イノセントワールド

イタリアンシェフ

#1 私が死んだ日


1

「ふう、くたびれた。」


吐息は、白。黒く靡く髪は肩までは届かないボブ。眉毛は自然な形、スッとした鼻筋の下には薄い唇、取れかけのグロスが瑞々しさを失いかけている。眉が少し斜めに上がり、口角が下がる。


「はあ…寒ッ」


女は左腕に掛けたバッグから、ヴィトンのキーケースを取り出した。


辺りは薄暗く、冷たいコンクリート製の廊下が灯りで揺らめく中、女は紺色の玄関に鍵を差し込みドアノブを捻る。ゆっくりと開かれる扉の脇、表札にはアルファベットでSasaki(ささき)と書かれていた。


ヒールを脱ぎ捨て、キッチンの脇を通り抜けながら水色のダウンコートに手を掛ける。広めのワンルームに、タイトな紺色のパンツスーツ姿で水色のダウンコートを数少ないハンガーに。


黒いテーブルの上にバッグを置き、側にあるリモコンのボタンを押すと、幾分か賑やかな笑い声。パンツスーツ姿のままキッチンに足を運び冷蔵庫から缶ビール。ドサッとベッドに腰を下ろしプルタブをプシュ。


女性の1人暮らしとは思えない殺風景。唯一カーテンがピンク色なぐらい。


「ふう」


くつろいでいる様子も間も無く携帯のバイブ。ゆっくりとバッグに

手を伸ばし携帯電話を取り出した。


画面には、ママと書かれた着信。


「はいはい、ママ?どうしたの?この間連絡したばかりなのに」


「秋子(あきこ)、あなた宛にね同窓会の招待状が届いてるの」


「へえ、高校の?それとも中学?まさか、大学ってのは無いと思うけど」


「うん、それがね、小学校からなのよ」


「え⁉︎それってさあ、」


「そう、秋子が小学校2年生迄通ってたとこよ。」


「…うん、そうなんだけど、なんで、だろ。」


「……どうするの?欠席にしとく?」


「うーん……」


「春香(はるか)やお父さんが亡くなって、御葬式上げた時に随分と御近所さんにもお世話になったし、あなたの事を覚えて無いって事は無いんじゃないかしらね。」


「うーん、だといいけどね。でも、私がそもそも桜ちゃんぐらいしか頭に浮かんで来ないんだよねー。」


「……せっかくだし、行って来たら?正和君と別れて、毎日暇してるんでしょう?」


「ちょ、普通ママが元彼の名前とか出す〜⁉︎」


「えー、いいじゃない別に。私は正和君良かったな〜」


「ちょっと!ママいい加減にしてよ‼︎」


「ふふ、ごめんごめん。それはそうと、お父さんと春香のお墓参りも、あれから一度も行って無いんだし、そろそろ、秋子もね。」


「…うん」


「で、同窓会はどうするの?」


「……行ってみる、どうせ暇だしね」


「あらやだ、秋子怒ってるの?」


「多少」


「謝ってるじゃないの、もう。じゃあ、出席で送っておくからね」


「うん」


秋子は勢い良くベッドに仰向けに倒れ込んだ。受話器は持ったまま。


「うん、うん、ママも、うん。じゃあね。」


携帯電話を持つ手もベッドに放られ、呆然と天井を眺めている。


「ふう」


眉間に力が入り眉はハの字。口元は少し膨らんでいた。


「やっぱ、欠席にしとくべきだったかな。急に緊張して来たな」


2


「あたし、パパとママの真ん中を独り占めして寝るのが好きなの

だから、だからね、怖い夢を見たのって嘘を吐くの。」


虚ろ、物の枠に収まら無いマーブルな色彩。揺らめく小部屋、可愛いらしい小物が縦や横に伸び、ピンク色のカーテンは中心から捻れている光景。オルゴール、熊のぬいぐるみ、普通の形なら可愛いらしい女の子の部屋なのか、その中に1人ポツンとツインテールの少女の後ろ姿。


「そうするとね、パパとママの真ん中を独り占め出来るの。でもね、これは、あたしが考えた事なの」


私?秋子の姿は無いが、意識だけがフワフワと浮遊している錯覚を起こしていた。しかし、間も無くコレは夢だと自覚する。秋子の意識は一定方向だけへと視界をぼんやりと映し出していた。


「あなたは私?」


秋子の問い。しかし、意識だけの秋子に肉体は備わっておらず、その言葉すらも届きはしない。


ゆっくりとツインテールの少女が此方へと振り返る。


「ねえ、秋子は私よ!」


そう言い放ち、うっすらと笑みを浮かべながら光に包まれる少女。目蓋の無い意識だけの秋子に、眩しさが痛く突き刺さる。


ビリリリリリ!


強烈な目覚まし時計の音、バッと目蓋が開き、全身の湿った身体に肌寒さを感じ、夢から覚めて現実の世界に戻って来た実感が秋子を覆う。


「は、はあ」


大きく溜め息を吐き、そのまま上半身を起こし、反射的に目覚まし時計のスイッチをオフにした。暫くの間、秋子は呆然とし、おもむろに掛け布団をどかして洗面所へと足を運んだ。


さっきの夢は一体何だったのかと考えていると、やはりあのツインテールの少女は、幼少期の自分だと再認識する。そして、あの少女の言い放った言葉を思い出す。


ふと、洗面台の鏡に映る自信の顔。


「面影、少し残ってるのかな…」


そう呟くと、ハッとした表情にすぐ様変わり、慌てた様子で身仕度を始めた。


時計の針が13時を回る頃、秋子の部屋の紺色の玄関が勢い良く開かれた。そこから姿を現せた秋子、水色のダッフルコートに赤と緑が印象的なホットパンツ、黒いストッキングに茶色のハーフブーツ、真っ赤なキャリーバックを手に慌てた様子。


玄関の鍵を閉め、時間を確認しようと、慌てて逆さまになった時計を見る為に左手首を顔に近付ける。


「やば、急がなきゃ!」


マンションの廊下を掛け出し、エレベーターの前、随分上の階にいると確認すると、すぐ様に脇にある階段を下り出した。街中を抜け、駅に辿り着き乗車予定していた電車の到着予定時刻が視界に入り、安堵の表情を秋子は浮かべた。


「ふう、ギリギリ」


荒い吐息を出しながら改札を抜け、ホームに降り立つとグリーン車の停車位置へと足を運ばせた。





ガタン、ゴトン


列車の座席から伝わる振動、其れに呼応するかの様に秋子の胸の鼓動も高鳴り、期待と不安が入り乱れていた。


一つの駅を通過する度に列車内が閑散として行く。窓の外は少しずつ緑を増やして行き、トンネルを潜り抜ける度、その景色は加速して行く。


ふと、携帯電話を手に、画面を見つめる秋子。メールが一件届いている事に気が付いた。表情は、無。携帯電話を軽く操作し、メールを開くと見知らぬアドレスだった。


*秋子ちゃん、久し振り!同窓会、来れるんだね!もう15年振りだし、来ないモノだと思っていたから嬉しいよ!…*


「桜ちゃん…」


全文を見通さずとも、メールの主が誰なのかを秋子は直ぐに理解出来た。秋子の口角が上がり、眼が細くなった。


「…懐かしいな」


*…到着する時間に車で迎えに行くので返信待ってるよ!*


秋子は、満面の笑みに表情が変わり、すぐ様に返信文を入力し始めた。


ふと、嫌な記憶が頭を過ぎり、吐息が荒くなる。乗り越えたつもりだった妹の記憶。


秋子と妹は、双子だった。肌身離さず持ち歩いている、あの日の写真を取り出した秋子。表情は、一瞬にして歪んだ。


「春香(はるか)…」


秋子は、強く眼を閉じた。



3


薄暗い納屋の中、声を圧し殺し泣きじゃくる3人の少女達。その眼前には、熊の様な大男が不気味な笑みを浮かべしゃがみ込む光景。顔は、黒く塗り潰されたように識別不能。眼と歯だけが不気味に浮かぶ。


大男が1人の少女の腕を掴むと、瓜二つのもう1人の少女が物凄い勢いで声を上げた。


「いやああああっ‼︎‼︎」


耳が裂ける程の叫び、大男は掴んだ少女の腕を離し、瓜二つのもう一方の少女の両肩をガッシリと掴んだ。その一瞬の隙を見て異なる顔の少女が扉目掛けて駆け出した。バンッと物凄い勢いで納屋の扉を開き、その少女が振り返る。


「◯◯ちゃん!早くっ‼︎」


瓜二つの少女は震えを堪え扉へと駆け出す。大男は微動だにせず、もう片方の少女の肩をガッシリと掴んだまま。


「1人あれば、充分だ。」


大男がそう囁いたかに思えた瞬間だった。瓜二つの少女が納屋の外に出た途端に顔の異なる少女が扉を力強く閉めた。


冷たい風、パラパラと小粒の雨が納屋の外の少女達に振り注ぐ。納屋の中からは叫び声すらも漏れず、静寂の闇に包まれた。


ガタン、ゴトン。


列車の振動で額から滴る大粒、ゆっくりと開かれる秋子の眼には、うっすらと涙が浮かぶ。


其れからの経緯は、はっきりとは覚えていない。父親が家を出て行き数日が過ぎた頃、メッタ刺しになった大男の死体の横で、首を吊る父親の遺体が発見された。


父親が、全て終わらせてくれた。そう思い、呑み込む事で毎日をどうにか生きて来れた。母親と二人、環境を変える名目の元、逃げる様にあの街から抜け出した。


呆然とする秋子。消し去った、封印した筈の過去が、ゆっくりと眼を覚まし、秋子の平常心をドス黒い何かで塗り潰して行く。


「私が、死んだ日だ…」


そう、囁いた瞬間だった。駅名と終点を告げる車内アナウンスが響き渡った。


列車の扉が勢い良くスライドし、車内から秋子が虚ろな表情でホームに足を下ろした。ふと、辺りを見回すと、昔と変わらない光景に少しだけの胸の高鳴りを感じた。この街が嫌いな訳じゃない。ただ、余りにも辛かった。愛する家族が2人も失われた街だから。


「秋子ちゃん‼︎」


ふと顔を上げる秋子、その視界の先には桜。黒縁眼鏡に、控えめな脱色の髪はゼブラ模様のシュシュで一つに、紺色のダウンジャケットと黒のデニム。高めのテンションで手を振るう姿だ。


「桜ちゃん!」


弱々しい、それでいて今作れる最高の笑顔の秋子。ゆっくりと真っ赤なキャリーバックを引きながら桜の元へと足を運ばせた。


「秋子ちゃん、本当、本当に良く来てくれたね!」


桜は目の前、黒縁の中は涙で溢れていた。


「…うん。」


絵も言われぬ感情に支配される秋子、桜を渾身の力で抱き締める。また、桜もそれに応えた。二人の頰は、まるで滝の様に涙が次々と流れ落ちていた。


木造の古びた駅舎を背に、無人改札を抜けた先に停車してある白い軽ワゴンの前、運転席の扉を開ける桜の姿。キャリーバックの柄を縮め、後部座席に仕舞い込む秋子に桜が問い掛けた。


「秋子ちゃん、先に行く?」


「うん、お願い!パパと春香のお墓、実はまだ一度も行った事無くて…」


「うん、分かった。」


助手席に乗り込む秋子、エンジンキーを捻り鈍い音が車内に広がると同時にスピーカーからラジオ番組の賑やかな声、桜はすぐ様にボリュームをいっぱい迄下げた。


「秋子ちゃん、実はね、秋子ちゃんのお母さんと私、繋がっててね」


秋子はおもむろに運転席の方へと顔を向けた。


「7年前、偶然に秋子ちゃんのお母さん見掛けてさ、人違いかなって思ったんだけどね、思い切って声掛けてみたの」


「うん」


「そこで知ったんだけどね、秋子ちゃんのお母さんはね、毎年ね、お父さんと春香ちゃんのお墓参りに来てたの」


「うん」


「それで、私、毎年その時期にね、秋子ちゃんのお母さんと会う様になって、免許取ってからは、こうして送り迎えの御手伝いさせて貰うようになってね、私が、秋子ちゃんが同窓会に出席するようにって、お母さんにお願いしたの…」


「…うん」


「気、悪るくした?私、どうしても秋子ちゃんに会いたくて…」


ふと、力の抜けた表情を秋子は見せた。


「…正直、戸惑ったよ。でも、桜ちゃん、私は嬉しいよ。桜ちゃんに会えた事、今までママにも気を使われていたと思うし、ようやくパパと春香のお墓参りに行けるワケだし、何より、この街にもう一度来るきっかけになったし」


「秋子ちゃん」


黒縁の中、今にも溢れ出しそうな堪えられた涙。下唇はへの字。


「桜ちゃん、そんな顔しないで、ママも桜ちゃんも乗り越えたんだし、次は私の番…」


「うん、うん」


白い軽ワゴンは、ハザードランプが消え、排気ガスを吐き出しながら、ゆっくりと動き出した。


4


中央の太い大木が印象的、その並び、塀と同等に敷地を囲む様に木々が生い茂っている。その敷地内、閑散とし、丁寧に手入れされてある無数の墓石、そんな中、揺らめく煙りが一つ。その墓石の前、拝む秋子と桜の姿があった。


「お墓、桜ちゃんがずっとお手入れしてくれてたんだね。」


その暮石は、一際手入れが行き届いていた。


「私に、出来る事、これしか無いから」


スッと桜は立ち上がった。


「秋子ちゃんは、私を恨まない。秋子ちゃんのお母さんも私を恨まない。私の罪滅ぼしは、コレ…しか…ぐっ」


両手で顔面を覆う桜、覆った筈の両手の隙間からは滴。秋子は、しゃがんだまま、両手を合わせ目蓋を閉じたまま。


「悪いのは、桜ちゃんじゃないよ。そんなの皆、分かってるから。だから、余り自分を責めないで…」


「う、ぐ、ひっく、でも、はる…」


「桜ちゃんっ‼︎‼︎‼︎」


秋子の怒声にも取れる大声が閑散とした墓場の敷地内に児玉した。木々はざわつき、肌寒い風が2人の間をすり抜けるのを感じ、桜は目の前の存在に気付く。


「私が、此処に来れたのには、桜ちゃんの行動があったから。桜ちゃんの後悔、反省が、懺悔が、パパと春香が眠るこの墓石を見れば一目瞭然だよ。そもそも、私は桜ちゃんを恨んでなんか無かった。」


「う、うう、なら、どうして、はる…」


「さ・く・ら・ちゃんっっ!!!」


ハッと桜は眼前の秋子を目視。その表情は、無。背筋が凍る程の無、涙は引き込もり、鳥肌が全身を襲った


「もう、喋らないで」


眼を合わせる事が出来ない程の圧、桜はそうそうに目を逸らし俯いた。


「…寒くなってきたし、そろそろ行こうよ、桜ちゃん」


秋子の声のトーンが変わり、ハッと桜は俯いていた顔を上げた。其処には、先程感じた無な秋子は居なかった。


「…そうだね、行こうか」


2人は墓を背にし、墓地内の駐車場へと足を運ばせた。肌寒い風に、木々が靡き幾枚かの葉を宙に浮かせている。何れもこれも手入れが行き届いている墓石。その中で一際念入りな手入れがされている墓石には、佐々木性が刻まれており、その脇には故人となる祖先らの名が刻まれ並んでいる。


そして、その中、祖先らの名の並びには、秋子の二文字が刻まれていた。


街灯は少なく、個個の家屋との距離があり、田園や竹林、木々が並び緑が何処までも続いていそうな風景。次第にその景観もだいだい色に変わり、ゆっくりと闇色に天を染め始める。



生い茂る紫陽花の枝を幾重もの竹柵で編み込み敷地の塀代わりにしており、赤く錆びた古井戸が敷地内に踏み込んだすぐ脇にある。瓦屋根の平屋、その縁側、桜は携帯電話を持ち会話をしている様子。


「うん、うん、ごめんなさい。まだ、早かったのかもしれません。すみません」


ふと何者かの気配に気付く桜、勢い良く振り返ると其処には秋子の姿。


「う、うん、じゃあ、もう切りますね、はい、また。」


焦った様に会話を終えようとする桜、それを笑顔で見つめる秋子。携帯電話を耳から離すと同時


「ねえ、こんな時間に誰とお話ししてたの?」


「あ、うん、職場の人」


「…ふーん」


桜は、滲み出る額の汗を拭うと、秋子を強く抱き寄せた。


「秋子ちゃん、私、信じてるから‼︎」


「え?何を⁈」


「…ごめん」


スッと桜は秋子の身体を引き離した。困惑してる様子の秋子の傍らを通り越す桜。重い足取り、ふと視線に気付き少しだけ振り返る素振りを見せたが、それを思い止め歩みを進ませた。


秋子は、笑顔一杯の表情を作り、遠ざかる桜の背に視線を送り続けていた。


5


辺りは、轟々と燃え盛る炎一面。だだっ広い空間、物凄い熱気の中央に桜と秋子はいた。


「私は、知っている。私は、知っている。本当の事も、噓の事も。」


桜の目の前に広がる光景は秋子の涙、零れ落ちる雫に抗わず最後の力を振り絞った桜の微笑。桜の腹部からは、大量に溢れ、滲み出る鮮血。痛みに表情が歪むが、口角だけはと精一杯の笑みを見せた。頰を寄せて来る秋子、桜の手を両手がギュッと力強く握る。しかし、桜が秋子の手を握り返す事は無かった。


ゆっくりと、静かに桜の目蓋が閉じられて行く。


「桜ちゃん‼︎ねえ、桜ちゃん‼︎」


秋子の叫び声だけがその場を轟かせていた。




ふと、目を見開く秋子。


それは、何時も通りの光景。湿った様な灰色の硬い天井。その染みの横、丸い金属で囲われた電球から垂れ下がる紐。


ふと、頭上の目覚まし時計を手に取り眼前迄持って来た。針は、深夜1時を回った所。首周りの脂汗を掌で拭う仕草。


「嫌な、夢だ」


ボソッと呟いた。もう一度眠りに着こうと体制を変え、秋子は目蓋を目一杯に瞑る、そして朝を迎えた。


大きめなリビングルームでは、賑やかなテレビからの声。画像の中からは、毎朝の顔とも言える女子アナが、路線電車の旅番組の生中継を行っている。


身仕度を終えたのか、全身水色に身を包んだ秋子は、立ち尽くし、呆然とその画像を眺めていた。


ふと、後ろからの声に、秋子は反応した。


「秋子ちゃん、おはよう!昨日はちゃんと眠れたの?」


「お、はよう、」


ゆっくりと声の方に振り返ろうとしたが、この大広間は、壁全面が窓硝子となっており、その圧倒的な景観に引き込まれ、秋子の視界が止まる。巨大な緑のパノラマ、木目のベンチや赤錆びの目立つ井戸が見受けられた。


「き、きれい」


「うん、そうね」


6



木々が生い茂る林道、舗装されていない砂利道。その上を軽快に進んで行く白い一台の軽ワゴン車があった。その軽ワゴン車の中、後部座席には秋子、運転席には壮年の女性、助手席には桜がいた。


何処か虚ろな表情で流れ行く窓の外の景観を眺めている秋子の姿。


「ねえ、秋子ちゃん。私達って、あの日再会してからもう7年も経つんだよね」


「7年…」


「秋子ちゃん、もう、いいよ。もう、演じ無くていいから」


桜の言い放つ言葉と同時。


「違うっ‼︎違う違う違う違う違うっ‼︎」


不意に助手席と運転席の間から秋子は身体を乗り出し、壮年の女性の握るハンドルに手を伸ばした。


「ちょ、佐々木さん!何するの‼︎止めなさいっ‼︎‼︎」


「はあはあはあ」


秋子は物凄い形相でハンドルを掴む。壮年の女性は力一杯にそれを振り払おうと左肘を秋子にぶつける。


「ああああああああああああああああああああああああああ」


秋子は叫び狂い握るハンドルを離そうとしない。その瞬間、ガクンと秋子の身体が前に飛び、フロントガラスに顔面を強打、グチャッと言う鈍い音が車内に響いた。


軽ワゴン車は、道を遮る様な形で停車、壮年の女性の右足は強くブレーキパッドを踏みしだいていた。


「はあ、はあ」


息も切れ切れな壮年の女性は、ギアをパーキングにすると、エンジンを切り車の外へと急いだ。秋子は、前のめりに倒れ込んだまま微動だにしない。フロントガラスには、一面の赤が広がっていた。


木々が生い茂る林道、そよ風に靡く緑達が宙に舞い散り、その一部始終をあざ笑うかの様にヒラヒラと踊っていた。


次に秋子が眼を見開くと、そこは薄暗く格子の窓がついた鉄製の扉が一つ。冷たいコンクリートと鉄の臭いに少し眉間にシワが寄る。


殺風景、この一言でしか言い表せようが無い個室。ほんの少しだけ覗く日射しの方へと顔を向けると、冷たいコンクリートの壁をくり抜いた様な格子の窓。


不意にズキンと顔面に稲妻が走る。その痛みに耐え兼ねたのか、秋子の身体の毛穴が一斉に開いた。大粒の脂汗、自由の効かない身体を見下ろすと、水色の拘束具に全身が包まれているのが分かった。唇の端からは、唾液が滴り続ける。自身の口許の違和感、何かを発し様にも口は、開かれたまま。上顎と下顎の間、球の様な異物が口の中にあるのが分かった。


ふと、立ち上がろうと膝に力を入れたが椅子に括り付けられた革製のベルトが両ももと足首を固定していた。


「ああああああ」


振り絞って出した声、しかし、言葉に変換させる事は許されない。


不意にゆっくりと鉄製の扉が開いて行くのに気付いた秋子。秋子は、照明の灯りが、ゆっくりとコンクリートの床に伸びて行く様を眺める。ゆっくりと、着実に証明の灯りは範囲を広げ、秋子の膝元まで照らされて行く。


「秋子!」


その声に、眩む眼を我慢しながら扉の外へと視界を送ると、其処には真っ白な頭髪のシワシワな女性が涙目になりながら立ち竦んでいた。


7


白髪交じりの壮年の男性、白衣に黒縁の眼鏡、中肉中背、右側の胸ポケットに付いたネームプレートには桜田(さくらだ)と書かれている。


「春香は、春香はこれから…」


桜田の前、山積みの書類が乗る机を挟んだ先には白髪の痩せ細った女性が丸椅子に、何処かよそよそしく座っていた。


「お母様、春香さんの精神状態は、あの忌まわしき22年前の事件から時間が止まったままなのです。」


「先生、あの子は、あの子が名乗る秋子のままにしておけばっ…」


「お母様、それではそもそもの解決に至りませんし、遅かれ早かれ結果は見えていました。あの事件直後から、助けられ無かった妹さんへの罪の意識から逃れようと、顔形が同じ秋子さんを春香さんは名乗り出しました。しかし、その直後に、お父様の自殺…その大きなショックから、彼女は名前を偽って名乗っていた事も含め、秋子さんと会話した内容やその前後に経験した全ての事象を纏め上げた世界を作り上げたのです」


微かに震える肩、桜田の眼を見る事への恐れからか、白髪の女性は俯いたまま口を開く。


「あの子は、あの子は、もう充分に苦しんだ。そう、思いませんか?」


「……ええ」


小刻みに震える白髪の女性を視界から外す様に桜田は弱々しく発した。



白髪の痩せ細った女性は、立ち竦んでいた。その重苦しい空気を漂わせる鉄製の頑丈な開いた扉の前、無機質な部屋の中を一望できる正面で、鉄とコンクリートの香りに眉間にシワを寄せながら呟いた。


「…秋子」


その後ろ姿からは、ただならぬ哀愁。その脇から、白衣を身に纏う大男がその部屋へと足を踏み入れる。その瞬間、秋子の身体が異常な迄に震え出した。


「早く、早くしてあげて下さい」


白髪の女性の精一杯の大声。大男は、拘束具を外す作業の前に、秋子の両肩に手を乗せて、瞳孔の開き具合を確認した。


8


ガタン、ゴトン


廊下から大広間に抜ける繋ぎ目に大きな出っ張りがあり、そこでは必ずと言っていい程に車椅子の車輪が引っかかる。


秋子の座る車椅子を押すのは、桜田。その横を付き添う様に白髪の女性。全身水色の患者服、その膝には赤と緑が印象的なチェックのブランケット。


大広間では、大ビジョンのテレビから賑やかな音声。その大ビジョンからは路線電車の旅番組が放映されている。その大広間は、壁一面が硝子窓、自然豊かな緑の景色。優しい太陽の陽射しが広間を照らしていた。


ふと、白髪の女性が秋子の顔を覗き混む。その秋子の表情は、眼を細め含み笑顔。清らかで、無垢そのもの。


「な、な、つ、かし、い…」


カサカサな秋子の唇が微かに動き、弱々しく、ゆっくりと発せられた。


施設の入り口、在中している警備員が車椅子を押す桜田と白髪の女性に会釈をすると、腰ぐらいにある高さ、丁度駅の改札口にある様な扉が自動で開かれた。背には施設の入り口、眼前には舗装されている車の停車場と見られるスペース。ここで桜田が車椅子のグリップを手放し、秋子の目の前で屈み込んだ。


「秋子ちゃん、此れから車に乗るけど良い子にしててくれよ」


「う、あ、あ…」


桜田の黒縁眼鏡に反射して映る秋子の姿は、何かを伝えようと震える両手が空を掴む素振り。瞳孔は、大きく開かれていた。






イノセントワールド第一章






































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