③体育もちゃんとした勉強だよ!


「お疲れ様でした」


 居間に通されて座るなり、コックリに深々と頭を下げられた。

 銀狗郎と茶々狸は帰宅すると一目散に浴室へと向かって行き、今は銀狗郎の気持ちよさそうな鼻歌が聞こえてくる。


「そんなに頭を下げなくても……」

「いえ、用事があったとはいえ、二人を無事に送り届けてくださってくれたんですから。これぐらいは当然ですよ」

「はぁ……」


 そう言われ、千枝はそういうものかと受け入れた。

 別にどうこう言いたいわけではないが、この人は変なところで堅っ苦しい部分があるのはどうにかならないのだろうか。ふざける時はとことんふざける癖に。


「それで、一発目はどんな授業をするつもりなんですか?」

「それは皆が集まってからのお楽しみ、ということで」

「お手並み拝見させていただきますね」


 コックリは柔和な笑みを浮かべ、今度は軽く頭を下げた。


「では、狐黄太を呼んー……できてもらえますかね。二階にいますので」


 一度立ち上がりかけたコックリだったが、言葉の途中で何か思いついたのかすぐに座りなおした。それはもう不自然な動きで。


「はい、構いませんけど……」


 コックリの不敵な笑みに不安を感じながらも、特に断る理由もないので引き受けた。

 浴室から漏れる銀狗郎の鼻歌を聞きながら階段を登りきると、一番手前のドアに『狐黄太』と書かれたプレートがぶら下がっていた。少々歪ながらも均整の取れている文字から察するに、自分で書いたものだろう。隣に目を向けると、案の定そこには『銀狗郎』と大きく書かれたプレートがあった。元気な彼女らしく、プレートにはみ出さんばかりの威勢のよい文字に、千枝は思わず口元を綻ばせた。

 茶々狸の部屋も気になるが、それはまた今度の楽しみにしようと考え、千枝は本来の目的である狐黄太の部屋をノックした。


「開いてるよ」


 昨日とは違って冷たく感じるような調子の声に、千枝は一瞬肝を冷やした。しかし狐黄太が勉強中だったことを思い出すと、なるべく音をたてないようにしてドアを開ける。


(失礼しまーす……)


 まずは様子見と、部屋の中に頭だけを突っ込み、部屋の様子を探る。

 まず目に入ったのは、勉強机に向かって勉強している狐黄太の後ろ姿だった。自室で気を抜いているのか、耳と尻尾がリラックスした様子でだらりと出ていた。時折ピクピクと動いているのが千枝的に胸キュンだった。

 次に部屋をぐるりと見回すと、ベッドやタンスなどの最低限の家具しか見当たらず、部屋のほとんどが本棚で埋め尽くされていた。年頃らしく漫画もちらほらと見えるが、ほとんどは小説や教科書といった、およそ千枝の本棚には見当たらないものばかりだった。

 やはり自分とは出来が違うんだなぁ、と改めて思いつつ部屋の中にゆっくり入ると、狐黄太に近づき、いったい何を勉強しているのか背後からこっそりと覗き見た。

 机の上に散らばっているのは、どうやら理科の問題集のようだった。

 すでにほとんどのページが終わっており、今は答え合わせの段階らしく、赤ペンを持って答えの本とノートを何度も見比べていた。


「それで、用事は何? 銀狗郎達のお迎え?」


 紙にいくつも丸を付けながら、今度は少し苛立ちの混じった声で話してきた。どうやら千枝が早く用件を言わないことが少々気に障ったらしい。

 まぁ、千枝も同じ立場だったら同じことを思うだろう。用件があるならさっさと言えよ、ぐらいには怒る。もちろん声には出さないが。


「てょ……ちょっと降りてきてもらっていいかな」


 内心ビビっていたのが声に出て噛んでしまった。これは恥ずかしい。

 小学生にビビっている高校二年生の図が頭に浮かび、恥ずかしさが込み上げてきて顔が熱くなってきた。

 落ち着け自分、ここで顔を赤くさせてたらそれこそ恥ずかしいぞ。

 そう思って治るものでもなく、千枝の顔はほんのりと赤みがかっていた。


「ちっ、千枝さん!?」


 千枝の上ずった声を聞き、狐黄太は耳と尻尾をピンと立たせ、驚いた様子で振り向いた。

 そこに居たのは顔を赤くさせた千枝で。千枝は狐黄太と視線が合うと、両手で顔を覆ってしまった。それはもう素早い動きで。


「あの、少しやりたいことがあるからさ。その、あれだ、勉強中に邪魔しちゃってごめんね。それ終わってからでもいいから」


 羞恥で赤くなった顔を見られまいと後ろを向き、狐黄太の返事を待った。

 なんならさっさと下に降りたかったが、それだとあのコックリに何を言われるのか分かったものじゃない。


「す、すみませんっ! その、母さんだと勘違いしてあんな言い方して……本当にすみませんっ! ごめんなさい!」


 狐黄太の方は、こちらはこちらで千枝を泣かしたと勘違いし、顔面蒼白で平謝りしていた。どうやら彼の中だと、泣いたことで赤くなった顔を両手で隠し、これ以上何か言われる前に部屋を出ようと後ろを向いたことになっているらしい。

 実際の千枝はそんなことで泣くようなタマではないのだが、惚れた弱みと家族以外で初めての女性ということで、狐黄太の中では千枝は可憐でか弱い女性ということになっていた。恋は盲目とはよく言ったものである。


「いや、私が悪かったんだよ。最初にノックした時に、入るよーって言っておけば良かったんだから」

「そうだったとしても、自分が強く言い過ぎたのが悪いんです! い、いつもはあんな風に言わないんですよ!? ちょっと今朝にしょうもないことで喧嘩したぐらいで……。自分にとってはしょうもないことじゃないんですけど」

「何で喧嘩したの?」

「えっ。それはその、厳密にいえば喧嘩じゃなくて、自分がからかわれただけなんですけど……。と、とにかくごめんなさい! すぐ降りますね!」


 机の上を乱雑に片づけると、狐黄太は千枝の横を掠めるように走り出ていってしまった。

 そんなに謝らなくてもいいのに、と取り残された千枝は思いつつ、なるべく時間をかけながら下へと降りて行く。

 一階では、風呂から上がってパジャマに着替えた銀狗郎と茶々狸が、並んで牛乳瓶片手にほっこりしていた。机の前には狐黄太が肩身狭そうに座っており、降りてきた千枝を見やると、気まずそうに顔を背けた。

 千枝は首を傾げるばかりだが、特に気にすることもなく部屋に入る。


「すみませんね、千枝さん。狐黄太が失礼な態度をとったみたいで」


 台所の方から出てきたコックリが、困ったような笑顔で言った。


「いえ、別に気にしてませんよ。私が悪かった部分もありますし」

「それならいいんですが。ほら二人とも、いつまでもそこに居ないでこっちに来なさい」

「はーい」

「ぷぇーい」


 牛乳瓶を台所に置いた後、二人はそれぞれ自分の柄が描かれた座布団に座った。千枝も同じく彼らの向かい側に座ると、コックリが座るのを待って話し始める。


「今日は、みんなの実力がどの程度なのか見させてもらおうと思ってね」


 ずっと提げっぱなしだったエナメルバッグをごそごそと探り、中型クリップで留められた紙束を取り出す。


「抜き打ちテストを開始します!」

「テストだー! やったー!」

「ぷぇー」

「……」


 それぞれの反応をする二人。狐黄太は先ほどのこともあり、だんまりしている。

 そう、今回の目的は彼らの実力調査。押し入れから引っ張り出してきた教科書をカバンに詰め、授業の時間を潰してまで作っていたのが、今千枝の目の前に置かれている数枚の紙束である。おかげで英語の時間は冷や汗をかいたが、この反応を見て疲れも吹っ飛んだ。

 しかし、テストと聞いて喜ぶとは、銀狗郎は意外と勉強好きなのだろうか。


「何やるの? 50M走かな、サーキットかな!」

「……いや、テストって体力テストのことじゃないからね」


 しかもサーキットって。学校に行ってないのに、なんでそんな運動系部活しか知らないような単語を知っているのだろう。やはり根っからの運動好きなのだろうか。


「お前なぁ、千枝さんは勉強を教えに来てくれてるんだぞ。なんで体力テストをやらなきゃいけないんだよ。わざわざテスト用紙まで作ってきてくれたのに」


 銀狗郎の発言に、だんまりしていた狐黄太が反応した。流石に見逃せなかったらしい。


「体育もちゃんとした勉強だよ!」

「そういう問題じゃない」


 狐黄太が呆れ顔でそう言うと、それが気に食わないのか銀狗郎はムッと頬を膨らませた。

 このまま放置しておくとまた話が長引きそうなので、千枝は咳払い一つ。


「えー……やるのは主要四科目ね。それぞれ前の学年の重要な部分だけをチョイスしてるから、そこまで難しくはないと思うの」


 千枝がテスト用紙を配りながら説明していると、茶々狸が手を挙げた。


「ぷぇい」

「私はどうするのー、って」

「茶々狸ちゃんは五十音と数字をやってもらうつもり。一応クレヨン持ってきたけど、使う?」


 再びエナメルバッグを漁ってクレヨンを見せると、茶々狸はほぼノーモーションでそれを受け取った。奪い取ったという方が適しているかもしれない。

 目をキラキラと輝かせてクレヨンの箱を眺めると、おそるおそる慎重にフタを取った。中のクレヨンはどれも綺麗とは言いづらく、いくつかの色はほとんどすり切れていたりするものばかりだが、それでも茶々狸は嬉しそうにほほ笑み、千枝を見つめる。これだけ感謝されているのならクレヨンも本望だろう。

 そんな千枝と茶々狸の間に和やかな空気が流れると、銀狗郎がまた不満気に声を上げた。


「いいなー、いーなー! さっちゃんはプレゼントもらっていいなー!」


 机にぐてーっと垂れ、上目で千枝を見つめてくる銀狗郎。

 その姿が某垂れパンダを彷彿とさせ、千枝はくすりと笑った。


「よーっし。じゃあ、また今度来た時にプレゼントあげちゃおう」

「ほんとに!? やったー!」


 即座に喜び勇む銀狗郎を、狐黄太が再び叱りつける。


「おい銀狗郎! すいません、わがまま言って。そんな何もあげなくていいですから……」

「大丈夫大丈夫。よかったら狐黄太君も何かあげよっか?」

「いあっ!? じっ、自分はそんな特にプレゼントは……あぁいやでも千枝さんからのプレゼントが嫌なわけじゃなくてですね、その、もし貰えるとしても千枝さんの負担が少ない物なら何でもいいですはい。出来れば……」

「おでこにキスとか」


 コックリがぼそりと、狐黄太にしか聞こえないように呟いた。


「キぃッ――!? な、ななななな何を言って! そんなことしてくれるわけないでしょ!」

「あら、頼めないわけじゃないのね。じゃあ証明のために試してみましょうか」

「試すわけないでしょ!?」

「試してガッデム♪」

「玉砕してるじゃん!」


 顔を真っ赤にしつつ、狐黄太はちらりと千枝を、厳密に言えばその口元を見た。

 千枝の趣味がゲーセン通いに買い食いとはいえ、オシャレに興味がないわけではない。かといって凝っているわけでもなく、普段は色付きリップクリームを塗るぐらいである。それも化粧用の本格的なものではなく、薬用のうっすら色が付いている程度の物。

 しかし、そのおかげで千枝の唇は瑞々しく引き締まっており、仄かに桃色がかっていることも相まって、健康的な色気を醸し出していた。

 慌てて目を逸らす狐黄太だが、脳裏には千枝の唇が鮮明に焼き付いている。

 口ならともかく唇なんてものは意識して見ることが少ないため、いざ意識してしまうとそう簡単には忘れることが出来ない。それが惚れている人間のものなら尚更なわけで。

 ぎゅっと目をつむって忘れようとするものの、思春期の妄想力は凄まじく、頭から離れるどころかあんなことやそんなことすら浮かび上がってくる始末。

 そんな狐黄太の苦労も知らず、千枝はニヤニヤしているコックリと頭を振る狐黄太を見ながら首をかしげる。

 そんな千枝の視線に気づき、コックリが軽く会釈をする。


「どうぞお構いなくお話の続きをば」

「話も何も、出来るような状態じゃないんですが」

「じゃあ放っといてテストをやりましょう」

「そっちも出来ないんですが」


 ため息を吐き、狐黄太の錯乱が終わるまで待つことにした。

 後から狐黄太だけ別にテストを開始してもいいのだが、時間管理がめんどくさいし、何より狐黄太が仲間外れみたいで嫌だ。

 ふと視線を横に逸らすと、茶々狸がチラシの裏に落書きを始めていた。テスト用紙に描かなかったことに感心しつつ、そこまで気に入ってくれたことに千枝はすっかり気分を良くする。

 何を描いているのか見ようとするが、その視線に気づくと茶々狸は腕で覆い隠し、戒めるような目で千枝を見た。


「えっち、だって」

「その歳からそんな過激な絵を描いてるのか……」


 冗談めかしてそう言って隙を窺うが、茶々狸はますますガードを硬くしてしまう。

 諦めて視線を狐黄太に戻すと、どうやら収まってきたらしく、肩を上下させながら荒く息を吐いていた。


「落ち着いた?」

「はい、なんとか……。お待たせしてすいません。早くテストしましょう」

「千枝さんとの個人テストを」

「母さんは黙ってて!」

「おぉ~、怖い怖い」


 そう言ってコックリは台所の方へ捌けていった。

 別に個人テストで間違ってはないのだが、おそらくコックリが一々余計なことを言ってくるのが鬱陶しいのだろう。たしかにあの人が絡んでくると話が逸れるので、その気持ちも分からなくはない。


「それじゃあ、準備はいいね? よーい、スタート」


 千枝の掛け声と同時に、紙を裏返す音が重なって聞こえた。

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