第12話 のっぽさん4 暴力、あるいは時間について

「おい、ほんとうにひどい顔をしているぞ。」

 太一が玄関のドアを開けると、のっぽさんは顔を合わせるなりそう言った。のっぽさんは、太一がずっとバイトを休み続けているので、心配してわざわざアパートを訪ねてくれたのだ。Kが死んでから1週間たった夜だった。時計は23時を差していた。

 太一は、のっぽさんを何もない殺風景な部屋に案内し、座布団を勧めた。珍しく太一は気が利いた。久しぶりに顔を合わせて、お互い何を話したら良いかわからなかった。二人は、座ったまましばらく黙っていた。その沈黙を破ろうと、太一はテレビをつけた。23時のニュース番組が、Kの事件を報道していた。太一はすぐにテレビを消してしまった。

「病気なのか?。」

 のっぽさんがついに口を開いた。

「違うんです。」

 太一は即座に答えた。そして、簡単な言葉で、のっぽさんに理由を伝えた。

「今の犯人、僕の友達なんです。一番仲のいい友達でした。」

「そうか。」

 のっぽさんは、それだけ言ってまた黙ってしまった。そして、いつものようにしばらく何事か考えていた。太一は、自分が言った言葉の重みにハッとしていた。「友達でした。」それは過去形だった。

 二度目の沈黙は、さっきをはるかに上回る重苦しいものだった。しかし、太一はこの重みをできる限り感じようと考えた。神経を集中して、その正確な重量や、肌触りまで記憶しようとした。それは、Kがしたことの重みだった。減じたり、消し去ったりすることはもう不可能だと、太一はわかっていた。

「飲もう。」

 のっぽさんは、持ってきたコンビニ袋から缶ビールを2本取り出し、1本を太一に勧めた。いつもなら遠慮するところだが、今日の太一はそれをしっかりと受け取った。袋の中には缶ビールが沢山入っていたので、太一はそれを冷蔵庫にしまった。それから二人は、ビールを開けて最初の一口を飲んだ。「お葬式だ。」太一は口に出さずに、そう思った。


「このあいだ、エロティシズムの話をしただろう。あれ、実はエロティシズムの話だけじゃないんだ。」のっぽさんは、また突飛な話の切り出し方をした。

「はい?。」

「最初に挫折があり、それが利己的な衝動を生む。時には暴力を伴ってしまう。」

 太一は黙ってうなずいた。

「でも、最初にあるのは、挫折じゃない。何かに憧れる気持ちなんだ。何かに憧れてそれに近づき、それに拒否されて挫折するんだ。」

「よくわからないです。」

「まあ、待てよ。今から説明するから。」

 のっぽさんは、グイッと缶ビールを傾け、一気に大量のビールを身体に流し込んだ。そして、もう一本飲み干してしまった。さっきしまった缶ビールを冷蔵庫から取り出し、2本めを開けた。

「まず君を例にしよう。君は女の子と、それからロックミュージックに憧れている。始終そればっかり考えていて、他のことにはほとんど興味がない。」

 その通りだった。

「でも世間には違うやつもいる。例えば、外交官になって世界中に行きたいと考えるやつもいる。子供の頃から一生懸命勉強して東大に入り、第1種の公務員試験に合格して外務省に入ることを考える。」

 太一は黙ったまま、のっぽさんの話に耳を傾けた。

「こいつが憧れているのは、千代田区にある外務省の建物や、ドブネズミ色のスーツを毎日着ることじゃない。彼の憧れは、世界というぼんやりとした自分の知らない世界なんだ。彼は、自分の知らない世界を知りたくて、外交官という手っ取り早い手段を見つけて、それを得ようと努力しているわけだ。君とは、随分違う。片や、女の子とロックミュージック、片や世界中だ。比較の対象にもならない。」

「僕は全然努力してない。」

「そういうことが言いたいんじゃない。」即座にのっぽさんは否定した。

「俺が言いたいのはね、まず、君とこの外交官志望のやつとは、憧れとしては等価だということだ。」

「とうか?」

「等しい。同じということだ。向きが違うだけだ。ベクトルだよ。人はなぜだか、成長していくうちに何かを選んでそれに夢中になる。ある人は、野球が好きになり、またある人はパン作りにはまる。また別の人は機械に魅せられて、車を好きになったり、ミリタリーマニアになったりする。本当に人さまざまだ。理由もよく判らない。でも、根本はみんな一緒なんだ。特に、女の子に憧れる気持ちとは、憧れの中で最も基本の形なんだよ。」

 太一は、ビールを口に含む。苦い。美味しいものではない。しかし、今日は我慢して飲むべきだという気がした。

「さて、話の本題はこれからだ。外交官志望のやつの例えを続けよう。こいつの夢は残念ながら、簡単に叶うわけじゃない。試験に落ちるかもしれない。受かっても、外交官の定員に空きがないかもしれない。コネがなくて採用されないかもしれない。どんなに努力しても、実力があっても、自分の憧れを実現できないことがある。

 世の中は椅子取りゲームなんだ。どんなに努力しても駄目な事もあれば、簡単に手に入る事もある。椅子に空きがあれば、座れる。空いていなければ座れない。簡単な話だ。オリンピックだってそうだろう。

 でもね、この外交官志望のやつにとっては簡単な話じゃない。彼個人の問題だからだ。残念ながら、どこかで失敗してしまったとする。つまり、挫折してしまい外交官になれなかったとする。もし君だったらどう思う?。」

 太一は時間をかけて想像してみた。自分が外交官になれなかったことを。

「絶望して、何もする気が無くなると思う。それから、誰かを恨むと思います。」

「そうだろうな」

 のっぽさんは、大きくうなずいて同意してくれた。

「この元外交官志望のやつは、本当に辛い思いをするだろう。失敗したことを、親や先生のせいにするかもしれない。あるいは、自分を責めるかもしれない。最悪の場合、絶望のあまり自殺してしまうかもしれない。

 上手く転がれば、こいつは別の手段を見つけられるだろう。商社でも、自動車メーカーでも、ゼネコンでも就職すればいいじゃないか。いやでも、一生世界中を猿回しの猿のように引き回されるよ。

 でも、別の手段をうまく見つけらないことは多い。さっき言ったように、彼は自殺するかもしれないし、心が荒んで家族や友人と上手くいかなくなるかもしれない。でも、もっと酷い場合もある。今度は、漠然と世界を、自分の周りの世界を恨むことになるんだ。」

「世界を恨む?」

「そう」

 外はいつの間にか強い雨になっていた。雨の雫がアパートの壁やベランダの床を打つ音が、太一の部屋の中まで響いた。

「例えば、ヒトラーなんかいい例だ。彼は、30歳くらいまで何をやっても上手く行かなかった。自分の居場所が見からなかった。そして、世界を恨み、憎んだ。自分の屈折した怒りに、ナチズムという衣装を着せて見栄えを整えた。具体的には、ベルサイユ体制を憎み、成功したユダヤ人たちを憎んだ。そして、悲しいことに、当時のドイツではそう考えるのは彼だけじゃなかった。

 元外交官志望のやつに戻れば、こいつは平気で人を騙す仕事をするかもしれない。反社会的な活動を始めるかもしれない。あるいはもっと単純に、愉快犯のような犯罪をするかもしれない。彼のエネルギーの源泉は、挫折による怒りにあるんだ。自分には戦う理由がある、と彼は思う。そして、社会に復讐することで、ほんの少しだけ気持ちが和らぐ。

 しかし、それは一瞬だけなんだ。長続きしない。だから繰り返し続けることになる。そして、繰り返してもどこにも行けない。エロティシズムの問題点と同じだ。なぜ、長続きしないのか?。一瞬しか持たないのか?。それは、始まりが利己的だから、周囲の承認が得られないからなんだ。僅かな賛同者はいるかもしれない。でも、表に出れば確実に叩かれる。家族も友人たちも誰も賛同してくれない。だから隠す。いつも、ばれやしないかと考えて怯えている。心は晴れない。」

 のっぽさんは、冷蔵庫から早くも3本目のビールを取り出した。

「話の最初に戻ろう。諦めや怒りの源泉は、憧れに挫折することにあった。でも、何でそもそも何かに憧れたりするんだ?。そんなことしなきゃいいじゃないか。憧れなければ挫折することもない」

「何で憧れるんですか?」

「時間が流れるからさ」

 太一はひっくり返った。滅茶苦茶だと思った。この人は、頭がおかしいとしか思えない。

「君の話に戻ろう。」

 のっぽさんは、呆れ果てている太一を全く気にせず、話を続けた。

「君は、女の子にもてたいと思っている。特定の誰かというわけでなく、女の子に好かれたいと思っている。君はなぜ、そう思うんだ?」

 突然質問されて、太一は戸惑った。

「男だから?」

「そうじゃない」のっぽさんは太一の答えをぴしゃりと否定した。

「男で男が好きなやつもいるし、女で女が好きなやつもいる。生物の本能だという説明は、何も説明していないに等しい。」

 じゃあ、なぜなんだろう?。太一にはわからなかった。

「実は君は、女の子に好かれることで、明日の手がかりを掴みたいんだよ。」

「明日の手がかり?。何ですか、それは?。」

「我ながら、説明があまり良くないな。言い直そう。」のっぽさんはそう言って、ビールを片手に座布団の上で足を組み直した。

「今、俺たちはここにいる。現在地点だ。明日、君に女の子に会う予定があるとする。授業でもバイトでもいい。想像してごらん。」

 太一はまた、のっぽさんのペースに乗ってみる。そして、想像してみる。明日、授業で女の子に会うと。

「あんまり気が乗りません。」太一は感じたままを答えた。

「正直でいい回答だ。」

 そう言ってのっぽさんは笑った。でも、太一にとっては笑い事ではない。

「なぜ気が乗らないかというと、女の子に会っても楽しく話すようなことは起こらないと、君が想像しているからなんだ。」

 その通りだった。明日どこで女の子に会おうと、誰も太一に話しかけない。太一の存在など誰も気にしない。下手に話しかければ、目障りとか気持ち悪いと言われるだろう。

「ではこうしよう。明日授業に出たら、ある女の子が話しかけてくるかもしれない、と想像してみよう。そうだな、派手じゃなくてどちらかというと地味で、メガネをかけて少し太っていて、口数も少なく決して綺麗ではないけれど、暖かい笑い方をする女の子だ。明日彼女は、君と同郷の集まりの打ち合わせをしなくちゃならない用事がある。誰を誘うか、店はどこにするか。君としっかり話して決めてしまわなくてはならない。さあ、どうだい?。想像してみてくれ。」

 のっぽさんの想像力というか妄想力に呆れながら、太一はこの思考実験に付き合ってみる。地味で、メガネをかけて少し太っていて、口数も少なく決して綺麗ではないけれど、暖かい笑い方をする女の子と、明日話す用事があると想像してみる。

「少し楽しみになってきました。」

「そうだろう。」

 のっぽさんは、我が意を得たりというように口を緩めてニヤッと笑った。

「今君が感じたことが、明日の手がかりなんだ。」

 そう言って、のっぽさんはまたビールをグイッと流し込んだ。ビールは、のっぽさんのエネルギー源なのだろう。

「現時点から見て、最初の君は、気が乗らなくて未来に何の楽しみも持てなかった。後の君は、少し楽しみになって未来に賭けてみる気になった。これは大きな違いだ。これが、時間なんだ。」

「どういうことですか?。」

「つまり、俺たちは常に時間を意識していて、時間というまな板の上に個別の物事をのせて考えているんだ。現在から見て、これまで何をしてきたのか、これから何が出来るのか、を始終気にして生きてるのさ。あるいは、これまで何が出来なくて、これから先も何が出来ないのか、ということを。

 さっきの元外交官志望の例えに戻ると、やつが世界を恨むまでになるのは、挫折して未来の手がかりを失ってしまったからなんだ。夢が実現しないまま、未来がずっと続いていくという確信が、やつに耐え難い絶望と苦しみを与え、それがやがて怒りの源泉になるんだ。

 君の問題に戻ると、君は今、女の子に好かれることはないと諦めている。挫折して未来の手がかりを失っている。女の子に好かれることのないまま、未来がずっと続いていくと確信していて、その確信が君に耐え難い絶望と苦しみを与えている。どうだい、元外交官志望のやつとまるっきり同じだろう?。」

 太一は驚いてうなずいた。その通りだった。

「君が苦しいのも、時間のせいなんだ。」

 太一は考えていた。Kも時間のせいであんなことをしたのだろうか?。Kも、それからSも、太一と同じく一生女の子に好かれることはないと考えていた。Kは禿げた頭と暴力的嗜好のせいで。Sは体に残る大火傷のせいで。

 のっぽさんは、太一が考えていることに気づいていた。だから、続けてこう言った。

「今の君は、その絶望と苦しみを暴力で解消しようとすることもできる。特定の女の子を襲うことも、誰だか知らない女の子を襲うこともできる。または、モテる男に復讐するのもいい。さんざんいい思いをしたんだから、君に復讐されても仕方ない、と考えることも可能だ」

 そこまで言ってから、のっぽさんは少し間を置いた。

「さて、君は女の子を襲うことを選択したとしよう。凶器を用意してみる。ナイフでも、ハサミでも、ドライバーでも彫刻刀でも千枚通しでもなんでもいい。簡単に手に入る。そして、君は計画を立ててある日実行する。」

 太一はごくっと唾を飲み込んだ。あまりにも生々しい想像だった。

「ある日君は、たまたま出会った女の子を襲い、彼女を犯す。発覚しないために、用意した凶器で彼女を殺す。女の子を犯すことで、君はその時だけは満たされるかもしれない。あるいは、目立つような殺し方をしたり、マスコミに犯行声明を出したりすれば、社会に復讐した気分になれるかもしれない。自分を拒絶したのが悪いんだ、とかね。

 でもね、すぐに虚しくなってしまう。薬が切れてしまうんだ」

 Kはいつも怒っていた。太一とSを除けば、女の子どころか男とも上手くいかなかった。実の妹にも嫌われていた。周囲と上手く付き合うには、あまりに不器用だった。そして、Kも未来に対しては絶望していた。別の世界へ行きたいとさえと言っていた。

 しかし、太一には親切だった。太一に対しては公正だった。だけど、Kはずっと犯行を続けていた。太一としょっちゅう顔を合わせながら、全く気付かせずに殺人を繰り返していた。あいつは、それで少しは欲望や怒りを解消できたのだろうか?いや、むしろ以前よりも気難しく、おかしくなっていた。ますます苦しんでつらそうに見えた。

 太一は目を閉じて、天を仰いだ。外では、雨が降り続いていた。雨音が、この部屋と世の中とを遮断しているように思えた。太一は、世間から孤立した部屋で、Kと自分について考え続けた。出口がない。どうやっても、虚しさにしかたどり着かない気がした。太一が黙っている間、のっぽさんはずっと待っていた。

「どうして、人は罪を犯すんだろう?。虚しくなるだけなのに。」

 太一はやっと口を開いた。すると、のっぽさんは話を再開した。

「例えば、犯罪を繰り返す共産主義テロリストたちがいる。奴らは世の中を変えようとして、その手段としてハイジャックをしたり、あちこちに爆弾を仕掛けたり、空港で銃を乱射したりして無差別に人を殺した。みんな、俺の同世代がやったことだ。」

 のっぽさんは、そこまで話すと珍しくため息をついた。目を閉じて、左右に首を振ってから話を続けた。

「彼らは、人を殺しておきながら自分たちの正しさを固く信じている。彼らに決定的に欠けているのは、相手に問いかけることだ。『共産主義って素晴らしいと思うから、無差別テロしてもいいかな?。』って聞けばいいんだ。誰だって駄目だと答えるよ。彼らだって、否定されるのはわかってるんだ。だから黙っている。何も言わずに黙っていることで、自分の考えが否定されないようにしている。身を隠して、覆面までして自分の殻に閉じこもり、人の意見に晒されないようにしている。そして、犯罪を繰り返す。」

 太一は自分の奥底にある、形のはっきりしない復讐の感情について考えた。それは、相手のいない破壊の衝動だった。ニルバーナを聴いているとこみ上げてくる、「俺は認めない。俺は受け入れない、絶対に認めない。」という叫びだった。考えてみると、それは随分前から太一の身体に棲みついていた。そして、太一はその激しい衝動を誰にも話しさずに隠し持っていた。

「僕も、何もかも破壊したいと思うことがあります。」と太一はのっぽさんに白状した。

「わかるよ。」

「えっ?。」

 のっぽさんがあっさりと同意してくれたので、太一はまたひっくり返りそうになった。今の告白は、太一には思い切ったものだったのに。

「人は誰だって、悲しみや苦しさがずっと続くとき、何とかして脱出したいと考える。しかし、脱出する方法が見つからないとき、解決する方法が見つからないとき、人生は耐え難い苦痛でしかなくなる。あるとき我慢できなくなってヤケを起こす。実際、この手の犯罪はとても多い。

 しかし、犯罪を実行したところで、苦痛は解消されない。世界は何も変わらない。はっきり言って無駄骨だ。おまけに、被害者やその家族には死ぬまで恨まれる。何一ついいことはない。」

 Kは、俺には美学があると言った。彼がしたことは、おそらくこの言葉の延長線上にあるだろう。だが、何にもならなかった。多くの人に、永遠に治ることのない傷を残しただけだ。

「必要なのは答えなんだ。捕まえても捕まえても、犯罪者やテロリストは後から後から夏の蚊みたいに湧いてくる。近くに不衛生な澱みがあって、そこで大量のボウフラが発生しているはずなんだ。その発生源を断たなきゃ駄目なんだ。つまり、俺たちは彼らが抱えている問題を解決しなければならない。貧困とか差別とか、苦痛の原因を社会から除去しなくてはならない。それをしないで、犯罪者を一匹ずつパッチン、パッチンと潰していても全くの無駄だ。」

「発生源はどこにあるんだろう?。」太一やKの問題の発生源とは、一体何なのだろう?。

「君の発生源は、もちろん『一生女の子に好かれることはない』という絶望だよ。その解決策は、誰かに受け入れられ、好かれることだ。それ以外に方法は一切ない。」

 それは無理だ、と太一は思った。しかし、のっぽさんの話には、まだ続きがあった。

「君が女の子に好かれたい、と思っている以上、本当に好かれるしかない。当たり前の結論だろ?。でもな。女の子と会って楽しい時間を過ごす。それだけじゃ駄目なんだ。極端な話、会うだけなら金で女の子を買うこともできるからね。

 君は女の子と楽しい時間を過ごす。そして、彼女と別れ家に帰る。一人になってから、彼女のことを考えてみる。両手の平をひろげて見ると、そこに、自分に対する彼女の好意がある。手にとって重みを確かめられるほど、それが実感できる。何度考えても、彼女は自分のことが好きだと分かる。この実感が必要なんだ。この実感が訪れると、明日という日は希望に満ちたものになる。明後日も、その次も同じだ。この希望の感触は、どこまでも続いていく。怒りは消え失せ、考えることもバカバカしくなる。」

「僕には無理です。」

「まあ、待てよ。」とのっぽさんは言った。「何も、明日いきなり彼女を作って来い、と言ってるわけじゃない。そもそも君が求めているのは、特定の誰かじゃない。今の君が必要としているのは、女の子との感情のつながりなんだ。」

 無理だ。太一と口をきいてくれる女の子なんて一人もいない。僕は醜すぎる、と太一は自分のことを思った。そして、また黙ってしまった。

 のっぽさんは、冷蔵庫から4本目のビールを取り出した。太一は、まだ1本目だ。缶の底に残っている、もはや気の抜けた炭酸水をいっぺんに胃の中に注いだ。半ばヤケだった。

「なあ、実はな、たいていの女の子は今の君と全く同じことを考えているんだぞ。」のっぽさんは、小さい子供をたしなめるような言い方をした。

「!!?。」

 太一はまた驚いた。思わず、顔を上げてのっぽさんの顔を覗き込んだ。

「そんなこと、考えたこともなかった。」

「無理もない。」のっぽさんは、またすぐに同意してくれた。

「君は、今抱えている問題で手一杯だ。例の友達のこともある。相当しんどいはずだ。とても、周りの女の子たちに気を配る余裕はないだろう。でもね、君の周りの女の子たちだって、自分は男に愛されないんじゃないかと不安で一杯なんだ。一生駄目なんじゃないかと恐れてるんだ。そして、君のように絶望してしまう女の子もいる。その反対に、なんとか脱出しようとする女の子は、髪型や洋服に徹底的にこだわったり、痩せようと懸命に努力したりしているんだ。」

 そうなんだろうか?。太一はふと、ワンレンに真っ赤なボディコンを着た、出っ歯の女の子を思い出した。彼女は精一杯着飾り、大胆に太ももを露わにして足を組んでいた。ひっきりなしに煙草を吸ってイライラしながら、合コンの間ずっと喋り続けていた。田中と都築に、ずっと話しかけていた。

 太一は今、わかった。彼女も脱出しようとしていたんだと。しかし、結果は飲みすぎて酔い潰れてしまった。道端に無様に倒れ、自慢のワンレンは乱れてしまった。真っ赤なボディコンも、歩道に寝たせいで汚れてしまった。挙句に下着まで丸見えだった。田中と都築は、彼女を見捨ててさっさと帰っていた。隣にいたのは太一だけだ。酷すぎる、と太一は思った。だんだん彼女が気の毒になってきた。

「なあ、君なら彼女たちの気持ちがわかるはずだ。話しかけた時に、冷たい態度を取られたり無視されるのがどんなにつらいか、何時間も一緒にいるのに、誰も話しかけてくれないことがどんなに苦しく悲しいことか、誰よりもわかるだろう。君はこの道なら相当のレベルに達しているよ。」

「わかると思う」

「わかるなら、何かできるだろう」

「何をすればいいんですか?」

「話しかけるんだ。彼女たちの隣に行き、勇気を出して話しかけるんだ。そして、自分の話ではなく彼女たちの話をするんだ。彼女たちの抱えている問題について話すんだ。『つらいのはわかるよ』と彼女たちに伝えるんだ」

「そう出来ればいいと思う。でも、それは僕の役目じゃない」

「他のいい男の役目だと言いたいのかい?」

 太一はうなずいた。

「だって、僕はモテないんだから」

「じゃあ、モテるようになろう」

 それが出来たら苦労はしない。のっぽさんは、またとんでもないことを言い出した。酔っ払ってるんだろうか?と太一は思って、のっぽさんを見た。のっぽさんは、いつになく真剣な顔だった。少し怖いくらいだ。そして、「いい男は駄目だ。奴らは傷ついていない。傷の痛みを知らないから、平気で女の子たちを傷つける。とても任せられない」と付け加えた。

 太一は、思い切って誰にも聞けなかった質問をすることにした。

「どうやったらモテるんですか?」

「そんなの俺だって知らないよ」

 太一は肩で大きくため息をついた。のっぽさんはその様子を見て笑い出した。

「まあ、落ち着けよ。落ち着いて、現状分析から始めよう。まずは、今の君を『わかる』ことから始めよう。」

 のっぽさんはもったいぶった言い方をした。太一はだんだんのっぽさんのやり方に慣れてきていた。のっぽさんは今助走を始めたのだ。ゆっくりと走り出して徐々にスピードアップし、それから急ブレーキをかけて太一を驚かせる。

「今の君では、どうやってもモテるわけがない。太り過ぎだし、髪はボサボサだし、服もいつも汚れててクタクタだ。おまけに顔が悪過ぎる。はっきり言って、手の施しようがない。」

 きた、と太一は思った。突然殴られたような衝撃だった。全てその通りだったが、面と向かって言われるのはさすがにつらかった。両目の端に、涙が生じているのを感じた。のっぽさんは、太一のことは気にせずに先を続けた。

「髪は、明日床屋に行けばいい。服は、床屋の帰りに買えばいい。体重は、明日からランニングを始めればいい。毎日続ければ、必ずどんどん痩せていく。身体も締まってくる。全部簡単だ。だけど、顔はそうはいかない。」

 太一は黙ったまま、次の言葉を待った。

「能面を知っているだろう」

「のうめん?」

「能面は、光の当て方で表情が変わる。笑っているように見えたり、怒っているように見えたりする。でも、元は同じ顔なんだ。不思議だろ?。人は誰だって、怒っている顔や泣いている顔は見たくない。怒っているのをなだめたり、泣いているのを慰めたりしたくなる。見ていてこちらまでつらくなってくるからだ」

 太一は、またKを思い出した。彼が死んでしまう寸前の歪んだ顔を思い出した。見ていて本当につらかった。そして怖かった。

「君の顔は、自分の苦悩がそのまま顔に出ているんだ。君はいつも悩みで顔を歪ませて、苦しいのか、泣いているのか、判断のつきにくい表情をしている。それが、君の顔が醜い理由だ。」

 太一はハッとした。自分も、Kと同じ顔をしているのか。

「君の顔が醜いのは、実は自分の抱えている問題が『わからなくて』、困り果てているのが顔に出ているからなんだよ。『わからなくて』、自分に自信がないから、いつも顔を歪ませてオドオドしている。これじゃあ、女の子は近づかない。

 はっきり言って、顔の作りに美しいも醜いもないんだよ。テレビをつければ、美しい男や女がたくさん出ている。奴らの顔をしげしげと眺めてみると、だんだん自分と変わりがないことに気がつく。部品の造りも数も全部一緒だ。じゃあ、何が違うかというと、奴らはブラウン菅の向こうから、君に笑いかけているからなんだよ。おまけに奴らは、女も男も莫大な時間とお金をかけて、自分の笑顔が際立つように、爽やかに健康的に見えるよう化粧をしている。美しいというのは、実は笑顔のことなんだ。」

「どうやったら、僕は笑えるんだろう?。」

 太一はのっぽさんに問いかけた。

「実は、それが一番難しい。誰にとっても、とても難しい。」

 のっぽさんは、そう言って苦笑した。

 太一は少し考えてみた。最近、太一は笑ったことがあっただろうかと。そして、愕然とした。思い出せないのだ。いくら記憶をたどっても、2ヶ月も3ヶ月も遡っても、声を上げて笑ったことはもちろん、表情を緩めて笑った記憶さえなかった。のっぽさんの指摘通り、太一は何ヶ月も顔を歪ませてオドオドしていただけだった。

 これじゃあ、誰も好きになってくれる訳ないよな。太一は、諦めの極地に達してむしろ気が安らいできた。そして、自分の過去を振り返った。考えてみれば、中学生になった頃くらいから、あまり笑わなくなった気がする。その頃、同じクラスのショートカットの女の子が好きだった。初恋と言って良かった。明るくて活発で、勉強も良く出来た。クラスでとても目立つ存在だった。太一は、彼女の笑顔が本当に好きだった。

 そこまで思い出して、太一は待てよ、と思った。そのショートカットの女の子は、実は中学の後半からあまり目立たなくなったのだ。2年生から違うクラスだったので、たまにすれ違うくらいしか姿を見ることはなかったが、明るさは失われ、表情にはどこか影があった。勉強もあまり出来なくなり、目立たない高校に進学した。誰も彼女の話をしなくなった。いつの間にか、太一も彼女への興味を失い、思い出すこともなくなってしまった。彼女も、太一と同じように笑えなくなってしまったのだろうか?。多分、そうなんだろう。

「どうしたら、笑えるんだろう?。」

 しばらく経ってから、太一はさっきと同じ言葉を繰り返した。それはのっぽさんに質問するというより、独り言のように聞こえた。

「まずは自信を持つことだ。その一番の近道は、いま置かれている現実について『わかる』ことだ。考えて、『わかる』ようになると、大抵のことには動じなくなる。動じなくなると、それは顔に出るんだ。感情の起伏の少ない、温和な表情になる。」

「悟れってことですか?。」

「そうは言ってない。諸行無情、と諦めて社会に迎合しろと言ってるんじゃないんだ。俺が言ってるのは、自分の絶望の発生源を『わかる』ことなんだ。いまの太一は、女の子と良い関係を築けないことや、君の友達が犯した犯罪について、その理由が『わからなくて』苦しんでいる。その理由を『わかる』こと、そしてその発生源を断つ必要があるんだ。」

「なんで『わかる』必要があるんですか?。」

「わからないままでいるのは、本当につらいからだ。さっきも言ったけど、必要なのは答えなんだ。答えが『わかれば』、君は今の状況から脱出できる。」

 Kの部屋で死体の写真を見た日から、太一は精神的にどん底を彷徨っていた。わからないことばかりで、何もする気にならず、食欲も湧かなかった。まともに眠ることさえ出来ていなかった。確かに答えが必要だった。自分の力で、答えをわかる必要があった。

「考えて『わかった』ら、『良し、いいだろう』と口に出して言ってみる。I’m Ready、もう何があっても動じないと考えてみる。そこまでできたら、相手のことを考える。女の子の側に立って考えてみる。『つらいのはわかるよ』と、君は彼女たちに言えるはずだ。」

「でも誰に言えばいいんですか?。僕は話すことのできる女の子なんて一人もいない。」

「明日の朝、駅前のロータリーに立って周りを見渡してみろ。右にも左にも、どこを見ても可愛い女の子がいるぞ。実は、この世界は可愛くて綺麗な女の子であふれているんだ。素晴らしいじゃないか。It’s All Right. She Moves In Misterious Ways だ。」


「女の子たちが、オナニーしたくなるような男になるんだ。」

「はあ?。」

 のっぽさんが今引用したU2のズー・ステーションとミステリアス・ウェイズを思い出していると、彼はまたとんでもないことを言い出した。この人は今度こそ気が狂った、と太一は思った。

「一体何ですか?。それは。」

「本物のいい男になれ、ってことだよ。少しくらい顔や見かけが良くても、少しくらい金を持っていても何にもならないんだ。実は、誰にも好かれないんだ。

 試しに、その辺の彼氏がいる女の子たちに聞いてみるといい。『今の彼氏が好きですか』って。半分くらいの女の子は、困った顔をしながら『実は、あんまり好きじゃないんです』って答えるよ。『淋しいから、今の彼と一緒にいるだけなんです』って。」

「そうなんですか?。」

「そんなもんさ。」

 彼氏のいる女の子の気持ちは、太一の想像をはるかに超えた南極の出来事のようなものだった。そこで、大学やバイト先で見かける沢山のカップルのことを、太一は考えてみた。太一からすれば、誰もが楽しそうに見えた。 

「カップルは、みんな楽しそうだと思います。」

「それは君が、彼らから目を背けてるからだよ。だから、彼らのことを知らないんだよ」

 目を背けている?。太一は、少し考えてみた。そういえば太一は、あの幸せそうなカップルたちの気持ちなど、一度も真面目に考えたことがなかった。確かに太一は、彼らのことを何も知らなかった。

「僕は、あのカップルたちが何を考えているのか、よく解らないんです。」と太一は正直に答えた。

「君には、彼らの悩みが解らないはずだ。解らないのに、遠くから眺めて羨ましいと妬んでいる。相手のことをよく知らないのに妬むなんておかしくないか?。

 実は、人と上手くやっていくことはとても難しい。自分を好きだと言ってくれる、たった一人の人間と上手くやってくことですら、本当に難しいんだ。ほんの一瞬幸せに過ごしていても、些細なことで腹を立てたり、相手に多くを求めたりしてすぐに諍いが起こる。それはまるで、カップルがナイフを持って向き合い、お互いを斬りつけ合っているようなものだ。」

 そこまで言い終えて、のっぽさんはまた大きな溜息をついた。太一は、のっぽさんの経験談を聞いているような気がした。

 太一は、もう一度幸せそうなカップルたちのことを考えてみた。確かに彼らも、彼らなりの問題を抱えているのかもしれない。それぞれの問題は、嫉妬とか価値観の相違とか未来の不安とか運命の人なのかとか、太一や世間から見ればバカバカしい悩みなのかもしれない。でも、彼らにしてみれば真剣で重要な問題なのだ。それは、太一と同じだった。太一が自分は醜いと悩むのと同じく、愚にもつかない問題だけれど本人たちにとっては深刻なのだ。ただそれだけのことだ。

「相手と上手くやっていくことは、世界を恨んだり、妬んだりすることよりずっと難しいことだ。全てを諦めて恨む方が、簡単なくらいだ。でも、さっきも話した通り、本当の解決策は相手に受け入れられることしかない。それは、自分から見れば相手を受け入れることなんだ。」

「どうやったら、女の子と上手くやっていけるんですか?。」太一は、急かすようにのっぽさんに質問した。その質問は、太一にとっておそらく最大の謎だったから。

「だから、女の子がオナニーしたくなるような男になる必要があるんだよ。」

 のっぽさんはそう言って悪戯っぽく笑い、それからまるで詩を朗読するように話し始めた。

「君が、自信に満ちた自然な笑顔を浮かべて立っている。そうすると、女の子は少しずつ君に近づいてくる。君のそばにいれば、彼女に降りかかる困難から、君が助けてくれる気がするからだ。君の隣にいれば大丈夫だと、彼女は思う。そう思って、一歩、もう一歩と君との距離を詰める。勇気を振り絞って、君の近くまで来るんだ。近付くほど、世の中の風から自分の身を守れる。君が守ってくれる。

 そのうちに、彼女は君にそっと手を伸ばす。君に気付かれないように、そっとだ。それから、偶然を装って君の手や肩に触れる。君に触れることで、彼女は一層安らいだ気持ちになれる。もっと安らぎたくて、さらに彼女は身を寄せるようになる。俺が言いたいのは、そんな風に思われる男になれ、ということさ。」

 太一は、バイト先のレジ係の天使やパートの女性を思い出した。二人とも、のっぽさんの隣にいるときは、心からリラックスして安心しきった笑顔を見せる。うっとりと、恍惚とした表情でのっぽさんを見上げている。彼女たちなら、のっぽさんでオナニーしていてもおかしくない。

「誰かが、のっぽさんでオナニーしてるんだろうか?。」

「知らないよ。教えてくれる訳ないだろう。『昨日あなたでオナニーしました』なんて言う女はいないよ。」

 それはそうだった。

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