第5話 新宿御苑にて

 1年次の試験が終わり、大学は春休みに入った。1月末から授業はなくなり、再開は4月の第1週だった。自分が大学生であることを忘れてしまいそうな、気が遠くなるくらい長い休みだった。

 休みに入ると、一人暮らしをしている学生の大半は実家に帰った。そして、授業が始まる直前に帰ってくるのだ。太一の実家は大学から電車で2時間ほどだったから、いつでも帰ることはできた。しかし、休みの間も太一はアパート暮らしを続けていた。家に帰りたくなかったからだ。

 そもそも電車で片道2時間なら、アパートなど借りずに実家から大学に通うこともできた。その方が安上がりだった。だが、太一は大学に入学したら、一人暮らしをすると断固として決めていた。家を出たくてしょうがなかったのだ。その主な原因は太一の父親にあった。

 父親は、太一が中学生の時に会社を辞めさせられた。父は、いわゆる窓際族だった。仕事を全く与えられず、職場で様々な嫌がらせを受けて退職に追い込まれたらしい。わずかな割増退職金と引き換えに、太一の父は仕事を失った。終戦直後に生まれ高度成長期を通過してきた彼は、典型的な仕事人間だった。他の生き方を知らなかった。趣味すら何も持っていなかった。会社という自分の居場所を失って、彼は抜け殻のようになった。家に閉じこもって昼間から酒を飲み、再就職先を探す気もないようだった。やがて彼は、その戸惑いと苛立ちを太一たち家族にぶつけるようになった。

 働く気を見せない父の代わりに、母がパートに出ることになった。母の仕事は、大型スーパーの商品管理だった。納入された商品を陳列する作業は閉店後に行うため、母の帰りは毎日深夜になった。家には、父と太一と、太一の3歳年上の姉が残された。酔った父は太一や姉と顔を合わせると、難癖をつけて絡むようになった。突然興奮しては暴言を吐き、気に入らないと物に当たった。深夜に母が帰ってくると、ついに暴力を振るうまでになった。

 太一の姉は、その時高校生だった。太一はなぜかこの姉と全く気が合わなかった。小さかった頃は一緒に遊んだ記憶もあるが、物心がつく頃からほとんど話さなくなった。彼女の容姿は、気の毒なことに太一と同じだった。お世辞にも、男に好かれるタイプではなかった。彼女がその苦しみと悲しみを、どのように制御していたのか太一は知らない。父が酔って暴れるようになってから、太一の姉は真夜中まで出歩くようになった。母が帰ってくるまで、家にはいたくないようだった。彼女は高校をかろうじて卒業すると、逃げ出すように家を出て行った。それきり家にはほどんど戻らなくなった。

 ちょうどその頃、太一も学校に行かなくなっていた。それは、太一に対するいじめのせいだった。学校に行く気はなかったけれど、家で酔った父と一緒にいるのも嫌だった。母は仕事だったし、姉は全くの他人だった。毎朝目を覚ますと、太一はソニーのウォークマンと単3の乾電池、それからカセットテープ10本ほどを巾着袋に放り込んで家を出た。家から5分程歩いたところにある高層マンションの屋上に行き、そこにある給水設備の上に登った。そこに座り込んでウォークマンで1日中音楽を聴いて過ごした。

 本当に音楽が好きになったのはこの頃だった。当時好きだったのは、何よりも プリンス だった。 パープル・レイン と アラウンド・ザ・ワールド・イン・ア・デイ は、何百回聴いたかわからない。ほかにも、スパンダー・バレー、ワム、カルチャー・クラブ、ゴー・ウェスト、素晴らしい音楽が山のようにあった。FMを聴いていると、次々に新しい良い曲が見つかった。もし音楽に出会っていなかったら、頭がおかしくなっていただろうと太一は思う。一番苦しい時期に、ロックミュージックが太一を救ってくれたのだ。

 太一は不登校のまま、なんとか高校に入学した。いじめられた経験から、高校では人と一定の距離を保つことを徹底した。不用意に近づかないこと、それが高校時代における太一の処世術だった。そのせいで、友達は一人もできなかったがトラブルも起こさずに済んだ。

 高校2年生のとき、太一は姉が風俗店で働いていることを知った。母方の叔母さんが、太一に教えてくれたのだ。明らかな不快感を表しながら、その叔母は姉の仕事を説明してくれた。裸でお客と抱き合いキスをしながら、酒を飲ませるのだという。太一は本当にショックだった。そして、姉のことを心から恥じた。もう姉とは、一生口を聞くまいと考えた。

 父の問題、そして姉の問題の両方から、太一はあることを学んだ。人は、精神的な暴力を何の前触れもなく振るうのだ。この世界は、とてつもなく厳しく残酷だった。その上、太一は醜かった。そのことを太一ははっきりと自覚していた。もしも女の子が慰めてくれたら、太一は痛みを和らげることができただろう。もちろん、そんな女の子はどこにもいなかった。耐えるしかない。太一は、歯を食いしばって耐え続けた。

 高校を卒業する頃になって、父方のおじいさんが大学の学費を援助すると申し出てくれた。おじいさんは、太一をどうしても大学に行かせたかった。それは、姉の生活が影響していたと思う。太一も、家から脱出できるなら大歓迎だった。3月に、今通っている大学の2次募集を受けて奇跡的に合格した。すると太一は、さっさと現在のアパートを見つけて引っ越した。家具は何も持って行かなかった。旅行用鞄に洋服とカセットテープを詰め込み、片手にラジカセを持ってアパートに移った。テレビも冷蔵庫も電話もテーブルも台所用品も布団も何もなかった。引っ越してから、太一が最初に買ったのはカーテンだった。それがないと、朝方眩しくて眠れないことを知ったからだ。最低限必要な家具を少しずつ買い揃えていった。大学が始まってからは、家賃と生活費を、奨学金とおじいさんからの仕送りでまかなった。


 その春、Kも実家には帰らなかった。そう言えば彼は、去年の夏休みもずっとアパートにいた。部屋に家族の写真を飾るほどなのに、何か根深い問題があるようだった。太一は、自分の家の事情からKのこともおおよそ想像することができた。だが、Kに詳しい理由を聞こうとは思わなかった。太一だって、自分のことを聞かれたくなかったからだ。

 2月の半ばを過ぎたある水曜日、朝の10時過ぎにKから電話があった。彼は、新宿に行こうと言った。その日は17時からアルバイトがあったので、夕方までに帰れるなら大丈夫だと太一は答えた。電話を切った後に、水曜日はKもアルバイトがあるはずだと思い出した。春休みに入ってから、太一は週に一度のペースでKの部屋を訪れていた。太一には、週3回のっぽさんの店でのアルバイトがあったが、Kには家庭教師のアルバイトがあった。

 Kは、家庭教師を派遣する会社に登録をしていて、小学生の高学年や中学生に勉強を教えていた。口下手のKに家庭教師ができるとは考えにくかったが、どうやら勤まっているようだった。彼は、常に数人の子供を受け持っていたので、夕方から夜はたいてい仕事があった。2月は、月、水、金、土の曜日に家庭教師の予定があったので、太一がKに会うのは火曜日か木曜日と決まっていた。

 Kに借りていたCDを返すため、太一は彼のアパートに向かった。CDを返してから、新宿に行くという話になっていた。太一は、Kの部屋に着いてドアの前でチャイムを押した。部屋の中でKが玄関に向かってくる気配がし、扉が開いて彼が顔を出した。無精髭が生えたままのKは太一を見ても何も言わず、太一が差し出したCDを受け取ると扉を閉めて部屋の中へ戻った。すぐに彼はまた扉を開けて現れ、無表情のままスニーカーを片足ずつ、かかとからしっかりと履いた。この時も彼は何も言わなかった。

 二人で駅に向かう途中、太一は何の気なしに今日の家庭教師のバイトのことをたずねた。

「今日のバイトは?。」

 Kは明らかに困った表情を見せた。そしてなかなか口を開かなかった。いつものように答えないのだろう、と太一が諦めた頃に彼は答えた。

「今日のはクビになったんだ。」

「何で?。」

「不適切な指導だからだそうだ。」とKは言った。不適切な指導という言葉が何を意味するのか、太一には見当がつかなかった。

「誰がそんなことを言ったの?。」

「家庭教師の派遣センター。」

「どうして?。」

「俺の教え方が不適切なんだそうだ。」

「不適切って何?。」

 Kは歩きながら、顔をしかめた。もうすぐ駅に到着するところだった。太一は、またKが話を打ち切るのではないかと考えた。しかし、珍しくKは答えた。

「不適切なんて嘘なんだ。本当は、俺のことが気持ち悪いんだってさ。」

「誰が?。」

「俺が教えていた女の子だよ。」

「どうして?。」

「俺に聞くなよ。要するに中学生の女が母親に、俺のことが気持ち悪いと言ったんだ。母親がそれを派遣センターに連絡して、不適切な指導という言い訳がひねり出されたわけさ。」

 太一とKは、駅の切符売り場の前で立ち止まった。Kは太一の方を向いた。彼は、もう顔をしかめてはいなかった。ただ、うっすらと寂しさが漂っていた。諦念という言葉が浮かんだ。太一はKの禿げ上がった脳天部分と、それに比べて不釣り合いに長い両脇の髪を見た。それから、彼の落ちくぼんだ目と対称的に突き出た頬骨を見た。Kは、確かに醜かった。

「どうしてそこまでわかったの?。」

「派遣センターの担当に、しつこく聞いたら教えてくれた。」

「ひどいな。」

「やられたよ。」

 二人は新宿までの切符を買い、駅に入った。ホームで新宿行きの各駅停車を待つ間、二人は一言も言葉を交わさなかった。

 平日午前中の電車はとても空いていた。到着した電車の先頭車両に乗り込むと、座席にほとんど空いていた。二人は、8人掛けのシートに余裕を持って座ることができた。

「大丈夫かい?。」電車が走り出してしばらくたってから、太一はKに話しかけた。

「ああ。慣れてるからな。」とKは答えた。

 それから、太一とKはまた黙って座席に座っていた。太一は、Kが言った『慣れる』という言葉について考えた。太一たちは、こういうことに慣れなければいけないのだろうか?。気持ち悪いと言われたり、目障りだと言われたりすることに。とても理不尽な気がした。しかし、理不尽で暴力的な世界に太一たちは住んでいた。結局二人は、新宿に着くまで黙っていた。


 新宿駅に着くと、Kは東口を出て歌舞伎町の方向へ向かった。相変わらず、彼はどこに行くのか説明しなかった。太一はKの後を追いかけることにした。

 新宿は、以前から不思議な街だと太一は感じていた。大通りの賑やかな通りから一本中に入ると、そこには古めかしく狭苦しいビルが密集して立っていた。人通りもまばらになり、道行く人も人種が表通りとは異なっている気がした。全く別の顔を持っている街だった。Kは、新宿通りを渡ると狭い路地に入った。そして早足でどんどん進んでいった。その足取りから、Kがこの周辺にかなり詳しいとわかった。入り組んだ通りを右に左に何度も曲がり、やがて彼はある店の前で止まった。

 その店は、一風変わった店だった。店頭には何も並んでおらず、入り口の自動ドアはスモークガラスで店内が見えないようになっていた。一見して、何を取り扱う店なのかさっぱりわからなかった。かろうじて小さな看板があり、そこに◯◯書店と書かれていた。どうやら本屋であるらしい。「入ろう。」とKは言って、太一の先に進んだ。自動ドアが開き、二人は店内へ入った。

 太一は店の中に入って驚いた。まず、店はとても繁盛していた。店内は沢山の人で埋まっていた。しかも、客は全て男性だった。入ってすぐの低い棚に、売れ筋と思われる雑誌が平積みになっていた。その一つを見ると、表紙におそらく体重150キロはありそうな、極度に太った全裸の白人女性が写っていた。寝転んで寛いだ表情の彼女が、こちらを見てにっこりと笑っていた。太一は度肝を抜かれた。

 その隣の雑誌は、今度は明らかに幼い少女が表紙を飾っていた。この少女も当然裸だった。どこかの浜辺に立って、華奢な身体をあられもなく晒しながらあどけない笑顔を見せていた。あまりにも両極端な写真を見せられて、太一は軽いめまいがしてきた。

 壁に目をやると、天井まで所狭しと吊るされた、商品というか道具が飾られていた。そのうちの一つが、バイブレーターであることは太一もわかった。しかし、その他は一体何に使用するのか不明な道具ばかりだった。なぜかどれも蛍光色をしていたので、おそらく目立つと売れ行きがいいのだろう。性的な目的に使用するものだと予想したが、自信はなかった。なぜか太一は、子供の頃大工道具を買いにホームセンターへ行ったことを思い出した。

 Kは、人をかき分けながら店の奥へ進んでいった。後をついていくと、VHSビデオの売り場があった。そこは、太一にとってまさに別世界だった。背の高い棚にびっしりとビデオが並べられていた。そのどれもが、よく言えば個性的、はっきり言えば変態性欲の趣向を待つビデオだった。太一の目に止まったビデオに、『大肛門時代』というシリーズものがあった。どうやら、大航海時代のダジャレでつけたタイトルらしい。その一つを手に取ると、ビデオの表紙に女性のものと思われる排泄物がクローズアップして掲載されていた。びっくりして太一はすぐ棚に返してしまった。その『大肛門時代』は、なんと1巻から30巻まで販売されていた。一本60分とすれば、30時間排泄物を見ることになる。太一は気が遠くなった。

 アダルトビデオを見慣れているはずの太一も、この店の品揃えには舌をまくしかなかった。そして、もう十分だと思った。早くこの店を出たかった。Kを見ると、彼は熱心にビデオを選んでいるところだった。仕方がないので、太一は待つことにした。女の子に気持ち悪いと言われた後に、この店に来るのはどうなんだと太一は思った。Kにしてみれば、ストレス発散の方法なのかもしれない。しかし『大肛門時代』はないだろう。

 ようやくKは膨大な商品群から何かを選び出し、レジに持って行って代金を払った。彼が何を買ったのか、太一は知る気が起きなかった。


 店を出ると、Kは新宿御苑に行こうと言い出した。今の店と新宿御苑とは、なんとも不釣り合いな気がした。しかし、今日は天気もいいし断る理由はなかった。

 二人は、店を出てから新宿通りに戻り、通りをまっすぐに新宿御苑へ向かって歩いた。到着すると、Kは無言のまま園内を進んだ。平日だったので、晴れているのに人は少なかった。あちこちに梅の花が咲いていたが、Kと二人で見物してもしょうがなかった。太一は何も話さずに、Kについていった。彼も無言もまま、いつまでも歩き続けた。そのうち太一は息切れしてきた。たまらず太一が休もうと声をかけて、ようやくKは止まってくれた。

 太一とKは自動販売機でジュースを買い、ベンチに並んで腰掛けた。太一は、冬だというのに噴き出した汗をしばらくタオルで拭きながら、呼吸を整えた。Kは、全く疲れを見せず涼しい顔をしていた。

「死にたいと思ったことはあるか?。」

 Kが、突然とんでもない話を始めた。太一は、虚を突かれてすぐに答えることができなかった。

「いや、ないよ。Kは?。」太一は、まだ息づかいが荒いままだった。

「俺も真剣に考えたことはない。」

 太一は少し呆れた。なぜKがこんな話をするのか理解できなかった。

「じゃあ、なんで?。」

「つい最近まで、死ぬってことはものすごく遠い世界のことだと思ってた。でも、意外に身近な気がしてきたんだ。」

「どうして?。」

「なんとなくだよ。」

 もしかして、Kは家庭教師をクビになったために自殺でも考えているのか、と太一は心配になった。しかし、ベンチに腰掛けたKはむしろ穏やかな落ち着いた表情をしていた。珍しくリラックスしているようにも見えた。それからKは、脳天の毛が生えていない部分を右手の指で軽く掻いた。Kがいつもする仕草だった。脱毛のせいで始終かゆくなるのかな、と太一は考えた。

「バイトを断られたことを気にしてるのかい?。」と太一は聞いた。

「まさか。」

「なんで死ぬ話なんかするの?。」

「最近、わかってきた気がするんだ。」

「何が?。」

「この世はふざけた世界だ。気に食わない奴が沢山いる。でも、その一方で、ものすごく美しいものがある。」

「うん。」

「例えば、ビートルズ の「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」とか、キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」とか。信じられないほど美しい。」

「うん。」

「吐き気がするほど酷い世界の中に、ハッとするほど美しい物が見つかる。俺は、それをもっと見てみたいんだ。」

「この間言っていた、Kの美学のことかい?。」

「ああ、そうだ。」

「美しいものって、女のこと?。」

「そうだな。」

 そう言ってKは目を細め、遠くを眺めた。太一たちの周りには、子供を連れた母親や大学生と思われるカップルがいた。女の子は何よりも美しい。それは太一も全く同感だった。しかし、太一たちはそれに近づくことはできなかった。近づけば、手ひどい仕打ちを受けることになる。やはり、慣れていかなければならないのだろうか?。拒絶されることに。

 Kは、自分の生徒に気持ち悪いと言われても挫けてはいないようだった。太一はKの強さに感心した。だが、手段がないのはKも同じはずだった。

「妹は、俺に似てないんだ。」

「えっ?。」

 Kは突然、自分の妹の話を持ち出した。なぜ、今そんな話をする必要があるのか、太一はさっぱりわからなくて驚いた。

「妹は、俺と違って結構まともな顔をしてるんだ。本当に良かったよ。」Kは、リラックスした笑顔のままそう言った。Kが笑うのは、本当に珍しいことだった。

「なんで妹の話になるんだい?。」

「妹は、俺から見ても結構いい線いってるんだ。子供の頃から男がたくさん寄ってきたよ。」

 太一は、久しぶりに自分の姉のことを思い出した。彼女は、可哀想なことに太一に似ていた。太っているところまで同じだった。自宅に男が訪ねてくることも、電話がかかってくることもなかった。

「そりゃ心配だね。」

「まあな。俺が、かたっぱしから追い払ったけどね。」

 太一はKの部屋に飾られている、Kの家族写真のことを考えた。そして、そこに写っているKの妹を思い出そうとした。しかし、太一の頭には彼女の顔は浮かんでこなかった。彼女は、太一に強い印象を与えてはいなかった。とはいえ、それは子供の頃の写真だった。今とは比べられないだろう。それでいて、太一はある疑問を感じていた。そして、思いついたままを口に出した。口に出した後ですぐに、言わなければ良かったと後悔した。

「でも、妹はKのことを嫌ってるって言ってたよね?。」

 Kの表情がさっと曇った。うっすらと浮かんでいた笑顔は一瞬にして消え去り、顔中の筋肉が強張っているのが見て取れた。太一は、しまったと思った。Kはベンチに座ったまま、足を大きく開いた。そして両肘をひざの上に乗せ、頭を低く下げて目を閉じた。そのまましばらくじっとしていた。耐えているんだ、と太一はわかった。拒絶されることに耐えているんだ。この気持ちは、太一にも本当によく理解できた。

「俺がこんなだから、嫌われたって仕方がないさ。」

 しばらく経ってから、Kはボソッとつぶやいた。何と言えばいいのか、太一には言葉がなかった。


 少しして、Kは冷静さを取り戻した。二人はそろそろ帰ることにした。17時までに店に入らないといけない。まだ時間の余裕はあったが、太一は早めに帰っておきたかった。

 太一たちは、園内の遊歩道を出口に向かって歩いた。すると、少し先のベンチに20歳くらいの女の子が二人並んで座っているのが見えた。太一はなにげなく、そのうちの一人、髪の長い女の子に注意を向けた。その女の子は、真っ直ぐな黒い髪を胸が隠れるまで伸ばしていた。キャメルの長いコートを着てボタンを全て止め、首に紫とピンクが縞模様になったマフラーを巻いていた。こげ茶のロングブーツを履いた両足をきちんと揃え、前方に軽く投げ出すようにして座っていた。一見しただけで優雅な美しさが伝わってきた。彼女は横を向いて少しだけ首を傾け、楽しそうに隣の女の子と話していた。彼女が笑うたびに、大きな瞳のまつげが揺れ、長い黒髪が陽の光を反射してきらきらと輝いた。

 太一は、はっとして立ち止まった。彼女の座っているベンチまで、あと10メートルくらいだった。「どうした?。」とKが太一に聞いた。太一はそこに凍りついたように立っていた。太一は気がついた。目の前の女の子が、『レジ係の天使』であることを。

 太一は、彼女に特別な感情を抱いているわけではなかった。彼女はあまりにも遠い存在だった。太一にとって、彼女はこの世の美しいものの象徴だった。つまり、不用意に近づけば拒絶されると太一は確信していた。だから、彼女に自分のことを気付かれたくなかった。来た道を引き返そうと、Kに頼もうと考えた。

 そこへ、一人の男が現れた。年齢は太一たちと同じくらいに見えた。おそらく大学生だろう。背が低く小太りで、男なのに髪を肩に掛かるまで伸ばしてパーマをかけていた。男は、ベンチに座っている『レジ係の天使』へ駆け寄った。そして、ちょうど彼女の正面でしゃがみ、見上げるようにして何かを話しかけた。

 最初、その男は彼女の知り合いかと太一は考えた。しかし、その考えはすぐに間違いだとわかった。彼女が、そっぽを向いて男を完全に無視したからだ。彼女は、うつむいて大きな瞳を細め、口を真一文字に結んでいた。明らかに不機嫌になっていた。しかし、男は彼女に話しかけ続けていた。身振りを加えて一生懸命に、何事かを彼女に伝えようとしていた。

 太一の場所からは、遠すぎて男が何を話しているのかわからなかった。だが、太一にはそれで十分だった。小太りの男の背中を見ているうちに、彼が自分にそっくりに見えてきた。太一は心の中で叫んでいた。「やめろ。近づいちゃいけない。彼女は無理なんだ。」その時太一は男と同化していた。彼の焦燥感を身をもって感じた。動悸が早くなり、息苦しくなってきた。

 男がいくら話しかけても、彼女の態度は変わらなかった。いらだった表情のまま、男を無視し続けた。色白の顔がさらに白くなり、しまいには青くさえ見えた。眉間にしわがより、細めた目は鋭さを増していた。彼女は、最後まで彼と眼を合わせることはなかった。とうとうその男は諦めた。ゆっくりと立ち上がり、とぼとぼと歩いて彼女から離れていった。

 男がいなくなると、彼女はやっと警戒を解き、表情を少しだけ緩めた。そして、友達の方を向いて何かを言った。太一は、彼女の唇が「バカじゃないの。」と動いたのがわかった。

「行こう。」と太一はKに言い、彼女に背を向けて来た道を戻り始めた。Kは引き返すことに不平を言わなかった。ただ、「嫌な女だ。」とだけ言った。

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