第9話 事件2
事件発生から数日のうちに、事態は悪化の一途をたどった。まず、殺された二人の少女の身元がようやく判明した。彼女たちは、ここから遠く離れた太平洋を望む街の中学2年生だった。二人は1ヶ月ほど前に、わざわざこの街に遊びに来ていた。彼女たちは、この街に行くことをそれぞれの両親に伝えていなかった。その事実が、身元判明を手こずらせた原因の一つとなった。
彼女たちの死体がまだ新しかったために、死因が特定された。それは失血死だった。致命傷と思われる傷はなく、身体に無数に残っている傷のせいで出血多量となったのだ。その事実は、二人が痛みに長く苦しんだ末に息を引き取ったことを人々に教えた。ここに至って、太一のエロティックな妄想は完全に消え失せた。
そして、4人目の被害者が発見された。その少女は、農業用水路の暗渠で見つかった。市からの委託を受けて、たまたま定期的な清掃を行っていた業者が第1発見者となった。彼女も全裸で、全身に生々しい無数の傷があった。その少女は、近くに住む中学3年生の女の子で、亡くなったのはちょうど1週間前だった。その夜遅く、彼女は進学塾から家に帰るため、22時頃に友達と家に向かって歩いていた。自宅近くでその友達と別れた時が、目撃された彼女の最後の姿だった。
太一の街は、もうパニック状態に陥っていた。市内全ての小中学校は集団登下校を義務付け、部活動は無期限停止となった。4人目の被害者の死により、夜遅くまで授業を行う進学塾が槍玉に上がった。母親たちは、パートや正社員の仕事も辞めて、始終少女たちに付き添うようになった。中学校の終業時間が近づく頃には、校門の前に母親達が何列にもなって並んでいた。彼女たちの何人かは、痴漢撃退用の催涙スプレーやスタンガンを持ち歩き、武装化し始めていた。
そこへ、地元の地方新聞社に犯人からと思われる犯行声明が届いた。それはワープロ専用機で作成されたもので、声明の内容は短く、
「私は聖なる攻撃を実行した。この恐怖はこれからも続く。私の兄弟たちが後に続くだろう。 ジャック・ザ・リッパー.Jr」
とだけ記されていた。
報道機関は、こぞってこの犯行声明を取り上げた。ジャック・ザ・リッパー.Jrとは、明らかにロンドンの未解決事件である切り裂きジャックを指していた。まず、これが犯人本人による声明なのか、疑義が出された。文面がまるで共産主義の過激派グループが使うような文章だったからだ。事件に便乗した愉快犯の可能性は否定できなかった。もし犯人本人によるものだとしたら、『私の兄弟たち』とは一体どういう意味なのか?。この事件の犯人は、複数犯なのか?。つまり、この街には、残虐な犯罪を犯す者が、何人も存在しているのか?。報道機関は、はた目に見ても呆れるほど、この出処不明の犯行声明を大袈裟に扱った。専門家と名乗る得体の知れない人物が雨後のタケノコのように現れ、テレビや新聞や雑誌で自説を披露した。Sが言うように、他社に負けまいと、エキセントリックに恐怖を煽るように報道していた。
犯行声明に使用されたワープロ専用機は、その字体から『パラダイス』という製品であることがわかった。しかし、『パラダイス』は競合する『小説家』という製品と市場を分け合う大ヒット商品だった。出荷台数は100万台を超え、犯人を探す手がかりにはなりそうもなかった。
太一も、『私の兄弟たち』という呼びかけに、ぞっとした一人だった。大学とアルバイト先を往復するだけの毎日を送りながら、太一は事件のことばかり考えていた。しかし、最初の日以降、KとSとこの事件の話をしようとは思わなかった。
この頃、Kはとても情緒不安定になっていた。太一たち3人で学生食堂に集まっていると、しょっちゅう些細な事でKとSの口喧嘩が始まった。その度に、太一は仲裁する役目を負うことになった。
あの日の午後のこと、太一たちはいつもの食堂に集まっていた。Kがいつもに増して熱心に、ビートルズの素晴らしさについて語っていた。
「・・・ポールとジョンに対すてジョージの才能は低く評価されがつだ、すんかす、彼は目の前でポールとジョンが生み出すマズックを見ていたんだ、この世の誰よりも恵まれた環境にいたんだ、優れた作曲家にならない方がおかすいよ、実際にジョージはホワイルマイギタージェントリーウィープスとサムシングを作っているこの曲のすごいところはポールとジョンが生み出すてきた作曲テクニックのエッセンスを凝縮すて、極めてスンプルな形にすていることなんだ、ジョージはポールとジョンに言いたかったはずだ、君たつのやりたいことはこれだろ?、俺は、一人でそれができるぜ、とね。ポールとジョンはデビュー当時から作曲チームを組んでいた、歌っているのがポールなら元のアイデアを作ったのはポール、ジョンならジョンが作った曲だ、すんかす、二人はそれぞれが作った曲を見せ合って細かい手直すをす、二人とも納得すてからレコーディングに入ったんだ、つまり、お互いに助け合う史上最強の作曲チームだった、ところがジョージはそうじゃなかった、ジョージが曲を作る時、ポールとジョンは手伝ってくれなかった、彼らは自分たつの曲を作るのに忙すかったからね、ジョージはたった一人で史上最強の作曲チームに引けを取らない曲を作らなくてはならなかった・・・」
Kの話は途切れることなく続いた。とても興奮して、顔が少し紅潮していた。たまにKの唾が飛んで太一の顔にかかった。しかし、Kは気がついていないようだった。元から音楽に興味のないSは、呆れてKの様子を見ていた。
「・・・ホワイルマイギタージェントリーウィープスの素晴らすさは、すの形式にあるんだ、原型はジョンのアイアムザウォルラスだ、すかすジョージは一人でそれを非常にスンプルな形に置き換えた曲を作った、今日たくさんの人がアイアムザウォルラスを褒めるけんど、多くのミュージシャンが自分で曲を作る時に参考にするのはホワイルマイギタージェントリーウィープスの方だ、具体的にはⅠm - Ⅰm (onⅦ#) - Ⅰm(onⅦ) - Ⅵ(onⅣ#) -Ⅳ だ、この形式はビートルズのたくさんの曲で部分的に取り入れられている、いわゆるクリシェラインとビートルズが生み出すたⅥメジャーコードの組み合わせだ、だが最もスンプルな形式で作られているのはホワイルマイギタージェントリーウィープスなんだ、同様にジョージはサムシングではさっき言ったⅠm - Ⅰm (onⅦ#) - Ⅰm(onⅦ) - Ⅵ(onⅣ#) -Ⅳ とⅠ△ - Ⅰ△ (onⅦ#) - Ⅰ△(onⅦ) - Ⅵ(onⅣ#) を両方使い、さらにメジャーパターンをひねってⅠ△ - Ⅰ△7 - Ⅰ7- Ⅵとさらにスンプルにすている・・・・」
Kは取り憑かれたようにしゃべり続けた。もはや太一にも、Kの話していることは暗号でしかなかった。全く理解できなかった。仕方なく相槌だけ打っていると、Kが自分を見ていないことに気がついた。まるで、太一の後ろにいる人に話しかけているようだった。気になって、太一は一度後ろを振り返った。もちろん、後ろには誰もいなかった。Kは、そんな太一の行動を気にも留めずにしゃべり続けた。
そしてKは、何の前触れもなく話すのをやめた。すでに彼の話を聞いていなかったから、太一は話が終わったのかわからなかった。彼はすくっと立ち上がり、何も言わずにトイレに向かった。
「一体何なんだ、あいつは。」とトイレに向かうKを見送りながら、Sが言った。
「なあ、あいつおかしくないか?。」とSが頭を指差しながら言った。太一も同じことを考えていた。
その日の夕方は、Sが太一に料理を教えてくれることになっていた。Kも誘ったが、彼は体調が良くないと言って帰った。太一とSは、まず二人でスーパーへ食材を購入しに行った。
スーパーに入ると、Sはまず野菜をしげしげと眺め、それから値段を細かく確認することを繰り返した。太一はいつもよく見ずに買ってしまうので、Sの行動はとても不思議で新鮮だった。「質と値段が釣り合わないものが多いからな。気をつけないといけないんだよ。」とSは言い訳するように行った。Sは、必要な調味料も特売品しか買おうとしなかった。おかげで買い出しは予想以上に時間がかかり、太一のアパートに帰る頃には、陽はとっくに沈んでいた。
「この冷蔵庫、まだ動いてる?。」
アパートの部屋で野菜を冷蔵庫にしまっている時、Sが太一に聞いた。
「まだ大丈夫そうだよ。」
太一の冷蔵庫は、Kから譲ってもらったものだった。Kは、一人暮らしを始める時にリサイクルショップでその冷蔵庫を購入した。格安の商品だったが、使ってみるとあまりにも旧式で小すぎた。しかもほとんど冷えなかった。彼はさっさと新しいものを購入し、不要となった冷蔵庫の扱いに困っていた。そこへ、家具を何も持っていない太一と知り合った。こうして、太一がその冷蔵庫を譲り受けることになった。
冷蔵庫の引越しは、Sを加えた三人で行った。Kのアパートから太一のアパートまでは徒歩10分くらいだった。冷蔵庫を二人で運び、一人が付き添いながら待機して、疲れたら交代した。太一とSは、すぐに大量の汗をかいてフラフラになった。Kは最後まで交代せずに運んでくれた。珍しく愉快な思い出だった。
Sの料理は野菜スープだった。カタカナで、フランス語だかロシア語だかの難しい名前が付いていたが、太一は教えてもらった直後に忘れてしまった。料理自体は、予想外に簡単だった。問題は隠し味で、Sは調味料の量や使うタイミングについて事細かに説明してくれた。しかし、太一は自分一人で作る自信は持てなかった。
「ベランダで野菜を作ると、もっと金を節約できるぞ。」
出来上がったスープを食べている時、Sが言った。
「ベランダでできるの?。」
「できるよ。お前の部屋はまあまあ陽が当たるから、キュウリやトマトなら作れるぞ。」
太一は、キュウリやトマトの育て方はもちろん、いつの季節の野菜なのかも全く知らなかった。太一にとって野菜は、スーパーに行けば一年中売っているものだった。
「もちろん俺だって最初は何もわからなかったよ。だけど調べてみると、意外と簡単なんだ。」
「どうすればいい?。」
「幅が1メーターぐらいあって、底が深い鉢を用意するんだ。その鉢に土をたっぷり入れて、キュウリやトマトなら4月に種をまく。キュウリはつるが伸びてくるから、それがつかまるための網を張っておく。トマトは茎を支えるための支柱を用意して、大きくなってきたらそれに縛り付けておく。上手く成長すれば、7月から収穫できるよ。」
「ほんとに簡単にできるの?。」
「もちろん、定期的に水をあげたり肥料を適量与えたり、いろいろ気を使う必要はあるよ。でも、成功すればしばらく収穫できるから、金がかからないぞ。」
「Sはどんなものを作ってるの?。」
「キュウリとトマトの他には、ネギとか大根とかジャガイモとか。大根とジャガイモは店で売っているものより小さいけど、長持ちするから特に重宝するよ。」
Sの生活力に、太一は改めて感心した。まさかアパートで農業をしているとは。
Sは、アルバイトをしていなかった。「中途半端にバイトをしたって時間の無駄だ。」と彼はいつも言った。生活費を徹底的に切り詰め、家からの仕送りだけで生活していた。娯楽にはほとんどお金を使わなかった。彼は、太一の知る限り大学以外の活動場所を持っていなかった。
彼が通った福岡の高校は、全国でも名の知れた進学校で、毎年東大合格者を何人も出していた。だから、Sは本来一流の大学に入るはずだった。一流大学に入れば、当然就職も圧倒的に有利だ。しかし彼は、なぜか有名大学の試験に片っ端から落ちてしまった。その経験が、彼を追い立てていた。
「Sは、いつから新聞記者になろうと考えたんだい?。」と太一は聞いた。
「そりゃ、大学入試に失敗した直後だよ。」とSは答えた。「受けた大学にほとんど全部落ちてさ、相当落ち込んだんだよ。その時思いついたんだ。新聞社なら、大学の名前よりも実力のはずだってね。」
「それまでは違ったんだ。」
「まあ、いい大学に入って東証一部上場の企業に就職する、それぐらいしか考えてなかったな。それに高校の頃は、超一流の大学に入る、それしかなかったんだ。超一流大学の学生になれば、いろんなことが楽になる、そう思ってたからね。」
「いろんなことって、火傷のことかい?。」
「そうだ。俺の悩みはみんなこの火傷から始まってるんだ。この気持ち悪い傷跡を打ち消すために、俺は努力をしているんだ。」
Sは、びっくりするほどの読書家だった。しかも、ジャンルを問わない雑食だった。有名な文学作品や教養書はもちろん、軽いミステリー小説や雑誌の類まで、近くの図書館に通って読み漁っていた。「何でも知っておかないと、新聞社に入った時にバカにされるからな。」と彼は言った。学生という自由な身分のうちに、ありったけの知識を詰め込むつもりらしかった。
「お前とKはロックばかり聴いているけど、俺には本があるからな。」とSは言った。
「楽しいの?。」
「もちろん楽しいよ。知るっていうのは気分のいいもんだ。知れば知るほど、自分がパワーアップしていくのがわかる。」
そんなものだろうかと太一が考えていると、Sは話題をKに変えた。
「なあ、最近のKはおかしいと思わないか?。」とSは切り出した。
「確かに。」太一は、同意するしかなかった。
「お前何か聞いてるか?。」
「いや、特にないと思う。」
「この間、俺がホームで電車を待ってたら、駅前の商店街にKが立ってたんだよ。道端にポツンと一人で。」
「うん。」
「声をかけようかと思ったけど、距離が遠かったからやめたんだ。それで、電車が来るまでホームからKを見てたんだけど、なんだか様子が変なんだよ。」
「様子が変って、どんな風に?。」
「ぼおっと立ったまま、駅前を歩く人の流れをずっと見てるんだよ。ほら、夕方は高校生がたくさん乗り降りするだろう。Kは、自分の前を通り過ぎる女子高生をずっと目で追ってるんだよ。」
太一は、駅前に一人で立つKを想像した。そして、彼が女子高生を凝視する姿を。あまり愉快な絵ではなかった。
「あいつさ、あの通り不気味な風貌だろう。それであんなことしてたら、女子高生たちは怖がるぜ。例の連続殺人事件でみんな過敏になってるときに、あんな不審な行動してたらまずいよ。今日のやたら興奮した様子も変だったし、あいつ何かあったのか?。」
太一は、家庭教師を断られた一件を思い出してSに説明した。Kの妹のことは、Sには伏せておいた。
「そうか。そりゃ傷つくな。」
「僕には、慣れてるから大丈夫だって言ってたけど。」
「『慣れる』か。」
Sは目を閉じて腕を組み、しばらく考え込む様子を見せた。少ししてから、彼は話し出した。
「慣れるって簡単に言うけど、それは不可能だよ。俺がこの火傷の跡に慣れるのと同じことだろ。前にも話したと思うが、それは無理なんだ。」
Sのきっぱりとした言い方に、太一はハッとした。やっぱり慣れるのは無理なのだろうか?。
「小学校から高校までは、体育の授業の前に教室で着替えないといけないよな。俺は、あれが嫌で嫌でしょうがなかった。なぜかっていうと、クラスのみんなに火傷を見られるからだよ。俺が仕方なく着替えていると、みんなは俺に背を向けるんだ。なぜだと思う?。」
「いや、わからないよ。なんで?。」
「みんな俺の火傷を見たくないんだよ。クラスの全員が一斉に、俺に背を向けてるんだぜ。まるで、汚いものから目を背けるみたいに。なあ、そんなことをされたら、どんな気がすると思う?。」
「ごめん、想像できないよ。」と太一はすまなそうな顔をして言った。
「そりゃそうだよな。あれは経験しないとわからないよ。俺が言いたいのはさ、そんな体験をして俺が慣れたかっていうことだ。」
そこまで話して、Sはいったん言葉を切った。太一はSの目を見た。
「慣れないよ。慣れる訳ないだろう。むしろ、俺は自分の火傷をますます意識するようになった。この火傷を、世の中の人がどれほど嫌がっているか身にしみてわかったんだ。それ以来、俺はこの火傷を徹底的に隠すことにした。制服の下に、いつも体操服を着ることにした。プールの授業は、適当な診断書を作ってもらって全部見学した。」
太一はごくりと唾を飲み込んだ。Sの火傷の話は、いつものように生々しい力強さを持っていた。太一はその圧倒的な力に飲み込まれた。
「なあ、この世には『絶対的な醜さ』というものがあるんだ。俺の火傷もその一つだ。認めるしかないんだ。諦めるしかないんだよ。Kだって同じだよ。慣れてるなんて言ってないで、とっとと家庭教師なんかやめた方がいいんだ。働きたいなら、人と接しなくて済む仕事を他に探した方がいいよ。俺が火傷を隠すのと一緒さ。Kは人と接しない方がいいんだよ。」
Sの言っていることは、とても説得力があった。それでいて、太一は何かが引っかかった。その通りだと思うけれど、どこか腑に落ちなかった。それが一体何なのか、太一は正体がつかめなかった。
「Sの言う通りだと思うけど、Kは家庭教師もやめなくちゃいけないのかな?。」
太一が引っかかったことの一つが、Kは人と接しない仕事をするべきという話だった。太一も、アルバイト先のレストランでは仲間外れだった。嫌がらせをされてはいないけれど、孤立しているのはつらかった。だからと言って、自分から辞めるのは嫌だった。それは、自分で自分の可能性を放棄する気がした。
「当たり前だろう。あえて危険を冒すことはない。傷つくってわかってるんだから。そうだろ?。」
「Kは、子供に教えるのが好きなんじゃないかな。」
太一がそう言うと、Sは困った表情をした。
「そうなのかもしれないよ。わざわざ家庭教師なんかやってるんだから、子供が好きなのかもしれない。でもさ、『好きだから』で無理を通せないのが、この世の中なんだ。実際、気持ち悪いからってクビになった訳だろう。俺が火傷の跡を隠すように、Kも世の中から自分を隠すべきだよ。でないと、俺が経験したように、周りにいる全員から背を向けられる羽目になるんだ。お前だってわかるだろう?。」
つまり、隠れて生きて行けということだ。太一も、人に近づかないことでトラブルを避けて生きてきた。しかし、隠れることは話が別だという気がした。それでは、自分のプライドを捨ててしまう気がした。「俺は認めない。俺は受け入れない、絶対に認めない。」という、ニルバーナのフレーズが頭の中で鳴った。太一は、皿の底に残った野菜スープをじっと見た。
この違和感はどこから来ているんだろう?と、太一は考えた。Sに深く同意しながら、太一は彼の意見にあらがいたい衝動に駆られていた。このあいだの夜、のっぽさんは現実をわかることが重要だと言っていた。Sが話したことは、太一たちを包む冷徹な現実だった。その現実に対して、Sは諦めるしかない、だから隠れろと言っている。しかし、太一はどうしても納得できなかった。焚き火をした後の最後の燃えかすのように、太一の内部にある何かがプスッ、プスッと音を立ててくすぶっていた。
その燃えかすの正体を、太一は思いついた。それは、希望だった。「隠れて生きろ」という命令には、かけらの希望もなかった。はっきり言って、Sの話には救いがなかった。どんなに醜くとも、太一たちには救いが必要だった。拒絶に慣れることが不可能ならば。
「どうしたんだ。そんな難しい顔をして。」Sがずっと黙っている太一に話しかけた。
「僕たち、隠れて生きて行かなきゃならないのかな?。」
「おいおい、世捨て人になれとは言ってないぞ。俺だって、そんなものになるつもりはない。ただ、自分の傷は隠せということさ。自分の傷を覆い隠せるような、別の何かを身につけるんだ。俺の場合、それは新聞記者になることだ。それにふさわしい知識を身につけることだ。」
Sの言っていることは、一見筋が通っているように見えた。社会に出るために、何もかも捨てて努力する姿は賞賛されるべきものだった。しかし、と太一は思った。Sの火傷は残ったままだった。大きくて丈夫な布で覆っているだけだ。それでいいんだろうか?。太一には、傷を隠そうと頑張り続けるSの姿が痛々しくさえ思えた。
「Sは、頑張りきれるのかい?。」と太一は言った。
「きついこと言うな。」とSは言って笑った。顔は笑っていたが、少しひきつっていた。
「もちろん頑張るさ。俺は乗り越える。そして、復讐するんだ。今まで俺に目を背けた奴らに。たっぷり利子をつけてな。そう考えると、またやる気が湧いてくるんだ。」
太一はハッとして顔を上げた。今日初めて、ストンと腑に落ちる気がした。復讐だ。普通の人たちに仕返しをするんだ。激しいロックを聴いている時に感じる、現実否定というか、破壊衝動を太一は思い出した。それは、この世界を滅茶苦茶にしてやりたい、という破滅的な衝動だった。
「Sも、やっぱり復讐したいんだね。」
「夜道に後ろから襲い掛かるわけじゃないぞ、言っとくけど。」とSは断った。「やりたい奴は山ほどいるが、そんなことしたってキリがない。すぐ捕まって、人生を棒に振るだけだ。」
「それはそうだ。」
「俺は、今まで俺を蔑んだ奴らを攻撃する側に回りたいんだ。徹底的に叩いてやるんだ、ペンを使ってね。『ペンは剣より強し』だよ。」
つまりSは、被害者から加害者に回ろうとしていた。復讐が彼のエネルギーの源だった。だけど、と太一は考えた。この間、のっぽさんは『美が崩壊すると、今まで美しいと思ったものを否定するようになる』と言っていた。太一やSが復讐を望むのは、これまでの人生で失敗したからじゃないのか?。太一は醜いために、Sは火傷のために。いくつも傷を負って、自分の美が崩壊したからじゃないのか?。復讐とは結局、何の目的もない破壊のための破壊でしかない気がした。
太一は黙ったまま、Sの顔を覗き込んだ。彼は少し興奮していた。鼻の穴を大きく膨らませ、顔を少し赤くしていた。額にはうっすらと汗をかいていた。彼の全身からエネルギーが滲んでいた。太一は少し怖くなった。
「Kはどうするつもりなんだろう?。」
「わかんないな。何を考えているんだか。」
Kは、Sのように自分の内面を話すことはなかった。音楽について話す時を除けば、彼はいつも必要最低限しか喋らなかった。唯一の手がかりは、新宿御苑で聞いた『もっと美しいものが見たい』という彼の言葉だった。その言葉は、太一には前向きなものに思えた。その一方で、駅前に立ち尽くすKの姿が頭に浮かんだ。太一は深いため息をついた。
「俺さ、最近あいつに付き合ってるのがつらくなってきたんだ。」
「えっ?。」
「ほら、あいつ時々わけのわからないところで怒り出すだろ。」
「確かに。」
「あの調子が続くなら、俺はかなり苦痛だよ。」
Sの言葉に、太一は何も言えなかった。
食器を台所に下げると、Sは腰を上げて「そろそろ帰るよ。」と言った。玄関で彼と別れドアを閉めた後、太一は苦い、後味の悪いものを感じた。
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