第7話 マスターから友達へ
翌日、葵が目を覚ますと、横にある彼のベッドでアンが寝ていた。その寝顔はとても綺麗だが、スリープモードであるからか生気がまったくない。まるでよく出来た普通の人形みたいだ。何も知らない人間がこの状態のアンを見れば、世界一の人形技師が作った美しいドールであると考えるだろう。
葵はアンを起こすことを少しためらってしまった。何故なら、もう少しアンの寝顔を見ていたかったからだ。
可愛い女の子の寝顔を見ていたい。それは男なら一度は考えたことがある願望であり、アンケートを取れば世の男性の十人のうち九人が同じことを答えるだろう。欲望に忠実なのはいいことではないだろうか。まぁ忠実過ぎるのも問題ではあるが。
葵も年頃の男の子だ。アン程の美少女ともなればそうそう出会えるものでもないし、もうちょっと見ていてもいい筈だ。
(それにほら、俺はアンのマスターじゃん? マスターが自分の自動機械人形を見るのは普通のことだと思うんだよ。うん。……俺は一体誰に言い訳してんだ?)
しばらく眺めていたが、アンはスリープモード中なので微動だにしない。
(でも本当に人間そのものだよなぁ。肌はもちもちのフニフニで透き通るように白いし、体温も人のそれだ。髪の毛も柔らかくてサラサラだし、まつ毛も長い。それにこの銀髪。何というか、幻想的だよなぁ)
葵は昨日初めてアンを見た時のことを思い出した。
月の光に照らされた銀髪に、深海の如き青い目をした少女。葵はアンのこと初めて見た時、彼女を人間だとは思わなかった。何故なら、その美しさは人間には出せるものではないと思ったからだ。
昨日のアンの姿は幻想的という言葉が似合うものであり、葵はアンを女神と形容した。
「おおっと、いつまでも見とれてる場合じゃねぇな。……つーか今何時だ?」
葵が眠気眼で携帯を見て時間を確かめると、時刻は午前八時。真夜はすでに学校に行っている時間だ。真夜とは違って葵はいつも午前十時くらいに家を出ている。そのことを考えれば、まだまだ時間に余裕があると言えるだろう。
そもそも研究所での仕事は基本的に研究することなので、葛西や上の人に呼ばれなければ研究所に行く必要は基本的にない。葛西からは特に何もなければ週に三、四回来ればいいと言われている。ただ、研究所にはいくつもの機材があるので、研究をするときには研究所に行かなくてはならない。研究所に行かない時、それは即ち、家でレポートや計画書などの書類を書く場合だ。それが葵の所属している研究所のいいところである。おかげで塔野家の家事を真夜一人に押し付けずに済むのだ。
流石に三人分の家事は中学生一人には重すぎるし、加えて真夜は受験生だ。成績優秀であり、学校のテストや模試で満点しか取ったことがないとはいえ、兄として妹に重荷を背負わせる訳にはいかないだろう。
それに父親である修士は基本的に夜遅くに帰って来る。疲れて帰る稼ぎ頭である修士に家事をやらせるのは忍びなく、だからこそ葵と真夜が当番制で家事を担当しているのだ。
「取り敢えず今日は研究所に行かなくてもいいか。……つーかさっきから何か忘れてるような……あ!!」
葵は思い出した。本日中に昨日の小学校での授業のレポートを提出しなくてはならなかったことを。
タイムリミットは今日の午後十二時ちょうど。それまでにレポートを提出しないと手当は貰えないし、信頼を失ってしまう可能性が高いのだから。
葛西に提出するレポートは基本的に要点だけをパソコンでワードファイルなどに書けばいいから楽なのだが、今回は指定されたレポート用紙に手書きで書かなければならない。
コンピュータ上ならば修正も提出も容易だし、何より書き終わるのが速いし読みやすい。それなのに、今回は手書きで書けと言う。葛西曰く、時代錯誤の老人が今回の特別授業のレポートを手書きで書くことを求めたらしい。指定の用紙もその老人が用意したというのだから、何ともはた迷惑な話だ。
「しまったああああああ!! 昨日は色々あって忘れてた……」
書く内容自体は頭の中にあるから問題ないのだが、手書きなのが問題なのだ。
パソコンを使ってタイピングするだけなら二時間もあれば終わる。しかし、紙に直接書くとなるとその倍の時間が必要になるのだ。それは単に葵が手書きに慣れていないというだけなのだが、この際言い訳は言っていられない。
葵は早速鞄から指定の書類を出してレポートを書き始める。
「速く速く速く速く……」
葵の頭はできるだけ早く終わらせることでいっぱいになっている。
先程タイムリミットは午後十二時ちょうどと言ったが、それは十二時ちょうどに葛西が完成したレポートを依頼主である老人に渡さなくてはならないという意味だ。
つまり研究所に辿り着くまでの時間と、研究所に入ってから室長室に辿り着くまでの時間も考えなくてはならない。
研究所までのルートはいくつかあるが、一番早いルートを使っても一時間は掛かる。さらに研究所にある室長室は三階の一番奥、つまり研究所の入口から一番遠いところにあるのだ。そこに辿り着く為に掛かるであろう時間は十五分ぐらいだろう。
だからこそ葵がレポートを書くのに使える時間はたったの二時間三十分。とてもじゃないが足りる訳がない。
「おーい葵? アンさん? 起きてるかい?」
部屋のドアがノックされる。声から判断するに声の主は修士のようだ。
「アンさんの生活必需品とか家具について話そうと思ったんだけど、時間あるかい?」
「スマン父さん!! 今ちょっと手が放せないんだ!!」
葵は部屋の中から修士の問いに答える。
「何やってるの葵? というか入ってもいいかい?」
「いいよ! つーかちょっと手伝ってください!!」
「? まあ入るよー」
葵は現在、机に向かって必死にレポートを書いている。それを見た修士は何とも言えない顔をしていた。
「……何を必死の形相で書いてるの、葵?」
「昨日小学校で特別授業したって言ったろ!? それのレポートを書いてんだ! 何を思ったか依頼主が手書きのレポートを求めて来やがってな、今必死に書いてるんだ!」
「へぇー手書きのレポートなんて今どき珍しいねぇ。分かった、少し手伝ってあげるよ。というかアンさんにも手伝って貰ったらどうだい? 葵が大変な思いをしていると知ったら手伝ってくれるんじゃないのかな」
「……忘れてたああああああ!! そうだ、アンもいるじゃん!!」
葵は早速ベッドで寝ているアンの肩を何度もゆする。すると突然アンの目が開き、上体を勢いよく起こした。
「え」
瞬間、ダンプカーが壁に激突したような音が部屋中に響いた。
寝ているアンを起こそうと肩をゆすった葵の頭はちょうどアンの頭の上にあり、そこでアンが勢いよく上体を起こすとどうなるのか。答えは簡単。衝突事故が起きる。
「ぐおおあああ……頭が……割れる……!」
葵は頭を押さえて部屋の床をゴロゴロと転がり始める。痛みを誤魔化す為だ。
「おはようございますマスター。……どうかなさいましたかマスター?」
頭をぶつけたのは葵だけでないので、アンも同様のダメージを額に受けている筈だ。しかし、アンは痛みを感じていないのか、いつも通りの無表情だった。アンにも痛覚はあると思っていたのだが、間違っていたのだろうか。
(あ、少し涙目になってんな。あんま顔に出てないだけか)
どうやら、表情に出ていなかっただけのようだ。
「マスター?」
「い、いや何でもない。ちょっと頭をぶつけてな……。っとそんなことはどうでもいい! ちょっと手伝って欲しいんだ!」
「了解しました。私は何をすればいいのですか?」
「即答ありがとう。で、これなんだけどさ。俺が用意した資料の内容をそのまま書き写してくれないか? 手書きで。日本語は書けるんだよな?」
葵は今しがた書いていたレポートを手本としてアンに見せた。
「はい。問題ありません。それではペンを貸して頂けますでしょうか?」
「ああ。これを使ってくれ。多分このペンが一番書きやすい」
葵はテーブルの上に置いてあった自分の筆入れから一本のペンを取り出してアンに渡す。次いで、昨日の特別授業に使う為に一昨日用意した資料の一部をアンに渡した。
「これはここに書いてくれ。この資料はこっちの紙で、こいつはこの紙に書いて欲しい。いけそうか?」
「はい。それでは始めます」
「ああ頼むよ。それでな、いきなりこんなこと頼んでさらに注文するのは非常に申し訳ねぇとは思うんだが、急いで書いてくれねぇか? 多少字が汚くても構わないから」
「了解しました。それでは、速度重視で書かせて頂きます」
「よろしくな」
そうして葵は自分の作業に戻る。タイムリミットは残り二時間。修士とアンの二人に手伝って貰っているこの状況なら何とかギリギリ間に合いそうだ。しかし、そう上手くはいかないらしい。
「ん? 電話だ。誰からだろう?」
突然、葵の部屋に電話の着信音が響き渡る。この着信音は葵の携帯のものではなかった。どうやら、修士の携帯が鳴っていたようだ。
「もしもし塔野ですが。……はい。はいそうです。……え? 本当ですか? ……今すぐに? 時間はズラせないんですか? ……はい。はい、そうですか……分かりました。今すぐ向かいます」
その電話の相手が誰なのかは分からないが、どう考えても真面目な話をしている。そして修士は確かに、「今すぐ向かいます」と言った。
「と、父さん……」
「……ごめんね葵。父さん仕事に行かなきゃならなくなったみたいだ。本当ならあと一時間はいられたんだけどね……」
「……いや、ありがとう父さん。ここまで手伝ってくれて本当に助かった。父さんに手伝って貰わなきゃもっと時間掛かってたんだ。それだけでも充分だよ」
「そう言ってくれると嬉しいよ。それじゃ行ってくる。葵も頑張って!」
「ああ、いってらっしゃい父さん」
修士は申し訳なさそうに葵の部屋を出て行った。葵の部屋のドアを閉めた後に急いで階段を駆け下りる音が聞こえたということは、急ぐ必要のある仕事が入ったのだろう。
優秀なのも考え物なのかもしれないな、と葵は思ったのだった。
「でもこれでアンと二人でやんなきゃならないのか……終わるか?」
最初よりもマシな状況であるとは言え、流石に二人だと間に合わないかもしれない。というより、間に合わない可能性の方が圧倒的に高いのが現状だ。
普段のレポートであれば提出するのが葛西である為、何日か締め切りを延ばしてもらえる。しかし、今回は外部の依頼だ。締め切りは何としても守らなければならない。
「考えてるヒマがあれば書かねぇとな……」
そう呟いて葵がレポートの続きを書こうとした瞬間――
「マスター。用意された資料は全て書き写しました」
「……は?」
葵は思わず自分の耳を疑った。葵がアンに渡した資料は一部とはいえ、全体の二割はあった。それをたった三分程度で終わらせるなど尋常ではない。
「え? あ、え……ん? ゴメンよく聞こえなかった。もう一回言ってくれるか?」
「マスターから受け取りました資料はすべて指定された用紙に書き写しました」
「……マジで?」
「はい」
葵はアンから書き終わったレポート用紙を受け取ってそれに目を通す。
「……すげぇ」
その出来栄えは完璧だった。全ての文字は手書きに見えない程に綺麗に書かれており、全体的なレイアウトも見やすく書かれている。加えて、葵の書いた資料は他者から見ても分かるように少し手直しされており、内容が分かりやすくなっていた。
「アン。お前、高性能なのは見た目だけじゃなかったんだな。まさか中身も高性能だったとは……」
「お褒めに預かり光栄です、マスター。それで、残りの資料は如何なさいますか?」
「……お願いします」
本当ならば葵の受けた仕事は葵が最後まで責任を持って終わらせるのが筋なのだが、背に腹はかえられない。
「了解しました。それでは残りの資料をお預かり致します」
「ああ頼むよ。俺は俺でこの資料を終わらせる」
そうして葵とアンが作業を始めて三十分後。見事にレポートは完成した。実は、アンは開始してからたった十分で全体の九割の資料を書き終えたのだ。なので残りも自分が書くとアンは言ったのだが、そんな彼女に葵は、「せめて一割ぐらい自分でやらなければならないと思うんだ」と言った。
そして二十分間、遂に葵はレポートを完成させる。
「終わったー!!」
「おめでとうございますマスター」
「お前のおかげだ、アン! マジで助かったぜ!」
「それはよかったです。マスターの助けになれたのでしたら私も嬉しいです」
アンは相も変わらず無表情だったが、その声から喜びの感情を読み取れる。
「それじゃアン。一緒に研究所に行くか? お前も留守番は嫌だろ?」
「はい。マスターと一緒にいたいです。それに色々なことを知りたいので、外に出られるのは私にとってありがたいことです」
「よし分かった。一緒に行こう。ただ、一つだけ約束して欲しいことがある」
「何でしょうか?」
「アンが自動機械人形であることは隠していて欲しいんだ。お前は俺の従妹ってことにしといてくれ」
「了解しました。私はマスターの従妹です」
「……あと、マスターってのもやめて欲しいんだけど」
「では、何とお呼びしたらいいでしょうか?」
「じゃぁ葵って呼んでくれよ」
「了解しました。それでは、これよりマスターのことを葵と呼ばせて頂きます」
「ああ。あらためてよろしくな、アン」
「はい。葵」
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