第5小節:壮絶(5)
―――夢を見ていた。
そこには私とみらいがいて、小さなコンサートホールの壇上でヴァイオリンとピアノを演奏している。多分、中学生位の時だ。
これが、噂に聞く走馬灯という奴なのだろう。私はそのホールの客席に座って、まだたどたどしさが残る2人の演奏に耳を傾けていた。今になって聴くと、その演奏は吹きだしてしまいそうなくらい下手くそだったが、それでもあの頃は毎日上達していくが楽しかったのだと思う。
鍵盤から指を離したみらいが口を開いた。
「やっぱり、お姉ちゃんは音楽のセンスだけはあるよねぇ」
「だけってどういうこと?」
「だって、運動神経はゼロだし服はダサいし……あ、あとちょっと頑固な所もあるかな」
「むーっ、ひどい!」
すました顔のみらいに対し、檀上の私は口を尖らせていた。でも、その私が着ているピンクのカットソーは確かにダサかった。
それからみらいは、悪戯っぽく笑って檀上の私に近づく。
「あはは、ごめん冗談! でも、音楽のセンスを尊敬してるのは本当。私なんかとはレベルが違うもん。一緒に弾いてるのが、たまに申し訳なくなるくらい」
「そんなお世辞はいりません! …それに、みらいは音楽だけじゃなくって、運動も勉強も、なんだってできるじゃない。みらいの方が、ずうっとすごいよ」
そういえばこの頃は、周囲から出来のいい妹と比べられたりして、結構コンプレックスを抱いたりしてたっけ。それでも、みらいを妬ましいとか、そういう風に考えた事はなかったけど。今思えば、そんなみらいに褒められたから、音楽に打ち込んだのかもしれない。
「…お姉ちゃんはさ、周りからすごいって思われる人になりたい?」
「まぁ、そりゃあ多少はね」
「そっか。…私はさ、別にすごくなくたっていいじゃんって思うんだ。だって、勉強や運動ができなくたって素敵な人や、優しい人はいっぱいいるもん。逆に、色んな才能を持ってたって心の貧しい人もね。大事なのって、結局自分に対して真っ直ぐに生きてるかだと思うの。自分に嘘を吐かないというか、自分の弱さから逃げないっていうか…上手くは言えないけど、とにかく他人の物差しなんてアテになんないって事」
「ふーん…?」
「それに…運動神経ゼロでも、服のセンスがなくっても、私は素直で優しいお姉ちゃんの事が好き。例え、世界中がお姉ちゃんに気づかなくたって、私はちゃんとお姉ちゃんをすごい人だと思ってるからね」
「どうしたの今日は? もしかして、何か買ってほしいの?」
「…バレた? 実はさ、今季限定のキャミソールがさ…」
「はいはい。もう、そんな事だと思った」
壇上の2人は笑い合っていた。私は、それに対し少しだけ視線を落とした。
みらいは今でも、私の事を好きだと言ってくれるだろうか。こんなに汚れてしまった私を。壇上にいるあの頃の私に比べて、今の私はあまりに醜く、みすぼらしい。
―――その答えが出る事はなく、やがてその思い出は別の場面へと変わった。
顔を上げると、実家の部屋にいた。そこで、誰かが怒鳴り声をあげていた。普段なら、とっくに寝静まっているような時間だ。
「お姉ちゃん…どうしても出ていくの?」
「…うん」
「どうして!? 私の事なんか、気にしなくていいって言ってるのに!」
「うん。でも、もう決めたから」
それは、私が実家を離れる夜の光景だった。みらいと話した、最後の日。
普段からは想像もつかないような切羽詰った様子のみらい。その左手には、痛々しい傷に包帯が巻かれていた。
―――思い出した。
ある時、みらいはいつものように人助けをしていて、そこで数人の男に囲まれ路地裏に連れていかれる知らない人を助けようと首を突っ込んだ。そしてその時に、相手の男が持っていたナイフがみらいの左手に深く突き刺さった。命に別状はなかったけど、医師にはもうピアノを弾く事はできないと言われた。
だが馬鹿な私は、それが信じられなくて。受け入れたくなくて。だから、誰もみらいの手を治せないなら私が治してみせる、そんな突拍子もない思いつきで、私は看護学校に行く事を決めたんだった。
でもそれは、他でもないみらいに反対された。最初私は、みらいが怪我をしてから看護学校を受験するまでの間、それを黙っていたから怒っているんだと思っていた。
でも、それは間違っていた。
「お姉ちゃんの夢は、ヴァイオリニストでしょう!? 今のお姉ちゃんの実力なら、それだって夢じゃないのに―――!」
「…それだけじゃダメだから」
「え…?」
「私が満員のホールで演奏する時、その隣にみらいがいなかったら意味がないの。だってそれが、ずっと昔からの、私達の夢だったでしょう」
「そんなの、子供の頃の夢じゃん! そんなものの為に掴めるチャンスを棒に振るなんて、間違ってるよ!」
「…かもね。でもそれじゃ、私が真っ直ぐ生きる事にならないから。自分に、嘘は吐きたくないの」
「…もう知らない! お姉ちゃんのバカ! 頑固者! ヴァイオリンなんか私がへし折ってやる! もう二度と帰ってくるな!」
そのままみらいは、部屋を飛び出して行ってしまった。それが、みらいと交わした最後の言葉だった。
今ならわかる。みらいは、私が出ていく事を黙っていたから怒ったんじゃない。みらいは、自分のせいで私の夢が、未来が閉ざされてしまうのが嫌だったんだ。なのに私は、そんな妹の気持ちにも気づかず、1人で勝手に背負い込んで―――
こんな大事な事を、何故私は忘れていたのだろう。悪者として、みらいを取り戻す事しか見えていなかったからか。それとも、目を逸らしたかったからか。
いずれにしても、もうあの時間は帰ってこない。そして、みらいとの時間も。
これは、贖罪だったのだ。みらいの本当の気持ちに気づかず、自分勝手な正義を振りかざした、私への。
―――ごめんね、みらい。
目の前が、徐々に暗くなっていく。私がまだ生きていたら、きっと涙を流していた。でも、後悔はしない。振り返らずに、前を見る。それが、ゆかりさんとの約束だった。そして私は、ちゃんと自分の手でみらいを取り戻した。それが私にできる、せめてもの償いだったのだ。
でも、せめてもう一度だけ、みらいの笑顔が見たかったな…。
私は、記憶の中にかすかに残っていたみらいの天使のような暖かく眩しい笑顔を思い浮かべた。そして、それが消えるか消えないかの内に―――私の意識は、まどろみの中に溶けていった。
「……!?」
目が覚めると、私は駅の待合室の一番隅にある椅子に座っていた。構内は電車の利用者でごった返し、電光掲示板は忙しなく文字と数字を流して電車の到着時刻を伝えている。
「え、っと…」
時計を見ると、みらいとの待ち合わせ時間の20分前だった。どうやら、みらいの乗った電車を待っている間に眠ってしまっていたらしい。
「夢…かぁ」
なんだか、随分壮大な夢を見てしまった。
でも、そりゃあそうだ。いくらみらいの為とはいえ、私が悪の組織なんて非現実的なものに手を貸すわけがないし、そもそもみらいを傷つけるなんて事、この私が絶対にするはずがない。よくよく考えれば、おかしな話だった。
「そりゃそうだよね」
誰も見ていない待合室の隅で、私はそう1人ごちた。
「あ、そうだ。髪、変じゃないよね…?」
ふと思い出し、私は窓を鏡代わりに前髪を梳いた。またダサいとか言われたら、たまらないと思ったから。―――しかし。
「!」
梳けなかった。指に、何か固く冷たいものが当たる。それは前髪に付けた、ヘ音記号のヘアピンだった。私がそれを自分で買った覚えはない。
そう……貰ったのだ。ゆかりさんに。
「夢じゃ…ない!?」
そうだ…何故、夢だなんて思ったんだろう。私は確かにみらいを取り戻す為、悪の組織に魂を売った。そして、私が座っているちょうどこの場所で歯車を起動させたと同時に―――死んだはずだった。
しかし、それを思い出しお腹を触ってみると、みらいのレイピアに刺された痕はなくなっていた。更に、窓から外を見ても特に何かが変わった様子はない。平和そのものないつもの日常の風景は、とても滅亡した後の世界には見えなかった。
―――あの戦いは、幻だったの?
もうひとつ、思い出した事があった。私は、座っていたノイズのあった椅子の下を覗き込んだ。
「……あった」
そこに、小さく煌めくト音記号のヘアピンが落ちていた。私が、みらいに攻撃して弾き飛ばしたものだ。つまり、あの戦いは幻でも夢でもなかった。
「じゃあ、あの後に何かが…?」
世界は今、どうなっているのか。それに、シンは、みらいは、ゆかりさんは、今どこに…?
私は、みらいのヘアピンを握りしめる。そして、待ち合わせの時間も忘れて待合室を飛び出した。
私はまず、駅の構内を探索してみた。わずかでも戦闘の痕跡があれば、何か手がかりになると思ったのだ。しかし、痕跡どころか駅を迷宮へと変えていた空間の歪みすらない。もうすっかり、元の駅に戻っていた。まるで、何事もなかったかのように。それがかえって不気味だった。
「そうだ、アジトに戻れば何かわかるかも…」
私はすぐに駅を出た。現状はわからないままだが、もしかしたらゆかりさん達はコンサートホールに戻っているかもしれない。そして彼女達なら、何が起こっているか知っている可能性が高かった。
と、その時。コンサートホールに向かう途中、聞きなれた声が遠くから聞こえてきた。
「いやー、5年分は泣いたわ」
「そうか? 私にはどうも陳腐にしか見えなかったが…」
それはれんなちゃんだった。そしてその隣には、あいらさんもいる。2人は何故か、仲睦まじい様子で並んで歩いていた。まるで、今まで争っていたのが嘘のように。しかし、今の私にとってはその疑問よりも2人を見つける事ができた安心が優先した。
「二人とも、無事だったんだ…」
そして、連れ立って歩く2人に駆け寄った。
「れんなちゃん、あいらさん!」
しかし、手を振りながら名前を呼んでみるが、2人からの反応はない。
「あれ? おーい、もしもーし!」
気づいていないのだろうか。それとも、無視? 街中で、大声で呼ばれるのが恥ずかしいとか。
そうこうしている内に、私は2人のすぐ側まで追いついていた。
「れんなちゃん、ちょっと、無視はやめてくださいよ」
私は苦笑交じりにれんなちゃんの前に立つ。
―――が、しかし。
「え…?」
あろうことか、れんなちゃんは私には目もくれずすぐ横を通り過ぎて行ってしまった。れんなちゃんだけじゃない。あいらさんも同じような態度を取った。れんなちゃんだけなら悪ふざけの可能性もあるが、あの生真面目そうなあいらさんがそれに乗るとは考えにくい。だとしたら、何が起こっているのか。
「ちょっと、れんなちゃん!」
私は、れんなちゃんを引き止める為、ぐいと彼女の肩を掴んだ。すると。
「…ッ!?」
れんなちゃんの肩がビクンと跳ねた。そして、私の方へ振り返る。
「悪ふざけはやめてくださいよ」
しかし、やはりれんなちゃんからの返答はない。そればかりか、まるで私が"見えていない"かのように視線を彷徨わせている。
「どうした、れんな?」
「いや、なんか触ったような気がして…」
あいらさんも振り向く。
「…? 別に、何もいないようだが…」
「そんな…!」
まさか、本当に見えていないというのか…!?
「疲れてるんじゃないのか?」
「…かも」
「よし、なら昼食にするか。今日は特別私の奢りにしてやる」
「お、ラッキー! じゃ、食べたいモンは姉貴にあわせるよ」
「ちょ、ちょっと待って!」
しかし、その後も喚けど叫べど、2人が私に気づく様子はなかった。結局私は、2人の遠くなっていく背中を、ただ見送るしかなかった。
「どうして…?」
まさか、戦闘スーツのステルス機能に、また不具合でも起きたのだろうか。しかし、私は今そのスーツを纏ってはいない。それに、他人に見えてしまう不具合はあったがステルスが暴発するような不具合はこれまでには一度たりともなかった。
その後も私は、異変の手がかりを求めて可能性のありそうな場所を全て彷徨った。公園、小学校、工房。そしてアジト。しかし、どこも"ノイズがなくなっていた"以外に変化は何もなく、アジトもまたもぬけの殻だった。結局、日の落ちる時間になっても私は手がかり一つ掴めないまま、帰路に着くしかなかった。
「何が起きてるの…?」
わからない。自分だけが、世界の中で1人爪弾きにされているような疎外感。しかしいくら考えた所で答えがわかるはずもなく、途方に暮れた私は気が付けばアパートの自室の前まで来ていた。
「とにかく、明日もう一度出直してみよう…」
私は、孤独感を紛らわせる為にもう一度みらいのヘアピンを強く握りしめた。
…と、ふと。私はある違和感に気づいた。それは自室の表札。そこには本来、私の名前が刻まれていたはずだった。しかし今、それが消えていた。そしてドアノブを捻ると、鍵が開いていたのだ。施錠は毎回、ちゃんと確認しているはずなのに。
何かが起こっていた。私の想像の及ばない、不気味な何かが。
私は、恐れを飲み込んでその扉を開け放った。
「おかえり」
私の部屋から、本来帰ってこないはずの言葉が返ってきた。それはシンでも、みらいでも、ましてやゆかりさんでもなく。
そこにいたのは、全く知らない白いシャツを着た男だった。
「ああ、いや、おかえりというのは変かな。だって元々、ここは君の家ではないのだからね」
言いし得ぬ近寄りがたさを纏った男に、私は恐る恐る口を開く。
「……あなたは、一体…?」
それに対し、男はまるで敵意の籠っていない静かな声で、こう名乗った。
「はじめまして、セカイです」
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