第6話 のっぽさん2 美について
太一とのっぽさんは、ロックミュージックを介してどんどん親しくなっていった。のっぽさんはお店の絶対的な存在だった。店長という役割に関係なく、その人格によってこの小さなレストランの雰囲気を完全に支配していた。その彼が太一に一目置いていると知って、お店の人々は、太一を以前とは明らかに違う眼で見るようになった。誰もが少しずつ、太一に対する態度を変化させていった。具体的には、太一に敬意を払うようになった。違う反応もあった。のっぽさんに好意を寄せるパートの女性は、筋違いの嫉妬を感じたらしく、店の中で太一を睨みつけるようになった。それは、太一が17時に出勤すると、のっぽさんが彼女との会話を中断して太一に話しかけるからだった。
しかし、その静かな変化に太一は全く気がついていなかった。パートの女性からの鋭い視線も全く気に留めていなかった。太一は、はっきり言えば感情の機微に極めて鈍感だった。それは、これまでの太一の人生を考えれば仕方のないことだった。太一は、人との接触を極端に減らすことでトラブルを未然に防いでいた。それはまるで、交通事故を起こさないために車に乗ることを避けているようなものだった。厨房で働いている時も、同僚のアルバイトとは事務的な会話をするだけにとどめていた。暇な日には、アルバイトたちは店の奥に集まって、若者らしい他愛もない話に花を咲かせていた。そんな時も、太一は一人で厨房に立っていた。
のっぽさんは、太一の隠された能力に気がついたこの世で唯一の人間だった。その能力は、まだ形を持たず太一の中に埋もれていたが、のっぽさんはその存在を確信していた。また、若い時に人が持っている能力は、年を経るにつれて跡形もなく消えていくものだとのっぽさんは知っていた。それはあまりにも惜しいと彼は感じていた。そしてのっぽさんにとっても、太一はまともな話ができる唯一の人間だった。
大学が春休みの間、太一とのっぽさんは週に一回のペースで飲みに出かけた。暇を持て余していた太一には、好都合だった。酒はほとんど飲まなかったが、のっぽさんの話はいつも面白かった。仕事がひと段落ついた時、「今日飲まないか?。」とのっぽさんが厨房で声をかけてきた。太一はいつも「大丈夫です。」と答えた。それで話は決まりだった。
のっぽさんと飲みに行く時は、店を閉めた後も太一は更衣室に行かず、店の中に残ってのっぽさんを待つようになった。更衣室にいても退屈なだけだったし、他の学生アルバイトたちと顔を合わせるのも苦痛だった。太一は、カウンター席に座ってのっぽさんの残務処理が終わるのを待った。そのおかげで、のっぽさんの仕事の内容を知ることができた。
のっぽさんは食材や調味料や酒や備品の在庫を確認し、不足している数量をメモしていた。また、コンロを一つ一つ火をつけて回り、製氷機や湯沸かし器の動作を確かめた。それから、閉店時に落とした照明をすべて再点灯させて蛍光灯の明るさを確認し、最後には壁の絵をしげしげと眺めて角度を少しだけ直した。
「アルバイトの誰かに頼んでもいいんじゃないですか?。」と太一はのっぽさんに尋ねた。
「いや、これは自分でやらないと気が済まないんだ。」
「教えてくれれば、少しでも手伝いますよ。」と太一は提案した。
「本当かい?。助かるよ。」
こうして、太一が出勤した日は、食材の在庫確認を太一が受け持つことになった。いざやってみると、なかなか手間のかかる作業だった。とてものっぽさんが行っていた時間では片付かなかった。太一の在庫確認が終わらないので、のっぽさんが太一を待つことになった。
「結構大変だろう?。」無人になった店のホールで、店の中でも一番大きな丸テーブルに座ったのっぽさんが太一に声をかけた。彼はそのテーブルがお気に入りだった。
「とても気を使いますね。」と太一は答えた。そして、ようやく仕事を終えて丸テーブルに腰掛けた。そのテーブルは、10人が座って囲むことが出来た。椅子も背の高い丸椅子で、腰掛けると足が床につかなかった。
「仕事というのは、手を抜こうと思えばいくらでも抜ける。こだわろうと思えばいくらでもこだわることができる。バランスが難しいんだ。」とのっぽさんは言った。
「のっぽさんはこだわる人なんですね。」
「とんでもない。俺はいい加減な人間だよ。」と、のっぽさんは大きな声を出して否定した。
「とてもこだわるように見えますよ。」
「うーん。そうなのかな。そんなつもりはないんだけどな。」と言ってのっぽさんは考えこんだ顔をした。その様子を見て、太一は人の自己評価がいかにあてにならないかを教えてもらった気がした。
お気に入りの焼き鳥屋に入ると、のっぽさんはいつも寛いだ表情を見せた。それは、仕事中には見ることのできないものだった。アルバイトの女の子たちが夢見るような顔で話しかけても、のっぽさんはよそゆきの笑顔をしていた。焼き鳥屋の主人に見せる笑顔の方が、よっぽど美男子に見えた。
焼き鳥屋には、主人の奥さんと思われる60歳くらいの女将さんがいた。彼女は、のっぽさんのことを毎回のように「いい男だよねえ。」と言った。彼女もうっとりとしている点では、パートの女性やレジ係の天使と変わりはなかった。しかし、彼女は当然ながら冷静さを保っていた。そして、「なんで嫁さんが見つからないかねえ。」と言って眉をひそめた。これも、毎回の決まり文句だった。
太一は、のっぽさんの恋愛話に立ち入るつもりは全くなかった。そもそも、太一にとって恋愛とは人間が行う謎の行動だった。のっぽさんがいい男であり、太一が醜い男であり、それが自分の理解できる限界だった。そこから先は未知の世界だった。
その日、店に置かれたテレビがイラク軍のクウェート撤退を報じていた。のっぽさんの予想通り、戦争は多国籍軍の圧勝に終わった。画面には、誇らしげにインタビューに答えるアメリカの将軍が写っていた。そのニュースを見ても、のっぽさんは何も言わなかった。1月の夜とは違った。ちらっとテレビを見ただけだった。
戦争のニュースが終わり、天気予報になった。天気図を説明するアナウンサーの後ろで、ビル・エバンスの『ワルツ・フォー・デビー』が流れていた。「ビル・エバンスだ。」と太一がぼそっと言ったのを、のっぽさんは聞き逃さなかった。
「ビル・エバンスを知ってるのか?」のっぽさんは大きな声を出した。
「いいえ。知ってるなんて言えないです。ちょっと聴いたことがあるだけです。」と太一は言い訳するように言った。のっぽさんの予想外の反応に驚いて、太一はいつものおどおどした表情になった。そんな太一に構わず、のっぽさんは畳み掛けるように質問した。
「ジャズも聴くのかい?。」
「いえ、ジャズは全然聴かないです。わからないんです。ただ、ビル・エバンスだけは好きなんです。」
「そうかあ。やっぱり君の耳はすごいな。美しいものを見抜くことができるんだな。」とほうけたような顔をしてのっぽさんは言った。そんな感心することだとは思えなかったので、太一はますます恐縮した。
太一がビル・エバンスを知ったのは、高校生の時だった。何気なく聴いたFMの番組が、ビル・エバンスの特集を放送していた。それまで、ジャズに興味を持ったことは一度もなかった。それなのに、ビル・エバンスが弾くジャズピアノは太一を捕えた。近くの図書館に行って彼のアルバムを借り、試しに聴いてみた。それが『ワルツ・フォー・デビー』だった。
「ちょっと知ってるだけなんです。」と太一はまた弁解するように言った。
「それで十分だよ。ちょっと知っただけで良さがわかったんだろ。美と言うものがわかっているということさ。」
ビール瓶からビールをグラスに注ぎながら、のっぽさんは何度もうなずいた。それから、グイッとグラスを傾けて喉にビールを流し込んだ。のっぽさんはいつも、とても美味しそうにビールを飲んだ。
「僕には美というものが何かわからないんです。」と太一は言った。
「いいねえ。美の本質とは何か?、だな。」と言ってのっぽさんは笑った。太一は思いがけない話の展開に身を乗り出した。
「美の本質って何ですか?。」と太一は聞いた。
「ない。」
「は?。」
のっぽさんのあっけない答えに肩すかしをくらって、太一はカウンター席でずっこけそうになった。しかし、のっぽさんは平然としていた。太一は納得がいかなかった。
「ないって何ですか。」と太一はのっぽさんに抗議した。
「ないものはないんだよ。」のっぽさんはまた平然として答えた。
「今ビル・エバンスに美があるって言ったじゃないですか。」太一は食い下がった。その勢いに押されて、ようやくのっぽさんは真面目に話してくれる気になった。
「ごめん。ごめん。ちょっと話が飛び過ぎたな。」そう言って、のっぽさんはおしぼりで顔を拭いた。目の前には空になったビール瓶が並んでいた。のっぽさんは相当酔っているはずだった。冷たいおしぼりで酔いを覚まそうとしているらしい。
「美って何ですか?。」太一は、もう一度言い直した。
「そんなに焦るなよ。ちょっと待って、うーん、そうだな。」
のっぽさんは、少し真剣な顔になってしばらく考えていた。太一は、お新香を食べながら話が始まるのを待った。しばらくしてから、のっぽさんは話を始めた。
「君にとって美しいものとは何だい?。思いついたものを言ってくれ。」
のっぽさんがそう言ったので、太一は先日のKとの会話を思い出した。この酷い世界の中で、はっとするほど美しい物。それは、やはり女の子だった。
「女の子ですね。」
「女の子と言っても、いろんなタイプがいる。どんな人が綺麗だと思う?。」
太一は少し考えてから、レジ係の天使の名前を挙げた。
「なるほどね。彼女のことが好きなのかい?。」
「いいえ。そういう訳じゃないんです。身近で綺麗な人と考えたら、彼女が浮かんだんです。」
そう言いながら、太一は背筋に寒気がして表情を曇らせた。新宿御苑で見た彼女の顔を思い出したからだ。声をかけた男に見せた、嫌悪感と軽蔑の入り混じった顔を。美しいために、怖さが際立っていた。
「彼女も確かに綺麗だが、俺は別のタイプの方が好きだね。」
「そうなんですか?。どうしてですか?。」
「いや、なぜだかわからないんだが、俺は昔から、大柄というか太ったくらいの女が好きなんだよ。」
「何でですか?。」
「何でと言われても困るんだ。なぜか、好きになる女はみんな太ってるんだよ。」と言ってのっぽさんは笑った。
レジ係の天使が聞いたらショックで寝込みそうな話になってきた。太一はこの間の店で見た、体重150kgくらいの白人女性を思い出した。彼女と、長身で痩せているのっぽさんが並んでいる姿を想像してみた。太一も太っているので言えた義理ではないが、明らかに不釣り合いな気がした。
「つまりさ。君と俺でも、こんなに美しいと思うものに違いがあるんだよ。今このお店にいる人たちに聞いて回ったとしても、多分バラバラな答えになるんじゃないかな。」
太一は店の中を見回した。奥の座敷では、3人組のサラリーマンが日本酒を飲みながら騒いでいた。カウンター席には、太一たちの他に2人組のおじさんがいた。赤鉛筆と競馬新聞が似合いそうなタイプだ。確かに、多種多様な意見がありそうだった。
「音楽だってそうだろう。俺たちは、イエスとかニルバーナとかを好んで聴いている。知らず知らずのうちに、自分で選んでしまったんだ。サザンやユーミンを好きになっていれば、もっと友達ができたはずなのに。」
太一は、自分が少数派だということを思い出した。普通でまっとうな向こう側の社会に行けなかった、日陰者の立場を。
「少数派なのは、間違っているんでしょうか?。」
「そうじゃない。それはありがちな間違いだ。」のっぽさんはきっぱりと否定した。
「何が間違っているんですか?。」
「実は、美に正しいも間違いもないんだ。イエスやニルバーナであろうとサザンやユーミンであろうと、ある人が美しいと実感できるなら、それは美しい音楽だ。」
「どちらも正しいってことですか?。」
「そういうこと。」
「でも、音楽評論家は『これはいい音楽で、あれは悪い音楽だ』ってよく言いますよ。」
「評論家は、自分の感動について話しているだけさ。ある音楽評論家が、ある音楽を美しいと感じて、その実感があまりにも生々しいから他の感じ方を認められなくなるんだ。ただそれだけのことさ。音楽評論家同士だって、よく意見が合わないだろう?
例えば、イエスのラウンドアバウトが持つ美しさを全くわからない奴がいたとする。俺たちからすれば信じられない話だが、仕方がない。その人は別の音楽が好きだろうから。
もっと話を広げれば、車を好きな奴は多い。心底車に入れ込んでいる奴は、自分の好きな車に対して究極の美を感じている。そういう奴が、お金がないために嫌いな車を買ったとしよう。おそらく彼は、こちらが同情したくなるほど悲しい顔をするだろう。つまり、自分の好きな車が正しくて、自分の買った車は間違っているというわけさ。」
「美しいものとは人それぞれだから、美はないってことですか?。」
「いや、さっき俺が言ったのは不正確だった。確かに、これが美しいものだ、と言えるものはどこにもない。だけど、美しいものに対する渇望は、誰の頭にもある。美しい女や、美しい音楽や、美しい車に出会ったとき、人はその美を直感する。その美しさに囚われ、その存在を確信する。この確信があまりにも揺るぎない直感として訪れるから、他の人も同じように感じるはずだと考える。
しかし、実際に周囲の人に聞いてみると感じ方はバラバラだ。つまり、美にとって重要なのは、『美しいものは何か?』ではなくて、『人は必ず何かを美しいと感じる』ということなんだ。美とは、大それた芸術作品である必要はない。評論家が傑作と呼ぶ必要もない。陳腐なもので全然構わないんだ。そして一番重要なことは、人は美がないとやっていけない、美を求めずにはいられないってことなんだ。」
太一はうなずいた。太一にとって、美とは音楽と美しい女の子のことだった。Kも、『美しいものをもっと見てみたい』と言っていた。太一とKは、殺伐とした日々の中で美しいものにしがみついていた。美がなかったら、太一は自分の不安定な精神を律することはできないだろう。
太一は、Kにとって美しいものについて考えてみた。長い付き合いになるが、彼が本当に何を美しいと思うのか、いまだによくわからなかった。ただ、彼も美しい女の子を激しく求めているようだった。どんなに拒絶されようと、虚しい努力を続けるつもりらしかった。
「何で美しいものを求めるんだろう?。」
「それは簡単な話だよ。美しいものを手に入れると気分がいいからさ。うーん、気分というよりは、幸福な気持ちになれると言った方が正確かな。」
「何で幸せな気持ちになるんですか?。」
太一はのっぽさんに質問した。ちょっと考えてみると不思議な話だった。誰でも自分なりの美しいものがあるとして、なぜそれを手に入れると気分が良くなるんだろう?。
「それは、美が人を日常生活から解放する力があるからだ。俺を例に挙げれば、明日はまた朝から働かなくてはならない。仕事でもプライベートでも人付き合いのために約束を守らなければならない。家賃や公共料金や電話代やら新聞代やらを期日通り支払わなくてはならない。仕方がないけれど結構疲れる。そんな時、美は一瞬だけ人を日常生活から解放してくれる。美しい音楽を聴いたり、美しい車に乗ったり、スポーツで感動するほど美しい試合を見たり、美しい服を着て街を歩いたり、綺麗なお店で、美しいお皿に盛り付けられた料理を食べたり、数え上げたらきりがないね。」
「お皿もですか?。」
「お皿も重要だぞ。女の人にはお皿に凝る人が多い。大半の男からすれば、お皿なんかどうでもいいじゃないかと言いたくなる。だけど、お皿が好きな人にとっては重大な問題なんだ。自分が美しいと思うお皿で食べると、食事は何倍も美味しくなる。紙皿にのせたら、せっかくのご馳走も不味く感じてしまう。」
「人は生活のいろんな場面で美を求めていて、自分の思いが叶うと気分が良くなる。そういうことですか。」
「パーフェクトだ。その通り。」
そう言って、のっぽさんは手を叩いて拍手をした。太一は少し恥ずかしくなった。
「ただ、気をつけなくちゃいけないんだが、美というものは恐ろしい面を持っている。」
「何が恐ろしいんですか?。」のっぽさんが急に真剣な表情をしたので、太一は反射的に身を引き締めた。そして、どんな話が始まるのかと期待して、のっぽさんの言葉を待った。
「さっき、美は人を日常生活から解放する力があると言っただろう。」
「はい。」
「行き過ぎると、美と日常生活がひっくり返ることがある。」
「ひっくり返る?。」
「キリスト教でも仏教でも他の宗教でも、日常生活の全てを捨てて隠遁生活をする人っているだろ。いわゆる聖人と呼ばれるタイプだ。あれは、神聖さという美が日常生活を上回って、ひっくり返った例だ。彼らは、普通では考えられない意思の強さを持っている。それは美が持つ力のおかげなんだ。別に悪いことをしている訳ではないけれど、周りの人は大変だ。もし俺が明日からお店を放り出して、世間も捨てて修行の旅に出たらみんな困るだろ?。」
太一はまたうなずいた。確かに困る。のっぽさんがいなくなったら、お店の雰囲気は一変するだろう。泣く女の子もいるはずだ。下手をすると死人が出るかもしれない。
「聖人の例は極端だけど、美と日常生活がひっくり返るのは割と身近なことなんだ。」
「どんなことですか?。」
「恋愛だよ。」
「恋愛でひっくり返るんですか?。」
「そう。実は、恋愛で感じる美というものは他の美よりもワンランク上なんだ。」
「なんで上なんですか?。」
「話は簡単。相手が生きてるからだよ。他の美は、どんなに強く惹かれても所詮は個人的で静的な感動だ。それに対して恋愛の場合は、君が相手に惹かれて近づいていくと、その相手は次々に新しい姿を見せてくれる。次々に新しい美が君に提示される。君はどんどんのめり込んでゆく。」
太一は、恋愛をする自分を想像しようと試みた。恋愛をするためには、女の子が太一を好きになってくれる必要があった。しかし、それはどう考えても不可能な想定だった。想像の中で太一の前に立った女の子は、「目障りだ」とか「気持ち悪い」としか言わなかった。とても恋愛に発展しそうになかった。
「僕には恋愛というものが、まだわからないんです。」
「君は本当に正直だな。」
のっぽさんは感心したように言った。
「でも、わからなくて普通だよ。俺だって、四十を過ぎたけど恋愛をしたのは3回、いや2回かな。」
のっぽさんは、手にしていたビールグラスをテーブルに置き、遠くを見るような眼をした。太一には、のっぽさんの回数はあまりに少ない気がした。のっぽさんのようなタイプは、四十歳でいわゆる『千人斬り』を達成しているだろう。遊び尽くした後で落ち着く。これこそ『不惑』というものだ。すると2、3回というのは、本気になった回数を指すのだろう。太一には、楽しそうなだけでとても恐ろしいこととは思えなかった。
「恋愛のどこが恐ろしいんですか?。」
「いわゆる不倫というものがあるだろ。人は、それこそ雷に打たれたように恋をしてしまうことがあるんだ。何十年も結婚生活を続けてきて、社会的地位もある人が、その全てを捨てる危険を冒して不倫をすることがある。損得勘定からいったら全然割に合わないのに、その恋にのめり込んでしまう。」
「なんで、そんなバカなことをするんですか?。」
「その相手に恋をすることが『ほんとう』だからだよ。彼らはこう考える。今までの人生は嘘だった。この相手が持っている美しさこそ、自分がずっと探していたものだ。周りにバカにされようと関係ない。自分の全てと交換しても、その美しさを手に入れたい。恋愛は、こういうことがよく起こるんだ。」
のっぽさんが『ほんとう』という言葉を使うのは、初めてのような気がした。それほど、この話に力が入っているのだろうか?。
「のっぽさんは、不倫したことがあるんですか?。」
パートの女性の姿が頭に浮かんだ。確かに彼女はちょっと太めだ。結婚して子供もいるけれど。
「幸い、まだないよ。」とのっぽさんはあっさり答えた。そして、話を続けた。
「今はたまたま不倫を例にしたけれど、これは15歳の恋人同士にだって起こる。いつでも、誰にでも起こることなんだ。恋愛の美が襲ってきたら逃げようがない。それは、日常生活を吹っ飛ばしてしまう。何もかも投げ出して、相手の美しさに没頭してしまう。しかも当人にとっては、自分が夢中になっていることが、全てを投げ出していることが絶対に正しいと確信できるんだ。」
「どうすれば防げるんですか?。」
「うーん、すまないがこれと言っていい方法はないな。俺も、雷に打たれたら持ちこたえる自信はない。」
のっぽさんの話を聞きながら、太一はやっぱり恐ろしいことだとは思えなかった。恋愛は、太一にはあまりにも遠い、無関係な話題だった。これから先も、ずっと無関係なままだろう。なんだか他人の悩みを聞いている気分だった。太一にとっては不倫よりもSの大火傷やKの禿げた頭の方が、そのリアルな醜さの方がずっと恐ろしいことだった。そんな太一の感慨とは関係なく、のっぽさんは話を続けた。
「そして、もっと恐ろしいことがある。」
「まだあるんですか?。」
「いわゆる失恋だ。」
これまでの人生で、太一はまだ失恋したことはなかった。そもそも、人と接触することを避けてきたのだから、誰かを好きになることはほとんどなかった。その上、太一を受け入れる女の子などいるはずがないから、誰かに告白したこともなかった。明らかな負け戦を挑むほど、太一はバカではない。
「失恋は、誰でもすることですよね?。」
「確かにそうだ。誰だって失恋を経験する。」
「失恋しても、そのうち忘れられるんじゃないですか?。」
恋愛も失恋も経験がないので、太一は一般的な答えをしてみた。答えた後で、少し嫌な気分になった。自分で考えた答えではなかったからだ。ズルをした気がして、太一は少し自己嫌悪を感じた。
「もちろん、たいていの人は時間が経てば失恋から立ち直る。見かけはね。」
そこまで話してから、のっぽさんは一息ついた。とても気になる言い方だった。太一は話の再開を待った。
「しかし、失恋は人にとんでもない傷を残すことが多い。実際、誰もが失恋の傷を多かれ少なかれ残しているんだ。傷跡は、相手に対する思いが強いほど大きく、ひどくなる。のちに別の人と付き合って上手くいったとしても、結婚して落ち着いたとしても、その傷はずっと消えずに身体の奥に残っている。ふとした時にその傷を思い出す。その失恋の経験は、後々まで影響を残すんだ。」
「そうなんですか?。」
「そうだよ。こんな話をしている俺だって同じさ。」
「のっぽさんも失恋したことがあるんですか?。」
「当たり前だろう。40年も生きてれば振られたことなんて山のようにあるぞ。」
思いがけない話を聞いて、太一は頭を抱えた。のっぽさんでさえ拒絶されるなら、醜い自分は可能性ゼロではないか。ますます絶望的な気分になってきた。
「失恋の傷を治すには、とんでもない時間がかかる。たいていの場合、傷は残るけど少しずつ小さくなっていく。その一方で、傷が一生かかっても全然治らないこともある。」
「まったく治らないこともあるんですか?。」
「うん。これが、俺がさっき言った『もっと恐ろしいこと』だ。」
のっぽさんはまたグラスに自分でビールを注ぎ、それからお新香に箸を伸ばした。キュウリの浅漬けを取ってポリポリと音を立てて食べた。太一もウーロン茶を一口飲んだ。
「『もっと恐ろしいこと』って、何が起こるんですか?。」太一は待ちきれなくて質問した。
「ひどい失恋をすると、もう二度と美を信用できなくなるんだ。」
「えっ?。」
「さっき恋愛をすると、相手を好きになることが『ほんとう』だと感じると話しただろう。日常生活のすべてを捨ててまで相手にのめり込めるのは、それが正しいと感じるからなんだ。」
太一はちょっと考えてみた。自分が女の子に惹かれるのは、それが正しいからだろうか?。いや、それは正しいなんて呼べるものではない。自分が感じているのは、どす黒い欲望というか性欲だった。美しさのかけらもなかった。
「恋愛が正しいんですか?。僕には性欲にしか思えないんですが。」
「ここがちょっと難しいところだ。確かに、好きになった相手に性欲を感じる。当たり前の話だ。だけど、誰でも心当たりのあることだが、本気になると好きな相手を自分のものにしたい、ただそれだけで頭がいっぱいになる。性欲は二の次になるんだ。確かに性欲は恋愛の一部だが、全てではない。
なぜかと言うと恋愛は、その相手が自分にとって『取り替えのできない唯一の人』だと教えるからなんだ。そして、そのつながりをずっと保ちたい、その相手を失いたくない、と考える。相手といることが、自分の人生で何より正しいことだと直感できる。」
「さて、恐ろしい話に戻ろう。当然ながら、すべての恋愛が上手くいくわけではない。一生懸命アタックしても振られてしまうことは沢山ある。あるいは、付き合っているうちに相手が別の人を好きになることもある。さらには、付き合っている相手が二股も三股もかけてた、なんてこともある。
こういう経験をすると、人はとても傷つく。二度と立ち直れないと思うほど傷つく。多くの人は、時間をかけてその傷を治していく。少しずつ小さくしてゆく。しかし、どうしても治せない人たちがいる。失恋の傷が治らない人は、もう二度と恋愛をしない。もう相手のことを信用できないからだ。自分を傷つけた相手とは別の人なのに、男は女を、女は男を信用しない。」
「失恋したために、誰も好きにならなくなるってことですか?。」
「そう。こういう人って周りにも結構いるんだよ。彼らは、恋愛にとても臆病になる。もう一度傷つけられるかもしれないからだ。その結果、誰と付き合っても性欲だけの関係になる。こういう関係に、今まで話してきた恋愛の美はない。正しいという直感も訪れない。いつ相手を失っても全く構わない。殺伐としたプライベートの生活を送ることになる。」
「それが恐ろしいことなんですか?。」
「いや、違うんだ。」
「まだ続きがあるんですか?。」
女将さんがカウンターの奥から手を伸ばして、空になったお新香のお皿を下げた。太一はグラスを握ったままののっぽさんを横目に見た。今の太一は、未知の深海へと進む潜水艇にでも乗っている気分だった。これからどんな世界が待っているのか、見当がつかなかった。
「本当に恐ろしいのは、失恋によって恋愛の美そのものが反転してしまうことだ。相手に受け入れられなかった、あるいは相手に捨てられたという事実が、その人に根本的な疑念を生じさせる。つまり、自分は恋愛の美を感じ、その相手を認められようと努力したが、それは間違いだった。自分の感じた恋愛の美そのものが間違いだった。そう考えるようになる。
こうなると、恋愛そのものを否定するようなる。ラブソングも、恋愛小説やラブロマンスを描いた映画も大嫌いになる。そして、一般的な美とは反対のものを求めるようになる。あえて人とは異なる服装をするようになる。音楽は、激しいものやどぎつい歌詞の曲うを好むようになる。銃やナイフに興味を持ったり、酒やドラッグにのめり込んだりする。アンダーグラウンドなカウンターカルチャーを敢えて楽しもうとする。極端な表現をする芸術家や、犯罪者にさえ憧れるようになる。なぜこうなるかというと、失恋によって、これまで自分が持っていた美の感覚が崩壊してしまったからなんだ。失恋の傷が深かったために、今まで美しいと思えたものが嘘に思える。その代りに、今までの美とは反転した、逆のものを求めるようになる。」
「美の崩壊と反転、ですか?。」
「そう。それが本当に恐ろしいことだ。これは、いつ誰にでも起こる。特に若いときはなりやすい。別に、激しくてどぎつい音楽やアンダーグラウンドなカウンターカルチャーそのものが悪いわけじゃない。こういう芸術表現は、近代以降主流派に対抗するものとして常に存在しているからね。問題は、恋愛に傷ついた人間の向かい方にある。」
「どういうことですか?。」
「恋愛に傷ついて、その傷が治らなかった人間は、これまで自分が好きだったものと逆のものを求めるようになる。これまで全く酒を飲まなかったのに、突然毎晩飲むようになるとか、大嫌いだったタバコを吸うようになるとか、楽しみにしていたテレビドラマを全く見なくなるとか、一つ一つは些細なことだけれど、今までと違ったことをするようになる。その人がしたいのは、これまでの自分を全否定することなんだ。その人はこう言うだろう。私が信じた恋愛の美は間違いだった。つまり私自身が間違いだった。だから、自分は違う人間になるんだ、とね。」
のっぽさんはそこまで言い終えてから、瓶ビールとお新香のおかわりを注文した。太一は、ウーロン茶をまた一口だけ飲んだ。
失恋経験はないけれど、自分も治らない傷を抱えているのだろうか、と太一は考えた。自分も、一般的な美とは反転したものを求めている気がしたからだ。太一は、普通の世界からこぼれ落ちていた。普通の世界とは、『穏やかで聴き易いラブソング』が流れ、若い男女が楽しげに過ごしている場所だった。太一は、そこへ意図的に近づかないようにして生きていた。そして、遠く離れたところから普通の世界を眺め、その住人たちを憎むようになった。その憎悪の感情は、まるで水道管が長い時間をかけて腐食するように、ゆっくりと太一の脳の底で進行していた。
「美の崩壊と反転とは、恋愛を否定し、これまでの自分の美を否定することだ。そしてそれは、最終的に自分自身の否定に行き着く。だから、本当に恐ろしいんだ。」
「自分自身の否定って、どうなるんでしょう?。」太一はイメージできなくてのっぽさんに聞いた。
「それは、想像を絶する地獄だ。生き残るのが困難に思えるほどの地獄だ。」そう言ったのっぽさんの表情は、凍りついていた。太一は思わずぞっとした。
「今話したことは、別に華々しい失恋体験がなくても起こる。家族や、友人との間で問題があっても同じことが起こる。特にまだ小さな子供の頃は、要注意だ。なぜなら、小さい子供のうちは自分の美がまだ形になっていないから。小さいうちに美の崩壊が起こると、それは崩壊でなくて溶解になる。美がドロドロに溶けて自分でも訳が分からなくなる。だから、気をつけなくてはならない。自分の中にある、美の感覚を大切に育てなくてはならない。」
家族と言われて、太一は否応なく父と姉のことを思い出した。認めたくなかったが、二人は太一の人生に大きな影響を与えていた。特に姉のことは、もっとも触れたくない問題だった。姉はなぜ太一を避けるようになったのだろう?。それとも太一が避けたのだろうか?。わからない。何年前から姉と話していないのか、太一は思い出せなかった。そして、姉が風俗店で働いていることを知ってから、太一は姉を完全否定するようになった。我ながら、事態は悪化するばかりだった。
「どうすれば、そうならなくて済むんですか?。」と太一は聞いた。
「一番いいのは、良い友達を持つことだ。もっといいのは、良い恋人を持つことだ。」
太一が明らかにがっかりして肩を落としたので、のっぽさんは笑い出した。
「つまんない答えだと思うかもしれないが、これほど強力な解決策はないんだぞ。良い友達は、圧倒的な力を持って君を守るはずだ。人はとかく、自分だけで物事を考えがちだ。しかし、何事も自分だけでは最終的な確信にたどり着けないんだ。最終的な確信には、良い友達の、あるいは良い恋人の同意が必要なんだ。『よし、それでいい。大丈夫だ』と、君は言ってもらう必要があるんだ。」
良い友達か、と太一は考えた。真っ先に浮かんだのはKだった。Kも家族と上手くいっていない。特に妹との関係に問題があるようだ。Kも治らない傷を抱えているのだろうか?。太一とKは、細かい事情は異なってもよく似た境遇だった。
その時太一は、ふと恐ろしい発想に襲われた。Kが美の対象としているのは、もしかしてKの妹ではないだろうか?。新宿御苑のベンチで、目を細めて自分の妹について話すKを思い出した。彼の中で、美しいものと自分の妹はとても近くにあるようだった。彼は、妹が自分に似なくて良かった、妹にはたくさん男が寄ってくると言った。そう話すKはとても誇らしげだった。はっきりとは言わなかったが、妹の美しさを自慢しているのは明らかだった。まさか。太一は頭を大きく振って、この邪念を振り払おうとした。
「どうした?。」のっぽさんが、太一の奇妙な仕草を見て声をかけた。太一は答えなかった。
もしも、Kが自分の妹に恋をしているなら、それは絶対に叶うことのない思いになる。そして、のっぽさんの言う通りなら、Kは一生治らない傷を負い、美が崩壊してしまうことになる。そして、自分自身を否定することになる。まさか。太一はもう一度頭を左右に大きく振った。
「本当にどうしたんだ?。」のっぽさんはもう一度声をかけてくれた。
「すいません。考えごとをしてました。」太一はようやく答えた。
「いや、俺が悪かった。なんだか気味の悪い話をしたからさ。」
「いえ、すごく面白かったです。あまりに現実味があったので怖くなってきたんです。」
太一は両手を膝の上に置いて踏ん張り、動揺から立ち直ろうとした。ただの思い過ごしだ。そう自分に言い聞かせた。
「ねえ、男同志で恋愛相談なんかしてないで、一曲歌ってよ。」と女将さんがのっぽさんに言った。どうやら彼女は、ずっと太一たちの話を聞いていたらしい。
「恋愛相談なんかしてないよ。」とのっぽさんは女将さんに言った。「僕らは、美の本質について議論していたんだ。」
「どうして男ってのは、ややこしい話をして喜ぶのかねえ。」女将さんは呆れたように言った。それから、「話はそれくらいにして、さあ、歌って歌って。」ともう一度のっぽさんに言った。
「ええ、やだよ。やめとくよ。」と言うのっぽさんを完全に無視して、女将さんはレーザーディスクを一枚取り出し、カラオケの装置にセットした。強制的に彼女が番号を指定すると、なんとイーグルスのホテル・カルフォルニアが流れ始めた。とても焼き鳥屋に似つかわしくない曲だった。口の中の焼き鳥を吹き出しそうだ。印象的な長いイントロが終わり、女将さんが無理矢理にマイクを押し付けたので、仕方なくのっぽさんは歌い出した。歌声を聴いた直後に、太一はまた椅子から転げ落ちそうになった。とんでもなく上手い。座敷で大騒ぎしていたサラリーマンたちが、話すのをやめてのっぽさんの歌に聞き入っていた。ここにパートの女性やレジ係の天使がいたら、無言で服を脱ぎ出しそうだった。それくらい上手かった。
曲が終わると、カウンター席の二人組が拍手をしてくれた。競馬好きの人にものっぽさんの歌は伝わるらしい。のっぽさんは席を立って彼らにお辞儀をし、「大変失礼しました。」と言った。
この世界は不公平だ。太一はつくづくそう思った。天は、ある人に二物も三物も四物も与えるのだ。のっぽさんを見ているとそれが実感できた。この不公平さは、ここまで来ると爽やかですらあった。太一は深いため息をついた。
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