第4話 マイ・マスター
「ああーかったるい……」
研究所の一室で孫の手を使って背中を掻いている三十代後半の男は、オフィスデスクの上に高く積んである書類の束にサインをしながらパソコンでいくつものレポートに目を通している。
この男――葛西は神原研究所の室長だ。
「かったるい……」
かったるいが、きっちりと自分の仕事をこなしているのだから自分は無能ではないと彼自身は考えている。まぁ、無能と言われたことはないのだが。
それに、かったると感じるのは一度に二つの仕事をこなしているからかもしれない。書類のサインとレポートの確認はどちらも面倒な仕事だから、まとめて片付けようと考えたのは失敗だったということだ。
「あ? 鍵は開いてるから入って来ていいぞー」
ノックをする音を聞いた葛西は、来訪者に入って来るよう声を掛ける。
「それでは、お邪魔しますね」
入って来たのは葵。葛西の部下である研究員だ。まだ子供ではあるが、優秀である。今ここに来たのは小学校での特別授業の報告をする為だろうか。
「待ってたぞ葵。で、どうだったよ小学生は?」
「みんなとても純粋で元気だったのでとても楽しかったですね。俺の行ったクラスの子たちは特にいい子たちでしたよ」
「そっか。本当は俺が行きたかったんだけどなー。お前に指名が入っちゃったからなー」
「それは俺のせいじゃないですよ。諦めてください」
「はぁ……やっぱおっさんより若い男の方がいいのか……」
「別にそういうことじゃないと思いますけどね」
「それよりよー、担任の教師って女だったんだろ? 美人だった?」
「美人でしたよ。……というかもうサッサと帰りたいので報告始めますね」
「つれないなあ葵は。そんなことだから恋人の一人も出来ないんだぞ?」
「……放っておいて下さい」
葵は授業の様子と内容、そして子供たちと担任教師の反応などを葛西に話した。
「うし。ご苦労さん。それじゃー分かってるとは思うが、今日の授業のレポートを昨日渡した指定の用紙に書いて明日持って来い。特別手当はちゃんと出るから安心しろ」
「はい。それじゃ室長、お疲れ様でした」
「あ、ちょっと待て葵」
「なんですか?」
「火持ってねーか? つーかタバコ切らしちゃってよー。これが最後の一本なんだわ。新しいの買って来てくんねーか? 二箱ぐらい」
「俺は未成年ですよ? タバコは吸ってないし火も持ってない。ついでに言うと年齢的にタバコは買えません」
「そういやお前まだ未成年だったなー。まだ酒も飲めねーのか」
「飲めませんね。まぁたとえ成人になっても飲む気はありませんが。あんな脳細胞を破壊しまくる液体なんて」
「……お前は今、全国の大人たちを敵に回したぞ」
「アンタが反面教師だったからそう思ったんですよ。自分の酒癖の悪さを理解して下さい」
「可愛くねーなー。ここに来た時はもっと可愛かったのにー」
「人は成長するんですよ。それではまた。お疲れ様でした」
葵は室長室を出て行った。中々模範的な報告であったが、少し特殊だった。それは葵が授業の内容よりも生徒たちと教師の反応を重点的に話したからだ。かなり具体的であったが、葵は生徒たちと教師をどこか俯瞰的に、まるでモルモットのように見ていると葛西は感じた。
「まだ機械の方を信頼してんのかな、葵の奴は」
◇
「ただいま」
室長室を出た後に買い物を済ませて家に戻った葵は、そのままリビングに向かった。
「あ、おかえりなさい。兄さん」
エプロン姿でキッチンから出迎えてくれたのは葵の妹である塔野真夜(とうのまや)。彼女は中学三年生であり、容姿端麗成績優秀スポーツ万能といった完璧超人だ。葵以外に塔野家の家事を担当している一人であり、塔野家は彼女と葵がいなければ回らない。
「もう少しでご飯はできますけど、頼んでいた物は買って来てくれましたか?」
「おう、豆腐とショウガだったな。買って来たぞ」
葵は背負っていた鞄から豆腐とショウガを取り出して真夜に手渡した。
「ありがとうございます兄さん。私としたことが買うのを忘れていまして」
「これくらい構わねぇさ」
「それではもう少しだけ待っていて下さい。すぐに仕上げますから」
そう言うと真夜は豆腐とショウガを持ってキッチンに戻って行った。
葵はそのままリビングにある椅子に座ってテレビを見始める。ちなみにテーブルには数枚の皿が置いてあった。おそらく、食事の際に使う取り皿として真夜が置いた物だろう。
葵がテレビ番組を眺めていると、玄関の方から来客を伝えるベルが家中に鳴り響く。
「あ、お客さんですね。私が――」
「いや、真夜はそのまま夕飯作っててくれ。俺が出るよ」
そう言って葵は席を立って玄関に向かった。そして葵はドアに付いている小窓を見てみるが、暗くて誰がいるのかが判別できなかった。誰かがいることは確かではあるのだが。
(フム……誰なのか分かんねぇし、このまま無視するか?)
葵がそのままリビングに戻ろうとすると、また玄関のチャイムが鳴る。どうやらドアの外にいる誰かはこの家に用があるみたいだ。
「分かった分かった。開けてやるから」
誰かは分からないが、葵はそこそこに喧嘩が強いし、周りには武器になる物がある。仮に泥棒の類だとしても葵なら撃退可能だ。だから葵はそのまま玄関のドアを開けた。すると、そこにいたのは――
「初めまして」
そこにいたのは、薄いピンクのセーターと黒いミニスカート、黒いハイソックスを穿いている十代半ばくらいの女の子だった。それだけならばどこにでもいそうな女の子なのだが、特筆すべきは月の光を受けて淡く光る銀髪に、吸い込まれそうな青い目だろう。
彼女の目は葵の目の色と同じ。深く、綺麗な青。静けさや冷たさ、神秘を意味する色だ。その神秘的で不思議な雰囲気を持った少女は、葵と目を合わせて言った。
「これからよろしくお願いします。マイ・マスター」
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