待っている山 (1)

 目隠しをされていたけれど、セイレンは、匂いでいま自分がどこにいるのかがわかった。


 甘い葡萄のような、干したばかりの薬草のような、甘くて、重くて、その匂いがすんと鼻にとおったかとおもえば、その瞬間に消えていく――。


 その匂いが満ちている場所を、セイレンは、ほかに知らなかったからだ。


「答えろって。わたしは山頂の湖に連れてこられたんだろう?」


 ここへ来るまで、布で目隠しをされて傾斜のきつい山道を登った。


 その道の岩肌にも、坂の傾斜にも、覚えがあった。


 それで、道中に何度か尋ねたが、セイレンを囲んで山を登る里者は、なにも答えなかった。


 坂道をあがりきり、足が進む場所が平坦になると、一行は歩みを止める。


 思い通りの場所についたのか、目隠しの向こう側では、男たちが持ち物を取り出したり、手仕事をしたりする気配があった。


 セイレンは手を後ろで縛められていて、しかも、その縄は男の手に握られている。


 でも、その男が誰なのかはわかっていた。


「なあ、おまえはカワセリだろ。わたしをどうする気なんだ」


 すると、隣に立つ男が焦り始めた。


「目隠しをされたくらいで、わからないとでも思ったのか? おまえは図体がでかいし、鼻息は荒いし、カワセリだろ。なあ、なにがあったんだ。どうしてわたしをこんな目に合わせるんだ」


 カワセリは、二つ年上、十七歳の少年だ。齢こそ上だが、武術や薬の扱い方はセイレンのほうが得意だったので、セイレンは、カワセリのことを「図体ばかり大きなでくのぼう」だと思っていた。


「なあ、カワセリ。答えろよ。いったいなにがあったんだ。わたしをどうする気なんだ」


 きっと、人がいない場所に連れ出して、殴ったりいじめたりする気だと思った。


 こういうことは、はじめてではない。セイレンは、土雲の里では「災いの子」として煙たがられていたし、妙な目で見られることも多かった。


「なあ、カワセリ。いいだしっぺは誰だ。おまえじゃないだろう。いくらなんでも、目隠しと縄まで使うなんて、卑怯すぎないか」


 分は悪いが、まだ余裕があった。


 足が、まだ自由だ。なにかされたら、飛びあがって蹴りつけてやると思った。腕を使えないと甘く見て、近くに寄ってきた時が絶好の機会だ、とも。


 ばしゃん――。水音が鳴る。


 ぱしゃん、ばしゃんと、その後も水音は響き続けた。ケン、ケー! と、くぐもった鳥の鳴き声も聞こえる。


「駄目だな。これじゃあ、何日も生き地獄だ。かわいそうに――」


 ばしゃん、ばしゃん――。水音は、小さな生き物がおぼれて、もがいているような音だった。


「もういい、カワセリ。セイレンの目隠しをとれ」


(この声は――)


 耳を疑った。


 寝ていたところを突然おさえつけられて目隠しをされ、無理やり歩かされて山道を登ったのは、セイレンのことを目の敵にするやんちゃな少年たちの仕業だと思っていた。


 ちょっと殴られて、そのあとで殴り返してやる、そう思っていたのだが――。


 でも、聞こえた声は、そういうことをしそうな気の荒い少年の声でははなくて、成熟した男の声だった。しかも、聞き覚えのある声だ。


 カワセリの手が、頭の後ろに回って目隠しの結び目を解いている。目の周りを覆っていた布がはらりと落ちていくと、目の前の光景に息を飲んだ。


 夜明け間近の空には、満天の星がまたたいていた。


 思ったとおり、連れてこられた場所は、山の頂きにある湖のそば。


 湖の水は、桜の花の色をしている。水際の土は、撫子なでしこの花の色と澄んだ黄土おうど色。そこから続く地面には、地面に垂れさがるように枝をつける雲柳の木が群れている。


 目の前にある景色は、美しい星空がよく似合って、幻のようだった。


 湖の水面で、魚が跳ねるように水しぶきが上がっている。


 きじが一羽溺れていた。


「哀れだ。射てやれ」


「はい」


 命じられた男は、腰から下がった吹き矢を口に構えて、ぴゅっと吹いた。


 細い矢は雉の胴に刺さり、やがて、雉の動きは止まって、水音も止んだ。


 桜色の水に沈んでいく雉を見下ろして、男はため息をついている。


「この湖の水は、もうじき、誰でも触れることができる清い水になるだろう。我ら、土雲つちぐも一族の技で、湖の水が清められているせいだ。いいことだが――ここはもう、処刑場としては使えないな」


 その男は名をハルフといって、土雲の里の男のなかでは一番上の位、〈土雲の口〉に就いている。


 土雲の一族の長は代々女で、「土雲媛つちぐもひめ」と呼ばれているが、その土雲媛に謁見して、土雲媛が大地の神から授かった言葉を一族全員に伝えるのが、〈土雲の口〉の役目だ。


「ハルフ、なんであんたが――」


 ハルフはセイレンを振り返り、睨むように見て、唇をひらいた。


「セイレン、おまえを処刑する」


「はあ、処刑?」


「苦しまないようにしてやるから、安心しろ。湖に落とす前に、吹き矢で息の根を止めてやろう。そこの、雉のようにな」


「はあ?」


 ぽかんと口を大きく開けた。


「わたしを処刑する? その、雉みたいにする? なんで。どうしてだよ。わたしがなにをしたってんだよ」


「おまえは、石媛いしひめから土雲媛の宝珠を盗んだだろう」


「はあ?」


 石媛というのは、「土雲媛」の家系の末娘。いずれ「土雲媛」を継ぐはずの娘だ。


 石媛は、セイレンの双子の姉だった。


 双子――その生まれを、土雲の一族は嫌っていた。


 子どもが産まれる時は、一人であるもの。それなのに、同じ母親の腹の中から二人の子が産まれるのは禁忌だと、そう信じられていたのだ。


 そのように信じられていたせいで、セイレンは、生まれた時から姉や母、そして、いま土雲媛として一族を従える祖母が住まう館で暮らすことを許されなかった。


 血のつながりはとっくにないものとされて暮らしているので、セイレンは、土雲媛のことをろくに知らないし、いまさら興味もなかった。


 でも、土雲媛の宝珠というものがあるということは知っている。それは、いずれ土雲媛となる娘が大事に作り上げる丸薬で、いつか夫となる男に与えられるものだった。


「わたしは石媛の宝珠なんか知らないよ。ていうか、なくなったの?」


「――ああ。昨日、石媛がそういった。事実、なくなっていた」


「なら、石媛がなくしたんじゃないの。あいつ、どじだねー」


「いずれ土雲媛となる聖なる娘に対して、戯言をいってはならん」


「ああ、すみませんね」


 渋々と謝ると、ハルフはゆっくり肩で息をした。


「いずれ土雲媛となられる聖なる姫が、大事な宝珠を失くすなどありえない。土雲媛は、間違いなど起こすはずがないのだ。だから――その宝珠は、誰かに盗まれたのだ。盗んだのは、セイレン、おまえだ。禁をおかして土雲媛の宝珠を奪い、どこかに捨ててしまったのだ」


「はい?」


 眉間にしわを寄せて、尋ね返した。


「いったいなんの話だよ。わたしは、石媛の宝珠がなくなったことだって、たったいま知ったってば。盗んでなんか――」


「――そうなのかもしれないな」


 ハルフは目を細めて、苦笑した。


「だが、たとえ本当に石媛が大切な宝珠を失くしたのだとしても、そうあってはいけないのだ。土雲媛は、いつも正しい聖なる姫だ。だから、セイレン、おまえが罪をかぶるしかないのだ」


「――は?」


「もうわかっただろう? おまえは、殺されるためにここに連れてこられたのだ。双子の姉が犯した罪を、かわりに庇うために――」


「……ふだん、わたしが石媛のことを双子の姉なんていったらぶん殴るくせに、都合よくいいやがるな。ちょっと待てよ。頭のなかを整理するからさ――」


 いったいなにが起きているのか――。


 しばらく、じっくりと考えた。


 すると、どうやらこういうことだ。


 双子の姉、石媛が、厄介なものを失くしてしまったらしい。


 でも、姉、石媛は、間違いをおかしてはいけない人だ。


 だから、その罪をセイレンにかぶせてしまおうというのだ。


 死んでしまえば、いいわけはできない。


 なにも文句をいえないようにと、ハルフはセイレンを殺してしまう気なのだ。


「おいおい、なんだよそれ――」


 すんなり飲み込めない話だが、悔しいことに、セイレンはすっと受け入れることができた。そういうことをいいだしそうな女に、心当たりがあったからだ。


「なあ、ハルフ。わたしをここに連れていくように、おまえに命じたのは誰だ。土雲媛――わたしの祖母か。それとも、母か」


 きっとあいつらだ――。


 目の前にちらついたのは、祖母と母の真顔だった。


 祖母も母も、自分の孫であり娘であるくせに、セイレンのことを「災いの子」と信じ切っていて、里にいる誰よりもセイレンにつらく当たる。


 きっと、あいつらだ。


 セイレンの命を奪ってでも石媛の身を守ろうとしているのは、母と祖母に違いない――。


 ぎっと歯を食いしばったセイレンを、ハルフはばかにするように笑った。


「そんなことを、なぜ知りたいのだ」


 結局、ハルフは問いに答えなかったが、ハルフの暗い笑顔そのものが、返事だ。


 そうか。また、あいつらのせいか――。

 

 そう思うと腹が立って、あいつらのいいなりになってたまるかと思った。どうにかして逃げてやる、とも。


 手は後ろで縛られているが、足は自由だ。じゅうぶん走れるし、蹴りつければ相手を倒せるかもしれない。


 幸い、縄をもっているのはカワセリだ。カワセリくらいなら、一発蹴りを入れれば倒れるはずだ。


 問題は――と、ハルフと、その両隣にいる男の顔を見た。


 そこにいる男は、三人とも三十半ばの男盛りで、一族のなかでも頑丈な身体をもっている。そういう者は、薬の扱い方も厳しく教えられるので、知識も豊富だ。


 セイレンも武術と薬の扱い方は得意なほうだったが、〈土雲の口〉を務めるハルフを相手に、勝てる自信はなかった。


 正面から挑んでも互角かもしれないのに、いま、セイレンは腕が使えない。腕が使えなければ、吹き矢も、小刀も使えないのに――。


(カワセリならともかく、こいつらが相手じゃ簡単にはいかない。どうしよう……)


 逃げてやる。


 どこから逃げる? どうやって――。


 ばれないような小さな動きで目の玉を動かし、隙を窺う。


 でも、ハルフはセイレンの目の動きを目ざとく咎めた。


「妙なことを考えるなよ、セイレン。――さあ、よけいな真似をされる前にさっさとやろう。――呼べ」


「はっ」


 ハルフの右隣にいた男が、指を丸めて口元に近づけていく。指笛を吹くのだ。


 もう一人は、銀笹と呼ばれる楽器を手にしていた。木の枝の上に、笹の葉の形に削られた貝が四十枚ほどついた楽器で、揺らすと貝と貝が擦れ合って、かなり大きな音が鳴る。


「呼ぶって、まさか……」


 青ざめて、思わず「やめろ!」と叫んだ。


 ピーーーイイと、指笛が鳴る。


「気配はあるな――お呼びしてみよう。雉の贄を捧げたのだ。ありつこうと、水面近くまで来ているはずだ」


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