第32話 Peter Pan syndrome
てっきりレインから糾弾が来ると思っていたらしく、ルノの問いにアルライドは手を組んだ。
「まず初めに。ルナリア、といったな? シアングを連れて行ったとき、お前はもう術が解けていたのか?」
「そうよ」
「では、何故連れて行った?」
「お兄ちゃまは強いから、シャインは戦力として欲しがってたのよ。ルナのことを使って引き込むつもりだったのね。
ルナは嫌だったけど、アルライドがまだ術がかかってるフリしたほうがいいって」
「ふうん……そうだ、何故アルライドにはシャインの術がきかないんだ?」
「それは……」
「それは!」
素早くルナリアを遮るように手を振ったアルライドが、ゆっくり、ゆっくり切り出した。
「……俺が、」
いったん言葉を切ると、ちらりと隣のレインを見やる。レインは、ただまっすぐに見つめ返して、真実を得ようとしているようだ。
「俺が……」
「誕生の守護神、スイと同じ魂を持っているから」
「同じ魂?」
「……うん」
「どういうことだ?」
やっと聞いたレイン声は、不思議と落ち着いていた。
「シャインは、スイの力を源にして人を操る魔法を使ってるんだ。今の彼は、月千一夜を使ってスイの力を利用してる。……だから、スイの力は、
スイの魂を持つ俺には反発してきかないんだ」
「え?」
「それに俺は、生まれてないから……」
「アルライド。何でお前がスイの魂を持ってるんだ? 生まれていない? そもそもそれってどういう意味なんだ?」
ウィルが首を傾げると、アルライドはその美しい瞳に悲しみを湛え、それでも言葉を紡ぎ出した。
それは、彼の過去。
時は、今から17年前に遡る。
俺の故郷は、険しい山奥のさらに奥。山岳にぽつんと存在する小さな村だった。
黒髪、黒目。素朴な村人の、閉鎖された空間。本はあったけど、全てそれは空想の産物のようだった。とにかく、閉鎖された排他的な場所。
俺の母親は、普通の村人。でもある日、事故かなんだかしらないけど狩人の放った矢に打たれて瀕死の状態になった。腹を打たれたんだ。
俺は、そのとき母親の腹の中で育ってる胎児だった。でもその矢の所為で、俺は生まれる前に『死んだ』んだ。
……そう、死んだんだよ。だから俺は、『生まれていない』ってことになる。ああ、ルノ。質問は待って。できるだけ疑問が残らないように説明するから、ほら、そんな怖い顔しないでよ。
母親だって無事じゃない。瀕死の状態で重い腹を引き摺って、俺が死んでるとも気付かずに、必死になって助けを求めていた
。でもそこは村から離れた深い森の奥。誰も、来ない。とうとう母親も危なくなって、母さんは死ぬことを覚悟したらしい。
すると、更なる森の奥から一人の男が現れた。男は、灰色の髪を揺らして、血の様な赤い目で母さんを見た。
『生きたいか』
そしてただ一言、そういった。
母さんが頷くと、男はそっと傷ついた腹に触れた。すると、男の手から優しい緑の光が溢れ、腹の傷を塞いだ。それと同時に、なにか生きていくための『力』を吹き込まれたらしい。
ふと目を覚ますと、其処は暗い森の中。夢だったのかを辺りを見渡した母さんの服は血にまみれながらも身体に傷はなく、夢じゃなかったと確信したらしい。
腹の子供──俺は、再び命を与えられた。
その男、誕生の守護神『スイ』によって。
「そうか……誕生の守護神の魂をもっている、というのは、魂を与えられた、ということか」
「大正解」
茶を一口すすって、アルライドは続きを話し始めた。
それから数ヵ月後、俺は生まれた。あの事件ですっかり子供の心配をしていた母さんは、無事に生まれた俺をみてとても安心したようだ。
知らせを聞いた父さんがやってきて、俺を抱き上げた。父さんも俺を心配していたから、それはそれは喜んだ。と、ここまでは純粋なハッピーエンドに続くように見えるよね。
──ところが。
俺が瞳を開けた瞬間、その幸せな雰囲気はぶち壊された。
言ったろう。
その村は排他的で、で閉鎖された空間だって。
黒髪黒目が常識だって。
俺の瞳は、翡翠の深緑。
魔物の子、アルライド。それが俺の、最初の名前。
それでも俺は、その村で暮らしていた。村人の嫌悪の目から母さんと父親は守ってくれたけど、俺が三つになったとき、母さんが倒れた。
人間でありながら、人間では『ない』ものを産み落とした身体。それは確かに俺の所為でもあり、俺の所為じゃない。
でも、父親はそれを俺の所為だと思った。
三年もの長い間、好奇の目から俺を庇い続けた父親はかわいそうに、精神を病んでしまっていたのだろう。俺を殺そうとして、そしてそれに気付いた母親に俺は連れられて一緒に村から逃げ出した。
病気の母と、幼い無力な子供。
二人が生きていくには、世の中は少し厳しすぎた。
村から出て、一年後。俺たちは貧民街に身を寄せていた。他に行く場所はなかったし、村ほどじゃないにせよその国で緑の瞳は珍しい。でも貧民街なら、余計な詮索はされない。第一、金がなかった。
ろくな食事もできなくて、無理がたたって、母さんが死んだ。日に日に細くなって、ついには動けなくなって、ベッドの中で母さんは最期に、真っ黒い目に涙をいっぱいためて、こういった。
『さよなら、あなたと出会えて、良かった』
俺は、四つ。
貧民街の隅で、母さんを守ってやることができなくて、医者に見せてやることもできなくて、誰かに手伝ってもらうこともできなくて、一人で、母さんを埋めた。
俺は、たった一人になってしまった。
ある日、たった一人で、餓死寸前になった俺のところへ、一人の男がやってきた。医者のような格好をしたその男の名は、ハクアス。そう、あのハクアスだ。ただし、まだ彼が正気を保っていたころだよ。
ハクアスは俺にいった。
『アルライド君だね? 君を迎えに来いといわれたんだ』
俺が何も返事をしないと、ハクアスはさらに続ける。
『……一緒に来れば、きっと君が欲しいものも、守りたいものを得られる。それに、生きられるよ』
こうして俺はハクアスに連れられて、アリスの箱庭へ行った。
母さんを失って、無気力になって。
目を閉じていても開いていても、ただ感じるのは虚しさだけ。
死んでるのか、生きてるのかわからない、わかろうとしない毎日。
……辛い、という事実も、感じなかった。
凄惨な過去に、トアンはただじっと目の前の茶を見た。濃い茶色のそれは、底の方が見えないほど暗く、其処に写るトアンの顔は、ゆらゆら揺れて霞んでいく。
しかし、何故彼は、そんな過去にありながらこんなにも、優しい心を持っているのだろうか。と思う。
アルライドはそれを悟ったように微笑むと、小指の黒いマニキュアに視線を落とした。
「俺が歪まなかったのはね」
トアンの心を読んだかのように、言う。
それから、三年後。ある人に出会ったことで、俺は変わった。
『今日から新しく来た子だよ。……ちょっと事情が複雑でね。あまり詮索しないであげて』
そういってハクアスが紹介してきたのは、暗い瞳の一人の少年。
──それが、レインとの出会いだった。
「初めて、レインを見たときに」
穏やかな表情で、アルライドは語る。その横でレインは俯いてしまっているので、表情は見えない。
「ああ、俺がいる。……そう思った」
俺だ。間違いなく。あの、暗い瞳。あの、無気力な瞳。俺だ。
そう感じた俺は、少年──レインと積極的に接触した。理由は、あるようでない。ただ単純に、レインの笑顔を取り戻せれば、俺もこの永遠の悪夢から逃れられる、そう思ったからだ。自分を重ね、そして自分を知った。
毎日毎日話しかけるうちに、返事も返ってくるようになった。暗殺部隊として、もう訓練を始めていた俺は、レインにそのことを隠して接した。だって、怖がられたら嫌だから。ただ、それだけ。
月日が流れ、俺はレインを自分ではなくともだちとして思うようになっていた。
その頃、レインはハクアスの病気のことを知る。治したい、助けてやりたい。そういうレインに、俺は、
「暗殺部隊のことを教えた」
つらそうに顔を歪ませる。ルナリアが全員分のコップを寄せ集め、ポットからおかわりを注いでいる。その音だけが、部屋に響く。
「今でも後悔してる。あのとき、俺があんなこと言わなきゃ」
「でもそうしなかったら、自分の身は守れなかっただろう?」
ルノが助け舟をだしてやるが、アルライドは首を振った。
「その結果、見ただろう。レインがどんな目にあったか……俺たちは出会うべきじゃなか」
「アルライド!」
がたん、その言葉を遮るようにそれまで黙っていたレインが立ち上がった。テーブルが揺れ、注ぎすぎたコップから茶が零れる。
「オレは、そんな言葉聞きたいんじゃない! ……どうしてもっと早く会いに来なかったんだよ、どうしてもっと早く教えてくれなかったんだよ! オレは、お前のこと何にも知らなかった! 母親が死んだとか、そんなこと、何も……」
呆気にとられるアルライドの顔を睨みつけながら、レインは一息つく。……いや、嗚咽を堪えたのだ。
その瞳から、一粒涙が零れ落ちる。
「……! レイン、涙……!」
「うるさい、オレの質問に答えろ! ……出会わなきゃよかった、だ? 何でそんなこと言うんだよ! 二度もオレに失わせといて今更! バカ、アルのハゲ! さっさと成仏しちまえ──!」
一通り喚くとルナリアからコップを奪い取り、
「バカ──!」
「アルライドさん!」
叫びとともにアルライドの頭に投げつけた。パリーン、ガラスが割れる音と温かい茶をたっぷりと被ったアルライドは、それでもきょとんとしたままで。
「……涙、どうして」
「こんな状況でもオレの心配か、それともとうとう狂っちまったのか? 何で怒らないんだよ、言い返さないんだよ」
少し罪悪感に駆られたのか、レインが僅かに勢いを落とした。
トアンが慌てる先で、奥からタオルを見つけてきたクランキスがアルライドにかぶせる。
「レイン、泣かないで」
ひた、その手が頬に触れると、レインは息を詰まらせた。
「俺がレインのところに会いにいけなかったのはね、シャインに操られてるってフリをしたほうがいいと思ったからだ。シャインがチェリカと接点があるって知って、また、レインに会うことになるってわかってたから。でも言ったろ? ずっと傍にいるって」
「……!」
「シャインは、チェリカとシアングと、レインを狙ってた。だから、レインを守れるように、ルナリアも大事な兄を犠牲にしてまで俺に協力してくれたんだ」
言い聞かせるように一言、一言染み渡る声で囁く。
「母さんのことを言わなかったのは、レインを信用してないわけじゃない。……俺自身、ゆっくり整理して話したかったから」
優しい声にレインの顔がくしゃりとゆがみ、それでも堪えているのだろう、瞳に涙が盛り上がる。さあ次は俺の質問だよ、といいたげな視線に、震える唇がゆっくりと言葉を紡ぎだした。
「オ、オレが、泣けるのは……」
「うん」
「あの、クソガキが、オレたちから離れて……」
す、指した指の先には、ウィル。
「確かにシャインが言ってた。敵わないって分かってるのにかかってきて、でも逃げられたって」
「そ、それで、また、こっちにきたら、会えて、無事で、それで……」
「ふんふん」
「それで、オレも、よ、くわか……ッアル──!」
飛びついてきたレインに少し驚いた顔をしながらも、しっかりと受け止めてやる。よしよしと頭を撫でてやるアルライドの顔は、とても優しかった。
「うう、う……ッ」
肩に顔を埋めてくぐもった泣き声を上げるレインを見て、トアンもついもらい泣きをしてしまった。隣を見ると、ルノも。
三年ぶりの、レインと『アルライド』の再会は、この状況でも心に響いた。
「茶くさい」
「レインがかけたんだろ」
「まだ濡れてる」
「タオルじゃ拭ききれなくて。ならくっつかなきゃいいだろうに」
「いやだ」
「そろそろいいか?」
まだ質問が終わっていない、そういったルノを見て、ああごめんねとアルライドは舌を出した。それを見て、はあ、とため息。
「……レイン、お前にも関係する話だぞ。シャインが言っていた『スノゥ』という言葉……あれが何なのか、何故アルライドが発するまで聞き取れなかったのか、そして何故お前を見てそういったのか……それを聞くんだぞ、わかってるのか?」
「ああ」
「わかってないだろう」
「わかってる」
どっちが年上かわからない会話をルノは正直不毛だと思った。相手のレインは、現在アルライドの膝の上。ちょこんと座ったまま居座ってしまい、アルライドもそれを受け入れている。──猫と飼い主が逆転したように。
ため息をついたのは、レインの雰囲気がすっかり変わってしまったからだ。
普段、何もしなくても常に冷たい光を纏っていたそれは、今はすっかり惚けきっている。今まで辛かったのが大きいのだろうが、反動も大きかったようだ。
トアンは兄の変化に戸惑いを隠せないように視線を彷徨わせ、ウィルはウィルで頬杖をついて幸せそうに見守りながらも、どこか影が拭えない。クランキスとルナリアは食料を探したりベッドではねたり、部屋を荒らしまわっている。
(まともに話を聞きたいのは私だけか)
気持ちばかり焦っても仕方ないと、分かっているつもりなのに。
「ごめんごめん、ルノ、怒った?」
「別に」
「嘘付け。皺よってるぜ」
「レイン」
「はあ、もう何を言っても無駄か……」
「ごめんってば。……レイン、お前自身に関わることなんだよ?」
「聞いてるって」
「じゃあ話すね。『スノゥ』について。まず初めに、スノゥの正体を教えよう。其処からじゃないと始まらないからね。……『翡翠の瞳』っていう話、しってる?」
「オレ知ってます!」
ここぞとばかりにさっと手を上げたトアン。
「スイさんの話ですよね。前に吟遊詩人さんから聞いたんです」
「私がいなかったときか?」
「あ、ルノさんは確か……そのとき酔ってて……」
あの話を聞いたのは、自分と、チェリカだけ。
「じゃ、一応簡単に説明するけど。恋人を殺されて人間を殺した、エルフの話だよ。後に彼は誕生の守護神をやることになる」
「……えらく省略したな」
「ま、詳しくはトアンに聞いてよ」
のんびりとした口調で返し、にこりと微笑んでみせる。
「……それで?」
「でね、そのとき殺されたエルフの名前が、『スノゥ』」
「『スノゥ』、か。いったいどうして、今頃その名が出てくるんだ?」
「『スノゥ』……どこかで聞いた気が」
アルライドの膝の上で、ふ、と頭を傾げるレイン。
「昔、聞いた……どこだ?」
蘇った記憶にある、無数の穴。恐らく其処に葬られた記憶だろうか。
「レイン。無理しないでゆっくり思い出しなよ」
「でも、オレに関係してるんだろ? だったら思い出さないと意味無いじゃないか」
「大丈夫だよ、今のままでも」
「ホントか?」
「もちろんだとも……どうしてシャインがレインを『スノゥ』と呼んだか。これはオレとよく似ていてね」
話を聞きながら茶を飲んでいたトアンの頭に、ふと、一つの答えが浮かぶ。
『同じ魂を持っているから』
「同じ魂……」
何気なく呟いた一言に、ルノとウィルが顔を見合わせた。レインはアルライドを見、アルライドは小さく頷く。
「大正解。レイン、君はその『スノゥ』と同じ魂をもってるんだよ。生まれ変わり、という形でね」
「生まれ変わり? 殺されたエルフの?」
「そういうこと。そう考えれば、シャインが何故レインを欲しがってるかわかるだろ。トアン」
「え?! オレ?! ルノさんじゃなくて?」
「うん」
「こういうことはルノさんのほうが得意なのに……」
「ささ。答えてー」
「う……シャインはスイさんを探してて、兄さんはその恋人の生まれ変わり──うーん。人質とか」
「そういうこと」
「でも生まれ変わりだなんて! 何故アルライドはそれを知ってるんだ?」
にわかに信じきっていないルノが反論する。
「俺がスイの魂を持ってるからね。なんとなーく感じたんだよ。それで歴史を調べたら……ビンゴ」
「人々に葬られた歴史を漁るのは、おそらくそれは途轍もない苦労なんだろうが……軽いな、お前がいうと」
「まーねぇ」
茶を飲みながら、くつくつと喉の奥で笑っている。
「じゃあ、運命なんだな」
思考をめぐらせていたウィルが、口を開いた。
「運命?」
「だって。アルライドもレインも、引き離された恋人の生まれ変わりみたいなもんじゃんか。そんな二人がまた出会って、……一緒に居るんだから。」
「なるほど……そういうことになるね」
「……。でもオレは、スノゥとかそんなんの意思じゃなくてアルといるんだからな」
「わかってるさ」
俺もそうだから。そう優しく言い聞かせるだけで、またレインの瞳が揺らいだ。
「アル」
「なあに?」
「……夢じゃないんだよな」
「そうだよ。なに泣きそうな顔してるんだよ」
「違う!」
「はははは」
「何笑って、この!」
レインの手がアルライドの胸倉を掴む直前、ぴくりとその動作が止まる。
「……レイン?」
何処にいるの
何処にいるの
私はここなのよ
私はここにきたのよ
其処ではないでしょう
その中ではないでしょう
早く早く早く
あなたに会わないと
早く早く早く
こんなこと、やめさせないと
「レイン?」
手を出したまま動かなくなったレインをアルライドが不審そうに覗き込む。何事かと身を乗り出したトアンの耳に、突然、
『早く!』
「!?」
高く澄んだ、切羽詰った声が聞こえた。
「トアンもどうしたの?」
「あ、いや」
──今のは空耳だろうか?
とんとんと耳を叩いていると、ふとレインがおずおずと手を下げた。辺りを見渡し、状況を把握し損ねたのだろう。視線をめぐらせ後アルライドに目を向ける。
「……どうしたの?」
「あ、ああ、いや……なんでも」
消え去りそうな声でそう呟いたあと、レインはしっかりとアルライドにしがみ付いた。
「なあに、甘えて」
「……オレは自分の意思でアルといるんだ、アルと出会ってからアルを信じてきたのは、全部、オレの意思だ。……オレ一人の」
「兄さん?」
トアンの問いには応えず、顔を伏せてしまった。その肩をそっと叩きながら、アルライドが独り言のように、先程のレインの言葉に続くように呟く。
「運命ねぇ……俺たちは運命に定められたっていうのかね。それでも俺は」
「──抗ってみせるさ」
チェリカはふと、顔を上げた。今、彼女は一人、鏡の前で首をかしげている。
『何故泣く? お前を縛るものは、わたしたちが開放したというのに』
『楽になりなさい』
罅割れた声が二重に重なる。そして、それに僅かに混ざる、嗚咽。
正面にある鏡の中には、もう一人チェリカがいる。
そのチェリカは──泣いている。
鏡の外にいる彼女は、ただ首を傾げていた。
『泣き止まぬのか?』
『わたしたちはあなたの味方なのよ。あなたを苦しめるものは全て消してあげるわよ』
『違う……! こんなの、違う!』
『……この子は、人間と長く居過ぎた』
『全員すぐにいなくなるわ』
『……』
『そうしたら目が覚めるもの。』
チェリカはひょいと肩をすくめて、ふっと息を吐き出した。しかしその表情は無表情のままで、不気味な雰囲気が拭えない。
『我らは一つ』
「いやー、やっぱり温かい」
温かな蒸気、湯気がもくもくと立つ風呂場。肩までしっかり浸かりながら、アルライドがノビをした。
体に染み付いた茶の匂いをとるために風呂に入ったのだが、かれこれもう一時間近く入っている。
「ねえ、先に出ていいよ?」
「……嫌だ」
先程から隣でぐでっと伸びているレインに声をかけてみるが、戻ってくるのはひねくれた言葉。もともとシャワーに慣れている彼には、長風呂は相当酷だと思うのだが。
そもそも、風呂は皆ではいるもんだ! と言い切ったクランキス提案の元、トアン、ウィル、アルライドが放り込まれた。幸いにも広い浴室だったのでぎゅうぎゅうに詰まることはなかったが、暑い。
トアンたちはのぼせる寸前に追い出したものの、レインは後から入ってきたためこうして意地を張っているわけだ。
「こうしてるとさあ、三年前の子と思い出すよね」
「……ああ」
「あの時はこんなことになるなんて思わなかったけどさ」
くつくつと喉の奥で笑うと、冷たい視線が返ってきた。
「お前はわかってたんだろ」
「……あはは、ばれた?」
ぽちゃん、水滴が垂れて、水面に波紋を描く。それはすっと広がっていくとレインの肩にぶつかって歪んでしまった。
「でもこれからは一緒に居てくれるんだろ」
「……」
「……」
「…………。」
沈黙は、疑いではない。
いや、分かっているのだろう。だからこそこうして確かめたかったのだ。──別れは、またすぐにやってくるということを。
「……まだ、一緒にいられるよ。」
「アルライドの背中、傷だらけだったな」
髪の毛についた水滴を拭いながら、ウィルが呟いた。
「……見た?」
「見たよ」
決して広いとはいえない背中は、それこそ絵描きが書きなぐったように、傷で埋め尽くされていたのだ。
「ホント、信じらんねえな。死んだはずの人間が、あんなリアルな肉体をもってて、こうしてここにいるんだから……」
困ったように笑うのは、彼のクセだろう。
「不思議なヤツなんだよな、アルライドって。なーんかとらえどころがなくて、でも愛想は良くて、人懐っこい猫だな」
「兄さんは?」
「レインは……ああ、ほら、しゃなりしゃなりって歩くプライド高い猫。そっくりじゃん」
「……なるほど確かに。猫同士仲がいいのかもね」
くつくつとトアンは笑っていたが、その横でウィルは少しだけ顔を曇らせていた。
「……なんでこんな気持ちに……?」
(──どうしていつも隣にいるのは、オレじゃないんだ)
人は、一人では完全になれない。
完全な人などいないのに、
それでも完全になろうとする。
本当は、それはとても簡単なことなのに。
隣にいる誰かと手を繋いでいれば、繋いでいる間は、完全になれるのに。
人は、その手を自ら 振りほどいてしまうのだ。
「とりあえず寝よう。シャインのいる場所はわかってる──ただ其処からは動けないと思うよ」
ほかほかと蒸気の上がった頬に手で風を送って冷ましながら、アルライドが人差し指を立てた。
「何故?」
「簡単さ。スイのところへ行くには特別な装置とそれを動かす鍵が必要になるんだけど、その鍵はここにいるから」
「……アルライドが鍵なのか?」
髪の毛を一つにまとめたルノが、額をとんとんと突きながら呟いた。先程クランキスに連れられて父子仲良く風呂に入ったようだ。……中で何があったかは、そこで伸びているクランキスを見れば予想は安易にできた。
「ま、一応ねぇ。俺がいなきゃ動かない、それにレインがいなきゃ勝てない。シャインはバカじゃない」
「……なーアルライドよー。勝算はあんのー?」
「クランキス王。伸びたまま言わないでくださいよ」
「伸びずにいられっかい。くっそ、ルノ手加減なしだな」
「父さんが悪い」
「お前のそういうところは母さんにそっくりだよ」
「……。父さん、アルライドに話があるんだろう」
「ああ。そうだった」
父さんうっかり、そう言ってようやく思い出したように笑いながら起き上がると、クランキスは姿勢を正す。
「ぶっちゃ話、前衛に竜の子と『チェリカ』がいるんだぜ? 力は何とかなっても、二人を殺さずにシャインだけをぶんなぐるってのは無理だよ」
殺せない。辛そうに言葉をかみ締めて。
「そもそもその前衛を殺さずにっていうか、殺そうとするのは無理だろうね。第一気持ち的なところもあるし、何しろ二人に敵うのは、この中では俺とクランキス王だけですから」
「茶化す口調ってことは余裕があるのか?」
「……あの二人に心が戻ってくれば、の話だけど」
「あの」
遠慮気味におずおずと手を上げてトアンが口を挟んだ。
クランキスはエアスリクの王、アルライドは誕生の守護神の魂を持っている。何だか次元を超えた話になりそうで、人間の視点からの意見を言わせて欲しかったのだ。
「確かにオレたちは、クランキスさんたちと違って役に立つとは思えないですけど……」
「あ、悪い悪い」
「ああ、いや、そこが言いたいんじゃなくてですね。シアングは意思がない状態でシャインに操られてるけど、チェリカは? 今チェリカの中にいる、『ハルティア』はどうするんですか?」
──チェリカは、助からない。
その言葉を聞く前に、先回りをして問うた。それは、薄々感づいていたことだ。ただ先回りすることで、クランキスに嘘でもいいからなんとかなるといって欲しかった。
ところが、返ってきた言葉は意外なものだった。
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと封印しちゃうから」
「封印って、チェリカごとぉ!?」
「……俺が愛娘をそんな目に合わせると思う? 安心しろ、ハルティアだけほいっと封印するから」
「本当にできるのか?」
身を乗り出してきたルノとトアンを沈めながら、快活そうに笑った。
「まかせなさいな。シアングをとめたり準備したりすんのにお前らにも協力してもらうけど、構わないっしょ?」
「全然構いません!」
「よっしゃよっしゃ。──なあアルライドさんよ。とりあえず今日はここで寝ていいだろ? 体力も回復させないと」
「いいよ、ゆっくり休んで」
さー明日は対決だ! 寝るぞーと手を上げるアルライドに続いて、レインとルナリア、ウィルとトアン、最後にルノが一礼して隣の部屋へと消えた。
クランキスは一人、部屋の中で眉間に皺を寄せる。
「ハルティア……か」
ランプの明かりがゆらゆら揺れ、その瞳の中で鈍く輝いた。
「くだらない嘘なんかつきやがって……俺に復讐したいなら、まっすぐ殺しにくればいいのに。──それができないってことは、まさかチェリカが『三人目』なのか? もし、そうだとしたら俺はあの子を、この手で」
クランキスは一人、部屋の中でがっくりと項垂れた。
「いたた、痛いよ!」
「もう寝るのか? ……隙あり!」
「便じょーう!」
「あだ!」
ぼすん、ばたん、ばすん。
まったく、なんでこんなにも元気なのだろう。
先程からウィルとアルライド、ルナリアを交えて繰り広げられている枕投げは、主に三人ではなくトアンが被害を被っていた。
いや、レインのほうに飛んで行った枕はアルライドが蹴り落とし、ルノのほうに飛んでいったものはルナリアとウィルがキャッチしているのだ。トアンがノーマークなのに、彼らは気付いているのだろうか。
「ルノさぁん」
助けを求めるように隣のベッドを見るが、ルノは本の字列に視線を走らせるだけ。──眠って、準備して、そうしたら妹と親友と戦うのだ。眠れないから無理矢理にも集中して疲れようとしているのだろう。
レインはというとソファの上で、──ほんの少し微笑みを浮かべながら、三人の戦いを眺めている。いつものレインならひねくれた一言でも発しているだろうに、今は満ち足りた顔をしていた。……もう何も言うまい。
「あでっ!」
そうこうしているうちに、もう一撃。
「へへ、トアンだっせー」
「う~、ウィル! さっきからわざとだな!」
「まあね。……アルライド!」
「まかせたまえっうらぁ──!!!」
ドゴッ
直線を描いて綺麗に決まったスパイクが、思いっきり側頭部を強打した。枕とはいえ、かなり痛い。
「ははは、俺の勝ちぃ」
「アルライドさんまでー!」
ついにキレたトアンが枕を片手に立ち上がった瞬間、
「いい加減にしろ!」
乱暴にドアをあけ、怒声とともにクランキスが飛び込んできた。
「早く寝なさい! 旅行気分全開で遊ぶな!」
「ご、ごめんなさい」
さすが、二児の父。
国王でもある彼の威厳にあふれた説教に、トアンはしゅんと項垂れる。
「しかも一人で! 皆の迷惑でしょうに」
「……一人?」
慌てて振り返るとそこには、──静かにベッドに潜り込んでいる仲間たちの姿。レインはソファの影で丸くなっているのだろう、見えない。
「あ、酷い!」
「お仕置き」
「いで!」
ぽかりと拳骨をくらった音が部屋に響くと、三つの毛布は小刻みに震えた。まるで、笑いを堪えるように。
「ほら、早く寝なさい」
クランキスに背中押されるまま、しぶしぶベッドに潜り込む。納得いかないが、反論しても『寝ぼけるな』の一言で済まされそうだった。
「緊張するのは良くないからさぁ。疲れた? 解れたぁ?」
クランキスが出て行っ手から暫くして、くつくつと笑いながら、アルライドが毛布から顔を突き出した。
勿論、そういって笑ったのはウィルで、ルノはあきれ果てたのかため息を吐いた。
「ルノもさ、我慢は良くないよ」
「だが!」
「しー」
思わず大きな声になったため、人差し指を立てて制す。
「あ、ああ。……だが、私はどうしても不安でしょうがないんだ。父さんのことを信用してないわけではないけど、本当に今までどおりになるのかなって」
「うん」
「ここから出るとき、本当に私たちは全員ででれるんだろうか、チェリカは元に戻るのか、不安で──」
「それを信じてあげなくちゃ。ね」
落ち着き払った、穏やかな表情でアルライドは呟いた。
「……信じれば、何とかなるのか? 本当にそう思っているのか?」
「ううん。でも信じなくちゃ何も始まらないでしょ。大丈夫だよルノ、君たちの絆はそんなに脆くないでしょうに」
「……。」
その言葉一つ一つを刻み込むように、ルノは枕に伏して、ゆっくりと瞬きをした。
(……シアング)
かち、こち。時計の音が支配する空間で、レインはむくりとソファから起き上がった。
暗闇には慣れている。さっと辺りを見渡して、ベッドの右側に丸まって眠っているアルライドを見ると、小さく笑みがこぼれた。
このときが永遠に続けばいいのに。
ふと、そう思う。
永遠なんてない、そう思いつつも、願ってしまうのだ。
「置いていったくせに……」
アルライドは自分を置き去りにし、そして自分もアルライドを──ガナッシュを置き去りにした。それなのに、もう一度出会った事実。
離れていても忘れなかった。だからまためぐり合えた?
──愛してる人。
アルライドは自分をそういう風に見てくれないのもわかってる。見れないのも分かってる。でも、自分は、思っている。
ベッドの空いているスペースにゆっくり体を沈ませると、ひょいと手が伸びてきた。
「アル……てめぇ起きてたのか」
「レインがソファにいたからさ。こっち来るだろうと思って」
からからと笑う彼は、自分の運命をどう受け止めているのだろう。無性に聞いてみたい、そう思ったがやめておく。
全て聞いてしまったら、この時間が──続かない。そう思った。
向き合うように小さく丸まり、そっと相手の胸に顔を埋めた。
「あはは、どうしたのそんなに甘えて?」
「うるさいな」
「なんだよーもう」
ああ、
「……あったかい」
「ん?」
こうしていれば、三年前のあの頃と変わらない。心臓の鼓動も聞こえるし、体温も温かかった。それなのに。
「あったかい」
「二人でいても、寒かったときもあったけどね」
こうやって胎児のようにまるまって暖をとった時期は、とてもとても長く、日常として染み付いていた。命を一つ奪うたび、心が冷えていくのを感じていた。でも、二人でいればあたたかかった。
アルライドの優しい顔が、優しい目が、一つ命を奪うたびに酷く悲しんでいるように見えて辛かった。とても、──自分以上にに。
そして自分がそう思うのと同じように、アルライドも思ってくれていたのだ。……そうだった。
「……アル、オレは、ずっとこのままでいたい」
「レイン」
「居たい、ずっとこのままで居たい。痛いんだ、アルがいないのは……。もう戻りたくない。痛い、居たいんだよ」
ぽつりぽつり、まるで雨が降り始めるように呟かれる言葉。
アルライドはなにも言わず、そっとレインの背中に手を回した。
「起きたら独りなのは、嫌だ」
答える代わりに、回した手に力をこめる。
「独りだと寒いから眠れない、寝たくない」
精一杯のわがままに、周りで寝ているトアンたちのことも考えて、小さな声で子守唄を歌ってやる。
あまり歌が得意ではないアルライドがよく歌っていたその歌は歌詞もない。ただ『ら』という言葉が、優しいメロディーに乗せられて耳に響く。
いつだったか、アルライドの母が歌ってくれた、というのを聞いた。この歌は唯一、彼の故郷に続くものなのだ。
(心配かけたいわけじゃねぇのに……)
ましてや、困らせたかったわけでもない。
暖かい子守唄を聞きながら、レインは謝罪の代わりにゆっくり瞼を落とした。
きっと、明日は独りの朝ではない。
そして長い長い生ぬるい夢から覚めた後、きっとまた、独り──。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます