第6小節:セカイ(4)


―――絶望的だった。


 戦いを始めてから、どれくらい経っただろうか。もう随分長い間戦っている気がする。しかし、私はただの一度もゆかりさんに攻撃を当てられないでいた。

私が振るう槍に対し、ゆかりさんはそれをしなやかな動きで悉くかわす。逆に、その隙をついて弓で斬られ、盾で殴られ、脚で蹴られた。戦いと呼ぶ事すら憚られるような、一方的な蹂躙。

 だが無理もない。ピースメーカーとしての役割を持つゆかりさんの力は、シャトランジだった以前と寸分違わぬ精度を見せている。対して、何者でもなくなった私は重い槍を構えるだけでも精一杯の状態…その実力は、天と地ほどの開きがあった。

手も足も出ない私に、のぞみちゃんの悲痛な叫びが暗雲に覆われた空に木霊する。


「お姉さん、もうやめて! お姉さんまでいなくなっちゃったら、のぞみ…っ」


 彼女の言う通り、生きて戻りたいなら今すぐにでも逃げるべきだ。全てを完璧にこなす天才のデパートみたいなゆかりさんに、私が勝てる可能性などゼロに等しい。だが、時間が経てばそれだけセカイの修正はより完全なものになる。そうして新しい世界ものがたりが確立してしまえば、私達のような爪弾き者達がどう足掻いた所で介在する余地はなくなるだろう。

 …悠長に逃げている時間はなかった。


「大丈夫……いなくなったり、しないから…約束、だもの…側に、いるって…」


 しかし、その想いとは裏腹に私の握る槍は言うことを聞いてくれない。あの小柄な少女が、軽々と振り回していたとは到底思えないようなどっしりとした重さ。逆に、私が振り回されそうになる。

 そして、そんなデタラメな攻撃がゆかりさんに通用するはずはなかった。

また、何度目かの突きが目の前で空を切った。直後、弓の閃きが私の腹部に容赦なく叩き込まれる。私にそれを回避する術はなく、気がつけば私の体は芝生の上に転がっていた。


「…もう、諦めたら? いくら足掻いた所で、所詮あなたはセカイにとっての不協和音。役割を破壊し、調和を乱すような何者でもない存在に、居場所なんてあるはずがないのだから」


 戦いを始めてから、初めてゆかりさんが口を開いた。感情の読めない冷淡な視線と、それを押し殺したような抑揚のない声。それが、私から抵抗の意思を削いでいく。


 しかし、それでも私はまだ立ち上がろうとしていた。

―――自分でも不思議だった。どうしようもない現実に打ちのめされて、大切な人に自身を否定されて。本当なら、とっくに心なんて折れていてもいいはずなのに。それなのに何故か私は、拳を握り、膝に力を込めていた。


「…そう、諦める気はないのね。でも、何が出来るっていうの? そんなに傷だらけになって」

「……わかりません。でも……私、頑固でワガママらしいので…まだ、足を止めるつもりはないです…!」

「…いいの? 多分、引き返すならこれが最後のチャンスだと思うけど」


 ゆかりさんは深く息を吐いて、それから弓を私に悠然と突きつけた。嘲るとも、蔑むとも違う、研ぎ澄まされた冷たい表情。それが、敵である私を射抜く。しかし、私は知っている。その内に秘められた、本当の彼女を。その優しさを。


「忘れちゃったんですか? その覚悟は、もうとっくの昔に決めました」


 私は思い出した。あの日、同じように勝ち目のない絶望的状況の中で、私がした決意を。

―――ピースメーカーもシャトランジも関係ない。私は、私だけがやれる事を全力でやり通す。それは、誰に命じられたわけでもない……私が、私の意思で決めた、私だけの役割だった。


「そう…だったら、どうするの?」


 私は、曲がっていた腰をピンと伸ばし、大きく息を吸った。

 そして―――それを吐き終えた頃には、私の中にあった惑いや憂いは完全に消えていた。


「振り向かずに、前を見る!」



 私は萎えかけていた気力を振り絞って、大地を蹴った。槍の重さと胸の傷に、体が悲鳴を上げる。それでも、私は走る足を止めなかった。ゆかりさんもまた、それを受け止めようと身構える。


 その時、私はある事に気づいた。


 既視感があった。以前も、私はこんな風にゆかりさんから同じような励ましを受けた気がする。そしてその言葉は―――"シャトランジの"ゆかりさんでなければ知らないはずだった。

 それだけじゃない。彼女は、役割を失った私を"排除しろ"とセカイに命じられていた。ならば、私が地面に這いつくばっている間にさっさと弓を突き立ててしまえば、それで終わったはずだ。だが、何故か彼女はそれをしない。今も、立ち上がる私に対して彼女は冷淡な視線を向けたまま、一定の距離を保ち続けている。

…まるで、私が立ち上がるのを待っているかのように。


―――まさか、まだ"昔のゆかりさん"は消えていない?


 もし、ピースメーカーという役割にゆかりさんの意思が抗っているのだとしたら。

セカイに気づかれないギリギリの範囲で私を追い詰めているようにみせかけ、稼いだ時間で私に道を示そうとしてくれているのだとしたら……。


 微かだが、まだ希望はある。

私が、ゆかりさんの真意に気づく事が出来れば。


 ヴァイオリンの盾と傘の槍が交錯し、甲高い唸り声を上げる。その不協和音が奏でられる最中、ゆかりさんの顔がすぐ目の前にあった。私は、無意識の内にゆかりさんの瞳を覗き込んでいた。それに気づいたのか、ゆかりさんもまた私の方に視線を向けた。絡み合う視線。しかし私は、隠されたその冷徹な仮面の裏側に確かな意思のようなものを感じていた。

 やっぱり、ゆかりさんはまだ消えていない。そして、出来うる限りの方法で私に何か伝えようとしている。この状況を覆せる、何かを。



 槍が、宙を舞った。時間切れだとばかりに、ゆかりさんの弓がそれを弾き飛ばしたのだ。それにつられるように、私の体も跳ね上がる。そこに容赦なく放たれる、閃光のような弓の一撃。それが、私の左腿を掠めた。

 焼けるような痛みに、その場に膝をつく。それと同時に、ト音記号のヘアピンが転がった。駅で見つけてから肌身離さず持っていた、みらいの忘れ物。しかし、それを拾う間もなくゆかりさんの弓が私の喉元に突きつけられた。

 ゆかりさんの抵抗が弱まっているのかもしれない。私を見据える彼女の瞳が、先ほどよりも鋭さを増していた。私が少しでもおかしな動きをすれば、彼女の弓は容赦なく私の首を撥ねるだろう。

 今の私には、もうシャトランジの力も、のぞみちゃんから借りた力もない。更に、満身創痍の身体にも限界が近づいている。もはや残されているものは何もなかった。

何も持たない、何者でもない私に出来る事なんて、もう―――


 そう思った時、私は唯一まだ失っていないものがある事に気がついた。

―――そしてそれが、閉ざされていた運命を切り開く事になる。



 ゆかりさんが弓を振ろうとした刹那、不意に私とゆかりさんの間を何かが横切った。それは、あの工房に住み着いていたバラックミュート―――トム・キャットだった。住処の側が騒がしくて、様子でも見に来たのだろうか。トム・キャットは特に私やゆかりさんを威嚇するでもなく、工房の中で出会った時と同じようにただこちらをジッと見つめている。そして一瞬、ゆかりさんの気がそちらに逸れた。


 その一瞬の間に、私は言う事を利かない足に鞭打ってゆかりさんの元へ飛び込んだ。そして、彼女の腰辺りの装甲をもたれかかるように引っ掴む。しかし、がら空きになった私の背中にゆかりさんの肘打ちが突き刺さる。


「あぐッ…!」


 その威力に、一瞬意識が飛びそうになる。それでも、掴んだ手は離さない。ここで踏ん張らなかったら、もう2度とゆかりさんの側にいられなくなる。そんな気がした。2度、3度と背中を走る衝撃。その度に、私の上体が沈んでいく。もう、掌以外の感覚はほとんどなくなっていた。そして、遂にトドメとなる弓が私の背中に振り下ろされる―――直後、今度はのぞみちゃんがゆかりさんの腕を掴んだ。そして、全身でしがみつくようにしてゆかりさんの動きを封じる。しかし、すぐに振りほどかれた。かつてはゆかりさんを弾き飛ばすほどの腕力を持っていた彼女だが、ピースメーカーの役割を失った今となっては、その力は見る影もない。逆に弾き飛ばされ、小さな体が地面を転がっていく。

 だが、その一瞬が勝負の明暗を分けた。

 私は、ほとんど押し倒すみたいにしてゆかりさんに向かって体を投げ出した。そして、もつれ合うように地面に倒れこむ。

―――そこに、落としたみらいのヘアピンがあった。私は、無我夢中でそれを掴み、私を跳ね除けようともがくゆかりさんの胸の辺りに叩きつけた。


 本来ならば、ただのヘアピンに意味などない。別にそれを武器に変換できるわけでもないし、実際にヘアピンの当てられたゆかりさんの胸には傷一つついていない。

―――しかし、時の止まったような一瞬の静寂の後、変化は起こった。


「! 鎧が…」


 のぞみちゃんが目を見開く。そして、私の目の前で、ゆかりさんの白い甲冑がペンキを剥がされていくようにみるみる色味を失っていき……やがて、真っ黒な砂のように消えていった。


 私がそれに気づけたのは、ゆかりさんのある一言からだった。

 『居場所なんてありはしない』…。セカイも言っていた通り、私はセカイの与える役割に背き、そして同時に他のありとある役割をも狂わせる、この世界にとって受け入れられる事のない忌むべき存在なのだろう。

 しかし、それで思い出したのだ。のぞみちゃんが世界から消えた連鎖でオルゴールにノイズが生まれたように、私が消えた事でノイズが生まれる可能性もあるのではないかと。

 そしてそれが、みらいのヘアピンだった。

 皮肉にも、それはみらいがピースメーカーに変わり、使命以外の記憶を封じられていたからこそ発生したノイズでもあった。みらいは、自身の及ばぬ所でも人を、そして私を助けたのだ。

 セカイが大規模修正を行った際にヘアピンに気づけなかったのは、多分何者でもなくなった私という存在が遮蔽物となって、ずっと握り締めていたそれを隠していたからだった。実際、私もすぐにはわからなかった。ト音記号の”黒い"ヘアピンが、小学校のピアノの時と同じようにノイズの色と同化していたから。わずかな違和感に気づけたのは、きっとみらいの顔と一緒にいつもそれを見ていたからだろう。そして、ノイズを嗅ぎつけるバラックミュート、トム・キャットが現れた事でそれは確信へと変わった。

 そうして生まれたノイズの塊が、ゆかりさんのピースメーカーとしての役割を打ち消したのだ。


 頭を打ち付けたせいで、頭がクラクラする。そのぼんやりした意識で上体を起こすと、私の体の下によく見慣れた、しかし懐かしい姿―――漆黒のドレスを纏ったゆかりさんの姿があった。


「ゆかりさん…?」


 私は、覆い被さったような状態のまま彼女に恐る恐る囁きかけた。目を伏せたままの、人形みたいに繊細で華奢な体。そして、眼前に広がる黒のドレスに彩られた白い肌と端正な顔つき。あまりに距離が近かったせいか、それとも久しぶりだったからか。その姿は、いつもより余計に彼女を艶麗で、優美に見えた。

 彼女は、ぐったりと体を横たえたまま返事をしない。

まさか、死んでしまったのか…?

しかし、やがてその瞳がゆっくりと開かれると、まだ虚ろな瞳が私の顔を捉えた。


「…やっぱり、あなたは気づけるのね」


 それが、ゆかりさんの第一声だった。そして、それまで弓を握っていた掌を伸ばして、私の髪を撫でる。


「よくできました…」

「…もう」


 それが照れくさくて、私は冗談っぽく笑う彼女から目を逸らした。それから、私の髪を撫でる掌を包み込むように握りしめ、そして最後に、体が擦り合わされるくらい思い切り抱きしめた。


「よかった、本当に……」


 …恥ずかしいけど、泣いていた。それくらい、私の中でゆかりさんの存在は大きなものになっていたんだって、その時始めて気がついた。

 ゆかりさんは何も言わず、ただ私の髪をもう一度優しく撫でてくれた。







「あのー、お姉さん達…」


 その時、のぞみちゃんがおずおずと私達の様子を覗き込んできた。そういえば、すっかり忘れていた。私とゆかりさんは、見られていた事が急に恥ずかしくなって、お互い同じ極の磁石みたいに飛び退いた。


「ご、ごめんのぞみちゃん…なに?」


 それから、慌てて涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭って、あたかも何もなかったみたいに取り繕う。視界の端で、顔を紅潮させながら髪の毛を梳いているゆかりさんがなんだか新鮮で可愛かった。

 のぞみちゃんは、そんな無駄な抵抗をする大人2人に少し呆れながら坂道の上を指差す。


「気持ちはわかるけど、早くお兄さんの所に行こうよ。オルゴールの事、忘れてないよね?」

「う、うん、そうだったね。よし、行こっか」


 …正直、今の1分くらいは忘れていたんだけど、鼻歌交じりに歩き出したのぞみちゃんの様子を見るに、気づかれてはいないと思う。そして、その背中を見つめながら、私も随分シン達の一員っぽい感じになっちゃったなぁ…なんて、少しだけ自己嫌悪してからゆっくりと腰をあげた。


「…あなた、あんな小さな子まで誑かしたのね」


 するとゆかりさんが突然とんでもない事を言い出すので、私は思わず体が地面に逆戻りしそうになった。


「な、何言ってんですか、そんなんじゃないですよ!? ていうか、そんな常習犯みたいな言い方やめてくださいよ!」


 私は、突如掛けられた冤罪に手を振って必死に抗議する。すると、ゆかりさんはいつも私をからかって遊ぶ時と同じように悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「はいはい、わかってるから。ストライクゾーン、もっと上でしょ?」

「わかってない! もう、ゆかりさんまでシンやタクミさんみたいな事言わなくていいんですよ!」


 随分、懐かしいやり取りだった。私は、ちゃんとゆかりさんを取り戻せたのだと、改めて実感する。最初は、絶対に不可能だと思っていたのに。手を伸ばせば、ちゃんと掴めるものはあるんだ。

 今なら、みらいだって取り戻せる気がした。その具体的な方法も手に入れた。

 だが、のぞみちゃんがいなければ私は今頃ゆかりさんに殺されているか、諦めて人影達と同じように消えていくのをただ待っていただろう。

のぞみちゃんには、感謝しなくちゃいけない。


「行きましょう、ゆかりさん」


 私は、立ち上がろうとするゆかりさんに手を伸ばした。

私はのぞみちゃんに助けられた。だから今度は、私がのぞみちゃんを助ける番だ。そして、彼女とタクミさんの願いを叶えるのだ。ここにいる、私の大切な人達と一緒に。


 ゆかりさんもまた、目を細めて私の掌に手を伸ばす。





―――しかし。

その手が、私の手を掴む事はなかった。


「…え?」


 その白く細い腕が、私の手のすぐ横を掠めていく。何が起こったのか、私にはまるでわからなかった。そのせいか、その光景を目の当りにしても、私はしばらく呆然としたまま動けなかった。そして、硬直していた思考がようやく動きだした時―――

気がつけば、ゆかりさんの体は地に伏していた。




「ゆかりさんっ!!」

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