第7小節:未来への鍵
第7小節:未来への鍵(1)
「…よしっ」
額の汗をぬぐってから、私はナイトのおへそに挿入されたホースを引き抜いた。決戦に備えて洗浄したボディと、例の約束していたオイル交換。タクミさんの工房を勝手に借りてそれらを完了した私は、舐め回すようにナイトの体を眺めた。
「うん、完璧だね」
我ながら惚れぼれする出来栄えだった。煙と炎を浴びてくすんでいた肌は太腿から脇の下まで完全に白い輝きを取り戻し、装甲は黒光りするまで磨き上げた。その姿は、さながら買ってきたばかりの新車のようだった。タクミさんがもしこの場に居たら、感謝状を貰ってもいいくらいだ。
<タスク終了。再起動開始。…各部正常に稼働中……メンテナンスモード終了します。助かりました、"クイーン">
「え? ああ、うん。女の子なら、身だしなみくらいはキチンとしておかないとね」
作業が終わり、伏せていた目を開いたナイトもそれに満足いったように私に微笑む。しかし私には、一瞬それが自分に向けられた言葉だという事がわからなかった。まだ、その名で呼ばれる事に慣れていなかったのだ。
―――そっか、今は私が"クイーン"なんだよね。
自分の掌を見つめる。
実感がないわけではない。私の中で静かに渦巻いている、冷たく黒い力。それが、ポーンであった頃とは比較にならないほど大きくなっているのを感じていた。そして、それが確かに自分が別の存在に生まれ変わった事を実感させる。
しかし、クイーンという名を呼ばれても、私が思い浮かべるのはやはりゆかりさんの顔だった。そして、私がそのゆかりさんと同じ存在とは、どうにも結びつけられないでいた。
と、そこへぱたぱたと小さな足音が近づいてきた。
「どう、お姉さん? 変じゃないかな?」
そして、ガレージへ飛び込んでくるなり彼女は私とナイトの前で変化した自分の姿を見せびらかすようにくるりとその場で一回転してみせた。
「うん、前の白い服よりずっと似合ってる」
私は、目の前で自分の変化に無邪気にはしゃぐのぞみちゃんに小さく笑顔を作った。
今ののぞみちゃんの姿は、裾を絞った黒いブラウスにフレアスカート、そして胸元にはワンポイントの赤いリボンが結ばれていた。クラシカルで気品を漂わせるその姿は、まるでドールハウスの人形のようだった。
私が微笑みかけると、のぞみちゃんは目を輝かせながら私の胸に飛び込んでくる。私はそんな彼女の頭を割れ物を扱うように優しく撫でた。
「やれやれ、上手くいってよかった。姿が見えないんで、結構苦戦しちまったよ」
その後ろから、後を追うようにシンが現れた。彼とのぞみちゃんは、私がナイトをメンテナンスしている間、ある重要な事を行っていたのだ。そして、今ののぞみちゃんの服装を見る限り、どうやらそれは成功したようだった。
「これでのぞみも、お姉さんと同じ"悪者"だねっ」
そう、のぞみちゃんに施したのはかつてシンが公園で私にしたのと同じ"役割の改ざん"。のぞみちゃんは、私に代わる新しい
「ごめんね…のぞみちゃんにまで、損な役回りを押し付けちゃって」
「ううん、たまには
のぞみちゃんは、特にそれを後悔している様子はなく、むしろ新しい玩具を買ってもらった子供みたいに嬉しそうに飛び回っていた。
「これも本当は、お前の言ってた『ゆかりさん』って奴の力なんだよな…」
それとは対照的に、シンはやけに神妙な面持ちで掌を見つめていた。
シンが自分の力だと思っていた、普通の人間をシャトランジの一員へと変化させる仕組み―――今思えば、それはセカイの語った"役割"のシステムに酷似していた。きっと、同じ"管理する側"だったゆかりさんが自分の持っていた力の一部をシンに授けたのだろう。セカイの秩序を破壊する為に。
「……なぁ、もし俺が持ってる力の全部がその『ゆかりさん』って奴から貰った力だったとしたら……俺って、何なんだろうな」
「シン…」
「悪い、変な話で。…ただ、もし本当にそうだとしたら、お前達より、何も持ってない俺の方がよっぽど"何者でもない"んじゃないか、なんて変な事思っちまって…な」
そして、静かに拳を握り締める。あれだけ大仰に啖呵を切ったシンでも、流石に自身の存在すら否定する真実には戸惑いを隠せないようだった。シンにも、不安になる事はあるのだ。そんな、初めて見せた真面目な様子のシンに私も思わず面食らってしまう。
しかしその時、彼の硬く握られた拳を別の柔らかいものが包み込んだ。見れば、先ほどまで私の胸の中にいたのぞみちゃんがシンの手を取り、顔を覗き込んでいた。
「シンお兄さん、大丈夫? どこか痛いの?」
その一点の曇りもない瞳に見つめられ、口をしどろもどろさせるシン。すると、のぞみちゃんは握っていた彼の拳を自分の額の辺りまで引っ張って、何やら難しい顔でぶつぶつ呟きだした。
「な、何だ?」
「あのね、えっとね。こうやって相手の事を想いながら願ったら、その願いは本当に叶うんだって、あのお兄さんが言ってたの。だから、『元気になれー!』って、シンお兄さんの事、願ったの」
何の屈託もない笑顔を彼に向けるのぞみちゃん。多分、彼女が一人ぼっちだった頃に同じ事をタクミさんにしてもらい、勇気付けられたに違いない。そして今度は、その彼女が他の誰かを勇気付ける為に頑張ろうとしている。私は、のぞみちゃんのあまりの健気さに思わず涙が出そうになった。
「じゃあ私も、お願いしておこうかな。シンの唯一の取り柄と言ったら、根拠なんかなくても前向きでいられる所ですから。…それさえ無くさない限り、シンはシンのままですよ」
そう、セカイに決められた役割なんてどうだっていい。例え借り物の力を使っていたとしても、シンはシンだし私は私だ。それは絶対に変わったりしないし、変えられちゃいけない。だから、何者でもない存在なんて―――本当は、どこにもいないのだ。ゆかりさんだって、それをわかった上でシンに―――そして、私に力を託したはずだった。
すると、その願いが通じたのか…やがてシンも、いつもの自信に溢れた表情を取り戻していった。
「…ありがとな」
そして、自分の為に願ってくれたのぞみちゃんの頭を軽く撫でる。のぞみちゃんは、それにくすぐったそうに身を捩りながら笑った。
「あ、でもよかったのか? "ポーン"って役割も、俺が与えたとはいえ一応は
確かに、私やシンと違ってのぞみちゃんはセカイにとっては"悪役"である必要はない。しかも、役割を持ってしまった今、私やナイトのようにセカイの役割操作にのぞみちゃんが抗う術はない。彼女までセカイに奪われてしまうのは、どうしても避けなければならなかった。しかし、そこにそれまで黙っていたナイトが突然口を挟んできた。
<その心配は無用です。
「…と、いうことらしいです」
「マジか、何でもアリだなお前」
のぞみちゃんをシャトランジの一員にするよう頼んだのは私だが、実のところそれはナイトに指示された事であって、詳細は私も今初めて聞かされたので内心ではかなり驚いている。
もしそんな機能があるのだとしたら、役割に支配された世界の秩序に対する突破口に繋がるかもしれない。それに、ピースメーカーの役割を強要されているれんなちゃんとタクミさんを今すぐ元に戻す事だってできるのではないかと思った。
しかし、その期待はあっさりと打ち砕かれた。
<ただし、効果範囲は私を中心とした半径300m以内。更に、既に成立してしまっている役割を打ち消す効果はありません。よって、クイーン以外はくれぐれも範囲外には出る事のないよう願います>
…流石に、そう都合よくはいかないか。それでも、のぞみちゃんを守れるだけ幾分かはマシだった。
「よくわかんないけど、のぞみはロボットさんの近くにいればいいって事だよね?」
そののぞみちゃんは、シンから離れて今度はナイトの方へとてとてと走っていき、座っていたナイトの膝の上にちょこんと飛び乗った。ナイトも特にそれに抵抗はせず、膝の上でせわしなくしている彼女が落ちないようお腹の辺りに腕を回した。
「えへへ、あったかい。ロボットさん、本当の人間さんみたいだね」
<そうでしょうか>
「うん。…えっと、ロボットさん、お名前は……」
のぞみちゃんはナイトの肩部をじっと見つめた。そこ記されていたのは、ナイトの正式名称を表す『Knight-Malicious Android 007』の文字。
「けー、えぬ、あい……うーん? 難しいから、『ななちゃん』でもいい?」
その由来は、恐らく数字の部分『007』からだろう。その恐ろしく適当な命名に、しかしナイトはこっくりと頷いた。
<新規認識コード『ななちゃん』の登録を受理しました>
「ありがと、ななちゃん! これで、ななちゃんとのぞみは友達だね!」
<とも、だち……>
「うん、友達! だから、ななちゃんものぞみの事、名前で呼んでいいんだよ」
<わかりました…のぞみ様>
「うーん、わかってるようなわかってないような…もっと気楽な感じで!」
<えっと、こうでしょうか、のぞみ……様>
「……。まいっか、ななちゃんにとってそれが1番気楽なら」
<はぁ、すみません>
「ううん! それより、何かお話しようよ! あ、そうだ、このオルゴールなんだけどね……」
楽しくて仕方ないといった調子でナイト―――いや、ななちゃんにじゃれ付くのぞみちゃん。そして、その笑顔を見守るように微笑み返すななちゃん。
その光景は、のぞみちゃんとななちゃん、双方が願っていたものを手に入れた瞬間だった。そして、この場にいないもう一人の願いも。
―――タクミさん。あなたの夢が、今目の前で叶ってます。だから、早く帰って来てくださいね。れんなちゃんと一緒に。
と、そんな風に2人を遠くから見つめていた時、私はふとある事に気が付いた。
「あれ……そういえばのぞみちゃん、同じポーンなのに私の奴より随分ちゃんとした服のような…」
私がポーンだった頃に着ていたのは、水着とボンテージを掛け合わせたような無駄に露出の強調されたスーツだった。その時は、『そういうものだから』とか『伝統だから』とか何とか言われて誤魔化されたのだが…。
「…伝統はどこ行った?」
シンの方に目をやると、彼は吹けもしない口笛を吹くフリをして目を泳がせていた。
「あー、きっと海外旅行にでも出掛けてるんじゃねーかな」
彼の様子を見るに、多分本当は彼の意思次第で自由に服装を変更できたんだろう。つまり、私は意図的にあの歩く公然わいせつ物にさせられていたという事になる。
「それより、さっさとあのいけすかない神様気取り野郎の居場所を突き止めようぜ!」
至って真剣な面持ちで本題に入ろうとするシン。が、悪いがもう流されたりはしない。
「そうですね。その前にナイト……いや、ななちゃん。決戦の前に、テスト射撃でもしておきましょうか。いざという時に、弾詰まりでも起こしたら大変でしょう」
<タスク受理>
私の命令を受け、一旦膝の上ののぞみちゃんを降ろすななちゃん。そして、彼女に内蔵された砲身が一斉にシンの方に向けられた。
「ま、待て早まるな! 俺が死んだらお前らもどうなるか、忘れたわけじゃないだろ!?」
「うるさい死ね」
<ブラストバンドオーケストラ・フルスコア!>
シャトランジの大首領・シン―――その男は、肩書に恥じぬ非道で醜悪な存在だと、私は今更になって思い知った。そしてその悪は、たった今根絶されたのであった。
「それにしてもタクミさん、そんな機能まで開発できちゃうなんて…何者なんでしょうか」
私は首を捻った。そもそも、そんな機能を開発できるという事は世界をい支配する役割の概念を知っていた事になる。だが、彼自身は確実にセカイの役割の支配下にあった。ななちゃんにはそんな機能を与えて、自分には対策しないというのは、少々不自然にも思える。だが、その疑問はななちゃんの一言によって氷解した。
<いえ、この機能を組み込んだのはゆかり様です>
「あ、なるほど…」
それなら納得がいく。そういえば、ななちゃんの
<それから、記憶容量内にメッセージが残されています。クイーンが、ゆかり様から別の存在に移り変わった時に解除されるよう、今までロックされていたようです>
「『ゆかりさん』って奴は、そうとう出来る女だったみたいだな」
シンは、半ば呆れたように言った。今の彼にとっては、ゆかりさんは人智を超えた預言者のような存在か何かのように思えるのだろう。…ていうか、何故無傷なんだ。
「ええ。私の一番大切な…憧れの人です」
私は、それに目を伏せ答える。そして、のぞみちゃんがシンにしてみせたように、胸の中でゆかりさんの手を握り、そっと想いを寄せた。
「それじゃあ、ななちゃん。そのメッセージ、読み上げて貰える?」
<了解しました>
その瞬間、何かが憑りついたかのようにななちゃんの纏う雰囲気が変わる。その冷たく研ぎ澄まされた表情は、まるで私にゆかりさんが目の前にいるような錯覚を覚えさせた。
―――そして、彼女の口がゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
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