第7話 事件1

 事件は、最初はほとんど目立たずに始まった。4月になり、太一は自動的に大学二年生になった。

 ある朝、太一の家からすぐ近くの森で白骨死体が見つかった。朝のテレビが、小さな扱いでそのニュースを報じていた。太一が住む街は、江戸時代からの旧市街が少しずつ宅地化され、郊外に広がってできていた。そのため、公共事業で計画的に開発された街とは違って、そこかしこに小高い丘や池が残っていた。住宅地には向かないために森のまま残り、中には100メートル四方の広さを持つところもあった。この街にはそういう場所が点在していて、死体が見つかったのもその一つだった。

 その死体の性別や年令はまだ調査中だが、その大きさから子供の可能性が高いとのことだった。気の毒だが、よくある話でもあった。この街の森では、自殺する人が後を絶たなかったからだ。その時の太一は、あまり気に留めずにテレビを消して大学へ出掛けた。

 その夜、太一が自分の部屋に戻ってテレビをつけると、事件は様相を一変させていた。23時のニュース番組は、どれもこの事件をトップニュースとして取り上げていた。放送時間を延長して、特別番組を組んだ局もあった。夜になって、白骨化した死体はこの街に住む女子中学生であることが判明していた。彼女は、2ヶ月ほど前から行方不明になっていた。そして、彼女は発見された時洋服を何も着ていなかった。つまり、彼女は全裸で死んでいた。死因はまだ不明だったが、ニュース番組は殺人だと断じていた。画面の下には「女子中学生全裸殺人事件」とテロップが表示され、その少女の顔写真と並んでいた。

 得体の知れない力に抑え込まれるように、太一はテレビ画面に見入っていた。しかも、その少女が発見された森の中からは、もう二つ別の死体が発見されていた。どちらも、死後1ヶ月以内と見られ、同じく全裸の少女だった。この二人の身元はまだ判明していなかった。

 常軌を逸した大事件であることは、間違いなかった。太一はまず、3人も少女がいなくなったのに誰も騒がなかったことに驚いた。身元のわかった少女は中学3年生で、最近あまり学校には行っていなかった。夜遅くまで出歩いていることも多かったらしい。いわば典型的な非行少女だった。彼女の両親は、彼女がいなくなっても家出したものと決めつけていた。

 太一は正直に言うと、このニュースに強烈なエロティシズムを感じていた。それから、この犯罪はあまりに『簡単だ』という気がした。少女がいなくなっても、誰も大きな不審を感じていなかったのだから。誰にも知られることなく、彼女は森の中で2ヶ月間も死んでいた。

 もう一度正直に言おう。太一は想像していた。想像の中で、太一はその森の中にいた。周りに誰もいない森の中で、太一は凶器を手にしながら、少女の前にいた。逃げ場のないところまで彼女を追い詰め、彼女に凶器を突きつける。そして、彼女に着ているものを全て脱ぐよう命じる。彼女は仕方なく太一に従う。全てを諦めて、目に涙を溜めながら洋服を全て脱ぐ。やがて太一の眼の前に、神々しいまでに美しい全裸の少女が現れる。太一は彼女の前に立って、いつまでもその透き通るような肌を見つめ続ける。

 太一の妄想は、ここまでで終わりだった。人を殺すことは、太一の想像を遥かに超えた出来事だった。どうすれば良いかさっぱりわからなかった。彼女を犯すことも、太一の想像を超えていた。太一は、これまで女とセックスはもちろんキスもしたこともなかった。さらに、女の手を握ったことさえなかった。太一にそんなことを許してくれる女性はいなかったし、これからも現れるとは思えなかった。だから、想像の中で少女の前に立った太一は、何もすることがなかった。次に何をしたらいいのか、さっぱり思いつかなかった。

 しかし、と太一は考える。今、少女が太一の前から逃げてしまったら、太一は窮地に追い込まれることになる。少女は警察に通報し、太一はまもなく逮捕されるだろう。太一の実名が世間に知れ渡り、太一は性犯罪者として激しい非難を受けるだろう。太一のこれからの人生は台無しになるだろう。 

 太一は、自分のこれからの人生に何の興味も持っていなかった。太一にとって未来とは、ひとかけらの希望も目的もない真空の空間だった。太一は、未来を失うという想像にほとんど恐怖を感じなかった。しかし、性犯罪者として糾弾されることは恐ろしかった。おそらくそれは、これまで太一が受けてきた様々な種類の拒絶や恫喝や罵倒などを、はるかに上回るものとなるだろう。太一はこれまで何とか耐えてきたが、性犯罪者になった時、もはや耐えられる自信はなかった。

 だから、太一は発覚を恐れて、結局その少女を殺してしまうだろう。手にした凶器は、できれば使いたくなかった。その美しい身体を傷つけたり汚したりすることは絶対にしたくなかった。では、首を絞めればいいのだろうか?。紐を用意しておいて、彼女の首に巻きつけ、力いっぱい締め上げる。彼女の顔は苦痛に歪み、二つの瞳からは涙がこぼれ落ちるだろう。唇が開き、太一は彼女の嗚咽と悲鳴をずっと聴き続けるだろう。彼女が息絶えるまで。駄目だ。とても耐えられない。

 太一は、いつの間にか体中に冷たい汗をかいていた。下着がぐっしょりと濡れて冷え、太一は凍えそうな寒さを感じた。それでも、太一は身じろぎもせず、相変わらずテレビの画面を凝視していた。金縛りにあったように、動くことが出来なかった。


 翌朝、よく眠れなかった太一は早くから大学に出かけた。大学に着くと、KとSを探した。この事件の話をしたかったのだ。その日必修科目の授業はなかったので、彼らと会う機会はなかった。それに、太一たちは二年生になってからあまり大学に行かなくなっていた。必修科目ですら、最近は休みがちになっていた。KとSはなかなか見つからなかった。

 太一がいつもの食堂に独りで座っていると、お昼を過ぎた頃にやっとKが現れた。やあ、とだけ言って、彼はテーブルの向かいに腰を下ろした。彼は少し顔色が悪く、疲れているようで元気がなかった。太一はすぐに、今最も話したいことを切り出した。

「この近くで死体が見つかったニュース、見たかい?。」

 Kは太一の顔を見て、しばらく黙っていた。彼は無表情だった。

「見たよ。」

 だいぶ経ってから、Kはそれだけ答えた。彼は太一から眼を逸らして、窓から見える景色を眺めた。その窓からは、いつものように延々と拡がる住宅街や、その間に点々と存在する緑が見渡せた。その緑の中には、3人の少女たちが見つかった森も含まれていた。

「すごい事件だよね。どう思う?。」

 太一は事件の話を続けた。しかし、Kは何も答えなかった。それどころか、太一の顔すら見なかった。

「犯人は、どんな奴なんだろう?。」

 やはり、Kは何も言わなかった。窓の外を見たまま動かなかった。太一は、Kがこの事件に全く興味を持っていないのだ、と判断した。本当は、事件に対して自分が感じていることを話したかった。それは、自分も同じことをしてみたいという欲望だった。それについて、Kの意見が聞きたかった。自分に一番近い人間であるKになら、率直に話しせる気がしていた。しかし、Kはそうではなかった。太一は諦めるしかなった。

 その日のKは、明らかに変だった。太一が別の話をしても、生返事を繰り返すばかりでろくに聞いていなかった。しまいには、「うるせえな。」と言ったきり黙り込んでしまった。その後二人は、テーブルを挟んで口を利かないまま、じっと座っていた。

 結局Kは、気持ちが悪いと言い出して帰ってしまった。太一は独り食堂に残り、今度はSが現れるのを待っていた。今日の太一はとても混乱していた。誰かと話がしたかったが、それができるのは、太一にはKとSしかいなかった。


 午後も遅くになって、ようやくSが食堂に現れた。彼は、トレードマークの黒いタートルネックの上に、朱色のビニール地の上着を着ていた。彼は太一の姿を見つけると、手を軽く上げて近づいてきた。歩きながら、手にしたタオルで額に流れる汗を何度も拭いていた。

 Sが太一の前に座ると、太一は早速事件の話を切り出した。

「近くの森で死体が見つかったニュース見た?。」

「ああ。大事件だな。」とSは笑顔で答えた。その表情から、Sは本物の新聞記者のようにこの大事件を歓迎しているように見えた。

「被害者は、この街の中学生だってね。」

「その子は、グレて学校に行ってなかったんだろ。殺されてもしょうがないよ。」

 Sは、殺された少女を非難することから始めた。それは違う、と太一は思った。太一も中学校3年の後半は、ほとんど学校に行っていなかった。その頃、太一は同級生からひどいいじめを受けていた。彼らは太一を裸にしてオナニーすることを強いたり、髪をライターで燃やしたりした。裸の身体に接着剤を塗られて、火がつくか試されたこともあった。醜い太一にそんなことをして、何が楽しいのかさっぱり分からなかった。だが、少なくとも太一を虐めていた同級生たちは楽しそうだった。やがて太一は学校に行かなくなり、そのまま卒業になった。高校は、太一の中学から遥かに離れた場所を選んだ。そうして太一は、自分の中学時代を消去した。だから、太一には彼女の気持ちが解る気がした。被害者となった少女は、自分の一番弱い部分を犯人に利用されたのだ。

「きっと、その子なりの事情があったんだよ。」

「そうかもしれないよ。でも、おそらく夜中にふらふらしているところを襲われたんだ。自業自得さ。」

 Sはあくまでも殺された少女の自己責任に固執した。太一は諦めて話題を変えた。

「何でニュースは、『全裸女子中学生殺人』なんて名前をつけて報道するんだろう?。」

 太一は、昨夜から感じている疑問をSにぶつけてみた。なぜニュースは、太一にエロティックな妄想を煽るんだろう?。それとも、太一がおかしいだけなのだろうか?。

「確かにひどいタイトルだよな。」

「なんで妄想を煽るようなタイトルをつけるんだろう?。」

「他人の不幸は蜜の味っていうだろう。みんな他人事だから面白がってるんだ。テレビ局は、事件を煽動的に報道しなければならない。全裸なんだから、何かされたに違いない、と匂わせるんだ。そうしないと他局に負けてしまう。ニュースキャスターたちは、お通夜に参列したみたいな神妙な顔をしながら、エロティックな妄想を掻き立てるニュースを流すんだ。マスコミとはそういう世界だよ。綺麗事は言ってられない。戦争報道だって似たようなもんじゃないか。」

 Sは時々、とても突き放した物の見方をした。冷徹な現実を味方に引き入れて、社会や大衆を非難した。そして、彼が披露する考え方はいつも、以前どこかで聞いたことのあるありふれたものだった。おそらくSは、『現実は厳しいのだから、何をしても構わない』という考え方や言い振りを身につけることで、自分を武装しようとしていた。彼の着こんだ鎧の下には、大火傷の跡があった。おそらく、彼は彼なりに強くなろうとして、こんな言い方をするのだと思う。しかし、太一はSの考え方に、のっぽさんが以前に言った『現実の歪んだ切り取り方』を感じた。太一は、Sとこれ以上事件の話をする気が失せてしまった。


 KとSを諦めた太一は、のっぽさんとこの事件について話したいと考えた。のっぽさんならば、すっきりとした斬新な答えを持っている気がした。だから、翌日の夜のっぽさんから「飲もうよ。」と誘われた時は、まさに渡りに船だった。

 店を閉めた後、二人はいつもの焼き鳥屋に向かった。しかし、生憎お店は臨時休業だった。経営者の家に不幸があったらしかった。

「じゃあ、俺んちに来ないか?。音楽も聴けるし。」とのっぽさんが言い、二人はのっぽさんの家に行くことにした。途中のコンビニで、酒とつまみを数点購入した。代金は全てのっぽさんが支払った。

 のっぽさんの部屋は、いわゆるワンルームマンションの2階にあった。リビングルームは一風変わった台形をしていて、部屋の奥には小さなベランダも付いていた。壁はコンクリートが剥きだしになっていて、とてもお洒落な雰囲気だった。のっぽさんは太一をソファを勧めると、まず最初に音楽をかけた。まるでKのようだった。のっぽさんは、また瓶ビールを飲んでいた。太一は今日はウーロン茶にした。

 音楽を聴きながら、のっぽさんは ニルバーナの話を始めた。彼は自分でネバーマインドのCDを購入して、カート・コヴァーンの書いた詞も丹念に読み込んでいた。

「しかし、ニルバーナは詞もすごくいいな。」

「どの曲の詞が好きですか?。」

「どれもなかなか唸らされるけれど、俺は ブリードなんか好きだね。世の中の、ありとあらゆる不幸を気にしない女の子が、幽霊だけは恐いと言う。何とも含蓄のある、考えさせられる言い方だ。」

 太一には、それがどうして考えさせられる言い方になるのか、よくわからなかった。

「どういう意味なんですか?。」

「典型的な例は兵士だよ。彼らは、仕事として敵の兵士を殺し、敵の街に爆弾を打ち込む。沢山の人間を殺すという不幸に慣れている。一方で、彼らは軍隊の規律やその上の国家を恐れ、崇拝している。下される命令に、無批判に盲目的に従う。本当に恐ろしいのは、自分が撃ち込んだミサイルで、子供やその母親が死ぬことなのに。まるで、幽霊しか怖くないと言ってるみたいじゃないか。本当に馬鹿げてる。」

 なるほど、と太一は思った。やっぱり、この人は普通ではない。

「しかし、素晴らしいけれど、なんか気になるんだよ。」

 のっぽさんは、珍しく自信のなさそうな、打明け話でも始めるような話し方をした。太一は不思議な感じを受けた。

「いったい、何が気になるんですか?」

「Nirvana の詞を読んでいると、このカート・コヴァーンという人は、とても危うい感じがするんだ。」

「あやうい、ですか?」

「うん。どうも彼は、自分の問題を処理できずにいる気がするんだ。彼の詞には、沢山の問題が提起されている。それが聴いている人の共感を呼ぶけれど、答えがない。答えがないまま、ただ『困り果てている』と歌っている気がするんだ。」

 太一も全く同感だった。彼も、解決出来ない悩みを抱えているのだ。

「僕もそう思います。彼も困ってるんだと思います。」

「君もそう思うかい。やっぱり、俺たちは話が合うな。」

 そう言って、のっぽさんは笑った。

「おそらくカート・コヴァーンは、このブリードに出てくるような人物に会ったことがあるんだろう。つまらない迷信を恐れるくせに、本当に恐ろしいことに平気でいられる人物に。

 あるいは、アメリカ社会の考え方に違和感を感じて、それを擬人化して歌っているのかも知れない。例えば、政治家の発言やマスコミの報道や、身近な人々が考えることの中に。そして、彼はとてもびっくりしているんだろう。ただ、それをどう受け止めていいのかわからない。自分の違和感の正体がつかめない。アルバムの最後の曲である、サムシング・イン・ザ・ウェイが示唆的だ。『何かがひっかかる』と彼は繰り返し歌っている。しかし、その『何か』は判らないままだ。こういう気持ちに追い込まれた人は、とても不安定になってしまう。とても、危険な状態になるんだ。」 

 のっぽさんのニルバーナに対する解釈が、今の自分と似ていることに太一は気付いた。太一も何かがひっかかったままだった。太一は、あの話を切り出そうと思った。事件のことだ。

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