第26話

 今日は一日優希にどう事情を説明するかと言う事ばかり考えていた。


 授業中もぼんやりしていて、ほとんど頭には入っていないが、幸いテスト直後、夏休み直前なので今すぐ困る事もない。


 一誠や一年生の二人にはどうしたのかと聞かれたけれど「妹と喧嘩してな」だけ返した。


 心配は――主に鼓ちゃんから――されたがそれ以上何も聞かれなかった。


 昨日部活があったので、今日は休み。授業が終わっても大した案が浮かばなかった俺は、ともかく頭を下げるしかないと心に決めて家路についた。


『ねえ遊馬』


「ユメどうしたんだ?」


 帰り道にユメが、少し震えたような声で話しかけてきた。


『今回の事流石にわたしには関係ないとは言い難いよね』


「ああ、そうだな」


『遊馬も分かっていると思うんだけど……わたしね、遊馬が傷つくのは嫌なんだ。


 遊馬が傷つくくらいならわたしが傷ついた方がまし。


 だから、何かあったら迷わず替わってね』


「わかった」


 俺も同じなんだけどな、と言うのは口には出さない。


 ユメの我儘から始まってしまったせいか、変にユメが責任を感じているような気がする。


「遅かれ早かればれただろうしあまり思い詰めるなよ」


『うん……ありがとう』


「こっちこそ気を使ってくれてありがとな。何かあったら頼む」


 二人してしんみりとしたところで家に着いた。


 最後ユメがお礼を言ったとき、明るくて健気な感じがして思わず意識しそうになったのだが、きっと気のせいだろう。


 一度首を振って家の中に入った。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 部活が休みで早く帰ったとしても優希はリビングにいる事が多い。居ない時には友達と遊んでいたり、勉強をしていたりしているらしい。


 俺と違って藍も優希も交友関係は広いので俺に比べ遊んで帰ってくる回数も多いのだけれど、今日は玄関で靴を確認済み。


 しかし、今日に限っては、リビングに優希の姿はなく、代わりに藍がいつも優希のいるソファに座っていた。


 そもそもあのソファは優希が寝るためのものではないけれど。


 藍は俺の姿を見つけるとソファから立ち上がり俺のところまで歩いてくる。


「お帰りお兄ちゃん」


「ただいま、藍」


「実はね、今日優希学校休んだの」


「そうか……」


 非難するような藍の声に俺はまともな言葉を返す事が出来ない。


 藍の顔を見ていることさえも辛くなり、下がりそうになる視線を必死に上向ける。


「兄ちゃんが、兄ちゃんがってね。お兄ちゃん、昨日優希と何があったのか教えてくれない?」


「ああ、昨日の事も含めて全部話すよ。良いよなユメ」


『わたしは良いけど……遊馬大丈夫? 自暴自棄になって藍にまで嫌われて良いなんて思っていない?』


「大丈夫だよ」


 とは言い難いかもしれない。自暴自棄になっているかと言われたらたぶんそうだろう。


 しかし、今更ユメを隠して藍に説明できる気もしないし、何よりもう藍の前でユメと会話をしてしまったのだから後戻りはできない。


 一人で会話をする俺を不審そうな目で見ている藍が強い口調で話し出す。


「お兄ちゃん、誰と話しているの? ユメって誰?」


「その事についても全部話そうと思うんだが、話すと長くなってな何処から話していいのかわからないから、昨日優希と話したところから話すな」


「わかったよ、お兄ちゃん」


「昨日俺が帰ってきてから珍しく優希が出迎えてくれたから、八月一日にライブがあることを伝えて藍の分と一緒にチケットを渡したんだ。


 その時に俺がライブに出ないとも伝えた」


「だから、優希夕御飯の時に複雑そうな顔していたんだね」


「そうなのか?」


「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんってバンドでどうやって歌っていたの?」


 優希にもされた質問を藍にまでされて思わず「どうして?」と問いそうになる。


「どうって言われても、普通に歌っていたけどな」


「カラオケの時みたいには歌っていなかったんだね」


「……俺がカラオケでどう歌っていたのか知っていたのか?」


「ごめんねお兄ちゃん。わざとってわけじゃないんだけど、たまたま優希とカラオケに行った時にお兄ちゃんを見つけて」


 秘密を知られていた事には驚いたし、動揺もした。


 しかし、表に出さないように気を付けつつ、平静を装って言葉を返す。


「だったら、なおさら普通に歌うしかなかったこと分かるだろう?」


「そんな事無いよ」


 勢いのある藍に思わずたじろぐ。


 どうして藍が此処まで必死になっているのか、俺には全く分からなかった。


「でも、気持ち悪……」


「確かに驚かなかったって言ったら嘘になるよ。


 あのお兄ちゃんがこんな声で歌うなんてって、そう思ったもん。


 でもね、そんな事すぐにどうでもよくなっちゃった。お兄ちゃんの歌、感動するくらいに上手だったから。


 綺麗で可愛くて、初めはちょっと嫉妬しちゃったけどこれが私のお兄ちゃんなんだって思うと誇らしくなるくらい」


「……それは藍だからだろ」


 思わぬ全肯定に頬が緩みそうになるのを堪える。


 俺の予想に反して藍が首を横に振った。


「優希はもっと感動していたと思うよ、始めてお兄ちゃんの歌を聞いた時ボーっとしたように聞き入っていたし、それ以来たまに私をカラオケに誘うようになったし。


 だから、お兄ちゃんが大勢の前で歌っているのを楽しみにしていたんだけどな……お兄ちゃんが本気で歌ったら誰にも負けないのに」


 正直耳を疑った。あの優希が俺の歌を気に入っていたなんてまるで考えていなかったし、むしろもっとも聞かせてはいけない相手だと思っていた。


 しかし、ここで「優希がそんな事思うはずない」と言っても話は進まない。


「残念ながら、本気で歌った俺よりも上手いんだよ」


「もしかして、さっき言っていたユメって人?」


「昨日の夕飯の後、俺先にお風呂入っていただろ?」


 一度藍の質問を横に置いておくようにして話を進める。


 藍も何かしら意図があると分かってくれたらしく、特に嫌な顔は見せなかった。


「その時に優希が入ってきたんだよ」


「たぶん落ち込んでいたからお兄ちゃんが入っていたのに気がつかなかったんだね。


 確かに混乱しちゃうとは思うんだけど……学校を休むほどなのかな?」


「それだけだったら俺と口きかない位だったんだろうな」


「何かしたの?」


 藍の目が俺を疑うように鋭くなる。


「藍、できれば今から起こることを見たままに受け入れてくれないか?」


「お兄ちゃん何を?」


 藍が不思議に俺を見たところでユメと入れ替わる。


 藍の顔が高い位置に行って、ユメは少し首を上に向け藍の表情を窺うように見た。


 藍は目を丸くして、言葉を失う。


「こういうことなの」


「お、お兄ちゃん……?」


「ううん。わたしはユメ。藍のお兄ちゃんだった遊馬から別れた人格ってところかな」


「え? っえ?」


 藍が突然現れたユメを見て、後ずさる。


「きゃっ」


「危ない」


 後ずさった時にソファに足を取られ倒れそうになった藍を、ユメが支えようと動いた。


 しかし、ユメの力では支える事ができず藍の下敷きになるように一緒に倒れる。


 幸いテーブルとソファの間に倒れたので、ユメ――俺――はとても痛い程度で済んだが、藍が無事かどうかの方が大切。


「藍、大丈夫?」


「あ……は、はい。だ、大丈夫……です」


「だったら良かった。動けるなら、どいてくれると助かるかな」


「ご、ごめんなさい」


 藍がユメの上に倒れた事に気が付き、慌てて立ち上がり、遅れてユメも立ち上がる。


『ユメ大丈夫か?』


「遊馬こそ痛かったでしょ?」


「あの……ユメさん」


「なあに?」


「助けていただいてありがとうございます」


「気にしないで、これでも藍の元お兄ちゃんなんだから。藍が怪我しなくて良かった」


 自然な流れてユメが藍の頭を撫でる。


 ユメの行動に全く違和感が無く、考えてみると事あるごとに藍の頭を撫でていたような気がする。


 撫でられている藍は驚いた顔をした後、目を細めてユメを見た。


「ユメ……さん。一つお願いしていいですか?」


「わたしにできることなら大丈夫だよ」


「じゃあ、歌を……歌ってくれませんか?」


「歌は何でもいい?」


「はい」


 藍が頷くのを見て、ユメが一度笑顔を作り歌い出す。


 古い曲だけれど、藍も知っているであろうドラマの主題歌。


 音域的には高めだけれど、低い音がなくて俺としては歌いやすい曲。


 最もうまく歌えるであろう曲を、ユメはいつものように歌い始めた。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



 ユメが一曲歌い終わると藍がボケっとした目でこちらを見ていた。


 ワンテンポ遅れてユメが歌い終わった事に気がついたのか、藍がハッとしたように話し始める。


「お兄ちゃんの歌……ですよね」


「学校でちょっと事件があってわたしが生まれて、ユメと言う名前と歌を遊馬から貰ったの」


「えっと、じゃあ……お姉ちゃん……ですか?」


「呼びにくかったらユメさんのままでも良いよ。わたしはいつも通り藍って呼んじゃうけど」


「お兄ちゃんから歌を貰ったってどういうことなんですか?」


「遊馬が裏声を出すとわたしが出てきちゃうの。


 それにわたしが出せるのはもともと遊馬が出すことのできていた声だけだから」


「じゃあ、お兄ちゃんがライブに出られないって言うのは」


「ライブは基本地声だけれど全く裏声を出さないなんてことはないし、何かの拍子に声が裏がえる事もあるよね。


 だから最初からわたしが歌っていた方がいいと言う事になったんだよ」


『そもそもユメの方が上手いからだろ』


「お兄ちゃんは納得しているんですか?」


「一つ約束をして納得してもらった……かな」


 俺の言葉がユメに聞こえていないはずはないが、全く気にも留めていない様子で藍との会話を進めて行く。


 藍は険しさのなくなった表情でユメに尋ねた。


「約束というのは?」


「遊馬の歌を遊馬のままではいけなかった所へ連れて行くこと」


「ユメさんの歌は本当にお兄ちゃんのものなんですね」


「わたしの歌でもあるけれど、やっぱり遊馬に貰った遊馬の歌かな」


「ちゃんとお兄ちゃんには戻れるんですか?」


「歌わずに十五分経てば元に戻るよ」


 藍はユメの言葉を咀嚼するように難しそうな顔をして、しかしはっきりと頷いた。


「優希にも同じことを説明してくれますか?」


「遊馬がすると言うなら」


『もちろん』


「それから、もう一つ……」


「どうしたの?」


「お兄ちゃんに戻るまでで良いので、甘えちゃってもいいですか?」


「えっと、いいけど……」


 恐らく、ユメは感覚の共有について話そうとしたのだろうが、一足遅く「お姉ちゃん」と藍に抱きつかれた。


 昔はよくこんな風に甘えてきていたが、ユメである今果たして藍が甘えているように見えるのだろうか?


 むしろユメがあやされているのではないだろうかなんて考える事で、藍の身体を意識しないようにしていた。

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