第7小節:未来への鍵(2)

「ちょ、ちょっと待って! そんなに急がなくても…!」


「ダメ」

「時間ない」

 

 煤と瓦礫にまみれた階段を、しおりとおりめに引っ張られながら一段飛ばしに駆け下りていくみらい。しかし、目覚めたばかりのみらいには2人が何を急いでいるのか、自分が今どういう状況に置かれているのか、まるで理解できないでいた。


「そもそも、ドコなのここは…?」


 薄暗い照明に、そこらじゅう捲れ上がったコンクリートの床、それに亀裂の走る壁―――。まるで、廃墟の中にでもいるようだった。しかし、やはり双子はみらいの問いには答えない。そうこうしている内に、彼女達の前に赤い防音の装飾扉が現れた。


「コンサートホール…?」


 幼少の頃から、ピアノのコンクールなどの為に劇場やコンサートホールを度々訪れるみらいにとって、そういった様式の扉は馴染み深いものだった。その為、みらいにはここがどういった場所なのかがすぐにわかった。

 その重い扉を躊躇なくくぐっていくしおりとおりめ。仕方なく、みらいもその後ろに続く。そこに、整然と並べられた椅子と大きなステージが用意された広大な空間が拡がっていた。だが、椅子のほとんどは綿が飛び出てしまっているし、檀上も所々板が捲れ上がってしまっている。みらいには一目でここが使われていないのだと理解できた。


「…?」


 しかしその中で、みらいは唯一輝きを残しているあるものに気がつく。それは、檀上の中央よりやや右寄りに堂々と鎮座するグランドピアノだった。仄かな照明の光を反射させて黒く光るそれは、埃や煤にまみれた周囲のモノの中でまるで使われていない新品のような異彩を放っていた。

 みらいはふと、昔の自分の姿を思い浮かべた。手に怪我を負う前の、まだピアノを弾けていた自分の事を。そして、姉と夢を語り合っていた頃の輝いていた自分の事を。そのピアノは、彼女にとって過去に置きざりにしてきた夢が未練がましく手招きしているような、不思議なものに見えた。


「こっち」

「きて」


 と、感傷に浸るみらいをしおりとおりめが現実に引き戻す。そして、彼女達が手を引いた先は、まさにそのピアノが置かれたステージの壇上だった。


「ま、待って! そろそろ説明してよ! こんな所に連れてきて、一体何をさせたいの!? それに、なんだかここしばらくの記憶がすごく曖昧だし…」


「ここは」

「管理する側と」

「舞台側を繋ぐ境界」

「言わば、舞台袖」


「あーえっと…もう少しわかりやすく」


「詳しくは後で」

「急いで」

「セカイに」

「気づかれる前に」


「セカイ……?」


 その名を聞いた途端、みらいの頭に稲妻のような衝撃が走る。そして、それが引き金となって霞みがかった記憶が徐々に晴れていった。

 姉と喧嘩した事。その姉が"本当の姉でない"と気づいた事。世界全部を動かしている"何か"がいると姉に伝える為、駅に呼び出した事。そして、それを"何か"―――いや、セカイに勘付かれ……自分が変えられてしまっていた事。


「そっか…私、さっきまでセカイって人の言う事が全部正しいと思わされてて…」


 それから、セカイを中心に考えるようになっていた時の全ての記憶を取り戻したみらいは、その場でがっくりと項垂れた。


(……私、お姉ちゃんに随分酷い事しちゃったんだな…)


 優しくて、お淑やかで、それからいつも妹の事を一番に気にかけてくれる存在。少しおっちょこちょいで服のセンスはないが、それでもみらいにとっては自慢の姉だった。そんな彼女を、本心でないとはいえ自分の手で傷つけ、拒絶してしまった事に、みらいは心を傷めた。


 しかし、同時にみらいの胸には疑問も湧いていた。

 何故、今はセカイの支配から逃れられているのか。特に、何かきっかけがあった覚えはない。それに、自分の腕を引っ張るしおりとおりめもまた自分と同じようにセカイを第一に考えていたはずだ。その2人が、セカイの目を盗んで自分にさせたい事とは何なのか…?

 しかし、双子はその答えを思案する暇さえも与えない。そして、わけもわからず檀上に連れてこられたみらいは、そのまま黒く輝くグランドピアノの前に座らされた。


「弾いて」

「"あの曲"を」


「な、何? それに、あの曲って…」


 突拍子もない懇願に、みらいは困惑していた。セカイに見つからぬようひっそりと行動し、やらせたい事がピアノの演奏? それに何の意味があるのか、みらいには意図が読めなかった。しかし、彼女の左右を囲む2人の顔は真剣そのものであり、少なくとも冗談や気まぐれでそれを言っている様子ではなかった。


「"あの曲"は」

「あなたが」

「一番」

「よく知ってる」


 一番よく知っている曲―――みらいがそう言われて真っ先に思い浮かべたのは、姉と最も多く練習を重ねた思い出の曲『未来への鍵』だった。その旋律は、例えピアノを弾く事をやめた今でも体がはっきりと覚えている。


「よくわかんないけど…要はそれを弾けば世界が変わっちゃうような何かが起こるって事ね。それはわかった。でもごめん、私の指はもう…」


 みらいは、自分の左手を庇うように握りしめる。彼女の脳裏には、今でも腕を伝うナイフの痛みが焼き付いていた。そしてそれを思い出す度、左の指がまるで他人のもののように動かなくなる。普段は頼まれれば迷わず行動するみらいだが、この時ばかりは躊躇わざるを得なかった。しかし、その指をしおりが強く握った。


「大丈夫」

「弾けるよ」

「あなたがまだ」

「夢を忘れていなければ」


「夢……」


 その言葉と共に、幼い頃の姉との約束がみらいの頭の中で反芻される。

―――いつか、大きなコンサートホールに満員のお客さんを呼んで2人で演奏する。

忘れるわけはなかった。みらいにとってそれは、生きる為の目標みたいなものだった。

 しかし、そう思った時にみらいは気づいた。だったら何故、あの夜自分は姉に向かって『子供の頃の夢だ』なんて言ってしまったのだろうか…と。その夢は、姉のものだけじゃない、自分のものでもあったのに。


(あの時、夢を捨てたのはお姉ちゃんじゃなくて……私だったんだ。それなのに、私はお姉ちゃんに…)


 それに気づいた時、みらいは姉に辛く当たった事を酷く後悔した。もし、側に姉がいるなら真っ先に謝りたい。そう思った。

 白い鍵盤に指をそっと乗せる。ひんやりとした冷たさと硬さが、みらいの指を伝う。それは彼女にとって、久々の感覚だった。


「ごめんね、お姉ちゃん……私、もう夢を捨てたりしないから!」


 みらいの決断は早かった。彼女はブランクも長く、楽譜もないこの場で『未来への鍵』を演奏する覚悟を決めていた。罠である可能性も捨てきれないのに。左手だって、動かないままなのに。それでも、みらいの決意は固かった。

 鍵盤の上の左手が、小刻みに震える。それを意志だけで抑えつけて、みらいは一つ目の鍵盤を押そうとした。

―――だが、その時。


「やめた方がいいんじゃないかな。無理をすると、傷に触る」


 そこに、どこからともなく男の声が響いた。壇上の少女達が一斉にその声の方向へ振り向く。そして、観客席のど真ん中に高校生くらいの男が座っていた。


「セカイ…」


 おりめが呆然と呟く。みらいにも、すぐにわかった。その男が、今の自分達にとって危険な存在であると。

 みらいを守るように、彼の前に立ちはだかるしおりとおりめ。それに、感情の込もらない視線を向けるセカイ。


「…どういうつもりかな。君達は"観客"としても、"役者"としても僕の世界に賛同してくれていたはずだろう」


「あなたの世界ものがたりは」

「もう飽きた」


 双子もまた、淡白な眼差しをセカイに向ける。しかし、その冷めた視線のぶつかり合いにみらいは気圧されていた。妙な緊迫感が、打ち捨てられたホール内を支配する。


「やれやれ…子供は移り気が早くて困ったものだね」


「まだわからないの?」

「例え今の世界を修正したとしても」

「ノイズはまたすぐに生まれる」

「もう、あなたの創る世界に未来なんて―――」


「黙れ」


「…ッ」


 その一言で、2人は不自然に口をつぐんだ。まるで、見えない手に口を塞がれたみたいに。


「ど、どうしたの!?」


 突然押し黙ってしまった双子の肩をみらいが揺さぶる。しかし、何も反応はない。その様子は、セカイの駒にされていた状態のみらいに似ていた。

しおり達は、みらいのようにセカイの影響を逃れていたわけではない。単に、彼に気づかれない範囲で行動していたに過ぎなかった。よって、セカイに命令されればそれに従うしかなかったのだ。

セカイは、それでも呼びかけ続けるみらいに対して深くため息を吐く。


「やっぱり、君にはもうどんな役割を掛けても無駄か。まぁそれでもいいよ。君にはそろそろ退場してもらうつもりだったしね」


 みらいはすぐに悟った。多分、本当は自分にも行動を強制させる何らかの力を行使したのだと。しかし、それはもう効果がなかった。そして、用済みになった駒の末路は決まっている。


「あんた、そうやって気に入らないもの全部消してくつもり?」


 だが、みらいは逃げなかった。逆に、今度は双子を守るように彼女達の前に出る。そして、彼に従っていた頃からは想像もつかないようなはっきりとした意志を以ってセカイを睨みつけた。


「子供はどっちよ……あんたがどんなに凄い存在か知らないけど、そうやって気に入らないもの全部消していって、いつか皆消えちゃったら、世界なんかあったってなんの意味もないじゃない。それに……人の心を平気で踏みにじって、無理やり閉ざすような奴に、正義なんかあるはずない!」


 みらいは、少なくともしおりとおりめを助ける気でいた。方法などわからないし、自分だっていつまた支配されるかわからない。それでも、困っている人の為なら躊躇なく行動する。それがみらいだった。例え、過去のトラウマに左手が震えたとしても。


「その目つき…まるで"あの女"そっくりだ。あれと君は、見せかけの役割でしか繋がっていないはずなんだけどな」

「繋がってるよ。だって…私とお姉ちゃんの夢は、同じだもの」

「でも残念だけど、どんな理屈を並べた所でこの世界の中じゃ僕が正義だ。それを覆す術は君にはない」

「だったら、なんで演奏を止めたの?」


 セカイの体が、一瞬固まった。


「私にだってさっぱりわかんないけど、ここになんか秘密があるんでしょう? でなきゃ、こんな寂れた所にわざわざ来ないでしょ。だったら、あんたにどんな邪魔をされたって私はこれを弾く。それで…あんたの下らない正義って奴を潰してやる!」

「……やはり君は、少しあの女に近づきすぎたようだ」

「ならどうする? 私も消す? 悪いけど、私の夢が無くならない限り、私は消える気なんてないよ。そして、お姉ちゃんがいる限り…私の夢も絶対消えないから!」


 みらいは少しも気圧される事なく毅然とした態度でセカイに対峙した。無論、彼女に神に近い存在の彼に対抗する術はない。根拠のない自信。それでも、みらいの意思には少しの揺るぎもなかった。

―――その時、ホール全体がかすかに揺れた。


「な、何…!?」


 最初、みらいはセカイが自分に何か仕掛けてきたのだと思った。しかし、そのセカイも予期せぬ事態のようで僅かに動揺していた。


「…どうやら、君に迎えが来たみたいだ」

「え…?」

「しおり、おりめ。外を見てきてもらえるかな。もしお客様なら、丁重におもてなしするように」


「ッ…わかった」

「行ってくる」


 2人がホールを後にした後も、揺れが続く。その揺れは、真っ直ぐみらいとセカイのいるホールを目指しているようだった。

 みらいはその正体を思案する。そして、やがてひとつの解答へと辿り着いた。この世界で、自分の為に危険も顧みず赴いてくれる人間はただ1人。


「まさか…お姉ちゃん?」


 だがその時、それまで観客席にいたセカイが突如みらいの背後に現れ、彼女の腕を掴んだ。


「…君に、最後の役目をやろう。この世界ぶたいのクライマックスにふさわしい、大事な役を」





―――朽ち果て、打ち捨てられたコンサートホールのエントランス。かつて悪の組織シャトランジが、世界滅亡の為の本拠地としていたその場所。

そこに、ヴァイオリンを手にした漆黒のドレスを纏う1人の少女が立っていた。

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