第13話 朝のサイクリングロード

 のっぽさんが帰ったのは、真夜中の2時を過ぎた頃だった。あれほど強く降っていた雨は、いつのまにかぱたりと止んでいた。

 その後太一は久しぶりに布団に潜り込んでみたが、ビールのせいか目が冴えて寝付けなかった。思い出してみると、太一はもう2週間以上まともに眠っていなかった。電灯を落とした6畳の部屋で、太一は寝転んだまま眼をしっかりと開いて、天井をずっと見つめていた。疲れているはずなのに、太一の身体の奥からは熱を帯びた感情や観念がいくつも沸き起こっていた。それらは言葉にならないうちに、後から生まれた感情や観念に押しつぶされて、次々に弾けて消えていった。その現象は何度も何度も繰り返されて、一向に鎮まる気配を見せなかった。天井を睨んだまま、太一はその不思議な現象に身を任せていた。というよりは、踏ん張って耐えていた。

 とても無理だ。眠れるわけがない。太一は諦めて身を起こした。時計は4時前を指していた。今の季節では、もう外は白み始めていた。部屋のカーテンは、まるで蛍のように発光して全身を淡い色彩に変えていた。太一は立ち上がり、寝ていたままの薄手のスウェット上下にスニーカーを履いて外に出た。東の空の向こう側から発した光は正体を現さぬまま、まずは辺りを白色に塗り、そしてその色を刻一刻と重ね塗りしていった。街はもううっすらと姿を現していた。アパート前の路地に立つ街灯たちは夜勤の役目を終えて、もはや自分自身を橙色に染めることしか出来なくなっていた。

 太一は雨に濡れた路地を抜け、まだ薄暗い国道に出た。道路の路肩に大きな水たまりがいくつもできていた。アスファルトに出来た轍にも水が残っていて、たまに通るトラックがそれを跳ね飛ばした。それ以外に音を発するものはなかった。国道は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。太一は、ゆっくりとした足取りで国道を歩いた。そして近くの川に向かった。

 川が見たかったわけではない。川沿いの道なら、人に煩わされず独りでいることができると考えたからだった。川に到着してみると、太一の予想どおりそこには太一の他に誰もいなかった。この時間なら当然だった。さすがに朝の4時にジョギングをする人はいない。太一は、川に沿ったサイクリングロードを上流に向かって歩き出した。


 しばらく歩いてから、ようやく太一は昨日の、というよりはほんの2、3時間前ののっぽさんとの会話を振り返ることが出来るようになった。しかし、それはあまりにも濃密で、あまりにも多くの論点があり、あまりにも深刻で残酷だった。加えて、あまりにも困難な話だった。

 駄目だ、今の体調ではとても頭を整理する力はないと、太一は判断した。そして考えることを放棄した。眠ることは出来なかったが、今の太一はかつて経験したことがないほどの疲労を感じていた。全身が重く力が入らなかった。両手足の関節は、疲れのせいか軽く痛みさえ生じていた。しかし、太一の身体の中心部は相変わらず熱を発し続けていた。少し発熱しているのではと、額に手を当てて確かめたほどだ。疲れているのに、熱のせいかはっきりと覚醒していた。太一はとぼとぼとサイクリングロードを進んだ。今の太一には、他にすることは何も思いつかなかった。

 太一は上流に向かって歩き続けた。進むにつれて、周囲の景色は少しずつ変化して行った。やがて辺りには少しずつ背の低い木が見られるようになった。その下を、季節の野草が勢い良く辺りを覆っていた。気がつけば、まもなく夏が近づいていた。名前のわからない草花が梅雨のおかげでたっぷりと水分を吸い込み、すくすくと成長していた。そしてようやく顔を出した太陽の光を浴びて、さらに活き活きとしていた。彼らはおそらく、数日のうちにサイクリングロードの管理人によって草刈り機で切り取られてしまうだろう。それが惜しいと感じるほどの勢いを感じた。

 太一は先を進んだ。サイクリングロードの脇には公園が何度も現れた。もちろんこの時間には誰もいなかった。主人のいないブランコやジャングルジムはその他の遊戯道具が、雨に濡れて寂しそうに佇んでいた。ディズニーのダンボに似せた耳の大きな遊具が太一の気を引いた。ダンボのちょうど眼の下に雨の雫が残っていて、まるで彼は泣いているように見えた。「大丈夫。もう陽が上がったから、濡れていてもすぐに乾くよ。」と太一は独り言を言った。

 やがて、川の両脇は大きな森林公園になった。風景は一変し、辺りには大きな木がいくつも植えられて草花を圧倒するようになった。大きな樹々が立ち並んでいるので、朝になったにもかかわらずむしろ薄暗かった。その樹々が作る影のために、彼らの配下には光を浴びなくとも生き残ることのできるシダのような植物だけになった。そして、その下を去年の落ち葉が一面に覆っていた。どれも細かく千切れて小さくなっていた。

 見上げると、辺りの樹々はどれも生まれたばかりの葉を枝いっぱいにつけていた。黄緑色をした葉たちは、一枚一枚が背伸びをするように広がり、貪るように朝の陽を吸い込んでいた。陽をまともに受けた葉は、黄緑と言うよりはむしろ黄色に輝いて、熱を発しているようにすら見えた。6月の新緑がこんなに生命力に満ちているとは、今日の日まで知らなかった。太一は率直に驚いた。


 このとき太一は、唐突にKのことを考えた。そしてまた、自分はKを見捨てたのだ、とこれも閃きのように直感した。太一はあの日のことを思い出した。Kが撮影した少女の写真を見て、太一は何も言わずに彼の家を出た。それが最後だった。それきりKには会っていない。あの日、いや、次の日でも太一はKに話し掛ける事が出来たはずだった。Kに「君の気持ちはわかるよ。」と。しかし、太一はそうしなかった。

 もしかしてKは、あの日太一に事件をことを話すつもりだったのではないか、と太一は思いついた。パラダイスのワープロと殺された少女たちの写真は、あまりにも無防備にKの部屋にあった。それは、太一に見せるつもりだったからじゃないのか?。シャワーを浴びて頭を冷やしたKが、写真を太一に示しながら「俺が全部やったんだ。」と話す姿が目に浮かんだ。「このワープロで犯行声明を作った。全部俺が悪いんだ。」

 もちろん、全ては仮定の話でしかない。しかし、太一が何かしていたら、いや、あの日太一がKの部屋に留まってさえいたら、少なくともKは、あんな死に方をせずに済んだんじゃないのか?。

「Kを見捨てた。」その言葉は丁寧に研がれたナイフとなって、太一の喉元に突き刺さった。呼吸が止まり、息が出来なくなった。立ち止まって両手で顔を覆い、太一はその物理的な生々しい痛みに耐えた。後悔、という表現では生ぬるいほどの感情が太一を支配した。太一はこの時ほど、今自分が生きていることを恥じたことはなかった。

 これまでも太一は、自分は生きる価値のない人間だと思ってきた。この世界に、太一が存在する理由は何もないとずっと考えてきた。しかし、それはただ言葉を弄んで、悲劇を気取った自分に酔っていただけだ。太一はそうはっきりと理解できた。太一がKに対してしたことの卑怯さに比べれば、これまで感じた悲しさは子供の遊びでしかなかった。これは耐え難い苦痛だ、と太一は考えた。Kはすでに死んでいた。もう太一はKに詫びることはできないのだ。もちろんKは人を殺した。何人も殺した。それは事実だ。しかし、太一にとっては、Kは実質的にたった一人の親友だったのだ。

 これは僕個人の問題だ、と太一は考えた。太一にしか感じることのない痛みだと。Kの行動の問題ではなく、太一が選択した行動の、倫理的な問題だと。

 太一は、ゆっくりと走り出していた。走らずにはいられなかった。公園を出た後も、川沿いのサイクリングロードは続いていた。路面はアスファルトから砂利道に変わり、道幅は一気に細くなった。気がつけば川幅も狭くなっていた。対岸にはもう道はなく、岸ぎりぎりに生えた樹木が光を求めて水面を覆うように枝を伸ばしていた。

 太一はここまで来たのは初めてだった。砂利道のサイクリングロードは、徐々に蛇行するようになった川の流れに沿って先に伸びていた。曲がっているために先が見えず、いったいどこまで続いているのか見当がつかなかった。道幅は2メートルほどになり、砂利はところどころが剥げて土がむき出しになっている場所も増えてきた。おそらく定期的に道の手入れをする人はいないのだろう。もはやサイクリングロードとは呼べない道だった。

 太一は、見たこともない道を走っていた。太一が住んでいる町からどれだけ離れたのか、ここがどこなのか全く分からなかった。しかし、太一は走るスピードを上げた。両腕を振って身体のバランスを取りながら、目的もなくただ前へ進んだ。太一は道が続くことに感謝していた。ただ進むことができるからだ。今の太一に出来ることは他に何もなかった。呼吸が荒くなり、全身から汗が噴き出した。構わず太一は腕を振り、膝を振り上げて前へ進んだ。心臓が高鳴って破裂しそうだ。それでいいじゃないか、と太一は考えた。そしてさらにスピードを上げた。

 もはや砂利道は完全に終わり、完全な土の道になった。昨日の雨でところどころがぬかるんでいた。たまに現れる水たまりを避けながら、太一は先を進んだ。道に傾斜が付くようにになり、まるで山道のようになった。坂を登りきると下り坂になり、また登り道になった。それを何度も繰り返すうちに、太一は身体が熱に馴染んできていることに気づいた。相変わらず全身から汗が流れ続けていたが、その冷たさが気にならないほど、頭から足の先まで熱がまんべんなくゆきわたっていた。呼吸の苦しさを感じなくなって、手足がスムーズに前に出た。このままずっと走れる、と太一は思った。山を越えたのだ。


 Kに会いに行こう、と太一はまた閃くように思いついた。Kは死んでいる。それは事実だ。しかし、それは大した障害ではない。これは太一個人の問題だ。実家は確か青森県だ。そこに行かなくてはならない。そして太一は、その言葉をもう一度、今度は口に出して繰り返した。「Kに会いに行こう。」

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