第2話 菩提寺

 沖縄、ドバイでしばらく過ごしたかぐやにとって、横浜の寒さは身にこたえた。沖縄の冬のやわらかさが、早くも懐かしくなっていた。

 それでも、生まれ育った横浜の景色は、かぐやの心を和ませてくれた。ふと目にした光景が、忘れていた子どもの頃の記憶をふいに呼び起こすこともあった。特殊工作員として基地や訓練所と、ターゲットのいる場所を行き来するだけの生活が2年あまりも続いていたため、なおさら郷愁が増していたのかもしれない。

 横浜での宿泊先はホテル、ブロッサム・インである。忌まわしい過去とのつながりが想起されるが、だからこそ、負の遺産を乗り越え、再生するために、あえてこのホテルを選んだ。

 それに、かつてここで隠棲いんせいしていた時、傷ついた中園有紗のプライバシーを完全に守り、従業員の誰一人、好奇の目を自分に向けなかった質の高いサービスは他では得がたいものがあった。今回も、そのサービスは健在である。あの時一度だけ、叔父の一条准将が突然訪ねてきた時は驚いたが、あれはホテル側のミスではない。

 ただし、今度の部屋は、窓から赤煉瓦倉庫や山下公園が見える海側にした。

 以前のかぐやには、景色や景観などまるで興味の対象外だった。しかし、恩納岳で見る朝の空と雲、夜の星と月、少し移動するだけで見ることのできる紺碧の海に、いつしか魅了され、心奪われるようになっていた。

 この横浜でさえ、時折、澄み切った冬空の太陽が湾内の海面をまぶしく光らせるのを見ると、あおさも、周りの景色もまるで違うけれど、沖縄の海を思い出してしまう。

 わたしは変わった、とかぐやは思う。伊波師夫に出会う前は、自らをがんじがらめに縛り付け、目的外のことには一切目を向けないことにしていた。何かに心動かされることがあれば、それは自分の弱点となり、命取りとなるとかたくななに信じていた。

 その間違いに気づかせ、新たな命を吹き込んでくれたのは伊波師夫であった。

 おかげで、わたしはいろいろなものを愛することができるようになった。さまざまなものに心動かすことができるようになった。そして、東雲流円環術を学び、こんなに強くなった。

 伊波師夫に会いたい・・・そう思わない日はない。

 だが、かぐやはまだ防衛省武官を退官したわけではない。何もかも棄てて、沖縄の伊波師夫のもとで修業に励む日を夢見ないわけではないが、いくらかの貯金はあるにせよ、生活の糧もなく転がり込むわけにはいかなかった。

 また、伊波師夫たちがどうのように生計を立てているかもよくわからない。したがって、当面は今の身分を維持したまま、長期休暇を活用して将来の生活設計をするよりほかなかった。

 かぐやは、早朝に起きると、たっぷり時間をかけて東雲流の調息法を修練した。もう、数回調息するだけで、内功が息づき、強いエネルギーが体の芯から湧き起こってくる。自在に流動する雲の流れを思い描くと、エネルギーは流体となって全身に行き渡り、一本一本の指先にまで伝わってくる。

 また、特に意識しなくても、調息にしたがってかぐやの体は緩やかに、滑らかに動くようになっていた。

 朝の調息法を終えると、かぐやは道着を脱いで、美しい肢体を動きやすいボディスーツと普段着に包み込み、駐車場へ降り立った。

ブロッサム・インの駐車場には、東京都新宿区にある市ヶ谷駐屯地から、国内作戦行動用の車を一台借り受けて駐めてあった。

 三菱ランサーエボリューションX、通称ランエボ10である。ラリーで磨かれた足回りと313馬力の動力性能に、最新のテクノロジーが惜しみなく注ぎ込まれている。公道を走る国産車の中では、疑いなく、最速、最強のマシンである。

 駐車場から横浜横須賀道路に入り、釜利谷JCT、朝比奈ICを抜け、逗子市方面へ右折して、逗葉新道、県道311号を通って中園家の菩提寺ぼだいじである長命寺へ至る。

 長命寺は逗子市市街から葉山マリーナを臨む、南垂れの斜面に立つ古刹こさつである。いわゆる有名寺院ではなく、観光客が訪れることはない。かぐやの父がこの寺の鄙びたたたずまいと住職の人柄に惹かれ、京都にあった中園家の墓をこちらへ移して菩提寺にしたという。

 かぐやは、ほぼ毎日、横浜からこのルートで長命寺を訪れ、霊園のほぼ中央にある中園家の墓に来ていた。墓前で長い時間を過ごし、その後は、長命寺の周りの野山を駆け回って鍛錬を積む。お寺に戻ると、清水で喉を潤し、境内けいだいと竹林の間にある空き地で、円環術の修練に励んだ。

 天を舞うような不思議な感覚はまた姿を隠してしまったが、かぐやは、焦ることはないと思っていた。自分の中から消えてしまったわけではない、姿を隠しているだけだ。

一から四の円環術を演じ終わり、調息法で呼吸を整えると、かぐやは境内を通ってランエボに戻ろうと歩き出した。

「毎日、ご苦労さまです」境内の東側、庫裏の近くにある井戸端から、常観住職が声をかけてきた。

 かぐやは深くお辞儀をした。住職とは子どもの頃から顔なじみである。

「すみません。境内を荒らしてしまって」

「いえいえ、このような荒れ寺、お気にならさないでください」

「いつもお花までいただいてしまって、申し訳ありません」

 墓へ持ち込む水桶と柄杓ひしゃくのところには、供花が自由に持ち出せるように用意してあることが多かった。

「この時期は、あまり花がありませんが、誰かに使っていただかないと花作りに精が出ません。年寄りの楽しみでやっていることですから、どうぞご遠慮なく」

「それに、父と母の墓をずっときれいにしていただいていて・・・驚きました。ひょっとして、何年も来られなかったので、お墓が無くなっているのではと心配していました」

 常観住職は、笑顔を崩さず、右手を顔の前で横に大きく振った。

「とんでもありません。お父様には生前、たいへん昵懇にしていただきまして、わたしも何かとご相談申し上げ、とても頼りにいたしておりました。微力ながら、御霊みたまのお世話をさせていただくのは当然のことです。また、厚労省や防衛省を始め、たいへん多くの方からお布施をいただきました。まことに、ありがたいことです。お父様、お母様がいかに多くの方に慕われていらっしゃったか、改めて深く感じいった次第です」

「そうですか・・・ありがとうございます。そう言っていただくと、父と母も喜ぶと思います」

 かぐやの心は、温かいものに満たされた。

「それにしましても、あの雛人形のようにかわいらしいお嬢さんが、このように美しくなられたことには正直、たいへん驚きました。最後にお会いしたのは、いつ頃でしたでしょうか、まだ髪を長く伸ばしておられた・・・・」

「高校生の時だと思います。入学してまもなく、高校入学の報告を兼ねて。それ以来、部活やら何やらでご無沙汰してしまっていました」

「そんなに昔になりますか。あの頃も、ずいぶん美しく成長されたと思いましたが、今、改めてお目にかかると、別人のように感じます」

「変わりましたか?・・・そうですよね。わたし、ここによく来てた頃は、運動があまり好きではなくて、いつもじっとしてましたから・・・それなのに今では、走ったり飛んだり・・・びっくりされるのは当然ですね」

「いえいえ、横浜一の美人といわれたお母様の面影を残し、実に美しく成長なされた。ご両親がご健在ならば、さぞや自慢の娘さんであったことでしょう」

「・・・わたしは親不孝な娘です。ずっと、ここへ来ることもできませんでした」

「人にはそれぞれ、事情があります。ご両親はそのことを十分わかっていらっしゃるはずです。今日来られた、そのことが何よりのご供養となるのです。過去のことではありません、今、この時が大切なのではないでしょうか」

「わたしはまた、横浜を離れようと思っています。そうなると、ここへはまたしばらく来られなくなります」

「お若いのですから、当然でしょう。わたくしができる限りのお世話させていただきます。心置きなく、お出かけください」

「はい。それをうかがって、安心いたしました」

 自分はこの先、危険な任務の遂行中に死ぬかもしれない。それが、岡村住職の申し出のおかげで、両親の墓の世話という心配をしなくてすむ。何ともありがたいことであった。

「近々、ご出発なさるのですか?」

「それが・・・迷っているのです。すぐにでも行きたい気持ちと、もう少しいろいろなことをきちんとしてから行かなければという気持ちがあって・・・」

あの時、航空自衛隊那覇基地の滑走路で、リュウと佐知には、必ず沖縄に帰ってくると約束した。その気持ちになんら変わりはない。けれども、時を経て冷静に考えてみると、そんな単純な話ではないことがわかってきた。

 今の仕事をこのままやめてしまうのか?すんなり辞められるだろうか?中瀬一佐は何というだろうか?きっと彼は困惑するだろう・・・

 わたしにしても仕事を辞め、どうやって生計を立てていくのか?武術以外に、何の取り柄もない女なのだ・・・

 それに、伊波師夫はかぐやを第十八代宗家の候補と認めてくれるとしても、それに甘えて無邪気に、手ぶらで飛び込んで行っていいものなのか?それはあまりにも、子どもじみていないだろうか?

 佐知はどう思うだろう。伊波師夫と佐知は夫婦ではないと思う。でも、あの親しさは何だろう?佐知がわたしに最初ひどく冷淡だったのも・・・そして、わたしが横浜に来て改めて感じる、このもやもや感やいらいら感はいったい何だろう・・・

「人生の岐路に立って迷われた時は、これはわたしの考えですが、最初に思い浮かんだ方を選ばれることです。なぜなら、それが結局、あなたが一番、望まれていることだからです。困難が多いことはわかります。それゆえ、次の考えが浮かんで、迷いが生じるのでしょう。でも、あなたはまだお若い。一番望むことをおやりになったらどうでしょうか」

一番最初に思い浮かんだもの、わたしの一番望むもの、それは何だったろう?

 ・・・思い出すまでもなく、それは、何度も考えたことだ・・・

 この仕事を辞め、沖縄へ帰る・・・

 リュウと佐知に笑顔でただいま、と言う・・・

 みんなに、横浜のお土産を渡す・・・

 大好きな伊波師夫の胸に飛び込む・・・

 かぐやは、住職の励ましを受けて、心の霧が少し晴れた思いがした。

「ご住職、ありがとうございます。おっしゃるとおりにします。自分に正直に生きようと思います」

「それが何よりです」

 かぐやは、満ち足りた気持ちで服装を整え、ランエボに乗り込んだ。

 だが、ランエボのダッシュボードに放置しておいたスマートフォンの着信が、かぐやの決心を大きく揺るがすことになった。

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