第6小節:セカイ(5)
なにか、冗談みたいな光景だった。
何の前触れもなく、突然うつ伏せに倒れたゆかりさん。最初は、いつもみたいに私をからかってるんじゃないかと思った。でも肩を揺らしてみても、話しかけてみても、まるで反応がない。
「ゆかりさん…ッ!」
私は、パニックに陥りそうな自分を必死に抑えながら、その糸の切れた操り人形のような彼女の体を抱き上げる。すると、少なくともまだ彼女に息がある事はわかった。
しかし、それで安心する事もなかった。
眉間に皺をよせ、苦悶の表情を浮かべているゆかりさん。汗は不自然なくらい浮かんでいないが、代わりに白い肌がみるみる青ざめていくのが一目でわかった。
「どうして……なんで…!?」
私は、この状況に思い当たる節がないか必死に記憶を遡った。しかし、外傷はほとんどないし、特別何かが起こった覚えもない。
まさか、無理やり役割を消したから? いや、それだって私やのぞみちゃんも同じようになっていなければおかしいはずだった。
そののぞみちゃんも、異変に気づいて坂を小走りに戻ってきた。
「ど、どうしたの?」
そして、得体の知れないこの状況に息を呑む。
「わからない……でも、なんとかしなきゃ…!」
しかし、いくら焦った所で打開策はまるで見出せそうにない。私に出来た事と言えば、せいぜい暖かみを失っていくゆかりさんの手を握る事くらいだった。
その時、砂利をすり潰すような乱暴な足音が私の背後から聞こえてきた。
「…残念だよゆかり。やっぱり君は、僕に応えてはくれないんだね」
セカイだった。彼は、落胆したように深くため息を吐きながら、私のすぐ隣まで歩を進めた。
「どういう事、ですか…教えて、ゆかりさんに何が起きてるの!?」
私は、ほとんど睨み付けるように彼を見つめた。彼の口ぶりは、ゆかりさんの豹変の理由を知っている風だった。ならば、彼女を救う方法もわかるのではないかと思った。私は、彼女を救う為なら私を消そうとしていた者にさえすがるつもりでいたのだ。それだけ、気が動転していた。
しかし、彼は私の言葉を無視して体を横たえるゆかりさんに語りかける。
「どうして? 僕は君の為にこの世界を創った。この世界には君を傷つけるものなんていないし、君が望みさえすれば欲しいものはなんだって手に入れられる。あらゆる快楽、幸福を! ―――なのに、いつの間にか君は僕を拒むようになった。教えてくれよ。一体君は、この世界の何が不満なんだ?」
彼の言葉は、苦しんでいるゆかりさんを心配する様子がまるでなかった。私は彼の質問の意味など一切無視して、怒りに任せて叫んだ。
「そんな話、今はどうだっていい! ゆかりさんが苦しんでるのが見えないの!? いいから、はやくゆかりさんを助けて! アナタがこの世界を創ったっていうなら、それくらいできるんでしょう!?」
セカイからの返答はない。のぞみちゃんが耳を塞ぐくらい大声で怒鳴り散らしたのに、見向きもされなかった。そこまで私が目障りなのか。
―――しかし、程なくしてその理由は判明した。
「…答える余裕もない、か。まぁいいさ。どの道君に期待するのはもうやめた。舞台を掻き乱すアイツも完全に消えたようだし、これからは僕だけで好き勝手にやらせてもらうよ」
彼は、もう私の事を認識できていないんだ。多分、セカイにはゆかりさんがたった1人で倒れている光景が見えているのだろう。という事は、私とのぞみちゃんもあの人影達のような存在に近づいてきているという事だろうか。
セカイは、もうゆかりさんには興味ないと言った様子で踵を返す。恐らく、彼女を苦しめている原因はセカイだ。しかし、今の無力な私では彼を引き止める事すらできない。悔しさに、唇を噛み締めるしかなかった。
だがその時、静寂を切り裂くようにか細い声が彼を呼び止めた。
「……いつの、間にか…? 違う、最初からよ…………」
その息の混じった声は、この静寂の中でも耳を澄まさなければ聞き逃してしまいそうなほどに小さかった。だが、私はその声の主が誰なのか、すぐにわかった。
「ゆかりさんっ…!」
「へぇ、まだ喋れるのか。でも、せいぜい1分か2分か…誤差みたいなものだ。悪いけど、君の心は完全に消す。あのまま僕と同じ側にいればこんな事にはならなかったのに、"悪役"なんかに堕ちるからだ。自業自得だね」
セカイもまた、足を止めてゆかりさんの方に向き直る。その表情は、嘲笑と侮蔑に歪んでいた。
「なら…あのままずっと、アナタに…飼い慣らされて…この世界に、閉じ籠っていた…方、が、幸せ…だったと? ふ、ざけないで…反吐が出る……」
ゆかりさんは、それに対し今にも消え入りそうな声で、しかしはっきりとした意志を以って反論した。私は、彼女の魂を手放さないように、握っていた彼女の掌に力を込める。
「確かに…私は、"外の世界"に、絶望してた……でも、だからって、そこから逃げたかったわけじゃ、ない……私の、願いを…勝手に、決めつけないで…!」
「ああ、それで
「……だから、嫌いなのよ…アナタの事」
その瞬間、セカイから表情が消えた。そして、温度のない視線をゆかりさんに突きつける。
しかし、ゆかりさんはそれを意に介する事なくセカイから目を逸らし、代わりに私の方へ視線を向けた。
「……ごめん、なさい」
「え…?」
最初の言葉は、謝罪だった。
「私が、吐いてた、嘘の事……。元は、私も…セカイと同じ、役割を持つ人を、"管理する側"、だったの…。でも、すぐに、わかった……こんな世界、所詮、あの男のまやかし……アイツの意思で、皆が動いて…アイツの、決めた通りの、未来になって………それが…アイツに、私の存在を、決めつけられてるみたい、で……嫌、だった…」
「ゆかりさん、もう喋らなくていいですから!」
私は、たどたどしく言葉を紡ぐゆかりさんに叫んだ。
世界の真実なんかより、ゆかりさんが生きて、側にいてくれる方がずっと大切だった。しかし、ゆかりさんはそれが聞こえていないのか、それを止めようとはしなかった。
「でも……あなたは、違った…。セカイのルール、なんて、簡単に……破って…自由な、意志を……未来を、持ってた……。そんな…………あなたが…憧れ、だった……一目惚れ、だったの……」
「そんなの! 私自身で得た力なんかじゃない……単なる偶然です! でも、ゆかりさんは違う…セカイに決められた未来が、変えられないってわかってるのに…それでも、運命から抜け出そうって、頑張ったんじゃないですか! それに、ゆかりさんは何度も私を助けてくれました。みらいを取り戻す道を示してくれたのも、あなたです。だから、一目惚れだったのは、私の方……私にとってゆかりさんは…憧れの…………大切な人なんです! だからッ…!」
私が振り絞るように叫ぶと、ゆかりさんの震えた細い指が、私の前髪を優しく撫でた。ヘ音記号のヘアピンが、微かに揺れて目元をくすぐる。
「やっぱり…優しいのね、あなた」
「……ゆかりさんだって、十分優しいですよ」
彼女は、全員を救いたかったんだ。自分だけじゃない、この
「ひとつだけ…お願い、ある……んだ、けど…いい?」
「…はい」
ゆかりさんの声が、次第に掠れていく。タイムリミットが、刻一刻と近づいていた。
「私……この役…長いこと、やって……でも、疲れちゃった…………。だから、あなた、に……代わり……やって、ほしい……」
私には、それが何を意味しているのかわかった。
彼女は、私にこの世界での居場所を与えようとしている。"シャトランジのクイーン"という、自分の居場所を捨てて。多分、"管理する側"だったゆかりさんなら、それも可能なのだろう。
そして、代わりに世界という鳥籠を壊してほしい…と。
「そんな不安そうな顔、しないで…。大丈夫、前にも…約束した、でしょ…あなたを置いて、いったり…………しない、って…。私に、役割……失くなれば……セカイ、も…手出し、出来なくなる、から……」
セカイの言葉が正しいなら、私はセカイの影響を受けない。なら、私がゆかりさんの役割を代わっても、今のゆかりさんがされかけているように心を消されたりはしないはずだ。そして、私が代役になればゆかりさんは役割を完全に失い、セカイの管理から外れる。つまりこれは、ゆかりさんを救う為の決断でもあった。
「……私なんかに、出来るんでしょうか。…こんな、何者でもない私に」
「何者でもない、って事は……何にでも、なれる……って事………。だから、大丈夫……それに…………あなたは…私や、アイツと違って……"道端の、石や草木にも、役割がある"事に…気づく事のできる人、だから……。そんな、あなたなら…………私に、出来なかった事…きっと…………出来る…………」
「ゆかりさん…」
「だから……あなたが想う、未来を掴んで。あなただけの、未来を……」
私の答えは、最初から決まっていた。
そして、意を決するようにゆっくりと頷いてみせた。ゆかりさんもまた、その答えをわかっていたように微かに笑みを見せる。それは、風が吹けば消えてしまいそうな、ぎこちない笑みだった。
「……少し、目……瞑って…………?」
その声はもう、すぐ側にいる私にすら聞き取れないくらい小さくなってしまっていた。だが私は、その聞こえない言葉に懸命に耳を傾け、口の動きを見てそれを理解する。そして、言われるままに瞼を閉じた。
多分、役割を譲渡する上で何か必要なのだろう。私は、暗闇に覆われた視界の中で、その何かをじっと待った。
すると。
「…!」
唇に、何か柔らかいものが当たった。私は、すぐにはそれが何かわからなかった。しかし、わかった時にはもうその感覚は私の唇から離れてしまっていた。
そしてそっと目を開くと、その時にはゆかりさんの姿はバラック小屋にいる人影達と同じになっていた。
私は、自分の姿をまじまじと見つめる。纏っていたのは、さっきまで着ていたワンピースの私服でも、あの恥ずかしい水着みたいな服でもない。ゆかりさんのものと同じ、漆黒のドレス。そして手には、これまで何度も私を救ってくれた、ヴァイオリンの盾と弓が握られていた。
ゆかりさんの声は、もう聞こえない。のぞみちゃんの事も、同じ人影に見える。きっと、さっきまではゆかりさんにも私達が同じように見えていたんだろう。それでもゆかりさんは、私の事がちゃんとわかっていた。そして今の私にも、その影がゆかりさんだとわかる。
「!? 何故君がここに…!?」
ふと、声がした。振り向くと、セカイが驚愕に目を見開いている。彼には、私が突然現れたように見えたのだろう。
「それに、その姿……ゆかりをどこへやった!?」
そして、酷く狼狽した様子で視線を彷徨わせる。彼にはまるで見えていないんだ。アナタの求めるものは、すぐ目の前に在るっていうのに。
私は、目の前で横たわる人影を一瞥してから、彼の方に向き直り、立ち上がった。
「…あなたには多分、永遠に見つけられないと思います」
「…どういう意味かな」
忌々しげに私を睨むセカイ。しかし私はもう、そんなものに臆したりしない。
「アナタは、本当はゆかりさんを見てたわけじゃない。…いいえ、他の何ひとつとして、見ようとなんてしなかった。アナタが唯一見てたのは、ゆかりさんを思い通りにして悦に浸る、優れた自分の姿だけ。だから、アナタにはゆかりさんが本当に望んでたものすらわからない……そんなアナタに……人の幸せを決めつける事しかできないアナタに、絶対にゆかりさんは見つけられない!」
「何を馬鹿な……外の世界の彼女も知らず、たかだか一ヶ月程度一緒に過ごしただけの君に、ゆかりの何がわかる?」
「わかりますよ。少なくとも、今のアナタよりは」
今の私の姿が、その証だ。
「……まぁいい。なら、君がゆかりの代わりに僕の舞台を壊すか? だが、君ももうどこかで目にしているだろう。君のかつての仲間達が、この世界で願いを叶え何不自由なく暮らしている姿を。彼らの夢は、僕の創ったこの世界にこそ在る。その幸せを壊す権利が君にはあると?」
役割を失っていた時に見かけた、れんなちゃん達の姿が脳裏をよぎる。確かに、争わねばならない運命にあった2人がああして並んで歩いていられたのは、セカイの修正によるおかげかもしれない。そして、自分が消える事でそれが保たれるのなら、それでもいいと思っていた。
―――だが。
「それも今なら確信が持てる。1人の願いもまともに理解できないアナタなんかに、皆の幸せな未来なんて創造できるはずがない。だから私は……世界の全部を敵に回してでも、アナタのまやかしの未来を破壊する!そして、皆をセカイから解放する! …それが、全ての人を笑顔にしたいのぞみちゃんの―――
そして、本当のみらいを取り戻したい私の―――本当の願いだから!」
それが叶うまで私は、決して消えない。そう、心に誓った。
「…そうまでして"悪役"に固執するか。ならばその役割通り、"正義の味方"に倒され消え失せるがいい!」
セカイそうが叫ぶと、どこからともなく彼の両サイドに側近のように何者かが控えた。それは、れんなちゃんとタクミさんだった。しかし、その姿はゆかりさん同様白い甲冑へと変えられている。最も、この程度は予想の範疇だったが。
「ちょっと、突然呼び出して何? 今めちゃくちゃ忙しいんですケド」
「おや、
むしろ、性格に変化がなさそうな事の方が少し驚いたくらいだった。
「もはや君の事は捨て置かない。君が救おうというかつての仲間達の手で完膚なきまで叩きのめす。そして、2度と余計な気を起こさぬよう絶望の深淵に沈めてくれる!」
セカイの激昂に蹴られるように、2人が飛び掛かってきた。武器に変化はなく、れんなちゃんはクラリネット型のトンファ、タクミさんはトランペット型小銃を携えている。
「…使い回しの設定なんて、手抜きですね」
「はぁ? あんた、何の話してんの?」
トンファが、風を巻いて迫ってくる。私はそれを、ヴァイオリンの盾で受け止める。交錯。信じられないほど衝撃がなかった。そのまま、態勢を崩すれんなちゃんに蹴りを見舞う。軽い彼女の体は、風に吹かれる木の葉みたいに吹っ飛んでいった。更に、私に向けて一直線に飛んでくる銃弾を軽く弓で振り払う。その一振りで、全ての銃弾が虚空に弾かれて消えた。
―――劇的な変化だった。これまでの微力を手にがむしゃらに戦って来たのが馬鹿らしく感じるくらいの、圧倒的な力。これが、ゆかりさんの想いとひとつになった今の私の力なんだ。
「おや、結構やりますね」
「聞いてないんですケド! ていうか、あんた何者だし!」
…流石に、私に関する記憶は調整されているか。それでもいい。どうせ、セカイを討ち滅ぼしてしまえば2人も私の事を思い出すだろう。そう思えば、今更敵が2人増えた所で些細な問題だった。
―――私は、彼らに宣言した。もう"何者でもない存在"ではない、託された想いによって生まれ変わった自分の存在を、セカイに知らしめる為に。
「聞け、哀れなる偽りの
―――その宣言と共に、私の前髪に留められていたヘ音記号のヘアピンが、甲高い音を立てて弾け飛んだ。
その時。どこからか聞き慣れた声が私に投げかけられた。
「96点だ。大分マシな演説ができるようになったな、新人ちゃん」
そこに立っていたのは―――
ヨレヨレで、どこか知らない街の写真がプリントされたTシャツ姿の男だった。
「…シン!」
「よっ、元気にしてたか?」
いつもの軽い調子で私に手を振ってくるシン。いつもなら頼りなく見えるその姿だが、今だけはそれも少しだけ頼もしくみえた。
「また少し、大人になったな」
「…遅いですよ、来るのが」
しかし、私とは対照的に彼の登場に対してセカイは顔をしかめていた。
「何をしに来た? お前のような、三流小悪党の出番を用意した覚えはないぞ」
「小悪党!? 貴様までこの俺を小悪党と呼ぶか!? 俺はいずれ世界を手に入れる新世界の神だぞオラァ!?」
シンは何も変わっていない。その姿も、性格も、志も。それだけで、少し安心した。
「フン、愚かな……その欲望も所詮は僕の与えた役割に則ったまやかしの願い―――管理する側でもない君如きが、本当に世界を手に出来るわけがないだろう!」
セカイの宣告は、シンすら所詮は舞台の為の駒でしかないと言っているようなものだった。しかし、シンはそれに全く怯まない。そればかりか、いつもの不敵な笑みを浮かべてセカイに挑発していた。
「愚かなのはお前だぜ、神様気取りの全能モドキ野郎! お前が俺を"悪の組織の首領"にしたといいたいようだが……役割なんてものは関係ねえ! そうでなくても、俺はシャトランジの首領であり、その目的は今の世界を破壊し新しい世界を手にする事! その野望を邪魔するってんなら…相手が神様だろうが、創造主様だろうが…ぶっ潰してやるぜ! お前のつまらない世界なんざ、願い下げだからな!」
シンは、セカイの与えた役割の影響化にいながら、その役割に沿った上で彼に反抗しようとしていた。ゆかりさんみたいに、心を操作されたら終わりなのに。それほどの覚悟があるのか。それとも、何も考えてないだけかも。
と、それとほぼ同時に、セカイに向かって閃光の雨が降り注いだ。
<ブラストバンドオーケストラ・フルスコア!>
上空に、修復されたナイトがいた。彼女もまた、人出ない為かセカイの役割による影響を受けていないようだった。
セカイの体が、一瞬の内に爆炎に包まれる。そしてそれが晴れると、そこには焼け焦げた大地だけが残されていた。
<すみません。ついうっかり、跡形もなく消し飛ばしてしまったようです>
「いや、どうせ逃げただろ」
私も同意見だった。世界を創造するような力を持っているものが、そう簡単に消えて無くなるとは考え辛かった。そして、直後それを裏付けるかのようにどこからか声が響いた。
「いいだろう……そうまでして楯突くというなら、少しだけ教えてやる。明日、僕は最後の"大きな調整"を行う。それが完了すれば、君達がいた痕跡は完全に消え、新しい
その言葉を最後に、セカイは完全に姿を消した。残された私達は、訪れた静寂の中でしばらく立ち尽くすしかなかった。
「…そうだ、ゆかりさんは?」
それから少しして、ふと我に帰る。心を消されかけた彼女は、その負担にかなり衰弱していた。セカイの呪縛から解放されたとはいえ、彼女の安否は気にならないはずがなかった。
しかし、そこにはもうゆかりさんの姿はなかった。何者でもなくなった事で、あのバラックの集落へ向かったんだろうか。それとも、強く役割を得た私にはもう認識出来ないのだろうか。どちらにせよ……ゆかりさんとは、しばらくは離れ離れだ。
「『ゆかりさん』って……何だ?」
シンは、私の言葉に首を捻っていた。そうか、もうシャトランジの中で彼女を覚えているのは、私だけなんだ。
「大した事じゃないですから…気にしないでください」
そう、大した事じゃない。私がゆかりさんを覚えていればいいだけの話だ。いずれ世界を破壊して、彼女を迎えに行くまで。
―――私は、その孤独をそっと心の奥に閉まう事にした。
暗雲立ち込める空から、雫が落ちた。やがてそれは、雨となって戦いに荒れた大地を癒していく。その中で私は、静かに空を仰いだ。
―――私の頬を、雫がゆっくりと伝った。
だがふと、急に雨が止んだ。
いや、そうじゃない。何かが、雨粒を遮っていた。
それは、少し汚れた白い傘。
そこに、傘を差し出して私の傍に寄る小さな人影があった。シンにはそれがどう映っていたかはわからない。だが私には、それが背伸びをして傘を支えているのぞみちゃんだとはっきりとわかった。
「…ありがとう」
私が微笑んでみせると、その影も安心したように小さく笑った。…ような気がした。
雨は少しの間降り続いたが、すぐに止んだ。そして雲間から差す光が、涙に濡れた世界を優しく照らしていた。
「……ここは…?」
彼女が目を覚ましたのは、鏡に囲まれた狭い部屋の中だった。壁の所々は剥げ落ち、よく見ると数枚の鏡にもヒビが入っている。
さながらそこは、打ち捨てられたコンサートホールの控え室のようだった。
だが彼女には、何故自分がそんな場所にいるのかわからなかった。いや、それだけではない。ここに至るまでの長い間の記憶が、酷く曖昧だ。自分が今まで何をしていたのか、いつからここにいたのか、何ひとつ思い出せないでいた。悪い夢でも見ているような気分になり、彼女は頭を抱え首を振る。その時、彼女は普段髪に留めているヘアピンがない事に気がついた。
姉から貰った、ト音記号のヘアピン。見てくれはあまり良くないが、それでも彼女にとっては大好きな姉から貰った大切なものだった。
彼女は落としたのではないかと煤だらけのその部屋を見渡す。しかし、その瞳に映ったのは、鏡越しに呆然としている自分の姿だけだった。
と、その彼女のいる部屋の扉が軋んだ音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、2人の少女。お互いが鏡合わせのように瓜二つのその少女達は、鏡に囲まれた部屋の片隅で戸惑う1人の少女に近づき、手を伸ばした。
「みらい」
「お願い」
「力を」
「貸して」
「…?」
―――
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