第2小節:ノイズ混じりの願い(2)
「かつて世界に選ばれた戦士達との戦いで、俺は奴らに敗れ去った…」
「まぁ…そうでしょうね」
物々しく語りだすシンに、私は冷ややかな視線を投げかけた。白銀の甲冑を纏った"正義の味方"に比べ、みすぼらしい姿のシンはいかにも弱そうだ。
「昔は強かったの! 格好ももっとまともだったし、世界のあらゆるものを思い通りに変える無限の力だってあったんだぞ。だが、負けた時に俺の力は7つの"歯車"の中に封印されてしまった」
言いながら、シンは大きく武骨な掌の上に黒く光る小さな歯車を広げて見せた。私はそれをまじまじと見つめる。しかし、何の変哲もないその外見からは、とても世界を崩壊させる力が内包されているとは思えない。
「なるほど。それで、今はそんな残念な状態と」
私は、歯車とシンの姿を交互に眺めた。シンの真の姿がどんなものか、少しだけ興味が湧いた。
「残念ゆーなし。これはこれで動きやすいんだぞ。…ともかく、これらをある方法で起動させる事が出来れば、俺はかつての力を取り戻す事が出来る。そして7つ全てが起動した時、全ての力を取り戻した俺が世界を破壊し、新たな統率者となるのだ」
宣言の後、まさしく悪の首領らしい豪快な高笑いをしてみせるシン。しかし、私は彼の掌を見つめて思わず顔をしかめた。
「…4つしかないですけど」
私は数学はあまり得意ではなかったが、流石に物の数を数えるくらいはできる。そしてどう数えてみても、そこに歯車は4つしかなかった。しかし、シンは得意そうに鼻を鳴らした。
「既に3つは起動しているからな。つまりこれは、残りの数」
「3つ解放した状態で、その姿…」
途端に、シンの姿についての興味が薄れた。3つの状態でこんな格好なら、もう4つでも5つでも変わらないんじゃないだろうか。
「…まぁ容姿はともかく、要は残り4つの歯車を起動させられれば、私達の勝ちって事よ」
ゆかりさんは、ティーカップを手にしながら短く話をまとめた。
それに私は、シンが『あらゆるものを思い通りに変える力』を持っていたという言葉を聞き逃さなかった。もし、その力を取り戻せれば、みらいも元に戻せるかもしれない。
―――私のすべき事が、ようやく見えてきた。
「それで、その起動させる為の方法とは…?」
その方法こそが、今目の前の時計台にある"歯車の形の穴"にあった。
「あれが、不安定になった世界の"綻び"だ。俺たちは"ノイズ"って呼んでる。そのノイズに、歯車を嵌め込んでやるだけで歯車は起動する。そしてノイズは、その場所やモノが人の記憶から消えた時に現れるんだそーだ」
説明している時のシンは、珍しく真剣な面持ちだった。だが、私には難しい話が多く、彼のそのギャップを楽しんでいる余裕はなかった。
「記憶から、消える…?」
「まぁ簡単に言えば、今あの時計台を覚えている人間はこの世界に一人もいないって事。つまり、必要なくなったモンから徐々に消されてくってわけさ。世の中の仕組みとおんなじだよ。ま、最も世界のはみ出し者みたいな存在の俺らにその法則は関係ないんだけど」
時計台は、この公園のほぼ中心にある。にも関わらず、誰の中にもそれの存在が残っていないとはにわかには信じがたかった。だからといって、明らかに手入れのされていないこの時計台が公園のシンボルとして機能しているとは考えにくい。今は、その話を信じるしかなかった。また、シャトランジである私が今あの時計台の事を覚えていても、ノイズの発生は変わらないらしかった。
「……あ、でもそれなら、誰かの家の押入れとか引っ掻き回せばいっぱい出てきそうじゃないですか?」
私は率直な疑問をぶつけた。例えば私の家にも物置と化した押入れがある。その中にしまったものは、最近買った洋服から幼少の頃に貰った玩具まで様々だ。そして、その中には仕舞ったという事実すら忘れられ、存在自体が曖昧になったものがいくつかあるはずだった。
しかし、シンは首を振ってそれを否定した。
「いや、誰の記憶にもないものだからって、何でもいいってわけじゃない。ノイズという綻びは、その場所やモノに対する大きな想いが失われた時に生まれるんだ」
かつてはこの寂れた時計台も、多くの人々に愛されていたのだろう。そして、長い間あの場所からこの公園の様々な人や出来事を見守ってきた。しかし、お役御免となった途端に、皆から忘れ去られてしまった為にノイズを生み出してしまったという事だった。少々寂しい話だ。
……と、無機物に同情している場合ではない。役目を終えたこの時計台には、まだ今を生きているみらいの為に犠牲になってもらおう。
そういうわけで、これが私にとって初めての本格的な仕事となった。
私達は、足取りも軽く悠然とその時計台の聳え立つ公園の広場へと足を踏み入れた。しかし、そこに待っていたのは歯車の挿入を今や遅しと待ち構えるノイズだけではなく―――。
「あれは…!?」
その姿には見覚えがあった。質感を持たず、あらゆる距離でも決して像を結ぶことのない不気味な"影"。違う所と言えば、その色は黒ではなく白。そして、人の影ではなく、馬や犬といった動物の姿をしている事くらいだった。
かつて駅で遭遇した、黒い"影"と同質の存在が、時計台への道に立ちはだかっていた。それも、1体や2体ではない。5、10、15…悠に40体は超えている。駅で影に襲われた時の事を思い出し、私は少しだけ顔を強張らせた。
「げ、"バラックミュート"か…早速嗅ぎ付けてきたな。ま、そうそう思い通りにはいかないわな」
シンが落胆したように呟いた。その口ぶりからは、これが彼らの活動にとって、日常的な光景である事が窺い知れた。
「ばら……みゅ、みゅ…?」
しかし、私にとってはまるで聞き慣れない単語だ。思わず首を捻る。もうあと2,3個新しい単語が増えたら私の頭はパンクしそうだった。すると、そんな私の様子を見かねてか、それまで黙っていたゆかりさんが口を開いた。
「ノイズの発生や私達シャトランジを捜索して、発見したら"正義の味方"にその位置を知らせるサポート役ね。彼らが到着するまでは、ノイズに悪者を近寄らせないよう護衛したりもする…つまり、私達からすれば、単なる邪魔者って所」
例えばこれが小説や漫画の中だったなら、彼らは主人公達にとって頼れる存在だったのだろうけど。残念ながら今の私はそれとは真逆の立場にある存在。彼らの恩恵は受けられそうにない。
「あ、じゃあ黒い人の形をしたヤツも、そのブラック…ミューズ? だったんでしょうか」
「バラックミュートな」
…そういえば、みらいはその"バラなんとか"らしき影と戦っていた。だが、そうなるとみらいとその影は味方でなければならない。今のゆかりさんの説明では、辻褄が合わなかった。また、私が襲われた理由もまだ不明だった。あの時の私は、まだノイズはおろか、シャトランジとも何一つ関わりがなかったはずだ。まさか、私の運命がこうなる事を知っていて、先に排除してしまおうという魂胆だったのだろうか。そうだとしたら、"正義の味方"とは恐ろしい組織だ。
しかし、その私の問いに凛としたゆかりさんの表情が一瞬固まった。
「人型…? そんなのはいなかったはずだけど……」
今度は、ゆかりさんが首を捻る番だった。
―――結局、私が見た影の正体は何だったのだろうか?
シャトランジの味方でもなく、"正義の味方"にとっても排除すべき存在…。あの"人影"が、ますます得体のしれないもののように感じた。
と、そんな思考を遮るようにシンが口を挟んだ。
「そんな話は後だ後!とにかくさっさと歯車を起動させちまおう。でないと、世界を守るヒーロー様がおっかない顔して飛んでくるからな」
「承知いたしました」
それを受けて、ゆかりさんの衣装が駅で初めて出会ったあの時と同じ漆黒のドレス姿に変わった。更に、携えていたヴァイオリンのケースからヴァイオリンを取りだす。最初は本来の楽器としての姿のままだったが、それもすぐに武器としての姿に変化する。彼女がヴァイオリンを構えるその優美で艶やかなフォルムに、黒のドレスはよく映えた。
シャトランジの戦士には、モノの性質、役割を変化させる能力が備わっている。彼女の持つヴァイオリンも、その力によって楽器から武器へとその役割を変化させられていた。
「開演の時間よ」
その言葉を合図に、作戦が始まった。
「内容は単純だ。ゆかりがバラックミュートの注意を引き、その隙に歯車を持った新人ちゃんが時計台まで走って、歯車を起動させる」
シンが、その辺から拾ってきた木の棒で作戦の内容を簡単に地面に書き記した。確かに彼の言うとおり、その内容はわざわざ図解する必要もないほどに単純だ。単純には単純だが―――。
「えっと…私がハメる役ですか?」
「ええ」
さも当然、というようにゆかりさんが言う。
「でもゆかりさん…!」
更に抗議をしようと口を開くと、ゆかりさんは私を諌めるように咳払いをひとつした。
「"ポーン"?」
5回目。
「あ、えっと、クイーン、さん…。とにかく、無理です無理無理!私、今日が初めてで…!」
「それは知ってるけど。でも、踏み出さなくちゃ初めては永遠に"初めて"のままなんじゃない?」
私は言葉に詰まった。脳裏に甦るのは、駅で私い振り上げられたあの"影"の腕。いくら"悪者"になったとはいえ、臆病な私の性質は何も変わっていなかった。
視線の先には、目がなくとも確かにこちらを睨みつけるバラックミュートの姿。
思わず、体が2歩分は後ずさっていた。前に行かなければ。でも、そう思えば思うほど焦りが募っていき、足を石のように硬くしていく。
「あの、シンは…?」
何とか逃れたくて、私は何故か作戦内容に名の出なかったシンに話の矛先を変えさせた。そのシンは、気まずそうに頭を掻いた。
「いやぁ、できるなら俺も参加したいけどなぁ…」
「なりません」
しかしすぐに、彼はゆかりさんに制された。
「何故です?」
私にはわからなかった。彼は曲がりなりにも組織の首領だ。いくら力が封じられているとはいっても、右も左もわからないド新人の私よりは遥かに戦力になるはずだった。
「…まさか、ラスボスは最後に登場するものだから、とか?」
やたらに呼び名にこだわるこの組織ならあり得ない話でもなかった。だがそれを言うなら、現場に赴いている時点でその様式美は崩れているともいえる。だがもちろん、真相はそうではなかった。
「私達の力は、首領であるキング…シンの力の一部。そして、その存在は彼の魂と直結しているの。つまり、もしキングが死んでその存在が消滅してしまえば、それと繋がっている私達も対消滅を起こしてしまう」
「え!? それじゃあ…」
「彼の命は、私達全員の命。危険には遭わせられないという事よ」
「ぅう…」
逃げ道は失われた。その状況は、私自身が人質に取られたようなものだった。やむなく、私は立ちふさがるバラックミュート達の方を見やる。私は、その白い影達に嘲笑されているような錯覚に襲われた。お前の妹を救いたい気持ちはその程度なのか、と。そして、今の自分にそれを否定する事はできなかった。
「大丈夫」
その時、ゆかりさんの声がした。
彼女は、怯えきって震える私の肩をこの前と同じように後ろから優しく包み込んでから、耳元で子供を諭すように静かに囁きかけた。
「まず、胸を張って」
彼女の繊細な指が私の背中を艶めかしくなぞる。それに合わせて、怖気づいて丸まっていた背中がゆっくりと直線を描いていった。
「一回、深呼吸」
目を閉じ、その言葉に倣う。ほんの少しだけ、吐いた息と一緒に不安が抜けていった気がした。
「そうしたら後は簡単……振り向かずに、前だけを見て」
ゆっくりと目を見開く。その頃には、引きずっていた恐怖はどこかへ消えていた。
私は、シンから渡された小さな歯車を握りしめる。そこにもう、迷いはなかった。
ゆかりさんの駆るヴァイオリン型の武器、その弦が一番右端にいた馬型のバラックミュート、"ラビット・ホース"を一撃で掻き消す。それが引き金となって、バラックミュート達がゆかりさんの方へ一斉に走りだした。それを合図に、私は思い切り芝生を蹴った。今、バラックミュート達はゆかりさんに完全に気を取られている。
―――いける!
全力疾走。だが、シャトランジの力で僅かに身体能力が向上しているとはいえ、その速度はお世辞にも速いとは言えなかった。何を隠そう、私は運動が大の苦手なのだ。それでも、気づかれる前に駆け抜けてしまえば何も問題はないはずだった。
だが、そこで想定外の事態が起きた。ゆかりさんに意識を奪われていたバラックミュートのうち7体が、突如私の走る方角へと転進したのだ。ハウンド・ドッグ。嗅覚による索敵を最も得意とする、犬型のバラックミュートだった。ハウンド・ドッグは、私に向かって猛スピードで飛び掛かり、その鋭い牙を一斉に閃かせた。一瞬、恐怖がよぎる。それでも私は、走る足を緩めなかった。
「まっすぐ、前だけ…!」
眼前に迫る無数の牙。実体の曖昧な体躯からは想像もつかないような速さ。だが、かわした。自分のものでないみたいに、体が軽やかに反応した。しかし、すぐに次の牙が迫る。私は思い切り大地を蹴って、ハウンド・ドッグのがら空きになった横腹に向かって飛び込んだ。紙一重。心臓が飛び出しそうなのを必死に飲み込む。私には、まだシャトランジに入ったばかりでゆかりさんのような武器はない。今は、このフットワークだけが頼みの綱だった。間髪入れずに再び飛び掛かかってくるハウンド・ドッグ。それも寸での所でかわす。だが着地の瞬間、小石に足を取られて態勢が崩れた。まずい。ここぞとばかり、研ぎ澄まされた白い牙と爪が殺到する。しかし、私は体を思い切り仰け反らせた。その上で、次々と空を切る牙達。しかし、今度は芝生の上に倒れこんでしまった。
立たなきゃ…!
その時、ハウンド・ドッグのものとは明らかに勢いの違う重々しい衝撃が大地に突き刺さった。それは、ゆかりさんに気を取られていたはずのラビット・ホースだった。後続の数体が、異変に気づき転進したのだ。
ラビット・ホースの武器は、その巨体と引き締まった四肢から繰り出される脚蹴。まともに喰らえば、私のひ弱な体など恐らくひとたまりもない。その振り下ろされた蹄が、横たわった私のすぐ眼前にあった。咄嗟に体を捻れたのは、ほとんど奇跡に近かったと思う。しかしその時、立ち上がろうとする私の背中を固い鈍器で殴られたようなものすごい衝撃が襲った。背後に迫るもう一体のラビット・ホースに気がつけなかったのだ。気がついた時には、私の体は宙を舞っていた。
「新人ちゃん!」
遠くから、シンの叫び声がした。その声に反応したゆかりさんが何とかこちらに加勢しようとするが、立ちはだかるバラックミュート達の予想外の猛攻に思うように動けないでいる。
抵抗もできぬまま、私は地面にうつ伏せに叩きつけられて蹲る。直後、体のあちこちが悲鳴を上げた。
「う……ぅう…!」
思わず呻き声が漏れる。今まで出した事のないような、地を這うような低い声。それが自分の声だと気づくのに、数秒要った。
やっぱり、ダメなのか…。
ゆかりさんに、あれほど勇気をもらったのに。折角拾ってもらった命を悪に堕としてまで、みらいを取り戻そうと決めたのに。薄れていく意識の中、みらいの柔らかい笑顔が脳裏をよぎる―――。
みらい…。
「みらい―――……ッ!」
その想いが、私を奮い立たせた。
何を弱気になっているんだ、私は。あの日の決意は、こんな痛みで揺らぐほど薄っぺらいものではなかったはずだ。
体に、わずかな力が甦る。
背後で、ラビット・ホースが前脚を振りかぶる音が聞こえた。恐らく、獲物を仕留める態勢に入っているのだろう。
それでも、私は後ろを見ようとはしなかった。そしてその態勢のまま、膝で地面を蹴る。
―――振り向かない。それが、私を奮い立たせるためにゆかりさんがくれたお呪いだった。
私の体が縦に転がった。もう、力の加減ができるような判断力は残されていなかった。頭を何度も打ち付け、遠心力に意識が飛びそうになる。私が着ていた服は、もはや服としての役割を失っているのではないかと思えるほどボロボロになっていた。そのまま私は、やがて背中を固いものに打ち付けられるまで転がりつづけた。そして私は、傷だらけになった体をそれに預けるようにして倒れこんだ。
ハウンド・ドッグ達が、動かなくなった私を徐々に取り囲んでいく。それは、弱った獲物を前に舌なめずりでもしているかのようなとても緩慢な動きだったが、今の私にはそれを阻止する術も、そこから逃げる余力もない。その光景を、どこか他人事のように呆然と見つめるしかなかった。
ああ、今度こそ死ぬのかな……。
虚空を仰ぐと、その視界に歯車の形をした穴が映った。背中に当たった"固いもの"とは、時計台の事だったのだ。そう、私は既に、目的地に辿り着いていたのだ。
しかし、いくら腕を伸ばしてみても、そのノイズには手が届かない。体に力が入らなかった。やがて、黒い歯車が私の掌から滑り落ちて、地面を虚しく転がった。
―――みらい……お姉ちゃん、頑張ったよね…?
目を伏せ、思い出の中のみらいに語りかける。みらいは笑っていた。これで、よかったのかもしれない。そう思えた。
「そこまでー」
と、半ば諦めかけていたその時だった。どこからともなく、少し間の抜けたような声が聞こえた。私はわけがわからず、混濁した意識の中でその声の主を必死に探した。果たして、それは目の前にいた。私とバラックミュート達の間に割って入り、仁王立ちで立ちはだかる一人の少女。私は、助かったと思った。そこにいるのが、ゆかりさんだと思ったのだ。
だが、意識がはっきりしてきて、その姿を鮮明に捉えられるようになった時―――私は、思わず言葉を失った。
その少女が携えていたのはヴァイオリンではなく、自身を遥かに凌ぐ大きさの槍。そして何より…その少女が纏っていたのは黒のドレスではなく、白い甲冑だった。その姿には見覚えがあった。あの日決別した、最愛の妹と同じ白銀の甲冑。悪しき闇を断罪する、世界の守護者を象徴する姿。
「"正義の味方"、のぞみ見参!えっと、セカイのちょーてーを守るため、悪しき者をハイジョします!」
それは―――私にとって、脅威がバラックミュートからその小さな少女に移り変わったに過ぎない事を意味していた。
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