第7話 憩いのラウンジにて

 案内されたラウンジには窓からの陽光があふれていた。

 飲み物を手にして、かぐやは窓際に近づいた。

 中瀬一佐は着いた途端に本省からの電話を受け、失礼と言って2人から離れてラウンジの一番奥まで移動していた。

 電話の内容はどうやら、中瀬一佐とかぐやの特別昇進の件らしかった。

 ドバイで昇進の話を伝えられたものの、中瀬一佐もかぐやも素直に受ける気にはならなかった。中瀬一佐は後任が育ってないことと、何よりも現場を離れてデスクワークが増えることを嫌っていた。

 かぐやはそもそも、自衛官自体を辞めることを考えていた。昇進してすぐに退官というわけにはいかない。

 小泉警部補が、街路を見下ろすかぐやの横に並んで立った。

「不思議ですね。日本は今、大変なことになっているのに、ここから見る風景は何も変わっていない。車の流れも、人の動きもいつもと同じです。ただ、季節だけが巡っていく」

「総理大臣が倒れ、2人の大臣が殺害された・・・日本の政治は戦後最大の危機を迎えているんじゃないでしょうか」

「確かにそうです。予算委員会も止まったままで、新年度予算はおそらく間に合わない。さまざまな影響がこれから出てくるでしょうね。しかし、一方で副大臣が活発に動き始めている。それに、政治のトップが失われても、日本には優秀な官僚機構がある。日本を動かしているのは、政治家ではない、2年か3年、下手をすれば1年も経たずに替わってしまう大臣ではない、おれたち官僚が日本を動かしていると豪語していますからね」

「それにしても、政権維持は難しくなるのではありませんか」

「最大野党の民新党が今は力を失っています。他の野党勢力をまとめ上げる求心力もない」

「与党は安泰ですか?」

「鍵を握るのは、政権与党を一緒に構成している慈愛党でしょうね。平和の党を標榜ひょうぼうしていながら、安保関連法案で賛成に回ったために存在感を失いつつあった。それが、今度のことでにわかに注目されてきています。岸部総理が体調不良で辞任ということにでもなれば、暫定的とはいえ、慈愛党から新総理が誕生するかもしれません」

「そういうことになるのですか。政治のことはよくわかりませんが、案外、うまくできているのですね」

「いくらでも、代わりは出てくるものです。本人は、自分の代わりを務まる者などいないと思っていても、実際には何とかなってしまう。逆に、いつまでも居座ると老害と非難される始末です。組織とはそういうものであって、だからこそ、そういう組織は強いのです。代わる者がいないほどの政治家など、戦後、せいぜい1人か2人でしょう」

「いくらでも代わりがいるって、何だか寂しいですね。少なくとも、個人的にはそんなことはないと思いたいし、そんなふうになってほしくない」

「組織と個人は違いますからね。でも、なぜだが、そういう大事なことを人は忘れてしまいます。代わりがいない大切な人を、簡単に失ってしまう」

「組織にいると、組織を優先させてしまうということでしょうか」

「組織の論理、組織の持つ力に呑み込まれてしまうのかもしれません。魔力があるというか、自分自身を見失ってしまうことが珍しくない」

「わたしも一時期、そのことで悩んだことがありました」

 かぐやの言葉を聞いて、街の風景に目をやる小泉警部補の表情が曇った。

「僕も似たような経験があります・・・警視庁に採用されて、僕は次々に事件を解決していきました。もちろん個人の力だけではありません。組織の力に助けられました。表彰状はたちまち山のように溜まりましたし、若手のホープと言われました。捜査一課に配属されたのも、そのおかげです。人の役に立つ、組織で認められる、こんなやりがいのある仕事はないと思っていました。自分は組織に必要とされている、自分がいなければ解決できるはずの事件が迷宮入りしてしまう。そうすれば、不幸な人が増える、と本気で考えていました・・・馬鹿ですよね、僕は・・・もっとも近くにいた人を不幸にしていることに気づかなかった。いや、気づいていたのに、理解してくれると思いこもうとしていた。結果、僕は大切な人を失い、自分自身も不幸にしてしまった」

「大切な人・・・」かぐやの脳裏に、いろいろな人の面影が浮かび上がった。

「すみません、個人的な、つまらない話をしてしまって・・・」

 小泉警部補は、寂しげに笑った。

「奥さんのことですか?」

「そうなる予定でした。大学の頃からずっと付き合っていましたから。何もかもわかり合えていたと思っていたけど、いつしか違う道を歩いていたんでしょうね。彼女は僕から離れて、共通の友人だった男と結婚しました。相談に乗ってもらってるうちに、というやつです。でも、彼女が幸せになるなら、それでいいと思いました。すれ違いの原因は僕にあるのですから。ただ、さすがに彼女と友人の結婚式は辛かった」

「出席されたのですか?」

「ええ、招待されましたからね。自分としても、区切りをつけたかった思いもありました。でも、心のどこかで、大事件が起きて、式場から呼び出してくれないかとずっと願っていましたよ。まぁ、そんな時に限って、世の中、平和なんですけど」

「彼女、本当にそれでよかったんでしょうか?」

「と、いいますと・・・」

「何となくですけど、取り戻してほしい、奪い返してほしいと思ってたんじゃないかと。だって、本気で、愛し合っていたんでしょ?」

「僕は、そう考えないようにしてました。電話で何度も話しました。いいの、本当に彼と結婚していいの?と何回も聞かれました。その度に、いいよ、いいよ、あいつなら安心だと言いました。心が引き裂かれそうになっても、そう言いました」

「なぜです。本心じゃないのに」

「僕はこの仕事を変えることはできません。だったら、彼女を待たせる生活、悲しませる生活も変わりません。彼女のこと愛してました。だから、幸せになってほしかった。でも、僕じゃダメだった・・・それが理由です」

かぐやは小泉警部補に顔を向けた。厳しい表情だった。

「あなたはわかっていません。全然、わかっていない・・・彼女は自分が幸せになりたくて結婚したんじゃない、あなたのために、あなたの重荷になりたくなくて結婚したんです・・・あなたは彼女の心を犠牲にしたんですよ」

 うなだれた小泉警部補の目には光るものがあった。

「そのとおりだと思います。僕は弱かった。結局、楽な道を選んでしまった・・・」

「ごめんなさい・・・思わず・・・」

「いえ、わかっていたことですから、自分でも・・・」

「人それぞれに事情があるのに、勝手なこと言ってしまってすみません」

「話を切り出したのは、僕の方ですから、気になさらないでください。でも、おかげで心がなんか、スゥーとしました。あなたとこの話ができてよかった」

「わたしなんか・・・」

 愛し合うどころか、愛することすら、ずっと封じ込めて生きてきた。人のことをとやかく言える立場ではない。

「中園さんはお綺麗だ。きっと素敵な旦那さんか、恋人がいますよね」

「いいえ、そんな・・・こんな仕事ですから」

「えっ、本当に・・・誰もいないんですか?」

 落ち込んだ様子だった小泉警部補の顔が、急に明るくなった。

「本当です。誰も・・・」

 伊波師夫の顔が思い浮かんだ。

 しかし、同時にセクシー中国美女も浮かんできて、かぐやは頭の中のイメージをすぐに打ち払った。

 いまいましい。

 この、浮気者・・・

「そうですか・・・じゃ、立候補しようかな・・・」

 小泉警部補がさらにかぐやに話しかけようとした、ちょうどそこへ、通話を終えた中瀬一佐が戻ってきた。

「お邪魔かな?わたしは、席をはずそうか?」

 かぐやは、我に返った。

「いいえ、ただの世間話です。本省との話はどうでしたか?」

「とりあえず、現状維持。このままだ。給料だけは上げとけと言ったが、そんなことはできないと突っぱねられた。融通の利かない連中だ、まったく」

 普段、隊員たちから融通の利かない上司と言われている中瀬一佐の口から、そんな言葉が出たのがかぐやには可笑しかった。

まだ、かぐやと話をしたそうにしている小泉警部補だったが、かぐやと中瀬一佐が休憩を切り上げて歩き出したのを見て、しぶしぶ後に従った。

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