第5小節:壮絶

第5小節:壮絶(1)

「ねぇ…あなたは、今の自分の事、好き? それとも、嫌い?」


 月明かりの下、私と隣り合って佇んでいたゆかりさんがふと、そんな質問をしてきた。それまで、2人きりで静かに広がる夜の星々の雄大さに浸っていたので、私は少し答えに困った。


「どうしたんですか、突然?」

「意味はないんだけど、ね。ちょっと気になっちゃって。ほら、昔はあなた、シャトランジの活動にあんまり乗り気じゃなかったでしょう?」


 そういってゆかりさんは、ベランダの手すりに頬杖をついて私に艶めかしい視線を送る。


「別に、今も乗り気じゃないですよ」


 それに私は、手すりの上で組んだ腕に顎を乗っけながら冗談っぽく答えた。すると、ゆかりさんは小さく吹き出して笑った。


「ふふっ、そうね。あなたはいつだって優しいものね」


 つられて、私も笑う。


「なんですか、からかってます?」

「そうじゃないけど。ただ、その割には作業とか戦闘とか、随分小慣れてきたなーと思って」

「そりゃ、これだけ長くやってれば嫌でも慣れますよ」

「長く、って。まだ一ヶ月位でしょ」

「そうでしたっけ? なーんか、長い一ヶ月だったなぁ」


 私は、駅でゆかりさんと出会ったあの日から今日までの事を、順々に頭の中で巡らせていった。


 恥ずかしい演説をやらされた事、初めて歯車を起動させる為にのぞみちゃんと戦った時の事。あの頃は、悪者という性質に馴染めず、些細な事でも後悔したと思っていた。今思えば、あの頃が一番大変だったかもしれない。

 それから、最初は苦手に思っていたれんなちゃんの事や、タクミさんの願いを知った時の事。やれやれ君に負けた時の屈辱や、あいらさんとの小さな交流。どれもつい最近の事なのに、私にはもう遠い昔の事のように思えた。本当に、多くの事があった。


「それで? どうなの。好きか、嫌いか」


 思い出に耽っていた私に、ゆかりさんは柔らかな声色でもう一度問うた。


「うーん、そうですね。最初は、後悔ばかりしてましたけど…」


 私は、雲間に浮かぶ月を見上げた。真ん丸に輝く月は、まるで闇の中にぽっかり開いた穴のようだった。私はそれに、いつもノイズに歯車を嵌める時みたいに手を伸ばしながら答えた。


「……多分、好きです。世界を壊したいとか、そういう気持ちはないですけど…この

世界で、ゆかりさんや皆に出会えた事は、いい事だったと思ってますから」


 口に出して言うのは少し照れ臭かったが、それが今の私の本心だった。


「……そう」


 それに対し、ゆかりさんは静かに、一言だけ呟いて目を伏せた。その喜びとも、悲しみともつかない表情が淡い月明かりの中にぼんやりと照らし出される。その横顔があまりに優美で、私は思わず見とれてしまう。


 再び訪れる沈黙。心地良く冷たい夜風が、私の頬と髪を優しく撫でる。そして、しんと静まり返った空気は、まるで時を止めてしまったような錯覚を生み出していた。


「…ゆかりさんは、どうなんですか?」


 その、説明のつかない胸の高揚感を誤魔化したくて、私は無意識にゆかりさんへ質問を返していた。それにゆかりさんは、少しだけ考える素振りを見せてから……私の方へ歩み寄り、そっと言葉を紡いだ。


「正直言うとね、嫌いなの。自分の事」


 少し意外だった。少なくともゆかりさんは、自分から望んでシャトランジに入ったと思っていたから。


「どうして…ですか」


 ゆかりさんの表情に翳りが差す。初めて見せるその憂いの表情が、何故か私の胸をチクリと刺した。


「私ね、実は嘘をついてるの。自分にも、あなた達にも。でもそれは、誰にも言えない事で…だから、人を騙して平気でいられる自分が嫌い」


 私は、昼間に抱いた彼女への疑惑を思い出していた。一度はそれを振り払ったが、まさか本人の口から疑惑を確信に変える真実が告げられるとは思ってもみなかった。

 …でも私は、それについて言及するのはやめた。


「…じゃあ、話せるようになったら話してください。いつか、自分を好きになったら」


 今日、ホールからタクミさんの元へ向かう時のゆかりさんの言葉を、私はそのまま返した。誰しも、人に明かせない事というのはある。私だって、みらいを助けるという目的を全員に話しているわけではない。それでも、私達は一緒にいるし、それを咎めたりしない。それに、元々私はシャトランジという悪に利用されている身だ。だから今更、何を隠しているとか、知った所で何も変わらないと思った。


「少しくらい自分勝手な方がちょうどいい…誰か、言ってましたよね。だから、いいんです、それで。私は、ゆかりさんを信じてますから」


 ゆかりさんだって、私を信じてる。そうでなければ、実は騙している、なんて今更私に打ち明けるはずがない。だから、彼女への疑念はもう捨てる事にした。何があっても、ゆかりさんを信じる。そう、心に誓った。

 ゆかりさんは、少しの間呆然としていたが、やがて何かを想い、笑みを漏らした。


「私も、少し好きになれてきたかも。…あなたと一緒にいる間はね」

「え…」

「あなたといると、本当の自分でいられる気がするから…」


 そういって、それまでの話などなかったかのように彼女は私に顔を近づけた。切れ長の瞳が私を絡め取ろうとするみたいに迫ってきて、私は思わず固まってしまった。絡み合う視線と視線。それが見惚れていたのか気恥ずかしかったのか。わけもわからない感情が胸の中で綯交ぜになって、私の思考を奪っていった。

 ゆかりさんはそんな私の様子に、いつかと同じように悪戯っぽく笑った。


「だから、冗談よ。そんなに動揺されたら、また本気にするでしょ」

「…~っ、もう!」


 …やはり、この人には一生頭が上がらないんだと思う。でも、私はそれでもいいと思っていた。ゆかりさんがいなかったら、私の心はどこかで必ず折れていた。それに、何度も命を救われた。


―――だから、私が今を好きと言えるのは、ゆかりさんのおかげだ。ゆかりさんがいたから、今の私がいると言ってもいい。もし、ゆかりさんが死の淵に立たされるような事が起きたら、私は迷わず自分の身を投げ打って彼女を守ると思う。それくらい、ゆかりさんには感謝しているし、心を許していた。


「…さ、そろそろ中に入りましょう。暖かい時期とはいえ、夜は冷えるから」


 私は、心の中でみらいに謝っていた。私はこの時ほんの少しだけ、『この時間がいつまでも続いたらいいのに』、と思ってしまっていたのだ。

 それじゃ、目的が変わってしまうじゃないか。みらいを見失っちゃだめだ。私はそう自分で自分を叱責した。

―――でも、今日くらいは。

 いずれ、全ての歯車が起動し目的が達成される時が来る。それもそう遠くない未来だ。そうなった時、私はどうしているだろう? みらいを取り戻しているのだろうか。それとも、世界と共に消えているのだろうか。そして、ゆかりさんとは…。そう思った時、もう少しだけでいいから、彼女の側にいたいと思った。今夜だけはきっとみらいも許してくれる。そんな都合のいいことを想いながら、私はゆかりさんの後を追って暖かい部屋の中へと戻った。


「おーおかえり。何話してたの?」

「すみません、台所借りてますよ」

「ちょっとー、シャンプーってこれだけー? あたしジョンスンのヤツがいいんですケドー!」





「…で、なんで皆さんウチにいるんですかッ!」


 アジトを破壊され行く当てを失ったゆかりさんを、今日一日私の住んでいるアパートに泊めてあげようという事になった。が、同じく寝床を失くしたシンとタクミさんも当然のようにそれについてきて、更に何故かれんなちゃんまでもが気が付けば私の家でシャワーを浴びていた。おかげで、ただでさえ6畳しか広さのない私の部屋はてんやわんやの状態だった。


「まぁまぁ、細かい事は気にしなさんなって。学生の合宿みたいで楽しいだろ?」


 シンは、ベッドの上に置いてあった私の抱き枕を膝の上でポンポン叩きながらそんな事を言うが、静かに夜を過ごしたい私にとってはちっとも楽しくなんてなかった。


「合宿と言えば、定番はカレーですよね」


 そう言っておきながら、タクミさんが持ってきたのはカレーではなく土鍋だった。中身は、キムチ鍋。食欲をそそる匂いとそれを引き立てる湯気が部屋中に充満していく。それはまぁいいのだが、何故当然の如く全員一緒に夕飯を食べる流れになっているのだろう。あと、何勝手に人の家の冷蔵庫を漁ってるのだろうこの人。


「はぁ? このクッソ暑い時に鍋って…大体、あたし今風呂入ったばっかなんですケド…」


 浴室からバスタオル姿で顔を出したれんなちゃんは、眉間に皺を寄せながら文句を垂れた。しかしこの人も、何故平然と人の家のお風呂場に入ってたんだろうか? そもそも、使用を許可した覚えはなかったはずだが…。


「暑いからこそ、ですよ」 

「そーそ。それに、人が集まった時は鍋と昔から相場は決まってる。伝統なの」

「どこの国の伝統だっての…あ、牛乳貰うわー」

「こられんな! ちゃんとコップに注ぎなさい! あといつまでもバスタオルでいないで服着る!」

「っさい! あたしの親父かアンタは」

「王とは全てを支配するもの、そして支配とは部下を支え配る者。その心は子を案じる父にも似て……」

「れんな、引き出しに箸が入っているのでこちらに来るとき5人分お願いします」

「へーい」

「…ってコラ! 人の話はちゃんと聞け!」


 ……もうとにかく、彼らはやりたい放題だった。


「これでも、彼らに出会ったのいい事って言う?」


 ゆかりさんが、肩をすくめて言う。私はもはや、その状況に苦笑するしかなかった。


「あー…やっぱり私、まだ後悔してるかもしれません」


 その後もしばらくどんちゃん騒ぎが続いたが、しばらくして隣の住人から壁越しに苦情が来た事でようやく彼らも大人しくなった。今までなんとかやってきたけど、壁ドンに怯えているような悪の組織で本当に世界を征服なんてできるのか、今更になって不安になってきた。私は前途多難な未来を思って深くため息を吐いた。

 ちなみに余談だが、それが私の初めての壁ドン体験になった。









「…それで、最後のノイズの場所だけど」


 食後のコーヒーを準備しながら、ゆかりさんが本題を切り出した。

 6つの歯車は起動し、シンは力の大半を既に取り戻していた。つまり本来なら、これまで曖昧な位置しか特定できなかったノイズの感知も、かなり正確に行えるはずだった。しかし。


「……ダメだな、全く気配が掴めんわ」


 シンは、両手でお手上げのジェスチャーを取った。強化されたシンの感知能力を持ってしても、最後のノイズはまるで反応を見せない。その理由は、タクミさんの造り上げたアンドロイド、"ナイト"によるものだった。


「恐らく、ナイトの"ジャミングオンサ"が稼動しているせいです。ジャミングオンサ

は、ノイズの発する反応を擬似的に発生させて捜索をかく乱する設置型装置。その可能設置数は最大700に及びます。その中から本物を探し当てるのは、相当に困難を極めるでしょう。本来は、我々が先にノイズを発見した際、ピースメーカーに察知されるのを阻止する役割として搭載したものだったのですが…どうやら、裏目に出てしまったみたいですね」


 タクミさんは、その状況に肩を落とした。多分、自分が造り上げたものが仲間を苦しめているのが辛いのだ。


「彼らがナイトの性能をちゃんと把握できてるのは、ちょっと厄介ですね」


 奪われたナイトの性能の高さは、既に身をもって体感している。ジャミングオンサもそうだが、確かにナイトの存在は、私達にとってやれやれ君以上の大きな壁となっていた。

 …しかし、ここにそれを責める人間は一人もいなかった。


「ま、気にする必要はねーさ。最初の頃だって、手がかりなしの状態でもちゃんとノイズを探し出してきたんだ。今回も、その頃と同じようにやればいいのさ」

「初心忘るべからず、ですね」


 シンは、タクミさんを気遣うように彼の背中をポンと叩いた。


「キング…」

「そのうっとりした目はやめろ」

「でもさ、実際の所どーすんの? まさか、700全部手当たり次第ってわけにもいかないでしょ」


 そんな彼らに、食後のデザートである棒アイスを咥えたれんなちゃんがベッドの上に寝転びながら口を挟んだ。

 確かに、虱潰しに捜索していくにはこの世界はあまりに広い。それに、世界征服に王手を掛けたシャトランジを、のまま手を拱いて見ている彼らではないはずだ。きっと、ジャミングオンサの設置された先には想像もつかないようなトラップが張り巡らされているに違いなかった。


「せめて、何かひとつでも手がかりあれば…」


 その時、私の中にある考えがよぎった。


「あの…そういえば、ひとつ心当たりがあります。自信はないですけど…」


 その言葉に、全員の視線が集中する。その迫力に私は思わずたじろいだが、すぐに意を決して言葉を紡いだ。


「私、初めてゆかりさんと出会った駅でバラックミュートに似た影を見ました。それがバラックミュートと同じ存在かはわかりませんが…少なくとも、何か関係はあると思うんです」


 それは、私の運命を変えた存在。未だ謎に包まれた存在で、これまではその正体について深く考える事はなかった。しかし、今日路地裏で再びその姿を目の当たりにしてから、私はその影の存在について気になり始めていた。

 人影の行動原理は全くの不明だった。だが、今日人影は私に道を示してくれた。それが善意だったのか悪意だったのかは不明だが、いずれにせよそのおかげで私はタクミさんを助ける事ができた。

 だから同じように、駅にいた人影も私に道を指し示してくれるのではないかと思った。根拠のない推測。しかし、まるで手がかりのないこの状況で思い立つ情報はそれしかなかった。


「けど、ゆかりと出会ったって言ったら一ヶ月以上前だろ? もしそこにノイズがあったなら、とっくに奴らが修復しちまってそうな気がするが…」


 シンの言い分は最もだった。あの時、あの場所にはみらいもいた。あの子なら、もしノイズが近くにあったとして見逃すようなヘマはしないだろう。


「それに、その影というのがノイズに関わりがある存在というのも憶測に過ぎませんからね…掛けるには、少しリスクが大きい気もします」


 タクミさんも顎をさすりながら唸った。やはり、手がかりとしては根拠が足りなかった。


「ちなみにさ、ゆかりはその影ってヤツ、見たの?」


 ふとれんなちゃんはそんな質問をゆかりさんにした。そういえば、あの場所にはゆかりさんもいたんだった。


「…いいえ。私が行った時には、この子とピースメーカーの彼女しかいなかった。それと私、あの時駅にはノイズを探しに入ったのだけど、見た限りではあの中にノイズはなかったと思う」


 八方塞がり、か。やはり、人影はノイズとは関係ないのだろうか。

 しばしの沈黙。ここにきて、私達は足踏みの状態となってしまった。しかししばらくして、その静寂を1人の男が破った。シンだった。


「まぁでも、少しでも可能性があるんなら行ってみる価値はあるかもな。少なくとも、ここでくすぶってるよりはマシだろ」


 その提案には、全員が賛同した。それが最善とは、多分誰も思ってはいなかっただろうが、代案がない以上可能性をひとつひとつ潰していくより他なかった。


「よし、じゃあ明日の朝に作戦開始だ。皆の者、歴史が変わる瞬間は近いぞ!最後まで心してかかるように!」


 皆が、それぞれの目的に想いを馳せた。明日、それが果たされるかどうかはまだわからない。しかし今、現世界の終焉を前にして、私達の心は確かにひとつになろうとしていた。そして、誓いの杯の代わりに食後のコーヒーを口にするのだった。


「「「「…甘っ!?」」」」


 直後、ゆかりさん以外の全員がそれを吹きだした。ゆかりさんの淹れるコーヒーは、もれなく砂糖による埋め立て工事が行われる事をすっかり忘れていたのだ。次々に彼らが水道に殺到する中、ゆかりさんだけはその様子に小さく首を傾げ、もう一度カップに口をつけた。








「そっか…もうすぐ、なんだよね」


 作戦会議も終わり、私がベッドに顔を埋める頃には先ほどまでの喧騒が嘘のように部屋全体が静まり返っていた。

 ゆかりさんには、押入れに仕舞っておいた予備の布団を。シンとタクミさんには、台所にバスタオルを敷いて我慢してもらった。明日、凍死していないか少し心配だ。尚、れんなちゃんはいつの間にか自分の家へ帰っていた。本当に、何しに来たんだろう。


 私は、ベッドの中でじっと天井を眺めていた。…眠れなかった。色々な事が、頭の中で渦巻いていた。

 例えば、シンが全ての力を取り戻した時、彼は世界をどのように創り変えるつもりでいるのだろうかとか。その時、みらいは本当に元に戻っているのだろうかとか。その時は目前に迫っているはずなのに、私にはまるでその実感がなかった。

 思えば、確信のない希望だけを頼りによくここまでやってきたものだと思う。でも、私の選んだその道が本当に希望の道だったのか、それとも間違った絶望の道だったのかも、もうすぐ判明する。

 そしてそこに辿り着いた時……私は、誰の隣にいるのだろう。


「…やっぱり、まだ不安?」


 ふと、耳元で声がした。


「ふぇ、ゆかりさん?」

「来ちゃった」


 その声の方へ視線を向けると、いつの間にかゆかりさんが私のベッドに潜り込んでいた。そしてお互い息がかかりそうなその距離で、ゆかりさんは悪戯する子供みたいに囁く。


「大丈夫よ。妹さんはちゃんとあなたの所に帰ってくるし、世界もあなたが思ってるほど劇的に変わったりしない。あなたのやってきた事は、決して間違ってなんてないから」

「…本当ですか?」


 すると彼女は、返答の代わりに私の手を布団の中から探り当ててそっと握り締めた。それだけで、ほんの少し不安が暖かさの中に溶けていったような気がした。


「…ゆかりさんは、やっぱり優しいです」


 私も、腫れ物を扱うようにその手を握り返した。

 そんなだから私は、優しさを捨てる事ができなかったのだ。だから、いつまで経っても悪者らしくなんてなれず、最後までこんな事に悩んでいるのだ。でも私は、それでよかったと思っている。それが私という存在だし、その存在を消すことなくいられたのは、ゆかりさんのおかげだったから。


「もし、歯車が全部起動したら…」


 私は、再び天井に視線を戻した。


「目的が全部達成されたら、私達って、どうなるんでしょう…」


 皆、元ある場所に還るのか。それとも、その先もシャトランジの一員として一緒にやっていくのか。だがもしそうなったら、少なくとも私はみらいと一緒にはいられない。みらいがシャトランジの行為を許すはずはないし、みらいと共に生きるなら、私はシャトランジを離れなければならない。そうなったら、彼らに支配された世界で私とみらいは虐げられながら生きていかなくてはならない。それは嫌だ。


「みらいを取り戻したい気持ちは、変わる事はありません…でも……。ゆかりさん達とも、離れたくないんです」


 ゆかりさんがいなくなってしまう光景を想像して、急にそれが怖くなった私は、彼女の胸の中に顔を埋めていた。

 いつから、こんな風に思うようになっていたんだろう。最初は、みらいの為以外に悪者の役割を背負うつもりなんて、これっぽっちもなかったのに。


「随分、ワガママ言うようになったのね。出会った頃は、もっと謙虚で一途だったのに」

「本当に。誰のせいでこんなになっちゃったんでしょうね」


 ああ…きっと、私は彼女に洗脳されていたんだ。多分、出会った瞬間から、気づかれないように少しずつ。そうでなかったら、この私が彼女の事をみらいと同じくらいに心を許すなんて、あるはずがないのだから。


「だったら、今キングにお願いしてみたら? 妹ちゃんも私達も、どっちもくださいって」

「嫌ですよ、今は。夜の男は獣です、もし間違いでも起こったら…」


 私は、つんと顔を逸らした。実のところ、口で言うほどシン達を疑っているわけではなかった。それでも彼らだって男だ。何かの拍子に、つい魔が差す事だってあるだろう。だからこそ、2人には台所に行ってもらったのだ。

 するとゆかりさんは、これまでにないくらい穏やかな声で、一言だけ呟いた。


「間違いなんて、誰でも犯すものよ………私もそう」

「え?」










―――その言葉の意味は、最後までわからなかったが…あの夜の事は、今でも忘れない。

 それがゆかりさんの側にいられた、最後の夜になった。


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