第10話 ささやかな破滅

5月のその日は、太一に取って人生最悪の日となった。それは、これから先も変わらないだろう。

 前日の夜、また新しい死体が発見された。犠牲者は、高校1年生の女の子だった。彼女は、2日前の21時にアルバイト先のコンビニを出たきり、行方が分からなくなっていた。彼女の遺体は、建設途中のマンションの地下室で見つかった。ニュースによると、やはり身体中傷だらけだという。そして彼女の体内から、犯人のものと思われる精液が初めて見つかった。

 朝のテレビで遺体発見のニュースを見た太一は、暗澹たる気持ちのまま学校へ向かった。最近休みがちになっている、必修科目の授業に出るためだ。朝一番の開始だったので、まだ人の少ない大学の構内を太一は教室へと向かった。

授業の少し前に教室に着くと、Kがまたクラスメイトとトラブルを起こしていた。きっかけは判らない。二人は短い言葉で言い争いながら、教室の一番後ろで睨み合っていた。Kの喧嘩相手の後ろには、彼の友人が数人控えていた。Kの後ろにはSだけが立っていた。Sは、明らかに迷惑そうな顔をしていた。

 太一がその現場に駆け寄った時、Kはとうとう相手を殴ってしまった。Kの右の拳が相手の顎を捉えた。その瞬間、クラスメイトの顎だけが少し歪んだように見えた。つかの間の静寂があり、やがて彼は口から大量の血を噴き出した。唇か、舌を切ったようだ。

「このハゲ、ふざけんな。」

 自分の血を見て冷静さを失ったクラスメイトは、眼に涙をためながらKに襲いかかろうとした。彼の友人たちが、肩や腕を抑えて仲裁に入った。制止されたクラスメイトは、涙目のままKに悪態を吐いた。しゃべるたびに、彼の口から大量の血が次々にこぼれ落ちた。 それは、たちまち床に紅い大きな溜まりをいくつも作った。太一は思わず息を飲み、そしてKを見た。

 Kは無表情で、驚くほど冷静だった。無言のまま、喧嘩相手と床の血溜まりとを眺めていた。ほんの少し笑っているようにも見えた。それから彼は、静かに教室を出て行った。太一はすぐKの後を追った。その後から、Sがしぶしぶという様子でついてきた。

 太一たちは、いつもの学生食堂に行くことにした。まだ人の少ない食堂に到着すると、三人はテーブルに向かい合って座った。窓から見える空は、どんよりと鉛色に染まっていた。雨は降ってはいなかったが、ただでさえ気の滅入る朝だった。座ってからしばらく誰も口を開かず、時間だけが過ぎていった。


「お前、もういい加減にしろよ。何度喧嘩すれば気が済むんだ?。」ようやくSが口を開き、Kを非難した。Sは明らかに腹を立てていた。「お前のせいで、必修を欠席したんだぞ。」

 Sの問いに、Kは無表情のまま全く反応を見せなかった。そっぽを向いて、Sの顔さえ見なかった。彼は、窓から外の景色を眺めていた。

「だいたい、最近のお前は本当に変だぞ。いったい、何が気に入らなくてイラついているんだ?。」

 今度もKは何も答えなかった。椅子に深く腰掛けて背を後ろにそらし、顔を窓の外に向けたままぴくりとも動かなかった。

「大学を辞めたいっていう話のせいかい?。」太一は、あの日以来気になっていたことを口にしてみた。

「おい、俺はそんな話知らないぞ。」と、Sが憤然として言った。Kは、Sには話していなかったらしい。

「大学辞めて何になるんだ。ここからこぼれ落ちたらどこにも行けないぞ。ただでさえ、俺たちにはハンデがあるんだ。ここで耐えないと、向こう側には行けないんだよ。」

「疲れたんだ。」

 ボソっとKが言った。

「くたくたに疲れたんだ。」

 Kは間をおいて言い直した。それから彼はテーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。その体勢でまた動かなくなった。

「疲れたから、大学止めてこの世界から脱出するのか?。そもそも、あちこちに喧嘩を売って、それで疲れたなんて話があるかよ。お前の言ってることは支離滅裂だ。だいたい、今のお前に何が出来るんだ?。今のお前には、人より優れたものなんて何もないだろう。何もできない不気味な河童だよ。この世界から脱出して、沙悟浄一匹で天竺を目指すのか?。

 いいか、この世界が嫌だから、別に居心地の良い世界があるはずだと考えるのは、全くの間違いだ。独りよがりの勘違いなんだよ。俺たちは、嫌でもこの世界でやっていくしかないんだ。」

 Sの言い方は、とげはあるが彼らしい励ましだったと思う。しかし、Sが話している間に、顔を覆った両手の間から覗いているKの口が、うるさいと動くのに太一は気付いた。そしてもう一度、今度ははっきりとKは叫んだ。

「うるさい。」

 それは、あまりに大きな声だったので、離れたテーブルに座っている学生たちが一斉に太一たちを注目した。彼らは、明らかに不審な目で太一たちを見つめた。しかし、関わり合いは御免だという風に、彼らはすぐに太一たちの存在を無視した。

 また、三人はしばらく黙っていた。

「そうか。わかったよ。」

 Sが、また三人の沈黙を破った。そして、彼はこう宣言した。

「俺は、今日を最後にお前と友達の縁を切る。」

 太一は驚いて、Sを見た。彼は、顔を紅潮させて怒りに震えていた。

「俺を見かけても話し掛けるなよ。」

 顔を両手で覆ったままのKにそう言うと、Sはゆっくりと立ち上がり食堂から出て行った。


 Sが去り、太一とKはその場に残された。二人はずっと黙っていた。Kは、今もじっとしたまま動かなかった。太一も、Kの理解不可能な言動に疲れていた。彼に付き合うことの限界を感じ始めていた。よっぽど立ち上がって、この場を去ろうかと考えた。

 その時、Kの肩が時々揺れるのに太一は気付いた。まるで泣いているようだった。まさか。Kは両手で顔を覆ったままの姿勢だったが、体が断続的に震えていた。太一は思い直した。ここでKを独りで残すべきではない。テーブルを挟んで彼の前に触ったまま、彼が正気に戻るまで待ち続けることにした。

 1時間以上が経過した。やっとKが顔を上げ、眠そうな眼をまた窓の外に向けた。彼は、外を眺めたままで太一に話しかけた。

「俺の部屋で音楽を聴こう。」

 Kの声は、奇妙な響き方をした。何もない大きな部屋の隅から遠く離れた太一に話しかけたような、実際の声よりも反響したエコーを聞いた気がした。

「え?。まあ、いいよ。」

 太一は、Kの声に戸惑いながら答えた。

「帰ろう。」

 Kはそう言って、その日初めて太一の方へ顔を向けた。顔を向けたのだが、彼は太一を見ていなかった。Kの両眼は、太一の背後にある空間を見ていた。右眼と左眼はそれぞれ別の方を向き、しかもその瞳は淀んでまるで焦点が合っていなかった。Kは、何も見ていなかった。口元が笑っているように少しだけ開き、片方の頬だけ細かく痙攣していた。Kの表情をみて、太一はぞっとした。


 二人は立ち上がり、食堂を出た。そして、大学の構内から出てKの家へと向かった。お互い一言も口をきかなかった。Kと二人でいる時に、何も話さないことはよくあった。しかし、今だけは沈黙がつらいと太一は感じた。そして太一は、Kを怖いと感じていた。歩きながら、彼の様子を横目にうかがうと、Kは今も眼の焦点が合っていなかった。口を少しだけ開けて、とても小さな声でぶつぶつと独り言を言っていた。

 Kは、猛スピードで歩いていった。二人は大学を出て坂道を下り、私鉄の線路にぶつかるとその線路に沿って駅へと向かった。Kがあまりに早く歩くので、太一は小走りをしないと彼に追い付けなくなった。顔からドッと汗が噴き出し、息も上がってきた。太一が遅れても、Kは全く気にならないようだった。駅前の踏切を渡り、駅から真っ直ぐに伸びる商店街を通って、二人はKの部屋を目指した。太一は、Kより10メートル以上遅れて彼の後を追った。

 住宅街の中にあるKのアパートにやっと到着し、二階にある彼の部屋に入った。すると、Kはシャワーを浴びると言い出して、さっさと風呂場に入ってしまった。太一は汗まみれの顔をシャツの裾で拭きながら、小さなテーブルの前に腰を下ろした。呼吸を落ち着けながら、ぼうっと部屋の中を眺めていた。Kの部屋はいつものように雑然としていた。相変わらず部屋の両隅には脱いだ洋服やら単行本やら雑誌やらが、無秩序に積み上げられていた。

 太一は何か音楽を聴こうとして、テレビ台の上にあるステレオに目を移した。その時、太一はテレビの上にKの家族写真がないことに気がついた。その事実は、最近のKについて何かを暗示している気がした。そのせいか、太一は音楽を聴く気が失せてしまった。

 何気なく、太一はKの部屋を見回した。そしてふと、部屋の隅にある山の中に、真新しい電化製品の段ボール箱があることに気がついた。その段ボール箱は封を切られた状態で、脱いだ服やら雑誌やらの山から少しだけ顔を出していた。それは、『パラダイス』の箱だった。太一は、今日までKがワープロを使うなんて話を聞いたことがなかった。そして、恐ろしい閃きが太一の頭をかすめた。

 太一は、その段ボール箱に思わず駆け寄った。そして、その箱の中を恐る恐る覗き込んだ。箱の中には、ビニールにくるまれた新品の『パラダイス』があった。その脇に、薄い操作マニュアルが乱暴に突っ込まれていた。マニュアルはしわひとつなく綺麗なままで、Kはそのワープロを使い始めたばかりのようだった。

 マニュアルのさらに脇には、定型の茶封筒が差し込んであった。その封筒は分厚く膨らんでいた。太一はまだ、さっきの閃きに捕らわれていた。何かが引っ掛かっていた。太一は風呂にいるKに断ることなく、その封筒を取り出して中身を確かめた。果たしてそれは、何十枚ものポラロイド写真だった。

 たまたま一番上にあった写真は、太一の知らない少女の顔写真だった。その少女は、肩にかからないくらいのショートカットで、いかにも子供らしい髪型だった。少女は眠そうに目を少しだけ開け、その透き通った二つの瞳はぼんやりと空を見つめていた。口も軽く開いていて、唇には何故か少し土がついていた。小ぶりで筋の良い鼻からは、大量の鼻血が流れ出ていた。それは、両頬の上で筋になって固まり、肌に張り付いていた。顔色は、不自然なほど白かった。一目で、太一は少女がもう生きていないと分かった。少女の背後には、絨毯のように敷き詰められた落ち葉が写っていた。この少女は、どこかの森の中で横たわっているのだろう。そして、もう冷たくなっていた。

 太一は息を飲んでその写真を見つめていた。その少女を、その停止してしまった少女の顔を見つめていた。突然太一は、彼女に話しかけたい衝動に駆られた。写真をつかんだ右手が、いつのまにか震えていた。

 2枚目の写真は、少女の裸の腹部をクローズアップしていた。写真の上部にかろうじて写った小さな乳房が、その身体が少女のものであることを示していた。1枚目の少女かはわからない。そして、写真の中央部には、その少女の腹部を斜めに横切った、長く深い傷跡が記録されていた。その写真が、その傷を撮ることが目的なのは明らかだった。傷に沿って少女の腹部の皮膚はめくれ上がり、内部の黒味がかった赤い肉が露出していた。傷の端は片方の乳房まで到達し、何故かほとんど出血していなかった。

 その長く深い傷跡を、たくさんの小さな傷が囲んでいた。出血している傷もあれば、していない傷もあった。つまり、出血していない傷は、少女が亡くなった後に負ったものだろう。そう思い至って、太一は凍りついた。

 もう無理だった。太一は封筒を段ボール箱の中に乱暴に突っ込むと、立ち上がってKの部屋の玄関に向かった。Kはまだ風呂場にいて、中からシャワーの音が聞こえていた。太一はKには何も言わずに、風呂場の前を通って玄関に行き、興奮に震えながら靴を履いた。太一は、Kに対してとても怒っていた。腹が立って口を利く気にもならなかった。太一は外に出て、気持ちをたかぶらせたまま早足でKの部屋を離れた。

 太一は、自分の部屋に帰ろうとしていた。まだ時刻は昼前で、曇り空だが暖かい日だった。辺りには、自転車に乗って買い物に行く様子の主婦や、学校帰りの男子高校生のグループや、小さな子供の手を引く母親の姿が見られた。全く何の変りもない日常の風景だった。

 その中にいながら、太一はだんだんと両脚が震えてきていた。次第に、Kに対する苛立ちは太一の中で重みをなくし、ほとんど気にならなくなった。もっと重要なことが太一を支配して、太一から思考する力をどんどん奪っていった。太一は歩きながら、とうとう肩から震え出した。身体の芯から、凍えるような寒気を感じた。

 太一は、近くの公衆電話ボックスに入り、そこからバイト先のレストランに電話をかけた。電話口にのっぽさんを呼んでもらい、今夜は休ませて欲しいと頼んだ。「おい、ひどい声だぞ。風邪か?」とのっぽさんは言い、休みを了承してくれた。

 電話ボックスから出た太一は、また歩き出した。下を向いて、もう何も見ないようにして歩いた。周囲の人々を見るのが苦痛だった。そしてついに、太一はとうに解っていたこと、解っていながら考えることを避けていたことを、自分の中ではっきりと認識した。「この事件の犯人は、Kだ。」


 その日を境に、太一は一歩も部屋から出なくなった。大学にもバイトにも行くことも止めてしまった。ほとんど眠れなかった。薄手の掛け布団をかぶり、部屋の壁に寄りかかった体勢でたまに1、2時間だけ眠ることを繰り返した。ずっと自分の部屋に引きこもって、テレビを朝から真夜中まで付けっ放しにして過ごした。テレビは点いていたが、太一は画面に映し出されたものが理解できなかった。頭が全然回らなかった。

 目を閉じるたび、Kの部屋で見た少女の顔写真が浮かんだ。切り裂かれた傷口の奥の、赤黒い肉が浮かんだ。何もする気にならなかった。食欲もなくなった。一日に一回、買いだめしておいたカップラーメンを食べて済ませた。それ以上は何もいらなかった。電話が掛かってきても出なかった。しまいには、電話機から電話線を抜いてしまった。そうして、太一は何日も誰にも会わずに過ごした。Kが死ぬまで。そして、Kが死んでからも。

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