第14話 Kの実家
サイクリングロードから家に戻った太一は、汗まみれの洋服を急いで着替えた。そしてすぐに大学へ向かった。大学に到着すると、太一は真っ直ぐに学生課を訪れた。目的は、もちろんKの実家の住所を知るためだった。
Kの名前を告げると、応対した若い受付職員の女性は明らかに戸惑いを見せた。フレームレスの眼鏡をかけ髪をきちんとまとめたその女性は、太一を待たせたまま奥に入り別の職員と何事か相談していた。それから、彼女はようやく戻ってきて、太一に理由も説明せずにただ「教えられない」とだけ答えた。
「なんで教えられないんですか?。」
「Kさんに関することは、伏せるように指示されているんです。」と若い女性職員は答えた。
おそらく沢山の報道機関に対応して、学生課の職員たちも疲れていたのだと思う。太一も、彼らの事情は推察できた。しかし、ここで引き下がるつもりは、今日の太一にはなかった。
「Kさんが、今世間の注目を浴びる犯罪者である事は十分理解しています。彼の住所を開示することが、大学にとってナーバスにならざるを得ない問題であることも理解できます。しかし私は、Kさんと必修科目のクラスの同級生です。彼とは、とても親しい間柄でした。今、彼は亡くなったが、世間の目はとても厳しい。事情が事情だけに、ご家族の心労は想像を絶します。Kさんと親しくお付き合いをさせていただいた者として、Kさんのご家族やご親族の方に僅かでも手助けをしたいんです。ですから、大学側もその支援をしてくれませんか。」
太一は、以上のような論理を大声を張り上げて披露した。応対した女性職員や、その奥の職員たちまでもが太一の勢いに圧倒された。その時の太一の様子は少々常軌を逸していて、まるでのっぽさんが乗り移ったかのようだった。
その後、太一は学生課がある棟の裏口に呼ばれた。ドアを開けて出てきた年配の職員から、Kの実家の住所と電話番号が書かれた手書きのメモを受け取った。
太一はすぐに大学を出て、その足で上野駅に向かった。そこから東北新幹線に乗って終点の盛岡駅まで行った。盛岡駅からローカル線に乗り換え、さらに約2時間ほどかけて青森駅に到着した。その日はここで泊まることにし、駅の窓口で駅に隣接するホテルを紹介してもらった。太一は駅から真っ直ぐにホテルに行ってチェックインを済ませ、それから駅前の大きな書店で、Kの実家がある町の2万5千分の一の白地図を購入した。書店のすぐそばにあった吉野家で牛丼を食べて夕食とし、それからホテルの部屋に戻るとすぐにベッドに潜り込んだ。慣れない部屋のはずなのに、不思議とその夜は熟睡することが出来た。
翌日、太一は青森駅から再び電車に乗り、Kの実家の最寄り駅に向かって出発した。車両はたったの二両編成で、そのせいかとても混雑していた。電車は青森市内の平野部を抜けて山間部へと進んでいった。空は曇っていたが雲が高かったので、太一は車窓から遠くまで見渡すことが出来た。青森駅から離れるにつれて住宅は少なくなり、代わりに樹々が生い茂った小さな山々が増えてきた。時折林檎を栽培していると思われる開けた丘があり、その隣にはまた森が続いた。その間に点々と家があり、停車した駅前にだけ商店や公共機関らしき建物が密集していた。ようやく目的の駅に到着した時は、朝に出発したはずなのにもう正午を回っていた。
太一は、前日の夕方に購入した地図を片手に、駅から徒歩でKの実家を目指して歩き出した。駅の周囲には、2階建の一軒家がいくつも寄り添い合うようにして立ち並んでいた。家々は、皆その街の僅かな平坦地に建てられていた。山間の町だったが、建物だけ見れば東京近郊と何ら変わることはなかった。果たして、Kの実家は駅から徒歩5分弱のところにあった。
テレビのニュースやワイドショーで何度も目にした家が、今太一の目の前にあった。Kの実家の前の道路には、不自然に2台の車が停車していた。その1台の前では、坊主頭でTシャツにジーンズを履いた若者が、車に寄りかかって退屈そうに煙草を吸っていた。2台とも、記者とカメラマンが乗った報道機関の車であることは容易に想像できた。
太一は彼らに構わず、Kの実家の玄関の前に立って呼び鈴を押した。昨日青森駅に着いた時と、ついさっき最寄りの駅に到着した時の2回、太一はKの実家に電話をかけていた。だが、何回ベルを鳴らしても電話は繋がらなかった。今、呼び鈴を3回鳴らしたが、人の気配は感じられなかった。太一が、玄関から2階の窓を見上げると、引かれたままのカーテンが少しはためいたように見えたが、気のせいかもしれなかった。太一は、諦めてKの実家を後にした。
太一は前夜のうちに、次の打ち手を思いついていた。その山間の小さな町では、墓地は2箇所しかなかったので、そこを訪ねればどちらかにKの実家のお墓があるはずだと考えた。最初に訪ねた墓地で、Kの実家のお墓は見つかった。
その墓地は、傾斜の厳しい丘の斜面を削って、階段状に墓石を並べていた。太一は墓地に到着してから、そこで掃除をしていた50歳前後の女性に声をかけ、Kの姓のお墓がここにあるか尋ねた。その女性があっさりと、すぐそこにあると答えたので、太一は彼女にKの実家の住所を教え、確かめてほしいとお願いした。彼女は怪訝な表情をしたが、黙ったまま墓地に隣接するお寺に向かって歩いて行った。彼女は5分程してから戻ってきて、間違いないと教えてくれた。おそらく、その女性はそのお寺の人だったのだろう。太一はお礼を言って彼女と別れた。
さて、と太一は考えた。墓地の隣には、生活用品を販売する雑貨屋があった。醤油から洗剤から週刊誌まで置いている、田舎の街によくある便利な店だ。そのお店の軒下に、青いポリバケツに挿されたお花が売っていた。お墓参りの人のために売っているのだろう。太一はそのお花を2束購入した。
この時間、墓参りに訪れる人は太一の他に誰もいないようだった。さっき掃除をしていた女性の姿も今は見えなかった。辺りに音を発するものは何一つなく、墓地は静まり返っていた。お花を手にした太一は、傾斜のきつい階段を登り、さっき教えてもらったKの実家のお墓の前に立った。ブロック塀で区切られた一角に5つほどの墓石が並んでいて、小さいものは古くからのものらしく、石に掘られた文字はもう判読できなくなっていた。一番新しく大きな墓石には、Kの姓がはっきりと刻まれていた。
もちろん太一は、そこにKが葬られているとは限らないとわかっていた。なにしろ、まだKが死んでから10日も経っていなかった。彼はあんな犯罪を犯した人物であるし、Kの遺体は警察が検視などでしばらく預かるのではないかと想像した。それに、世間の注目がある中でKのお葬式ができるのか、太一には全くわからなかった。Kの骨は、まだここにはないと想像する方が、太一には自然に思えた。
しかし、今の太一にはそんな推測は何の問題にもならなかった。今の太一は、「象徴的に」Kに会おうと考えていた。たとえ他人が何と言おうと、これは太一自身の問題だった。今の太一は全く動じず、揺るがなくなっていた。左手にお花を2束持ったまま、太一はKの実家のお墓の前にしばらく立っていた。しばらくは何も考えず、頭を真っ白にして立っていた。
やがて太一の脳裏に、以前Kが口にした美学という言葉が浮かんできた。彼自身は、その内実について何も教えてはくれなかったが、今の太一には、それがうっすらと理解できる気がした。おそらくKは、成長過程で周囲から孤立していくうちに、自分の中で彼だけの美の王国を作り上げたのだろう。そして、彼はその中に逃げ込んで独力で王国の神話を書き、それを実行に移したのだ。
しかし、その神話は社会からすれば到底意味不明なものだった。Kの内面の王国は、周囲に受け入れられる可能性は全くのゼロだった。少女を切り刻んで惨殺するなんて、太一にも認められるはずがなかった。Kの美学は、やはり大部分は理解不能だった。それは、恐ろしく稚拙で馬鹿げていて残酷だった。だが、そのくだらぬ美学はしっかりとKという人間に取り憑いて彼を離さなかった。そして、Kは「それは、俺一人のものではない。」と言った。彼は、「私の兄弟たちが後に続く。」と犯行声明にも書いた。つまり彼は、その美学がどこかの誰かに承認されることを求め、その可能性に賭けていたのだ。精神的に不安定になり、クタクタに疲れ果ててまで彼は少女を殺し続けた。
考えてみれば、Kの一番側にいたのは太一だった。Kの美学を止めるための引き金を引けるのは、太一だけだったかもしれない。「君は間違ってる。」と、Kに言える唯一の場所にいたのかもしれない。そこまで考えて、太一は首を小さく左右に何度も降った。無駄だ。今こんなことを考えたって全くの無駄だ。何もかも、後戻りできないところまで来てしまっているのだから。
今日太一が青森県まで来たのは、何より「Kに詫びたい」という理由からだった。しかしお墓の前に立った時、その贖罪の意識は太一の中で徐々に薄れていった。むしろ、Kを理解すること、彼の行動を真剣に考えて自分の意見を持つこと、それが彼に対する公正な態度だという気がしてきた。それが、Kの一番の友人としてあるべき姿だと思えた。
のっぽさんは、「問題の発生源を絶つんだ」と言った。太一とKにとって、問題の発生源とは『諦め』だった。『諦め』が、太一たちをこんな非道い境地まで連れて来たのだ。二人が諦めてしまったのは、太一たちが醜いせいだった。だが、と太一は考えた。太一もKも自ら選んで醜くなったんじゃないのか?。小さい頃から笑うことを止めてしまい、人を羨んだり妬んだりしてばかりいたんじゃないのか?
「確かに僕は醜い。だけど、僕にはプライドがある。」と、太一はKの家の墓石に向かって話しかけた。「だから、K、僕は君のしたことを認めない。」
ふと太一は、中学の時に自分を虐めていたクラスメイト達を思い出した。普段なら、太一は彼らの顔を思い出すだけで萎縮し怯えていた。虐められた日々の記憶は、逃げ出したくなるほどつらいものだった。しかし、今日の太一は彼らと闘おうを考えた。にやけた表情をした男たちの顎に、自分の拳を打ち込もうと考えた。
太一は、昔『あしたのジョー』で見たフックの打ち方を思い出し、左手に花束を持ったまま利き腕の右手を90度に曲げて固定した。戦わなくてはならない。諦めずに。そうしなければ自分のプライドを守れないし、何より女の子を守ることもできないじゃないか。太一は、右腕を90度に固定したまま、腰を捻って右腕を自然に背後に回し、それから腰の回転だけを使って腕を前に振った。振り切った右腕の拳を自分の顔の前で一旦止めると、もう一度、腰を捻って右腕を振った。その動作を何度も繰り返した。
ふと、人の気配を感じて太一は反射的に振り返った。気づかないうちに、太一からほんの2、3メートル離れたところに、まだ十代の女の子が立っていた。その少女は、真っ直ぐの髪をショートカットにし、眼は細く切れ長で、肌は真っ白だった。グレーの薄いカーディガンを羽織ってボタンを全てきちんと止め、足首まで覆う白いフレアスカートを着ていた。背は150センチくらいしかなく、その上とても華奢な体つきをしていた。
「兄の、知り合いの方ですか?。」
その少女は、口を開くなり太一にそう尋ねた。ゆっくりとした、一語一語を嚙み締めるような喋り方だった。『兄』という言葉から、すぐにこの少女がKの妹だと解った。そして、ニュースをもし信じるなら、Kがずっと傷つけてきた妹であることも、太一はすぐに理解した。
少しの間、太一とその少女、Kの妹は顔を合わせお互い無言のまま向き合っていた。Kの妹は、太一が答えるのを待っていた。太一はそれを解っていたが、なかなか言葉が出てこなかった。何を言うべきか逡巡していたわけではなく、単純に言葉が思いつかなかった。その時の太一は、自分の身体の奥にいる太一が、彼女に話す言葉を思いつくのを焦ることなく待っていた。待ちながら、彼女を見ていて不審の思いを感じるのを抑えられずにいた。
彼女は、太一の前に立って太一を見つめながら、実は太一を見ていない気がした。というより、彼女は何も見ていなかった。彼女の目の焦点は、この世とは別の場所に合っているようだった。太一は、人は時にこんな眼をすることを知っていた。それは、もちろんKの眼から学んだことだった。
「僕は、Kさんの友達です。親友でした。」
身体の奥にいる自分が、彼女にそう答えた。それは一切の嘘偽りなく、今の太一が語るべき言葉だった。彼女は何も言わなかった。少しだけ、唇が歪むがわかった。それは、見ているのがつらくなる歪みだった。太一はまた、のっぽさんの言葉を思い出した。「人は誰だって、怒っている顔や泣いている顔は見たくない。見ていてこちらまでつらくなってくるからだ。」
それからKの妹は、突然びくんと身体を大きく震わせた。太一は思わず彼女に駆け寄ろうとした。そして、彼女を支えようとした。普段の太一からは考えられない行動だった。
しかし次の瞬間、Kの妹は両手を頭上に振り上げた。手にはゴルフのドライバーが握られていた。太一は、その時まで彼女がそんな物を持っていることに気がつかなった。Kの妹は、頭上でゴルフのドライバーを両手でしっかりと握り締め、自分に近づいてきた男の頭を狙って渾身の力でそれを振り下ろした。
太一の左のこめかみに、激しい衝撃が走った。骨が軋む鈍い音が聞こえ、一瞬目の前が真っ暗になった。太一は短い悲鳴を発して、その場に倒れこんだ。そんな太一の姿をKの妹は全く意に介さず、もう一度ドライバーを振り上げ、太一の身体に次の一撃を加えた。
「ぎゃっ!」
今度は、太一の脇腹を激しい痛みが襲った。その痛みに耐えかねて、太一は身体を地面に横たえたまま、何度も回転させてその場から逃れようとした。しかし、容赦なく次の一撃が、今度は太一の太ももに加えられた。さらにもう一度、今度は頭を覆っていた左手にドライバーが振り下ろされた。手に持っていた花束が、太一の目の前で飛び散った。衝撃で捥げてしまった花びらが、太一の周りにはらはらと儚く舞った。
このままでは殺されるしかなかった。一瞬の間があって、太一がKの妹を見上げると、彼女はドライバーを杖のように使って身体を支え肩で大きく息をしていた。疲れているのだ。今しかないと思い、太一は突然立ち上がって走り出した。K家のお墓の前の通路を全力で走り抜け、傾斜のきつい階段を、太った身体で転げるように駆け降りた。一気にその狭い墓地の外に出て、さっき花束を買った雑貨屋の前まで来た。そこでようやく太一は歩き出した。Kの妹は、追ってはこなかった。
太一は、ゆっくり駅に向かって歩き出した。額から流れ出た血が目に入るので、太一は背負っていた小さなリュックからタオルを取り出し、それを右手でこめかみの辺りにあてて止血した。傷口を中心に、頭が心臓の鼓動に合わせてズキズキと痛んだ。それ以外にも、身体のあちこちから痛みが襲ってきた。左腕の痛みも酷かったが、特に左の太ももがつらかった。足を踏み出すたびに、振動が骨に響いて激痛が生じた。折れているのかな、と太一は思ったが、これまで骨折した経験がないので正確なことはわからなかった。
太一はとぼとぼと駅へ向かって歩いた。頭からは出血し、左足を引き摺りながらだったが、今日ここに来た目的は十分に果たしていた。
「よし、いいだろう。」
と太一は口にしてみた。自然に口元が緩み、太一は自分が笑っていることに気がついた。多分、数ヶ月ぶりのことだった。
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