第4小節:夢の欠片

第4小節:夢の欠片(1)

 その日、いつものように本拠地であるコンサートホールに入ると、ふと何かが聞こえてきた。扉を隔てて聞こえてくるそれは、くぐもっていながらも優雅で、そして繊細さを兼ね備えている事がはっきりとわかった。力を加えるだけで崩れてしまいそうな、脆くも美しいひとつひとつの音色。その割れ物のように儚げな音は幾重にも折り重なり、やがてひとつの壮大な物語へと昇華していく。


 それはまるで、聞くもの全てに翼を授ける、大空のような曲だった。

私は、少しの間扉の前でその旋律を噛みしめていた。懐かしい音色だった。あの、心地よい振動が胸から全身を駆け巡る感覚。指先から紡がれる音のひとつひとつに胸躍らせ、高鳴らせる悦楽。かつては、私の心の半分以上を形成していたもの。同時に、私とみらいを引き裂いたもの―――。

みらいと喧嘩をした、最後の夜が思い起こされる。そして、その感傷に儚げな音色が浸透していく。


 私は、目の前の重い扉をゆっくりと押した。もう少しだけこの感傷に浸っていたい気持ちもあったが、それ以上に、遠くから聞こえるこのメロディをもっと鮮明に聞いてみたいと思った。そうして、私は奏でられる壮大なストーリーの中へと足を踏み入れた。




「なんだ、来ていたなら声を掛けてくれればよかったのに」


 演奏を終えたゆかりさんが私に気づく。れんなちゃんとタクミさんは相変わらず集まる気がないようで、その場にいたのは私とゆかりさん、そしてシンの3人だけだった。


「いえ、邪魔すると悪いなと思ったので」


 そういって、私はゆかりさんの手元に視線を移す。

 その手にあったのは、ヴァイオリンだった。いつも戦闘で使っているヴァイオリンとは違う、普通の"楽器としての"ヴァイオリン。しかし、所々武器として使っているものと同じ意匠が見て取れた。


「ああ、これ。…いつも武器に使ってる奴よ。流石に二つも買うお金ないもの、だから使い回し」


 だから、そう言われてもさして驚きはしなかった。それよりも驚いたのは―――


「全くゆかりはしょうがない子だなぁ!よし、今度のクリスマスにお父さんが買ってきてあげよう!」

組織ウチにそんな余裕ないでしょう、お父さん」


 そう冗談を言うシンの目の前に置かれいるのは、荘厳な雰囲気を湛えるグランドピアノ。そう、先ほどのヴァイオリンとピアノの二重奏、そのピアノを担当していたのがシンだった。


「あの、さっきのピアノはシンが?」

「ん、まーね。趣味でやってるニワカだけど」


 信じられなかった。普段はお調子者な彼が、あんな繊細な音色が紡ぎだせるとは。


「今、失礼な事考えてたろ」

「そんな事ないですよ。ちょっと意外だったんで、感心してただけです」


 私はおどけてみせた。でも、半分は本心だった。人間、見かけに寄らないものだ。


「別に、そんなに難しいものじゃないけどな。新人ちゃんも弾いてみるかい?」


 そういってシンは、ひょいと椅子から飛び退き私に向かって手招きする。だが私は、遠慮がちに首を振った。


「いえ、私は…。ピアノは、妹の専門だったので」

「ふーん、妹ちゃんがいるんだ」

「ええ。昔は、よく2人で一緒に弾いてたんです。妹がピアノ、私がヴァイオリンで。あの頃は音楽の事に夢中で…だからその頃の夢は、いつか大きなコンサートホールに満員のお客さんを呼んで2人で演奏する事でした」


 私は目を伏せ、まだ平穏だったあの頃に想いを馳せる。みらいと、夢を語り合って、無心で楽器を握っていた遠い日々の記憶。思えば、あの頃が一番輝いていた瞬間だったかもしれない。だがやがて、私は音楽の道を離れ、そして遠方の地にある看護学校に通う為に家を出た。みらいに、前日になって反対された私の新しい目標だ。


「じゃあ、今は?」

「今は、もう音楽の夢からは離れました。妹も…みらいも、手の届かないくらい遠い所へ行ってしまって」


 薄暗い駅の中で、私の心を抉ったみらいの鋭い眼光がフラッシュバックする。あんなにずっと一緒だったのに、私の手はみらいに届かない。今のみらいは夢と同じ、儚い存在だった。


 と、その時、不意に何かが私の腕に押し当てられた。固くて少々の重量感のある、私が昔何度も手にしたもの。

 顔を上げると、ゆかりさんが自身のヴァイオリンをこちらに差し出し、微笑んでいた。


「…聞かせてみて。あなたの、昔の夢を」




 私は、恐る恐る弓を手に取った。もう随分触っていなかったので、覚えているか少し不安だったのだ。しかし弦に弓を乗せた瞬間、自然と指が動いた。そして顎のせの冷たさも、弦が指に食い込むような感覚も、全てが昨日の事のように頭の中で甦ってきた。


 しんと静まり返っていたホールに、私の夢の残滓が広がっていき、浸透していく。弓を引くたび、弦を抑えるたび、純真だったあの頃に気持ちが引き戻されていった。曲は、ゆかりさんとシンが先ほど弾いていたものと同じ曲にした。曲名は、『未来への鍵』。奇しくもそれは、私とみらいが最も愛し、最も多く弾いてきた曲でもあった。と、不意に私の演奏に合わせて別の音が混じった。シンのピアノの音色だった。彼の伴奏は、趣味でやっているとは思えないほどに優麗で、繊細だった。正直、みらいより上手かった。自分の事でもないのに、少し悔しい。でも、今はそれよりも、この心地良い音色の空間に、ただ身を任せていたい。そうして私は、暫くの間、無心で音色を奏で続けた。


 目を閉じれば、そこはもう夢の世界だった。小さなコンサートホールの壇上で、幼い少女2人が夢を奏でている。そうだ、これが私の夢だった。私は、こんな輝きに満ち溢れたものを捨ててしまおうとしていたんだ。


―――思い出した。だからあの日、みらいと喧嘩したんだ。みらいは、私にヴァイオリンを続けて欲しいと願っていた。それが私の未来だと。だが、私はそれを諦めた。そして、それまでの音楽漬けだった人生の一切を捨てて、私は家を出る事を決めた。逃げたんだろうか。そうかもしれない。私は、みらいと違って器用には生きれないし、さほど前向きともいえない。きっと、自分ではみらいの隣で演奏するには釣り合わないとか、そんな風に思ったに違いなかった。


 でも……今は、そうは思わない。

 私は、やっぱり夢を捨てたくない自分がいる事に気づいた。我ながら未練がましい奴だと思う。それでも、心がそう叫んでいる以上、自分に嘘は吐きたくなかった。幸い、今の私は悪者だ。少しぐらいワガママでも、きっと罰は当たらないだろう。

そして―――その錆びついた夢を再び動かすためには、やはり私の隣にはみらいが必要だった。


 ゆかりさんによる小さな拍手が、私達に浴びせられた。この感覚も、久々だ。


「流石、経験者様は格が違うな」


 鍵盤を収めたシンも、椅子の背もたれに頬杖をついて感心したように目を細める。


「いえ、私なんて大した事ないですよ。それに、久しぶりに人前で弾いたせいか結構音、外してましたし」

「でも、楽しかったでしょ?」

「…少しだけ」


 ゆかりさんには、いつもしてやられる。今だって、ゆかりさんがいなかったらかつての夢を思い出したりはしなかっただろう。

 私は、ゆかりさんの微笑みが眩しくて、前髪を梳いた―――


「あ…」


 いや、梳けなかった。忘れていた。例の、ヘ音記号のヘアピンが前髪の行く手を阻んでいた。その様子に、ゆかりさんはニヤニヤと悪戯心に満ちた笑みを浮かべている。


「くぅ…」


 本当に、いつもしてやられる。

 それが余計に恥ずかしくなって、仕方なく私は顔をわずかに俯かせた。

…しかし、いつまでもこうしているわけにもいかないので、私は苦し紛れに話題を逸らすことにした。


「そ、そういえばゆかりさん。このヴァイオリン、ひとつズレてる音があったんですけど…」


 先ほど、人前で緊張したせいで音を外したと私は言ったが、実は原因は私のせいだけではなかった。弾いている途中で、僅かではあるが明らかに元からズレている音があったのだ。本来は、演奏の前にチューニングという音を合わせる作業をする。しかし、久々にヴァイオリンを手にした事と、それまでゆかりさんが弾いていた事もあって私はそれを怠っていた。


「ほー、そんなの全然わかんなかったわ。流石プロ」

「プロじゃないですって」


 シンはわざとらしく私を持て囃す。対して、ゆかりさんの反応は少し違った。

ゆかりさんは、一瞬きょとんとした表情を見せていたが、やがて静かに笑みを零した。

「ああ…やっぱり、あなたは気づけるのね」


 それは、最初から音のズレを知っていたかのような口ぶりだった。


「でも、いいの。それはわざと外してあるから」

「わざと?」


 今度は私がきょとんとした。音をわざと外しておく人なんて、聞いたことがない。不協和音を劇伴として楽曲に使用する事はあるかもしれないが、それだって個々の音はしっかりと合わせてある。つまり、音楽を嗜む者にとって、それはあり得ない答えだった。そして、先ほど弾いていた『未来への鍵』は、もちろん不協和音を楽曲にするような捻くれた曲ではない。もっと王道的な、精巧さがそのまま曲の完成度に繋がるような、そんな曲だった。


「どうしてそんな事を? まさか、武器でも使ってるせいで普通には調整できないとか…」


 久しぶりに音楽の興味を取り戻した私としては、聞かずにはいられなかった。あの、何でも完璧にこなしてしまうゆかりさんの事だ。何か複雑な事情があるはずだと思った。しかし、ゆかりさんの返答は至極単純なものだった。


「いいえ。…好きなのよ、その音が」

「す、好き…ですか」

「そ。ダメ?」


 そういってゆかりさんは小さく首を傾けた。多分、私が訝しげな顔でもしていたんだろう。実際、それが回答としては適当とは思えなかった。


「ダメってことは、ないですけど。でも、もったいないですよ。折角綺麗に弾けるのに…」


 先ほどの演奏を聞いていてもわかったが、ゆかりさんもまた、シン同様に技術と才能がある。彼女もまた、趣味の範疇なのかもしれないが…それでも、そんな理由で燻らせておくには惜しい才能だった。しかし、そんな私をゆかりさんはやんわりと制した。


「完璧でない方が、かえっていい場合もあるって事」


 私は尚も納得がいかなかったが、本人の意志を無理やり捻じ曲げるわけにもいかず、渋々彼女にヴァイオリンを返した。


 その時、今度は別の音がホール中に鳴り響いた。先ほどまでの繊細な音とはかけ離れた、乱暴な電子音声。シンの携帯電話の着信だった。


「ほいほい、こちら皆のシンさん。………お、マジか!でかした!」


 そのシンが、電話を取るなり急に興奮しだしたので、私はゆかりさんと顔を見合わせる。

 それからしばらく、シンは捲し立てるように何度も相槌を打った。そして、それも一通り終わって通話を切ると、直後私に向かってビシッと指をさした。その顔は、もうピアノを弾いていた時の穏やかなものではなく、シャトランジ首領、キングとしての不敵な笑みを湛えたそれだった。




「新人ちゃん、仕事の時間だ!」







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