第2小節:ノイズ混じりの願い(4)
私とゆかりさんは、一瞬で勝負をつける事を決めていた。実際、真にシャトランジの力を得た所で、彼女の槍に貫かれた私の足は未だ走る事すらままならないくらいに衰弱していた。ならば、長期戦で不利になるのはこちらの方だった。
「いっくよー!」
のぞみちゃんが風をまいて突撃してくる。その狙いは、勿論弱った私だ。まずは私を倒し、ゆかりさんと1対1に持ち込むつもりなのだろう。しかし、私もただでやられてやるつもりはなかった。横っ飛びでそれをかわし、芝生の上に体を滑り込ませる。
そこに、私が落としていた黒い歯車が転がっていた。
私はそれを拾い上げて、足を引きずりながら時計台を目指した。純粋な戦闘で勝利する必要はない。この歯車をノイズに嵌め込んで、歯車を起動させる。それは、のぞみちゃんが世界の綻びを修復するつもりがないからこその作戦だった。
「それじゃ、避けた事にならないよ!」
のぞみちゃんの追撃が来る。しかし、それをゆかりさんが防いだ。ヴァイオリンの盾が傘の槍と交錯し、甲高い唸り声を上げる。
「どいて!のぞみはお姉さんと遊びたいの!」
しかし、のぞみちゃんはその長大な槍でゆかりさんを薙ぎ払った。小さな容姿からは想像もつかないようなデタラメな力。そして、獲物を捕らえる獣のような速さで背を向けた私に迫る。私は咄嗟に、傷を受けていないもう片方の脚で回し蹴りを繰り出した。俊敏な機動力を生み出す脚力から放たれる強烈な一撃。それが、彼女の槍の切っ先を僅かに逸らした。しかし、傷を負った左足では私の全体重を支える事はできず、すぐにその場に倒れこむ。
「やっぱり、正義が勝ったね」
のぞみちゃんが、動けなくなった私に槍を突きつけた。彼女は既に勝利を確信していた。しかし―――それは私も同じだった。
「……そうとも、限らないんじゃないかな」
私は、今残っている最大の力を振り絞って右腕を突き出した。だが、最後の抵抗にも関わらずその威力は弱々しい。当然、空を切る。
「悪あがきはかっこ悪いよ」
のぞみちゃんの槍の柄を握る手に力が篭った。いよいよ止めを刺すつもりだ。
しかし、天啓は彼女にではなく―――私達の方に下った。
「ゆかりさんッ!」
「…!?」
私に気を取られたのぞみちゃんは、気づいていなかったのだ。必殺の体勢に入った彼女の背後で、ゆかりさんが跳躍していた事に。そして、私が放ったのは攻撃などではなく、歯車というバトンだということも。
私とのぞみちゃんの頭上を風のように吹き抜けたゆかりさんは、宙を舞ったその黒い歯車を右手に掴むと、そのままそれを目の前の黒い窪みへと叩き込んだ。
「全く…無茶するんだから」
心底安堵するゆかりさんの表情が、私の眼前にあった。ゆかりさんは、のぞみちゃんがノイズに嵌められた歯車に意識が逸れたその隙に私の体を抱きかかえ、すぐさま距離を取った。のぞみちゃんはというと、結果に納得していないのか槍をブンブンと振り回しながら地団駄を踏んでいた。
「えぇー!? こんなのずるい! もう一回ー!」
しかし、ゆかりさんはそれに反応する間もなく一目散に時計台から離れた。
「ゆかりさん…?」
「歯車が"起動"する」
「え…?」
視界の端で、きょとんとするのぞみちゃんがどんどん小さくなっていく。多分、私も同じ顔をしていたと思う。
そして次の瞬間―――"変化"は始まった。
「…うそ」
鐘の音が、人のいなくなった公園に静かに響き渡った。夕刻を告げるその音色は、時を刻む事を忘れていたはずの時計台から流れていた。
「あ…」
あれだけはしゃいでいた少女が、にわかに表情をこわばらせた。それも当然だった。それまで戦場になっていた公園、そして時計台。それを中心に、生い茂る青々とした芝生、木々、そして赤く染まった空から色味が失せていったのだ。まるで、鉄が長い年月雨を受けてかけて色褪せ、錆びていくかのように。
「ま、待って―――」
少女が何か叫ぼうとしていた。だが、それは更に一瞬後に訪れた闇の奔流にかき消された。それは、時間にして3秒にも満たない一瞬の出来事だった。
「……何が」
私は、ゆかりさんの腕の中で呆然としていた。何が起こっているのか、まるでわからなかった。多分何時間……いや何年時間をかけても、理解する事は出来ないだろう。
私に理解できたのは―――時計台のあった公園が、そしてのぞみちゃんが、大きく膨張し巨大な球体となったノイズに飲まれ、跡形もなく消えてしまった事だけだった。
「ごめんなさい」
―――世界そのものに穴でも開いてしまったような、非現実めいた光景。それに呆気に取られている私に、不意にゆかりさんが呟いた。
「どうして、謝るんです?」
「…当然よ。無責任に、大丈夫なんて言ってしまったもの」
ゆかりさんの指が私の傷ついた頬をなぞる。そして、腫れ物を扱うようにそっと傷だらけの体を抱きすくめる。その暖かさに、痛みが溶けていくような気がした。
―――冷静になって、私はようやく自身に起きた惨状を理解する。擦り傷や打撲はどうということはない。が、太腿に関してはやせ我慢でどうにかなるものではなかった。止血こそしてもらったものの、普通の人間ならとっくに死んでいてもおかしくないだろう。改めて、自分が生きている事が奇跡だと思った。
「この力…またひとつ、世界の掌握に近づいてしまったな!」
傍らでは、シンがガッツポーズで歓喜していた。どうやら、歯車が起動した事で封印されていた力の一部が戻ってきたらしい。しかし、容姿はほとんど何も変わっていないので、なんだか拍子抜けだった。
それから、通行人の姿がまばらに増え始めた。しかし、歯車の起動によって拡大した巨大な綻びの穴について、誰一人驚く様子はみせる者はいなかった。道行く人の全てが、さも当然のようにそれのすぐ側を通り過ぎていく。
「あの子は?」
私は、ノイズに飲み込まれたのぞみちゃんの事が気になって、尋ねてみた。しかし、ゆかりさんから返ってきたのは歯切れの悪い答えだった。
「…わからない。ノイズに飲まれてしまった者が、あそこから帰ってきた事はないから。中に閉じ込められるのか、それとも消滅してしまうのか…」
「……」
私の頭の中に、のぞみちゃんがノイズに飲まれる刹那に見せた、助けを求める最期の顔が呼び起こされた。
今更後悔をするつもりはない。彼女を退け、目的を達成した事には素直に喜んでもいる。しかし、それでも何かのぞみちゃんを救う方法はなかったのかと考えてしまう自分もいた。もし、みらいが私と同じ立場だったらどうしただろうか。多分、両方を犠牲にしない方法を思いつき、そして成し遂げてしまうに違いない。みらいは、そういう人間だ。でも、私にはそんな力も、考えもない。
私は、非力な自分と、そんな風に考えてしまう迷いの捨てきれない心の弱さ、その両方を恨んだ。
「…やっぱり、あなたは優しい」
そんな様子を見て、ゆかりさんは小さく微笑んだ。その笑顔に、柔らかなオレンジ色の光が差す。気がつけば、太陽が一日の終わりを告げ沈もうとしていた。
「……ゆかりさんだって、十分優しいですよ」
そして私もまた、彼女の腕の中で微笑み返した。
「もう何度も、私を助けてくれました。世界にとっては悪者かもしれないですけど…私にとっては、ゆかりさんは憧れの"正義の味方"ですよ」
まだそれほど長い付き合いではないのに、ゆかりさんは何度も私に道を示してくれた。そして、手を差し伸べてくれた。だから、それがゆかりさんへの、私の素直な気持ちだった。すると、何故かゆかりさんは私から顔を逸らした。
「ゆかりさんは……どうして、私を助けてくれるんですか?」
前は、みらいを取り戻したいという私の想いを利用しようとしていると思っていた。しかし、これまでゆかりさんと一緒に過ごしてきて、それも違うような気がしていた。一体、どれがゆかりさんの本心なのだろうか?
するとゆかりさんは、少し照れくさそうにしてこう答えた。
「一目惚れ…かな」
「え"…?」
「冗談だってば。そんなに動揺しないで、本気になるでしょ」
ゆかりさんは、顔が固まった私の姿に苦笑を漏らす。そしてそのまま、腕の中に私を抱いて歩き出した。
「あ、あの、おろしてください」
気がつけば、学校帰りの学生や買い物帰りの主婦達数人が、私達の方を指さし、ジロジロ観察していたのだ。当然だ。こんな、露出狂みたいな格好をした人間が道のど真ん中で、しかもお姫様だっこされていれば注目されないはずはなかった。でも、ゆかりさんは特に動揺する様子もなく、むしろ悪戯っぽく笑って私に悪魔の宣告をした。
「ダメ。あなた、この怪我じゃ歩けないでしょう?」
「そんなっ!?」
その死刑宣告に、私は身をよじり反抗する。こんな恥ずかしい姿をしているのが私だとしれたら、社会的に抹殺されるも同然だった。しかし、槍に貫かれた足に力が入らないのは事実だし、結局それは無駄な抵抗に終わった。
私は、赤くなった顔を隠そうと咄嗟に左手で前髪を梳こうとした。しかし、激痛が走りすぐにその腕を引っ込めてしまう。怪我しているのは太腿だけではないと、すっかり忘れていた。
「抵抗しないの。それと、そうやってすぐ顔を隠さない」
「…うぅ」
今思えば、散々物議を醸し出したステルス機能とやらを発動させれば人目を気にする必要はなかったはずなのだが、完全に混乱していたその時の私に、そんな考えは思い浮かぶはずはなかった。
もはや抵抗を諦めた私は、そのまま彼女の腕の温もりに静かに身を任せるしかなかった。
「あのー、俺もいるんだけどね。怪我もしてるんだけどね」
起動した歯車は4つ。世界滅亡とみらいまで、あと3つ。
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