第3話 Kとの会話
太一達は、大学から駅まで三人で帰ることがよくあった。駅前でSと別れた後、Kと太一はしばしば徒歩でKのアパートに向かったものだ。お互い何も言わなかったが、目的はKの部屋で音楽を聴くことと決まっていた。Sは、大学のある駅から私鉄で3駅離れたところに住んでいたが、Kと太一は大学のすぐそばにアパートを借りていた。二人のアパートはとても近かった。
その日、Kのアパートへ向かう途中で、太一はKに真っ赤なボディコンの女の子の話をした。話を聞き終えると、Kは心から太一に同情してくれた。
「やっぱり、合コンなんか行かなきゃよかった。自分がますます惨めになっただけだった。」と、太一は最後に付け加えた。
「しかし、金まで取られたなんてひどい話だ。」とKは言った。彼は、まるで自分のことのように腹を立てていた。
「お金がなくなったから、歩いて帰るしかなかったよ。」
「女ってのは、本当に酷い奴らだ。俺なら、金を要求された時点でその出っ歯の女を殺してるよ。」
Kの同情は、とても有難かった。しかしその怒り方は、あまりにも大袈裟だと太一は思った。KやSが、『女を殺す』という表現をよく使うことが気になった。
Kの部屋は、駅から5分ほど離れた住宅街の中にあった。2階建のアパートで、彼の部屋は2階だった。間取りは1DKで、奥の6畳の部屋は、いつも雑然としていた。部屋の両隅には脱いだ洋服や、CDやカセットテープ、単行本や文庫本がうず高く積み上げられ、その大半が埃を被っていた。部屋の中央に小さなテーブルがあり、その正面に小さなテレビとステレオが設置されていた。
二人が部屋に入ると、Kは無言のまま部屋の明かりを点け、それからすぐにステレオに電源を入れた。彼は太一の意向は特に確かめず、ニルバーナ のネバーマインド を選択した。Kは、他のことでも太一に意見を求めることはほとんどなかった。しかし、Kの選択は大抵の場合、太一のその時の気分とマッチしていた。あるいは、太一がすぐに気分を切り替えて合わせることができた。太一が二人の次の行動を選択する場合は、Kが太一の役割を務めた。二人は、チームとして機能していた。
アルバムの一曲目「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」が始まった。とんでもない爆音のギターが終わると、カート・コヴァーンが静かに歌い始める。そして、太一たち二人に語りかける。
「やあ、どれ位悪い?」
「やあ、どれ位酷い?」
「やあ、どれ位つらい?」
「やあ、どれ位苦しい?」
彼は、何度も何度も質問する。太一は思わず、眼を閉じて俯き、両手をこめかみのあたりにあてる。沸き起こる感情に耐える。曲の最終版に差し掛かると、カート・コヴァーンは轟音を背にしながら、こう絶叫する。
My Denial、My Denial、My Denial。
太一は、彼が「俺は認めない。俺は受け入れない、絶対に認めない。」と繰り返していると解釈していた。そして、その言葉は驚くほど今の太一の気持ちを代弁していた。ただ、激しい否定の心情が吐露されただけで、曲は終わる。彼も、答えを持っている訳ではなかった。彼も太一と同じように、解決出来ない悩みを抱えているのだと、太一には思えた。
「すげえよ。本物の天才だ」
曲が終わった後にKが言った。太一も、無言で大きくうなずいた。そのまま太一たちは、二人とも黙って ネバーマインド に収められた曲に聴き入っていた。そのアルバムが終わるまで、お互いに口を開かなかった。
「大学をやめようと考えてるんだ」
ネバーマインド の最後を飾る曲、「サムシング・イン・ザ・ウェイ」の約10分間続く無録音部分で、Kがぼそりと言った。そして、すぐ後に「まだ、はっきり決めた訳じゃない。」と付け足した。
「やめてどこかに就職するの?」
学生であることをやめたなら、働くことしか選択肢はない、と太一は考えていた。どこかの会社に就職して、何十年も働き続けると。しかし、それでいて太一は働くことに何の価値も見出せなかった。太一は、Sとは違って『社会の中で何者かになる』という考えが欠落していた。それは、『他人に認められたい』というごく普通の欲望を、太一が全く求めていないからだった。言い換えれば、たとえ社会で仕事に就いても、『他人に認められることはない』と太一が諦めているからだった。これから何処へ行こうとも、そこにいる人々が太一を無視したり、嘲笑ったり、虐めたりするだろう。ただその繰り返しだ。何も変わらない。太一の世界観はとてもシンプルで明快だった。
「いや、その後どうするかも決めてない」と、Kは答えた。
「ただ、大学をやめるのかい?」
「そうだ。このままじゃ、意味がない気がするんだ」
このままでが意味がないことは、太一も同感だった。太一にとって、自分が生きていることは明らかに無意味だった。時間と資源の純粋な消耗だった。今太一が属している世界は、太一がいなくなればもっと上手く回転する気さえした。しかし、Kにも同じことが当てはまるのかは、太一には分からなかった。ただ、彼も周囲に受け入れられていないことは確かだった。
「俺、自分の家族に嫌われてるんだ」
「どうして?」
「いや、俺が悪いんだ」
Kの部屋には、テレビの上に小さなフォトスタンドがあった。それには、子供の頃のKと家族が写った写真が飾られていた。太一はKの部屋を初めて訪れた時から、その写真の存在に気がついていた。その写真には、Kと両親と思われる二人と、それから小さな女の子が一人写っていた。同世代で、部屋に家族の写真を飾る者はほとんどいなかった。だから、太一は口にはしなかったがとても不思議に感じていた。そして、Kはよほど家族との繋がりが強いのだろうと考えていた。だから、彼の話はとても意外だった。
太一がその写真を見つめているのに気がついて、Kは「妹は、特に俺を嫌ってるんだ。」と説明するように言った。太一にはますます訳が分からなくなった。
「家族と上手くいかないから、大学を辞める必要があるのかい?」
Kは、困った顔をして黙ってしまった。おそらく、彼の中で二つの問題は全く整理されていないようだった。二つの問題に、論理的な繋がりがあるのかすら、Kは太一に説明することができなかった。そして、彼はもうその話題をそれきり止めてしまった。
ネバーマインドが終わると、Kは、今度はテレビを点けてビデオの電源を入れた。それから、彼はテレビの台の下にある棚に乱雑に重ねられたVHSテープの中から1本を選び出し、それをビデオデッキに挿入した。彼はまた、太一の意向を全く確かめなかった。
再生されたVHSテープの中身は、SM物のアダルトビデオだった。太一とKは、彼の部屋でよくAVを見た。それは、二人でロックのCDを聴くのと同じくらいに日常的なことだった。二人とも、何も喋らず、興奮もせずに画面を見つめて時間を潰したものだった。その時は、画面には赤い紐で縛られた全裸の女性と、なぜか覆面をした上半身裸の男が写っていた。
縛られた女性を見ることは、太一を心から安心させた。何故なら、彼女に拒絶されずに済むからだ。猿轡も必要なアイテムだった。これを使えば、彼女に罵倒されずに済むからだ。それに対して、ろうそくや鞭を使って女性を虐めることは、太一の好みではなかった。独りで自分の部屋でSM物のAVを見ている時は、そういうシーンになると、ヴィデオの早送りボタンを押し続けて飛ばしていた。Kは、太一と違ってそういうシーンが好きだった。Kは、ホラー映画や、特にスプラッター物の映画も好きだった。だから、彼と一緒にAVを鑑賞している時は、太一は我慢してその残酷なシーンが終わるのを待った。それが一風変わったKへの礼儀だった。
画面の中では、覆面をした男が巨大な浣腸器を持ち出していた。その男はそれを縛られた全裸の女性の肛門に突き刺し、彼女の体内に大量のよくわからない液体を流し込み始めた。太一は、息を飲んでその様子を見守った。そして、画面の中の女性の様子を注視した。太一は、浣腸される女性を見るのが好きだった。やがて彼女は、泣きながら大量の大便を排泄した。画面は、彼女が出したばかりの排泄物がクローズアップされ、しばらくそれを写し続けていた。太一は、その排泄物にはほとんど興味が持てなかった。しかし、女性を無理に排泄させるという行為は好きだった。それは、太一はよく解っていなかったのだが、一言で言えば『復讐』だった。一般の女性というものに対する太一の復讐だった。太一は、画面の中で縛られたまま泣いている女性を凝視していた。そして言いにくいのだが、深い満足感というか達成感を感じずにはいられなかった。
しかし、それでいて、太一は自分の背中に寒々としたものを感じていた。それは、ますます自分が無価値になっていく感覚だった。ほんの一瞬の高揚の後、それは容赦なく太一を襲った。「このままじゃ、意味がない気がする。」ただただ、虚しかった。にもかかわらず、その代替の『復讐』のような行為を、太一とKは飽きることなく今夜も続けていた。
そうして、夜は更けていった。
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