第30話 君の呼ぶ聲

「わたしの眼、かえして」

「……、ぅ、うぁあああ!?」

「ルノ!」

途端に眼を押さえて苦しみだしたルノの肩を、シアングはオロオロしながら包んだ。

「チェリちゃん、何してんだよ!」

「チェリカ!」

「かえして……ね」

「あああああ──っ! ッ……」

ス、手が外される。

途端にシアングに体重をかけるかたちとなったルノだが、シアングがその瞼を押さえる手を取り払う。

そしてその瞳を覗き込んで、息を呑んだ。

「……!?」


シアングの息を呑む音が聞こえたとき、トアンも息を呑んでいた。ルノとチェリカの瞳が開けられたのは、同時だったのだ。

「チェ……リ、カ」

そしてトアンは、ここで彼女が彼女でないことを思い知らされた。

ルノの瞳は、青。

チェリカの瞳は、真紅。


双子の瞳の色が、入れ替わっていた。


「私の、眼……ッ? 痛、う」

片目を抑えるが、指の間から涙が零れ落ちる。ルノの見開いた青い瞳は、銀の髪の間で透き通るように煌いた。

「ルノ、大丈夫か?!」

「シ、シアング……心配ない、から。チェリカを、とめてくれ」

「オレだってどうしたらいいかわかんねーんだよ……っだって、今のチェリちゃんは……」

「わたしは『チェリカ』じゃない。……我が名はハルティア。この世の闇と破壊を司る者。さあいこうシャイン。わたしの力を預けるわ。最後の目的は、誕生の守護神だったわね」

「──ハル、ティア?」

呆然と呟くトアンの横で、ウィルの顔色が変わった。

「それじゃあねトアン、チェリカはもらってくよ」

「まて、まてよ! チェリカを返せ!」

「はは、追いついてみる? ──月千の夜は来た!」

シャインが手を上げると月の光が壁に設置してあった大きな鏡──半分以上割れてしまったが──に反射する。それを待っていたかのように鏡に近づいていき、シャインは何と、鏡の中に入っていった。

チェリカの足も鏡へと向かう。

「いくな!」

くるり、ルノの声にチェリカ──ハルティアは振り返ってルノを見た。真紅の瞳が、まっすぐに。

「今までわたしの代わりに闇の力を預かってくれてありがとう。──お兄ちゃん」

「──!」

ざらり、最後のほうは耳障りなトーンになって頬を撫ぜた。

「チェリカ!」

トアンの必死な声にも反応を示さず、チェリカは鏡の中に溶けていく。

後を追おうと手を伸ばしたが、冷たく硬い鏡はトアンを拒んだ。

「チェリカァ──!」



「……ヴァイズ。いつまでも落ち込んでいても何も解決しないじゃろう」

「……。」

薄い水が張った鏡の上に、半分透き通った身体の人物が居る。その前には、項垂れたまま顔を上げないヴァイズの姿があった。

「わしにお主の気持ちを軽くすることはできんが、じゃがラプラスが望んでおったのは今のお主の姿か?」

「……貴公に、何がわかるというのだ。たった今目の前で、私は……!」

大事なものを失った、その言葉を飲み込んでヴァイズは奥歯をかみ締めた。

「ジジイ、その辺でもうやめろ」

暗がりからもう一人、姿を現した。

「シアング……」

「どうなってんだよ、オレ、何が何だかわかんなくて……チェリちゃんも居なくなるし、ルノはすっかりへこんでるし。ウィルはわたわたしてっけど、レインはずっと何か考え込んでて。」

「トアンは?」

「……あぁ、あいつはもう……。なあジジイ、いやテュテュリス。今この世界に何が起こってんだ?」

テュテュリスと呼ばれた人物は、半透明な表情を顰めた。

「しかしのう、こうやって焔竜、雷鳴竜、深水竜が揃ってみると圧巻じゃのう」

「んなこといーから」

「まあそういうな。何せ久々なもので……。のう、ヴァイズ。先程、わしは空を見上げていたのだが、天涯で星が一つながれたぞ」

「……。」

「お主もわかるじゃろ。ラプラスとやらの魂は──還ったのじゃ」

「……!」

その言葉に、はっとしたようにヴァイズは顔をあげた。

「巡り廻る魂の流れ。還ったということは……スイが良きに計らってくれうじゃろ。しかし、シャインの次の目的がスイとはな。……チェリカのことも気にかかる」

「なあ、ハルティアって何なんだ? 本当にこの世界を作ったって女神のことなのか?」

「ふむ、……一先ず仲間が揃ってから話そう。ヴァイズの気分も少しは落ち着いたかの?」

「…………あぁ。すまない、テュテュリス……」

ヴァイズが頭をかくと、テュテュリスは照れたように視線を彷徨わせた。

「いい、いいわ。わしもお主とは付き合いが長いからの」


「ウィル、レイン。他のやつらは?」

先程まで四人居たはずの室内には、二人の姿しかなかった。シアングの呼びかけにウィルの憔悴した顔が振り向く。

「ルノはベランダ。トアンは……隣の部屋」

「そか。な、ネコジタ君、何ずっと考え込んでんの」

「……」

「無駄だよシアング。さっきからレイン、黙ったままなんだ」

「そうなの?」

レインの顔を覗き込むと心ここにあらずといった感じだ。一瞬、彼が心を無くした時を思い出した。……ウィルが必要以上に疲れているのもその所為か。

「おいおいネコジタ君、あんまりウィルのこといじめんなって」

「……シアング、」

首に腕を回して問いかけると、ぼんやりした声が返ってきた。

「『***』ってなんなんだ?」

「え?」

「オレが一瞬我を失ったとき、頭ん中でも言われたんだ。『***』、それを殺せって──オレ、どうしたんだろ」

いつになく自信なさ気な彼。どうしたらいいかわからなくてウィルを見ると、ウィルも首をかしげた。そうしていると、レインがもう一度口を開く。

「……わりいな、シアング。ルノんとこ行ってやって」

「え、でも」

「少し頭が痛い。シアング、……ウィル。わりいな」

珍しくウィルへの謝罪を言う。……よほど具合が悪いのだろうか。

「ウィル、ネコジタ君のとこついてて」

「あ、あぁ」

シアングノ姿がベランダに消え、再び部屋は静まり返る。

レインが視線を上げると、心配したウィルがじっとこちらを見ていた。

「……なに。」

「や、その、落ち込んでるじゃん。オレたちに襲い掛かったこと」

「気付いてたのかよ」

其処まで見すかしてたのか、レインはため息をつくと前髪をかき上げた。

「……あの時、何を見てたんだ? シアングの説明、いまいちわかんなくて」

「声が──聲が、聞こえたんだ」

「こえ?」

「……。懐かしい聲が、オレを呼んでた……」

「呼んでたって、誰が?」

「わかんねぇ。でも、オレは知ってる。思い出せないだけ……それ鈴の音が聞こえた」

まさか。

ウィルは手を伸ばすと、レインの首のチョーカーに触れた。ちりん、鈴が小さく鳴る。

「……レイン、行くなよ」

「は?」

「何でも良い、行くな」

ウィルの視線があまりにも真摯だったので、レインは逸らすことができず、また頷くこともできなかった。



「風邪、ひくぞ」

ベランダの隅に小さくなって蹲るルノを見て、自然に口が動いた。だが、ルノは反応を示さない。

「ルノ」

「ッ、触るな!」

ピシ!

顔をあげさせようと伸ばした手は、鈍い痛みと共に拒まれた。顔も、まだ伏せられたまま。

(こりゃ厳しいわ)

痛む手を擦りながら、隣にしゃがみ込んで胡坐をかく。

「……ルノ」

「何のようだ」

「別に用はねーよ」

「……。」

「眼、もう痛まない?」

「あぁ」

「そっか」

「…………」

重い沈黙が流れる。冷たい風が頬を撫でるのに、この空気は流れそうにないなとぼんやりと思う。

「何怒ってんの」

ゆっくり顔をあげる、ルノと視線が絡む。

──青だ。

真紅の魔性の瞳は、青い光に代わっている。

「どうしたら、いいんだ……。今までと守っていて有難うと、ハルティアは言った。焔城で私が思ったことは正しかった……! チェリカに闇の力は受け継がれていたんだ! あの子は……殺されても、傷ついても平然としていた」

「でも、それでもお前の妹だ。シャインの言うことなんか間違ってる。……だろ?」

「うるさい!」

「……。」

「…………」

胡坐をかいてたまま手を伸ばしてルノの肩を引き寄せる。今にも泣き出しそうなその顔に、これから自分が言うことを思うとずきりと胸が痛んだ。

「……チェリちゃんのこと、嫌いになった?」

「違う」

即座に否定。だがシアングは言葉をとめず、淡々と続ける。

「自分が本当は闇の力を持つことにならなくて、いずれチェリちゃんに還るもので、しかもチェリちゃん自身そのことを知ってて。何で早く言ってお前を安心させなかったんだって、そのことに怒ってるんだろ? でももうお前は闇に脅えることはねーからな、よかったじゃん」

「違う! 違う違う!」

耐え切れない、といわんばかりに頭を抑えて叫ぶ。

「何が違うんだよ」

「私は、ただ……。」

美しい瞳から、涙が一つ落ちる。だが反論しかけた口はそれ以上何も言えず、嗚咽を零した。

「ルノ」

「そ……なんじゃ、ない。違う、ちがう……」

「……」

「ただ、言って。言ってほしかった! 抱え込むなって、私に、いつも言うくせに、あいつは。あいつは自分で全部、抱えてて……痛くないはず、ないのに。怖、くないはず、ないのに! 自分が人間では、ないと知られるのは……ッ」

強く肩を引くと、あっけなく倒れこんできた。シアングの胸元の服を掴んで、子供のように──まだ子供だが──泣きじゃくる。

「た、しかに、昔、チェリカを恨んだ。双子なのに、私だけ、何故こんな目にあうのかと。でも、でも今は違う」

「うん」

よしよしと大きな掌が頭を撫でる。

「謝らなくては、私、チェリカに謝らなくては。抱え込ませて、瞳も返さないと」

「返すって、なんでだ?」

先程とは違う、優しい声に涙がまた溢れたが、甘えるわけにはならないと乱暴に拭う。

「私は、真紅でも構わない。両親からもらったものだし、仲間が、いるから。真紅でも構わないといってくれたから」

「それ、チェリちゃんも同じだろ」

何を言い出すのか、シアングは苦笑を零す。

「違う、……私が、青より真紅が好きなんだ」

そういって微笑んだルノに、シアングも笑みを返す。その言葉に隠された、背負おうとしていることも、再び決意を固めたことも包み込むように。

斬られたときの表情は、痛いとか苦しいとかではなく、ただ、ただあきらめきった表情だった。

どんな風に、笑う人だっただろう。

霞んでいく、消えていく。

どんな風に、怒る人だっただろう。

霞んでいく、消えていく。

どんな風に、泣く人だっただろう。

霞んでいく、いや、わからない。

消えていく、消えていく、消えていく彼女。

彼女はどんな風に笑う人だった?

彼女は声をあげて泣く人だった?

彼女の声は、どんな声だった?


「ずっと一緒にいたのに、忘れちゃったの?」

そういって微笑む彼女の口の端から、生命の赤が滴り落ちる。


「忘れてない! 忘れたりしてない、思い出せないわけじゃない!」

顔を両手で覆って全てを拒絶しても、頭の中の姿は消えない。鮮明になる、傷、赤、そして笑み。

何かを失ったとき、大切なものを失ったとき、怒りでも喪失感でもなく、

「──ぅ、うえ」

こみ上げてきた吐き気に、自分の惨めさに、気持ちの高ぶりに、涙が流れた。

守れなかった。

守れなかった──!


シアングがルノと共にベランダから部屋に入ると、レインの首元に手をやるウィルと目が合った。

「よ」

「おお。……ルノ元気になったじゃん。さっすがシアング」

「いやいやー。」

「ふん」

「で、ウィルはなにやってんの?」

「な、何でも」

やけに視線を泳がすウィルに、シアングは首をかしげレインの顔を覗き込む。一つ問いかけると、真顔で即答が返ってくる。

「ネコジタ君、変なことされてない?」

「された」

「してねえだろうがよ、おい!」

「あーナイスツッコミ」

「ふざけんなー!」

ぎゃんぎゃんと騒ぎ出す二人(主にウィル)を見て苦笑をこぼすと、ルノはふいと室内を見渡す。

「ウィル、トアンは?」

「あー……」

「何だ、その微妙な返事は」

「隣の部屋。……だけど、すごいへこんでるっつーか」

「ルノ以上?」

僅かに反応を示したレインが頬杖をつくと、ルノが私を引き合いに出すな、と言い返す。

「ルノ以上だよ、まったく。チェリカのこと、守れなかったって一番悔やんでる。引き篭もりになっちゃって」

「ひきこもりって」

「は、ふさわしすぎる」

「レイン、自分の弟だろう。それをそんな」

「あんなヤツしらねぇよ」

「そうきたか」

「とにかく」

ルノとレインの堂々巡りの掛け合いを終わらせようと、シアングはばしりと切り替える。

「早く目、覚まさしてやらなきゃ」

「オレがいくよ」

「ウィル?」

「……。ちょっと、任させてくれ」

「あ、あぁ」

そういうなり部屋から出て行ったウィルを、三人は顔を見合わせた後に追いかけた。


ドアを開けると、闇。深い深い闇に塗り潰された室内に、蹲ってるトアンを見つける。

「トアン」

「……。」

反応はない。ランプに油が残っているのを振って確かめると火を灯し、それを頼りに丸い照明器具に手を触れる。この照明器具は精霊の力で動いているそうだが、ウィルにはよくわからなかった。

明るくなった室内で、項垂れた友人にもう一度声をかけた。

「トアン」

「……」

やはり返事はない。

どこかその姿は以前のレインを思い出させ、ウィルはぶんぶんと頭をふった。

「おい」

「……」

「おい、なあってば、いつまでへこんでんだよ」

「…………」

「おい」

「守れなかった」

「……え?」

ぽつり、思い出されたように呟かれた言葉に、ウィルは眉間に皺を寄せた。

「オレ、守れなかった」

「なあ」

気遣うように手を差し出すと、それは煩わしそうに払われる。

「ほっといてくれ」

「……いい加減にしろよお前!」

ぐ、胸倉をつかんでもその目は沈んだまま。

「なんなんだよ、一人でこの世の不幸を背負ったみたいな顔しやがって!」

「離して」

「そんな頼りねえやつだから、チェリカもなんにも言わなかったんじゃねえか!」

ガッ、勢いに任せて頬を殴り飛ばす。ドアから様子を伺っていたルノが息を呑む音、シアングがおお、と呟く声、レインの口笛が聞こえたが、ウィルは気にしなかった。

ただ、じっとトアンの目を見て。


初めてウィルとトアンが出会ったのは、創られた村ということを知らない頃、いじめっられていたトアンを見たときだった。

ウィルの記憶では父は早くに亡くなり、母親がウィルを育ててきた。母は、いつも口癖のように、『正しい心を持ちなさい』そういっていた。

キークが何処まで夢を操れるか知らないが、ウィルにとって母親と自分は、決して夢の産物ではない。そう思う。あんなに自分に正しさを説いてくれた人が、幻ではないと思いたくないからかもしれない。

とにかく、その母から教えられたとおり、ウィルは正義感の塊のように、つまり一直線の熱血漢として成長していったのだ。

このため、いじめられているその様子がいただけく、第一印象は、情けない、頼りない泣き虫。そんなところだった。


しかし、この旅でウィルが見ない間に、トアンはとても逞しくなった。仲間ができて、目的ができて、……好きな人ができて。勇者ごっこをしてもいつも従者か魔王だったトアンが、主役を射止めた。長い旅、様々な経験。正直、かっこよくなったと思う。


それなのに。


「……、なに、するんだよ」

「今のお前はただの腰抜け野郎だ。本当に見損なったぜ!」

「なんだと……」

「シャインに追いつく努力も、勇気もないから! そうやって暗い部屋でうじうじしてるんだろ!」

「なんだと!」

がつん、右頬に衝撃が走った。殴り返された、そう思った瞬間、カッと身体の中が燃える様に熱くなった。足を踏ん張って耐えるとそのまま拳を左頬に叩き込む。

「……ッ」

「弱虫、腰抜け! お前は好きな女一人守れねえで引き篭ってる、情けねえ男だぜ!」

「ウィルに何がわかるんだよ!」

「わかりたくもねえな、おら!」

ガツン、ガス……!

互いに歯を食い縛って耐え、相手の眼を見て殴り返す。

一歩も引かない。

いや、引けない。


「馬鹿! 意気地なし!」

「うるさい! オレは、守りたかっただけなんだ!」

がつん!

一際大きな衝撃に、ウィルは床に伏した。今更になって味わう血の味が、酷く気持ち悪い。

「……ごほ、ってぇ……」

「は、はぁ、は……。ウィルは、わからないよな。オレは、オレは今までずっと後ろにいた。皆の一歩後ろから、ずっと。そんなオレが、やっと『主人公』になれたんだ! チェリカがきてくれて、やっと!」

「……。」

「まるで勇者気分だった、仲間と旅をして。でも、チェリカは人間じゃなかった……」

「その程度かよ。結局お前にとって『チェリカ』は、都合のいいヒロインだっただけかよ!」

「何!?」

「だってそうじゃねえか。お前を外に連れ出して、勇者として仕立ててくれる、理想のヒロイン! お前のくだらねえ妄想に付き合わされたチェリカが可哀想だぜ」

「違う!」

「人間じゃねえってだけでもう見捨てるんだしな」

「違う……」

「何が違うんだよ」

「オレだってもう、何がなんだかわかんないよ! もう、何がなんだか……」

ウィルを殴った手をみて、今更のように首をふって否定するトアン。

その瞳に光と冷静さが戻ってきた様子を見て、ウィルは床に胡坐をかいた。

「……いや、違わないかもしれない。オレ、ウィルの言った通りかも……」

「あん?」

「自分の本音が聞けたみたいだよ、なんか」

「……。なあ、今まで、オレは良く知らないけどさ、旅の中で出会ったやつらは人間とは限らなかっただろ」

「!」

「それを意識したか?」

合成獣のリク、焔竜のテュテュリス、深海竜ヴァイズ。半精霊のツムギ、妖精シフォン、そしてその正体のムククヒル。リクの弟のアクエリアス、妖魔のシンカ、シロ。ぬいぐるみ猫ガナッシュ、そしてアルライド。確かに今まで出会った人ならざるものを、そう意識したことはなかった。

彼らと、対等な人間として──いや、『人間』でみていたことはない。決して卑屈な意味ではなく、彼らを『彼ら自身』としてみていた。

それは、本当に無意識に行われていたものだった。


「それなのに、今更そいつらの中にチェリカが加わって、人間じゃなくなったらお前は嫌いになるのか?」

「……ッ」

──確信を突かれた。

「第一、シアングだって……オレだって、人間じゃないんだぞ。トアン、オレたちは何なんだ? 仲間って呼べるのか?」

「オレ…………。わかんないんだだ…………遠くなった気がしたんだ、チェリカが。勝手にそう思って、勝手に裏切られたって思って、勝手に傷ついた」

「トアン」

「そうだよな、シアングもウィルも、今まで会ったひとたちも、違和感なかった。人間とか、人間じゃないとかそういうことは考えないで、シアングはシアング、ウィルはウィルだと思ってたんだ。それなのに、チェリカは、チェリカって思えなくて」

「……。」

「空の住民なんだって思うと、チェリカとの距離を感じてた。だから、そう思わないように、オレはチェリカをオレと同じ『人間』だって思うようにしてたんだ。……それなのに、現実を突きつけられたような、……」

トアンが酷く混乱していることがひしひしと伝わってきた。今更ながら、互いに真っ赤になった頬が痛々しいと思う。

「……で、今はどうなんだ?」

「うん、うまくいえないんだけど……。ウィルにお礼言わないと。オレなんかより、尾間一番辛いのってチェリカだ。シャインに勝てる自信はないけど、助けに、──いや、もう一度会いたい」

「そっか。大丈夫だ、トアンは足が速いだろ。きっと追いつけるって!」

「ありがとう」

ふ、互いに微笑むと、心に曇った雲が晴れていく感覚がした。

顔の筋肉が緩むと、殴りあった頬がぴりぴりと痛んだ。互いにそれを理解していて、互いに決まり悪くなって目を逸らした。

「いたた、──わ」

不意にひんやりしたとした、それでも柔らかな感覚が頬を覆い、熱くなった頬に心地よく染みた。見れば、ルノの手が頬に触れている。

ぼう、柔らかい光が、徐々に痛みを解していく。

「こんなときに、殴り合いとは」

「ご、ごめんなさい」

「……謝るな。私も、こんなときに落ち込んでいたからな。──しかし何でこんな全力で殴ったんだ? ウィル」

「ままま、そういうなよ。友情っていうんじゃねーの? いいねえ」

シアングはうんうんと頷くとドアにもたれかかったままのレインを手招きする。と、意外と素直に彼は近寄ってきて、ウィルの横にしゃがみ込んだ。

「ち、違うぜ。……ただ単純にうじうじしてるトアンがムカついただけで」

「さすが単純一途。つい熱くなって殴ったんだろ」

「何だと!」

かっとなって思わず叫ぶがその頬の動きは想像以上の痛みをもたらし、ウィルは両頬を押さえる。

そんな姿を見て、レインははっと馬鹿にしたように息をついた。

「……バカ」

「どうせ馬鹿だよ、あとでレインも殴って──」

す、オッドアイが細められ、頬に当てた手に白い掌が重ねられる。それは冷たく、そして柔らかくもなかった。

でも、

とても、心地よいもので。

「ルノ、こいつも治してくれ。こんなダッサイ顔のガキなんざと歩いてたら、オレまでダサく見える」

「わかった。──レイン、ウィルのことを心配しているなら、そういえばいいものを」

「誰も心配なんかしてねぇから」

そう言い放つレインの横顔からは、何も読み見とれなかった。



「漸く揃ったようじゃの」


ここは、深水城の中の小さな部屋。シアングに導かれるまま室内に入ると、明かりの下でゆらゆらと揺れる、黒髪の人物を見た。

その懐かしい笑顔に、トアンは息を飲み込む。

「まったく、あれほど連絡をしろと言ったのにのう。まさかこんな形で再び出会うことになるとはな」

「テュテュリス、ほ、ほんとにテュテュリス?」

「うむ。それ以外に誰に見えよう」

「どうしてここに? それに、透けてる」

「あぁ」

テュテュリスはガリガリと頭を掻くと、顎でヴァイズを指した。

「これはわしの意識。我が焔城の結界内にあるものの姿を、ここに飛ばしておる。元々、わしら竜は連絡を取り合っておったのじゃ。それに、今は非常事態。大急ぎで深水城に繋いだんじゃ」

「よくわかんないけど……ん、竜たちって、シアングも?」

「や、オレはまだそんな高位な術はできねーよ。飛ばすために必要な水晶とか鏡とかももってねーし。力が動くのを感じたから、ここにきたらヴァイズとジジイが話してたんだ」

「へえー……」

「む。暫く会わんうちに仲間が増えたのう」

トアンが感心する横で、部屋を見渡していたテュテュリスの目が興味深々に輝いた。それを見て、慌てて説明する。

「あ、ウィルとレインだよ。茶髪のほうがウィルで、金髪のほうがレイン。オレの兄さんなんだ」

「よろしくのう、わしは焔竜テュテュリスじゃ」

手を差し伸べたテュテュリスにウィルが手を伸ばすが、虚しく空を切る結果となった。決まり悪そうに笑ってから、そっか、意識なんだよなとウィルが呟く。

「しかしのう、兄弟か。……似とらんな」

「……。」

「レインといったか。お主からはなにか不思議な気配がする」

「……血のにおいか?」

「そうではない。いや、それもあるか……? わからんの」

「オレのことはいい。非常事態ってのはなんだ」

「ああ、すまん。先程ヴァイズから話を聞いたのじゃが、月千一夜を持つシャインという小僧──ヤツのせいで世界が軋んで──」

ゴゴゴ……

「!!」

低い地鳴りとともに、地面が揺れた。

「な、な、何──!」

「ハルティアが……樹が泣いておる」

激しくゆれる地面に思わず尻餅をついたトアンの声を気にも止めず、テュテュリスがつぶやいた。その目は、ただ空を見つめて。

「世界が泣いている……」

「このままでは、バランスの崩れた世界は──」

ヴァイズとテュテュリスは顔をあわせ、そしてすっと瞳を閉じた。

「どうなるんだ!?」

「決まってるだろ、この世界の理が崩されてんだ。つまり……」

倒れそうになりながらも必死にルノが叫ぶと、それを支えながらシアングが静かに答えた。

「「この世界の崩壊を意味する」」

瞳は閉じたまま、テュテュリスとヴァイズが同時に口を開いた。

「え!?」

「シャインというやつが何を願ったかしらんが、やっかいなことをしでかしておるな……これは。」

す、開かれた金の瞳にはいつものおちゃらけた雰囲気はない。それを制したのは、ヴァイズだ。

「テュテュリス。……我らは動くべきではない」

「しかしのう、これを放っておくわけにはいかん」

「貴公は既に関わりすぎなのだ」

「じゃが! スイを狙っているのは確かじゃ!」

「……チェリカに宿ったハルティアと名乗る謎の人格。スイと関わりのある少年ウィル。……そして、『あの』気配をもつレイン。闇の力を還させらたルノ。なにかに呼ばれたシアング……彼らには、スイの城へ行く権利がある」

「あそこへ生きている人間はいけぬ! 空間の捻れに巻き込まれて帰ってこれんぞ!」

「そしてチェリカを連れ戻せるのは、トアンだ……。彼らは迷わない。聲に、惑わされることもない」

いったいこの二人は何を話しているのだろうか。その単語を理解することができないまま、しかし自分の名前とチェリカの名前がでた瞬間に頭が覚醒した。


連れ戻せる。


自分が。


赤くなった頬を片手でさするが、その間にもテュテュリスとヴァイズの話し合いはヒートアップしていく。

「しかしっ……」

「道を繋いでやろう」

「か、鍵がない!」

「あの」

「トアン、今は黙っておれ」

「で、でも、何の話を? オレたちはそんなとこに行くよりチェリカに会いたいんだ!」

「……。」

その一言を聞いて、テュテュリスの金の瞳は真ん丸く見開かれた。

「…………そうか……」

「会いたい、そういうなら、彼女が何者であっても受け止められるのだな?」

念を押すようにヴァイズが進みでる。

「もう、先程までように迷わない、そういえるか?」

「……」

知っていたのだ。

ヴァイズの静かな瞳を見ながら、トアンは唇をかんだ。

自分の考えが至らないばかりに、妙な価値観をもったばかりに、チェリカは自分には何も言わず、この事態になった。そして、そうなって尚、自分は迷っていたことを。

「…………迷いません。もう、オレは迷わない」

「聞いたかテュテュリス? 私は誰にも彼らの道を阻む権利はないと思うが?」

「聞いておるよ。おぬしときたら楽しんでるのかまったく……。仮にも世界の命運がかかっているのだぞ」

「かけてもいいではないか」

「ヴァイズ!」

「テュテュリス、他に手段はない」

「……本気か?」

「ああ」

ヴァイズは立ち上がると、壁にかけられた巨大な鏡をそっと指でなぞる。

「何を言っても無駄か」

はあ、テュテュリスは艶やかな黒髪を掻きあげた。

「くれぐれも気をつけろよ、おぬしら」

「ありがとう」

「では。」


『星の道は、開かれん』


……──!!!


(うわ!)

強い風と光に、ぎゅっと目をつぶる。

耳の奥のキンとした痛みと強い風の息苦しさだけが、今感じる全ての感覚だった。


足が地面についたのは、それから随分先のこと。ほっとして瞳を開けると、そこに広がっていた世界は想像していた物とは全く違っていた。

「え……?」

真っ暗な闇の中、足元のところどころに色とりどりの証明があった。

それが、延々と続いているのだ。


「帰ってきた……」

振り返ると、いつの間にかウィルが立っていた。その表情は、曇っている。

「ウィル」

「オレについてきてくれ。……いいな、絶対離れんなよ」

「お、おい!」

歩き出したウィルをシアングが引き止める。それでもウィルは振り返っただけで、すぐに歩き始めた。

「何がなにやら……。」

「でも行くしかない」

と、ルノ。

「そうだろう?」

「うん。この先に、チェリカがいるんだから──」

一歩踏み出すと、光る床の色が変わり、ポォンという間の抜けた音がする。それはまるで水の中から聞こえるように鈍く、重く響いた。

「行こう」


立ち止まっていたウィルの先には、まだ延々と闇が続いていた。

「ウィル!」

「……。スイの城へ」

トアンたちが揃ったのを確認すると、ウィルは小さく呟いた。瞬間、巨大なつり橋とその先にある奇妙な形の城があらわれたのだ。

城は、漆黒の色をしていた。それなのに辺りの闇には溶けず、不思議なことにはっきりとそこに『ある』のが見える。

「これは……」

「ここが、スイの城。全ての魂はここに還り、そしてここから巣立っていく……って聞いた」

「す、すごいね。そんなところに出入りできるなんて」

「オレもなんでかわかんねえけど、な」

少し悲しそうに笑うウィルの後ろで、城は威圧的に聳え立っている。

「──える」

「え?」

不意に、今まで押し黙っていたレインが口を開いた。

「レイン?」

心配そうにルノが顔を覗き込むが、レインはボーっとしたまま。

「聞こえる……」

「聞こえる?」

「オレを、──」

そこで口を噤んだレインに、何故だかそっとシアングが耳打ちをした。

「呼ぶ聲、だろ」

シアングが何を言っているかわからないが、レインがこくりと頷いたのが見える。

「…………オレもだ」

「シアング……?」

ルノの不審そうな声で、やっとシアングは身を離した。

「何を言ったんだ?」

「いや? あー、ちょっとレインが自分の腹の虫が聞こえるって──いてーッ!」

「言ってない」

「この状況で何をふざけてるんだ!」

レインとルノ、同時に足を踏まれたシアングが悲鳴をあげた。

「何でもねぇから、行くぞ」

そうそっけなく言い放つレインは、僅かに──それは、ほんの少しだけで、気のせいとも思えるが──熱に浮かされたような、表情をしていた。

まるで、愛しい人をまつ、少女のような。


思えばすべにこの時、じわりじわり、ゆっくりと侵されていたのだ。



ぎしぎし、ぎし。

軋む漆黒のつり橋は、その隙間から生暖かい風が吹き上げてくるたびに冷や汗をもたらした。

先頭を歩くのはウィルだが、その様子に全く恐れは感じられない。

「ウィ、ウィル、ちょ、ま……」

「ん?」

「怖くないの?」

「いや、全然。」

ケロリと言い放つ彼は、首だけはこちらを向きながらも足は止まらない。

ちょん、トアンの袖が引かれた。

何とか首を回すと、トアンと同じく怯えてきった表情のルノがいる。

その様子を見て、ウィルはため息をついた。

「何だよだらしないな。シアングとレイン

なんて、平然としてるけど」

「だ、だって」

「この先にチェリカがいるんだぞ。このくらいでへばって……ん?」

ピタ、その足が止まった。

「どうしたの?」

「誰かいる」

「え!?」


くすくすくす……


耳をくすぐるような、甘い笑い声。

ただその姿は、暗闇に阻まれてはっきりとは見えない。

「誰だ?!」

くすくす……

「わ!」

突然、ルノが悲鳴を上げた。どうしたのかと思ったが、振り向くより先にトアンも衝撃を受け、細いロープに沈む。

攻撃されたのではない。

ただ、体当たりされたのだ。しかし、

「シアング?!」

走ってぶつかってきたのはシアングだった。彼は、こちらの声など聞かずに声のほうに走っていく。

「まってよシアング!」

ルノを起こすと、トアンは走り出した。もうつり橋が怖いなどと考える余裕は、ない。

一気に駆け抜けてしまうと、声の主がいた。そして、否定するように首を振るシアングも。

声の主は、少女だった。

彼女は、まだあどけないその顔、褐色の肌に真紅の瞳。そして紫の髪──シアングの同じ色──をもっていた。

「どうして、ここに……」

「会いたかったの」

「シアング、知り合いか?」

「でもよ、お前は、」

肩で息をしながらも言葉を紡いだルノの声は、届いていないようだ。

「ルナリア、お前は──」

「おにいちゃまに会いたかった」

「おにいちゃま?!」

ルノとウィル、トアンは同時に叫んでいた。

確かに似ている。

しかし、シアングに妹がいるなどと、聞いたことがなかった。だが、聞き間違いではない。

「会いたかった……か。オレもずっと後悔してたんだ。お前を、守れなかったこと。でも、ルナリア、お前は」

しっかりとルナリア、そう呼ばれた少女の方に手を置き、シアングは言う。まるでそれは、少女と、そして自分自身に言い聞かせるようなものだった。

トアンたちは困って顔を見合わせるが、シアングの次の言葉に目を瞠る事となる。


「もう、死んでるのに……」


「え!?」

ようやく、シアングはのろのろと首を動かしてトアンたちを見た。

「妹のルナリアだ」

「で、でも今、亡くなったって」

トアンの言葉に、シアングの顔が曇る。はっとして、ごめんと謝った。

「…………。ずっと黙ってたけど、小さい頃人間に殺されたんだ。悪い夢みたいだぜ……」

『夢なんかじゃ、ないよ』

くつくつくつ。喉を震わせる笑い声に、トアンの背が粟だった。忘れはしない。この声は。

「シャイン!」

辺りを見渡すが姿は見えない。その代わり、ギギギ、と軋んだ音を立て、城の扉が開いた。

ルナリアはすっくと立ち上がると、城の中へ駆け出していく。

「ルナ!」

「シアング、まて!」

妹を追って走り出した彼を、すぐに追いかける。

一瞬、仲間を振り返ると、ルノの顔が悲しそうに雲ているのが見えた。


巨大な扉を潜り、柔らかい絨毯を蹴って走る。埃っぽさを感じずにはいられない場内は、所々蝋燭の明かりが揺れている。

広々としたエントランスには左右に伸びる階段があるが、シアングはそれには見向きもせずに扉が開け放たれた食堂に走っていった。食堂といっても、開いたままのドアから見えるテーブルと並んだ椅子でトアンが判断しただけだが。

もう少しで追いつく、──そう思った瞬間。

ギギギギ……

ゆっくり、だが確実に、ドアは閉まり始めた。それを見てウィルが叫ぶ。

「駄目だ! 一度閉まったら、空間が──……」

閉じ行くその間から見えるシアングが、振り返る。だが──

「おい!」

そう叫んだ声を最後に、

バタ……ン

扉は、閉まった。


「シアング!」

急いで手を伸ばして、扉を引く。思ったよりもあっけなく簡単に、それは開いた。だが、しかし。

「……え」

もはや目の前に広がる部屋は、食堂ではなかった。小さな小さな、何もないほこりまみれの部屋。

「どうして……」

かくん。

ルノの膝が折れて、地面に座り込む。中に入ろうとしたトアンを「まて」と、ウィルが引き止めた。

「この城は、空間が捩れてるっていっただろ。一度扉が閉まると、別の部屋に繋がっちまうんだ。オレたちが使ってたときはスイが特別な魔法で繋ぎとめてるから変わらないけど、そんなのは本当に一部だ。それ以外のこの城の沢山のドア、窓が何処に繋がってるかなんて誰にもわからないんだよ」

「じゃ、この部屋は……」

「繋いでない。さっきの部屋が何処にいったとか、……全然わかんねえ」

「そんな、じゃあ、シアングは?」

座りこんだまま、ルノが真摯な表情で訴える。ウィルはじっとそれを悲しそうに見ていたが、やがてゆるゆると首を振った。

途端、綺麗な顔がくしゃりと歪む。

気休めで「そのうちまた会える」なんていえない。そうわかっていながらも、ウィルは押さえ込むように口元を覆った。

トアンは、じっと部屋を見ていた。

先程の少女が本当に妹かどうかわからないが、シャインの声が頭から離れない。

(きっと、シャインが何かしたんだ)

漠然と、だがはっきりとそう感じた。


「……ルノさん」

そっと手を出すと、泣きそうな顔と目が合った。

「いこう。」

「……でも……」

「シャインに会えば、きっと何かわかるから。行こう、ほら、立って」

強引に引っ張り上げると、随分と軽い彼はすっくと立ち上がらせることができ、自ら服についた汚れを払い落とした。

「……ああ。そうだな。ここにきた目的も、果たさなければ」

「ルノ」

無理すんなよ、とウィルが声をかける。

「無理などしないさ。早く二人をみつけて、色々とっちめなくてはな」

「お、おい」

ツンと顔を逸らし、一人で歩き出したその後姿をみて、トアンとウィルは互いに苦笑した。

声が聞きたい、聲が、聞こえた

会いたい、会いたい、会いたい

聲がする方は、真っ暗で何も見えないよ

会いたい、会いたい

見えないよ、進めないよ、ああ、そうしてる間に聲が霞んでいく

会いたい

消えないで、ここに居る。ここに居るから

──早く迎えに来て──


ルノが振り返ったとき、スイのところにいこう、そういったウィルの道案内のもとで、トアンたちは歩き出した。

迷わないようにしっかり辺を見渡す。ふと、レインがどこか遠くを見ているのが見えた。

「兄さん? どうしたの、追いてっちゃうよ」

「……」

「どうしたんだよ。しっかりしろ」

ウィルが一歩進み出て、彼の瞳を覗き込む。

「レイン──おい、おいってば!」

左右で別々の輝きを放つそれは、怖いぐらい澄んでいて。

まるで、レインすらもどこかにいってしまいそうで。ウィルは背筋がぞっとするのを感じた。

「……あ、ああ」

ガクガクと揺さ振られて漸く気がついたように、レインは声を上げた。見る見る瞳も元の輝きに戻る。

「痛い、離せ」

「あ、……ご、ごめん。」

「……。いこうぜ」

何事もなかったのように歩き出すレインの後姿を、ウィルはじっと見ていた。

(なんだ、この胸騒ぎ)

ルノが心配そうに話し掛けると、レインはめんどくさそうに顔を背けた。そうしている彼は、いつもどおりにみえるのに。

「ウィル、いこう?」

「トアン……。そうだな、行かなきゃ」

駆け出して先頭に回りこみ、拳を振り上げるウィルの姿を、レインは眩しそうに、見た。


突き当たりの赤い扉を開けると、その小さいい入り口からは想像出来ないほどの大きい部屋に出た。ウィルはその部屋の隅にあった洋服ダンスをあけると、その中に飛び込む。

「こっちこっちー」

「えええ!?」

恐る恐るタンスの中を覗いてみると、中は真っ黒悩みで埋め尽くされていた。だが確かに、そこからウィルの声がする。

「早く行けよ」

「うわあ!」

と、突然背中を──恐らくレインに──蹴飛ばされ、闇の中に転落する。

「うわあ──あ──あ──あ──……」

悲鳴は長く長く伸び、暗闇に響いてはじける。

と。

「……あ──あ──いて!!」

落下した先は、通気孔と思われる穴を滑り落ち、ソファの上に辿りついた。

生憎、硬いソファに。

「いててて」

「大丈夫か? あ、早くどかないと」

「え?……ぐえ!」

「わりぃな」

潰れた蛙のような声を出したトアンの上には、ちっとも悪びれてない表情のレインがいた。

一度ぐっと踏んでからヒラリとその上から退くと、部屋を見渡した。

部屋は、あまり綺麗とはいえなかった。

散らばった本、積木、床に放置された上着。

「……ここ、オレたちの部屋なんだよ」

その視線に耐えられなくなったのか、ウィルは頭を掻きつつ決まり悪そうに告げた。

「このきたねぇ部屋?」

「う、うるさいな。散らかすのはオレ以外だ! ちょっと見ない間に、また汚くなってる」

「別のヤツもいたのか」

「あ、ああ、うん。友達が二人」

「ふうん……」

「その二人はいまどこに?」

口を挟んだのはトアンだ。

「え? きっとこの城に居ると思うけど」

「じゃ、危ない──うお!」

どさり。

落ちてきた来たのは、ルノ。

「早く退けって言おうとしたんだけどな」

確信犯のようにレインはクツリと笑うと、潰れたトアンを覗き込んだ。

「す、すまない! 今どくから」

「あ、あい……」

「別に乗っててもいいぜ」

「レイン! 悪かったな、トアン」

「ううん、大丈夫……。その二人ってどこに居るの?」

「多分スイの傍に居るんだと思うけど……。こっちだ」

はあ、ため息をついてから、ウィルが扉を開けようとした。

と、そのとき。

パタパタパタパタ……

軽い足音が聞こえて、トアンたちは身を硬くする。

パタパタパタ…………

その足音は何かを探すように、廊下を走り回っていた。

「誰──?」

トアンは剣の柄に手をかけて、目を眇めた。足音は、段々近づいてくる。──と。

「……」

何かに誘われるように、ルノが扉に額をつける。

「まさか…………」

「え?」

ルノの呟きを聞き返したとき、トアンは扉を壊す勢いであけた。

「チェリカ!」

廊下にいた少女はゆっくりと振り向くと、暗い瞳を向けた。

「チェリカ、戻ってきて! お願いだよ!」

駆け寄ってその肩を掴む。幸いにも敵視され攻撃されることはなかったが、何の反応もなかった。

ただ、見返す紅い瞳。

「ハルティア、妹を返してくれ!」

「チェリカ!」

ウィルとルノも必死に声をかけるが、反応は、ない。


「みーつけた」


ぞく。

背中を這い上がる寒気に身構えた。が、剣に添える手は震えている。

相手は、すぐにわかった。途端、チェリカが顔をあげる。

「シャイン……」


シャインはその顔に酷薄な笑みを浮かべると、一歩進む。

「勝手なことをされると困るんだよ、トアン。ハルティア様、お怪我は?」

「ない」

「よかった。急に居なくなるから心配をしたんですよ」

「……」

ハルティアはぼうっとした瞳で辺りを見渡す。

「まだ動いてはいけませんよ。その体には、馴染み切っていないのでしょう?」

「……」

一歩。シャインの足が、また進む。

「トアン」

そ、小声でウィルが呟いた。まだシャインには聞こえない距離だ。

その声と強い瞳に、トアンは一瞬呼吸を止めた。恐怖を消すように、鼓動を抑えるように。

そして。

「逃げろ!」

高らかに叫んだ声に弾かれるように、トアンは走り出した。その手に、しっかりと──チェリカの手を掴んで。

ひゅう、冷気頬を撫ぜるのと同時にルノが氷の壁を作り出す。すぐさま追い始めたシャインの足音は、舌打ちとともに壁の向こうでとまった。こうしておけば、時間は稼げる。

「トアン、突き当たりを右に! 曲がったら三番目の窓から飛び出せ!」

「わかった!」

遅れがちになるルノの手をウィルがとり、ただ、走る。

「でも、は、ウィル、シアングが……」

「悪いけど後だ! 今はあいつから逃げるんだよ!」

「…………。」

たたたた、乾いた足音が絨毯に吸い込まれる。窓をあけてよじ登った時、ガシャン、氷の壁の割れる音をきいた。焦りで震える腕を何とか落ち着かせ、チェリカを引き上げて飛び降りる。下は暗黒が埋め尽くしているが、不思議と恐れはなかった。

ドサッ

すぐに、足が地面につく。振り返ると、低い低い階段が後ろにあり、低いところに繋がっていたようだ。床も絨毯ではなく、冷たい石造りだ。

「ここをまっすぐいく!」

「わかった!」

再びチェリカの手をひいて走る。不思議なことに、チェリカは一切抵抗せず、ただひかれるがままになっている。

「チェリカ……」

「……」

彼女は一切、答えない。

「ごめんね、一人で抱え込ませて」

もう、一人にはさせない。



暖かかったその手は、いまはひんやりと冷たくなっている。まるで、無機質で、生命をなくしたかのようだった。

「……。」

一度に、沢山のものは得られない。どんなに望んだって、何かを得るとき、自分は何かを失っていくのだ。

(シアング……)

最後に見た表情が忘れられない。

彼は、今何処に?

(シアング、後で、必ず来るから)

「待て!」

冷たい声が追いかけてくる。もう、足音が聞こえる。来る。シャインが来る。

「目の前の鏡に触るんだ! そうすれば、外に出られる!」

床に書かれた真っ白なラインを飛び越え、正面の壁にかけられた鏡に手を伸ばす。しかし、まだ遠い。

「逃げられるとでも思ったのか!」

勝ち誇ったかのようにシャインが叫んだ。だめだ、逃げ切れない。──捕まってしまう!

「……。よし」

後ろで、ウィルが小さく呟いた。何を、そう問う前に、ウィルの足は止まって、逆方向に走り出した。ザア、ダダダ! ブーツが砂を蹴る音が聞こえる。

白いラインを越え、壁に手をつく。

「ウィル!」

ブ─……──ン

はっと振り返ったときには、光の壁が白いラインから聳え立ち、通路を遮断していた。壁の向こうには、ウィルの後姿がある。

「ウィル!? 何やって、」

「……逃げ切れねえ、だろ。外に出るまでだって多少の時間はかかる。……オレが、くい止めるよ」

「何言ってんだよ! ウィル、早くこっちに!」

ウィルは首をゆるゆると振ると、槍を構えた。シャインは足を止め、不思議そうにウィルを見ていた。

トアンは壁を拳で叩いたが、壁はびくともしない。


「…………うそつき……」


ポツリ。

その小さい一言は、壁の向こうのウィルにも聞こえていた。

はっとして振り返ったウィルを、まっすぐにみていたのは、……レインだった。

「お前も、オレを、おいていくんだな」

「違う」

慌てて振り向いたが、ウィルはそのまっすぐな瞳に耐えられず、そっと目を逸らした。

「ずっと一緒に居るっていったくせに……。結局、嘘つきじゃないか」

「違う、違うんだレイン……」

「何が違うんだよ!」

声を荒げるレインに、シャインは視線を移した。何を思いついたかはわからないが、口元には笑みを浮かべたままで。ゆっくりゆっくり、近づいてくる。

「トアン、レインを頼む」

「ふざけんな!」

トアンはおろおろと手を彷徨わせたが、ウィルの静かな声を聞き届けると、そっとレインの手をとった。

「離せ」

「兄さん、行こう」

「こんなの認めない……! うそつき!」

「ルノさん、鏡へ!」

「……あ、ああ」

「うそつき、うそつき! お前までアルと同じじゃねぇか! 許さねぇからな!」

その罵りの下にある、彼の心の叫びが聞こえないわけじゃない。わかってる。わかっている。

トアンに少しずつじりじりとひかれながら、それでも諦めずにウィル呼んでいる。

(そんなに叫ぶなよ。喉、痛めるぞ)

そう思っても、口にすることはできない。

ルノの体を押し込むと漸くトアンの手が鏡に触れ、中に吸い込まれていく。

もう見ていられなくて、ウィルはシャインに向き直った。


「離せ、離せって!」

「……ごめん、ウィル……」

レインの体を先に光の中に押し込み、トアンはウィルの姿を確認しようと振り返る。──瞬間。

するり、手が、離れた。

「チェリカ──チェリカ!」

さっと体が冷え、慌てて手を伸ばすが彼女には届かない。

光が──トアンを引っ張って行く。

伸ばした手はそのまま虚しく宙を掻き、トアンの意識は遠ざかっていった──。


「ほらね、戻ってきた」

眩い光が消えた後、薄暗い廊下でシャインは勝ち誇ったかのように笑った。それを確認し、ウィルは愕然となる。

「お帰りなさいませ、ハルティア様」

「なんで、何で戻ってきたんだよ! チェリカ、今なら間に合う! 行け!」

チェリカは壁越しに二人を見、少しだけ顔を歪めた。

「殺すな」

ただ一言、そう呟くとチェリカは壁に手を触れる。彼女が触れた部分から壁は真っ黒に変色し崩れていく。

「……。了解しました」


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