第2話 ラブソングは誰のものか?

 太一は、郊外にあるあまり有名ではない私立大学の1年生だった。その大学は、最寄りの駅から10分ほど歩いた、街外れの小高い丘の上をキャンパスとしていた。高台にあるために、学生たちは毎日急な坂を上り下りしなければならなかった。丸々と太った太一には、この坂はつらかった。いつも途中で息切れし、大学に着く頃には汗びっしょりになっていた。夏になると、いつも汗で脇の下が濡れて、シャツに円い汗の跡が出来ていた。

 太一には、KとSという友人がいた。この二人と太一は、大学の必修科目で同じクラスだった。授業で頻繁に顔を合わせるうちに、太一たち三人は自然と仲良くなっていった。もちろんクラスには、ほかにも何十人もの男と女がいた。しかし、三人には重要な共通点があった。それは、女の子にモテそうもない男という点だった。

 入学してしばらくすると、必修科目の授業が始まる前に小綺麗な服装をした男女の輪がいくつも出来るようになった。若者らしい大声や笑い声が教室に響いていた。何人かの男女は、わざと大声を出したりおおげさな仕草をしたりして異性の気を引こうと努めていた。そんないくつもの輪とは、太一たち三人は無関係だった。太一たちは、彼らから距離を置いて教室の隅に集まった。三人は、彼らと違って声をひそめて話し合った。

 その一人、Sは佐賀出身だった。彼は博多の高校に進学したので、16歳から一人暮らしをしていた。そのため、男が一人で生活することについてはとても経験豊富だった。彼が太一とKに披露する生活の極意は、とても実際的で有用な情報だった。安価に食事を調達する方法や、栄養バランスの取り方、睡眠時間の重要さ、それからお金の管理の仕方についてまで、Sは実体験に即した生活の哲学を教えてくれた。

 彼も、太一ほどではないが太っていていつも汗をかいていた。彼の問題は、首筋から右の胸、脇腹を通って右太ももまでを覆う大火傷の跡があることだった。その火傷は、小学校の頃にSが友人とした火遊びが原因だった。Sは、太一たち三人の中では一番明るい気性の持ち主だった。しかし彼は、火傷の跡を人に見られることを極端なまでに避けていた。Sが編み出した解決策は、一年を通して黒いタートルネックのセーターを着ることだった。首筋を隠す目的なら、もっと薄手の服でも果たせるはずなのに、彼はなぜかセーターにこだわった。その結果、夏は大量の汗をかき、彼の体臭は鼻が曲がりそうなほど臭くなった。

 もう一人がKだった。Kの実家は青森県で、青森駅から電車を何度も乗り継いだところだそうだった。Kは、太一やSと違って中肉中背の体型だった。けれど、理由はわからないが20歳手前にして頭が禿げていた。額が深く後退し、特に左右の両脇が奥に切れ込んでいた。その上、脳天部分は既に髪が完全に無くなっていて、まるで河童のようだった。それから、Kの喋り方には、独特のイントネーションというか、訛りがあった。そのせいか、彼は太一やSに対しても、あまり多くを語らなかった。いつも、標準語でゆっくりと必要最小限に言葉を収めて話をした。

 Kは、その髪や訛りの問題のせいか、情緒不安定なところがあった。些細なことで、クラスメイトたちと何度かトラブルを起こした。殴り合いにまで発展することはなかったが、その相手との間にはしこりが残り、大抵の場合関係が修復されることはなかった。Kの口数の少なさが、問題の解決をさらに困難にしていた。

 かくして、太一たち三人は、誰もが外見上に少なくない欠陥を抱えていた。もちろん太一たちはそのことを、常に鋭敏過ぎるほど意識していた。何をしていても、欠陥は常にここにあった。それらは、20歳前後の若者にはあまりに重い荷物だった。だが、太一たちは選択の余地なくそれらを背負って、毎日を生きていた。太一たちが自らの行動に制約を課してまうのは、無理もないことだった。

 おそらく、誰か周囲を圧倒する力を持つ者が、全力で太一たちを守らなければならなかった。そうしない限り、事態は好転するはずはなかった。しかし、そんな奇特な人物はもちろんいなかった。クラスの人々は太一たちから眼を背け、その存在を黙殺していた。太一たちは、まさに身を寄せ合って孤立に耐えた。


 授業の合間に、太一たちはよく大学の中にある学生食堂に集まった。その大学は敷地内に数カ所の食堂があり、どこも通常より2割程度安い値段で食事を提供していた。大学が丘の上にあるために、どの学生食堂からも駅から拡がる街並みを一望することが出来た。どこまでも延々と続く住宅街や、その間に点々と存在する緑が見渡せた。太一たちは、200席ほどの学内で最も広い食堂を好んで利用していた。

 学生食堂は、学生たちが集まるサロンの役割も果たしていた。食堂に集まった学生たちが沢山のグループを作り、そのうちの何人かは授業に出ずに何時間も話し続けていた。太一たちは、食堂に並べられたいくつもの長方形のテーブルの中から、その日最も人が少ない場所を選んで座った。誰が言い出すわけでもなく、普通の人々から距離を取ることを心掛けていた。

 三人が集まると、その大半をSの話が占めた。彼は三人の中で唯一、新聞社で働きたいという明確な目標を持っていた。そのため太一とKは、マスコミという世界について実に豊富な知識をSから伝授されることになった。彼は熱心に、何度も一緒に新聞社を目指さないかと誘った。しかし残念ながら、太一もKも新聞社で働くことにほとんど興味を持てなかった。

 話題がロックミュージックに変わると、会話は太一とKとの間に限定された。Kはロックミュージックについて莫大とも言える知識を身につけていて、それはスケールから考えてSのマスコミに関する知識を凌駕していた。エルビス・プレスリーの時代から現在までの、約40年間に現れた主要なロックミュージシャンたちと彼らの曲、発売日まで、Kは正確に記憶していた。Kは口数の少ない男だったが、ロックの話をするときだけは饒舌になった。太一はいつも目を輝かせて、Kの話に聞き入った。それに対して、Sは音楽全般に興味を示さなかった。Sは、気の毒なのだが黙ったままじっと座って、太一とKの話が終わるのを待っているのが常だった。


 きっかけは、ラブソングだった。

 それは、冬らしく透き通るように晴れた日の午後だった。15時を過ぎた頃、太一たち三人は必修の英語のクラスに参加した後で、いつものように街が見渡せる学生食堂に集まった。食堂の中にはまばらに50人ほどの学生がいて、遅い昼食を取ったり、ジュースを飲みながら話し込んだりしていた。太一たちが座った長いテーブルに、三人の女の子のグループが後からやって来た。彼女たちは、太一たちは長方形のテーブルの端に向かい合って座っていたが、彼女たちはちょうど反対側の端に離れて座った。

 その日、Kは、Beatles の She Loves You や I Wanna Hold Your Hand がいかに画期的で素晴らしい曲であるか、ということを長い時間をかけて太一に説明していた。いつもの通り、Sは黙ってKと太一の話が終わるのを待っていた。

「ロックは、ほとんどみんなラブソングなんだろう?」

 太一とKの会話がひと段落して二人が黙り込んでいると、Sが会話に参加してきた。そんなことはない、とKが答えた。

「I Love You、 I Love Youっていつもそればかり歌っているじゃないか。Beatles だってそんな曲ばかりの気がするけど。」音楽にうといSも、日本の歌謡曲やBeatles の有名な曲は知っていた。

「後期のBeatles は、純粋なラブソングを作っていない」とKが豊富な知識から反論した。しかし、Sは個別の事象ではなく、根本的な問題を提起した。もしかするとSは、その時ずっとそれについて考えていたのかもしれない。

「Beatles はそうかもしれなけど、他のロックはみんな恋愛がテーマなんじゃないか?。恋人がいる奴らが、好きだと言ったり上手くいかないと悩んだりしてる話ばかりの気がする。なんだか、俺たちには全然関係ない話じゃないか。」

 太一はハッとした。そして、Sのいう通りだと思った。しかし、Kは太一と違った。

「ラブソングは、手段なんだ。」と彼は言った。

「どういうことだ?」とSがすぐに質問した。Kが自分の意図を説明し始めた。

「I Love You と言っておけば、大半の人に無害な音楽だと思わせることができる。でも、ロックの本当の目的は否定なんだ。」

「ロックで何を否定するんだ?」

「この世界だよ。世界を否定したい気持ちになる人が、その代替行為としてロックを聴くんだ。世の中には、確かに穏やかで聴き易いラブソングが沢山ある。俺はそういうものを聴くたびに吐き気がしてくる。しかし、探せば本物が見つかる。それは、能天気な人々が気づかない毒を持っているんだ。」

 Kがそう話し終えると、Sは考え込んだ顔をして少しのあいだ黙っていた。それから、落ち着いた調子で話し始めた。

「俺が言いたいのは、Kの言う『穏やかで聴き易いラブソング』が俺たちには関係ないということだよ。確かに、数少ない本物はあるんだろう。でも、それは少数派だよな。つまり、俺たちと同じだよ。」

 そう言ってから、Sはまた少し間を置いた。

「俺は、この火傷の跡がある限り、一生女とセックスは出来ないと思う。もし、女にこの傷を見られて気持ち悪いと言われたら、俺はとても耐えられない。気が狂いそうになって、その女を殺してしまうかもしれない。今まで、いろんな人から気にするなと散々言われてきたけど、俺には無理なんだ。これは、俺個人の問題なんだ。」

 太一とKは神妙にSの言葉に聞き入った。そして、深く考えさせられた。彼が話してくれなければ、太一たちはSに大火傷の傷があると知ることはなかっただろう。Sは、少なくとも太一たち二人に対しては、とてもオープンだった。そして彼は、自分の傷の在りかについてとても正直だった。それは、太一とKにはできないことだった。その分、彼は太一たちよりも強かった。

 太一にとっても、Kにとってもロックミュージックは自分の世界の中で唯一の安息の場所であり、隠れ家だった。しかし、Sが言うように、世の中に溢れる沢山のラブソングはいわば幸せな人間のための歌ばかりだった。太一たち三人には無関係だった。

「少なくとも、俺が少数派なのは確かだよ。」ずいぶん経ってから、Kがボソリと言った。「どこに行っても周りと話が合わないし、喧嘩ばかりしてるもんな。」

 そう言ってKは頭の上を触って軽く掻いた。彼の脳天部分は、驚くほど髪が生えていなかった。

「だから、例えば新聞社に入って、今と全く違う世界に行けばいいんだよ。」Sはまた、新聞社就職の話を始めた。

「いや、新聞社とかいわゆるマスコミ業界に入ったとしても、何も変わらない気がするんだ。」とKは言った。それから、漠然とした話を始めた。

「俺は、上手く言えないがこの世界から脱出したいんだ。こことは全く違う世界に行きたい。本物のロックミュージックを聴いていると、そう確信する。」

「それじゃユートビアだよ。天竺に向かう三蔵法師みたいだ。」Sが呆れた風に返した。

「確かにこの世界は、不公正で残酷な世界だよ。顔がいい奴や金のある奴だけが得をする。それは、ずっと変わらない。だから、俺は向こうの得をする側に行きたいんだ。要するに、金と権力が欲しいんだ。」

 そう言い終えてから、Sは食堂の中を見回した。そこには、太一たちがここに到着した時と同様50人ほどの学生がいた。太一たちが座っているテーブルの反対側の端には、太一たちの後に座った3人の女の子のグループがいた。誰もが、楽しそうに笑っていた。彼らが、向こう側の世界だ、と太一は思った。太一たちと違う世界の住人たちだ。

「金と力が欲しいのは、復讐するため?。」ふと、太一は思いついたことをSに聞いてみた。彼は、ここにいる他の学生たちに復讐することを考えている気がしたのだ。

「復讐?。そうだな。そうかもしれない。」と言って、Sは笑った。その様子を見て、Sの考えは自分と違う気がした。

「俺はそれとは少し違う。上手く言えないんだが・・・。」太一の質問にKが答えた。「俺には、俺なりの美学があるんだ。」

「美学って何だ?」Sは、聞き捨てならないという調子でKに問いかけた。

「誰にも解ってもらえないと思うけど、それは、多分俺だけじゃない気がするんだ。」

「それは、一体どんなものなの?」と太一が聞いた。

 しかし、Kは何も答えなかった。その後、彼はSや太一がいくら話しかけても生返事をするだけになった。別のことを考えているようだった。そして、それきりこの話は中途半端なまま、ぶつんと断ち切られて終わった。Kと話している時、こういうことはよくあった。Kの美学が何を意味するのかは、謎のまま残った。

 太一は、自分が言い出した『復讐』という言葉について考えていた。太一たちは少数派で、世の中に溢れるラブソングは太一たちのものではなかった。それは、大多数を占めるごく普通の幸福な人々のものなのだ。「僕たちは普通になれなかった」と太一は考えた。

 だから太一は、普通の人々に復讐することを考えたのだろうか?いや、太一の頭はまだ漠然としていた。ただ、普通になれなかったという妬みが、太一に『復讐』という言葉を引き寄せていた。

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