#2 幼馴染

1


だいだい色に染まる天には、大袈裟なスケールの入道雲。夕焼け色が徐々に田畑を染めて行く脇に、学ランやジャージを着た学生達がポツリ、ポツリと、舗装されていないあぜ道を歩く姿、帰路。


適宜な風が、特別1人を選んだかの様に、三人組の真ん中、その女生徒だけのスカートを微かに揺らす。


その瞳は凛々しくシャープ、それを囲う睫毛は長め。小さな輪郭を覆う様なツヤのあるショートボブ、唇からは若さが滲み出る程の瑞々しさと潤い。少し低めの身長が、両脇の女生徒より一層目立たせる。


「ねえ、若菜(わかな)」


右側の女生徒が真ん中の女生徒に向けた。


「うん?」


「あれ、あの人って…」


右側の女性徒の指先の指す方へと、左側の女生徒も一世に顔を向ける。3人の視線の先、田畑を越えた先の河べりをゆっくりと歩く壮年の女性の姿。その姿を捕えた瞬間、若菜の瞳孔は大きく開いた。


「皆んな、御免!」


そう言い放つと、若菜はその場から駆け出した。残された女生徒2人は、互いに顔を見合わせながら、頷き合う素振り。


「佐々木さんのお母さん、だよね」


左側の女生徒が、そっと呟いた。


「はあ、はあ、はあ」


駆け出した若菜の左右の脚は、妥協を許さずに尚も地面を勢い良く蹴り続けていた。


「おばさん!おばさんっ!」


若菜の掛ける呼び声に反応する事無く、壮年の女性は変わらない足取り。


「私、私、井坂(いさか)、井坂若菜です‼︎」


ピタっと、立ち止まる壮年の女性、一瞬、ピクリと肩が動いた様に見えた。立ち止まった壮年の女性は、ゆっくりと後ろを振り返る。


壮年の女性、その表情は、眉間に寄せるシワが眉毛を鋭角に近付けていた。


「おばさん、覚えてますか?」


肩で息をする若菜、滴る汗が鼻っ面を伝う。


「あら、若菜ちゃん、お元気そうで」


悲しみに満ち溢れた瞳、それを若菜は見逃さ無かった。


「お墓参り、ですか?」


「ええ、そうよ。もう、今年で7周忌になるわ…」


俯く若菜、暫くの間、二人は沈黙を続けた。暫くし、ゆっくりと顔を上げる若菜、目の前にある壮年の女性の表情に一瞬背筋が凍りつく。


その表情は、無、そのものであった。


2


ザーーーーーーーーーーーーーーーー


「あなたっっっ!!やめてくださいっっ!!!」


ザーーーーーーーーーーーーーーーー


大雨が降りしきる中、バチバチと瓦屋根に大粒が弾ける音を掻き消す程の声が、木造平屋の戸建てから周辺に響き渡った。辺りは薄暗く、容易に夜だと判断が出来た。窓から漏れる部屋の灯りを何度も遮る黒い影。


「えーんっ、えーんっ、えーんっ」


幼い泣き声も雨音に負けじと叫び狂うかの如く。ひたすらの泣き叫び、それは全ての結末を迎える者への警告とも捕らえられた。


「あなたあっっ!!」


幼い叫び狂う泣き声よりも、バチバチと瓦屋根に弾かれる大粒よりも、一際甲高い声が響き渡った。


「ウワッッあっあああああああっ」


ガラガラッと、力強く開かれる硝子張りの引き戸、中からは30代半ば程と見て取れる男性が現れる。その男の腕にしがみつき、泣きじゃくり叫び狂う女性を引きずりながら表れた。


「深雪(みゆき)、離せ!俺が、俺が行かなきゃ誰が仇を摂るってんだっ!」


「あなたが行ってしまったら、残された私達はどうすればいいの⁉︎誰を頼りにすればいいのよっ!」


「うる、せえっつ」


次の瞬間、腕にしがみ付いていた女性が、勢い良く前のめりに倒れ込んだ。男は、一瞬振り返る素振りを見せたが、束の間、勢い良く走り出して行った。


「いやああああああああああっっつつつ!」


悲痛な女性の叫びが、辺り一面に響き渡った。


竹柵に絡むようにして生い茂る紫陽花の葉には大きな雫、その敷地内との境界線には一台のパトカー。そのパトカーと、辺りにある無数の水溜りが、力強い朝陽を浴びて、無数に光を乱反射させていた。


暫くすると敷地内からパトカーへと誘われるかの様に、全身どろまみれの女性が腕をガッシリと掴まれ、身体を支えられながら連れられる光景であった。


ゆっくりと上下の目蓋が、長い睫毛と共に開かれる。その眼前には窓、その向こうには、手入れの為されていない紫陽花の蔓が至る所へと飛び出した囲い、その奥に古びた木造の平屋。ここから、丁度向かい側の位置。窓の右脇にはレースを覆いきれていない水玉のカーテン。丁度腰を掛けたままのベッドはブルー。


若菜は、あの日あの時に、この場所から伺えた、しっかりと脳裏の奥に焼き付いた光景を思い返していた。


「秋子ちゃん…」


3


その、表情は無そのものだった。


一瞬、若菜は、背中が凍りついた様な感覚に襲われた。


辺り一面は、だいだい色に染まり、河べりで立ち止まる若菜と、壮年の女性、佐々木深雪の肌までもを侵色して行く。河の水面に映る朧げな2人の姿を嘲笑うかの様に一匹の魚がそれをかき乱した。


「その、わた、私もお墓参りに一緒に…」


無であった表情は一変し、深雪は満面の笑みを浮かべた。


「あら、きっとあの子も喜んでくれるわね!是非来てあげて」


深雪のその言葉にか、表情の変化にか、若菜の感じ取った何かしらの違和感は全身を駆け巡り、思考の停止を余儀なくされた。


「今から、行くのだけれど、時間は平気?」


「あ、はい」


「そ、では、行きましょう」


何故か言葉が詰まり、若菜はペコッと頷く仕草。その視界の先、先程迄は気にも留めていなかった深雪の左手首。グルグルと乱雑に巻かれている包帯、薄っすらと滲む赤。


言葉を選ぶ事すら許され無い思考の停止、どれだけの気遣いも寄せ付けない何かを深雪は発していた。


永遠とも思える程の墓地への歩み、息が詰まりそうな静寂、ゆっくりとした足取りに反して若菜の皮膚は雫を垂れ流す。どれほど、心がえぐられたのだろうか、どれほど絶望を味わったのだろうか、どれほどの苦しみと悲しみに耐えているのだろうか…動き出した若菜の思考は、自らが創り出した一方的な相手への感情へとリンクをする。


若菜の目頭は熱くなり、鼻が詰まる。真っ赤になった若菜の顔は決して深雪の背中から眼を背けてはならないのだと、使命に燃えた。


ブロック塀から飛び出る木々。その立ち並ぶ中、一際大きな木が一本。墓石達は緑に囲われている。


夕焼けが、地面をだいだい色に染め、そよ風が少し肌寒さを感じさせる頃、しゃがみ込む若菜は墓石の前で手を合わせていた。


瞑った眼を開く若菜、横に並んだ深雪は未だ手を合わせたまま。ふと、気付いた。線香の煙りが、揺らめきながら、若菜の前を通り過ぎ、活けたばかりのカラフルの花々がそよ風に靡いた。


若菜は、凝視していた。墓石に刻まれた秋子の二文字に。


ジトッとした視線で顔を覗き込まれている事に気付く若菜、ハッとしたように直ぐさま身体を立ち上がらせた。


「若菜ちゃん?顔色、悪いわよ、大丈夫?」


「あ、はい、大丈夫です。」


隠せない困惑、焦り、それを見透かすかの様な深雪の視線が、若菜を突き刺していた。


4


「もう、遅いから、若菜ちゃんも気を付けて帰ってね」


「…はい、あ、あの、良かったら連絡先を」


少し顔を傾けた深雪、一瞬の間を空け感情の見えない笑顔になった。


「若菜ちゃんになら、会うかもしれないわね」


年季のある木造の駅舎の前、若菜は深雪と互いの携帯電話の番号を交換した。軽く手を振る深雪、深々と頭を下げる若菜。深雪の後ろ姿が見えなくなると、若菜の緊迫が解けたのか、両肩が大きく下がった。


「ふう」


吐いた息はほんの少し白さを出した。ブルッと一瞬震えたのは気温の寒さ、若菜は早足で自宅へと足を運ばせた。


辺り一面は薄暗く、街頭や一軒毎の間も広い為か、圧倒的な闇が若菜の周囲を覆う。そんな夜道を少しの不安を抱えながらも自宅に近付くに連れ、何処からともなくカレーの香りが漂って来ると、少しの期待が胸を躍らせた。


若菜は、期待を込めて自宅の扉を開く、するとその瞬間にカレーの香りが満ち溢れ、張り詰めていた思いと緊張が一気に解けた。


家族4人で食卓を囲む、この上無い当たり前の日常が、フト脳裏を過る深雪の姿に、若菜は申し訳ないという気持ちを感じていた。


「ねえ、お父さん」


若菜の向かい側に座る小太りの中年男性が反応する。


「ん?」


「死亡届けとかってさ、他人のとかって見れたりするの?役所とかでさ」


父親の虚を突かれたかの呆然とした表情。


「し、死亡届けだって⁉︎一体何でそんな事を聞いて来るんだ?」


当然の父親の反応。斜向かいの母親も、サラダを挟む箸を持つ手がピタリと止まる。


「…あれだろ?最近流行ってる携帯小説のネタとかだろ?俺のクラスの女子もなんかそんな話で盛り上がってたよ」


隣りの席の弟が口を挟んで来た。


「そ、そうなの、ミステリーとか挑戦しよーかと思って!」


若菜は、自身の声の裏返りに少し嫌気がさした。


「そっか、死亡届けな。そもそも身内以外は取得出来んだろうな」


「そうね〜、もし亡くなった人の名前だけでいいのなら戸籍謄本か除籍謄本ってのもあるにはあるけど、どんな内容で必要になるの?」


母親の問いに、若菜は少し焦りを見せた。


「いや、内容は別にいいじゃん!」


そう言い放つと同時位に父親が満面の笑み。


「プロットが全てだぞ〜、まあ、出来たら父さんに見せてみなさい」


「う、うん、出来たらね」


フウッと大きな溜め息が、両肩が下がるのと同時に若菜から出た。


「ご馳走様!」


その若菜の言葉の後、素早く自分が使用した食器を重ね台所へと運ぶ。すぐ様に身を翻し、足早に二階へと駆け上がる。自身の部屋の扉を勢いの余り強めに閉めてしまい、鈍い音が少し鳴り響いた。


スッと、ベッドに腰を下ろし携帯電話を手に画面を見つめる若菜。


検索機能を開き、死亡届け閲覧とキーワードを入力した。


5


何処にでもある教室、何処にでもある日常、何処にでもある光景。


暖かい陽射しが射し込む教室の窓際、数人の少女達の談笑。


「春香ちゃんと、秋子ちゃんの見分け方ってどうしてる?」


「うーん、髪型も一緒だし、正直分からないな」


「だよね、本当どっちがどっちだか分からないよね」


窓際からは、少し離れた席。身支度を終えたのか、ふと、立ち上がるショートカットの少女。赤いランドセルを背負うその少女は幼き頃の若菜の姿。


「ホクロ、秋子ちゃんのうなじには、小さなホクロがある。私はそれで見分けてるんだ」


不意に、若菜が口を挟み込んだ。窓際の少女達は皆、虚を突かれたかの表情を浮かべていた。


段々と淀み揺らめく何処にでもある光景、フニャフニャでぐにゃぐにゃになった所で、一瞬にして映像は風呂場の中に変わった。


俯き、塞ぎ込むツインテールの少女。幼き頃の若菜が、背後からそのツインテールの少女の首筋を凝視している様子。


次の瞬間、ブルーのベッドの上、勢い良くバッと上半身を起き上がらせる若菜、頭を巡るのはあの日の懐かしい記憶。夢から覚めたばかりのぼんやりとした自意識が自身を自覚しだすのには、そう時間は掛からなかった。


思考の始まりは、*秋子*と、墓石に刻まれた二文字。若菜が、あの日接した秋子は春香だったのか?思い出す記憶の中では、何時も秋子として接していた。


向かいの家、若菜と同い年の双子の姉妹。仲良くなるには時間は掛からなかった。あの、7年前の忌まわしき事件が起こる迄、3人は何時も一緒だった。


若菜の思考が加速する。


まず自分の知る秋子が、春香だと仮定した。その春香が秋子を演じる事で犠牲となった妹(秋子)への罪悪感を封じ込めたのか…自分だけ助かってしまった事への戒め、悔い、様々な感情が幼かったあの日の春香に覆い被さったのだとしたら、その背中に縛り付けられた大きな十字架に耐え切れず自らが秋子を演じる事で、それを周囲に認識させ、騙し続ける事でしか許しを乞う事が出来なかったのかもしれない。


若菜の目頭は、熱く煮えたぎる。溢れ出る感情のブレーキは効かず、肩を震わせながら、怒りと悲しみ、自己嫌悪が同時に込み上げて来るのが、ぬるま湯に浸かった感覚の様に伝わって来ていた。


ふと、目の前に映像がフラッシュバックした。


幼き若菜は斎場で、自身の母親に手を引かれている光景。そして、喪服に包まれた父親が香典を渡した横に書かれた文字。


古い記憶、あやふやで確信に至らぬ過去の映像。それでも其処には、炭で力強く書かれた*佐々木春香*の文字。


眉間に寄せるシワに力がこもる。でも、コレはきっと彼女があの後、秋子ちゃんだったから、改善されてしまった可能性がある記憶。


ふと、大きく見開いた瞳。睫毛は長く、目尻が鋭いシャープな瞳。その瞳の奥からは、決意を感じさせた。


若菜は、大きく頷く動きを見せた。


6


古びた赤煉瓦が敷き詰められた塀、その奥にそびえ立つ白を強く基調とした大きめの建物があった。その入り口付近、疎らな自転車が乱雑に置かれている光景。アスファルトには、所々削れた白い文字、駐輪場と書かれている。そこへ、若菜と赤色カゴ付きの自転車。若菜は、そそくさと自転車から降り、前輪に装着されている鍵を掛けた。


建物の入り口の奥の受け付けには、ちょうど若菜の母親と同じ位の年齢の女性。その受け付けで、記帳する若菜の姿。


館内には暖房が良く行き届いてる様子、若菜はそっと上着を背もたれに掛け、お目当ての記事をそっと開いた。あの7年前の忌々しい事件の記事、見出しには*双子姉妹誘拐殺人事件、父親の仇討ち殺人、そして自殺*と大々的に書かれていた。


ふと、あの日の光景が頭を過る。記者達が物凄い勢いで佐々木家の軒先に集う光景、木造平屋の窓は光りの侵入をも許さないかの様にカーテンがピシッと閉まっており、レポーターらが行き交う人々を引き留めてはインタビューをする光景。


眉間にシワを寄せ、深く溜め息の後、若菜は記事を読み始めた。


二月二十二日の二十時十四分、小学校一年生になる双子の姉妹の捜査願いが提出された。何時もならば、遅くとも十八時前には帰宅する姉妹。その日、母親はたまたま市街のスーパーまで買い出しに来ており、帰宅時間が十九時近くになった。母親は帰宅後、姉妹が自宅にいない事を確認すると、近隣の世話になっているのかと思い、訪ね歩いたが、どの家にも訪れて居なかった。直ぐに警察署へ連絡が入り、近隣住民と連携し捜査が開始された。次第に悪くなる天候、雨足が強くなった所でこの日の捜査は一旦打ち切られた。


淀む表情、熱くなる目頭、今更知る事件の全貌への興味が、一瞬揺らぐ。肩が、少し震えた。忘れ去っていた姉妹との思い出、絆、友情が再び若菜の中で燃え出すのに時間は掛からなかったが、自身への怒りが込み上げて来る。幼馴染の苦しみを知っていたら、春香は春香のままでいられたんじゃないかと。若菜の一人よがりは、自身が一番気付いているが他に方法が無かった。自虐の罪悪感を拭うには、真実に近付く事、知る事でもう一度春香と再会するに値する、相応しいのだと決め付けていた。


記事は、こう続く。


捜査が打ち切られた初日の深夜、双子の妹が自宅の扉を叩いた。娘から事の顛末を聞いた父親は、自宅から脱兎の勢いで飛び出した。深夜三時を回っていた。母親は直ぐに警察署へと連絡し、夫を追わせたが、時すでに遅く発見時には犯人とおぼしき男の死骸の横、首を吊る父親の遺体がぶら下がっていた。その後も姉の捜査が続けられ、木造の納屋から惨たらしい姉の遺体が発見された。姉の遺体はおぞましい程の無惨な姿であり、犯人の特筆した異常性を伺わせた。尚、妹は命には別状無いものの弄ばれた形跡が多数あり、院内での検査および治療が必要であり、精神的なダメージがどれ程か想像の範疇を超え、心のケアが今後の重要課題であると捜査当局者は明かした。母親のショックも相当なもので……


震える肩、頰を伝う涙、行き交う人は何事かと若菜の方へ振り返る。


「う、ひぐ、うう」


堪え切れない怒りと悔しさが、喰いしばった歯の隙間から漏れた。


何も知らなかった、知ろうとしなかった、幼い若菜は見て見ぬ振りを繰り返した。本能的に大人達のその表情で察知した、質問は悪い事だと。興味を持たない様に、両親を困らせない為に、幼かった若菜はただ手を引かれて事が収まるのを待ったのだった。


7


木々が生い繁る緑一杯のパノラマ。空は青々とし、大きな雲がゆったりと流れており、優しい陽光が地を照らしている。赤色の錆びた古井戸が、ちょっとしたインテリアの様、背景には白が基調の巨大な施設。その窓際には花壇、煉瓦が敷き詰められた道の先には噴水とベンチ。巨大な窓ガラス越しに大広間の様子が伺える。


敷地内、煉瓦道の上、水色の患者服に身を纏う数名が家族に連れられ散歩する光景。噴水の前、木製のベンチに秋子は座って読書をする姿。


大きな黒い瞳、長めの髪は後ろで一つに纏めている。薄い唇はピンク色、白い肌は透き通っている。ふと、秋子の読んでいる本の見開きが暗くなる。顔を上げる秋子、目の前には母親の深雪が優しい笑顔。


「ママ、今日は来る予定じゃなかったよね?」


ふと、深雪の横に身体が小さめのショートボブ、若菜の姿に気付いた秋子。


「秋子、覚えてる?」


深雪の問いに一瞬固まり俯く秋子、恐る恐る顔を上げ、ハッとした様子。


「え、え、若菜ちゃん⁉︎」


驚き戸惑う秋子。ニコっとした若菜は、中腰になり秋子の目線に顔を合わせた。


「久しぶりだね、秋子ちゃん」


少しの静寂が、互いの瞳を潤ませるのには充分な時間だった。秋子は、手に持つ本をベンチに置き、ゆっくりと立ち上がった。すると、自然と両手が若菜を受け入れるかの様に前へ。


「若菜ちゃん」


そう発した言葉と同時、若菜は思い切りに、力一杯に秋子を抱きしめた。互いの肩が震え、その互いの肩に顔を埋める二人。


「私、何にも知らなくて、ごめん秋子ちゃん」


「う、うう、若菜ちゃん、何で謝るの?若菜ちゃんは何も悪く無いよ」


「ひぐ、う、秋子ちゃんが大変な思いしてるのに、何も知らなかった、何も出来なかったから」


その後、若菜は、秋子の案内で施設内を見学しながら沢山の他愛のない会話をした。最近のドラマ、映画、アーティスト、文庫本、互いの共通点を無理矢理にでも模索しているかの様だった。


日は暮れ始め、夕焼け色の空。白い軽ワゴン車が停車する前、三人は顔を揃えていた。


「若菜ちゃん、今日は来てくれてありがとう」


「ううん、来れて良かった。偶然、おばさんを見掛け無かったら、何処でどうしてるなんか分からなかったし」


「うん、そうだよね」


一瞬、寂しそうな表情を浮かべる秋子。若菜は直ぐに察した。


「秋子ちゃん、また絶対来るから待っててね!」


「う、うん」


優しい笑顔で二人を見守る深雪、若菜と秋子が改めて抱きしめ合う様子。


「さ、若菜ちゃん帰りましょう。秋子、またね」


「うん、ママ、今日は本当にありがとう!」


鈍いエンジン音と共に走り去る白いワゴン車。秋子は、二人の乗るワゴン車が見えなくなるまでずっと手を振っていた。


ヘッドライトが点灯し、薄暗い林道をひた走る白いワゴン車。少ない街灯が、時折窓の外を通過する。静寂な闇の中、軽ワゴン車の音だけが周囲に響き渡る。


「おばさん」


「ん?なーに?」


「本当は、どっちなんですか?」


キッとした表情で若菜の方へ勢い良く振り向く深雪、ガクンと急ブレーキを掛けられ前方に身体が吹っ飛びそうになる若菜。


「何が?」


鋭い眼光、その先の質問を言葉を発してはならない警告にも思える圧。若菜はただただ驚き口をつぐむ。


「ねえ、何が?」


深雪の追い討ち、抗えない恐怖。


「な、なんでもありません」


若菜は、眼を背け、冷や汗が伝う背中にただならぬ寒気を感じていた。


8


時計の針は夜中の二時を回っていた。


恐る恐る自宅の階段を降りる若菜の姿。生唾を飲み込み、音を立てずにゆっくりと。玄関先、ゆっくりと鍵を開き、扉を開く。ほんの少しの物音が鳴る度に、心臓が破裂しそうになる若菜。


竹柵に絡む紫陽花の蔓は飛び出し、敷地内の雑草は、一般的な大人の腰ぐらいまで生い繁っている。一つの灯りが右往左往し、辺りに人が居ないかの確認をする若菜の姿。朽ちた木造平屋の縁側まで回り込み、割れたガラス片の窓に腕を入れ鍵を開け、ゆっくりと引き戸を開いた。


ぎ、ぎ、ぎ。軋む床、押し殺す吐息、緊張がグッと一歩一歩を踏みしだかせる。辺りを見回して、目ぼしい何かを探している様子。


秋子は、秋子なのか、春香なのか。若菜は、その証明する何かを見つけたい衝動に駆られていた。深雪に聞いてもいいが、その質問を押し殺す圧に深い会話を断念せざるを得ない。


何か、裏があるに違いない。若菜の中では、秋子は春香が演じる事で本物の秋子になってしまっているとの仮定。そして、それの確たる答えを欲した。あの施設から秋子を助け出したい、その為には自分が知る必要があるのだと使命に燃えていた。


「あの娘には、私しかいない」


深雪をも信じられない若菜。蓋をして、それを開けたくない思いもあるのだとしても、まだ私達は14歳、まだまだ取り戻せる事の方が多いんだ。若菜の思いは一人歩きを始めていた。


過去の新聞、雑誌を見ても大まかな事件の流れだけ。一瞬にして報道規制が敷かれ、亡くなった方の名前がどれにも記されてはいない。戸籍謄本も親族しか手に入れられない。この廃屋に、何か手掛かりなる物は無いのかと、若菜は動き続けた。


「ふう」


特に何も見つからず、深く溜め息。ドラマの様に簡単に何かが見つかるモノだと思っていた。


ふと、左腕に付けてある腕時計に懐中電灯をあてると、朝の六時を廻っていた。廃屋の隙間から入り込む陽射しに気付いたのは、その時だった。


埃まみれ、すすだらけの顔、自宅の玄関先、若菜は扉を開けるのに戸惑いを見せていた。両親に怒られる、でも、あの子の為だから仕方ない。そんな事を考えながら思い切り扉を開いた。その音に反応してかドタバタと玄関先に勢い良く現れた母親。


「若菜!あんた、何があったの!お父さん、お父さん‼︎」


朦朧とする頭、乾ききった瞳、これから始まる長い説教を想像し、若菜は顔を俯かせた。


リビングのソファーに深々と座る若菜の父親、並ぶ様にして横に座る母親の姿。ガラス張りのテーブルを挟んで正座する若菜、乾燥した瞳を何度も瞬きをさせていた。


「さあ、どういう事なのか話して貰おうか」


何時も優しい父親の表情が険しく、また、何処か寂しさを滲み出していた。


「佐々木さんて、覚えてる?」


若菜の両親は虚を突かれた様な表情で、互いを見合わせた。


それから、身振り手振り自信の持ち得る知識を全て使い、若菜はゆっくりと今迄の経緯を話し出した。


時計の針は七時を廻っていた。窓から照らされる陽射しが徐々に気温を上昇させていく頃……それは、若菜が、 事の顛末を両親に話し終えたばかりの時だった。若菜の眼には、涙が今にも溢れ返りそうな程。父親は俯き、母親はあらぬ方向を見つめている。


「お父さんは、どっちなのか、最後に会った時は、あの子がどっちだったか覚えてる?」


「…正直、秋子ちゃんが亡くなった方で春香ちゃんが演じているのでは無いかだとか、春香ちゃんが亡くなり秋子ちゃんは心の傷が余りにも深くて…」


おもむろに語り出す父親を切り捨てるかの様に、すぐ様の若菜。


「墓石には、秋子ちゃんの名前が刻まれてた」


若菜のその発言に、ふと、うつむかせていた顔を母親は上げた。


「御葬式では、確か春香ちゃんの名前があったわ。それだけははっきり覚えてる。」


母親の発言に、父親は怪訝そうな態度。


「墓石には、秋子ちゃん…」


ボソッと父親の弱々しい声。


「そう、そうなの。施設で再会した秋子ちゃんは、なんか、上手く言え無いけどボヤッとしてたと言うか、おばさんには質問しちゃいけ無い空気だし、あの子には、私しか知り合いがいないから‼︎」


「まあ、落ち着きなさい、私も時間を作って調べるのに協力するから」


前のめりに勢い付く若菜、その姿を制する様に放った父親。


「ちょ、あなた!」


母親の困惑した、迷惑そうな表情。


「お父さん!」


その母親の表情とは裏腹に、思わぬ協力を得られる事が出来たのだと、若菜は、力一杯父親に抱きついた。


呆れた表情の母親、娘に抱き付かれデレデレの父親、その光景にたまたま出くわした弟は、リビングルームの前、ただただ呆気に取られていた。




夜空には幾つもの星が輝きを見せ、揺らめく炎から散る火の粉が天を覆い尽くすかの様。消防車、パトカー、救急車と、様々なサイレンの音が街中に鳴り響く。周囲を囲む野次馬の視線は小学校、その裏手からメラメラと炎に囲まれた体育館。


その脇には、自身の身体をゆっくりと引きずる中肉中背の男、若菜の父親。


「ぐっ、う、」


眼鏡のレンズにはヒビが入り喘ぎもれる声の吐息は荒く、左下腹部からは大量の出血。


「若菜っっっっっっ‼︎」


天を仰ぎ咆哮する父親。


その若菜の父親の怒声が辺りに響き渡り、こだました。




イノセントワールド 第2章















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