第4話 のっぽさん1(政治について)

 その頃太一は、レストランで調理補助のアルバイトをしていた。そのレストランは、駅のロータリー前に建つビルの2階にあった。店は長方形をしていて、その一角を区切ってカウンター席があり、その奥が厨房になっていた。ホールには、正方形や円形の大小様々のテーブルが並べられていて、満席になれば50人程の収容能力があった。照明はあえて薄暗くされていて、レンガに擬して装飾された壁にはアンディ・ウォーホルのようなポップアートが数点飾られていた。

 太一は、その店で週3日くらい17時から22時まで働いた。この仕事を選んだ理由は、第1に夕食を店で取れること、第2に料理が習得できること、そして第3に、あまり人と話さずに仕事ができることだった。レストランの営業時間は朝10時から22時までで、17時からはバータイムになった。18時を過ぎると、彼女を連れたスーツ姿の会社員や数人の大学生のグループが店を訪れ、とても繁盛した。店が混雑するとつらい仕事だったが、月に5万円くらいの稼ぎになった。稼いだアルバイト代は、生活費とロックのCDに消えていった。

 お店で働いている学生アルバイトたちは、とても仲が良かった。太一を除いての話だが。学生アルバイトたちは仕事を終えると、毎日のように男女一緒になって飲みに行った。彼らは私服に着替えて、レストランの入ったビルの1階入り口前に集合した。そして、おそらく24時ぐらいまで飲んでいたのだろう。しかし、太一はその飲み会に一度も誘われたことがなかった。

 太一はそのことで傷ついたり、腹を立てたりはしなかった。太一にとっては『いつものこと』だったし、仮に彼らと飲みに行っても、話が合わないのは目に見えていた。太一と他のアルバイトたちとでは、たくさんの点で違いがあり過ぎた。ただ、着替えを終えてビルの通用口を出た時、入り口前で集合する彼らの前を通るのはつらかった。

 そこで太一は、他の男たちよりもわざとゆっくり着替える事にした。そうすれば、1階入り口前で彼らと会わずに済む。太一がその前を通る頃には、もう彼らは飲み屋に向かった後になるわけだ。この解決策を、バイト仲間たちもすぐに察してくれた。誰もが大急ぎで着替えるようになったのだ。その日を除いて、この方法は上手く機能していた。


 その日、いつものように全員が更衣室を出ていったので、太一もそろそろ帰ろうとした時だった。バイト仲間の一人が、慌てた様子で更衣室に戻ってきた。ネックレスを失くしたという。なんでも、彼女からのプレゼントだそうだ。これを失くしたら彼女に会えないよ、と言いながら、彼は更衣室のあちこちを探して回った。仕方がないので、太一も探すのを手伝った。結局、そのネックレスは彼が手に持っていた鞄から見つかった。彼は一安心して出ていったが、人騒がせな話だった。おかげで、太一はもう少し更衣室で時間を潰す羽目になった。

 太一が、ぼうっと更衣室の椅子に座っていると、とうとうレストランの店長が中に入ってきた。店長は30代半ばくらいの長身の男で、店の中では『のっぽさん』というあだ名で呼ばれていた。店長は、いつも一人だけ帰りが遅かった。閉店後に店に残って、最後の片付けや明日の準備をしているらしかった。

「なんだ。まだいたのか。」のっぽさんは、少し驚いた様子で太一に尋ねた。

「はい。」

「何か用があるのかい?。」

「いやあ、・・・。」

 曖昧な返事をする太一を、のっぽさんは怪訝な顔で見た。

「他の奴らは?。」

「みんなで飲みに行きました。」

「そうか。」

 のっぽさんはそれだけ言うと、黙ったまましばらく何事かを考えていた。おそらく、この時にのっぽさんは事情を察したようだった。彼は、太一と他の学生アルバイトたちとの溝に気づいていた。この人は、びっくりするほど頭の回転の早い人だった。

「じゃあ、俺たちも飲みに行こう。」とのっぽさんは言った。太一は、びっくりした。しかし、わざわざのっぽさんは「俺たちも」と言った。今をもって二人が仲間になった気がして、太一は反射的に「はい。」と答えた。

 太一とのっぽさんは二人でビルを出た。外に出た途端に、真冬の夜の寒さが太一の身体を包んだ。のっぽさんは、ビルのすぐそばにある細い道に入り、その奥へ進んだ。その狭い道には、古い造りの飲み屋が数軒営業していた。やがてのっぽさんは、焼き鳥屋の前で立ち止まった。焼き鳥と書かれた提灯が店の前に掲げられ、そのオレンジ色の淡い光が周囲をほんのりと温めていた。「こんばんは。」と言いながら、のっぽさんはガラガラと戸を開けて中へ入った。太一は急いで後に続いた。その店は、細いカウンターと奥に3畳くらいの座敷があるだけの小さな店だった。他にお客さんは二人だけだった。のっぽさんと太一は、カウンター席に並んで座った。席に着くとすぐに、のっぽさんは瓶ビール2本と焼き鳥の盛り合わせとお新香を注文した。お店の主人との短くて親しみのあるやり取りから、のっぽさんがこの店の常連だとわかった。太一は、全てをのっぽさんの言う通りにしようと決めた。

「音楽が好きなのかい?。休憩時間に、いつもウォークマンを聴いてるからさ。」

 瓶ビールが出てくると、のっぽさんはまず太一のグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。太一はもじもじとしながら、説明を始めた。元から、太一は自分の話をするのが得意ではなかった。

「昔のロックが好きなんです。今日は、イエスというバンドを聴いてました。」

「イエスか、びっくりだな。どの曲だい?」

 のっぽさんは、太一の答えに興味を惹かれたようだ。少し身を乗り出すような仕草をした。

「曲というよりは、アルバムを通して聴いてます。こわれもの、というアルバムです。」

「フラジャイルか。そのアルバムは俺も大好きで、今でもしょっちゅう聴いているよ。しかし、君は若いのにずいぶん渋い趣味をしてるな。他にはどんなのを聴くんだい?」

 太一は、最近聴いている曲を思い出そうとした。時間をかけて考えないと、口にすることが難しかった。太一はまだ、のっぽさんという未知の人に対して緊張が解けていなかった。

「最近は、レッド・ツェッペリンとキング・クリムゾンを良く聴きます。でも、昔から好きなのはビートルズとビーチ・ボーイズ です。それ以外は、大学に入ってから友達に教えてもらったんです。」友達とは、もちろんKのことだった。

「へえ、ますますいい趣味だ。俺と全く同じだよ。君もそうだが、その友達もすごいな」

 のっぽさんは、とても嬉しそうな顔をした。太一も、K以外に音楽の好みが同じ人に会えて嬉しかった。さっき更衣室で感じた仲間意識が、より強くなっていた。太一は珍しく、他人に打ち解け始めていた。そして、質問されていないことを自分から話し出した。そんなことは、太一の人生の中で滅多にないことだった。

「レッド・ツェッペリンとキング・クリムゾン、それからビートルズとビーチ・ボーイズ でも60年代後半の曲は、激しくて目茶苦茶なエネルギーがあって好きなんです。聴いていると、誰かに頭を掴まれてグルングルンと振り回されてる気分になるんです。頭の中にあるものが吹き飛ばされて、嫌なことも消えてスッキリするんです。」

「全く同感だ。良くわかるよ。しかし、俺が学生の頃のバンドばかりだな。最近のは聞かないのかい?」

「新しいバンドだと、ニルバーナがすごく好きです。」

 ニルバーナを太一に薦めたのも、Kだった。ニルバーナはもう世界的に有名なロックバンドになっていたが、Kは彼らをデビュー直後から知っていた。のっぽさんは、ニルバーナを知らなかった。太一は、鞄からニルバーナのネバーマインドが入った46分のカセットテープを取り出して、のっぽさんに貸すことにした。これも、太一にとってはとても珍しいことだった。

「ありがとう。今日帰ったら早速聴いて、明日感想を話すよ。明日もシフトに入ってたよな」

 太一はうなずいた。

「君と音楽の話をしていると、自分が学生だった頃を思い出すよ。」

 のっぽさんはそう言って、少し遠くを見るような眼をした。

「のっぽさんは今おいくつなんですか?」

「俺は、1950年、昭和30年生まれの42歳だ。」

 太一は驚いた。てっきりのっぽさんは、30代半ばだと思っていた。のっぽさんにそう伝えると、「いつも実年齢より下に見られるんだ。苦労していないせいかもな。」そう言って、のっぽさんは笑った。


 のっぽさんというアダ名の出処は、子供の頃NHK教育テレビで放送されていた『できるかな』という番組だった。のっぽさんの雰囲気が、その番組に出演していた元祖『のっぽさん』にとても似ていたからだった。数年前に働いていた学生アルバイトが命名者だそうで、以来完全に定着していた。のっぽさんを本名で呼ぶ人は、店に一人もいなかった。

 のっぽさんは背が高く痩せていて、とても不思議な笑い方をする人だった。不思議というのは悪い意味ではなく、どこか達観した笑い方のせいだった。店の誰もが、のっぽさんに好感を感じていた。特に、昼番のパートで働いていた女性は明らかな好意を見せていた。17時に太一が店に出勤すると、厨房でその女性とのっぽさんが他愛ない世間話をしているのをよく見かけた。彼女は結婚していて、子供も二人いる30代半ばの女性だった。だが、のっぽさんの隣にいる時、彼女は極端に言って女子高生のように見えた。うっとりとしてのっぽさんを見上げ、少し顔を紅潮させていた。気がつくと、彼女はいつも不自然な程のっぽさんに近寄っていた。

 夜間勤務のバイトに、レジ専門の女の子がいた。近くに住む短大生で、彼女ものっぽさんに好意を持つ一人だった。ウェイトレスを兼ねていたが、会計は原則彼女の役目だった。21時半のラストオーダーが終わると、彼女とのっぽさんは毎日並んでレジの前に立ち、一日の売上を集計した。真剣に現金を勘定するのっぽさんの隣で、彼女はほとんど何もせずにぼおっとのっぽさんを見つめ、キリストの奇跡を目撃したような表情を浮かべていた。はっきり言って、彼女は全く役に立っていなかった。普段はテキパキと仕事をこなしたが、その時だけは、時折のっぽさんが言う冗談に笑うだけだった。不思議なのだが、この店ではそんな光景を目にしてもほとんど気にならなかった。

 彼女は自然な黒髪のロングヘアで、小柄な上にとてもスリムだった。小顔にくっきりと目立つ大きな瞳を持ち、そのせいで実年齢よりも下に見えた。その姿は、さながら天使のようだった。そんな女の子だったから、当然バイトの男たちが次々に彼女にアタックした。だが、誰もが無残に玉砕する結果となった。彼女は無理だよ、というセリフが男性更衣室でよく聞かれた。彼女ののっぽさんへの特別な感情は、誰の眼にも明らかだったから諦めるほかなかった。太一にとっても、彼女はあまりにも美しすぎ、あまりにも遠すぎる存在だった。

 にもかかわらず、のっぽさんがレジ係の天使やパートの女性に接する態度は、お店のほかの女性はもちろん、男のバイトたちに対するものと寸分も変わらなかった。全く同じ口調で話し、全く同じ笑顔を見せた。全く同じように冗談を言い、男も女も笑わせた。のっぽさんは、周りに性的な香りを少しも感じさせない人だった。女性がどんなに蠱惑的な眼で見つめようと、彼は微動だにしなかった。まるでビル清掃のおじさんと朝の挨拶を交わすように、爽やかな親密さで彼女たちに接した。その態度は、崇高さと同時に距離も感じさせた。お店の人たちとのっぽさんとの間には、ある埋めようのない距離が存在していた。

 そんな正体不明の人物と、太一は二人で酒を飲んでいた。


 1950年生まれなら、 ビートルズとビーチ・ボーイズ、それからキング・クリムゾンを同時代で聴けた世代だ。太一には憧れの時代だった。フラワームーブメント、ラブ&ピース、アメリカの公民権運動、ベトナム戦争、学生運動。混乱と激動の時代だったが、ロックミュージックが最も輝いていた時だと、太一は思っていた。

 そういえば、のっぽさんの世代は学生運動が一番激しかったはずだ。太一は、興味を持って質問してみた。

「のっぽさんは、学生運動とかしてたんですか?」

「いや、俺はいわゆる学生運動には参加しなかったよ。馴染めなかったんだ。マルクス主義は新興宗教みたいだった。一番縁遠いようで、実は学生たちに有無を言わさず信じることを求めてた。説明も一切ない。全く科学的じゃなかった」

 そう言って、のっぽさんは瓶ビールを手に取り、自分のグラスに注いだ。

「俺たちが子供のころ、この国は本当に貧しかった。今では、すっかり豊かになったけどね。戦争の傷跡は、まだそこらじゅうに残ってた。貧富の差も激しかった。今の発展途上国と変わりなかったよ。

 おまけに、俺たちは大学生だった。大学進学率はまだ低かったから、学生は確実に金持ちの側に属してた。俺たちが施さなければいけない、というわけだ。思い上がりだよな。だから、平等でなければいけない、というマルクス主義の主張には説得力があったよ。

 だけどひどい話なんだが、学生運動の中心にいた先輩たちも、本音ではマルクスの本がさっぱり解ってなかった。難しすぎて解らないんだよ。彼らは、解らないのに信じてたんだ。この辺りが、新興宗教と近い理由だ。」

 太一は驚いてのっぽさんを見た。マルクス主義が新興宗教と同じだ、なんて話は初めて聞いたが、のっぽさんの話を少し聞いただけで、その理由がすんなりと理解できた。平等は正しい、だから解らないのに信じた、というわけだ。聡明な人だとは思っていたが、これほどだとは思わなかった。太一は、少し間をおいてから「すごい。」と言った。

「いや、そんなことはないよ。」

 のっぽさんは明らかに謙遜してそう言った。少し、恥ずかしそうだった。それから、瓶ビールのお代わりを注文した。新しいビールを太一のグラスに注ごうとしてくれたが、太一は遠慮した。

「ビールは嫌いなのかい?」とのっぽさんは太一に質問した。太一は、飲むことはできるのだが、まだ酒の味というものがわからないのだ、と説明した。それから、のっぽさんに今の話の続きを頼んだ。

「どうしたら、そんな風に考えることが出来るんですか?」

「へそ曲がりというか、ひねくれ者だからだよ。」とのっぽさんは答えたが、その回答では太一は腑に落ちなかった。

「僕はのっぽさんのように、すっきりと物事を理解できないんです。解らない事だらけです」

「まあ、若いうちはそんなもんだよな」

 そう言ってから、のっぽさんは暫く黙っていた。また何事か考えているようだった。それから、話の続きを始めた。

「現実というのは、雲とか霞みたいなものなんだ。離れたところから見ていると、中身がさっぱりわからない。近づいてみると、今度は霞んでいて、周りは見えないし全体の形もわからない。木を見て森を見ず、だ。

 例えば、毎年沢山の交通事故が起きている。痛ましい死亡事故も多い。なんとかしなくちゃならない。少しでも事故を削減するための対策が必要だ、と誰もが考える。しかし、そんな時『いろんな事故がいっぱいあるんです。』と言ってるだけでは、話にならない。どうしたらいいか、対策の立てようがないからね。

 そこで、現実という雲のような現象に対して、思い切ってその余分な部分を切り落して真四角にする必要がある。去年の事故を全部机の上に並べてみて、その一つずつに特徴的な印をつけていく。飲酒事故だとか、長時間運転の疲労による事故だとか、未成年者の未熟な運転による事故というふうに。個別の事故をよく見てみれば、それはいろんなケースがある。原因もいろいろ考えられる。一口に分類するのは難しい。でもね、難しいと言っていては、対策が立てられない。雲の中にいるのと同じだ。全体がわからない。その間にも交通事故は増えてゆく。だから真四角に思い切って整理する必要があるんだ。俺はこれを個人的に『雲 ー 余分=真四角』と呼んでいる。」

 太一は感心して、もう一度「すごい」と言った。だが、のっぽさんの話には、さらに続きがあった。

「涙を飲んで余分を切り落とすんだ。現実を抽象化するんだ。交通事故の例を続けると、飲酒事故、長時間運転の疲労や、未成年者による事故で全体の半数以上を占める事が分かったとする。すると、飲酒事故の罰則の強化や継続的な取り締まり、連続運転時間の制限、免許取得時の実地訓練の強化、と言った具体的な対策が立てられる。その対策に集中して、エネルギーを注ぎ込むことができる。そして、その具体策がうまくいったか失敗だったかも評価できるようになる。でも、俺はいつも思うんだが、整理した後で心にシコリか残る。」

「シコリ?何でシコリが残るんですか?」と太一は質問した。

「俺のいうシコリとは、切り取った余分のことなんだ。何故かというと、その余分をもう一度元に戻して、雲をしげしげと眺めると、大抵の場合、違う角度から真四角に切り取れるんだ」

「別の四角になるということですか?。」

「その通り。前とは別の四角だから、そこから導かれる対策も異なる。以前はAという結論を出したけれど、今はBという結論になってしまう。そうなる理由は、雲を別の角度から切り取ったからなんだ」

「それで、Bという結論は、Aより正しい答えになるんですか?」

「いい質問だよ。実は、この雲を真四角に切り取る作業は、時間が許す限り延々と繰り返せるんだ。そして、そのたびに違う答えを出すことも可能だ。A、B、C、D、E・・・。どれが正しいかは、結局いつまでもわからないんだ。

 世の中には、わからないといって匙を投げるやつもいる。『飛んでいる矢は止まっている』とか、『アキレスは亀に追いつけない』とか言ってね。または、自分の意見を強硬に主張するだけで、人の意見を全く聞かない奴もいる。この手のタイプとは、大抵の場合喧嘩になる。

 でもね、わからないとか難しいとか言っていたり、喧嘩ばかりしていては対策が立てられない。その間にも交通事故は増えてゆくんだ。何かしなくてはならない。これだけは間違いない。なあ、こんな話してて面白いか?」

 突然、のっぽさんは心配そうな顔をして太一にたずねた。面白いです、と太一は答えた。

「そうか、太一は少し変わってるな。俺は普段、こんな話誰にもしないんだぞ。みんな、つまらないから聞いてくれないんだよ」

 僕は変わっているのだろうか?いや、そうじゃない、と太一は考えた。太一がのっぽさんの不思議な話を聞いていられるのは、太一が『空っぽ』だからだと、太一は思った。『抽象化』も知らないし、スキーや車も知らない。僕の中身は全くの真空なんだ。


 太一たちが座っているカウンター席の端に据えられたテレビから、湾岸戦争の続報が流れていた。もうすぐクウェートと解放できる見込みだと、キャスターが説明していた。

「こんなことはするべきじゃない。当事者であるアラブ人たちが解決するべきだ。アメリカや日本は、仲を取り持ってやればいいんだ」

 急にのっぽさんが声を荒げた。太一は驚いてのっぽさんを見た。

「確かにイラクがクウェートを侵略したのは良くない。直ちに撤退するべきだ。だけどアメリカだって、いくら言ってもベトナムから出て行かなかったじゃないか。だいたい、石油が目当てだってことは誰が見てもバレバレだよ。

 どうして、20歳そこそこのアメリカの少年たちが、砂漠で人殺しを覚えなきゃならないんだ?性格がねじ曲がって帰ってくるに決まってるよ。帰って来ないやつだって沢山いる。取り返しのつかないことになるんだぞ。そんなに戦争がしたいなら、せめてブッシュが自分でやってくれよ。レーガンも誘えばいい。あんた達は、もう十分に生きたんだから、自分の信じる大義と妄想のために潔く散ってくれ。アメリカ議会ご一行様で出掛ければ、相当な人数になるはずだ。後のことは大丈夫。もう一度選挙すればいい。やりたいやつは山程いる。民主党はフルセットそろってる。頼むから、自分の妄想に子供たちを巻き込まないでくれよ」

 のっぽさんの勢いに驚いている太一には目もくれず、のっぽさんは議論をさらに進めた。

「でもね。出掛けちまったら、アメリカ人はイラク人を殺すことになる。圧倒的な物量と技術の差で、一方的な大量虐殺になる。戦争はすぐに終わるだろう。アメリカ中心の多国籍軍の大勝利だ。

 全てが終わった後、イラクには自分の子供や人生の伴侶や恋人や友人を喪った普通のイラク人たちが残される。彼らは、これから一体どうすればいいんだ?。何もする気にならないよ。全部水に流してアメリカ人と握手して、ヘラヘラ薄ら笑いを浮かべろって言うのか?。無理だよ。彼らには、アメリカ人を憎む権利がある。アメリカ人と闘う理由がある。小学生だってこう言うよ。『相手の立場になって考えてみましょう。』」

 太一は、びっくりして目を見開いた。そして、のっぽさんがひと息ついたところで、「すごい。」とまた独り言のように言った。新聞やテレビで、たくさん肩書きのついた人々が湾岸戦争の解説をしていたが、誰一人のっぽさんのような話はしなかった。

「いや〜、悪かったな。つい熱くなってしまったよ」

 のっぽさんは、そう言って太一に謝った。それからまた自分のグラスにビールを全部注いだ。あっと言う間に空のビール瓶が3本、のっぽさんの前に並んでいた。

「世の中には現実を歪んで切り取り、そこから対策を取ることがある。利己的で、短絡的な切り取り方をするんだ。そこから取られた対策は、大抵の場合将来に大きな禍根を残す。悲劇を導いてしまう。ちょうど、第1次世界大戦の解決方法が、第2次世界大戦を引き起こしたようにね。誤った対策のせいで、数千万もの人が死ぬことになったんだ」

 しばらくして、二人は店を出た。のっぽさんも、駅のすぐ近くに部屋を借りていたので途中まで並んで歩いた。彼は、なぜかまだ独身だった。

「君と話せて楽しかったよ。近いうちまた飲もう。」と別れ際にのっぽさんはそう言った。太一はうなずいたが、今夜はのっぽさんが話すのを聞いていたけだ、という気がした。これを『話す』と言って良いのか、太一には分からなかった。


 翌日の夕方、太一が17時にお店に入ると、のっぽさんがすぐに太一のところに駆け寄ってきた。

「Nirvana 、昨日の夜に早速聴いたよ。すごかった。何回も聴き直したから、おかげで朝まで寝れなかったよ。」

 珍しく、のっぽさんはいつもの冷静さを失って、少し興奮気味ですらあった。よほどNirvana を気に入ってくれたらしい。

「すごいよ。本物の天才だ。」

 のっぽさんは、偶然にもKと同じ表現を使った。太一は嬉しかった。

 親しげにのっぽさんと話す太一を見て、店の人々の誰もが呆気に取られていた。例の、のっぽさんに好意を示す30代のパートの女性は、口を大きく開けてそこに立ち尽くしていた。それは、誰も今の太一のように、興奮したのっぽさんと話をしたことはなかったからだ。太一は、自分がお店の中で注目を浴びていることに気が付き、恥ずかしくなってのっぽさんとの会話を打ち切り、厨房に入って自分の仕事に取りかかった。

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