第9話 #1 MARIA CLUB
授業中だった。
それも"普通の"高校で教えられるような数学だ。
(正直、退屈かも……)
しかしながら、久瀬マリアこと久瀬昴流は完全に集中力を欠いていた。
これが
尤も、これは昴流が一般教養科目に興味がないわけではなく、問題はその授業内容にあるのだが。
「久瀬さん」
不意に鋭い声が昴流の耳朶を打った。
声の主は教壇に立つ四十がらみの女教師だ。彼女自身は
要するに、厳しいことで有名なのである。
そして、そんな彼女にとって久瀬マリアが研修生であることは何ら関係がなかった。
「ちゃんと聞いていましたか」
「も、もちろんです」
もちろん、聞いていなかった。ぼんやりしていて、完全に教師の声など右の耳から左の耳だった。
「では、この問題も解けますね?」
「……」
しかし、この道ン十年、百戦錬磨の教師にたかだかハイティーンの小娘(?)の嘘が通じるはずもなく、彼女はそれをわかった上で吹っかけてくる。
昴流は立ち上がった。
「むりしないで謝ったほうがいいわ」
そう囁いてきたのは隣の席の
「ん。でも、大丈夫。何とかなるさ」
昴流は朝霞にそう返し、「いや、でも、あれって……」と何か言いかけた彼女の声を背中で聞きながら、教壇へと向かっていった。レースのあしらわれた
女教師から差し出されたホワイトボードマーカーを受け取り、白板に書かれた問題を眺めること十五秒。やがてマーカーのキャップを外すと、昴流は問題に挑みはじめた。
途端、教室内がざわつき出す。
昴流はそれをノイズと切り捨て――途中、二、三回手が止まったものの、白板の実に半分を数式で埋めて二分と四十五秒で解き切ってしまった。ホワイトボードの前に立ってちょうど三分後のことだった。
「こんなもの、でしょうか?」
振り返ると先生がホワイトボードを見て、呆然と立ち尽くしていた。教室のいたるところで、クラスメイトが隣同士で囁き合う声が聞こえる。
「先生?」
「……あ、あなた、自分が何の問題を解いたかわかってるの?」
「え?」
昴流は改めてホワイトボードに目をやる。が、特にどうということのない数式の問題にしか見えなかった。
「それ、二年じゃまだ習わない高等方程式よ」
そう。これはもとより解かせるつもりのなかった問題だった。これを解く過程が今教えているところに応用できるからと、受験や模試の難問向けテクニックとして紹介しようとしていだけだ。女教師は昴流が授業をうわの空で聞いていたのを前提に、文字通り無理難題を吹っかけたのだが、逆にその高校二年生の教育要項には載っていない問題を解かれてしまったのだ。
「あ……」
昴流は思い出した。魔術の才能に長けるものは総じて知能も高いことを。それ故に、書籍館学院では一歩も二歩も進んだ独自のカリキュラムで授業を行っている。だからこそ、昴流もすでに修得済みの授業内容に退屈していたのだ。同レベルの生徒に囲まれている書籍館ではそのあたりの感覚が麻痺しがちだが、こういうときに違いを思い知らされる。
「まぁ、いいです。席に戻りなさい」
「あ、はい」
と、戻りかけた昴流だったが、ふと何かに気づいて足を止めた。
「あ、あの……」
「何ですか?」
「そっちの問題、五段目が間違ってます」
「……」
たいへん申し訳ないことに、重ねて面目を潰してしまったのだった。
未だやまぬざわめきの中、昴流は席に戻る。
「久瀬さんって、もしかして天才?」
朝霞だ。いつも生徒に厳しい先生に、昴流が図らずもひと泡吹かせることになったのが嬉しいのか、楽しげに、どこか熱っぽく聞いてくる。昴流は「まさか」とだけ答えた。書籍館ではこれが普通だとは言えないし、言ったところで自慢にしかならないだろう。
少し離れた席では、八重垣茉莉花がこちらを見て微笑んでいた。
その日の夕刻、
「そう。そんなことがあったのね」
昴流は寮の部屋で今日の授業中の出来事を火煉に話した。すると、彼女は先のような言葉とともに、楽しそうに微笑んだのだった。
「やっぱり魔法使いって頭がいいのね」
「そういう言い方、あまり好きじゃないんだけどね」
『魔法使い』という呼び方ではなく、"頭がいい"のほうが。
そもそも頭がいいとか知能が高いとか言っても、せいぜい頭の回転が速かったり理解が速かったりする程度だ。もちろん、
授業中のことだっていずれはクラスの誰もが習うことを先に習って、ひと足早くその場に立っていただけのことだ。その程度のことを"頭がいい"とは言わないのではないだろうか、と昴流は思うのである。
昴流と火煉は今、それぞれのライティングデスクに座っていた。実際に机に向かってしまうと背中合わせのようになるので、ふたりともキャスタ付きのイスを回転させて向き合っている。
夕食は先ほど食堂ですませた。当然制服は脱いでいて、昴流はハーフのカーゴパンツにフード付きのパーカー姿。火煉はデニムのロングパンツにブラウスをゆったりと着崩していた。今はまだいいが、風呂上りなどになると火煉は目のやり場に困るような恰好を平気でする。未だ昴流を『マリア』としか見ていないのかもしれない。
尤も、そういう意味ではこの学生寮に一歩入った時点で、すでに一瞬の油断ならないのだが。何せここは学校を離れたプライベート空間。皆それぞれ思い思いの恰好で過ごしている。夜の遅い時間や休日の朝などは寝間着で
「授業の進度に差があったらどうしようかと心配していたの」
と、火煉。
「もしこちらのほうが進んでいるようなら教えてあげようと思っていたのだけど、どうやらその必要もなさそうね。むしろマリアが周りに教える立場かも」
「まさか」
昴流は笑い飛ばす。
ふと、自分のことを男だと知っている火煉とはどういう関係なのだろう、と昴流は思った。
上級生、ルームメイト、或いは、このキルスティン女学園にいる間の保護者――いろんな言い方ができそうだが、おそらく『共犯者』というのが最も正確なのだろう。昴流をここにつれてきた首謀者で、一緒になって周りを騙しているのだから。
と、そのとき、部屋のドアがノックされた。
「はい」
こういうとき対応するのは決まって火煉だ。彼女がイスから立ち上がってドアを開けると、そこにふたりの少女が経っていた。
「あ、火煉様、こんばんは」
「ええ、こんばんは」
「あの、久瀬さん、いますか?」
「マリア?」
火煉は彼女たちの視界を開けるようにして脇に退き、こちらを振り返った。
「見ての通り、いるわよ」
「ボク?」
声は昴流のところまで届いていた。何の用だろうか。
「あ、佐々さん」
よく見ると訪ねてきた女子生徒のひとりは佐々朝霞だった。
「実は、できれば久瀬さんに勉強を見てもらえないかと思って……」
「ボ、ボク!?」
昴流は思わず目を丸くする。
入り口では火煉が「言ったそばからね」とくすくす笑っていた。まさか本当にこんなお願いが舞い込んでくるとは思わなかった。
「別にボクじゃなくてもいいと思うんだけどなぁ」
例えば、ここにいる火煉は学業でもかなり優秀らしいし、彼女でもよさそうなものだが……。
「マリアのほうがいいのよね?」
「え? ええ、まぁ」
しかし、どういうわけか彼女たちはマリアをご指名らしい。その隠された意図を火煉は見抜いていて、見透かされた朝霞たちは愛想笑いのように苦笑した。
昴流は知らない。
そして、火煉は知っている。
八重垣茉莉花、碓氷愛理、鳥海火煉の各派閥に続いて第四の勢力が生まれつつあることを。――それは、久瀬マリアの派閥である。
キルスティン女学園初の研修生で、校内ではひとりだけ外部の学校の制服を着、しかも、なかなかの美少女(!)でボクっ娘とくれば注目が集まるのは当然のこと。さらには、きて早々の模擬戦では茉莉花に一歩及ばなかったもののその実力は伯仲し、それ故に『
尤も、それは
因みに、名称は『MARIA CLUB』という。
火煉は朝霞たちがそのひとりで、勉強云々にはマリアを引っ張り出すための方便が含まれているであろうことを悟っているのだ。
「仕方がないなぁ。……火煉さん、ちょっと行ってくるね」
「ええ。いってらっしゃい」
困ったように言いながらも、カーゴパンツのポケットに携帯端末を突っ込み部屋を出ていく昴流を、火煉は微笑みながら見送った。
佐々朝霞たちに続いて、昴流は学生寮の廊下を歩く。
向かっているのはフロアの中心にある
「見た? 火煉様の笑顔」
「うん、見た見た。最近時々見かけるよね」
先を歩く佐々らふたりは少し興奮したように言葉を交わす。
「ね、久瀬さん。火煉様って部屋じゃあんなふうによく笑うの?」
朝霞が横に並んで問うてきた。
なお、朝霞は火煉のことを様付けで呼んでいるが、火煉派というわけではない。純粋に尊敬の念からくるもので、ほかのふたりに対しても同様に茉莉花様、愛理様である。
「まぁ、普通程度には笑ってるかな? というか、火煉さんってそんなに笑わない人なのかい?」
「うん。キルスティンが誇るクールビューティと言えば火煉様! それくらいクールよね」
「ねー」
それを聞きながら昴流は、どこかピンとこないまま「ふぅん」と相づちを打った。
確かに火煉は冗談を言ったりするタイプではないが、まったく笑わないというわけでもない。落ち着いた感じの美人なのは同意するが、どうにも認識に齟齬があるようだ。
「やっぱりルームメイトがいると違ってくるのかしら?」
朝霞が首を傾げているうちに談話室に着いた。
「はーい。これからマリア・クラ……じゃなかった、久瀬さんと一緒に勉強会をやります。参加したい人は勉強道具を持って集まってくださーい」
談話室には寮生が二十人ほどいただろうか。朝霞は彼女たちに向かって呼びかけた。もうひとりが隅にあったホワイトボードを引っ張り出してくる。
「久瀬さん? いくいくー」
「あたしもあたしも」
「勉強嫌いだけど、久瀬さんがいるならやるわっ」
応じたのは半数弱。にわかに談話室が騒がしくなる。……何なのだろうかこの盛り上がりは、と昴流は軽く引いた。
「はいはい。ワタシも参加シマース」
「「「 会長!? 」」」
そこにいた全員がぎょっとして、その声の主を振り返る――と、そこに褐色の肌に少しくすんだ金色の髪の、エキゾティックな少女がいた。
「なんで
「別に二階に住んでるからといってそこの談話室しか使ってはいけないという規則はないはずデース。ワタシがここにいてもノープロブレムね」
「そりゃそうですけど……ていうか、その変なしゃべり方やめてください」
「ダメですカ? せっかく噂の研修生と会うんだし、こういうのがいいと思ったんだけどなぁ」
まだ少し発音に特徴的な部分はあるものの、怪しげなガイジンの如き話し方が消える。別に日本語が不得手というわけではないようだ。
彼女は昴流へと歩み寄る。
「初めまして。六花=ヴァシュタールです。よろしくネ、研修生さん」
「あ、はい。久瀬マリアです。こちらこそ、短い間になると思いますが、よろしくお願いします」
握手を求められた昴流は、丁寧にそれに応じた。
六花=ヴァシュタール。
このキルスティン女学園の生徒会長であり、その位階は
六花はその名からわかる通りハーフである。母親が純粋な日本人で、中東の小国の富豪が日本にやってきた際に見初められ、嫁いだ。そうしてできた子が六花である。
異邦人である六花は当然のように外国慣れしているため、キルスティンでは数少ない海外遠征の経験があった。しかも、開催頻度の極端に低い空中市街地戦、別名摩天楼戦の経験者である。
空中市街地戦はその別名の通り、摩天楼を舞台にした機槍戦である。なぜ珍しいかというと、開催に法外な費用がかかるからだ。実際の都市部の摩天楼をステージとして利用するため、建造物用の衝撃吸収ジェル加工や対ビームコーティングを施していたとしても損壊や崩壊の危険がつきまとう。そうでなくても都市の広範囲を無人にし、交通規制を行わなければならないのだ。よほど機槍戦に入れ込んだ酔狂な国でしか開催されない試合形式なのである。
六花は中東のとある世界都市で行われた大会で摩天楼戦に出場したことがあり、単純に機槍戦の経験だけなら火煉ら
「ていうか、六花会長も勉強会に参加するんですか? 三年生なのに?」
と、朝霞。
「生徒会長と言っても不得意な科目もあるんだヨ?」
「堂々と言うようなことじゃないでしょう……」
彼女は呆れたようにこぼすと、何か言いたげに昴流へと振り返った。
「ああ、うん。ボクのほうは大丈夫かな。高校の範囲ならひと通りのことはできると思うから」
「あ、できるんだ……」
そして朝霞は、今度は感心したような、呆気にとられたような声を出したのだった。尤も、昴流としては、できるのと教えることは別だと思うのだが。一般に、できてしまう人間ほど教えるのに向いていないという話もある。
と、そのとき、昴流のカーゴパンツのポケットの中で携帯端末が着信を告げた。
「ちょっとゴメン。……げ」
そのディスプレィを見た瞬間、小さくうめき声を上げてしまう。
そこに表示された名前を見て、出るべきかどうか真剣に悩んだ。これから勉強会なので、いちおう出ない言い訳は立つだろう。問題を先延ばしにしている感はあるが。
「なぁに、彼氏?」
「ま、まさか!?」
彼氏どころか彼女もいない。むしろ彼氏がいたら大問題だ。
茶化すような口調で後ろから覗き込んできた六花から、昴流は慌てて画面を隠そうとして――ピッ。その拍子に指が触れたのか、軽い電子音が鳴った。
「あ」
続けて空間ウィンドウが開き、そこに映し出されたのは――
「え、嘘……」
「あれってもしかして……」
「なんで? どうして?」
近くにいてそれを見た少女たちが口々に戸惑いの声をもらす。
ウィンドウに映っていたのは、艶やかでやわらかそうな色素の薄い髪に、涼しげな二重の眼をした息を飲むほどの美少女。
「久しぶりですね、マリアお姉さま」
昴流にはわかった。彼女が穏やかな声とは裏腹にこの上なく怒っていることを。
(う、うわあ……)
正直、回線を切って逃げ出したかった。
彼女は今話題のナンバー1シンガー、若干十六歳の
「う、うん。久しぶり、奏音」
そして、昴流の妹、
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