第8話 のっぽさん3 エロティシズムについて
「この近くで、中学生が何人も殺されてる事件のことなんですけど。」と太一は話し始めた。
「ああ、あれね。酷い事件だよな」
のっぽさんは、瓶ビールを自分のグラスに注ぎながら答えた。太一は、話を続けた。
「あのニュースを見ていると・・・、何というか・・・」
太一は話を切り出してはみたが、何と言っていいかよくわからなかった。どう言えば、自分が感じていることを正確に伝えることができるのか、太一は迷って言葉が出て来なかった。
「あのニュースを見てると、自分でも同じことをしたくなるのかい?」
のっぽさんに自分の言いたいことを先読みされて、太一は驚いて飛び上がった。心臓が止まりそうだった。動揺する太一をよそに、のっぽさんは平然とした顔をしていた。
「マスコミの報道はひどいからな。そう感じてもおかしくない」
おどおどしている太一を尻目に、のっぽさんはさっさと納得してしまった。そして、さらに畳み掛けるようにこう言った。
「君も、女の子を殺したいのか?」
のっぽさんはいたずらっぽい眼をして、太一の顔を覗き込んだ。太一は、首を大きく振って否定した。その様子を見て、のっぽさんは笑いだした。
「殺すつもりはないけれど、ニュースを見ていて自分も女の子を襲いたくなっている。そんなところかな。」
参った。ほとんど何も言わないうちに、のっぽさんに全て見透かされてしまった。つくづくこの人にごまかしは通用しない、太一は、感じているままを正直に話すことにした。
「でも、僕にはよくわからないんです。人が殺されているのに、何で自分はそれを見て喜んでいるんだろう?」
「別に喜んでいる訳じゃないだろう。でも、いやらしい妄想が頭の中にある。一体それはなぜなのか?」
太一は、観念してうなずいた。
「つまり君は、エロティシズムが持つ残酷な側面について話をしたい訳だ。」
そう言って、のっぽさんは立ち上がり、冷蔵庫から次の瓶ビールと梅酒サワーを取り出し、梅酒サワーの方を太一に渡した。それから、次のCDをプレーヤーに載せた。それは、King Crimson の Red だった。ロック史上、最も混乱した感情に満ちたアルバムだ。
「少し前に、美の話をしただろう。」と、のっぽさんは言った。
「はい」
「実はあの話にヒントがあるんだ」
いつものように、のっぽさんは不思議な話の始め方をした。太一はこれからどうなるんだろうと、身構えながら耳を傾けた。
「人は失恋をすることで、とんでもない傷を負ってしまうことがある。あるいは、華々しい失恋体験をしなくても、同じくらいの傷を負うことがある。」
「はい。」と太一は同意した。このあいだの晩に、いつもの焼き鳥屋で聞いた話だ。
「君は、女の子に好かれることを諦めているだろう。」
のっぽさんのその言葉は、拳で心臓を殴れらたような衝撃を太一に与えた。太一は確かに、女の子に好かれることを諦めている。というより、ずっと前から諦めていた。そして、おそらく一生、自分を好きになってくれる女の子は現れないだろう。太一は、はっきりと確信できた。「これから先、誰も僕を好きになることはないでしょう。」
そう確信してから、太一は耐え難い恐怖に襲われた。真っ暗な部屋に突然放り込まれたような、手がかりが全く見出せない孤独な恐怖だった。
「そんな泣きそうな顔をするなよ。俺が悪かった」
のっぽさんは悪くなかった。全部本当のことなのだ。太一は目を閉じ、膝に顔を当てて次々と押し寄せる恐怖に耐えた。耐えるしかない。他に方法がない。
「大丈夫か?。気持ち悪いのか?」のっぽさんは、本当に太一のことを心配し始めた。
「いえ、大丈夫です」
太一は、最後の力を使ってかろうじてそう答えた。大袈裟ではなく、身体の底に残った最後の力だった。それは、プライドに似た感情だった。
「エロティシズムというのは、諦めと絶望から発生するんだ。」
だいぶ経ってから、のっぽさんは話の続きを始めた。
「人は誰でも、子供の頃から少しずつ成長するうちに、周囲の人々を意識するようになる。特に同年代の異性を意識するようになる。要するに、誰かを好きになるわけだ。しかし、残念ながら沢山の人が上手く相手との関係を築けない。成長していく過程で、何度も手酷い拒絶を受けることになる。」
まさに、太一のこれまでの人生だった。多くの人が、太一から目を背けた。太一のことを拒絶した。
「もしも、誰か受け入れてくれる人がいたら恋愛とエロティシズムは分離しない。しかし、誰にも受け入れられないまま時間が過ぎると、相手に受け入れられることを諦めるようになる。絶望して、相手を思いやることも止めてしまう。この時、エロティシズムから恋愛の要素が抜き取られて自分のエゴだけの感情に変化する。
恋愛を諦め、絶望した人間は自分のことしか考えてない。つまり、オナニーだ。相手の都合なんて考えてない。それに大抵の場合、怒りが混じっている。拒絶されたことから来る怒りだ。暴力を使うことも厭わない。典型的なのはレイプだ。むしろ、力を使って嫌がる相手を服従させた方が興奮を高めてスッキリすることもある。だから厄介なんだ。」
そう言ってから、のっぽさんは今日初めて真剣な表情をした。のっぽさんの眼は、目の前のある一点を見つめていた。この話は、のっぽさんにとっても、真剣に語るべき話なのだ。太一にはそう思えた。
「おまけにだ。」
のっぽさんの話には、まだ続きがあった。太一は聞き逃すまいとして、意識を集中した。
「エロティシズムは長続きしない。というか、一瞬しか持たない。ドラッグみたいなもんだ。ラリっている時はいい。でも、薬はすぐに切れる。切れると虚しさがやってくる。でも、もう一度手に入れたい。だから、何度も何度も繰り返す。またすぐ切れる。出口はない。」
太一は、自分のことを考えてみた。毎日の生活で、太一が生身の女の子と接する機会は全くなかった。女の子に触れることはもちろん、言葉を交わすことすら皆無だった。太一は、Kの部屋や自分の部屋でブラウン管の中にいる女の子とだけ接した。自分の部屋に独りでいる時は、テレビの前で下半身裸になって、画面を見ながらオナニーをした。そして、終わった後は必ず虚しくなった。
そういえば、音楽も同じだった。好きな音楽を聴いていると、その間だけ嫌なことを忘れることが出来る。しかし、聴き終えた後は、現実が太一のもとに帰ってきた。消し去りたい過去の記憶が次々と蘇り、太一の生気を奪っていった。確かに出口がなかった。
「僕は、どうすればいいんですか?。」
太一は、思い切って一番訊きたかったことを口にしてみた。のっぽさんなら知っている気がした。
「まあ、手っ取り早いのは何かの宗教を信じることだな」
太一がむすっとして黙っていると、のっぽさんがすぐに気づいて言葉を続けた。顔は笑っていた。
「怒るなよ。でも、悪くない回答なんだぞ。君が今求めてるものじゃないだろうけど。」
「宗教って何ですか?。」
この際と思って、太一は漠然とした質問をしてみた。誰にも聞けない質問だ。
「おいおい、宗教の話をしだしたら、本題から逸れてしまうぞ。それはまた今度にしよう。今の問題は、最近の殺人事件に君が感じるエロティシズムをどう考えればいいかだ。そうだろう?。」
その通りだった。太一はうなずいて、のっぽさんの言葉を待った。
「楽しないことだな。」
「何ですか、それ。」
肩透かしを食らって、太一は少し頭にきた。でも、これはのっぽさんのペースだった。
「つまり、考えろってことだよ。考えて、わかるようになることだ。」
のっぽさんは、さらに話を続けた。
「『わかる』上で一番大事なのは、短い文章でわかるようになることだ。大学入試の現代文のテストであっただろう。『以下の質問に、50文字以内で答えよ。』あれだよ。」
「なんで、短い文章である必要があるんですか?。」
のっぽさんが次々に繰り出す摩訶不思議な言葉に、太一は頭がパニックになりつつあった。短い文章?。
「難しい問題に短い文章で答えようとすると、必然的に簡単な言葉になる。簡単な言葉なら、本当に『わかる』ことができるんだ。世の中には、難解な言い回しを長々とする奴がいっぱいいる。それはそれで理由がないわけじゃないんだが、それには致命的な欠点がある。」
「欠点って何ですか?」
「伝わらないんだよ。いくら話しても、相手に『わかって』もらえない。あるいは、自分の言葉が、相手によって何通りにも解釈されてしまう。要するにバラバラだ。そのうちに、自分でも『わからなく』なってくる。だから、ダメなんだ。」
「さあ、そろそろ夜も遅くなってきたし、本日の締めに入ろう。」
のっぽさんは、ビール瓶に残っていた最後の雫をグラスに注いだ。そして、手を伸ばして空き瓶を冷蔵庫と壁の隙間にしまった。
「さて、本日のテーマはエロティシズムだった。エロティシズムは諦めから発生するから利己的で、時に暴力も伴う。しかも長続きしない。それに対して、君はどうするべきか?。」
そこで、一旦のっぽさんは話を止めて、太一の顔をじっと見た。それから、話を続けた。
「問題のスタートは諦めなんだ。つまり、君の問題は『女の子に好かれない』と諦めていることなんだ。」
さっき訪れた恐怖が、もう一度僕の背中を掠めていった。だが、今回はそれに巻き込まれずに踏ん張ることができた。
「でも、君は本当に『女の子に好かれない』のかい?。」
なぜだか太一は、下を向いて自分の両手を広げ、自分の手のひらを見てみた。そこには何かの感触があった。さっき感じた確信だった。
「無理だと思う。」太一は、堂々として答えた。
「断っておくが、俺は君を慰めるつもりはない。大丈夫だよ、そのうち何とかなるよ、なんて軽々しく言うつもりも全くない。」
太一は大きくうなずいた。
「今君は確かに女の子にもてない。それは事実だからそれでいい。一方で、もてるやつは周りに沢山いる。それも事実だからそれもいい。」
太一はもう一度大きくうなずいた。
「君は性欲を持て余している。暇があればAVばっかり見ている。でも所詮は代用物だ。長続きしない。虚しい。それもまた事実だからそれもいい。」
「いつもAVばかり見てるわけじゃない。」
「言葉の綾だよ。でも似たようなもんだろ?。」
今度は太一は反論しなかった。
「さあ、事実は出揃った。大切なのは、この事実、今の現実を君が『わかる』ようになることなんだ。」
「どうやったら、わかるんですか?。」
「さっき、楽するなと言っただろう。」
のっぽさんは少し強い口調でそう言った。でも、相変わらず目は笑っていた。
「今の君なら、どうやってもわからないだろう。というか、世の中でも『わかって』いる人は実は少ないんだよ。」
「のっぽさんはわかっているんですか?。」
「まあな。」
のっぽさんは、今度は口を開いてはっきりと笑った。
「頭を使って考えることだ。そして『わかる』ことだ。しかも、簡単な言葉で。さあ、明日も早い。そろそろお開きにしようぜ。」
帰り際に、のっぽさんは僕にCDを一枚貸してくれた。それは、U2 の Achtung Baby だった。玄関で、このCDは今日の話と関係あるんですか?とのっぽさんに聞くと、また、「まあな」とだけのっぽさんは言った。
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