーしてくれている。

だが、彼の戸惑いが反応の遅れから読み取れた。

シャインの目的──それを、トアンは全く知らない。世界制服でもするつもりにも思えない。アルライドは知っているのだろうか。知って、そしてこのまま彼を倒していいのか悩んでいるのだろうか。

「貴様がいなければ! 貴様らが邪魔しなければ!」

「わ、わあ!」

折れた剣なのに、爆発的に速度と殺傷能力が上がっている。切り裂かれた服の端がひらひらと飛んでいき、髪の毛が僅かに切られた。

(それだけ)

ィン!

(それだけ……背負ってるものが大きいってこと?)

斬り上げた後、剣を構えて一拍置く。アルライドが踏み込んでシャインの反応を奪った瞬間、右足を踏み出した。

(でも、オレも負けられないんだ!)

ぎり、奥歯をかんで剣を振り上げる。勢い良く振り下ろした瞬間、トアンはシャインの悔しさに揺れる瞳を見た。



──うらぎられた

『どこだ! 出てこい!』

『やめて、そのこはまだ──きゃああ!』

『お母さん! おかあさ──……!』

やめろ

『国王を守れ! 我々の誇りにかけて王宮を守るのだ!』

『くそお……妖歌の奴等め! ……ぐあ!』

……やめろ!

人が、死んでいく、

人が、死んでいく。


守るべき、民が死んでいく。



──そもそもの原因は、そこが互いに競い合ってきた小さな三つの島国だったことだ。だがそれでも表立った争いはなく、平和が続いていた。

それが崩れたのが、15年前。たった一人の男の、覚醒だった。

男の名は、灯呂 紬。島国の一つ、魔族と心を交わす『妖歌』という特別な者たちが居る国の、名家の男だった。

彼は時の守護神『ムククヒル』の魂を持つもので、彼が『ムククヒル』に覚醒し強大な力を得たことで、均衡状態にあった三つの国のバランスが大きく崩れた。

僕は、彼が覚醒するほんの少し前に、彼に病を治してもらっていた。感謝もしていた。だが、彼を脅威に思う声は、日に日に高まっていった。

ある日、僕の前に現れたのは、紬を脅威に思った三つ目の国の使いだった。

『アカリロ ツムギ を生かしてはいけない』

ツムギ、それは紬のことだ。使いの声は訛っていたが、僕にはそれがわかった。

『ですから、協定を結びたいのです』

隣に座っていた僕の父は、それを聞いて少し悩んで、深く頷いた。

父は、国を守ることを考えていた。父には、紬の存在は民の命を脅かす邪悪な兵器にしか思えなかったのだろう。僕はなにも言えず、俯いて床を見ていた。

父は、三つの島国のうちの一つ、『サーレルガレル』の代十五代目の国王。


協定の親書をもった使いは小さく笑うと、さっさと帰っていった。

そして次の日のこと。

三つの島国のうち、サーレルガレル以外の二つが協定を結んだという知らせが入った。僕の国に協定を結びにきたあの国は、紬の国の配下に下ったらしい。最初から、僕等ははめられたのだ。あの使いを送った国は、どうせ圧力をかけられていたとでも言うんだろう。この国を攻める代名詞が欲しかっただけ。

そして、紬が居たあの国の主も、大層な野心家だ。この国の土地が欲しいんだろうか。

──それでも僕は、どこか余裕だった。父と国民は動揺していたけれど、僕は信じていた。

僕の病を治してくれた、紬、その弟冬火、妖魔のシロ、真華、そして……。

あの優しかった彼らが、国の手先に下って攻めてくるはずがない。なにかいい策を出してくれる。そう信じて、いた。


──国が、家が、焼けていく。

僕はその光景が信じられなかった。

人が、焼けていく。

僕は目を伏せて、それを否定した。

戦争の最前線で攻めてきたのは、何よりも信じていた冬火とシロのふたり。

『兄貴は殺させやしねぇ!』

そう叫んで剣を振るう彼が、信じられなかった。

ただそのときは、怖くて怖くてしょうがなかったのを覚えている。

『こちらへ!』

唯一の友達だったひとが、人間ではなかったのだけれど、必死になって僕の手を引いた。引かれて走りながら、僕は少しだけ泣いた。その涙は、恐怖なのか悔しさなのか、分からなかったのだけれど。


走って走って城に飛び込んだとき、父が一突きにされて絶命した瞬間を見た。殺したのは、なんとこの国の大臣で、父の親友だった男だった。

あなたが選択を間違えなければ、そういって大臣はゆるゆると首を振って、父の体から剣を引き抜くと自分の喉に当てた。そしてそのまま、一気に引き裂いた。

──ああ。

大臣がその行動をとった理由も、痛いほど分かった。父がその行動をとった理由も、痛いほど分かっていた。

これは正しく、この話の末路に相応しい結末だろう。異国の者に奪われるよりは、親しかった者に奪われたほうが良かった。そう考えた自分に、涙なんて流れなかった。


いや、まだ結末ではない。


『お前は、生き残れ。生きて全てをこの国の全てを、できれば遠くまで広めてほしい』

僕はそういって友達の手を振り払うと、一目散に駆け出した。まだ民の僅かな生き残りは捕まっている。彼らにどれだけ罵られても構わない。僕を殺して。だから、彼らの命は助けてもらえまいか。ただそう言う為に走った。


『成程、こんなに小さいのにいい度胸だ』


父の最後と僕の覚悟を震える声で言ったそれに、紬の国の強欲そうな指導者はにたりと笑っていった。

『いいだろう。ただし、お前は死んでもらうぞ。首をもらう』

『構わない』

『そんな! あなた様に死なれたら、我々の誇りが……!』

てっきり罵られると思っていたけれど、民たちの言葉はとても温かかった。

誇り、か。

僕は小さく笑って、指導者に向き直る。大剣が振り上げられて。一瞬の焼け付くような痛みと共に僕の首は飛んだ。跳ね飛ばされて転がったとき、僕は視界の端で自分の体が崩れ落ちるのを見た。

『ははははは! これでこの国は私のものだ!』

ああ、僕は死ぬ。でも、これで少しは民の役に立てた。父の行動の責任を、少しでも償うことができた。

朦朧とした意識の中で、もう痛みも何も感じない中で、僕はそう思う。指導者の声が、やけに耳障りだと感じた。

『さてと、こいつとの約束だ。……こいつらを殺せ。できるだけ、痛みは少なく』

──何だって?

『そんな! お前はこの方と約束をしたはずだ!』

『ああ、したさ。でもそんなの守る馬鹿がどこにいるんだ? だが、せめて苦痛を和らげてやる』

『貴様!』

『……ふん。気が変わった。こいつら全員磔にして野晒しにしろ。』

そんな。

そんな。

──畜生!

僕が迂闊だった。僕が愚かだった。

悔しい。悔しい。恨みが募っていく。

憎悪が心の中に染み渡り、目の前が真っ赤になった。

再び気がついたとき、辺りは一面の焼け野が原だった。

ああ、ここは死後の世界か。それとも僕は生きているのか? そう思った視界の端に、見慣れた王宮の外壁の慣れの果てを捉える。

ここは──

炎が燻っているわけでもないが、何処かしらにも戦火の痕跡が見える。地面に染み付いた血は、もうどす黒く変色していた。

──あれから、どれくらい時間がたった?

何も分からないまま、ただ歩く。

そうしているうちに、開けた場所に来た。周りの跡から、そこは嘗ての王宮の中心部であったことを知る。

そこには、夥しい数の十字架があった。どれもこれも簡素なつくりだったが、眠る者を失った悲しみがひしひしと伝わってくる。

と、その十字架の一つに手を合わせる人影を見つけた。

『あれは……』

その後姿を見て、置いて来た友達だと知る。彼は生き残ったのだ。そう思って、なんとなくだが頬が綻んだ。

『タ……』

声をかけようとしたが、口は名前を全て呼べなかった。

彼が手を合わせている墓に刻まれた名前を見て、全て知った。

──そうか。

『待ってて。必ず皆を全て連れ戻すから。この国を、守ってみせるから』

そう呟いて、僕は彼に背を向ける。

墓に刻まれた名は、『シャドウ・サシュリー』。サーレルガレル国の第十六代目の主になるはずだった者。そう。僕の名だ。


シャドウは死んだ。このときから、僕はシャインと名乗ることになる。


月千一夜を手にとって、僕は願いを叶えるんだ。皆を、生き返らせるんだ。

そのために、僕は還ってきた! それが、僕の──!


「こんな……ゲハ、こんなところで……」

ぱた、血が滴り落ちる。肩口から切り裂かれた傷口から、血が、流れた。

トアンは、呆然とするばかりだった。

今のが何かは、即座に分かった。シャインの過去だ。彼の瞳を通して、トアンは彼の過去を体験したのだ。

(……え)

彼の感情に、波があることは分かっていた。14、15に見える彼の精神は、それに見合っていない。どちらかというともっと幼い。

彼は、死んでいたのだ。

(ツムギさんの名前が出てきた……。ツムギさんは言ってた。戦争があって、その結果弟と決別した。戦争、戦争……。まさか、それって、シャインの国との?)

ここに来て彼らの話と繋がるとは思わなかった。混乱する頭をぶんとふり、そんな場合じゃない。と考える。

(違うだろ! 死んでたんだ!)

アルライドやレイン、ウィルの存在で死というものは希薄に感じていたが、ここで漸く頭が冷えた。

(15年も昔に、シャインは死んでた! それなのに、どういうわけか還ることができて、──人の命を助けるために、こんなことをしてきた)

それは、正しいとか正しくないという問題ではない。だけれども。

「トアン」

思考のループに巻き込まれそうになったとき、アルライドがこちらを見た。


──わかっている。彼が言いたいのは、迷うな。その一言。

何のためにここまできたの。また迷うの? その瞳にそういわれているようで、でも逸らすのは逃げになるようで、トアンは唇を噛締める。

(シャインに──止めを)

ゆっくりと剣を振り上げた。アルライドが強い瞳で見ている。やらなくては。


手が、震えている。


「駄目だよ……」

力なく下げた腕を見て、アルライドの瞳が険しくなった。

「駄目だよ、もう一度あんな苦しみ、負わせちゃだめだ。そうしたらまた、シャインは全てを恨む。駄目だ、駄目なんだ。他の方法を探さなきゃ……」

「方法なんてない」

「!」

「シャインは、自分の誇りをかけてここまできた。今更和解しろっていうの? それこそ最大の屈辱だろうね」

「アルライドさん、そんな!」

「……見損なった?」

長めの黒髪に見え隠れする瞳。澄んだそれは、だが曲がってはいない。

「俺は、君が考える優しいひとじゃない。俺は殺すことは厭わない。俺はただ、スイの魂をもつってだけで、中身はまだ、大人なんかじゃない」

「……でも!」

「君がやらないなら、俺がやる」

「アルライドさん!」

この時初めて、トアンはアルライドの横顔に僅かな迷いが滲んでいるのが見えた。

「アルライド……さん……」

「……まだだ!」

掠れた声と一緒に、トアンたちは弾き飛ばされた。無様にしりもちをついただけで体に傷はなかったが、咄嗟のことに頭がついていかない。

その目の前で、シャインは折れた剣を支えにして立ち上がった。恐らく最後の力を振り絞って跳躍し、チェリカの隣に崩れ落ちる。

「……ル、ティア……さ……ま」

ひゅーひゅーという音が混じる声をあげ、地面を這って、長い杖を持ったチェリカの足に縋りつく。慌ててトアンとアルライドも後を追い、二人に駆け寄っていく。

「力を……力、を……貸し、て……くだ……」

チェリカはそれを、感情のない瞳で見下ろした。そしてその口元に小さな笑みを浮かべる。

受け入れられた、シャインの顔に希望が広がった瞬間──。

「ぐああああ──っ!」

シャインの悲鳴が木霊する。チェリカは持っていた長い杖を、彼の体に突き刺したのだ。

「チェ……リカ?」

「うあああ、ああああ!」

「チェリカ! 何を!?」

思わず足を止めたトアンを、チェリカがゆっくりと顔をあげてみた。


──紅い瞳の奥で、確かな殺意の炎が燃えているのを、見た。

「……。」

「!」

ざわざわざわ。

背筋を走り抜けた悪寒に、鳥肌が立つ。何に怯えているんだ、そう自分に問いかけても、答えは欲しくない物しかない。

『チェリカが、怖い』

(違う……)

彼女の足元で、シャインの体が痙攣した。ごぼ、血の塊が糸を引いて吐き出され、顔色の悪い彼の肌を染める。

「な……ぜ……」

「……。」

「ハルティア……?」

アルライドの声に、チェリカは小さく反応する。さらりと金髪の髪がゆれ、冷たい表情をくすぐった。

「ハルティア、あなたは一体……?」


ハルティア、というのは救いの女神だいう。

そして、破壊の女神だとも聞いた。

だが──。


「あなたとシャインは、契約をしていたはずでは」

「このこは、哀れなのよ」

返ってきた答えは、想像とは違い澄んだ声だった。

「このこは、『わたし』を操れる。そう、思い込んでいたの」

「うあ……!」

ざく。

もう一度杖を突きたてると、チェリカの雰囲気がガラリと変わった。

『愚かな、そして思い上がりも甚だしい。ああ、不愉快だ!』

酷く掠れた声でチェリカは告げる。いや、チェリカだろうか?

(チェリカじゃない! さっきのとも、違う……!)

トアンの額から流れた汗が、顎を伝って地面に落ちる。逃げたい、今すぐ背を向けて、ここから走り去りたい。

かちかちとかみ合わない歯がなり、膝が震えた。──何故今立っていられるのか、不思議だった。


──逃げたい!


「大丈夫か!」

振り返ると、下のほうからクランキスが見上げていた。

「クラン、キスさん……」

「そいつは、ハルティアじゃない! ハルティアなんていない!」

「……え?」

「そいつは『ヴェルダニア』! あらゆる生き物の憎悪を食って生きる、闇の邪神だ!」

『ふん? 流石だなクランキス』

くすくす、チェリカが笑う。長い杖がリン、と大気を震わせる。

「ハルティア、じゃない……?」

トアンが呆然と呟くのと、シャインが愕然とするのは同時だった。

「救いの女神なんて都合のいいもんはいないんだ。……やっぱりお前なんだなヴェルダニア? やっぱり生き延びてやがったな」

「どういうことなんですか?」

なんとかそれだけ搾り出すと、クランキスは青い瞳をスッと細める。

「俺が旅してたとき、世界を救ったってのは……旅の最後に、ヴェルダニアを封印したからなんだ。こいつは人の心を持つ闇だ。じわじわと世界を侵食してたんだ。俺が旅に出たのは一目ぼれしたセフィラスを追っかけるためだったんだけど、セフィラスは母の仇を探してた。その仇を操って、セフィラスの魔力を取り込もうとしていたのが……こいつだった」

クランキスは履き捨てるように言い放つ。

「人の心ってのが一番怖い。ただの闇の塊だったこいつは、心を得て、そして全てを飲み込もうと企んだ!」

『……。それで、どうする?』

「……!」

『私はお前への恨みで、あの無念を晴らすためにこうして復讐をしている。だが、クランキスよ。今回は私に、お前は手を出せまい』

「……」

クランキスが強く唇をかみ締める。その瞳の奥で、ゆらゆらと感情がゆれるのが見えた。

「で、でもクランキスさん、なんとかするって……」

「そいつがチェリカに『付いている』だけならいくらでもなんとかできる……。だけど!」

(……ハルティアじゃなくて、そのヴェルダニアでも、チェリカは操られてるんじゃないのか?)

一瞬、嫌な考えがよぎる。だがそれはすぐにかき消し、クランキスと『彼女』のやり取りに目を戻した。

その悲痛な声を聞いて、チェリカが薄く笑う。彼女の足元から伸びる濃い影は一際大きく、そして濃い。……いや?

トアンはふと違和感を覚え、もう一度影をみた。す、視線がそれを辿っていく。


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