第4小節:夢の欠片(4)
「…」
「どうした?」
「いや、誰かに見られてるような気がして」
れんなちゃんが急に振り返るので、私は慌てて路地裏に身を滑らせた。この路地裏は、私が"心霊現象"になった例の現場だった。できれば、ここには二度と来たくなかったのだが。
「気のせいじゃないか?」
「…まぁ、いいケド」
特に気にする様子のないやれやれ君。それでもれんなちゃんは納得がいかないとばかりに訝しげな表情をしていたが、やれやれ君が歩き出すと再び視線を戻した。
れんなちゃんの勘はなかなかに鋭い。油断すればすぐに発見されてしまうだろう。しかし、ここは人通りの多い商店街。迂闊な行動は、れんなちゃんだけでなく周囲の人間にも不審を招く。
「あ、そうだ」
そこで、私はふとある事を思い出した。そして、いつかと同じように漆黒の戦闘スーツを身に纏う。
「少なくとも、これで周りの人からは変な目で見られないでしょ」
無意識の中に隠れることができるこのスーツの本領発揮。れんなちゃんとやれやれ君には効果があるかは知らないが、少なくとも一般人の目は欺けるので、大胆に動いても問題ない。…最も、また不具合を起こさないとも限らないが。
それにしても、だんだんこの水着みたいなスーツを着る事に抵抗が無くなってきている自分が怖い。
「さて、それじゃ作戦再開―――…?」
と、路地裏から身を乗り出そうとしたその時。私は、路地の対岸にあるコンビニの看板裏に、2人をみかけた時よりもさらに信じられないものを目撃してしまった。
「れ、れんなちゃんのお姉さん…!?」
そこには、看板の裏に隠れてれんなちゃんとやれやれ君の様子を窺う、れんなちゃんのお姉さん……あいらさんがいた。
「ヒカルの奴、連絡がつかないと思ったらまさか愚妹と一緒にいるとは…一体どういうつもりだ?」
獲物を睨みつける肉食動物のような形相で、何かぶつぶつと呟くあいらさん。しかしもはやそこに以前戦った時のような冷徹さはなく、目の前にいるのは完全に怪しいストーカーと化した不審者のそれだった。しかも、彼女は周囲の痛々しい視線に全く気付いていない。私は、いたたまれなくなって、あいらさんに声を掛けた。
「あ、あの…」
すると、あいらさんはビクンと肩を跳ね上げ、錆びついた機械みたいなぎこちない動きでこちらを向いた。
「いや、その、わ、私は決して私は怪しい者ではなく…」
いや、少なくともこの場にいる全員は怪しい者だと思っていると思う。
「あ、じゃなくて。えーと…れんなちゃんのお姉さん……ですよね」
何と言って気づかせてあげるべきか悩んでいると、あいらさんもすぐに声を掛けた相手が誰か気づいたようで、すぐに声色を鋭く変える。
「な、お前…! 何故こんな所に…まさか、近くにノイズが!?」
…なんだか、ややこしいことになってきた。
「えっ!? いやいや、そうじゃなくて…ちょっとお話を」
「戯言を! ならその格好はなんだ!?」
そう言われて、しまったと気づく。そういえば、スーツを装着した状態だった事を忘れていた。
「あ、いやこれは……」
安全策を取ったつもりが、完全に裏目に出た。この状況では何を話しても豆腐に
案の定、彼女はまるで聞く耳持たずといった様子で得物である鍵銃を構える。
「ヒカルには悪いが、お前はここで倒させてもらう」
完全に臨戦態勢に入ってしまったあいらさん。しかし、ここで慌てるような私じゃない。私は咳払いひとつ、冷静に次の言葉を紡いだ。
「それは構いませんけど。いいんですか? 皆、あなたを見てますよ?」
「そんなハッタリ……皆…?」
直後、彼女の動きが止まった。そして、しきりに周囲を気にしだす。どうやら、通行人に好奇の目で見られている事にようやく気付いたようだ。道行く女子高生は彼女を指さしながらクスクス嘲笑し、主婦と思われるおばさん達には手で遮る意味のないほど大きな声量で陰口を叩かれる。コンビニの店員に至っては、今にも通報ボタンを押しそうな気配だ。みるみる顔が赤くなっていくあいらさん。
「ち、違ッ…! 怪しいのは私ではなくコイツの方で―――!」
彼女は、自分の痴態を必死に弁明しようと私を指さす。しかし、それがいかに無意味で虚しい抵抗であるか、すぐに彼女は知る事になる。
「あ、ちなみに私の姿は周りの人には見えていないので」
そう、シャトランジの戦闘スーツを纏った今の私は、人間の無意識の中にいる。つまり、周囲の人間にとっては道の小石以下の意識外にいる存在であり、そこにいないのと同義であった。
結果、どうなるか。簡単だ。周囲の人間からみれば、あいらさんは突然1人で虚空に向かって喋りだし、道のど真ん中で鍵を銃に見立ててカッコつける痛々しい女として映っていたという事だ。
あいらさんは、最初私が何を話しているのかすら理解できず呆然としていた。が、やがて全てを理解すると、その赤かった顔を更に真っ赤にして俯いた。
「…謀ったな」
すっかり意気消沈してしまったあいらさんは、今にも消え入りそうな声で目尻に涙を溜めながら私を睨みつける。そこに、いつもの触れば切れる刃物のような佇まいは微塵もなかった。
「別にそういうつもりはなかったんですが…そう思って下さるならそれでもいいです。それで…よければ、私に協力してくれませんか?」
「協力…?」
私は、人だかりの中心で捨てられた子犬みたいに震えながら目を潤ませているあいらさんを見据えた。
「はい。実は、私もれんなちゃんを追ってるんです。だから、もし協力してくれるならこの場は私が上手く収めますよ」
別に大した意味はなかった。ただ、あいらさんがかわいそうだと思ったので、取引を口実に助けてあげようと思っただけだった。
「バカな、何の目的があってか知らないが、私がお前達のような奴らに手を貸すと本気で…」
最初は私の提案を気丈な態度で突っぱねようとしたあいらさん。しかしすぐに、自分が無数の好奇の目に晒されている事を思い出し、言葉を詰まらせた。
「くっ…卑劣な」
「悪者ですからね。…って、別に大した目的なんてないですけど…」
あいらさんは、しばらくは潤んだ目で私の事を睨みつけていたが、やがて観念したようにがっくりと肩を落とした。
「…わかった。だがお前に屈したわけではないぞ。もし、少しでもおかしな行動を取れば…」
「はいはい、わかってますよ」
ストーカー自体がおかしな行動だという事は黙っていよう。
…それにしても、私も大分悪役が板についてきたんじゃなかろうか。さっきのセリフなんか中々それっぽかったように思う。最も、それを喜ぶべきか悲しむべきかは一考の余地がある所だが。
と、その時。
「…ん、あれ?」
ふと、周囲の野次馬達が先ほどよりどよめいている事に気づく。しかも、心なしかあいらさんにのみ注がれていた視線が自分の方にも向けられている気がした。おかしい、自分の姿はステルスで普通の人間には感知されないはず…。
しかし、カメラのフラッシュが私に向かって瞬いた瞬間、確信した。
「ひぁああ!?」
また不具合だ!
しかも、今度は白昼堂々顔までしっかり見られている。私は、手遅れだとわかっていながらも必死で露出する下腹部や胸元を手で隠した。しかし、水着が基調となっているだけあって、両手でもとても隠しきれるものではない。恥辱を晒しパニックに陥った私は、思わずその場に座りこんでしまった。
すると、そんな私の腕を掴む者がいた。あいらさんだった。
「皆離れろ! こいつ、例の路地裏に人を引きずり込む悪霊だ!」
その瞬間、ギャラリーが少しだけたじろいだ。それなりに知れ渡った都市伝説、しかも人だかりの前に突如前触れもなく現れた(少なくとも彼らにはそう見えた)事によって、その効果は絶大だった。その隙に、あいらさんは私を路地裏の入口まで引っ張っていく。
「こいつは私がなんとかする、お前達はこれ以上は近づくな!」
そして、迫真の演技で困惑するギャラリーを遠巻きに私達は路地裏の奥へ身を隠した。
ようやくれんなちゃん達に追いついた時、2人はショッピングモール内にある映画館の中にいた。私は、2人が座っている席から3つ後ろの席に陣取って様子を窺う。
「それにしても、驚いたぞ。まさか、自分から姿を晒す事で私の行動を正当化させようとは。そこまでして私を救う理由はなんだ?」
「あ、まぁ…ええ、こちらもいろいろありまして」
あいらさんは、これまでとは違う棘のない声で私に感心している。実は偶然ステルス機能に不具合が起きたとは、口が裂けても言えない状況だった。
「まぁいい。だが、もう少し事前に説明しておいてくれ。危うく作戦だと気づかない所だったぞ」
「そりゃあ、でしょうね…」
私だって気づいてないんだから。
「何?」
「ああいえなんでも!…それにしても、2人とも随分楽しそうですね」
私は、これ以上はボロが出そうで怖かったので、話題を逸らそうとれんなちゃん達の方を見やった。2人の会話はかなり弾んでいるようで、まるでこちらに気づく様子はない。それにしても、あれほどにこやかにしているれんなちゃんは始めて見た。
「全く…あいつら、何を考えてるんだ・・・」
それに比例して、姉の方はみるみる顔が険しくなっていく。その怒りが、どちらに対してのものなのかは見当もつかないが。いや、案外両方かもしれない。
「あの…お姉さんは、どうしてそこまでれんなちゃんを嫌うんですか?」
私は、思い切って彼女に尋ねてみる事にした。やれやれ君に対してはともかく、やはり姉妹同士で憎しみあうなど、間違っている。しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「別に嫌っているわけではない。愚妹といえど、血を分けた姉妹だからな」
「え、でも・・・」
「ただ、私はこんな世の中が間違っていると思ったからこそ、ピースメーカーに入って内側からセカイを平和にしたいと思ったんだ。かつての私達と同じように救いを求める人間に、誰もが手を差し伸べられる…そんな世の中に。そうしてセカイの調和が保たれれば、れんなとももう一度一緒に暮らせると思ったんだ。…だが、あいつはシャトランジに付いた。あいつはわかってないんだ。思い通りにセカイを変えるという事が、再び私達のような境遇の人間を作り出してしまうという事を。それでは、永遠に同じ事が繰り返されるだけだ。だから私は、例え妹自身が立ちはだかろうとも―――」
だがそこで、あいらさんの言葉は途切れた。気が付けば、私はあいらさんの両手を握っていた。
「で、ですよねっ!妹ですもん、嫌いなわけないですよねっ!?」
「えっ?あ、ああ…まぁ、当然」
よかった。やっぱり妹を大切に思わない姉なんているわけなかった。それに、れんなちゃんとあいらさんの願いも同じだった。ただちょっと、些細な考えの違いですれ違ってしまっただけだったんだ。
そう思ったら、急に目の前のあいらさんに親近感が沸いてきた。あいらさんは、舞い上がる私の様子に状況が飲めず困惑していたが、この際そんなものは些細な事だ。
「感動しました。私、いつかれんなちゃんとお姉さんが一緒に暮らせるよう、応援しますね」
「なら、お前がシャトランジを抜けてこっちについてくれるとありがたいんだがな」
「それは無理です」
そうなっては、みらいを元に戻す事が出来なくなってしまう。
「何故だ?」
「だったら、みらいを私に返してください」
「それは出来ない」
「何故です?」
「今お前に返したら、みらいがシャトランジに入ってしまうだろう? かわいい後輩の手を、そうそう汚させるわけにはいかないからな」
「じゃあ、私もシャトランジを抜けます」
「悪党の約束など信じられるか」
ため息ひとつ、苦笑してみせるあいらさん。しかしどうやら、みらいはピースメーカーの中でも大事にされているようだ。それがわかっただけでも、少し安心する。
「ですね」
私もそれに合わせて自嘲気味に笑った。
―――だが、ならばみらいがあんな風に変わってしまった理由は?
こうして話してみると、やれやれ君もあいらさんも、とても人間の意思を捻じ曲げるような非道な行為をするとはどうしても思えない。特にあいらさんは私と似た境遇だ、みらいの事も事情を知れば配慮してくれそうに思う。
もしかしたら、本当に…?
私は、全ての事情を目の前の仇敵に明かそうとしていた。それでみらいを取り戻せるなら、シャトランジを裏切ることくらい後ろめたい事でもなんでもない。
しかし、その希望は彼女の言葉によってすぐに打ち砕かれた。
「それに、あいつも自分からピースメーカーに入ったからな。本人の意志は尊重してやらないと」
「えっ…!?」
時が止まったような錯覚が、私を襲った。
みらいが、自分から―――?
何かの間違いだと思った。ピースメーカーがただ世界を守護するだけの組織ならまだ納得はいく。だが、人の意思をも世界の為に塗り替えるような行為を、あの正義感の強いみらいが肯定するはずがない。
何か、理由があるのか。
ピースメーカーに入った後に意思を塗り替えられた? それは十分にあり得る。だが、ピースメーカーに協力する姿勢を見せる者を、わざわざ洗脳する理由がない。それこそ、何か彼らにとって都合の悪い真実を知られてしまって、それを隠蔽する為とか、何か特別な理由がない限り。だとしたら、正義の味方が隠さなければならない真実って?
それとも、自分の意思を作りかえられるとわかっていながらも協力しなければならない理由があった? 例えば、ピースメーカーの力を以ってしなければ回避のしようがない滅びか何かが、この先に訪れるとか。その為に、自分を犠牲にした。それもあり得る。他人の為の自己犠牲は、みらいにとって日常の一部みたいなものだ。
それに、ゆかりさんはあの日『みらいは正義の味方にされてしまった』と言っていた。もしそうだとしたら、あいらさんの話は矛盾してしまう事になる。
…どちらかが嘘をついている?
しかし、律儀に入館料を払おうとする人間が、人を騙そうとする事があろうか。だとしたら、ゆかりさん? それこそあり得ない。彼女は、絶望に堕ちた私に手を差し伸べてくれた唯一の人だ。例え悪者という肩書を背負っていたとしても、その可能性は限りなくゼロのはずだった。
―――あれ、でも…そういえば。
ふと、変わってしまったみらいと初めて邂逅したあの日の事を思い出す。みらいに拒絶され絶望した私は、その直後にゆかりさんと出会った。そして、妹を救う唯一の方法を提示されたんだ。
―――みらいが私の妹だと、何故わかったんだ?
記憶が確かなら、私はみらいの事を名前でしか読んでいなかったはずだ。例え容姿が似ていたとしても、即座に姉妹と判断するには難しいはずだ。
それに、あの時ゆかりさんは何の為にあの駅にいたんだ?
あの駅に、ノイズはなかった。みらいもそうだが、あの駅にピースメーカーもシャトランジも、本来なら立ち寄る必要がない。しかし、ゆかりさんは私の前に現れた。それも、私が心を虚ろにした、最高のタイミングで。
まさか、ゆかりさんが…?
―――そんなわけない。
首を振って、湧き上がる嫌な妄想を振り払う。私に向けられてきた、ゆかりさんのあの優しさに満ちた笑顔。あれが、嘘だなんて思いたくなかった。
とにかく今は、ゆかりさんを信じる。それしか、できることが思いつかなかった。
「それにしても…れんなの奴があんな顔してるの、久しぶりに見たよ」
私が頭の中を渦巻く疑念と戦っていると、ふとあいらさんがそんな事を言い出した。その時の、目を細めてれんなちゃんを見つめる彼女の顔は、敵を見据える戦士ではなく、完全に妹を想う姉のそれだった。
「…あいつ、そっちでは上手くやってるのか」
「はい、一応。あ、でも…結構自由な人なんで、たまについていくのが大変で」
「だろうな。あいつ、昔から人の話を聞かないんだ。私が何を言っても、必ず口答えするし」
お互い苦笑する。しかしあいらさんは、そんな変わらないれんなちゃんの様子に少し安堵しているようにも見えた。
「それに、私達が2人きりになってからはまるで笑わなくなってな…そっちでは、いつもあんな感じか?」
「いえ、実は…私も初めて見ました。れんなちゃんが、あんなに楽しそうにしてる所」
私は少し躊躇いながらも事実を話す。すると、あいらさんは一瞬顔をしかめたが、すぐに元の優しげな目に戻り、遠い目でれんなちゃん達を眺めた。
「そうか…。なら、この時間はあいつにとって特別なんだな」
それ以上は、何も言わなかった。映画が始まりそうだったというのもあるけど、それだけじゃない。私の隣で儚げに妹を見つめている彼女を、邪魔したくなかった。
映画の上映が始まってからしばらくして、ポケットの中の携帯電話が突如震えだした。どうやら、シンからの着信のようだった。どうせ映画の内容は安いメロドラマで碌に観ていなかったし、あいらさんに2人の見張りをお願いしてから一度退出して通話ボタンに指を乗せた。すると直後、鼓膜を突き破りそうなほどの怒声が耳を劈いた。
『オイ新人ちゃんコラ! 今どこにいる!?』
そういえば、ナイトの事をすっかり忘れていた。私は思いつく限りの謝罪の言葉を並べて、慌てて弁明を述べようとした。しかし、それを掻き消す勢いでシンは更に怒鳴り声をあげる。それにしても、ナイトの事は、タクミさんが引き受けてくれたはずだ。ついでに、私の行動につても捏造してくれると言っていた。もしかして、嘘がばれてしまったのだろうか。いや、あのポーカーフェイスのタクミさんに限って、それはないだろう。しかし、シンからは意外な答えが返ってきた。
『そんなんいいからすぐ戻ってこい!』
「え?」
それは、怒りというよりも切羽詰っているような余裕のない声のように感じた。いつも能天気なシンらしくない。もしや、何かあったのか。嫌な予感がする。そしてそれは、次の瞬間見事に的中した。
『アジトが攻め込まれてんだよ!』
「そんな!? で、でも誰が!?」
あのコンサートホールへ辿り着くには、普通の人間が迷いこまぬよう、かなり複雑な経路を迂回していかなければならない。
それに、疑問はそれだけじゃない。今、この場にはやれやれ君とあいらさんがいる。つまり、少なくともこの2人は無関係という事だ。
『誰って、ピースメーカーの連中だ! 意外いないだろ!? とにかく今すぐ帰ってきてくれ! 俺一人じゃとても抑えきれない!』
彼の背後から炸裂音が聞こえてくる。どうやら敵がいるのは本当のようだった。しかし、ここにいる彼ら意外で私が知っているピースメーカーの戦士は、消えたのぞみちゃん以外には…。そこで、はたと気がついた。
―――まさか、みらい?
シンは相手に対し抵抗する術を何も持っていない。人間で言えば丸腰の状態だ。私が駅構内でみらいの実力を目の当りにした時、確かに彼女は敗北していた。だがそれは、相手がゆかりさんだったからだ。丸腰のシン相手なら、5分と掛からずに作戦を遂行してしまうだろう。そうなれば、彼だけでなく、シャトランジに所属する全ての命が消えてしまう。それだけは阻止しなければならなかった。しかし、ここからアジトまではそれなりに離れている。私の足を使っても、20分はかかるだろう。それまで、シンが持ちこたえられるか、疑問だった。
せめてゆかりさんか、タクミさんが傍にいてくれたら…。
―――そういえば、タクミさんは?
「あの、タクミさんがそっちに行ってるはずですけど…」
『来てない!』
おかしい。タクミさんと別れてから、悠に一時間は経過している。彼と別れたあの位置からアジトに辿り着くまで、車なら10分と掛からない距離。辿り着かないはずはなかった。不思議に思い彼に連絡を取ってみるが…繋がらない。まさか、彼の身にも何かあったのか。
『うおこの! 調子に乗るなよこの量産型勇者共…このキング様が本気を出したら―――』
そこまで聞こえて、通話が切断された。
「ちょっ…! シン!? もしもし!?もしもーし!」
まずい。いよいよもって、事態の切迫さが現実味を帯びてきた。とにかく、今はれんなちゃん達のデバガメなんてやってる場合じゃない。すぐにも戻って、みらいを止めなければ!
私は、シンの待つアジトに向かって駆け出した。…が、その時。
「…どうした?」
後ろからの声に呼び止められた。あいらさんだった。
「あ、いや、あれ? 2人の事を見てたのでは…?」
「あいつらなら映画に夢中だ。どうせあと一時間以上は動かん。それより、何かあったのか。顔が真っ青だぞ」
まずい。いくら少し打ち解けたと言っても、彼女だってピースメーカーの一員だ。もし、私がこれからあなたの仲間の作戦を邪魔しに行きますなどと言ったら、妨害してくるに決まっていた。そうなれば、館内にいるやれやれ君にもそのことを伝えるに決まっている。そうなってしまったらお終いだ。ここは何としてでも誤魔化さなければ…。
「いや、その、ちょっと…重要な用事が出来てしまって」
私は、彼女に勘付かれないよう努めて冷静に返した。だが、最初に少しどもってしまったのがまずかったのか。あいらさんは、明らかに疑いの眼差しをこちらに向けていた。
「それは、シャトランジに関わりのある事か?」
心臓が飛び出しそうになった。
気づかれた? いや、まだわからない。正義の味方として、悪者を疑う義務として言っただけという可能性もある。しかし、彼女の様子は明らかに何かを感じ取っているようだった。
「いえっ、その…!」
どうしよう。何か言い訳をしなければ。しかし、早くこの場を離れなければという焦燥が私の思考を鈍らせ、なかなか言葉が浮かび上がらない。その間にも、あいらさんは私を睨み付けている。
質量を持ったかのような重い空気がその場を支配する。時間にすれば、20秒にも満たない視線の交錯。しかし私は、今にもその圧力に負けてしまいそうだった。
だがやがて、彼女は何かを納得したように目を伏せ小さくため息をついた。
「…なんだ、そういう事か」
「???」
…何の事だろう。そうして私が小首を傾げていると、今度は私のすぐ真横から聞き慣れた声が聞こえてきた。
「ええ、そういう事」
「ゆ、ゆかりさんっ!?」
いつの間にか、シャトランジの中で最も信頼を置く人物が、私の傍に立っていた。ゆかりさんは、そのまま私の腕に自分の腕を絡ませてあいらさんに見せつけるようにして微笑んだ。
「これからデートなので」
「え!?」
思わず声が裏返った。そんな予定、あっただろうか。しかしあいらさんは特にそれに驚いた様子は見せず、代わりに手を広げて呆れるような仕草を取った。
「なんだ、抜け出したかったなら変な誤魔化しなどせずさっさと言えばよかっただろう」
「女同士だって知られたら変に思われるんじゃないかって、恥ずかしかったのよ。ね?」
そういって、ゆかりさんが私にウインクでアイコンタクトを送ってくる。なんだかよくわからないが、私はそれに乗るしかなかった。
「あ、そ、そうなんですよ! 折角仲良くなれそうなあいらさんに、引かれたらやだなーって思って!」
乾いた笑いがフロア中に虚しく響く。すると何故か、ゆかりさんの腕の締め付けが少し強くなった。
「別に、この前の様子を見てれば大した驚きもないがな。ほら、いいからさっさと行った行った。早く行かないと私の気が変わるかもしれないぞ」
「…いいんですか?」
「シャトランジにも休暇くらいあるだろう? 私の前でセカイを壊すような真似をしてくれなければ、余計な争いはしない。…最も、今日だけだがな」
そういってあいらさんは、つまらなそうに鼻を鳴らして私達を追い払うように手をシッシッ、と払った。
「ありがとう。話がわかる人って、私好きよ」
「すまないが、口説くなら男になってから出直してくれ」
ゆかりさんの冗談にもあいらさんは生真面目に対応した。私はそんな2人に、心から感謝していた。
「…すみません。今度会う時、2人がどんな様子だったか教えてくださいね」
「ああ、機会があれば…な」
そうして、あいらさんに頭を下げてから私とゆかりさんはさもカップルのように悠然と映画館を後にした。そして、あいらさんが館内に戻ったのを見届けた直後、走り出した。
「…全く、何をしてるんだかな、私は」
その時、あいらさんが何か呟いていたような気がしたが…私には、よく聞こえなかった。
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