第8話 巡る時
そうやって俺は少しずつ、気の遠くなるほど少しずつ、調査を進めていった。最初の一ヶ月は夜明けまでかかっても一冊解読できるかできないか。しかも連日の徹夜は俺の体力も保たないという結論になり、やむなく一晩の作業は三時間程度に限られた。だから一ヶ月目に訪れた和夫に分類済みとして渡せたのは、たったの五冊だった。
それでも和夫は驚いた表情を見せた。
「うん、君の分類は正しいように見える。思ったより速いじゃないか」
歴史系、宗教系、魔法系の三種類に分けた本をめくって確かめながら魔法使いは言う。
「一日肉体労働した後の作業で、もっと時間がかかるかと思っていた」
「ちんたらやっている暇はないから」
求める魔法が見つかったのは五十年後でした、では困るのだ。
「英汰」
寺院へ行くためふらふらの足で村を出ようとした俺を、美緒が呼び止めた。
「つらくない? 大丈夫?」
「つらくなんかねーよ」
虚勢を張った。
「見てろ、絶対に還る魔法見つけてみせるから」
美緒は俺の言葉はスルーして、ただ小さな袋を差し出した。
「これ、干し肉。眠気覚ましのガムの代わりに噛んだらどうかと思って」
俺はびっくりして袋を受け取り、中身を確認した。村では貴重品の干し肉がたっぷり入っていた。
「どうしたんだよこれ」
「……どうしたんでもいいでしょ」
ぷいっと美緒は顔を背ける。まじめな彼女が盗んだとは思えないから――きっと村人に頭を下げて回って集めたんだろう。
「ありがと」
俺は心から礼を言った。そっぽを向いている美緒の頬が染まっているのが、カンテラの灯りでも分かった。
「じゃ、行くな」
歩き出した俺の背中を美緒の声が追いかけてくる。
「がんばって」
俺は小袋を掲げて応えた。
二ヶ月目が終わろうとするころには俺もだんだんコツを掴んできていた。持参したペンと紙で、分かった単語の楔形文字を書き写しておく。次の本を眺める前にこれを見直しておくと、内容理解のスピードが上がった。
三ヶ月目には分類した山にこの世界の文字で「歴史」「宗教」「魔法」とメモを載せることができ、やってきた和夫を仰天させた。
「これなら取りに来るのは昼間、僕以外でも大丈夫だね」
今月分は十二冊もあって、さすがに馬か荷馬車を使いたいと和夫は笑った。
五ヶ月目には意外なことが起こった。和夫が黄肌村にやってきて、俺に給金を払いたいと言い出したのだ。
「英汰くんの仕事はちゃんとしてることが分かったから、無償でやらせるのはおかしいって主張がやっと上に通ったんだ」
その代わり、もっと古文書の整理に時間を使ってほしいと要請してきた。村としては貴重な現金収入は大歓迎で、俺は農作業は午前中だけでよいことになった。これでずいぶんと楽になった。
七ヶ月目、寺院に女剣士花枝がひょっこり姿を見せた。
「やあ、やってるわね」
差し入れと言って厚手の上着をくれた。ずいぶん古そうな物だったが、初冬の半屋外で作業をする俺にはとてもありがたかった。
「俺、訊きたかったことがあるんです」
「何?」
半ばで折れた柱に彼女は寄りかかる。見張りの兵士が興味しんしんそうにこちらを見ていた。
「どうして俺を助けてくれたんですか? この寺院のことを、和夫さんに言ってくれたんですか」
花枝はゆっくりと瞬きをしてから、ふっとほほえんだ。
「どうしてかなあ。たぶん、あんたが諦めてなかったからかな」
俺は首を傾げたが、彼女は続けた。
「あたしが会ったことある黄肌人はね、みんな死にそうなひどい目に遭って、黄肌村に着くとほっとして、それで一切合切全部諦めて、村で暮らし始めるの」
俺から視線を外し、花枝は遠くの方を見る目をした。
「あたしの知ってる例外は二人だけ。あんたと、八年前に剣士を目指した男」
俺も村人から聞いたのを思い出した。村を出て、たしか一年もせずに死んだとか――。
「その男を、あたしは思い出したのかもね」
急に気づいた。俺が和夫に頼って古文書の調査を始めたように、その八年前の剣士は花枝を頼ったのかもしれない。花枝はまだラベンダー色の空の彼方を見ていた。
「……ありがとうございました」
驚いたように彼女は振り向く。
「何、急に」
「ちゃんとお礼を言っていなかったから。ありがとうございました」
二回目の礼は八年前の男の分だった。それを知ってか知らずか、花枝はやわらかな笑みを浮かべた。
こうして異世界に喚ばれた時は春だった季節も夏秋冬と巡り、もう一度春が来た。俺の古文書を調べる所要時間は一冊一時間足らずにまで縮み、終わった本は三千冊を超えていた。隠し書庫は半分近くが空になっていた。
そんなある日、いつものように素早く本のページをめくっていた俺の手が、止まった。
その古文書にはそれまでの物と違った単語が現れていた。「虚無」「暗黒」「抵抗」。
俺の眉根が寄っていた。はやる気持ちを抑え、ゆっくりと注意して先へ進む。「間隙」「谷」「異質」。そして次に目に入った単語に俺は息を呑んだ。
それは「世界」だった。
しばらくの間、まるで時の流れが停止したかのようだった。兵士はいつものように居眠りで頭を深く落とし、周囲にはまったく物音もしなかった。
俺は震える指で再びページをめくった。「通路」「扉」「召喚」そして「召還」。
間違いなかった。これが俺の求めていた魔法書だった。
天を見上げる。ラベンダー色の空に白い雲が浮かんでいる。俺は口を大きく開いた。
「……いやぁったああああ――!!」
兵士が飛び起きた気配。
「どうした、何があった?!」
「見つかった!」
「え?」
「探していた本が、見つかったんだ!」
「えっ、そりゃ、うわあ良かったなあ!」
兵士の顔もはっきり輝いた。
「こりゃあすぐ王都の和夫さんに連絡しないと! ちょっと待ってろ!」
呪文を詠唱し始める。俺はそれを見守ることもできず、にじむ涙を必死で拳でぬぐっていた。
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