第25話 ながいながい雨の中で
「それは、どういう意味かわかっているか? 」
「……」
ウィルは懇願の意思を、瞳で訴える。が、紅い瞳はなにも変化はない。
「ウィル、答えろ」
「……。わかってる、わかってるよ。でも、胸騒ぎするんだ。それに、さっきのは」
先程、スイはウィルに水鏡を見せた。
其処に映ったのは、朱。
よく見ると、それは夥しい数の、朱い蝶の屍骸。
スイが何故それを見せたかわからなかったが、ウィルは心臓を鷲掴みにされた気分だった。
俯きかけた顔を上げ、ウィルは今自分が守るべき人──スイに気持ちをぶつける。
「それはお前が精霊だからで、精霊が減少しているから」
「違う! 」
「……何が、違う? 」
「スイ!ホントに、アンタはオレを精霊として生き返らせたのか?! 」
「そうだといっただろう」
「じゃあなんで腹が減るんだよ!眠くなるんだよ!! 」
「……人間だったころの習慣が残っているんだろう」
「じゃあどうしてオレの……ッ!! 」
必死な気持ちの瞳に、スイは応えない。
続きが出てこない。
暫くにらみ合っていたが、やがてウィルがため息を一つこぼした。
「……。なんでもない、わるかった。失礼しました」
律儀に礼をしてから部屋を出て行くウィル。スイは、ポツリと呟いた。
「…………。もう、限界か」
血相を変えたシラユキが走ってくるのも、予想していたものだ。
「スイ様! 大変! ウィルがいなくなっちゃった!! て、手紙が!」
「安心しろ。そのうち帰ってくるだろうな」
別れを告げる手紙を持った、薄桃色の髪を優しく撫でてやれば、小さな子供は安心したように目を細める。
しかし、スイは。
子供を抱き寄せながら、ゾッとするような笑みを浮かべていた。
もしウィルが行かなければ、もう少し冷静ならば。
スイの異変に気づけたはずなのに。
玉座の裏にある、空間を越える扉に体を滑り込ませた。
『何処へ』
「あいつの……レインのいるところへ!!」
もう誰に姿を見られようが構わなかった。
トウホに教えてらった研究所の場所は、ここから西の山一つ越えたところにある、洞窟らしい。そこに入るためのパスワードも、教えてくれた。
「随分近いな」
そういったのはシアングだ。
「トウホさんの考えてることは良くわかんないけど! 」
ガタガタと揺れる馬車を操りながら、トアンが返す。
「ありがたいことには関係ないよ! その分早くルノさんを助けられる!」
「パスワードは『最果ての道、陽炎の燈』だ。覚えたか?」
「あ、いまメモするから……よし。」
「ま、頑張ってな。なんかあったらここにきな。手当ては得意だから」
「トウホさんは、ここから逃げなくて良いんですか? 」
トウホの疑問は、至極当たり前のことだが。
「あ、いーのいーの。俺の旅の目的は『逃げる』じゃなくて、『追う』だからな」
ヒラヒラと手を振るトウホは、表情が読めない。
胸に一括りの疑問を抱えつつ、トアンたちは小屋を飛び出したのだ。
「曇ってきたね」
チェリカの声が聞こえた。意味を理解し、頭上を仰げば、灰色に染まり、重くたちこめた厚い雲が我先にと急ぐように、トアンたちの目的地にむかっていた。
「いやな予感がする……お兄ちゃんのときと似てる」
「チェリカ……大丈夫だよ。ルノさんはしっかりしてるから」
そのことばにチェリカが見せた笑顔は、消え去りそうなものだった。
「もうすぐ見えるな」
「シアング」
「だぁいじょぶだって。ルノ、しっかりしてるって自分でいったろ」
身を乗り出しながら笑うシアングだって、どこか不安を噛み殺している。が、その視線の先に、洞窟を見つけて息を飲んだ。
「あれか……」
天然の洞窟内部を不自然に固めて、まるで地獄へ続く道のようだ。
「ジャスミン、ここでまってて」
近くの森にジャスミンと馬車を隠し、トアンたちは洞窟にむかって走りだす。
頭上の雲は、とても重い。
目覚めると、体中に痛みが走った。眉をしかめてから、気怠い体をゆっくり起こす。
広すぎるベッドには、今レイン一人きり。ベッドサイドに置かれた紙切れをみて、レインは小さく息をこぼした。
(金なんて……人一人殺すか適当に寝てやれば簡単に手に入る)
女はもちろん、時には男でさえ、レインは相手を選ばない。最近では主に男が多いが、一考に構わない。基準は金だから。
(でも、オレはなんで──……)
唐突に浮かんで頭から離れない疑問。
なぜ自分はこんなにも、金を欲するのだろうか。
(記憶、抜けてる。ここにくる前までのことは全部思い出せねぇけど、ここにきてからのことも、最近薄れてきてる)
穴が開いた記憶。
ハクアスとはいつ会った?ガナッシュはいつから傍にいた?
(くそ……)
穴を埋めるように、レインはシーツを握り締めた。
もうどれくらい眠っただろう。ゆっくりとルノは顔を上げた。
「ふぁ……ん、ここは時間がわからなくて困るな」
ごしごしと目を擦ってから、ルノは昨日からほっとかれた食事を見つける。すっかり冷めたそれは、食欲をそそらない。
まだねむっているガナッシュがいるため動けない。
ペタペタペタ。
妙な足音が聞こえてきたのは、ルノが起きてからそう時間はたっていない。
顔をあげれば、黒のズボンに上半身に裸、足は素足という寒そうな格好のレインが、食事をもってきた。
「くってねぇのか」
「シャワー浴びたのか?羨ましい」
「……話聞いてんのか」
呆れながら、また食事を置く。手を付けていないものは文句をいいながらも回収した。
「あ、レイン! 」
「あ? 」
「……あ、ありがとう」
「…………何が?」
あっさり言われると、仲間の礼とガナッシュのことの礼が出てこない。
どうしようか困っていると、頭になにかぶつかった。
「いたッな、なんだ? 」
手にしたものに目を懲らせば、それは小さな小さな……チョコレート。
「? 」
さっぱりワケがわからなくて、頭をひねっていると、レインが一言。
「……飯、食わねえならそれぐらい食え。」
「あ、すまないな」
ペタペタ、と暗闇に白い背中が消えてゆく。
ルノは手の中のチョコレートの包みを開け、食べてみた。
「……ッ、苦……」
想像していた味とは随分違う。
チョコレートは、こんなにも苦味が強いものだっただろうか?
「ビターだからにゃ」
「!ガナッシュ!起きたのか!? 」
「そんなに驚くにゃよ、アー、正しくには『起きていた』だけどにゃ」
「……レインのところに行かなくていいのか? 」
「まだここにいたいにゃ」
「好き物め」
フン、鼻を鳴らすルノに、ガナッシュは軽く爪を立てた。
「……レインは」
「ん? 」
「チョコレート、好きなのか? 」
「アー、チョコだけは良く食べるにゃ。何でかは知らんけどにゃ。もともと食は細いけど、チョコは栄養価が高いから、他人もあんまり口出ししないにゃ」
ふと、ルノの脳裏に、レインが袋いっぱいのチョコレートを持って、一つ一つ満足気に食べている姿が浮かんだ。その顔はあまりにもニコニコして嬉しそうで、そしてあまりにも似合わないので、ルノはすぐに軽く吹き出してしまった。
彼がそんな顔をするなんて、想像できたのが不思議だ。
「?……何笑ってるにゃ」
「い、いやすまない。なんでもない」
「なんにゃ、もう」
プッと膨れたガナッシュを撫でながら、ルノはなんとなく考えた。
(なんだ? ここも案外、居心地がいいかもしれない)
そんなことを考えてしまう自分も、なんだか不思議だった。
「ここ? 」
チェリカが無遠慮に扉を叩いた。
洞窟の奥に……何故かさほど奥ではない……ところにあった石造りの古い扉。真っ暗だった洞窟内は、不思議なことに扉の周りだけ明るい。
「こんな簡単に見つけちゃったけどさ」
「ま、やるたけやってみようや。えーっと、何だっけ」
「『最果ての道、陽炎の燈』だよ」
トアンがメモを見ながら呟く。
「あ! 」
ゴゴゴゴ……
ゆっくりと重い音を立てて、扉が開いていく。
そしてその隙間から、灰色の長い通路が見えてきた。
「さっすがトアン。偉い偉い」
「そ、そうかな」
チェリカがトアンに笑いかけ、そして全貌を現した通路を見やる。
床自体がほのかに発光していて、ところどころについたランプの火はゆらゆら揺れている。
しかし、
人の気配は、ない。
「変だぜ。オレたちが来た事は喜ばれない客だ。なのに、なんで見張りも何もいないんだ?」
慎重に、一歩ずつ進む。
トアンが先頭を歩き、チェリカがその後ろ、シアングが殿を務めながら言った。
「出かけてるんじゃない? 」
「それはないっしょー」
「でも人の気配がないよ」
チェリカの声が廊下に響く。
「それ、オレも思った。おっかしいぜ」
──……──
「あ」
「わ」
「トアン?」
突然不意に声を詰まらせて立ち止まるトアンに、チェリカがぶつかる。
シアングが不審そうに話しかけた。
トアンにだって訳が分からない。
いきなり、冷たい手で心臓を鷲掴みにされたような感覚。
「な……なんだろ……」
「顔、真っ青だよ? 」
チェリカがトアンの覗き込み、言った。
「大丈夫?具合わるいんなら休む? 」
「いや、今は先を急ごう。ごめんごめん、もう大丈夫」
へらりと空元気で笑ってみせ、トアンは歩き出す。
その後を歩きながら、シアングとチェリカは肩をすくんで見せた。
暫く行くと、一際大きな扉が現れた。廊下はまだまっすぐ続いているが、この大きな扉も気になる。
「なんだろうね、これ。中、どうなってんのかな」
「チェリカ、危ないよ」
「平気平気。……わお」
ちょん、軽く突いただけなのに、扉はゆっくりと開いていく。トアンが罠だとかなんだとか考えるより早く、チェリカは部屋の中に入っていった。
「チェリカ、危ないってば」
「んー?全然真っ暗で何にもみえない」
「チェリカー」
「あ、これ、ランプかな」
ゴソゴソと手探りで暗闇を漁り始めるチェリカに、トアンとシアングも部屋に入る。
(いやな感じだ)
シアングは警戒するように辺りを見渡した。が、何も見えない。
「灯せ、レング」
チェリカがランプをピンと弾く。
キンという澄んだ音がして、ランプの光が部屋を照らした。
──瞬間。
「うひゃあッ」
「うわ!! 」
「ゲ」
パリーンという耳障りな音をたて、チェリカの手からランプが転げ落ちた。
冷たい床に一瞬にして炎は吸い取られ、辺りをまた暗闇が包む。
「……みた? 」
たっぷり沈黙した後、チェリカが震える声で尋ねた。
「うん……」
チェリカの震える手をそっと握って、トアンも自分の動揺を消す。
「あんな、あんなこと」
今の光景を忘れるように、チェリカは頭をブンブンと振った。
「チェリちゃん……」
シアングが一歩進み出て、手探りで彼女の頭を撫でる。
辺りを探ろうと、トアンが一歩後ろに下がる。……腰の辺りに何か当たった。手探りでそれを触る。
(机?机、かなぁ)
さらに触れていく。と、なにか堅いものくて平べったいものに指が当たる。
(なんだろう、これ)
カチッ
ブー……ン
部屋全体の証明がついたようだ。明るい光がここまで似合わない部屋も、珍しい。
トアンが今触ったものは、この部屋の証明のスイッチだったのだろう。
明かりが照らす室内には沢山のカプセル。その中には異様のものたちが、どれも苦痛の表情をあげて、カプセルの内側に張りついていた。どれも、血や脳髄をまきちらして。
そしてその異様なものたちは、どれもみな、
「酷いよ、酷い……! これ、みんな、もとは人間じゃない!!」
チェリカの悲痛な声が、部屋に響いた。
そこにいた異様なものたちは、どれもみな人間の一部を残していた。それがかえって不気味さを際立たせている。
今更込み上げてきた吐き気。
トアンが口を押さえると、シアングが背中を撫でてくれた。
「シアング……」
「我慢できねえなら吐け。楽になれるから」
「大丈夫、うん……シアングとチェリカは? 大丈夫?」
「オレは平気。でも」
ちらり、と視線を外して。
「チェリちゃんが」
蹲っている彼女は、僅かに肩を震わせていた。
泣いて、いるのだろうか。
心配しながら、ゆっくり顔を覗き込めば、予想とは外れて、彼女は泣いていなかった。
しかし……
「……もし」
「ん? 」
「お兄ちゃんが、こんなふうになってたら、私……。怖い、怖いよ」
「チェリカ、大丈夫だよ。時間はそんなに経ってない。だから、大丈夫。それにルノさんの存在は、ここの人にとっても特別だろうし」
なにしろ、あの父が利用していたのだ。
「……この部屋から出ようぜ。気分悪くなる」
シアングに促されるまま、トアンはチェリカの腕を取って歩きだす。
しかし、出口とは反対方向に、もう一つ扉があることに気がついた。
「シアング、あれ何かな」
「まったろくでもないもんじゃねえの? 嫌だなあ」
「行ってみよ、気になるんだ」
「はーいはい」
チェリカの様子に注意しながら、トアンは扉の前に立つ。思い切って開けてみると、中には小さな祭壇。その上には綺麗な鏡があった。
「鏡? どうして、こんなところに」
「でっけーな。これ。何に使うんだ? 」
「魔力の匂いがする」
「え? 」
つい、とチェリカが進み出て、鏡に触れる。
「なんだろ、この感覚」
……チ
「変なの、なんか、これ」
……バチバチッ……
なんと鏡の周りで光が発生し、静電気のように音を立てる。
「な、なんかヤバ気な雰囲気」
「チェリカ、危ない!!! 」
咄嗟にチェリカの手を引くが、静電気のような音は治まらない。
(爆発する──?! )
バチバチバチバチ!!!……
ぎゅっと目をつぶって歯を食いしばる。が、いつまで経っても来るであろう衝撃は訪れない。
その代わり、ゆっくり開いた目に、映ったものは、人の形をした、光の塊。
それは徐々に、鱗が取れる様に、表面の光がはがれていく。
「ああ、成功? 成功したのか?」
聞き覚えのある声。
だが、それはありえないのだ、と、トアンは否定する。
「すっごい目、チカチカするぜ、まったく」
茶髪が、見えた。
赤いバンダナを額に巻き、背中に背負った槍。
いつか見たときは剣だった。
「どうして、まさか……ウィル? 」
驚いた表情さえ、懐かしいと思う。
死んだはずの親友が、其処にいた。
「トアン……? なんで、お前」
「それはオレの台詞だよ。だ、だって君はオレが……いや、まさか、幽霊……ッ」
「ちげーって。幽霊なんかじゃねえよ」
軽やかな足取りで、ウィルはトアンの前にたった。
「じゃ、ど、どうして」
訳が分からなかった。なにしろトアンが、この手で、ウィルを。
親友だった彼がトアンの行く道に立ちはだかったから、それも彼が選んだ道で。
それは、言い訳にしかならないだろうけど。
──刺したという事実。
「……オレは、ウィルのことを殺した」
「まぁ、正確には『還した』だけど。オレはもともと存在しないもんだから」
「でも! 刺したんだ! それは事実だろ!」
「まぁ、ね」
耐え切れず吐き出した思い。ポン、と肩に置かれた手は少し重く。そして信じられないほどに、ウィルの目は優しかった。
「訳を話す。……オレ、実はあのあと、誕生の守護神『スイ』ってやつにあったんだ。オレはまだ世界がみたいっていったら、そいつ、『精霊が減ってるから、お前精霊になれ』って言ってきて。……チャンスだったから。オレは精霊になったんだ」
信じがたい話だが、今ここに彼がいることを見れば、信じずにはいられない。
同じ村で育った親友なのに。ウィルの人生は、波瀾万丈過ぎるだろう。
「じゃ、どうしてもっと早く会いにこなかったの? 」
少し不満げにチェリカが問い掛ける。
「……あー、まあ、なんだ。スイの存在が世間に知られるとまずいんだってさ。だから、スイの手伝いしてるオレも隠れなきゃならなかったんだ。どっから情報がでるかわかんないからな」
「ふーん。……ん? じゃあどうして、今ここにいるの?」
「……それは」
ウィルが気まずそうに俯いた。
「それに、オレたちに話していいのか? 」
シアングも一歩進み出て、ウィルに問いかけた。
「…………。オレ、もうあそこには戻らない。戻れない。お前たちなら信用できると思ったし、もしスイの居場所言えって言われても、もうオレ、戻れないんだ」
「どうして」
「スイの玉座の裏から、世界中のどこでもワープできるんだ。でも、それには移動先に楔がいる。移動先に目指すもの、目標とするものだ。で、そこからスイのところに戻るにも、また別の楔がいるんだ。それは、ちっさいペンダント」
ちらりとウィルを見れば、首には何もついていない。
まさか、
「置いてきたのか? 」
「もちろん。……なんでトアンが情けない顔すんだよ」
「だって、」
「もうオレは戻ろうにも戻れないんだ。スイの城は普通には行けないし」
「じゃあなんで! なんでそこまでして!? 」
「助けにきたんだ」
「え? 」
「レインを。知ってるか? 顔の綺麗な暗殺者」
「知ってる!! ね、じゃあ一緒に行こうよ」
チェリカがウィルの手を取った。
「目標としたのって、レインのこと?」
「ああ。レインのところにって願ったら、ここに、な。なあ、お前らどういう関係? ……あれ」
「? 」
「ルノは? 」
重い、沈黙。
ああ確か、とトアンは思う。
ルノを助けに来たとき、ウィルは居た。敵として。
だが今は、あの時と良く似た状況なのに、ウィルはトアンたちの味方としてここに居てくれる。
あまりにもできすぎた、しかし夢でない現実。
「ルノが、レインに? 」
ざっとこれまでの状況を話すと、ウィルは複雑そうに顔をゆがめた。
「あいつ……。」
「きっとレインは私たちを庇ってくれたんだよ。ウィルとレインがいつあったとか、またゆっくり聞かせてね」
「な、なんだよチェリカ」
「ウィルが帰る場所捨ててまで助けに来るんだもんね」
「チェリカ!」
「? 照れてんの?」
「誰が、誰がだ!」
まるで子犬のケンカ。チェリカとウィルが騒ぐのを見ながら、シアングが少し笑みを漏らした。
「なんかさ、あいつ変わったな」
「ウィルが?」
「うん。やけに正義感が強いのは、あん時のまんまだけど。でも素直になったよ。あん時のまんまだったら、そのスイとかいうやつんとこから絶対出てこなかったと思うぜ」
「そうかな」
「正義感に押しつぶされて、動けなくなるんだ。……あの時、今みたいなあいつだったら、……ルノ連れて逃げ出したと思うけど」
「か、顔怖いよ」
「ああわり、ちょっと複雑で」
「……だろうね」
シアング的には喜べぶに喜べない考え。トアンが小さく吹き出すと、少しだけ睨まれた。
「ほいじゃ、そろそろこの部屋から出ようぜ」
「またあそこ通るの? やだなぁ」
「あ、じゃ」
「目、つぶってればオレが誘導するけど」
「ありがとシアング!」
勇気を出して口を開いたのに、さっとシアングにいいところを横取りされたトアン。どうにもならずかたまっていると、ウィルの槍が背中をつついた。
「おーいおいおい。情けないねぇ」
「な、うるさいぞ! オ、オレはね」
あわてて振り返った際、背負った剣が弧を描いて壁をこすった。
キンッ……
突然響いた金属音に、その場にいた全員が下を向く。そこには、
「鍵……? 」
どこから落ちてきたのか分からないが、銀色に光る小さな鍵がそこに落ちていた。
「ヒィッ!! 」
扉を開けた瞬間の悲鳴。
それが今朝まで夜を共にしていた男の声だと知って、レインは眉を潜めた。
なんだか今日はおかしい。
暗殺部隊の他の隊員にもまったく会わない。なにか大きな仕事があるのだろうか?自分だけが呼ばれなかったのは何故だろう。それに、普段ウロウロしている研究員たちもいない。
疑問に思いながら、丁度、第二実験場にやってきた時だった。ここは作られた合成獣を戦わせてみたり、暗殺部隊の隊員同士を戦わせて戦闘能力を向上──そして惨殺が行なわれる場所だ。負けた方に、未来はない。
事実、レインの友人──たまに喋る程度だったが、隊員のなかではレインが最も信頼していたが──もここで死んだ。
否、殺したのだ。
自分の手が。
「レイン! レイン助けてくれ!!」
半狂乱で泣き叫ぶ男の声に思考を止め、レインはガクガクと揺さぶられる体に不快感を覚えた。
「なんだよ、うざったい」
確かこの男、この研究所の第一人者。ここで一番の権力をもっているのは、この男のはずなのに。
何故、怯えているんだ?
「殺される! 殺されるぅ!」
「誰に」
一番の権力者が、何故。
レインがこの男に対して言葉を改めないのは、既に男が自分の体に溺れているのを知っているからだ。
(愛人にでも殺されるってか?)
「私は、私はまだ死にたくない! レイン、お前を、私は」
「ッてぇ、離せよ」
縋りつく力は加減を知らないらしい。レインの顔が歪む。
しかし、手は離れない。
「いい加減にしろよ、おっさん……」
「私は、私は、アハヒァ」
語尾をあやふやにし、白目を向いた男。レインが後ずさると、ずるりとその体は崩れる。
見れば、脳天に矢が突き刺さっていた。
「な、」
「フフフ、汚い手でレイン君に触るから」
顔をあげると、薄暗い部屋の奥にハクアスがいた。手には弓。顔には笑い。
「ハクアス……? 」
「おはよう。顔洗った?ちょっと寝不足みたいだね 」
「何で、こんな。お前、こんなことしてアリス箱庭に何言われるか」
「言われる? どうして」
「こんな……。すぐに知られる!」
「知られる、ねえ」
ハクアスは笑いをとめない。レインの背筋を冷たいものが流れた。
「……何がおかしいんだよ」
「誰がいうわけ?箱庭に。誰も言わない、いえないよ」
カチリと部屋のライトがつく。
明るくなった部屋の光景に、レインは息を呑んだ。
逃げ惑うように折り重なって倒れている研究員。
苦悶の表情を浮かべたままの同期の暗殺隊員。
全て、死体だった。
「……これは……」
その背中に深々と突き刺さった矢、矢、矢。
「どうして……。」
悲しいとか、そんなのは感じない。ただ、咽るような血の匂いに、呆然と零したレイン。ハクアスが小さく呟く。
「……もう時間がないんだ……」
「は? 」
「おいで、見せたいものがあるんだよ」
白衣を翻して暗闇に消えていくハクアス。その後ろにオーラがぴったりとついていく。
レインは部屋をもう一度見渡してから、ハクアスの後を追った。
「……ッ」
「な、なんだ? 」
大人しくしていたガナッシュがいきなり身を起こしたのに、ルノは驚いて目を瞬いた。
「動き出した……?」
「ガナッシュ、何言ってるんだ」
「まさか、もう」
「壊れたのか? なあ」
ブツブツと呟きだしたガナッシュを慌てて振り回してみる。
「やめるにゃ!! 」
「すまない」
「もう……。綿が出たらどうするつもりにゃ、まったく。にゃ、んなことしてる場合じゃないにゃ」
ヒラリと飛び降り、彼は鉄格子の隙間に大きい頭を押し当てる。なんとか抜け出すと、大きくジャンプして入り口の横にあったレバーにしがみつき、そのまま体重で下げた。すると、なにやら大きなパネルが出てきた。
「何してるんだ? 遊んでるのか?」
「違うにゃ!」
小さい前足をパネルに押し当てる。ピッという音がして、牢の扉が開いた。
「ルノ、訳は話せないけど、今から暫く俺についてきてほしいにゃ」
「……。構わない」
「そーいいながら何してるにゃ!」
開いたばかりの扉をしげしげと見つめるルノ。ガナッシュはそのローブの裾を咥えて先を促す。
こうして、ルノとガナッシュは長い廊下を走り出した。
(まずいにゃ、早すぎる!このままじゃ……)
「ハクアス……?」
あの凄惨な光景の部屋を駆け足で通り抜け、トアンたちはさらに長い廊下を進んでいた時だ。
目の前に沢山の扉が現れたのだ。そしてそれすべてに名前のプレートが付いていた。そのうち一つに見覚えのある名前を見付け、チェリカが立ち止まった。
「ハクアスって、あのひと?」
「入ってみようぜ。何か手がかりがあるかもしんねえよ」
ガチャリ
意外と簡単に開いた扉。錆びた蝶番の悲鳴が、静か過ぎる廊下に木霊した。二人が部屋に入った途端、
「うわ」
「わ!」
シアングとチェリカの悲鳴。二人の後を、急いでトアンが追う。ウィルも早足で駆け込んだ。
そうして、トアンとウィルも背中に嫌な汗をかく。
「なんだよこれ、イカレてやがる」
「すごいな……」
部屋の中には沢山のレインの肖像画が、隙間なく貼り付けられていて、それも少し幼いものから最近のものまである。
この部屋の主、ハクアスが歪んだ感情を持っていることが感じられた。
「何か怖いね」
「……気分わりぃな」
チェリカの手をシアングが軽く握る。
「ハクアスってヤツ、やっぱりイカレてるんだ。早くしないと、ルノとレインが危ないぞ。ここには何にもないみたいだし」
「お兄ちゃん……」
チェリカがシアングの傍を離れ、壁に寄りかかる。
と。
「あれ? 穴がある」
「穴? ……これ鍵穴だ。トアン、さっきの鍵かしてみ」
横から覗き込んだウィルがトアンに手を伸ばす。渡された鍵を早速差し込んでみると、人一人通れるほどの穴が開き、ベリベリとその周りの肖像画を破りながら、壁がドスンと向こう側に倒れた。
「隠し部屋だ」
「……なんかうまく行き過ぎじゃない? 変な感じ」
「チェリカは疑いすぎだぜ。オレは入ってみるよ」
「あ、まって! ウィル、私もいくって」
ピョン、二人が穴に飛び込んだ。
恐らくこの部屋にもういたくなかったんだろうとトアンは思う。自分もそうだったからだ。
歪んでいるとはいえ、直接的な強い愛情を見てしまったのはなにか気まずい。
それに、初めてだった。
愛とは美しいものだけだと思っていたトアンだったが、ここまで歪みきったものを見せ付けられるのは。
(オレ、やっぱり世の中のこと全然知らないんだな……)
「トアン、置いてくぞ」
「あ、まって!」
ウィルたちに続いて身を滑り込ませたシアングを追い、トアンも穴に飛び込んだ。
チェリカの魔法が、壁に掛かったままのランプに明かりをつける。
穴の向こうは、別に物語に有りがちな滑り台になっているわけではなく、ただ単に小さな部屋があるだけだった。
その部屋には隣のような一面の肖像画はなく、小さな本棚と机だけというこじんまりとした部屋だ。
「ゲホゲホ、ホコリすげぇなぁ。随分掃除してねぇのかな」
「みたいだね。……というか、この部屋自体忘れられてたんじゃないかな?」
咳き込むウィルにチェリカが答える。
「部屋を忘れる? そんなことあるか普通?」
「だって鍵落ちてたし。」
小さな本棚を、それでも背伸びしながらチェリカが覗き込む。
トアンも隣に立って、ホコリ塗れの本を触る。
「すごい、背表紙までホコリ……」
「本じゃなくてホコリのかたまりだね」
偶然だろうが、トアンがなぞった線を、チェリカも辿る。そんな仕草に見入っている場合ではないが、しかし。
「あいた!」
「ぼーっとすんなって」
ウィルの槍が今度は尻を軽く刺した。つついた、ではなく。
「ウィル!」
「怒んなよ、トアン」
真っ赤になって怒鳴るトアンに、ウィルはニヤニヤ笑うだけ。
その間にも、チェリカの指はホコリをなぞる。今はすでに、トアンの跡ではなく自分で跡を作っていた。
「…………に……き……? にっき? 日記だ、これ」
ついとホコリのかたまりを手に取り、チェリカがパラパラと捲る。シアングも、トアンとウィルも、それを覗き込んだ。
古びた中表紙には辛うじて読み取れる、持ち主らしい名前。
「ハクアス……」
「アイツの日記? ……見たいような見たくないような」
「見てみよう。トアン、ランプこっちに近づけて。見づらいや」
「わかった」
ほのかなカンテラの明かりの下、チェリカは最初のページを捲った。
『研究日誌ではない、日記をつけるのは初めてだ。
今日、ここに一人の男の子がくるらしい。僕の上の人たちは、その子はなにかものすごい問題を抱えているらしい。どんな子なんだろう。僕はその子の世話係をすることに決まった。だから、その子の成長日記も兼ねて、これをつけようと思ったんだ。』
「日付、これ。……10年前だ」
「結構なもんじゃん」
「続き読んでみようぜ」
ウィルに急かされるまま、次のページに四対の目が動く。
『今、その子がこの部屋に居る。綺麗な金髪、朱色の左目。でも、右目は大きな眼帯に隠れている。身長、体重ともに標準。でも困ったことに、一度も笑ってくれない。それどころか喋りかけても応えてくれない。名前もわからない。……え? 召集がかかったので一端中止。』
最後のほうは走り書きしてあった。そして、その次の文から再び落ち着いた文字が始まる。
『さっきの召集で、この子の名前を教えてもらった。この子はレイン。レイン君というようだ。でも、可哀想に。この子、きっといずれは暗殺部隊に入れられるだろうね。もうこの子以外の暗殺部隊候補生は訓練をはじめているから。……本当はなにが目的でレイン君はここに連れてこられたんだろう』
「レイン……? じゃ、これレインとハクアスのこと?」
「多分。……暗殺部隊って昔からあったんだね。候補生、とか。人を集めてたんだ」
「相当でっかい組織だぞ、こりゃ。オレたちが思ってた以上に」
「シアング、そんなのもうわかってたことだよ。……トアン」
チェリカの訴えるような視線に、トアンも返した。
普通だ。
先程の部屋で見た彼の像とは全く違う。
ハクアスという人物は、普通すぎる。
「ハクアスさん、普通、だね」
「うん。……でも、でもそしたら、ハクアスは何のためにアリスの箱庭に入ったんだろう? こんなに普通なのに」
チェリカが首を傾げた。トアンは改めてハクアスという人物について考える。
……しかし、今はわからないことが多すぎた。トアンまで首を傾げるのをみて、チェリカは、じゃ、続き読むねと笑った。
次の日付は、随分ととんでいた。
『随分久しぶりに書く。最近書けなかったのは、簡単だ。レイン君の世話で暇がなかったからだ。
最近、レイン君の記憶がないことがわかった。ここに来るまでのこと、まったく覚えていないようだ。上の人、ああ上層部の人だけど。彼らはレイン君を連れてきた本人だから、なにか知ってるはずだけど、教えてくれない。まあいい、それなら僕が思い出させてやるべきだ。
で、慣れない子供の世話に追われていた。』
文が終わり、空白が少し。そして時の止まった物語は、次のページに続く。
『レイン君の首に巻いてある長すぎるマフラーに、血の跡が沢山ついていた。もう乾いてて、レイン君に傷はない。それについて聞いてみたら、首を横に振った。わからない、ってことかな? この子になにがあったんだろう。
いつのまにか僕は、この子を心配している。』
「レインの、マフラー……」
「ウィル?」
「あのマフラー、ずっと巻いてたのか、あれ」
思い出したようにウィルがいう。
「トアン、オレ……。いや、続き、続きを。」
『笑った! 笑った! レイン君が笑った!! 正直絵本も道化師を見ても笑わないときは焦ったけど、僕が落ち込んでいたら、レイン君は心配するように笑いかけてくれた。まだ小さくてぎこちなかったけど、確かに笑ってくれた。なんだかとても報われた気分だ。
大事な、大事な僕の子。弟より子供みたいな、レイン君。……この子は、いや、』
『……。この子は、暗殺部隊にいれては、いけない。こんなこと思うのは、ダメだろう。』
文面から、やさしい気持ちが溢れだしてくる。『この』ハクアスは、とても優しい。
疑問は後回し。ページを捲ると、そこには癖のない、だが前の文とは違う字が書いてあった。
『ハクアスが、しんじゃう』
『ハクアスは、びょうきだ』
小さい文字は、ザッと書き殴られていた。
そしてその次の行からは、先程の文字に戻る。
『レイン君が落書きをしました。困った子だよ。しかも、病気だって気づいていたみたいだ。僕は、確かに病に侵されてる。僕はあと15年、生きられるかわからない。15年って長いようで、きっと短いんだろうね。レイン君といたら。でも、僕はきっとそれ以上生きてみるさ。ライムハンの術が成功すれば、きっと』
「ライムハン? ……ハクアスさん、病気だったんだ」
ポツリと呟いたトアンの言葉。
「ひょっとしたら、ハクアスさん、病気を治すために、箱庭にきたんじゃないかな」
「トアン……。」
「わからないけどさ。」
「このときのハクアス、レインのこと大事に思ってるね。それで、今もそれは変わってない」
「チェリカ、何言って」
ウィルがいきりたつが、チェリカはゆっくり瞬きするだけ。
「レインは今幸せだってのか?! あんなヤツと一緒に居ることが!」
「やり方は間違ってる。捻じ曲がってるけど! でも、根本的にはかわらないはず……。だから、それを思い出させてあげなきゃ」
古びた日記を閉じ、チェリカは決心するように言う。
「先に進まないと始まらないさ。本人に聞こう」
そっと埃を払って、トアンは歩き出す。
この部屋でわかったことは、ハクアスが病気だったこと、何かを研究していたこと、そして、レインの親代わりだったこと。
ざわり。何か不安がまとわりつくようで、トアンは部屋から飛び出した。
「は、はぁ、……、ぅ、はぁ」
忙しなかった、カツカツというブーツの音の区間が長くなる。それに気づいて、ガナッシュが振り返った。
「ルノ?」
「あぁ、ガ、ガナッシュ、すまな、い、少し、疲れた」
「貧弱だにゃ、もう」
「は、は-」
大きく息を吐き出して呼吸を整えた。肩の上から長い髪がさらりとこぼれ、暗闇に光る。
「わ、私にしては、はー……。頑張った方なんだぞ、相当」
ふう。漸く整ってきた呼吸で文句を言ってみたルノ。
「アンタは結構運動オンチにゃ? 足音が雑にゃ。疲れるにゃろ」
「うるさいな」
できるなら、とルノは思う。この場にへたり込んでしまいたかった。足は相当疲労しているようだし、ガナッシュが焦っているのでルノ自身も焦っている。
訳のわからないプレッシャーに、気が滅入りそうだ。
「もーちょっとで魔法力の間につくにゃ。ほらほら、もーちょい」
「もう少しって……。なあ、いい加減、焦っている理由を聞きたいんだが」
拗ねたような声色で、ルノが問う。ガナッシュは困ったように髭をピクピク動かした。
「魔法力の間についたら、全部、俺の知ってること教えるにゃ。だから、我慢してくれにゃ……」
「わ、わかった、わかったよ。まだ聞かない、それに走るから」
まるで、小さい子を宥めるように。
小さなガナッシュに落ち込まれると、ルノはとても気まずくなる。
「じゃ、いくかにゃ」
チリンと鈴を鳴らしてガナッシュが走りだす。足を少し擦ってから、ルノも走りだした。
長い廊下の果てにある、大きな扉。漸くついたトアンたち。この先に、何があるんだろうか。
「ここが奥か? なんか長かったような短かったような。」
シアングが武器の点検をしながら呟く。手の甲に獣の爪に似た武器を装備するそれは、鈍く輝いた。
「お兄ちゃんはこの奥にいるのかなぁ。んー、敵も全然いないし」
「行くしかないぜ!」
「うん」
きゅ、皮のグローブが扉を滑り、小さな声を上げた。
ギィ……
ゆっくりと開かれた扉の中には、大きな魔法陣と扉が二つ。正面と、右に。
「魔法陣だ」
「チェリカ! 危ないよ!」
「見たことないなこれ。なんなんだろ?」
「チェリカ!」
興味津々に調べるチェリカをトアンが連れ戻そうと、一歩踏み入れる。
瞬間、ブーツが触れた場所から僅かな光が現われた。
(うわ! な、なんだ?!)
慌てて足を放し、もう一度ゆっくり足をつける。……もう光は現われなかった。
(なんだ? 今の。気味悪いな)
シアングとウィルは部屋を見渡していて、今の出来事に気付いていない。
ガシャン!
「!?」
不意に、正面の扉が揺れた。
「な、なに?」
チェリカが顔をあげる。
ガシャン、ガチャ、バタン!
まるで、扉を突き破ろうとしているような。
「……」
そろり、チェリカがゆっくり後ずさる。下がってきた彼女の前にトアンが庇う様に腕で制し、シアングは身を低くした。
ガシャン、ガシャ!
忙しない音はじわじわと恐怖心を煽る。
(まさか、魔物の軍団とか……?)
あまりいい想像はできそうにない。と。
「……あれ」
緊張を破ったのは、驚いたようなチェリカの声。
先程まで警戒していた彼女が警戒心を解き、杖を降ろす。
「チェ、チェリカ?」
「トアン、寒くない?」
「さ、寒い──?」
言われてみれば。
空気が僅かにだが、冷たくなっている。
それに、彼女の顔は、恐怖というより、期待に満ちていた。
バリン!!
突然、大きな音がしてドアを突き破ってきたものがある。
それは、鋭くとがった氷だった。
(まさか)
「言ったとおりにゃろ! ここは魔法力の間すぐ外! 魔力が満ちてるのにゃ。アンタみたいなチビ魔法使いでも、魔法の威力は格段にあがる!」
「チビとか言うな! ……よし、鍵は壊せたみたいだな」
聞き覚えのある声に、シアングもそろそろと構えを解いた。その顔は、やはり期待。
ギ……
期待の眼差しを浴びながら、ゆっくりと扉が開いた。
ほんの、一日だ。
それなのに、酷く懐かしい。離れたとき、正直引き剥がされるような気がした。
「お兄ちゃあん!!!」
ハッキリと確認する前に、そして周りの目なんか今更気にしなかった。チェリカは走って走って、扉を開けてきた兄に飛びついた。
「チェ、チェリカ? 何故?」
先程までの疲れも合わさり、その衝撃にペタンと座り込んで、ルノはチェリカの顔を覗き込む。
「迎えに来たに決まってるでしょ! みんな、みんなで着たんだよ」
「みんな……?」
そっと顔をあげたルノの頭に、シアングの掌が優しく置かれた。トアンも傍に駆け寄る。
「ルノさん、よかった! 本当に!」
「心配したんだぞ、ルノ。無事でよかった。……お帰り」
「トアン、シアング……。ただいま」
二人の少年を見上げて、安心したようにルノが笑う。
(やはり迎えに来てくれたのだな……)
と、暗がりに見覚えのある少年を見て、目を見開く。
「ウィル……?」
「久しぶりだな、ルノ」
「ど、どうして? お前……」
「ま、ね」
ウィルがざっとトアンたちにしたように説明する。ルノは真剣な面持ちで、終止その話を聞いていた。
「そうか……。随分大変だったな」
「あー、いいのいいの。結局また、お前らに会えたし?」
ふと、話を聞きながらトアンは思った。
テュテュリスの居る焔城で目を覚ましたとき、トアンは夢を見たのだ。
暗闇にたつウィルが、スイという青年と話をする夢を見た。
その夢を見た後、自分はそれを、『ウィルが救われて欲しい』という、自分が罪から意識を離す為に作り出した願望だと、思った。
(あれは、本当のことだったんだ)
トアンがボーっと考えていると、ルノがトアンのズボンの裾を引っ張った。
何事かとしゃがみ込めば、ルノがまだくっついているチェリカを指す。
やはり強がっていたのだろう、緊張が切れたように兄にもたれかかるチェリカは、離れそうにない。
しかし、ルノの顔を見れば苦しそうで。
「ルノさん?」
「足、足、痺れた……」
「なるほど」
「あ、お兄ちゃんごめん」
ようやくチェリカが立ち上がり、ルノはシアングに支えられて起き上がることができた。……足はまだ痺れているようだが。
「そろそろいいかにゃ?」
突然、初めて聞く何者かの声がして、トアンたちは辺りを見渡す。
ルノだけは冷静で、足元にいた黒猫のぬいぐるみを抱き上げた。
「す、すまないガナッシュ。皆、紹介する。ガナッシュだ」
「よろしくにゃ」
「ぬ、ぬいぐるみが喋った!!」
「かわいー!!」
「すっげーな」
「まじかよ」
感想はそれぞれだ。
「まったくもう、待ちくたびれたにゃ」
ガナッシュはそういって、気休めのようについているしっぽを舐めた。
「なんだよこいつ?」
「私の恩人だ。それからレインの子守役、みたいな。なあ、こんなこというのもなんだが、……もう、帰るのか?」
「あぁ? あー、」
「身勝手かもしれないが、レインを、彼も連れていきたいんだ。私がさらわれたとき、レインはお前たちを守るために、ああしたんだ」
ガナッシュを抱き上げながらルノがつぶやく。その悲しげに伏せられた瞳に、横にいたトアンはたじたじとしたが、その話相手のシアングはにっと笑う。
「安心しろ。そのつもり。それに、それ、チェリちゃんも考えてたぜ」
途端、パッとルノの顔が明るくなる。
「よかった! チェリカもさすがだな」
「ううん」
「……なら、アンタら全員信用するにゃ」
ガナッシュがヒラリと跳躍し、部屋の中央の魔法陣の上に移動する。
「レインを、助けるためにゃ。……アー、なにか質問はあるかにゃ? ここにくるまで、いろいろみたにゃろ」
トアンは弾かれたように顔を上げる。
聞きたいことは、たくさんある。
「ガナッシュ、さん」
「ガナッシュでいいにゃ。アンタは……いや、まさか」
「え?」
「トアン・ラージンかにゃ?」
「そ、そうですけど」
「アンタが……」
「ガナッシュ、知っているのか?」
「知ってるもなにも……。会いたかったにゃ」
「え? え?」
トアンはわけがわからず、間抜けな顔をするだけ。
──この話の結末は、ほんの、少しばかり──……
「アンタは、キーク様の願い。」
ボタンの瞳は、ボタンなのに、深い深い色がある。
トアンは射抜かれたように立ち尽くし、ガナッシュは続けた。
「アンタは、アンタなら、きっとこの結末は変わる」
「どういうことですか? ……それに、父さんの願いって」
漸く搾り出した掠れた声で、問いかける。
「キーク様が、様々な占い師や、最終的に予知夢の使える夢幻道士に未来を視させても、レインは、死ぬ。その未来しか見えなかった。確実に、にゃ」
話題に惹かれるように、自然と仲間たちはガナッシュを囲むように魔法陣の上に座った。立ち尽くしていたトアンも、チェリカにズボンを引っ張られギクシャクと座り込む。
「ところが、数ヶ月前。運命の針が揺れることがあったにゃ。それが、ルノ。お前さんを助けるとき、キーク様と戦ったにゃろ?」
まさかここで父の名がでるとは思わず、トアンは話を聞くので精一杯だ。
「ああ。んで、気がついたら、城が……消えて空に投げ出されたんだ」
と、シアングが代わりに合相槌を打ってくれた。
チェリカもコクコクと頷く。
「消える前に光を見たよ」
「……その光で、傷が癒えました。あの城はルノさんが消したんですか?」
「私? 私はそんなことできないぞ」
「そう。あの時、トアン、アンタはルノの心の中に入った。強くシンクロしてたのにゃ。それで、ルノの感情が高ぶったとき、強い魔力と一緒にアンタの力も解放されたのにゃ」
「オレの、力?」
「夢幻道士の中でも伝説上のもの。おそらく、アンタの力はそれにゃ。すべてを還すための力って呼ばれてるにゃ」
ガナッシュが再び尻尾をなめる。
「あの城は夢幻道士の力でつくられてたにゃ。アンタの力、すべてを還すための力は、夢幻道士によって創られたものをすべて無に還すもの。……ま、これ全部、キーク様から聞いた話にゃけどな。それと、お前ら全員が、ちょっとずつ、針を動かした。そこのもみあげ茶髪は」
「オレかよ!」
ウィルがいきり立つが、ルノがそれを制す。笑いを含んだ声色でガナッシュは再び口を開いた。
「レインの心に光を見せた。それにあの子は困惑したけど……。そこの金髪はレインに太陽を見せ、ルノは夜明けを見せ、色黒は暖かさを見せた」
ツラツラとぬいぐるみの口からでてくる比喩は、それとなくだが、意味がわかる。
「でも、父さんはオレたちの敵だ。ガナッシュ、君は父さんに畏敬をこめてる。……君も敵? それに、父さんの願いってなんだよ!」
「確かに。でもにゃ、あくまでキーク様はオレを『創った人』にゃ。そしてあの方は、今もアンタらと会ったら戦うだろうにゃ」
「だったら」
「でも! 願いってのは本物にゃ!」
「どうして! わかんないよ!」
「……アンタ、レインの眼帯の下の瞳、何色だと思う?」
「……え?」
「紫にゃ。アンタと、キーク様と同じ紫」
そろそろとトアンは自分の瞳に手を伸ばす。
まさか、
自分が彼に感じていた、あの懐かしい感覚。
あれは、
「レインは、あの子は、アンタの実の兄だにゃ」
「え」
「は」
「はぁ?」
「まじかよ」
「へぇ」
全員、今のは理解できないといわんばかりに間の抜けた声を上げる。
「……本当なんですか?」
たっぷり沈黙した後、トアンが口を開く。
ガナッシュは当然とばかりに頷いた。
「夢幻道士の一族ってのはにゃ、大抵が、両目とも紫ではないのにゃ」
「え?」
「紫の瞳は夢幻の証、というのは嘘。まァ、紫の瞳以外に夢幻の力を扱えるものはいないから、あながち間違ってないけどにゃ。……アンタみたいな両目紫ってのは珍しいほうなのにゃ。つまり、一族全員、夢幻の力が使えるわけじゃない。大抵のヤツはそんなの使えない。けどにゃ、」
一端言葉を切ってから、くたびれたぬいぐるみは続けた。
「極稀にゃ。片目だけ紫を持つ子供が生まれる」
「レインのこと?」
「そうにゃ。金髪、察しがいいにゃ? 片目だけ紫ってのは、夢と現実の境目を表す。だから、そういう子供は始末されるのにゃ」
シアングの横で、ルノが少しだけ顔を伏せる。瞳の色のことで結構な目にあってきたのは彼も同じ。人事とは思えないのかもしれない。
「でも、キーク様はそれがいやだったのにゃ。だから、遠い地で暮らす親友のもとに、生まれて間もないレインを託した。」
すっと、ガナッシュの瞳が全員を見渡す。
「ここまで話して、……どうにゃ? 逃げ帰りたいかにゃ?」
「今更だぜ」
「うん」
すっくとウィルが立ち上がるのに続いて、チェリカも立つ。
「まだわからないことがある。預けられたなら、どうしてこんなところにいるのか、記憶がないのか、ハクアスさんはどうして変わっちゃったのか……。それに、オレは兄さんを置いていきたくない」
トアンの言葉にガナッシュは満足気に頷いた。シアングもルノも立ち上がったのを見て、ガナッシュも立ち上がる。
「じゃあ、行こうかにゃ。最後の疑問を解きに」
ガナッシュの足元の魔法陣が、強く、強く輝いた。
そっと目を見開けば、一面がセピア色の世界だった。
「ここは……?」
「ここは過去。といっても、実際には過去の出来事を視ている。時間を超えたわけではなく、アンタ等は今、過去を視てるのにゃ。」
ガナッシュが寄り添ってきた。周りを見渡せば、チェリカにウィルに、シアングにルノ。一同、ポカンとした顔でセピア色の森を見渡している。
「いくにゃ」
「いくってどこへ?」
「レインのとこにゃ。ここはレインの過去なのにゃ。ここは、失われた記憶の世界」
歩きだしたガナッシュを追って、トアンたちもゾロゾロと続す。
過去の世界。そんなもの信じられるわけなかったが、一歩歩きだすごとにそれを実感するはめになった。
まず、歩いても地を踏みしめる感覚がない。体がほんの少し浮いていいるからだ。
次に、トアンたちにははっきりとした色があるものの、周りの世界はセピアな色だけ。まるで絵本のなかに飛び込んだみたいに。
「不思議な空間……木は揺れてるから風は吹いてるってわかるのに、私たちには何も感じない」
チェリカがぽつりとつぶやく。
「こんなことができるなんて、ガナッシュ、お前は……」
「俺は夢幻道士に創られたぬいぐるみ。過去夢と、封印と、もういっこ力が……ああ、あの村だにゃ」
ガナッシュが丘のうえで立ち止まる。トアンたちも丘から見下ろすと、小さな村があった。風車と小さな畑、小さな牧舎。小さな、小さな村だ。
「ここが、レインの育った村、か……」
「ウィル?」
「いや、なんかさ、随分平和な村だなって。あ!」
どこか寂しそうに呟いたウィルが、不意に麓の道を歩く人物を指差した。
──親子のようだ。
大きな弓をもった父親と、楽しそうに歩く子供。
一面セピア色のため髪の色や肌の色はわからなかったが、子供の猫目と右目を覆う、不釣り合いな大きさの眼帯で、子供の正体を教えてくれた。
「レインだ!」
「うわぁ、ちっちゃーい!」
ウィルの後ろからチェリカが顔をのぞかせ、歓声をあげる。おそらくあの子供はレインだ。チェリカの言う通り、幼いレインはあどけなくて愛らしい。父親のあとを楽しそうについている。
「笑ってるな、レイン」
「ルノ?」
「ガナッシュ、行こう。見失ってしまう」
ルノがひらりと丘から飛び降りる。
慌てたシアングが身を乗り出すが、ふんわりと音もなく着地していた。
「慌てるにゃ。この世界のものに、俺たちは触れない。そして、一切感じない。だからあの鈍いルノが着地できたのにゃ」
「鈍いとはなんだ!」
丘のしたでルノが叫ぶ。
「馬鹿、んなでけぇ声だしたら」
「だからシアング。安心しろってにゃ。俺たちは過去にきたんじゃなくて視てるだけ。……俺たちはなにもできない。声なんて聞こえないにゃ」
「……あ、そー」
「ほらいくにゃ」
ガナッシュが先を促し、トアンたちはルノを追った。
近くにいる二人の会話が伝わってくる。
「なぁ、なぁ、アルカマイムさん、今日の晩飯なにかなぁ」
「はっはっは、レインはそればっかりだな。……いい鳥もとれたし、」
アルカマイムと呼ばれた男は手にもった袋をふった。背中の弓といい、彼は狩人らしい。
「美味しいシチューかな。なにしろ今日はレインの6歳の誕生日だからね」
「やったぁ! シチュー大好き!」
にっこりとレインが笑う。
「さあ、家に急ごう」
しっかりと手を握って、二人は小さな家まで早歩きになる。
「あの家は?」
「恐らくレインの家だにゃ」
トアンの前をガナッシュが走る。
それを追って、トアンたちも走り出す。
「おめでとう。レイン」
「ありがと、嬉しい」
丸い窓から覗いた家の中には、小さな平和がある。
大きなケーキ、シチュー、焼きたてのパン。二人の大人に子供一人。
「レインがこの家に来て、もう6年か。もうそんなに経つのか……」
「そうねあなた。子供ができなかった私たちに、キークさんが預けてくださったのよ。私はとても幸せ。……レインが本当の子じゃなくてもね」
「アリクアさん、ありがとう」
「ふふ」
「そうだ!レイン、隣の部屋に行ってごらん」
「うん!」
高めの椅子から飛び降りて、レインが隣の部屋に続くドアに消える。すぐに戻ってきたレインの腕には、小さな弓が抱えられていた。
手作りだが、愛情がたっぷりこもっているのがわかる。
「これ、これ!」
興奮したレインの頬はピンクに染まり、その瞳はキラキラと輝いている。
「ああ、もうお前は6歳。明日から、弓を教えてあげよう」
「本当!! 嬉しい、すげえや!」
大きな手のひらが、金髪をくしゃりと撫でた。
「ガナッシュ、私たちはここで何をするんだ? ……なんだか、悪いことをしている気がする」
「ルノ、視ろ。もうじきわかる。」
トアンがチラリと空を見上げると、綺麗な夕焼けが辺りを照らしていた。それは相変わらずのセピア色だが、十分に美しい。
「ね、あれ!」
チェリカの悲鳴に振り返れば、黒い服をきた男の集団が村の入り口をくぐってきた。
その男たちは、すぐに散らばって、なんと村の家一軒一軒に押し入っていく。
──すぐに聞こえた、悲鳴、怒声。
「な、なんだよなんだよ」
取り乱したウィルが辺りを見渡す。
と、細い道を通って、三人の男が近づいてきた。
服には、返り血。
「来ちゃ駄目!」
「チェリカ!」
チェリカが体当たりしようとするが、スッとその体をすり抜けて転ぶ。
トアンがそれを起こすが、チェリカはもう一度──そして転ぶ。
「え、やだ、すり抜けちゃう」
「オレたちは触れられない! ガナッシュも言ってたでしょ?」
「だって見てろっていうの?! あのひとたち、血が!」
仲間のほうを見やれば、シアングがルノとウィルを抑えつけていた。
そうしている間に、男たちはドアをノックする。
トアンは窓に駆け寄った。
コンコン
「?」
レインがドアによっていくと、父代わりの男がその体を捕まえた。
「アルカマイムさん……?」
「アリクア、お前はレインと奥の部屋に行ってなさい」
「どうして?」
「さ、レイン、行きましょ」
そっとその肩を押し、二人は奥の扉に消える。
残った男は、ナイフをとってから、警戒するようにドアを開けた。
「何か御用ですか?」
「ここに居るんだろう、キーク・ラージンの子」
「……は?」
「話にならん。時間がない」
はっとした男がナイフを抜く前に、黒い服の男の剣が男の首を切り落とした。
鮮血があたりに飛び散って、部屋は赤で埋め尽くされた。
「──!」
チェリカが竦み上がり、地面にヘタリ込む。ウィルがシアングのとめるヒマ無く──とめる気など無かったが──家に飛び込んだ。トアンもそれを追う。
ドアが開けられる。
子供をかばうように抱きしめて蹲っていた女性も、立ちふさがった。
「この子は渡しません!」
「邪魔だ」
部屋が、赤くなる。
それでも女性は踵を返し、子供を庇おうと走り出す。
一瞬、止まって、また走った。
そして、赤が、また。
縮まっていた子供が、ビクリと震えた。
女性は、背中に剣を刺したまま、走る。
肺が潰れているのだろう、ヒューヒューという音が鳴った。
ルノは、ガナッシュを抱きしめて、チェリカに歩み寄った。
「ガナッシュ……」
「ん?」
「お前が見せたかったのは、これか?」
「……まあ、そうなるかにゃ」
「やめろ!」
ウィルが回り込むも、自分たちは本来ここには存在しないもの。
余計に、何もできない虚しさを味わう羽目になる。
「この子供か?」
ぬっと伸びてきた手が、震えるレインの眼帯を剥ぎ取った。
セピア色の中で、其処にあったのは唯一の紫だった。
(ガナッシュの言うとおりだ……)
紛れも無い、夢幻の証。
「トアン!」
激しく揺さぶられて、トアンはハッとする。眼前には、焦りと苦渋の表情をした、ウィル。
「なんとかなんねえのかよ! なあ!」
「……ここは、過去だよ。オレたちは、なにも、」
「ンなこというなよ!」
「ウィル! 落ち着けよ! …ガナッシュが見せたかったものを、見なくちゃだめだ!」
珍しい強い口調に一瞬たじろぐが、ウィルは懇願するように、叫んだ。
「……あいつが傷付くの、みてろっていうのかよ!」
どさり
なにか落とす音がして、一人の男が、何かを持ってくる。
「よう坊ちゃん」
「おい、よせ」
「こーれ、なんだかわかるかな?」
仲間の制止を物ともせず、一人の男がレインに突き出したもの。
「──ッ!!!」
悲鳴を上げられたら、どれだけ楽になれるだろうか。
それるらもできず、喉を震わせるだけ。レインはガクリと壁にもたれた。
「おい、どうした」
「ショックで放心したんじゃねーの?」
「お前がこんなもの見せるから……」
「殺したのはあんただろ」
下卑た笑い声をあげると、男は手に持ったものを放り投げた。
それは偶然にも、トアンの足元に転がる。
例え血は繋がってなくとも、レインの親として、溢れるほどのの愛情を注いできた夫婦の、
首。
「な」
トアンが声を上げる前に、世界を闇が覆った。
最後に、眩しいほどの夕焼けが見えた──
ふっと、重力が戻ってきた。
肌寒さも体に感じる。戻ってこれたのだ。
「……」
仲間は皆、無言だった。
あまりの凄惨さに、声も出ないようだ。其々が、俯いたりしゃがみこんだりして、気持ちを落ち着けていた。
「今、見てきたのが、レインの一番古い過去。……育て親の首を見せられたことで恐怖が心を殺し、自らを守るために記憶を封印した。こうしてレインは箱庭に連れてこられたが、記憶喪失になったって訳にゃ」
淡々とした口調のガナッシュの表情は読めない。
ボタンのような輝きの目が、少々恐ろしい。
「それから、レインのマフラー。あれは、あの母親が身に着けていたものだにゃ。……レインは無意識に覚えていて、あれを大事にしてる」
「……レインは、あれからどうなったんですか?」
「まあ待て待て。それを今から見せてやるにゃ」
再びガナッシュの足元が光ると、ブツン、明かりを消すように、辺りが暗くなった。
蝶が、
漆黒の蝶が、辺りを埋め尽くしていく。
トアンはそこに、ただ一人だった。
暗闇の中の孤独。
だが、すぐに、頭上から枯葉のようなものが大量に舞い降りてきた。
「皆!! どこだよ!?」
不安にあせりながら叫んで辺りを見渡すが、辺りは赤で埋まっていく。
カサカサ。
一歩歩くごとに、枯葉を踏むような音。
「なんだ、これ……?」
不審に思い、肩についたそれをまじまじと見つめる。
紅葉のように紅葉したそれは、紅い蝶の屍骸だった。
ギョッとして見渡すと、足元にも、頭上にも、沢山の蝶の屍骸。咽返るような、赤い色。
『もう、雨は止まない。乾くことが無いんだろうな、ここは』
不意に聞こえた、声。
声の主を探すが、見渡しがきかない中、見つけられるはずも無い。
『落とした涙の代わりに、雨が降るのだ。涙は、もう失くしてしまった……』
「父さん……?」
予想したとおり、返事は無い。
だが、今の声は、父のものに間違いなかった。
「父さん、居るのか?! 父さん!」
叫び続ける声すらも、舞い散る蝶に、掻き消えていく。
「ゲホ、ゲホゲホゲホ!」
咄嗟のことに頭がついて行かなかった。深呼吸して、辺りを見渡す。
セピア色の世界だ。
おそらく、レインの箱庭に来てからの過去だろう。
目の前で、腰を折って苦しそうに咳をする白衣の人物──茶髪の青年──は、ハクアスの若いころだ。その横顔に、10年後の面影はある。
と、ドアの影から、一人の少年が覗いている。
黒い眼帯と、脅えたように見開かれた大きな瞳。レインだ。
「ゲホ、ゴホゲホ」
「ハクアス……」
不安そうに呟く姿を見て、トアンは思い出した。
これは、日記にもあった、レインがハクアスの体調の異変に気づく瞬間かもしれない。なるほど、ハクアスはとても苦しそうだし、死んでしまう、と思うのも無理は無い。
ブツン、目の前が暗くなった。再び目を開けたとき、まるで本のページを捲るように、場面が変わっていた。
レインは少し大きくなっていた。8歳ぐらいだろうか。椅子で向かい合って、話し込んでいる最中だった。
「暗殺部隊に、オレは入らないよ」
そういうと、ハクアスは安心したようだ。
「アルライドが待ってるから! オレ、行ってくる!」
「行ってらっしゃい」
レインはハクアスを安心させてほっとしたのか、元気に走り出していく。トアンもそれを追った。
ザザッ
周りの風景がかすむ。何日かとんだのだろう。
(……慣れって怖いな)
廊下を、見知らぬ少年とレインが歩いている。
「…………ハクアスの病気治すのに、研究費が相当かかるんだって。」
がっかりした様に項垂れるレインを、少年が慰める。
「なあなあ元気出せよ。……あ、そういや」
「アルライド、なんかいいことしってるの?」
先程レインが言っていた名前の友達が、この少年らしい。
「暗殺部隊に入って人殺せば、すぐに金が手に入るんだってさ」
「……ね、レイン君。考え直して。別に、暗殺部隊に入らなくてもいいんだよ? それに君はまだ、動くべきときじゃない」
レインの肩に手を置いたハクアスが、まるで母親が子供の無事を心配するように言い聞かせる。
だが、レインは頑として頷かなかった。
「オレは、暗殺部隊に入る。絶対に」
「どうして……?だってこの前は、イヤだって」
「……じゃあ、オレ、行くから」
ハクアスの手を振り払って、レインが駆け出す。
「レイン君、待って、レイン君!!」
追いすがるその声も、振り払って。
ザザザ……
また、辺りが歪んだ。広い部屋だ。周りでは、小さな子供たちが稽古をつけていたり、致命傷となる部位の説明を受けてたりする。
(まるで学校じゃないか)
周りを見渡しながら、トアンは思った。
子供たちの目にはまだ、澄んだ光が宿っている。
「はぁ!」
カラカラカラ!
威勢の良い声とともに、トアンの足元に木で作った剣が転がってきた。
「レインー、手加減しろよー」
「はあ、は……。手加減してたら修行にならねえよ。第一オレは、時期が遅かったからお前たちとじゃ差がついてるし。」
「二、三日の差だろ? それに、お前はもう、俺を越してるよ」
剣を持ったまま呼吸を整えるレインと、座り込んだままの黒髪の少年。
……あの少年は、レインに暗殺部隊の話をした少年だ。名前は、アルライド。
(あの子……なんか知っているような……?)
「でもさあ、アルライドが部隊に入ってたなんて。こーゆーの嫌いじゃねぇの?」
「嫌いだけどさ。……ハクアスさんの話聞いたときから、レイン、ここに入るんじゃないかなって思ったから。先回りしたんだ」
「なんだよ、それ」
カラカラと笑うレインに、アルライドも笑う。
「だって俺たち、親友だろ」
照れくさそうにそういって、アルライドは剣を構えた。
「さあこいレイン!」
「よし!」
レインが大きく振りかぶった瞬間、また、世界が歪む。
(随分転々としてるんだな……こっちは)
屋敷の中に立っていることを認め、改めてトアンはそう思った。古い屋敷だ。蝋燭セピア色の世界で寂しげに揺れている。
「キャ──!!!」
突然、絹を引き裂くような悲鳴がこだました。
「ご主人さま、ご主人さまー!!」
女性の声だ。声のほうに走っていくと、大きな扉があった。
するりと擦り抜け、中に入ると、
(なんだ、これ……!)
──一面が血の海だった。その中心に伏せたままの男、そしてその傍に立ち尽くすレイン。
大きな鎌に、白いマフラー。しかしその顔は、10歳程のあどけない少年だ。
返り血を浴びて、黒い服は更にドス黒く染まり、白い肌からは赤い血が滴っていた。
悲鳴をあげながら、メイドの女が走り去っていく。
「……」
レインはこと切れた男の顔を、じっとみている。
「レイン、なにやってんだよ! 逃げるぞ!!」
女と入れ違いに入ってきたアルライドが、レインの肩を掴む。
だが、だがレインは動かない。
自分のした行動──人を殺めた──に、放心しているのだ。
「このアホ!」
アルライドがレインの手をとると、一目散に走りだしていく。
これは、
レインが初めて人を殺した時だ。
覚悟はしていたらしいものの、やはり強いショックを受けたようで。
ジッ……
再び時を跨いだ。
また、見知らぬ部屋だ。
部屋の中心にある巨大なベッドに眠るように、息絶えた老婆。鮮血のドレスを身に纏い、閉じられた目蓋は二度と開かないだろう。
そして、レイン。
返り血で自らも赤を纏い、口元には僅かな笑み。
また、その次も。
場面はドンドンかわっていく。トアンの周りを、やはり本のページを次々と捲るように。
変わらないのは、死体と、レインの笑み。
それもその笑みは、静かで、そして今にも崩れ落ちそうだった。
そして。
部屋の隅で震える小さな子供。
(レイン、まさか……ッ!)
止めようとする前に、今までの光景が蘇った。
今頃襲ってきた吐き気。人の死を見るのは、レインの記憶の中でが初めてだったのだ。
トアンは口を押さえながら、レインをとめよと手を伸ばす。──が、虚しく手は宙を掻くだけで。
(やめろ、やめてくれ!)
「来るなぁ!」
子供が泣き叫ぶ。
レイン表情は、静かなまま。彼は、随分と大きくなっていた。
「助けて、父さん、母さん!」
「……!」
このとき、初めてレインの顔に表情が生まれた。
目を僅かに見開いて、呆然としている。
「あのときと同じ……」
微かにレインの唇が動く。が、すぐにギュっと鎌を振り翳し、
「うわあああ!」
声を張り上げて、目標の首を吹き飛ばした。
ゆっくりと、子供の体が倒れる。だが、レインは動かなかった。
「……あのとき?」
辛そうに眉をしかめ、ゆるゆると首を振る。
「あのときって、何……?」
「レインが記憶を失った、両親の死の瞬間のこと。無意識のうちに、覚えてたのにゃ」
(うわあ!?)
不意に足元で聞こえた声に驚くと、黒猫のぬいぐるみはにたにたと笑った。
「ようトアン。どうにゃ、酷いにゃろ」
(ガナッシュ、ど、どうして! あ、皆はどこ!?)
「まあまあ落ち着けってのにゃ。……うん、他の奴等もいるにゃ。さっきと違って、一人一人で視ているから、今はお前一人だにゃ」
(そうなんだ……。)
「これはレインが13のとき。俺と出会う、ちょっと前」
ザザッと辺りの風景がまた一変する。
暗い廊下の隅で、途方にくれるレインがいた。
その前の扉は頑丈なつくりだ。
「あれは、金庫」
(金庫……?)
「レインが貯めた金が入っている金庫にゃ」
トアンが中を覗いてみたが、
(カラッポだよ?)
「そう。持ち出されたのにゃ。金が貯まるのを恐れた上の奴等が」
蹲るレインに、ガナッシュが歩み寄る。だがもちろん、触れられるはずも無い。
「レインは……。ここに、暗殺をした金を貯め込んだのにゃ。この金が貯まったら、ハクアスの治療費に当てるはずだった」
(ハクアスさんの……?)
「それはまた後でか。……さっき見たにゃろ?レインは先日、幼い子を殺し、それが自分の奥底に秘められた記憶に触れ、気持ちの整理がつかなくて混乱してたのにゃ。その矢先に、金の持ち去り。全うな方法じゃなくても、レインには精一杯のことで貯めた金だった。人を殺すことで、自分の心をどんどんすり減らしてたのに。」
トアンたちの見てる前で、レインはトボトボと歩き出す。
「この後。」
(え?)
「レインの二つ目の記憶の穴ができる」
ガナッシュが意味深な言葉を残したまま、レインが重い扉を開け、研究室に入っていく。
薄暗い部屋の中には、ハクアスが背を向けて立っていた。
「……ただいま」
「…………。」
「ハクアス?」
「ああ、おかえり」
上の空のような返事を返すと、ハクアスがゆっくり振り返った。
瞬間、トアンの背筋が凍る。
ハクアスの目は、深く、絡みつくようだった。
じっと、レインを捕らえたまま。
「……ハクアス、どうした……?」
「金」
「え?」
「無くなっちゃったんでしょ?」
「……どうして、それ」
「君が貯めてるって上から言われてさ。残念だったね、あんなに貯めたのに」
「あ」
「どうして貯めてたの? 何不自由ないでしょう、ここは。」
「ハクアスが、取ったのか?」
「違うよ、上の人」
「どうして」
「……もっと、効率のいい方法があるんだ」
じり。
ハクアスが一歩進む。レインが一歩下がる。
「どうしたの?」
「ど、どうって──なんか、お前、怖い」
「怖い? 怖いだって?」
ハハハハ、乾いた笑い声を上げるハクアスに、レインはまた一歩下がった。
「人を殺すのってさ、簡単に見えて結構疲れるでしょ。……それで、時間もかかってあの金額。もっといいのがあるんだよ」
「いいのって?」
「簡単さ」
素早い動きでハクアスがレインの腕を掴む。
「もっと楽しくて、時間もそんなにかからないこと」
そしてそのまま、レインの細い体を埃っぽい床に押し倒した。
「な、なにす──……離せ、やめろ!」
「いい子にしてればすぐに終わる」
ブツンッ……
ハクアスの笑いを含んだ声を最後に、辺りは暗闇に閉ざされる。あの、蝶が降る空間だ。
「あの子は……。ハクアスを信じていた。でもこのとき、もうハクアスは変わってしまったのにゃ。ホンの一日で、まるで別人のように、にゃ。レインは育ての親から裏切られ、それでも現実を受け入れられなかった」
「どうして、ハクアスさんは変わってしまったんですか?」
「それは俺にもわからないにゃ」
ガナッシュは降り続く蝶を見上げた。トアンを見ているのではない。遙か、高みを見ているのだ。
「レインは、ハクアスに身体を強要されてもまだ、光をみていた」
サッと霧が晴れるように、再び過去が始まった。
広すぎる部屋には、たったひとり。
レインがベッドの上で、薄い肩を震わせている。
その白い肌には、絶望と動揺が重くのしかかっていた。
「レイン!」
勢いよく扉が開いて、アルライドが飛び込んできた。
「レイン、今日休みだって聞いて、俺、心配で──……レイン? レイン?!」
返事の無いレインに近づいたアルライドの顔が、驚愕に引きつる。
「ど、どうした……?」
広いベッドの上に散らばった、札。
枚数から察するに相当な金額だが、レインは俯いたまま。──僅かに震えていた。
アルライドも状況を理解できていないが、気遣わしげにその肩に触れる。
「ア、アル……ッアルライド……」
レインがしゃくりあげながらその手を頼った。アルライドは戸惑った表情を隠せないまま、ベッドに腰掛ける。
「どうした?」
「……う、ふえ……ッハ、ハクアスが、うぅ」
「…………。そっか」
それ以上は聞かず、アルライドはレインにそっと毛布をかけてやる。今は、レインを落ち着けるのが先だと考えたらしい。
「ハクアスに裏切られたレインが、まだ自分を保っていられたのも、アルライドという親友のおかげだったのにゃ。レインが頼った、最後の男」
(アルライドさんは、今何処に?)
「……生きていたら、17歳になってるにゃ。」
(生きていたら、って)
「これからわかるにゃ」
場面が変わる。
明るく、広い部屋だ。黒い制服に身を包んだレインが、驚愕の表情を浮かべていた。
「さっき見たのの、一週間後の光景だにゃ」
(ここは……?)
「ここは、第二実験場。合成獣同士を戦わせたり、暗殺部隊の隊員同士を戦わせ、戦闘能力の向上を目的とした部屋だにゃ」
向かいにあった扉の前に、少年が居る。
「ここで負けたものは、未来は無い。どちらかが死ぬまで、戦闘は続くのにゃ」
少年が進み出た。レインが否定するように首を振り、鎌を持ったまま後ずさる。
「そしてこの日の戦いは、変ってしまったハクアスによって仕組まれていた。レインもそれは知っていたけど、相手が誰だったか知らなかったのにゃ」
(ねえ、さっきからガナッシュ、まるでその場に居たように話してるけど……どうして?)
「……。」
トアンの素朴な疑問には答えず、ガナッシュは前を向く。それに促されるまま、トアンも顔をあげた。その目に映ったのは、
(──!)
酷く悲しそうな顔をした、レインの親友。
黒髪の少年、アルライドだった。
「ど、どうして──?」
掠れた声で、レインが呟く。
「……。ごめん、レイン……」
「ハクアス! どういうことだよ!」
レインの悲痛な叫びが、広い部屋にわんわんと響く。すると、あの笑いを含んだハクアスの声が、返ってきた。
「どういうことも何も……。レイン君、その子を殺さないと自分が殺されちゃうよ」
「……え……」
「まあ、アルライド君は僕とレイン君の仲を引き裂こうとしたからね、当然かな。『もうレインを開放してくれ』だってさ。何様? 第一レイン君には、行くとこなんかないのにね」
「そんなの理由になんねぇよ! なあ、やめさせてくれよ!!」
「……無理だよ」
「ハクアス、頼むよ!」
「その子、もう『ライムハン』の術にかかってる」
「『ライムハン』──?」
『ライムハン』。確か、ハクアスの日記の中に出てきた名前だ。
「ライムハンってのはね、僕が作った術。ホントは病気を治すために作ってたんだけど、面白い効果が出てきてね。……『一番好きなひとを殺すかそのひとに殺されたら、その術は解ける』ってもの。今までのデータによると、目標を達成するまで、自我はほとんど無い状態になるんだ」
クス、ハクアスの小さな笑いが聞こえてくる。
「そして目標を達成するまでに、もし命の限界があっても、限界を超えて少しは生きられるんだよ。命の限界を超えるのがこの術を作ったテーマだからね、まあ半分は成功して……」
「アルライドに、それをやったのか!?」
「ふふ、大正解」
「どうして!?」
「いったろう? 僕と君を引き裂こうとしたって。……僕が殺すことも考えたけど、ほら、流石に可哀想に思えてさ。どうせなら大好きな君の手で殺してあげるのが一番かなって」
「……!」
(酷い……)
そのあまりの扱いに、トアンは自分の手を握り締める。
(酷い、こんなの酷いよ)
悔しくて、どうしようもできなくて。
視線を落としたとき、ガナッシュが酷く辛そうな顔をしているのが見えた。
まるで、何かを後悔しているような。
だがそれが何なのか、トアンに知る術は無い。
「嘘だと思ったら見てごらん? 彼の胸にね、黒い薔薇の痣があるんだよ。『ライムハン』の術にかかったものは、皆それが浮き出るのさ。」
いつもアルライドがしているように、肌蹴られた制服の胸元には──確かに、それが見えた。
ゆるゆる、否定するようにレインが首を振る。
そうしたところで、事実が変わるわけではないのに。
「殺さないと殺されるよ」
「……ない……」
「え?」
搾り出すような声に、今度はハクアスの戸惑いの声が響いた。
「レイン君?」
「構わない! アルライドになら、殺されても──!」
凛とした声に、一瞬ハクアスがたじろぐ気配がした。
が、しかし。
「まあ、頑張って。」
以外にもそっけない言葉を残し、ハクアスの声が途切れる。
レインは強い瞳でアルライドを見つめ、手にした鎌をだらりと下げた。
「こいよ。アル。」
その言葉を合図に、アルライドが剣を構えて走り出す。
「──ぅう……!」
掠れた声をあげ、走ってくるアルライド。
手を下げたまま、、レインは来るであろう衝撃に負けないように、しっかりと顔をあげた。
『親友殺しになんか、なってたまるか!』
(!?)
トアンの頭の中に、レインの声が響いた。
(今のは)
「レインが強く思ったことが、そのまま流れ込んできたのにゃ」
『オレは、いつまでもハクアスの玩具じゃない!』
カンッカラカラ──
何かが落ち、地面が転がる音がする。
「レ、レイン、あぶねぇ──!」
必死に自由の利かない口を動かし、アルライドが叫んだ。
いつもの、
いつもの条件反射だ。
いつも、レインが危ないとき、自分の身を顧みずアルライドはレインの名を呼ぶ。
呼ばれたレインは、無意識にも武器を構えるようになっていて。
反応してしまった手は、レインの意思とは関係なく鎌をまっすぐに構えていた。
「な」
スローモーションのように、ゆっくりとアルライドの身体が鎌に刺さっていく。
それでもアルライドは止まらなかった。鎌が自分の身体を貫いても、走って、走って、レインを抱きしめた。
途端に時間が戻ってくる。
「ア、アル……?」
「は、……レ、レイン。俺の、俺の大事な、親友……」
痛いほどに抱きしめられた。
アルライドの背中からは、鎌の先が見える。その鎌の柄は、レインが握っているのだ。
向こうに、アルライドが持っていた剣が転がっているのが見えた。
アルライドは、自分で剣を捨て、レインに条件反射で鎌を構えさせ、死に向かったのだ。自由の利かない身体と、消えそうな自我で。
今、レインにしがみついている彼は、完全に自我を取り戻していた。
残りの時間を、精一杯笑って。
「俺、やっぱり、レインは、殺せないよ」
「……ざけんな、オレだって……」
耐え切れなかったレインの涙が、アルライドの頬をぬらす。アルライドの綺麗な瞳は、焦点があっていなかった。
「は、お前が泣いてるとこ、初めて、みた……」
「…………馬鹿」
「泣く、なよぉ、レイン……。俺は。俺は、ずっと、傍にいるから。だから、ハクアスのこと、恨むなよ。あのひと、お前が、大好きな、ん、だぜ……?」
「イヤだ、アル、いやだよ……」
「……ずっと。ずっと、傍に、いるか…………。」
約束だぜ、と囁いて、アルライドの体から力が抜ける。
スルリ、と。
背中に回った手が抜け、その重みに耐え切れず、レインが膝を折った。
「嘘だろ……?」
呆然としたレインの呟きが、暗闇に溶けていく。
「アルライド……!!!!」
もう二度と何も映さない深緑色の優しい瞳。
微笑んだままの形の唇の端から零れた赤い糸。
震える手でそっと瞳を閉ざすと、まだ暖かいその体に縋って、レインはただ静かに嗚咽を漏らした。
そっと、辺りを漆黒の蝶が覆っていく。
暗闇の空間に戻って、トアンは地面にへたり込んだ。
「……何だよ、今の」
「……」
「どうして……」
「……唯一の拠り所にしていた親友を殺したことにより、レインの心にまた皹がはいった。そしてレインは、何のために金をかき集めていたのか、アルライドとの仲、優しかったハクアスとの日々を忘れてしまったのにゃ。アルライドは親友ではなく『話し相手』として残り、変ってしまったハクアスしか覚えていなかったために、理由も無いのに金をかき集めなくては、という焦りを感じるようになった」
「……じゃあ兄さんは、ハクアスさんのためにお金を集めてたんですね。優しかったハクアスさんのために。」
「今はもう、忘れてるけどにゃ」
言葉を切って、ガナッシュは暗闇を見つめた。
「……トアンは、アルライドのしたことを正しいと思うかにゃ?」
「え?」
「親友を殺したくないから、自ら死を選ぶという。」
トアンの脳裏に、ウィルの顔がよぎった。
アルライドとウィルは、どこか似ている。
「……その結果、残されたレインがどれほど苦しむか、考えずに。自己満足で死んでいった男は正しいのかにゃ?」
「ガナッシュは、どうしてそんなことをいうんですか? オレは、彼が間違っていたとはとても……。人が死んだ以上、言い切れませんけど、間違っちゃ無いと思います。……だって他に、レインを助ける方法なんて」
「……本当に、他に、方法が無かったと思うかにゃ」
「え?」
「もっと探せば、あったかもしれないのに……『アルライド』は、不器用だったにゃ」
深い悲しみの色が見える、ガナッシュの言葉。何故ガナッシュがそのようなことをいうのか、トアンには、まだわからなかった。
「アルライドをその手で殺めて以来、レインは変わった」
ポツリ。
暗闇に吸い込まれるような声で、ガナッシュの話が始まった。
「無くした心の隙間を埋めるために、酒を口にした。金を集めるために、男女問わずに身体を渡した。それでも気分が落ち着かなくて、依頼があるたびに、目標人物以外の人間も殺した。……以前は、目標人物以外には手を出さなかったのに、たった一人で、血を浴びて。ついには自分自身も傷つけていって。……誰も頼らない、頼れなかった。」
「……」
先程、ガナッシュが言った『正しいか?』の意味がほんの少し、わかった気がした。
アルライドという友人が、脆いレインを支えていたのだ。それを失った瞬間、均衡は崩れた。
「でも、アルライドさんは、レインをただ死なせたくなくて、生きていてほしくて! だから自分を……。……きっとこんな結果、望んでいなかったはずです!」
トアンの言葉に、ガナッシュはピクンと髭を動かした。
「トアン」
「オレには、はっきりとはわからないけど……」
「いや、それで十分にゃ」
「へ?」
「その通り。アルライドという男は、アンタが今言った事そのものを、思っていた」
ま、座れにゃ、と促されるまま、トアンは暗闇に腰を下ろした。相変わらず蝶は降っているが、ガナッシュの小さい姿は不思議なことに隠れていない。
ガナッシュはトアンの正面にちょこりと座って、再び口を開いた。
ちりん、首輪の鈴が鳴る。
「アルライドは、それを見ていた。そして自分の行動を呪い、嘆き、悔やんでいたのにゃ。トアン、あの世とこの世の境目には、何があるか知ってるかにゃ?」
「……。さあ……」
「扉があるのにゃ。その扉を通って、魂はあの世に行く、らしい。アルライドの魂は扉を通されてすぐに、未練がましく扉に張り付いて、開けろ開けろっていってたのにゃ。俺は帰るんだって。無論、扉の表側に出ることは不可能。時間もなにも感じない空間で、その男はずっとずっと願っていた。……あ、難しいのはスルーしろにゃ?」
「う、うん」
正直頭は限界だったが、ガナッシュの話は聞き漏らしてはいけない気がして、熱心に耳を傾けるトアンである。
「どれくらい時間が経ったかわからない。いつも変わらず閉ざされた扉に、隙間ができていたのにゃ。どうしてとか、いつとか、そんなこと考えないで。アルライドは逃げ出した。逃げて、逃げて、レインを助ける方法を探して。そしてついに、見つけたのにゃ」
ふと、トアンの頭に先程からちらほら浮かんでいた疑問が強くなった。
ガナッシュの喋り口調は、何故かとても、自分の体験のように話していて。
(まさか……)
「山奥の村で、一人の男がレインを救うためのものを創っていた。もう自分の力ではどうにもならなくなってしまって、でも諦め切れなくて。何とかするために、夢幻の力を三つこめて。……でも、それを動かすために、心が必用だった。男は心を自分で創ってみたけれども、すべてうまく行かなくて。途方にくれた男を見て、アルライドはそのものに飛び込んだ」
スッと、ガナッシュが顔をあげる。
「それは、黒い子猫の、ぬいぐるみだったのにゃ」
トアンの頭の中で、今までの気になって仕方なかったことが一気に繋がった。
その事実に、興奮に戦慄く唇を何とか動かして、言葉を作る。
「……ガナッシュ、貴方が、アルライドさんだったんですね」
サァッと光が集まってきて、ぬいぐるみの体を包み込んだ。
そしてすぐに、その光は消えうせ、其処にいたのは黒髪の少年だった。
少し伸びすぎた艶やかの黒髪と、優しげに澄んだ深緑色の瞳。しかしレインの過去で見た姿ではなく、もう少し成長した、17、8歳くらいの姿だった。
「生きていれば、俺はこんな感じだったんだ」
目がかかるほどに伸びた前髪を掻き上げて、アルライドが微笑む。
「でも良かった。トアンが俺のことに、気づいてくれて」
「……」
「どした? 黙りこくって」
「いや、なんていうか……」
「うん?」
「ホントに、ガナッシュ?」
「そう、にゃ」
トアンの問いに、アルライドは猫が顔を洗うような仕草をしてみせる。
こうしてみれば、彼はどことなくガナッシュに似ている部分があった。その仕草にあわせて、首もとの首輪の鈴が鳴る。
「なんていうか、普通の人みた……あ、ごめんなさい!」
なんとなく流れ出てしまった酷な言葉を切って、トアンが謝罪すると、アルライドは気にするな、と手をヒラヒラ振った。
「ま、もともとは一般人だから」
「はぁ……。あ、レインは貴方のことを知ってるんですか?」
「うんにゃ、言ってない。それは、レインが自分で気付かないと意味ないから。……言うなよ?」
「でも、言ってあげたほうがきっと喜びます!レインが気付かなかったら」
「それはわかってる。……でも俺は。そん時は『ガナッシュ』としてこの一生を過ごすつもりだ。」
「どうして」
「俺が死んで、レインは涙を失った。肩を震わしても、もう涙はでてこないんだよ。俺がガナッシュとしてこの三年間一緒に居たけど、どんなときだってレインは涙を流せなかった。……もし、また別れがくるなら、名乗らないほうがいい」
「別れって?」
「いーの、知らなくて。それに、俺は、『アルライド』ではなく、『ガナッシュとして』レインの傍にいたかったんだ。」
ザァっと、辺りを埋め尽くしていた黒い蝶が剥がれていく。と、同時に眩しいほどの白い蝶が剥がれて後から姿を現し、ゆっくりと羽を揺らした。
上空から降り注ぐ紅い蝶と、白の蝶。
そのコントラストに、トアンは眩暈すら覚えた。
白と赤の空間に、ふっと四角いものが浮かび上がる。四角の中心は、まるでモニターのように、そしてセピア色だった。どうやら過去のようだ。
月明かりの下、金の髪を緩やかに散らして、レインが眠って居る。だがしかし、その顔はぐっすりと安眠を貪っているわけではなく、苦悶に歪んでいた。
「んん……」
呻き声を上げ、時々思い出したように寝返りを打つ。
カラリ
レインの頭の上にある窓が開いて、黒い何か──子猫のぬいぐるみだ。まだ新しい──がヒラリと飛び込んできた。
子猫は眠っているレインに近づくと、そっと目尻を舌で舐めた。まるで、涙でも拭いとるように。
「レイン……。」
頬に柔らかな頭を摺り寄せ、ポソリと呟く。
「俺は……約束、守るから。すっと傍にいるから」
子猫は暗闇にそう呟くと、レインの枕元で丸くなった。
一端画面が暗転し、時間が経ったのだと知る。
「……、? なんだこれ」
もう日が真上から少し傾くころ、レインがのそのそと起き出してぬいぐるみを摘み上げた。
「誰だよ、こんなの──」
「失敬なヤツにゃ」
「!!?」
驚いたようにぱっと手を離し、口をパクパクさせるレインに子猫は苦笑してみせる。
「な、なんだ、お前」
「俺か? 俺は……。……妖精が宿ったぬいぐるみにゃ」
「よーせー?」
明らかに信じてない視線を受け、子猫は僅かにたじろぐが、子供に諭すように続けた。
「そ、そうにゃ」
「ふーん……で、なんでオレンとこにいんだよ」
「そ、それは」
「うん」
「……。迷える迷子を救うために、わざわざやってきたのにゃ! 感謝しろ!」
「……帰れ」
「ああ! 酷いにゃ!」
「帰れ」
「お、俺は、その……。役にたたないと消えちゃうのにゃ! 俺はお前の役に立ちたい!」
「よそ当れ」
「いやにゃ! あ、きえちゃうきえちゃう! 罪も無い妖精を見殺しに」
「……ッわーかったよ! 好きにしろ」
「ホントか!?」
「あー」
だるそうに言い放つと、レインはごろりと二度寝の体制に入った。
「おいおい、起きろにゃ」
「うるせ」
「おーきーろー!!」
「うるせえ! ……っと、お前……」
「ん?」
「名前は?」
「あ、ああああ。それ、アンタが考えるのにゃ。妖精には菓子の名前をつけるというのは仕来りで」
「オレが?」
「そ。」
「めんどい」
「あ。消える」
「……、」
すいっと伸びてきた腕が、子猫を布団に招き入れた。
「な、なんにゃ?」
「ガナッシュ」
「え?」
「お前の名前。ガナッシュ。菓子の名前だろ」
「ま、まあ」
「じゃ、そーいうわけ。」
レインは僅かに微笑むと、子猫を抱いたまま眠りに落ちていった。
その笑顔は、酷く懐かしいもので。
「……。」
やがて聞こえ始める、規則正しい寝息。やっと見つけた安堵を掴んで、安心したようにレインは眠りに落ちていく。
ただ、口元の微笑みは淡く消え去っていた。
「それから」
アルライドが呟くと、画面のなかの景色が変わっていく。
ベッドのうえでじゃれあうレインとガナッシュ。
一緒に食事をし、レインの頬に付いた食べかすを舐めとるガナッシュ。
レインのチョコレートを盗み、怒られているガナッシュ。
返り血を浴びて帰ってきたレインの足元に、心配そうに擦り寄るガナッシュ。
血を落とすために、一緒に入浴する、レインとガナッシュ。
「俺たちは、ずっと一緒にいた。」
ブツン、小さな音を立て四角のなかの画面は真っ暗になり、暗闇にモニターは消えてゆく。
「3年間、俺はガナッシュとしてレインの傍にいた。察しの通り、アンタの父親が創ったぬいぐるみとして」
「……父さんは、兄さんを救いたがってるんですか?」
「あぁ」
ククッと喉を鳴らすように、アルライドが笑う。
「キーク様はな、レインをもともと被害を受けないように余所預けておいたんだ。結局箱庭から逃すことはできなかったけど、なんとかしようとしてた」
「でも、」
「うん?」
「アルライドさんは、それでいいんですか?」
「いいよ」
「だって」
「俺は、後悔してない。親友を守りたかったんでね」
んん、と伸びをするとアルライドは立ち上がる。トアンはなおを問おうとするが、強い意志の瞳を向けられると口をつぐんだ。
「さて、帰る前に約束だ」
「え?」
「なにがあっても、レインを此処から連れ出す、こと」
差し出された小指に、トアンは迷わず小指を絡ませた。
「俺はどこまで居られるかわからない。もし、俺がレインの未来に居なくても──守ってくれ」
真摯な視線に、トアンは力強く頷く。
「アルライドさんも」
「うん?」
「貴方も、守ります」
「……。ありがとう」
ちりん、首輪の鈴が鳴り、辺りの光景が暗転した。
「あ、起きた起きた」
「う、わ!」
チェリカの顔が近い。覗き込まれていることに驚き、トアンはガバリと身を起こした。チェリカも、ふっと顔をほころばす。
「あ、あれ、オレ……」
辺りを見回すと、足元には魔方陣。あの部屋に戻ってきたようだ。
見ればシアングがルノを起こしている最中で、ウィルはガシガシ頭を掻きながらガナッシュに起こされていた。
「トアンとガナッシュの話、みんな聞こえてたの。」
チェリカがガナッシュを振り返って、ガナッシュを抱き上げる。
「えっと」
「ガナッシュ、だにゃ」
「アルライドって呼んじゃ駄目?」
「だーめ」
「あ、ガナッシュ!」
「うん?」
ぼんやり会話を聞いていたトアンだが、いきなり話を割って入ったので、チェリカとガナッシュの目が丸くなる。
「早く行こう、オレ、兄さんが心配で」
「そうだにゃ」
ふっと笑みを漏らしたガナッシュが、シアングとルノに声をかけた。
「おまえら、準備はいいかにゃ?」
『ふふふふ、ガナッシュ、君は相変わらずだね』
ブ──……ン
突然虫の羽音のようなものが響いて、部屋の隅にあったモニターが動き出した。
白衣を着た茶髪の男が、口の端を持ち上げている。
『君は何者だい? 不思議なぬいぐるみだけどさ』
「アンタには関係ない!」
フー、ガナッシュが敵意をあらわにして毛を逆立てた。
「ハクアス……お前は、何がしたいんだ」
『ふふ、ルノちゃん、いつの間に逃げ出したのかな?』
ヒラヒラと手を振って、ハクアスがモニターか遠ざかる。
そしてモニターに映ったのは、がっくりと項垂れたレインだった。
「レイン!」
「レイーン!」
ウィルとチェリカが同時に叫び、モニターに駆け寄った。
「……どういうつもりだ!」
ガナッシュが言葉を荒くして叫ぶ。
『どういうつもりもなにもね……。思い出させてあげたんだよ。君がその子達に見せたように、レイン君の過去を。』
「思い出させた……?」
『催眠状態にして引きずり出してあげたのさ。まあ、今はまだここに来る前までのことしか思い出させてないけど……。自分の村での育て親の惨殺、ね。相当ショック受けちゃったみたい』
くすくす、ハクアスの小さな笑いが響いてくる。ぐい、とハクアスがレインの髪を掴んで顔をあげさせると、レインの朱色の瞳は──呆然と見開いたままで。
ざわり、トアンの背中を嫌な感じが駆け抜けた。
「よくも……」
『ン? ガナッシュ。やだなあそんな怖い顔して』
「その手を離せ!」
噛み付くように言い放つガナッシュの横に立ち、トアンも剣を構えた。
モニター越しなので剣が届くことは無いが、それでも。
『いやだね。……トアン君、この子を君に渡すのはまっぴらだ』
ハクアスは楽しそうに笑うとこちらに近づいてきた。レインは、その背中に隠れて見えない。
「レインに、何したの?」
チェリカの声も、いつもより少し低い。
『今、レイン君はここに来る前までのことを思い出してる。この状態で目覚めさせれば、そうだね』
ハクアスの眉が、考え込むように寄せられた。
『君たちの事、一人残らず殺してくれるよ』
「!」
『ふふふ、あはははは!』
乾いた笑い声が響く。
トアンの横で、悔しそうにウィルが唇を噛締めていた。
「あいつ……! 狂ってる!!」
「トアン、どうしよう?」
「……ッ」
戦いたくなんか無い。
どうして、こんなことに!
トアンは気持ちの整理がつかなくて、ぐるぐる回る頭を抑えた。
その時だ。
『うぅ……!!?』
モニターの中のハクアスが呻き声を上げ、目を見開いたまま立ち尽くしていた。すぐにずるずるとその身体は崩れ、仰向けに倒れる。……其処に立っていたのは、
『オレは……。オレはアンタの玩具じゃないんだ……』
血の滴る剣を持ったままで、白い頬を返り血に染めたレインがいた。
倒れたハクアスの傍にしゃがみ込むと、レインは感情を押し殺した声で呟く。
『オレは……』
と、レインの言葉が消えた。苦痛に顔を歪ませたハクアスが、笑ったのだ。
それはトアンたちがつい先程まで見ていたあの嫌な笑い方ではなく、まるで、安堵に包まれたような。ハクアスはこんな表情ができたんだろうかと、想像もつかないような──まるで、別人のような笑顔で。
『ぁ……よか、た……ああ、こんな綺麗に、手際よく、殺して、くれて……』
『……?』
『レ、レイン君、最後の最後で、また、君に、会えた』
「……どういうことだ?」
凄惨な場面を見たせいか、顔を青ざめさせたルノが呟く。チェリカは口元を押さえたまま、ゆるゆると首を振った。わからない、と。
『こんな、こと言って……君を悲しませ、る……ことになるのは、わかってる、けれど』
ガボリ、ハクアスが血の塊を吐き出した。レインが持ったままの、誰か他の暗殺隊員の武器であろう長い剣は、その腹を貫通し、その傷口から大量の真紅が溢れ、床を染め始めていた。
『僕、は。僕は、君に、謝らなくては。ごめ、んよ……レイン君』
残りの時間が少ないのだろう。ハクアスの目は、それでも必死に何かを伝えようとしていた。
(なんだ?)
ふと、レインの脳裏に何かがよぎる。
あの時も、残り時間を精一杯生きていた人がいた。
必死に、バカみたいに。
(……!?)
『最、低な、父親で……ごめ…………』
最後にそう呟いて、ハクアスの身体から力が抜ける。
その瞬間、頭の中に次々と映像が浮かんできた。──それが自分の記憶だと、気付くのにそう時間はかからなかった。
無意識に、手がハクアスの胸元をくつろげる。
いつか見たものと同じ、黒い薔薇のような痣がそこにあった。
この痣は、人を変える。
この痣があるということは、ハクアスはハクアスであって、ハクアスではなかったのだった。
自分のために死んでいったアルライド。彼はただの話し相手ではなく──親友で。
彼を失うことになったのはハクアスのせいだったが、どうしても恨みきれなくて。
さらに自分が金を掻き集めていたのも、変わってしまう前の優しい──自分が大好きだった頃のハクアスが忘れられなくて、変わってしまったハクアスを認められなくても、それでも寿命が近い彼のために、必死で集めていたのだ。
『なんだよ、それ』
ぽつん、降り始めの雨のように、唇から小さな音が零れた。
自分はこんなに大事なことを、すべて忘れていたのだ。
(気付くのが……遅かった。……何のために、今まで──!)
ああ、オレ。
何のために生きてきたんだよ。
必死になって、沢山なくして、それでも生きて、それで辿り着いた結果がこれかよ。
こんな、こんな、こんな、
こんな、
こんな。
ゆるゆると持ち上げた掌を見る。
真っ赤になった、その手。
自分で殺した、自分の生きる理由だったひと。
自分の意思で殺した、大事なひと。
「レイン!」
ガナッシュがモニターに向かって叫ぶ。
「ガナッシュ、あそこはどこ!? 早く行かなきゃ!」
「こっちだにゃ!」
チェリカに急かされると、弾かれたようにガナッシュが走り出す。ルノが入ってきた扉とは別の、もう一つの扉に向かって。
「ウィル! 早く!」
モニターを見上げたまま、動かないウィルにルノが声をかけた。
「あ、ああ」
走り出す前に、もう一度ウィルはモニターを見上げて呟いた。
「すぐ行くからな……レイン」
誰も居なくなった部屋でも、まだモニターは動いていた。
ジリ……
床を踏む音がして、誰かが近づいてきた。
レインは振り返らず、呆然とハクアスを見ていた。
『やはりこうなりましたか……愚かな方ですね、レイン』
『オーラ、か……。ほっといてくれ』
振り返らないままで、レインが答えた。今のレインには、それすらも億劫だった。
『…………。』
ドンッ
突然、背中に衝撃を受けた。
『な……』
一瞬、何が何だかわからなかった。
ずしゃり、身体が横倒しに倒れる。床に広がったハクアスの血が、跳ねて頬を濡らした。
『オーラ、てめ……』
ばっくりと切り裂かれた背中から、ドクドクと血が溢れた。ビクビクと身体が痙攣して、眩暈が襲ってくる。そこでやっと、自分が斬られたのだと知った。
『あなたに、ハクアス様は渡せない』
『は、ッう……う』
オーラがたった今レインの背を切り裂いた武器──いつもレインが持っている大鎌だった──を放り投げ、ハクアスを引きずっていく。
レインがゆっくりと手を伸ばすが、それは虚しく宙を掻くだけ。
『まっ……て』
ズルズル、引きずられていく音が、遠ざかっていく。
息ができなくて、苦しくて。
(ああ、ここでオレは死ぬのか。あっけねぇ……)
自嘲に笑うレインの瞳が最後に捉えたのは、悲しそうなハクアスの顔だった。
頬についたハクアスの血が、こめかみの辺りにスッと流れていく。
それは、涙を失くしたレインの、唯一の涙のようだった。
──ズキッ
「痛!」
「どうしたの?」
突然走るのをやめたトアンを、気遣わしげにチェリカが見た。
「あ、いや、なんか……、心臓が痛くて。あ、もう大丈夫。」
「心臓? ……なんだろうね、私もやな予感がするんだ」
「チェリカ」
「急ごう、立ち止まってると、不安で……」
でも先を見るのもなんか怖い、そう呟くチェリカの表情は、トアンがはじめて見るものだった。
──漠然とした、怯え。
「ほら、早く」
疲れているルノの手を引いて走っていたシアングが、追いついてトアンとチェリカの背を押した。
「立ち止まってちゃ始まんねぇ」
「……。レインが待ってるもんね!」
先を行くガナッシュが暗闇に溶けるのを見て、チェリカとトアンも足を踏み出す。
(重い)
踏み出した足が、鉛のように重い。
(行きたく、ない……? いや、行かなきゃ。兄さんが待ってる)
思い通り進まない足を叱咤し、長い廊下を再び走りだした。
長い廊下の果てにある、部屋。
漸くたどり着いたトアンたちは、呼吸も整えないままドアを押した。
不安を掻き消して、仲間の顔には期待。
やっと会える。
彼がそれを望んでいるか知らないが、自分たちは望んでいるのだ。
だが、その期待は、
「──え?」
残酷な形で裏切られた。
「……レイン!?」
慌ててチェリカが倒れているレインに駆け寄る。
そこはあたり一面血の海で、チェリカの服も赤く染め上げた。
「レイン!」
レインの横にしゃがみ込む妹に、ルノも続く。
「レイン、どうした?! 気絶して──!」
気付かせようと頬を叩こうとして、ルノはレインの頬が異常に冷たいことを知った。
「……レイン?」
冗談だろう? と、ルノが小さく呟いた。
ドクン。
トアンの鼓動が、跳ね上がる。
ドク、ドクン!
まるで頭の中に心臓があるような気すらする。
口の中が、からからに乾いて。
無意識に握り締めた掌は、汗をびっしょりとかいていた。それがグローブに張り付いて気持ち悪いとか、そんなことは考えない。
ただ煩い鼓動と、地面に張り付いた足がどうにもならなかった。
「そんな……。間に合わなかったのか……?」
まるで、猫がするように、ガナッシュが冷たいレインの頬に顔をこすり付ける。
チェリカは、呆然と項垂れたまま。
「どうして……」
ゆらゆらとボタンの奥が揺れた。
「癒せ……ッ」
震える声でルノが呟き、レインの綺麗に裂かれた傷口に手をやる。
ポゥ、と柔らかな光があたりを照らすが……傷は、ふさがらない。当然だ。もう、死んでいるのだから。
「なんでだよ! おい! 目、開けろよ!!」
ウィルがその身体を揺する。
なすがままに揺れる体は、ウィルの手が徐々に落ち着いていくと、それにあわせて動くのがとまった。
「なんでだよ……さっきまで、さっきまで……クソッ」
堪え切れなかったのか、ぽたぽたとウィルの涙が黒い服に落ちる。
「こんなの、納得いくかよ!」
「……ッ」
ウィルの声を聞いて、ルノが再び手を翳した。
と、その手を今まで黙っていたシアングが掴む。
「よせ」
「離せ!」
「……ルノ」
「離せ、離せって!」
「よせよ。……もう、死んでる」
静か過ぎる声で、シアングが告げた。
あえて皆が言わなかった、事実。
ビクリとルノの肩が震え、シアングを見返す。シアングの瞳は、声と同じく──静かなものだった。
「……どうして」
「……ん?」
「お前は、そんなに……ん!」
言葉を紡ぐ唇は、人差し指でとめられた。
そのまま、くしゃりと髪を撫でられる。
「何も、言うな」
「……。」
トアンはその様子を、ドアからそう離れていない位置で見ていた。
レインのほうに行きたくても、足が動かないのだ。
『もう、死んでる』
シアングのその一言を聴いた瞬間、煩かった鼓動が不意に止まった。
そして、足元からガラガラと崩れていくように、スッと力が抜ける。
力なく床にへたり込んだトアンの瞳に映ったのは、レインの血。
背中を切り裂かれて床に散るそれは、まるで、紅い蝶の翼のようだ。
そう考えた瞬間、強い自己嫌悪が襲ってきた。
ヒントが無かったわけではない。
初めて会ったとき、レインが闇へと消えていったとき、トアンハ思ったのだ。まるで、蝶みたいだと。それに、その日見た夢では女性が「蝶が死んでしまう」と悲しそうに言っていた。
さらに、ヴァリンと夢の中であったときも蝶がいたし、さらにはガナッシュが連れて行ってくれた過去の世界──も、蝶が、それも屍骸が降っていたのだ。
あんなにも、警告はあった。
しかし自分は、その意味に気付かず、結局彼を亡くしてしまった。
レインという存在は、トアンにとって酷く不安定で、そして強力だった。
兄と知る前も、知った後も、その感情は変わらない。
「……兄、さん」
零れた言葉が、形を作って消えていく。
「兄さん……!」
スッと線を描いて、零れた涙が床に落ちる。
泣いてる場合じゃないのに、そう思ってごしごしと目を擦り──そして涙の落ちた場所を見て目を見張った。
涙が落ちた部分だけ、床が光っていたのだ。
(え……?)
その光は見る見るうちに広がっていき、やがてチェリカたちのいる場所へも伝わる。
「チェリカ、皆!」
あれほど動かなかった足がいとも簡単に動いて、トアンを仲間のところへと連れて行ってくれた。その声に一端顔をあげた仲間も、不思議そうにと足元を見渡す。
光は、もう部屋全体の床に伝わっていた。
ガナッシュが慌てたようにチェリカの肩に駆け上がり、尻尾を大きく振った。
「な、なに? どうして床が」
不安そうに呟くと、チェリカがトアンの方に振り向いた。そのまますぐ隣に駆け寄ると、少し安心したように息を吐き出す。
トアンもやはり少し安心して、ガナッシュに何事かと問おうとして、──口をつぐんだ。
ベリベリとシールでもはがす様に、床に広がった血が宙に浮いた。
そのままレインの身体がゆっくりと持ち上がって、正面から立ち上がったように浮かぶ。その目はしっかりと閉じられており、足が床から僅かに離れていた。
「──!?」
床から浮かび上がった蝶の羽のような血がゆっくりと開閉し、まるで、呼吸をするかのようだった。
「……兄さん?」
「レイン?」
トアンとウィルが同時に問いかける。
その瞬間、羽は羽ばたく様に大きく開くと、勢いよくバッと弾け飛び、紅い光の粒になってレインの身体に入っていった。
スウ……と床の光が消え、宙に浮いていたレインが前のめりに倒れる。
「おい!」
咄嗟にウィルがその身体を抱きとめた。
「レイン、どう──!」
「うそ!」
ウィルの声が中途半端なところで消え、覗き込んだチェリカが素っ頓狂な声を上げた。
とても小さく、微かなものであったが、小さな呼吸が聞こえたのだ。
「ど、どうして」
「トアンがやったんじゃないの?」
「え!? 違うよ、オレは、そんな……」
嬉しそうに笑うチェリカの期待を裏切りたくは無いが、トアンはわたわたと手を振った。
「だが、何故?」
ルノがあごに手を当てて考え込むのを見て、それまで黙っていたガナッシュが口を開いた。
「あっちに小さいけど仮眠用の休憩室があるにゃ。……そこで考えよう?」
「わかった」
ガナッシュの指す方向に向かって歩き出したウィルを追って、トアンたちも続いた。身長的にはウィルのほうが小さいのだが、レインが随分と軽いため苦も無く運べるようだ。
「あ」
と、チェリカが小さな声をあげるとぱっと走っていき、しゃがみ込み、すぐに戻ってきた。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
そういう彼女の右手には、何か握られていた。
ガナッシュは、レインの鎌があった場所を見ていた。
先程まで確かに存在したそれは、跡形も無くなくなっていて。
(不完全ながらも、『すべてを還すための力』か……? 俺もあの光に触れたらやばかったな)
「ガナッシュ、置いていくぞ!」
「あ、待つにゃ!」
ルノの声に思考をやめ、ガナッシュは駆け出していく。
運命の歯車が、静かな音を立てて、壊れ始めていた。
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