待っている山 (2)

 闇の色を帯びた花の色の水面に向かって、ハルフは朗々と呼びかけた。


「我、土雲の一族、土雲媛つちぐもひめ様の命をうけ、山魚やまうお様にごあいさつにまいりーましたー。山魚様ぁ、どうか、お顔をお見せくださいませぇ」


 ハルフの言葉には、歌のような抑揚がついていた。その抑揚が、指笛と銀笹ぎんざさの合奏の拍子になる。


 静寂の中ではじまった合奏は、シャン、シャン、ピーーイイと合わさり、こだました。


「やめろ。呼ぶな」


 セイレンは首を振った。ハルフは、注意深く湖面を覗き込んでいる。


「来たぞ、山魚様だ」


 湖面に、黒い影があらわれていた。


 水の底のほうから浮かび上がったその影は、湖の外周をぐるりと泳いでいる。


 ピーイ、ピーイ――。指笛の音色がかわって、闇を裂くように鋭くなる。


 指笛の音に誘われるように、巨大な魚影だったものが水の上に跳ねた。


 山魚様の姿が水上に現れると、「来るな」と願いつつも、その姿に見惚れた。


 山上の湖に棲み、土雲の一族から「山魚様」と呼ばれるものは、巨大な魚だ。


 山魚様の身はうろこでおおわれていたが、そのうろこは、光輝く純白に瑠璃色が混じっていて、向きがかわるたびに色がかわって見える。


 ばしゃん――。ひときわ大きな水音が鳴り、水しぶきとともに山魚様の身は再び水の中に潜る。


「山魚様は、また小さくなったようだ。影の大きさが、三の木から十五の木と同じだったから、だいたい十尋……いや、この目で見るだけでも、湖の水が澄んでいるのがわかる。――この山魚様も、もうおしまいか」


 合奏を続ける仲間に目配せをして、ハルフは、背後に立つセイレンを振り返る。


 ハルフの手は、腰から下がる吹き矢に伸びていた。


「セイレン、動くなよ。妙な真似をしたら、生きたまま湖に投げ込んでやるからな」


「んなこといわれて、わたしが真面目にうなずくと思ってるのか!」


 このままここにいたら、ほんとうに逃げられなくなる。


 焦ると、素早く後ろを向いて、カワセリの腹を蹴りつけた。


 カワセリが呻いてうずくまった瞬間に、思い切り跳んだ。カワセリの手にあった縄ごと、逃げようとした。


 まずは、山を下りる道へ――。駆け出すと、後ろから男の声が脅してくる。


「待て、セイレン! 大人しくしないと、〈箱〉を使うぞ!」


(〈箱〉?)


 はっと我に返るなり、風向きをたしかめた。


 風が吹く向きさえ良ければ、まだ逃げようはある。でも、何度たしかめても、風は湖の方角から自分のほうへ向かって吹いている。セイレンは、風下にいた。


 ハルフたちが使うのが吹き矢なら、いくら風下にいようが矢が届かないほど離れてしまえば逃げられた。


 でも、土雲の一族の武具は吹き矢だけでなかった。


 一族が使うもっとも強い武具――それは、〈雲神様の箱〉という名の、風を使う道具。それを使われたら、すこし離れただけでは逃れられない。


 立ち止まって振り返ると、ハルフたちは三人とも、吹き矢から〈雲神様の箱〉に持ち替えている。


 〈雲神様の箱〉というのは、胡桃ほどの大きさの石細工で、口元に寄せて息を吹き込んで使う。


 ハルフたちは〈雲神様の箱〉を口に当て、すぼめた唇を添えている。それは、「すぐさま息を吹き込んで、おまえを殺してやる」という脅しの構えだった。


 ちっと舌打ちをして、渋々足を止めた。


「なんだ、逃げないのか。逃げてもいいぞ、セイレン。いま〈箱〉の中に入っているのは痺れ薬だ。〈箱〉を吹かれてもすぐに死なないから、逃げ回ってみればいいよ。まあ、おまえの足を動けなくしたら、生きたまま湖に放りこんでやるがな」


「――嫌味な奴。前からいおうと思ってたんだけど、わたし、あんたのこと嫌いなんだ。自分より弱い奴にばっかり偉そうな顔をするところとか、とくに大嫌いだ」


 舌打ちをしつついうと、ハルフはくすりと笑った。


「災いの子に嫌われるとは、光栄だ」


 それからハルフは、手にしていた〈雲神様の箱〉から手を放し、吹き矢に持ち替えた。


「いくら俺でも、赤子の頃から知っている娘が苦しみながら溶けていく姿は、哀れで見たくない。湖に放り込む前に、息の根を止めてやろう。セイレン、おまえもそのほうがいいだろう。――だが、その場所だと、吹き矢が届かないのだ。五歩前に出ろ」


「あんた、自分がなにをいってるかわかってんのか。殺されるために、自分から近づいて来いっていってるんだぞ。あんたの息子よりまだ幼い、十五の小娘に向かって?」


「おまえみたいに、山猿のような娘がいるもんか。十五の娘は、もっと大人しくてしとやかなものだ。おまえの姉君、石媛のようにな」


「わたしがあいつのことを姉っていったら、ぶん殴ってくるくせに」


 ふう――。セイレンは肩で息をした。


 桜色の湖では、指笛と銀笹に呼び出された山魚様が、時おり跳ねながらぐるりと泳ぎ続けていた。


 ぱしゃん、ぱしゃん――。山頂に響く水音をしばらくきいてから、ハルフに向き直った。


「あんたは、腹黒くて、汚いやつだ。自分の息子よりも若い娘を騙して、助けを呼べない場所まで連れてきて、そのうえ、別のやつの罪をわたしになすりつけてもおかしいと思いもしないで、殺そうとしてる。しかも、四人がかりで、両手を縛ったわたしを脅して、いたぶって、しかも愉しんでる、最低な男だ。――これ以上、あんたの不細工なつらを見たくない。――さっさと殺せよ」


 覚悟を決めると、セイレンは足を浮かせていった。


 そして、ゆっくりと進む。いわれたとおり、五歩だ。


「気丈な娘だな。――悔むなら、双子の妹に生まれたことを悔め。おまえの一生は、生まれた時から決まっていたのだ」


 ハルフが息を吸った。そして、吹き矢の先に唇を触れさせる。


 ハルフの後ろにいた男たちとカワセリが、セイレンから目を逸らす。


 とうとうか――。セイレンも、またたきをするのをこらえた。


 そのとき。里から続く坂道を誰かが駆けのぼってくる足音と、ぜえ、はあという息の音が聞こえ始めた。


 いつのまにか、夜が明けていた。


 白くなった空のもとで、湖の周りに植えられた雲柳の葉は、澄んだ黄緑色に輝いている。


 その人は、地面まで優美に垂れさがる雲柳の葉をかきわけつつやってきた。


「お待ちください、ハルフ様! セイレンを傷つけてはいけません。土雲媛からのお達しです。すぐに宮へ戻ってください」


「――なんだと」


 ハルフは眉をひそめて、駆けてくる男に問い返した。


「その声はイシルか? いったいなにがあったんだ。土雲媛は俺に、セイレンを山魚様に捧げろとたしかにお命じになったんだぞ」


「それが、たいへんなことに……。まずは宮へお戻りに――」


 ちっ。ハルフは舌打ちをして、吹き矢筒を下ろしていく。


「助かったと思うなよ、セイレン。きっと土雲媛にはなにかお考えがあって、それで……」


「うるさい。縄をとけよ、ばか野郎」


 ハルフの言葉を遮って、大声を出した。


 いろいろなことが次々に起こって、まだセイレンはいったいなにがどうなったのか、よくわかっていなかった。


 わかっているのは、汚い連中のせいで酷い目にあわされて、もう駄目だと一度は諦めたのに、急に助けられることになった――ということだけ。


 もとに戻っただけだが、ひどく悔しくて、頭がゆで上がったように意識がもうろうとして、おさまらなかった。


「もう気が済んだろ? 縄を外せよ、腹黒ども。カワセリ、さっさと小刀で縄を切れよ。父親が、幼馴染を殺そうとしたところを見た気分はどうだ? いっとくけど、見てるだけで止めようとしなかったんだから、おまえも同罪だからな。おまえのことなんか、大嫌いだ」


 カワセリはよたよたと走ってきて、震える手で小刀を鞘から抜き、手縄を切っていく。縄が外れて手が自由になると、セイレンはその手でカワセリの腹を殴って、倒れ込んだカワセリごしに、ハルフも睨んだ。


「次は、あんただからな。いつか仕返ししてやるから」


 ハルフは、馬鹿にするように笑った。


「そんな日が来ることはないだろう。おまえは石媛の双子の妹で、土雲の一族の穢れ――災いの子なのだ。なにがどうなろうと、それは変わることがない事実だよ」






 土雲の一族が暮らす集落へ戻るあいだ、土雲媛から命じられてやってきたというイシルと、土雲媛の相談役〈土雲の口〉をつとめるハルフは、列の先頭で話し続けた。


 二人は小声でひそかに話していたが、歩いている間、セイレンはずっと耳をそばだてた。すると、どうやら土雲媛のもとに客人が訪れたらしい。それで、手をかけようと決めたセイレンを呼び戻したのだ。


 でも、それは不思議な話だった。


(客人て、誰だよ。どこから来たんだ)


 土雲の一族は山の上に里をつくっていて、大地の神の裔として、ほかとまじわることのない暮らしに誇りをもっていた。


 わざわざ誰かが訪れてくるなど、これまで話にきいたことはなかった。


 山のふもとで暮らす里者たちは土雲のことを恐れているので、彼らが山を登ってくることはないし、ときどき人が迷い込むことがあっても、土雲の一族の誰かと出くわせば、そいつらは化け物に出会ったかのように逃げていくのだから――。


 やがて、道が平らになり、道幅が広くなりはじめると、周りには草葺屋根のある家が目につくようになる。その向こうには、岩肌がむき出しになった崖があった。


 その崖には、ぽっかりと口を開けた大きな洞くつがある。そこは神の土穴と呼ばれていて、一族の長、土雲媛の血筋にある女人が、大地の神と対話をする場所だ。


 土雲媛の住まいも、その土穴のそばにあった。





 土雲媛の大宮にいくのが、セイレンは幼い頃から嫌いだった。


 建物や、景色の一部がうっかり目に入ると、つい目が、双子の姉の姿を探してしまうからだ。


 小石が敷かれた庭や、入口へ続く階、回廊、建物の壁――。そこに、誰の姿もないのをたしかめると、ふうと息をついた。


(いないか――。そういや、宝珠を失くしたんだっけ。どこかに閉じ込められているのかな。――まぬけな奴)


 双子の姉、石媛のことは、そこまで嫌いではなかった。


 血のつながった連中の中では、石媛が一番セイレンに優しかったからだ。


 石媛は、一族の誰からも愛されている。


 顔や立ち居振る舞いは麗しいと讃えられ、物覚えが早い賢い子だと褒めそやされた。


 でも、セイレンは、その石媛と瓜二つだし、石媛が覚えた薬の知恵も、同じくらい早く覚えた。


 それなのに、姉は「媛」として褒めそやされて、自分は「災いの子」として穢れと扱われる。


 同じなのに、どうしてだ――。


 はっと我に返った。いつのまにか、顔がこわばっていた。


(怒るな、わたし。あいつらなんか、婆様でも、かあさまでも、姉でもない。さっさと用を済ませて、帰ろう……)






 列の先をいくハルフとイシルは、竹と木の皮で組まれたきざはしをのぼり、大宮の入口にかかった簾の前で腰をかがめて、頭を下げている。


「土雲媛様、ハルフです。セイレンをお呼びとのことですが、いったいなにがあったのでしょうか」


「待っていました、ハルフ。セイレンを残して、おまえはもう下がってよろしい」


 土雲媛の声から薦越しに命じられると、ひざまずいたまま、ハルフは顔を上げた。


「しかし、土雲媛。セイレンを呼び戻すなど、もしや、なにかが起きたのでしょうか。俺は、〈土雲の口〉。あなたのお声を里の者に伝える役目を得ています。まずは俺に、なにが起きているのかを教えていただきたいのです」


「傲慢ですよ、ハルフ。〈土雲の口〉は、私が伝えよといった言葉を皆に伝えるのが役目。私が伝えたいと思わない言葉を、みずから欲するのは、お役ちがいというもの。下がりなさい」


「しかし――」


「くどいですよ。下がりなさい」


 ぴしゃりといわれて、ハルフが、イシルを連れて渋々と去っていくのを、セイレンは笑って見送った。


(ざまあみろ。〈土雲の口〉は里長でもないのに、偉そうにしてるからだ。ばーか)


 胸がすっとしているところに、土雲媛の声が呼ぶ。


「お入りなさい、セイレン。薦をくぐっておいで」


「えっ――」


 思わず、ききかえした。


「薦をくぐって? その……中に入っていいんですか」


「ええ、どうぞ。お入りなさい」


「でも――」


 土雲媛は、ふだん姿を見せない。呼ばれたときも、薦越しに話をするのが普通だったからだ。




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