第8話 夢。千葉へ

 伊波師夫が恩納岳の庵の前に立っている。

 朝の清新な空気が辺りに満ち、曙光しょこうが雲間から差し込み始める。

 師夫はいつものように、緩やかに、滑らかに、調息を始める。

 内功の高まりがかぐやの体の芯にまで伝わってくる。

 かぐやが師夫の動きに同調しようとした時・・・

 なぜか、いつも閉じられているはずの師夫の唇が動いた。

「立候補しようかな・・・」

 かぐやが驚いて師夫の顔を見ると、そこには師夫ではなく、小泉警部補の精悍な顔があった。


 声を上げそうになって、かぐやはベッドから飛び起きた。

 息が弾んでいる。

 馬鹿馬鹿しい、夢か・・・

 寝汗までかいている。

 かぐやは身につけているものをすべてその場に脱ぎ捨て、裸のまま、ユニットバスへ歩いていった。シャワーを全開にして、熱い湯を頭のてっぺんから浴びる。

 まったく、何という夢を見るのだ・・・

 ここ数日、待機が続いている。

 専従捜査班が組織され、統合捜査本部の下、塵ひとつ見逃さない万全の捜査、鑑識が行われていた。それらから浮かび上がる容疑者、参考人に対して、かぐやたちのチームの出動が必要かどうか判断される。

 待つ、いや、待たされるというのは辛いものだな、とかぐやは思う。

 無為に過ごす時間が増え、さまざまな想いが錯綜さくそうして、心をざわつかせる。体もなまりがちで、鬱屈うっくつが溜まっていく。

 あんな、漫画のような夢を見たのも、この見えない檻に閉じ込められているかのような閉塞へいそく感のせいに違いない。しかも、さっきの夢は、もう2度も見ている。

 伊波師夫は、もう沖縄に帰っただろうか?・・・

 小泉警部補は、なぜわたしに自分の不幸な恋の話を聞かせたのだろうか・・・

 こんな気の乱れ、恥ずかしい。修行を怠っている証拠だ。

 かぐやはシャワーを止め、手早く体を拭くと、道着をまとった。これを着ると、沖縄の土や森のにおいに包まれる気がする。伊波師夫が近くで見守ってくれている気がして、心が落ち着く。

 少し寝過してしまったが、かぐやはいつもの調息法を始めた。まずは、この乱れた気を鎮めるところからだ。

 1時間近く、じっくり調息法に取り組み、かぐやはようやく満足な状態を得た。

 道着を脱いで、丁寧にハンガーに掛けてロッカーに吊るす。

 冷蔵庫から買い置きしてある牛乳、乳製品を取りだし、テーブル横へ運んだ。後は、シリアル、果実類が最近の朝食だった。ホテルでは調理はできないし、かぐやは味についてあまり関心がなかった。何より体調を維持する栄養バランス、エネルギー摂取が最優先だった。

 朝食後は、テレビをつけた。ニュースをチェックする。

 現役閣僚殺害の余波は続いていたが、世の中はめまぐるしく動いている。さまざまなニュースの中で、事件関連のニュースは少なくなっていた。それは、少なくとも表面上は、捜査が進展していないことを示している。

 今日は天気もいいし、久しぶりに長命寺へ墓参りに行こうかとかぐやは考えた。テレビの天気予報も冬晴れと伝えていた。

 待機といっても行動の自由はあったし、長命寺なら1時間もあれば都内へ戻って来られる。何といっても、あそこの境内なら、自由に体を動かせる。

着替えを済ませたかぐやはランエボを横浜横須賀道路に乗り入れ、南下を始めた。時間帯が悪かったせいか、横浜横須賀道路は渋滞気味で、ゆっくりとした速さでしか進めなかった。左側車線にいるBMWスポーツクーペに乗る親父が色目をつかってきたが、かぐやは完璧に無視した。

 なぜか、あの手の高級スポーツカーにはいつもえない男が乗っている。

 かぐやはこれまで、格好いい男がハンドルを操る姿を見たことがない。

 伊波師夫を乗せてみたい、とかぐやは思った。

 そういえば、師夫の運転する姿を見たことがない・・・

 そもそも、師夫は運転できるのだろうか・・・

 師夫については、知っていることより、知らないことの方がずっと多い。そのことが、かぐやを不安にさせる最大の理由に思われた。

 今朝の変な夢も、きっとそのせいだ・・・

 ランエボが逗子インターに近づく頃、かぐやのスマートフォンに着信があった。任務用のスマートフォンだったので、リュウや佐知からの連絡ではない。

 かぐやは、逗子インターを出て、ランエボを道路わきに寄せた。

 発信者は案の定、小泉警部補だった。

「中園です」

「今、どちらですか」

「逗子にいます。墓参りの途中なのです」

「そうですか・・・実は、事件の手がかりが見つかりそうなので、ご一緒いただきたいと思いまして・・・」

「警視庁へ行けばいいのですか?」

「そうですね・・・それとも、車でしたら、直接現地へ行っていただいても構いません」

「車で来ています。行き先は、どこですか?」

「千葉県佐倉市です。そちらからですと、都内へ戻るより湾岸線の方が早いですね。今から住所を送りますので、現地で合流をお願いします」

 小泉警部補から送られてきた目的地をナビに入力し、かぐやは、横浜横須賀道路を折り返した。

 釜利谷かまりやJCTからは、首都高速・並木・湾岸線方面に方向を変えた。

 道路が空き始めたので、ランエボは本来の走りを取り戻してきた。

 かぐやは、川崎浮島JCT、東京湾アクアラインを抜け、木更津JCTから館山自動車道、京葉道路を飛ばして行った。

 海上を渡る東京湾アクアラインは気分爽快であったが、ここ数日の鬱憤うっぷんを晴らすかのようにスピードを上げたため、みるみるうちに通り過ぎてしまった。

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